『獲明真書』

 明日香は真司の隠したる書物を発見する。
 その書物のために明日香は大いに怒り、二人の間に溝ができる。
 (現代語訳)

 

「はいどうぞ。シャワーも浴びればいいわ。アスカからね」

 バスタオルを渡してくれた初対面の女性にシンジはかける言葉もなかった。
 父さんが姓転換したわけがない。
 こんな美人になるはずもないから。
 
 この白衣を着た金髪で黒い眉毛の女の人はいったい誰なんだ?




 


 

すべては世界の平和のために

− 5 −

「君といつまでも」


333333HITリクSS

キリ番をお踏み戴いたA6M4様に捧ぐ

2004.10.04         ジュン
















 バスタオルで頭を拭きながら、アスカはバスルームへ歩いていった。
 ペタペタと湿った足音がして、木の床に少し足跡がついていく。
 家についてからアスカは「うん」と一言言っただけで、あとはずっと無言なのがシンジには気になった。
 初対面の金髪の美人のことよりも。

「ほら、アナタも着替えをしてきなさい。風邪を引くわよ」

「あ、はい」

 有無を言わさぬ調子に素直に返事をしてしまう。
 ただ、何となくシンジにはわかった。
 ミサトさんとは違う。
 この人は父さんの…。

 部屋に戻ったシンジは我に返った。
 そうなのだ。
 この部屋は現在アスカに占拠されていたのだった。
 まずい!今のうちにやらなければならないことがある!
 今のうちに別の部屋へ移しておかないといけないものがあるのだ。
 学校の教材?衣類?チェロ?
 いいや、違う。
 昨日はうろたえてしまってその存在すら思い出さなかったが、
 ベッドの下といえば、そんな場所に隠しているものは相場が決まっている。
 そんなものいらないというシンジに強引に渡されたもの。
 渡した相手はクラスメートの親友二人。
 モデルはなぜかすべて金髪の美少女。
 その上、こんなものをどうしてと思うほどすべて無修正。
 しかもその写真集に書かれている文字は英語ではなく、ドイツ語らしかった。
 正直に告白すると、シンジもやはり年頃の少年。
 ナニをナニしてナニだったわけだ。
 その存在を思い出してしまうと、それはとんでもない代物だ。
 そんなものの上でアスカは眠っていたのだ。
 もし、それを見つけられたら…。
 シンジは血の気が引く思いだった。
 今のうちに!アスカがバスルームにいるうちに!
 シンジは焦った。
 まるで夢の中でジェイソンとフレディに追いかけられていたときと同じように。
 急がないといけないのに、身体の動きがぎこちない。
 急ぐんだ、急がないと!



 ふぅ…ってゆったりしてたらダメよね。
 アイツだってびしょ濡れなんだから。
 さっさと着替えて交替してあげなきゃ。
 なんだか、こんなの私らしくないよね。
 アイツなんかただの下僕じゃないの。
 そうよ、どうして下僕の心配をしてやらないといけないわけ?
 ばっからしい!
 などと思いながらも、アスカは無意識に素早くバスルームから出て
 バスタオルを身体に巻きつけた。
 そうよね、着替えが用意されている方がまずいわよ。
 それって私の荷物を漁ったってことだもん。
 ま、アイツにはそんなことはできっこないのはよくわかってるし…。
 でも、私…。
 どうしちゃったんだろ?
 アイツの自転車の後ろに乗ってたら何だか胸がどきどきして、それから頭がぼぅってなって。
 ……。
 自転車でも乗り物酔いするのかな?


 
 困った。本当に困ったわ。
 この役目はミサトがするはずだったのに。
 あの馬鹿…。

 初夏の全国交通安全週間。
 この時期、日本中で交通課のおまわりさんが一斉に成績を上げる。
 そしてここでも。
 スピード違反で青いルノーが見事に引っ掛かった。
 当然、ネルフは国家を超越した組織でもなんでもない。
 世界の平和のために日夜骨身を惜しまずがんばっている彼らは一市民に過ぎない。
 印籠とかバッジや身分証明書で警察に許してもらえるような身分ではないのだ。
 もちろん、免許停止などになれば今後の世界平和の維持に差し支えるので、
 後日違反の記録は消えるのだが、検挙されたその場では何の申し開きもできない。
 葛城ミサト、制限時速40kmの道を96kmで走行。
 獲物を目の前にしたキツネの如き笑顔を浮かべる警官にミサトは暴言を吐く。
 どうせ後で記録は消えるんだからという安心感が、
 世界平和を護るための計画に間に合わないという焦燥感を後押ししたのだ。
 「うるさいわね、このすっとこどっこい、だいたい何キロで走ろうが事故起こさなきゃいいんでしょうが。見てみなさいよ、この車のどこに傷があるって言うのよ。きゃあきゃあきゃあ」
 喚きたてる彼女に当然おまわりさんも態度を硬化。
 説教が始まった。
 ようやく電話だけは許されてリツコに作戦遂行が不可能なことを伝えたのであった。
 運良く、現場にはリツコがいる。
 したがって、リツコがミサトの代わりをしないとならない。
 すべては世界の平和のために。
 できるかしら、私に?

 リツコの不安は、そのままネルフ全体の不安である。
 果たしてあのリツコにミサトの代役が務まるのか。

 リツコは一見無表情で階段を上がっていった。

 

 シンジは大慌て。
 何しろ、1冊2冊ではない。
 こんなにあったかと思うくらいの写真集がベッドに隠されていた。
 くそぉ、ケンスケにトウジっ!
 こんなにいらないのにっ!
 あ、これ…。この女の子、惣流さんに似てるな…。
 家庭や会社の大掃除がなかなか進まないのはこういう理由に由る。
 ついそこにあるものを見てしまう。
 こんなのあったっけ?
 気が付かなかったのかなぁ?
 気が付かなかったのも当然、この写真集は昨日ミサトがこっそり隠しておいたのだ。
 モデルはアスカに似ている女性を探し出し、扇情的な格好を写したもの。
 ゼーレドイツ本部の苦心の作品である。
 因みにその女性はもう立派な大人。
 したがってそのスタイルはアスカよりも立派である。
 シンジはごくりと唾を飲み込み、ページをめくろうとした。

「入るわよ」

 さっきの知らない女の人の声。
 シンジはさらに大慌て。
 もはやベッドに隠すゆとりはない。
 必死で30冊あまりの写真集を胸のところで抱えて、扉に背を向けた。

「ど、ど、どうぞ」

 部屋に入ったリツコは、シンジの石像のごとき背中を注視した。
 例の写真集は彼の手元にある。
 超小型携帯PCで彼の動きは確認済み。
 その時、階段を上がってくる足音が。
 リツコ、落ち着くのよ。落ち着いて台本通りにすればいいの。
 彼女は自分を落ち着かせた。
 論文を発表する時の方が今の何十倍簡単だ。

「あの子の着替えが欲しいんだけど」

「き、着替え?」

「そう、着替え。それがないとあの子は裸のままになるわ」

 は、裸!
 シンジは手元の写真集が物凄く重くなったように感じた。
 一番上のアスカそっくりの金髪美人がにこやかに笑いかけている。
 見てはならないと思いながらも、彼の目は真下の写真集の表紙に釘付け。
 すでに喉はからからだ。

「ちょっと、人の部屋に勝手に入らないでくれる?」

 ここはシンジの部屋。
 ではあるが、来日以来アスカが占拠している。
 彼女の頭ではこの部屋は完全に自分のものと化していた。

「あら、ごめんなさい。あなたの着替えを用意しようと思って」

「そんなのいいわよ。自分のものを触られたくないの…って、どうして馬鹿シンジがここにいるのよっ!」

「ひぃぃぃぃっ!」

 盛大な悲鳴を上げて石像が動いた。
 それでも写真集だけは落とさないように必死に手と胸で押さえ込む。
 これを見られたら絶対に嫌われる。
 口も聞いてくれなくなってしまう。
 そんなことは絶対にイヤだ!
 シンジは自分の同様に連動してぐらぐら揺れ動く写真集の山を何とか安定させた。

「何、その慌て方。あ、アンタ私の下着とか盗むつもりだったんじゃないでしょうね!」

 バスタオルを巻きつけたアスカが仁王立ちで怒鳴る。
 その身体をリツコは冷静な目で検分した。
 わかったわ、あそこの部分を外せばタオルは落ちる。
 リツコの瞳が光った。

 写真集で頭が一杯のシンジはアスカの状態に気が回っていなかった。
 着替えが用意できていないのにここにいるということは…などとは思いもしていない。
 彼はこの絶体絶命のピンチをどうやって凌ぐかという事しか考えていなかった。

「ち、違うよ。学校の本…教科書とか、取りに来たんだよ。嘘じゃない、嘘じゃないよっ!」

 これでは大声で嘘だと連呼しているようなものだ。
 但しシンジが必死に隠しているのは18禁写真集の山。
 片やアスカが隠していると思い込んだのは自分の下着。
 
「あっやしいわねぇっ!ちょっとそこの金髪黒眉毛、どいてよっ!」

 ネルフでは一目も二目もおかれている、ちょっと危ない科学者赤木リツコ。
 こんな言われ方をされたのは初めてだ。
 かなりむっとなりながらも、努めてポーカーフェイスを装い身体をずらした。

「どうぞ」

 アスカはのしのしと扉から5歩進んだ。
 ちょうど石像シンジとリツコの中間あたり。
 リツコは見えなくなってしまったバスタオルのキーポイントを頭の中で計算する。

「馬鹿シンジぃ。私の下着返しなさいよっ!」

「そ、そ、そんなもの盗ってないよ!」

 シンジは正しい。
 しかし、悲しいかな、彼のアスカ歴は非常に短い。
 この場合は言葉の選択を誤った。

「そんなものぉぉですってぇぇぇぇ」

 背後から響く低いアスカの声。
 シンジは本能的にかなり拙い状態に自分がいることを今更ながらに確認した。
 
「私の下着がそんなものぉ?この私の下着には盗む価値もないってことっ!」

 リツコは思った。
 飛躍している。
 ロジック通りに思考が進んでいないようだ。
 但しその思考パターンはミサトに近い。
 彼女に対するのと同じように論理を展開して行けばいいのではないか。

「わかった!その本の間に挟んで持ち出そうとしたんでしょう!この痴漢!」

「違うってば!そんな余裕僕にはないよっ!」

 確かにそうだ。
 アスカの下着だとかそんなことを考える余裕はシンジにはこれっぽっちもない。
 彼はただ彼女に知られないようにこの危険物を部屋の外に運び出すことしか考えられなかった。
 シンジが何かに心を奪われているとき、彼の思考回路は実に素直に動く。
 そう、思っていることを素直に喋ってしまうのだ。

「アンタがこんなスケベなヤツだなんて見損なったわ!そうだ、サンドイッチ返してくれる?」

 くそぅ、ケンスケにトウジのヤツ。お前らのせいだぞ。

「ダメだよ。あれは惣流さんがつくってくれたんだから返さないよ」

「はぁ?作った本人が返せって言ってんでしょうが。アンタ馬鹿ぁ?」

 どうしよう、二人を押しのけて廊下に?でも、そんなことできるだろうか?

「馬鹿だよ。身の程知らずに惣流さんが素敵だなんて思ってるんだから」

「へ?」

 アスカは頬が急激に熱くなっていくのを覚えた。
 い、今のって…ひょっとして告白?
 わわわわわわわ!生まれて初めてっ!
 妄想の中じゃ色んなカッコいい男に告白されてるけど、現実じゃ初めて!
 あああああっ、胸がどきどきして足元がふらふらするぅ…。

 やるわね、碇シンジ君。
 さすがはあの人の息子。
 人の意表をついて、巧妙に的確な言葉を投げかける。
 素晴らしいわ。

 この時がチャンスだった。
 アスカは舞い上がり、リツコはゲンドウに想いを馳せていた。
 今なら簡単に廊下まで脱出でき、写真集の山を何処かに隠匿することができただろう。
 ところが、シンジ自身も友人への悪態と今の境遇への呪いに忙しく、絶好のチャンスに気付かないでいたのだ。

 まず、我に返ったのはリツコ。
 いや世界平和に目覚めたのではなく、ゲンドウへの愛に目覚めたのだ。
 早くここの処理をしてしまい、あののっぺりとした顔になったゲンドウと愛を語り合いたい。
 ただそれだけの自分勝手な欲望のために。
 とにかく、アスカにシンジが持っている写真集を見せればいいのだ。
 そして、アスカのバスタオルをひん剥く。
 簡単なことではないか。
 リツコは行動した。

「あらら、足が縺れてしまったわ」

 そんなにはっきりと、しかも棒読みで言う必要はない。
 リツコはそう宣言した上で、シンジのカッターシャツの襟元をぐいっと掴んだ。
 シンジは優等生である。
 ケンスケのように第2ボタンまで開けてはいない。
 因みにトウジはジャージだから当然ボタンはない。
 彼らの友人である碇シンジは重ねて言うが優等生。
 第1ボタンまで丁寧にはめていたのだ。
 
「ぐえっ」

 一瞬で喉が詰まった。
 シンジの黒目が上昇する。

「こらっ!アンタ、何をっ」

「何かに縋らないといけないわ」

 またもや棒読み。
 ミサトなら過剰ではあるが身体が自然に動く。
 ところがこのリツコ。運動神経は良くない。
 宣言をした上で、しっかりと力と意図を込めてシンジの襟首を引く。

「ぐあ…」

 碇シンジ、完全に意識を失って倒れ込んだ。
 真後ろに。
 慌てて避けようとしたリツコだったが、先ほども述べたように運動神経は悪い。
 倒れ込んでくるシンジの背中に押されるようにして、アスカの方へ倒れ込んで行く。
 そして、何かに縋ろうと指を伸ばした。
 偶然というものは恐ろしい。
 いや、先ほどあれだけ位置を確認していたからかもしれない。
 リツコの人さし指はアスカのバスタオルのキーポイントにしっかりと入った。
 はらり…などという優雅なものではない。
 びりっという音も含まれていたからにはバスタオルが裂けもしたのだろう。
 
「きゃあっ!」

 アスカの悲鳴を皮切りにして、その部屋からとんでもない音が響いた。
 人間が3人床に倒れ、その上シンジの持っていた写真集が飛び散ったのだ。
 インクの味がほんのりとする揚げ出し豆腐に舌鼓を打っていたゲンドウが何事かと立ち上がったのは無理もない。
 いつものゲンドウに似合わず、階段をすたこらさっさと駆け上がる。
 そして愛する息子の部屋に飛び込むと…。

「きゃあ!痴漢!」

 一瞬見えたのはアスカの白い肌。
 そして次に彼の目に大写しになったのが、金髪美人の大股開き。
 そのあられもない姿が目の中に飛び込んできたかと思うと、彼はその金髪美人にノックアウトされた。
 いやなに、アスカが咄嗟に投げた写真集の1ページに顔面を強打されただけのこと。
 つ〜んとなった鼻を押さえ、ゲンドウは部屋の中を見た。
 さすがに表情に乏しい彼も開いた口がふさがらない。
 部屋中に飛び散っている無修正の写真集。
 その開いたページで扇情的に彼に訴えかけている女性の髪の色は、金髪、金髪、金髪。
 おまけに部屋の中にいる女性二人の髪の色も金髪。
 その一人は服を着てはいるがその中身もよく知っている彼の恋人。
 もう一人はその裸身をゲンドウの目から隠すために手近な物体を楯に使っていた。
 濡れそぼった学生服を着た彼の息子を。
 がっくりと気を失ったシンジの背中をアスカは抱き寄せるようにして自分の身体を隠している。
 しかしながら、碇シンジは大柄な方ではない。
 アスカとはそう体格は変わらない。
 したがってゲンドウの目から少しでも自分の裸を隠そうと思えば、シンジの身体としっかり合わさる必要がある。
 もちろんシンジに意識があればそういう真似はしなかっただろう。
 ところが今シンジの意識はどのあたりを彷徨っているのかまったくわからない。
 だからこそ、アスカはシンジをただの物質として盾に使っていたのだ。

 碇ゲンドウ。
 この男、かなり無愛想にして不器用。しかも想像力はあまりない。見たままに理解するタイプだ。
 で、彼の見たものというと。
 場所は息子の部屋。
 その部屋には法律違反の写真集が散乱し、愛する息子は真っ裸の金髪美少女の身体に覆いかぶさっている。
 その上、恋するリツコはその二人の足元で、身体の打ち所が悪かったのか朦朧としてうつ伏せに倒れている。
 以上の状況から彼が判断したのは、シンジがアスカに襲い掛かりリツコが止めようとしたということ。
 まあ無理はない。
 世界平和のために自分が社長をしているネルフが画策したことだなどわかるわけがない。
 ゲンドウは一人の父親として激怒した。

「シンジ…貴様というヤツは…許さん、責任を取れっ」

 シンジは父親の叱責にも覚醒はしない。
 いや、この場合覚醒はしないほうが良かった。
 もし目を覚ましていれば、オールヌードのアスカを押し倒している状況なのだから。
 
「シンジっ、答えろ」

「あ、あのさ、コイツ、気を失ってるみたい」

「気を…?」

 ゲンドウは何故かと考え、しでかした事が露見したのでパニックのあまり失神したものと思い込んだ。

「と、とにかく、服を着てくれ」

「う、うん。じゃ、出てって」

「ふむ」

 ゲンドウは息子を引っ担ごうとしたが、それではアスカの身体を隠すものがなくなる。
 仕方なしに極道息子は放置することにし、リツコの身体を抱き上げた。
 いわゆるお姫さま抱っこというスタイルだ。
 抱き上げられた時、リツコは目を覚ました。
 目の前にはつるんとした顔のゲンドウ。
 彼女にとっては美味しそうなゲンドウの唇がすぐ傍に。

「くわっ!子供の見てる前でそんなことすんなっ!」

 アスカが叫び、ゲンドウは慌てて廊下へ飛び出した。
 何とか後ろ手で扉を閉めると、部屋の中にはアスカとシンジの二人きり。
 アスカはシンジの身体をぽいっと床に落とすと、急いで下着と服を身に着ける。
 そして、扉に耳をつけると、そこから微かに聞えるのは、彼女の顔を赤らめるに足る音声。
 彼女の人生でこのような音声をリアルに聞くのは初めての経験。

 こ、これがディープキスってヤツ?
 映画じゃ見たことあるけど、本当にあんなに…。
 アスカは知らず知らずのうちに舌なめずりをして、それに気付きさらに顔を赤らめた。
 恋人になったらやっぱりあんなキスをするんだ。
 あの金髪黒眉毛はシンジのパパの恋人なんだ、きっとそうに違いないわ。
 ところどころで「好きよ」とか「愛してるわダーリン」なんて…。
 ど、どんな顔して?ううん、そんなの見てどうすんのよ。
 私もいつか素敵な彼とあんなキスを?
 でも、下手だって思われて、嫌われちゃったらどうしよう?
 練習…なんてどうすればいいの?

 その時、ふと目に入ったのが仰向けに倒れているシンジの姿。
 いや、練習台にしようと思ったわけではない。今のところは。
 まず気になったのが死んでいるのではないかということ。
 慌てて傍に駆け寄って見るが、見ただけではわからない。
 腕を取ると脈はある。
 息は?
 その時、シンジの唇がアスカの目にクローズアップされた。
 野蛮な感じじゃない。どちらかというと小さめな唇が少し半開きになっている。
 無意識に舌なめずりをするアスカ。
 練習…してみようかな…相手は私の下僕なんだしさ。
 それに意識不明なんだから、ただの人形だって思えばいいのよ。
 そうよ、未来のマイダーリンのためにこの馬鹿を練習台にする。
 うん、我ながらいいアイディアだわ。
 アスカはニンマリと笑った。
 ホント、日本にきてよかったわ。
 こんなに私にピッタリの下僕が見つかるなんてさ。
 自転車の後に乗っかってこいつの身体に触れてても気持ち悪くなかったし、こうやって…。
 アスカは右手の中指をシンジの唇にすっと這わせた。
 ほらほらこんなことをしても、身体がぽっぽするだけで吐き気とか頭痛とかしないじゃない。
 ドイツにいたときは男の身体になんか触れるだけでイヤだったのにさ。
 うんうん、今はなんだか舞い上がってしまいそうなくらいいい気持ち。 
 よしっ、練習、練習!
 アスカはそっと唇を寄せた。

「う、ううん…」

 その時、シンジが呻き声を上げた。
 わわわっと咄嗟にアスカは上体を起こす。
 シンジは額にしわを寄せてはいるが、まだ目を覚ましていない。
 その顔を見てアスカは首を傾げた。
 あれ?今、私は何をしようとしていたんだろう?
 腕を組んで考えると、このシンジとキスの練習をしようとしていたことを思い出した。
 あっという間に顔が紅潮する。
 何てことを考えていたんだろ。馬鹿らしい!
 この美しい唇は未来のマイダーリンのものなんだから!
 ど〜してこんな…。
 ようやく周囲の写真集の存在に目がいった。

 ぼすんっ!

「げふっ!」

 シンジ覚醒。
 ただし、夢の中ではシンジは温かくて気持ちのいいものに包まれていた。
 それが何かはわからないが、うっとりとした気持ちだったのだ。
 まさに天国から地獄。
 臀部を何者かが何度も蹴り上げている。
 
「痛!痛いよっ!」

「うっさいっ!この色魔、変態、スケベ、痴漢!」

「あ、ああっ!ご、ごめんっ!」

 ようやく現状を思い出すシンジ。
 写真集を見られてしまったのだ。

「よくもまぁ、こんな汚らわしい本を!1冊だけじゃなくてこんなにこんなにこんなに!」

「ご、ごめんなさい!ごめんなさい!」

 蹴られながらも謝るしかない。
 しかしアスカは気付いていないのだろう。
 蹴っても痛くもなさそうな場所を選んでいたことを。
 そのことをシンジも知らない。
 彼にはそんなゆとりがどこにもないから。
 見られてしまった。しかもこんなに怒っている!
 ただ謝ることしか彼にはなかった。

 こんこん。

 ノックの音にアスカは我に帰った。
 いくらなんでもこの家の息子を蹴り上げているところを当主に見られるわけにはいかない。
 この家から出て行きたくないから…などという深層心理までは彼女は気付かない。
 アスカはすっとシンジから離れると、ベッドに腰掛けた。
 シンジはというと、ノックの音にも気付かずに謝罪を繰り返すのみ。

「ちょっとアンタ。早くそのいやらしい本を片付けなさいよ。はんっ!」

 思い切り顔を背けてアスカが吐き捨てる。
 慌てて起き上がったシンジは散らばった本を集めにかかる。
 アスカの座ったすぐ横にもその本が。
 ちらりと目をやったアスカがその本をシンジに投げつけようとした時、表紙が目に入った。
 あのアスカそっくりの金髪美人。
 アスカの眉が上がった。
 何か怒鳴ろうとしたが、すっとその本を枕の下に滑り込ませる。

 もう一度、ノックの音。

「いいわよ、入って」

 ようやく本を机の上に置いたシンジが振り返って、口をぽかんと開けた。
 一瞬、そこに立っていた男を誰かわからなかったからだ。
 物心ついたときから髭面の父。
 メガネを外したところは知っているから、その目で父親だとわかったのだが。
 ゲンドウの目は怒りに燃えていた。

「シンジっ!」

 あれはいつ以来だろう?
 おねしょをした時だって、お父さんは怒ったりはしなかった。
 次から気をつけるんだぞと頭をごしごし大きな掌で触っただけ。
 そうだ、お母さんが生きていたときに、グリーンピースを食べるのがイヤだと駄々をこねた時だ。
 今みたいな目をして、今みたいに名前を短く叫んだんだ。
 
「お前、どういうつもりで…」

 ゲンドウは一歩足を踏み出した。
 その拳が震えている。
 
「そんな可愛らしくて優しい女の子にお前は何ということをしたんだっ」

 そのゲンドウの言葉をストレートに理解したものはいない。
 アスカは“可愛い”のみならず“優しい”とまで言われて夢心地。
 リツコは嫉妬モード満開。
 表情は崩れていないが、その心は乱れまくっている。世界の平和などもうどうでもよいという感じだ。
 シンジはまさか自分が真っ裸のアスカの上に乗っかっていたなどと夢にも思っていない。
 ひとえに金髪美少女の無修正写真集の山を所持していたことを見つけられたから、
 父親が怒っているのだと誤解していた。
 ゲンドウがさらに一歩踏み出した。
 拳がぐっと握られる。
 ああ、殴られる。シンジは目を瞑った。
 仕方がない。悪いことをしたのだからと彼は観念した。

 ぼこっ。
 
 凄まじい衝撃が来るものだと予感していたのに、頬にも頭にも痛みはない。
 おかしいなと薄目を開けると、目の前にいたはずの父の身体がない。
 
「ち、ちょっと、何すんのよ!」

 アスカの声にそっちを見ると、
 なんとベッドサイドに座るアスカのつま先のところにゲンドウが土下座をしていた。

「すまん。許してくれ」

「へ?」

 アスカはゲンドウが額に触れんばかりにしていたつま先をベッドの上に緊急避難させた。
 これが本来のアスカなのだ。
 異性との肉体的接触はあまり好まないのだ。

「あのシンジがこんなことをするからには何か止むに止まれぬ…。
 いや、衝動的になのかも知れん。わしにはわからん。すまん。わしが悪いのだ」

 頭を床にこすり付けているからその声は地面から沸きあがってくるような感じになる。
 
「父さん…?」

 シンジは狐につままれた思いだ。
 あんな写真集を所持していたことは悪いと思うが、父親が土下座をするほどのこととは思わない。

「こら、シンジ。お前もここに座って頭を下げろ」

「で、でも…」

 当然戸惑うシンジをゲンドウは横目でじろりと睨みつけた。
 その表情を垣間見てリツコは背筋がぞくぞくとなる。
 ああ、いいわ。素晴らしい。ゲンちゃん大好き。
 アスカの方はもちろんその表情に快感を覚えたりはしない。
 ただ、ゲンドウの思い違いに気が付いただけ。
 そして、最初は我慢していたのだが、ついにベッドに横倒しになり足をバタバタさせて笑い出した。



「そうか、そういうことだったのか」

 ゲンドウはアスカの淹れた紅茶を啜った。
 リツコはコーヒー党なので少し物足りなげに喉を潤す。
 シンジは…お風呂だ。
 長時間、濡れた服のままだったので夏とはいえ身体が冷えてしまったらしい。
 時々バスルームのほうから大きなくしゃみが聞えてくる。

「まあ、いずれにせよすまん。どうやらアイツも不器用なようだ」

「父親似ってことですか。そこが可愛いのに。ねぇ、アスカ」

「ちょっと、気安く名前で呼ばないでくれる?」

「あら?自己紹介してなかったかしら。私は赤木リツコ」

 ごほん!

 注意を喚起するためにはいささか大きすぎる咳払い。
 ゲンドウが凄まじい表情をして……ダイニングテーブルの上の照明を睨んでいる。
 家を35年ローンで買った時にこのダイニングに合わせて買った笠が紫色の洋風ペンダントだった。
 アスカはその照明を見てドイツ人らしく掃除の具合を確認。
 ふ〜ん、掃除が行き届いてるわね、ほとんど埃がないじゃん。
 リツコはワット数の計算。正確な数値はわからないけど、食卓を照らすには充分ね。
 ただ食材を細部まで照らすのであれば、スポットライトを数基設営する必要があるわね、
 雰囲気づくりという演出効果など無関係の女はそんなことを考えていた。
 もちろん、ゲンドウは二人にそんなことを考えさせるために照明を睨んでいたわけではない。
 ただ、彼の人生における最大の台詞を吐こうとしてとんでもなく緊張をしていたのだ。
 何しろ、ユイのときは彼女から一方的にプロポーズしてきたのだから。
 ゲンドウはただ大きく頷くだけでよかったのだ。
 しかし今回は自分から言わないといけない。
 
「う、つ、つまり、あれだ。そ、その…」

 ゲンドウの視線に負けて照明が爆発しそうだ。
 
「その、赤木という名前は、つまりだ」

「いい名前でしょう」

「そ、そうだな」

 状況を察知できないリツコの一言にゲンドウ沈没。
 彼の視線は照明からテーブルクロスに急落下した。
 アスカは人のことには敏感である。
 小さい頃に両親をなくしているのだ。
 人の目を気にしてしまうのは致し方ないこと。
 ただし、彼女の場合、自分の気持ちには鈍感である。
 その上、自分の方を向いて欲しいと思った人間のことは目が曇ってしまう。
 これは無意識にそうなってしまうのだ。
 おそらくはもし自分の思い通りにならなければ落胆が大きくなってしまうから。
 その落胆から逃れるために自分に都合のいい解釈を避けてしまうのだ。
 結論から言おう。
 彼女の目が曇る相手は過去現在未来を通してただ一人。
 碇シンジだけだったのだが。
 もちろん、今は彼女はそのことを知らない。
 それに曇りだして来るのはまだ未来。すぐ先の未来のことだ。
 現状について言えば、アスカは楽しんでいた。
 自分はプロポーズの現場に立ち会っているのだ。
 その当事者は垢抜けて洒落た男女ではなく、無骨で口下手な中年男と婚期を逸しかけた鈍感な女。
 シンジの父親が第二弾のプロポーズをどのように切り出すのか、わくわくしながらアスカは待っていた。

 5分経った。
 事態はまったく進展していない。
 ゲンドウは言葉もなく視線を落とし、
 リツコは我関せずといった感じで紅茶を飲み、
 バスルームからは断続的にくしゃみの音。
 つまらない…。
 アスカは思った。
 このままでは面白くない。
 別に仲人を買って出ようというわけじゃない。
 読み出した小説が実は前編だけだったようなものだから。
 
「ところでさぁ」

 アスカの一言にゲンドウが肩を少しだけ動かす。
 見かけではそれだけなのだが、本人からすれば突然背中を押されたようなものだ。
 くしゃみの音もしないので、ダイニングは静まり返っている。

「アンタって…」

 アスカはリツコを見やった。
 リツコはカップを下ろして、ポーカーフェイスでアスカを見返す。

「シンジのパパの何になるの?恋人?愛人?それとも婚約者?」

 ニンマリ笑うアスカにリツコは不快感たっぷり。
 恋人と名乗るには歳をとりすぎ、
 愛人と名乗るにはプライドが傷つき、
 婚約者と名乗るには状況が許されていない。
 自分の立場が不明瞭なのをことさらにアスカによって認識させられたわけだ。
 アスカの狙いはどう見ても恋人同士の二人なのだから、
 こうやって女性のほうを追い込むことによって、男性の奮起を促したのだが…。
 ゲンドウはさらに首をうなだれた。
 その様子を横目で見てアスカはこりゃダメだわと思う。
 その時、くしゃみが廊下から聞えた。
 その音を聞いて、ゲンドウの肩が少しびくんと動いた。
 なるほど、馬鹿シンジはさっきこの女の人を知らないみたいだった。
 てことは、父親は恋人の存在を息子に隠していたって事か。

「どうでもいいけどさ。シンジにはちゃんと話した方がいいわよ」

 アスカはそっぽを向いて早口で言った。
 彼らが自分の言葉でどう反応したのかは見ていない。
 ただ、言ってしまってから不思議だった。
 何故そんなことを言ったのか。
 自分を世界の中心において生きてきた彼女が他人のことに気を使うなんて…。
 あ、そうか。
 主人が召使のことを気に掛けてあげるのは当然のことなのよ。
 ただこき使うだけなんて、立場が上の人間のすべきことじゃないわ。
 その他大勢の人間のことなんかど〜でもいいけどね。
 
 くぇしゅんっ!

 くしゃみとともにシンジが入ってきた。
 ようやく着替えることができ普段着である。
 昨日から着替えていなかったからだ。
 彼は入ってきた途端に、真っ赤な顔をしてアスカにおずおずと声をかけた。

「あ、あのさ…洗濯したけど、いい?」

「はい?」

 アスカがぐいっと顔をシンジに向けた。

「だ、だから濡れたままじゃいけないから洗濯機まわしたんだけど」

「はん!そんなの別に…」

 かまわないと言おうとして、アスカはふと気付いた。

「ちょっと、アンタっ!」

「はいっ!」

「もしかして、アンタのも一緒に洗ってるんじゃないでしょうねっ」

「え、えっと、2回にしたら電気代も洗濯石鹸だって無駄だし」

 家事を担当して来たシンジとしては当然の選択だったのだが、
 洗濯槽が回り始めてから彼ももしかするとまずかったかなと思ったのだ。
 何しろシンジの服一式と一緒に洗濯槽で泡にまみれているのは、
 素晴らしい美少女の服と…下着なのだ。
 この怒り方を見ると当然彼の心配は当たってしまったようだ。

「くわっ!ドイツだって自分のだけで洗ってきたのよ!女子専用の宿舎なのに。それなのに…」

 アスカはシンジをぎろっと睨みつけた。

「アンタの下着とかと一緒になって洗濯されてるってわけ?
 アンタのと私のがくっついたり離れたりもつれあったりっ!」

 そう言われてしまうと、思い切りいやらしい想像をしてしまう。

「ご、ごめん!じゃ、止めてくるよ」

「待ちなさいよ。どうやって洗ってんのよ」

「えっと、惣流さんのはネットに入れてるけど」

「ふ〜ん、とりあえずそれくらいは考えてくれてたんだ。
 あ、でも!そのネットには手で入れたのよね。私の下着をアンタ、手で持ったのね、直にっ!」

 真っ赤な顔で立ち上がったのは怒りの所為ではない。
 恥ずかしかったのだが、その認識はアスカ本人にもなかった。

「で、でも、じゃどうやって」

「日本にはお箸って便利なものがあるじゃないの!」

「そ、そんなことしたら、汚いものでも触ってるみたいじゃないか」

「あ、そっか。それもそうね。じゃ、許す」

 アスカはそのまま扉の方へ歩いていった。

「アンタの荷物はさっき出したので全部よね」

「う、うん」

「じゃ、私ちょっと昼寝。邪魔しないでよ」

「うん。おやすみなさい」

 シンジの挨拶にアスカは後ろ向きに手をひらひらさせて応える。

 くしゅんっ!

 またくしゃみをしたシンジは自分の分の紅茶を淹れる。
 まだアスカのサンドイッチを食べてなかったからだ。
 タッパーを開けてアスカお手製のサンドイッチを次々と食べる。
 そんな息子の動きをゲンドウは上目遣いで追った。
 どういう風にリツコのことを説明しようか、やはり自分から言わないといけない。
 ただユイのことをシンジが忘れられるわけがない。
 そんな息子に再婚したいなどとどういう顔をして言えばいいのか。
 
「し、シンジ…」

 シンジは顔を上げた。
 明るい顔で。
 その表情を見てゲンドウはまた目を伏せてしまった。

「父さん、その女の人、僕のお母さんになってくれるの?」

 がしゃんっ!
 ゲンドウの指先で弄んでいた紅茶のカップがお皿から盛大な音を立てて転がり落ちた。
 中身を飲み干していたのが幸い。

「シンジ!お前…」

「さっき廊下で聞いちゃったんだ。惣流さんが質問してたのを」

「そ、そうか」

 流石のリツコも不安げにシンジを見ている。

「僕はいいと思うよ。父さんだってまだ若いんだし。ごちそうさま!」

 シンジは立ち上がってタッパーと紅茶を流しに運ぶ。
 リツコがホッと息を漏らし、ゲンドウは瞑目した。

「あ、今日は晩御飯はどうするの?用事もあるし」

 ゲンドウには決定権はない。
 リツコを見ると、首を振る。
 世界平和のための計画は進行中なのだ。
 今のところ、ゲンドウの登場する場面はない。
 またしばらくはネルフに缶詰だ。

「う、うむ。今日は戻らねばならん」

「あ、そう?わかった。じゃ、帰ってくるときは事前に連絡してね」

「うむ、そうする」

 姿の見えないシンジにゲンドウは素直に答えた。
 すると、流し台の方からシンジが姿を現しにこやかに笑いかけた。

「じゃあさ、僕も少し眠ってくるよ。身体が冷えちゃったみたいだから。
 あ、流しはそのままにしておいてね。起きた後で片付けるから。
 いってらっしゃい」

 そのまま笑顔を残してシンジは階段を上がっていく。
 アスカに自分の部屋を明け渡したシンジは納戸を居住地に決めていた。
 お風呂に入る前に学校の道具や衣類は移動済み。
 その納戸はアスカのいる部屋の斜め向かいになる。
 
「いい子ね、シンジ君」

「いや、あれは嘘だ」

 ゲンドウはテーブルに目を伏せた。
 髭がないだけにその表情は情けなく、そして侘しげ。
 そんなゲンドウの背後にリツコは立ち、そっと落ちた肩を抱きしめた。

「父親だから?それでわかるわけ?」

「む…そうかも、知れん」

 ゲンドウは搾り出すように言葉を発した。

「私は…やっぱりダメね。言葉通りに受け取ってしまった。反対なのね、本当は」

「それは違う。シンジは反対はしない。そうすると、お前が悲しむ。私も、な」

 ゲンドウは悲しみに溢れた目を上げる。
 そして、肩を抱くリツコの手に自分の手を添えた。

「こうなると結婚しないといけないな。シンジの気持ちを無駄にできん」

「待って。あの子は自分を殺しているのに…それなのにあの子の悲しみの上に私に立てと」

「いや、私と二人で立つのだ」

 ゲンドウはおのれの手に力を入れた。
 その手には優しさがこめられている。
 そう感じたのはリツコの妄想、いや願望だろうか。
 実際にゲンドウは精一杯の優しさをこめて彼女に触れていたつもりだったのだが。

「私はどう接すれば…。そういえば自己紹介もできなかった」

 リツコは目を落とした。
 いつもの自信たっぷりの彼女とはまるで違う。
 この様子を見ればあのミサトでもからかう気は起こらないかもしれない。
 ゲンドウもどうすればいいのかさっぱりわからない。
 任せておけと男らしく言いたいところなのだがそうもいかず、
 彼も大きく溜息をつくのだった。

 なぁんだ、面白くなると思ったのにずいぶんとシリアスモードになっちゃったじゃない。

 階上に向かったと思わせておいて、隣室で聞き耳を立てていたアスカは唇を尖らせた。
 なんだか出来の悪いホームドラマみたい。
 ではどういうものを期待していたのかというと、それもアスカにはわからない。
 ただ、その時自分の部屋に戻ろうとしたアスカの耳にお待ちかねの台詞が飛び込んできた。

「ちょっと待って。今、何と言いました?」

「む、今というと」

「結婚、と言いませんでした?」

「うむ」

「わ、私と、ですか?」

「他には…お、おらんだろう」

「ほ、本当?私は碇リツコになるのですね」

「むぅ、そ、それは、やはり、うむ、そうだな、そうなるのかもしれん」

「何ですか、その歯切れの悪さは」

「い、碇というのはユイの姓で、わしは六分儀だが、もう六分儀ではないし」

「ふふふ、どっちでもいいわ。姓なんてどうでも。そんなものはただの記号ですから」

「で、で、では、いいのだな」

「当たり前でしょ」

 椅子ががたんと倒れる音。
 そして衣ずれの音が続いた。
 さらにアスカの耳に入ってきたのは、ぺちゃぺちゃっという明らかにキスの音。
 その音はついさっき2階でも聞かされたところだ。
 アスカは顔をこわばらせ、とっとっとっと階段を駆け上がっていった。
 こそこそ話には興味はあるが、他人がいちゃいちゃしているところを盗み聞く趣味はない。
 まあ、さっきの宣言どおりにお昼寝でもしよう。
 そう思って自分の部屋に入ろうとした時の事だ。
 微かに、声が聞えた。
 その声はシンジが荷物を運び入れた部屋から。
 立ち止まったアスカが聞き耳を立てると、部屋から漏れてくるのは「母さん」という言葉と泣き声。
 アスカは唇を噛みしめた。
 そして、扉を蹴飛ばそうとして……やっぱりやめた。
 今のシンジは男らしくはないけれど、その悲しみはわかる。
 両親がいない彼女だから、父親の再婚を悲しむ気持ちには察しがつく。
 アスカは扉に向かって「ば〜か」と一言。ただしそれは言葉には出してはいない。
 そして自分の部屋に音がしないようにそっと入っていった。

 
 


 その頃、ようやくおまわりさんから解放されたミサトはルノーのハンドルを握りながら考えていた。
 リツコはうまくやったのかしら、と。
 あの写真集をアスカに見せれば大ゲンカになるのは間違いないし。
 ふふ、ケンカっていってもアスカが一方的にってわけだけど。
 まあ、仲良くさせたりケンカさせたりって、ホントにややこしいわねぇ。
 いっそのこと二人を男と女の関係にしちゃった方が簡単なのに。
 でも、もし文書通りにしなくて世界が滅亡しちゃったらどうしようもないもんね。
 仕方がないか…。
 あはは、案外リツコが失敗しちゃってたりして。
 今この瞬間に世界の滅亡へのカウントダウンが始まっていたりしてさ。
 
 ミサトは知らなかった。
 碇家では、アスカは安らかな寝息を立て、シンジも泣き寝入りしていたことを。
 二人の間には小競り合いはあったものの、大ゲンカには至っていない。
 リツコは自らの幸せに目がくらみ、作戦の結果に気が回っていなかった。
 しかも携帯電話の電源を切って、なりたてのほやほやの婚約者と某所へしけこんでいるところ。
 まさか自宅で真昼間になどゲンドウの繊細な神経が許さない。
 愛する息子が昼寝中なのだから。

 世界の平和はどうなるのだ?


 

すべては世界の平和のために

− 5 −

「君といつまでも」

〜 おわり 〜

 

次回に続く

 


<あとがき>

 A6M4様よりいただいた、333333HIT記念リクエストSSです。今回はその第5話です。

 リクエスト内容は、1、七夕。2、エヴァ本編キャラ総出演。3、世界平和。

 以上のお題です。案の定、七夕には終わりませんでした。申し訳ありません。

 1ヶ月以上間隔が空いています。それでも話はほとんど進展なし。

 さて、次回二人の間に溝は出来るのか。それとも世界が滅亡するのか?するわけないけど。

 

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