しと、しと、しと、しと、しと……。
使途とか使徒とかじゃないわよ。
これは、鬱陶しい雨が降る音。
しと、しと、しと、しと、しと……。
今年は例年より2週間も入梅が早かったんだって。
ホント、日本って温帯気候じゃなかったの?
どうして雨季があるのよ。
しと、しと、しと、しと、しと……。
ああ!もうイヤ!
キライ、キライ、キライ。
雨の日なんて、大嫌いっ!
私が嫌いなものは…、
毛虫と、納豆と、雨の日と…、そして、日本。
30000HIT記念SS
私の嫌いなもの
ジュン 2003.06.12 |
私は日本が嫌い。
日本人がキライ。
いつもコソコソと私を見ている。
まあ、日本語がわからないふりをしている私にも非があることは認めてあげる。
でもね、話し掛けられるのを避けるために視線を合わさないようにしたり、日本語がわからないと思って、悪口やいやらしいことを喋ったりするのはどうなの?
早く何処かの大学に留学して、日本におさらばしたいわ。
こんなとこに一生住み着くなんて、パパもママもどうにかしてる。
そりゃあママの実家があった国だから…もともとは嫌いじゃなかったわよ。
ドイツにいたときはね。
だから、日本語を一生懸命勉強して、マスターしたんじゃない。
だけど、期待が大きすぎたからなのかな?
3月に来日して、このマンションに住んで…。
4月から通う中学校を下調べとかしているうちに、少しづつ日本が私の思っていた日本と違うことに気付いたの。
外国人を見る目。
話し掛けようとしたら、すっと逃げてしまうその態度。
親切で優しげな国が日本じゃなかったの?
ママの嘘吐き。
私は日本人の学校に入学するのを拒否した。
ママは落胆してた。
でも、どうしてもイヤ。
日本人の中で時間を過ごすなんて耐えられない。
で、私は外国人学校に通ってる。
正直言って、それだって楽しくはない。
友達だって作る気ない。
あ〜あ、どうして私、こんなとこにいなきゃいけないの?
家にいてもムシャクシャするから、大抵マウンテンバイクで周りを走り回ってる。
でも、今日は雨。
昨日も雨だった。
雨の中を走り回る気はさらさらない。
だけど、家の中にいたら、しとしと降る雨の音が耳についていらいらしてくる。
そうだ!
こんな日は、コンビニで日本人を苛めるのがいいわ。
何かを探しているような様子でカウンターの周りをうろうろするの。
店員が必死で眼を合わさないようにしてるのが面白くて仕方ないわ。
中には英語に自信のあるヤツがいたけど、ドイツ語でまくしたてたら青い顔になって頭を何度も下げて逃げ出しちゃった。
今日は何処のコンビニにしようかな…?
私はMDウォークマンを手に持って、玄関から出た。
我が家はマンションの12階。
ところが、何とエレベーターは点検中。
勘弁してよね。
ま、普通の人ならからかいに行くだけの用事だから家に帰るでしょうけど、私は違うわ。
惣流・アスカ・ラングレーは、人並みはずれて滅茶苦茶しつこいのよ!
あ〜あ、この惣流ってのも、イヤになってきた。
まあ、外国人と結婚したら、この日本の姓からもおさらば。
それだけでも、結婚に価値がある。そんなことまで考え始めていたわ、このときの私は。
階段を降りるしかないわね。
「うわっ!」
その馬鹿は踊り場まで転げ落ちた。ほんの4段くらいだったけどね。
そしてその馬鹿の近くに、私の手から吹っ飛んだMDウォークマンが転がり落ちた。
私は生来の素晴らしい運動神経のおかげで、見事に着地したわ。
馬鹿は背中を抑えてうめいている。
怪我…したのかな?これって、私のせいなの?
違う。違うに決まってる!
ぼけっと階段に座り込んでいた馬鹿が悪いのよ!
ようやく四つん這いの体勢から座り込んだ馬鹿の様子に、怪我はなさそうな感じで私は一安心した。
なんだ…私と同じくらいの男の子じゃない。
どうしてこんなとこ…。
「WAH!!」
私は拾い上げたMDウォークマンを眺めて悲鳴をあげた。
角が凹んで、表面にも傷がいくつも付いている。
私の悲鳴に男の子もびっくりして立ち上がった。
許さない!
私のお気に入りのMDウォークマンだったのに!
「アンタバカッ!ドウシテコンナトコニボケットスワッテルノヨッ!
ワタシノオキニイリノMDウォークマンガコワレチャッタジャナイノヨ!
ドウシテクレルノヨ、コノオタンコナス!コレダカラワタシハ、ニホンジンナンテキライナノヨ!
キライ!キライ!ニホンナンテダイキライッ!」
私はドイツ語でまくし立てて、それから茫然としている男の子の頬を思い切り引っ叩いた。
ぱしぃっ!
じとじと湿った建物の中で、乾いた音がこだました。
「コレダケジャユルシテアゲナイカラ!モトノトオリモドシナサイヨッ!コノバカッ!」
そう最後に怒鳴りつけると、私は階段を駆け上がっていった。
もう、最低!
嫌いよ!日本人も、日本も、この梅雨も!
私は自分の部屋に戻ると、ベッドに仰向けになった。
ま、いっか…。
あと数年、日本で過ごしたら、もう二度と来る事なんかないわ。
日本も日本人もサヨナラ。
青い目の彼と結婚して、自分の身体に流れる日本人の血なんて忘れてやる。
それまでの辛抱よ…。
私は、雨の音を聞きながらそのまま眠ってしまった。
次の日。
学校から帰った私は一人で留守番をしていた。
今日も雨。
ママは買い物に行って、私はリビングのソファーでぼんやりとしていた。
今日はチェロの音、しないわね…。
時々、何処かの部屋から聞こえてくるチェロの音。
けっこういいマンションだから、多分チェロのために防音にしているんだろうけど、どこからか微かに聞こえてくる。
バッハの曲。
無伴奏チェロ組曲第1番ト長調前奏曲。
この曲を弾いていることが多いの。
誰が弾いているのか全然わかんないけど、これを聴いていると心が安らぐ。
今日も、聴こえて…こないかな…。
チェロの調べを待っていたら、聴こえてきたのは無粋なチャイムの音。
はぁ…、私しかいないんだから出なきゃ仕方ないよね。
日本語わからないことにしとこ…。
覗き窓から表を見たら、そこに立っていたのは…。
昨日のアイツだった。
私のMDを傷物にした原因を作ったヤツ。
くうっ!
何の用なのよ!
私は扉を思い切り開けた。
「ナニ?ブタレタシカエシデモシヨウトデモオモッテンノ!」
私が勢いよく怒鳴りつけると、アイツは目線を逸らし、俯いて口をパクパクした。
何?ケンカを売りに来たんじゃないの?
アイツは口の中で何か呟いている。
逃げちゃダメだ……?
何それ?
私が様子を見ていると、アイツは決心したように顔を上げた。
そして、左手に持っていた紙袋の中から、紙切れを取り出す。
「キノウハ、ゴメンナサイ」
ドイツ語だった。
アイツは紙切れに書かれている言葉をたどたどしく読み上げた。
「ボクノセイデダイジナMDヲコワシテシマッテ、ホントウニゴメンナサイ」
発音は所々間違えてるけど、意味はわかる。
私は、どう対応したらいいのかわからないまま、左手で扉を支えたままアイツの言葉を聞いていた。
「コレ、カワリニハナラナイカモシレナイケド、ツカッテクダサイ」
アイツはそう言うと、紙袋を私に押し付けた。
本能的に受け取ってしまう私。
な、何よ、いったい!
口を開こうとした私だったけど、一足先にアイツはぺこりと頭を下げた。
「ごめんなさい!」
最後の言葉だけは、日本語だった。
そう言うと、アイツはだっと階段の方へ駆け出した。
「あ…」
相手を失った、私の言葉は口の中で消えた。
アンタ、これ何のつもりなのよ!
私はそう言おうとしていたわ。
日本語でね。
でも、その言葉は出ることはなかった。
私はアイツが消えた階段の方をしばらく見つめていたわ。
代りにはって、弁償するってこと?
アイツの言葉を思い出した私は、紙袋の中を覗き込んだ。
中には青い紙でラッピングされた袋が入っている。
そして、その袋にはご丁寧に可愛いリボンまでかけてあった。
リビングに戻った私は、ガラステーブルの上に紙袋を置く。
そして、青い包みを取り上げた。
綺麗な赤いリボンを外して、包み紙を広げる。
中には有名メーカーのMDの箱。
あ…、これ私のより機能がいい機種だ…。
私は、箱を開けた。
MDの色は青紫。
私の傷だらけになったMDは、レッドメタリック。
青紫、か…。
あまりいい色じゃないわね…。
まあ、日本人に美的感覚を求める方が間違いか。
それにどうせアイツは私の容姿に惹かれたんでしょ、きっと。
それでこんな高価なものを贈って、私の気を惹こうとしたのよ。
うん、きっとそうよ。間違いないわ。
それに、部屋までつきとめちゃって。
ドイツ語まで調べてきてさ。
そこまでする?普通。
その程度のことで、女の子が好きになってくれるとでも思ってるの?
ホントに愚劣。
まあいいわ。くれるってんだから、貰っといてあげる。
御礼なんて言ってやるもんか。
今度、会ったら、またかみついて……。
箱からMDを取り出したとき、箱の中に入っていたカードが目に入った。
はん!何よ。好きですとか書いてるんじゃないでしょうね。
そのカードに書かれた、短い文章を読んで、私は凍り付いてしまった。
それには日本語でこう書かれていたわ。
すまんな、シンジ。
いつもひとりぼっちにして、本当にすまん。
14歳の誕生日、おめでとう。
今日も帰れそうにないから、特急便で送る。6時頃には到着するそうだ。
晩御飯は何か出前でとれ。誕生日だからな。
父より。
20XX.06.06
な、何よ。こんなの…酷いじゃない。
これってアイツの誕生日プレゼントなんじゃないの!
そ、そんなものを私に渡すなんて…。
一瞬、私の心は怒りに溢れかえった。
わざとやったんじゃないかって。
でも、その怒りは、どこからか聞こえてきたチェロの調べが消してくれた。
落ち着いたチェロの音が、乱れた気持ちを整えてくれる。
私は深呼吸をして、もう一度最初から考えてみたの。
6月6日。
その日付は、前日のもの。
私とアイツが衝突したのは、何時ごろだっけ…?
4時ごろか…。
それって、まだこのパパからのプレゼントを手にしていないんじゃ…。
私は包みを調べてみたわ。
あ、開けた形跡がある。
中身を確認して、MDだったからこれで弁償しようとしたんだ。
ああああっ!
許せない!
せっかくのプレゼントを他人に回すだなんて!
アイツの部屋。
いったい何処よ。とっちめてやる!
私は紙袋を引っ掴んで、玄関から飛び出した。
で、11階に勢いよく降りたものの、私の目の前に並ぶ、扉、扉、扉……。
アイツの部屋はいったい何処なのよ!
私は11階の廊下で仁王立ちして、眼前に広がる20以上の扉を見据えたわ。
アイツはどこ?
扉から妖気なんか出てないから、勘に頼るしかないわ。
まあ、シンジっていう名前がわかってるんだから、すぐに突き止められるわ。
どこから、当たってみようかな…?
1番から順番にするか。それとも大きい方から…。
あれ?チェロの音…。
このフロアなんだ。
私はその音色に誘われるように、12号室の扉の前に立った。
うちの真下じゃない。
碇……何て読むんだろう。わかんないわ。
まあいい。この家から当たってみる。誰かいるんだから。
ピンポン!
「はい!」
あっ!この声!
アイツの声じゃない!
この時…。
アイツの家の扉が開いた時。
私が取った行動が、私の一生を決めた。
文句を言って、アイツに紙袋を投げつけてやるだけでよかった。
もともとそのつもりだったんだから。
でも、アイツの顔を見た瞬間、私は実に阿呆らしい質問をしてしまったの。
「あ、君…。えっと…、困ったな」
ふん、そっか、私が日本語を喋れるの知らないんだっけ。
ドイツ語で話し掛けられるものと、うろたえてしまっているその顔がおかしい。
私は大きく息を吸った。
「馬鹿シンジっ!」
「へ?」
私の口から出た日本語に、アイツはマヌケ面を晒しているわ。
「昨日の夜は何を食べた?さっさと答えなさいよ!」
「え、えっと…カップラーメン…」
「アンタ馬鹿ぁ?!」
私は、馬鹿シンジの腹に紙袋を叩きつけた。
「げほっ!」
「アンタ、ちゃんとその中見た?」
「えっと、その…」
「見たのか、見てないのか?!」
「あ、見てないです」
「ホントに馬鹿!見なさいよ。ほら、すぐに見る!」
馬鹿シンジは私に急かされるままに、紙袋から包みを取り出した。
そして、案外としっかりとした指使いで包みを解いていく。
私に脅されて指くらい震えると思ったのに。
でも、箱の中のカードを見つけて手にした途端、指先が震えだした。
「アンタ、ホントに馬鹿よ。ちゃんと確認しないから…。
そんなの私に渡さないでくれる?それに…」
私はさらに言い募ろうとしたけど、カードに零れ落ちた水滴を見て次の言葉が出なくなってしまったの。
アイツが泣いている。
「ご、ごめん。弁償、できないよ、今は。ごめん…ホントにごめん」
「べ、弁償なんて、いいわよ。傷がついただけで、音は大丈夫だったから」
そうよ。パパからのカードを見て泣くようなヤツからふんだくれるわけがない。
それに、下心なんて少しもなかったみたいだし。
素直に私に悪いと思っていたみたい。
それだけはわかる。
「で、でも…」
「うっさいわね!いいって言ったらいいのっ!それより…」
ああ…、どうして私はこの時、こんなことを言っちゃったんだろ?
後悔?
ううん。後悔なんて全然していない。
今考えると、よく言ったわアスカ!って感じ。
でも、このときの私は、自分の気持ちがよくわからないままに会話を進めていたの。
「アンタ…、ついて来なさい!」
「はい?」
「いいからついて来る!ちゃんと戸締りと火の用心して!ほら!さっさとする!」
私のマシンガントークに、アイツは大慌て。
急いで中に戻って台所を確認したり、鍵を探したり…。
「ど、どこに行くの?」
私は上を指差したわ。
「もちろん、うちに決まってんじゃない!さあ、来るのっ!」
私はアイツを我が家に強制連行したわ。
運良く、ママが買い物から帰ってきていたの。
私は知らずにアイツの手首を掴んでいたわ。
そして、うちのリビングに引っ張り込んだの。
それを見て、ママは目を丸くしたわ。
だって、日本に来て初めてのお客様の上に、相手は日本人の男の子なんだもんね。
「ママ!コイツ、えっと…読み方わかんないわ。とにかく、シンジよ。シンジ」
「あ、あの…。碇シンジです」
「なんだ。イカリって読むんだ。じゃ、コイツ、碇シンジっていうから、よろしくね」
「よろしくって何を?」
「バースデーパーティーよ!美味しい料理一杯作って!」
「え?もしかして、僕の?」
「あったり前じゃない。アンタには拒否権ないんだからね。私のMD傷物にしたんだから、償いなさいよ」
「え、でも…どうしてパーティーしてくれるのが償いになるの?」
もっともな疑問だった。
私にもわかんない。
首を捻ってしまった私に、ママが助け舟を出してくれた。
「はいはい。とにかくバースデーパーティーをすればいいのね。
シンジくんはいくつになるの?」
「あ、えっと、14歳です」
「えぇっ!じゃ、私と同い年っ!」
「あ、そうだったんだ。」
私たちのマヌケな会話にママがクスクス笑っている。
私はママを睨みつけたわ。
すると、ママは財布を出してきて、私を手招きするの。
「はい、駅前のケーキ屋さんでバースデーケーキ買ってきなさい」
「あ、そうね。ママ、さっすが」
「振り回して壊さないで帰るのよ。アスカ乱暴だから」
「もう!変なこと言わないでよ」
私はママの手からお金を引ったくると、傘を手に玄関から飛び出した。
アイツに何も言っておかなかったけど、まあ大丈夫でしょ。
勝手に帰ったりはしないと思う。
まあ、ママが帰したりしないでしょうしね。
雨が降っているから、当然歩き。
もし晴れていても今日はマウンテンバイクには乗らない。
ママの言葉じゃないけど、ケーキ壊れちゃったらダメだもんね。
アイツの泣き顔見たくないから…。
あれ?何だろ、今の気持ちは。
よくわかんないわ。
それより、急がないと!こんな時間だから、バースデーケーキなんかないかも!
運が良かったわ。
駅前の洞木ケーキ店がデコレーションし直してくれると言ってくれた。
奥でマスターが作り直してくれる間、私は店番をしているそばかすの少女と話しこんだの。
すると、なんとアイツと同じクラスだってことがわかったのよ!
「碇君って、お母さんがいないからなのかな?少しおとなしめなのよ」
「ふ〜ん、じゃ彼女なんていないみたいね」
「え?アナタが彼女じゃないの?」
「はぁっ?」
「だって、お誕生日のケーキなんか…」
「ああ、これは近所付合いってヤツよ。そんな色恋沙汰じゃないわ」
「なんだ…」
「あれ?不満そうね。どうして?」
「うん…碇君って、自信がついたら結構人気出るんじゃないかなって。ほら、笑顔なんか綺麗だし」
笑顔…。
そういや、私、アイツの笑顔はまだ見たことない。
そんなにいい笑顔なの?
よし、帰ったら絶対に見てやるわ!
「じゃ、アンタが彼女になってあげたらいいじゃない」
「だ、だ、ダメよ、私は!」
突然大声をあげた娘の様子に、私はピ〜ンときたわ。
「はは〜ん、さてはアンタ好きな人がいるわね!」
「え、え、あの…」
「いるんでしょ?!」
決め付けた私に、女の子はこくんと頷く。
その時の私は、こう思っていた。
なんだ…。日本人でも別に何も変わんないんじゃない。
私の方が構えていたのかも…。
そりゃあ、外国人を変な目で見る人間は多いかもしれないけど、みんながみんなそうじゃない。
私の方からも、一歩踏み出さないといけなかったんだ。
そう考えながら、私は雨の中をマンションに急いだ。
しとしとしと…。
傘を打つ雨音も優しく聴こえる、そんな6月の夕方だったわ。
その日の私は、ママ曰く生誕以来の大はしゃぎ状態だったらしい。
まあ、楽しくなかったといえば嘘になるわね。
引っ込み思案な馬鹿シンジをゲームに引きずり込んで罰ゲームとかさせて…。
チェロを持ってこさせて、曲を弾かせたり…。
防音じゃないからって、かなり遠慮して弾いてたみたい。
だから、私は言ってやったの。
「はん!じゃ、明日聴きに行ってあげるから、思い切り弾きなさいよ!」
「あ、えっと…」
「アンタ馬鹿ぁ!壁に向かって弾いても面白くないでしょうが。決まり!
明日の食後はアンタの演奏会よ!あ!アンタ、明日も食べに来なさいよ!」
「え!そ、そんな、迷惑じゃないの」
「大丈夫!ね、ママ?」
ママはニッコリ頷いた。
さすがはママね。以心伝心よ。
寝る前に肩でも揉んであげるから、これからもがんばって晩御飯作ってね!
私の心の中では、いつの間にかこの情けなげな男の子を毎日家に招待することが決定事項になっていた。
どうしてそう決めたのかわからない。
ただ、このパーティーの最中に何度か見たアイツの笑顔。
あの娘が言っていたように、綺麗な笑顔だったわ、確かに。
でも、それより私は、チェロを弾いていた時のアイツの表情の方が気に入ったわ。
一心不乱なその顔。
あの情けない顔はどこに行ったのか、少しも顔を覗かせない。
こんな顔だってできるんじゃない。
それに、階段に座り込んでたのは、誕生日に一人で家にいるのが寂しかったからだってさ。
ああ、もう情けないったらありゃしない!
そのくせ、私に詫びるためにインターネットでドイツ語を調べるなんてのは、見所があるわね。
そっか、まだまだ人格が完全に出来上がってないってことか。
これは鍛え甲斐があるわね…。
とにかく、私はこれからの毎日をどうするのか考えるだけでワクワクしてきたの。
あの女の子が言っていたことも影響していたのかもしれない。
自信を持ったらいい男になるかもしれない。
面白いじゃない。
このアスカ様が育成してあげようじゃない!
それに…コイツとこうしているのって、何だか楽しい…。
1週間後、私は教壇で大見得を切っていたわ。
「今日からこのクラスに転校してきました、惣流・アスカ・ラングレーです!
今まで外国人学校にいましたが、ある理由でこちらの中学に転校してきました。
では、その理由を宣言します」
私はそこで大きく息を吸い込んだ。
行くわよ、アスカっ!
私は窓際の席で、こっちを口を少し開けて馬鹿面をさらしているシンジを指差したわ。
「そこにいる碇シンジはこの私がいただきますから、
誰も手を出さないように!
ちょっかい出すやつは男女、または教師といえども、
絶対に許さないわよっ!」
馬鹿シンジは呆気に取られた顔で、私を見つめていた。
そりゃあそうよね。
シンジは私が転校してくることなんか全然知らなかったんだもん。
あはは、馬鹿面。
私はシンジに向かって、ニンマリ笑った。
教室は水を打ったように静まり返っている。
ま、仕方ないわね。
転校したての金髪碧眼の美少女が、こんな宣言するんだもんね。
担任教師のメガネのお兄さんも開いた口が塞がらない状態だったわ。
あのケーキ屋さんの女の子もいるわ。ふふふ…、びっくりしてるみたい。
あの時は私が全然そんな感じじゃなかった所為ね。
いいじゃないの、君子は豹変するものなのよ。
君子である私はツカツカとシンジの席に歩いていくと、腰に手をあててシンジの顔を覗き込んだ。
そして…。
「どう?これが私の誕生日プレゼントよ」
「え、えっと、君…じゃない…あ、アスカが転校して来たことが?」
3日前にアスカって呼ぶことに同意させたのに、まだすっと言えないのね、馬鹿シンジ。
わかったわ。今日は帰ったら特訓よ。
喋るたびに、アスカって言わせてやる。
「そうよっ!アンタのために転校してきてあげたんだから、プレゼントじゃない」
「あ、えっと、どうも」
「どうもじゃないでしょ。ちゃんとお礼を言いなさいよ」
「あ、あの…ありがとう…」
「ふ〜ん、嬉しくはないんだ」
「そ、そんなことないよ。き…あ、アスカと一緒に学校なんて嬉しいよ」
「ホント?」
「本当だよ。本当に嬉しいよ。うん、ありがとう。僕のために…なん…だね」
「あったり前じゃない!」
そこで私は少し慌てて、小声で言った。
だって、周りのみんなは息をするのも忘れて、私とシンジの会話に聞き入ってるんだもん。
「こら泣くな。私が苛めてるように見えるじゃないよ」
「ご、ごめん。嬉しくて…」
「まあ、そこまで喜んでもらえて、プレゼンターとしては何よりだわ」
よし、駄目押しよっ!
シンジが逃げられないように、既成事実を作るの。
「アンタ、女の子にこんなこと言わせたんだから、責任取りなさいよ」
「え、えっと…」
「ぐずぐず言わずに責任とるっ!」
シンジは咄嗟に起立して、大声で答えたの。
「は、はいっ!責任とります!」
私はニヤリと笑った。
はい、これでアンタは私のものよ。
世間が羨むような男になってもらいますからね、覚悟しなさいよ。
「一生、責任とるのよっ!」
「はい!責任とります!……え、一生…?」
「そうよ、一生。死ぬまで責任とるの」
私は口をパクパクさせているシンジの口をふさいでやったわ。
もちろん、私の唇でね。
10秒、20秒、30秒。もういいかな…。
唇を離すと、シンジったらうっとりとした表情でマヌケ面して立ってるの。
その時になって、やっと教室は魔法が解けたように、騒がしくなった。
ふふん。好きなだけ、騒ぎなさいよ。
こんなの、死ぬまで二度と見ること出来ないわよ!
そして、シンジはちゃんと責任をとってくれたわ。
10年後、例年より早い梅雨の、ある晴れた日。
私とシンジはヨーロッパへの新婚旅行から帰国した。
そして、その足で荷物が運び込み済みの新居のマンションに向かったの。
シンジは大きなスーツケースを両手にぶら下げている。
私より低かった身長もぐんぐん伸びて、今では頭一つ私より大きい。
何もそこまで大きくならなくても…。
釣り合いってモノがあるんですからね。
シンジは勉強も運動も…ううん、何もかもがんばってくれたわ。
高校時代には人気の的。
でも、ダメダメシンジの時に私が売約したんだから、誰にも渡さない。
シンジだって私に一途なんだから。
何度も特攻かけてくる馬鹿オンナが出現したけど、そんなのに私のシンジがやられるもんですか。
シンジは私に夢中なんだから!
それに、私の方だって…。
17階の一室が、私とシンジのスウィートルーム。
プレートの碇アスカって文字を見て、思わずニヤニヤしてしまったわ。
何度見てもいいものね、これは。
ごめんねパパ。ラングレーの文字とっちゃった。
私、もう日本人だから。
引越しは終わってたけど、荷物の整理はまだまだ。
インテリアの配置も何度か変えた。
こんなときに大男は便利よね。あ、ちゃんと私も手伝ってるわよ。
でも、邪魔だってシンジは言うの。
失礼よね、ホント。
新婚休暇はあと2日。
それが終わると、会社勤めがまた始まる。
あ、私は引退しちゃったけどね。
だって、主婦したいんだもん。シンジの帰りを待つのって…、多分いらいらすると思う。
カエルコールは絶対させるし、超小型GPSってないかな?
シンジに持たせて、行動を家のパソコンで逐一管理するの。
う〜ん、いずれは独立させてベンチャー企業でも始めようかな?
シンジに社長させて、私は会長……。
「お〜い、アスカ?何、ニヤニヤ笑ってるんだ?」
「へ?」
「お腹すいたなぁ…。何か作ってよ」
「どうして私が作らないといけないのよ!」
「だって、アスカ、僕のお嫁さんだろ」
にこっと笑うシンジ。
ああ、ダメ。
この笑顔見たら、逆らえないわ。
「な、何が食べたい?」
「えっと…」
考えてるシンジを置いて、私はキッチンに向かった。
パスタにしようかな?
トマトあったよね。
「あのさ…リクエストいい?」
「いいわよ。まだ手をつけてないから」
「じゃあさ…アスカが食べたい、かなって…」
私は振り返った。
ダイニングの入口でシンジが微笑んでいる。
「アンタ馬鹿ぁ!」
「これだけ働いてるんだから、ご褒美が欲しいなぁってさ」
「あげません!このけだもの!」
私はシンジに向かって、包丁…は危ないから、サラダボールを投げつけた。
まったく、昼日中からこの男は…。
とか言いながらも、私もけだもの化してしまっちゃうのよね、数分後には。
だから言ってんじゃない、あの微笑には勝てないんだって。
チェロのために防音にしている部屋。
昼間はここを使わないとね…。
シンジのヤツ、だからこの部屋を真っ先に片付けたな。
そんなこととも知らず、いそいそとお手伝いしてた私って…。
でも、片付けておいてよかった…。
……。
チェロのかわりに私を…。
私という楽器を弾くのは、世界中でシンジたった一人だけなんだからね…。
念のために言っておきますけど、ずっといちゃついてたんじゃないから。
それからシャワーを一緒に浴びて、パスタを食べて、少しだけお昼寝して…シンジの腕を枕にしてね。
それからはちゃんと片付けをしたのよ。
さっさと片付けてしまわずに、ああだこうだと楽しみながら、夜の9時過ぎには完全に終わったわ。
これで、明日のパパ、ママ、ゲンドウお義父様との新居祝は大丈夫よね。
晩御飯は簡単に特製おにぎりと焼き鳥にしたわ。
お風呂に浸かって、それでも疲れた表情のままでシンジがリビングに戻ってくる。
「ふあぁ〜、いい加減疲れたよ」
「はい、ご苦労様」
「あ、ビールは?」
「なし」
「ええっ!飲みたいよぉ」
「ダメ。絶対にダメ」
「どうしてだよ」
「だって、飲んだら寝ちゃうでしょうが」
「寝てもいいじゃないか」
「ダメ」
「まさか…?」
シンジの顔が引き攣っている。
ある予感に圧迫されながら、シンジは焼き鳥のお皿を見下ろした。
きも、ずり、ハート……。
ふふん…、楽しいわね…。あのシンジの表情見てるのは。
次に両手におにぎりを持って、一つづつかじってみる。
あ、右手が鰻入りで、左手の方はアスパラのみじん切りね。
あと、牡蠣入りのもあるわ。ちゃんと火は通してるから大丈夫よ。
中に入っているものを確認して、シンジは情けない顔で私を見たわ。
ホント、こういう時の顔だけは、出逢った時と変わんないわね。
じゃ、駄目押ししますか。
「あ、忘れてた。とろろ汁もつくってたんだっけ。持って来るね!」
明るく爽やかに、投げキッス付きで私はシンジに言った。
今夜は寝かさないわよ!
「あのね…二人で夜明けを迎えたかったの。ほら、新居の初めての夜だったから」
「なんだ、そうだったのか」
「ちょっとキザかなって、言えなかったの」
「で、実力行使?」
私を見下ろした顔が、優しく微笑んでいる。
そ、そんな風に見られたら、照れるじゃないの!
私は表情を見られないように、シンジの胸に顔を埋めた。
「でもさ、睡眠不足でみんなを迎えたらからかわれるよね、はは」
「大丈夫よ。お食事会は昼から夜に変更してあるから」
「あ、そうだったんだ。じゃ仮眠はできるね」
そう、ママに夜に変更してって電話したら、思い切り笑われた。
見え見えだったみたいね。
で、がんばりなさいね、ほどほどに、だって。
まるで人を色情狂のように!
だって、今日は6月6日なんだもん。
シンジの誕生日。
その日の朝を一緒に迎えたかったの。
この日は、シンジの誕生日でもあるけど、二人が出逢った記念日でもあるのよ。
「でもさ、アスカ。雨降ってるみたいだよ。雨の音がする」
「いいじゃない。雨の向こうにはお日様が隠れてるんだし」
「う〜ん、せっかくの記念日なのになぁ」
私はシンジの少ない胸毛を一本引き抜いてやった。
「いてっ!何するんだよ!」
シンジは慌てて抜かれた場所を撫でまわす。
私はその手を指ではじき、舌で濡らした自分の指で撫でてあげる。
「馬鹿ね。あの日、雨が降ってなかったら、私たち出逢ってなかったかも知れないのよ」
「あ…」
「雨には感謝しなきゃ…。今、シンジとこうしていられる時間を与えてくれたんだから」
「今日は詩人だね、アスカ」
「あと10本くらい抜こうか?」
「ごめんなさい」
「わかればいいのよ」
窓の外は雨。
私とシンジは裸のまま、真っ白いシーツにくるまってソファーに身体を預けていたわ。
だんだん外が明るくなってきた。
雨雲を通して、太陽が自己主張をはじめる。
そして、私はシンジの胸に頬を寄せ、雨の音を聴いているの。
しと、しと、しと、しと、しと……。
雨音ってどうしてこんなに優しいんだろ?
洗濯物の乾きが悪いのだけは勘弁して欲しいけど…。
私、雨の日は大好きよ。
私が嫌いなものは…、
毛虫と、納豆と…、そして、きっとシンジの帰りが遅い夜。
私の嫌いなもの −おしまい−
<あとがき>
30000HITありがとうございます!
前作「EXPO'70」で最初に感想を戴いたゆーじ様のご要望にお応えしてしまいました。
<梅雨>をテーマにということでしたね。こんな感じの雨は如何でしょうか?
これくらいまでの描写は許されるかな?
中高生諸君!
2003.06.08 ジュン
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