「そういえば、アスカって…」
すべてはこの碇シンジの一言からはじまった。
思えばそれは昼休みに見た光景が彼の頭に残っていたからだろう。
鈴原トウジがキャッチボールをするで!と友人をグラウンドに引っ張り出した。
その後汗だくになって教室に戻ってくると、窓際の綾波レイの姿が目に映ったのだ。
それは惣流・アスカ・ラングレーにいきなり絡まれたので目線を避けたからだろう。
汗臭いからシャワーでも浴びてきなさいよなどと声高に言われてもどうしようもできない。
だから彼は五月蝿く言う同居人の少女から逃れるために顔を背け、その先にレイの座席があっただけのこと。
彼女はいつものように本を読んでいた。
表情も変えずに淡々と読んでいる姿が、騒ぐアスカと正反対なので心に残ったのかもしれない。
そして今、シンジがそのことを口にしたのはやはりアスカの所為だった。
彼女は日本の学校はシャワールームをもっと開放すべきだと主張したのだ。
もっとも彼女の知る学校というのは大学なので、そんな最高学府と市立中学校を同列で比較する自体がおかしいとシンジは思った。
そのためにアスカの演説が一段落した時に話題を変えようと試みたのだ。
ミサト抜きの晩御飯が終わった時のことで、内容的に彼の苦手な自分の内面についての話ではないだけに逃げ出すこともない。
だからテーブルに留まっていたのだが、それでも演説を聴き続けるというのも苦痛だ。
ということで、シンジはそう切り出したわけである。
別にアスカは演説をすることを目的にはしていない。
無意識ではあるが、同居人の少年との接点を維持したいという感情から会話をしているだけなのだ。
したがって演説以外の話題になっても何の問題もない。
しかも、自分の話題ではないか。
アスカが身を乗り出したのは自然の成り行きだった。
「アタシが、何だってぇ?」
「う、うん。アスカってさ、本、読まないよね」
− 第一章 −
愛 読 書
そのシンジの発言はアスカの対シンジセンサーに著しく反応した。
しかもマイナス方向に大きく振れたのだ。
馬鹿にされた、と彼女は感じたのである。
別に彼にそんな意図はないのだが、読む、のと、読まない、では大いに後者の方は悪いイメージが強い。
だから、彼女は眉を顰めた。
戦闘体勢に入る第一歩である。
しかし、鈍感で有名なシンジは彼女のその変化に気がつかない。
気がつかない上に、さらに可燃物を投下したのだ。
「綾波はよく読んでるよね、本」
一番比較されたくない女に比べられた。
しかも自分が悪い方ではないか。
その上、その比較をしたのはシンジなのだ。
ただし、最後の感情についてはアスカの意識には上っていない。
あくまでレイと比較されて貶められたという点に彼女は憤激した。
「へぇぇぇぇぇぇ、そぅなんだぁ」
その低い声を聞いた時、ようやくシンジは身の危険に気がついた。
自分が撒いた種だというのに、彼女が何に対して怒ったのかが瞬時に理解できない。
だからさらに可燃物の上に油を撒くという暴挙に出る。
そこがシンジのシンジたる所以であろう。
「だ、だって、家でもアスカは雑誌もあまり読まないよね。そ、それに、ほら、アスカの部屋にも本なんて見えないし」
「何ですってっ!!!」
引火した。
放火犯も裸足で逃げ出すほどの火種を彼女に投下したのだから、こうなって当然だ。
当然だというのに、彼は何がアスカの逆鱗に触れたのかわかっていない。
「あ、も、も、もちろん、勝手に覗いたりなんかしてないよ。扉からチラッと見えた時に…」
「チラッと見ただけって言う割りに、本が置いてないってとこまでよぉ〜く見てるじゃない」
「い、いや、あの、その、つまり…」
気づいた時にはもう遅い。
じろりと睨みつけている青い瞳を前にして、シンジは言い訳の機会を失った。
もっとも言い訳しても無駄というものだが。
彼は席を立つこともできず、アスカに散々罵られ、最後にはアスカの当番だった家事を押し付けられてしまう。
もっとも家事の押し付けは日常茶飯事のことだったが。
その翌日のことだ。
シンジはもう昨日の出来事を忘れかけていたが、アスカの方はしっかりと記憶している。
いや、昨晩の段階であることを実行しようと決意していたのだ。
その機会は昼休みにやってきた。
食事をとり終えると、アスカは窓際の席を睨みつける。
すると昼食など食べたかどうかもわからないような素振りの綾波レイはすでに読書の姿勢に入っていた。
アスカは微かに笑った。
計画実行!
読んでいた本をいきなり取り上げられて少女は驚いて声を上げた。
「何をするのっ?」
本を掴み上げた白い手の持ち主は少女に向かってニヤリと笑った。
「こういう時は日本語を使わない方がいいわね。それとも英語はできない?日本のお猿さん?」
「何ですってっ」
思わず日本語を口走ってしまったのだが、しかし相手が喋っているのも日本語だ。
碇ユイは赤みがかった金髪の少女をまじまじと見た。
偉そうな態度を示しているが自分と同年代か、年上としてもそう離れていないと見える。
ユイは一呼吸置いてから、ゆっくりと日本語で喋る。
「あなたのも日本語のように聞こえるけど?」
「アタシ、世界に冠たるドイツの誇る天才なの。だから日本語くらいお茶の子さいさいよ」
「で、その天才さんが何の御用?イエローモンキーにちょっかいかけたかっただけ?」
「その通り。アンタ、もう2日目なのよ。未だに誰とも打ち解けていないようだけど?」
「お生憎様。私はこうしているのがいいの」
「おやまぁ、孤独を愛する天才さんってことぉ?自分は他の連中よりももっとお頭(つむ)がいいって思ってるわけ?思い上がってるんじゃないわよ」
「放っておいて。たかが1ヶ月間のセミナーじゃない。
それに観光やホームスティに来たわけじゃないわ。私は学びに来てるの」
「あのね、アンタ馬鹿?学者がたった一人で学問できると思ってるの?お笑い種ね。
現代の学問はネットワークを持っておかないといけないのよね。
だからこうやってここの大学は世界中の天才児を集めてセミナー開いてるんじゃない。
アンタ、このセミナーの趣旨を理解して参加してんの?それとも誰かさんに行けって言われたから来ただけ?」
青い瞳の少女は一気呵成に喋った。
窓際の椅子に座っていたユイに対して、彼女はその向かい側に立ち腕を組みながら足を踏ん張っている。
白人の割には痩せ型で背もそれほど高くなかった。
二人のすぐ近くには天井までの高さのガラス窓が一面に並んでいる。
その向こう側は中庭になっていて、芝生の上で昼寝をしている者や談笑している者たちの姿が見えた。
至って平和な昼のひと時である。
ユイはあのまま昼食を取ったテーブルで読書をすればよかったと後悔した。
そうすればこんな娘に絡まれることはなかっただろう。
カフェテラスの窓際に並んだ椅子が陽射しを受けてあまりに気持ち良さそうだったのでそこに移動したのだ。
いっそ中庭まで出てもよかったかもしれない。
しかし、そのユイの考えは間違いだった。
彼女に喧嘩を売っている、ように見える、白人少女はユイがどこにいようが話をしようと決めていたのだから。
「あなたに答える義務はないわ」
くだらない会話を打ち切ろうとユイは素っ気無く言った。
人種が違うことから苛めようとでも考えているのか。
いずれにせよ、こんな相手と係わり合いを持ちたくない。
「返して」
ユイは手を伸ばした。
取り上げられた本は今だ金髪少女の手中にある。
彼女はふんと鼻で笑うと本のページをぱらぱらと捲った。
「何を一生懸命に読んでいるかと思ったら、シュタインベックとへスラーの理論じゃない。
古臭いの読んでるわね、アンタ」
「私の勝手でしょう」
「こんなの読んでも何の利益にもなんないじゃない。あの理論の整合性については…」
少女は本に書かれている理論について語りだす。
ユイは上目遣いに彼女を睨みつけながらもその話の内容については拝聴していた。
そして、反論をしたのである。
その反論をさらに少女は切りかえしていく。
春の日の午後。
うららかな日差しが差し込んでいるカフェテラスの一角は耳慣れない言語が絶え間なく応酬されていた。
「Mr.チャン。あれは何をやりあっているのかね?」
ニヤニヤ笑いながら紫煙を燻らせていた青年が慌てて煙草を灰皿でもみ消した。
「ああ、これはオンビィチ教授。なに、天才少女同士の楽しい語らいですよ」
「あれは日本語だね。君は日本語も達者なのだろう?やはり学問上のことかね、諍いの原因は」
「最初は、ですね」
チャン青年はにやりと笑って、著名な心理学教授に事の成り行きを説明した。
最初はシュタインベックとへスラーの理論を言い争っていたのだが、そのうちに論点がどんどん外れていったのである。
「なるほど、ノンフィクションは読んでいないと。天才の子供たちは概ねその傾向があるようだね」
「ドイツ娘は絵本までのようです。しかし日本の少女は学校で読まないといけないので…」
「学校でかね?おお、そうだ。日本は飛び級がないのだったね」
「ええ。中学校は私立に行ったので比較的自由となったが小学校ではみんなと一緒に読まされた、と」
「ほう、日本の少女が自分で言ったのかね?それは珍しいケースだ」
「いえいえ、ドイツ娘がそのはずだと追求したのです。で、逆にあなたはノンフィクションを読んでないじゃないかと突っ込まれた」
「それで絵本は読んだ、と胸を張って言った」
「正解です。そして絵本など駄目だ、と日本の少女が優位に立った。すると、ドイツ娘は日本の食生活に話を変えたんです」
青年は納豆のことを説明した。
腐ったものを食べるにしてもチーズと納豆では全然違う。
欧米の方がいいとドイツ娘が主張したそうだ。
「なんだね、そのナットウというものは」
「日本の食べ物ですよ」
日本に赴いた時に口にしたことのある青年は顔をしかめて金髪少女の味方をした。
あんなものを食べているから考え方がおかしくなるというドイツ娘の主張に賛同まではしないが、味覚はおかしくなりそうだと彼は笑った。
「教授も一度食べて御覧なさい。おお、あの臭いといったら…」
「日本の食べ物か。私は寿司は食べたことがあるよ」
「まあ、そういうわけで今度は食べ物ではなくスポーツの話題に移ってますな。サッカーを例に出されて日本の少女が困ってます」
「サッカー。フットボールか。あれは合衆国も得意ではない」
「それそれ。彼女は野球を持ち出しました。ドイツでは誰もしていないだろうと」
「うむ、私は日本の彼女に味方しよう。アメリカンフットボールなら話は別だが」
教授は大学院生の通訳で少女たちの口喧嘩を楽しんだ。
そのうちに年老いた彼は微笑を浮かべだした。
その表情を見て、青年は孫を見ているようで可愛いかと冷やかす。
すると教授は首を振って、昔を思い出すのだと語った。
ティーンエイジの頃、大学の友人と殴りあい寸前まで論争したことを思い出したのだ。
「教授にもそんな血気盛んな時があったんですねぇ」
断りを入れてから煙草に火をつけた青年がしみじみと言う。
教授はそれには答えず、尚も言い争い続けている二人の少女を優しい眼差しで見つめた。
「おやおや、今度は身だしなみについてですよ。女なのだからそんなボサボサ髪じゃいけないとドイツ娘が言ってます」
「ほほう、では学問と身だしなみには関係ないとでも言い返しているかね?」
「いえいえ、なんと。あなたの胸は大きくないとはっきり言い切りましたよ、日本の少女が」
「ふむ、それでドイツ娘はかんかんになっているのだね」
遠巻きに見ているギャラリーの中に日本語を解する者がいるとは考えもせずに、日本とドイツの少女は口喧嘩を続けていた。
二人とも顔を真っ赤にして口論をし、やがて日本の少女がドイツ娘の手から本を奪い取ると憤然としてその場を去った。
ドイツの少女はその後姿を見送ると肩をすくめて、彼女もカフェテラスから出て行く。
騒音の音源がなくなったので、カフェテラスは一瞬静寂に包まれ、そして数秒後に日頃のざわめきを取り戻したのである。
その間にチャン青年は教授のためにコーヒーを用意していた。
教授は微笑を残したまま、先ほどの椅子に座り青年から紙コップを受け取った。
「はい、砂糖大盛り、ミルク最大限です。よく飲めますね、こんな甘ったるいものが」
「君のブラックこそ、私には理解不能だよ」
教授はありがとうと言い、コップに口をつける。
「そこで聞いたのですが、あのドイツ娘は帰国するらしいですね、明日。だから苛立っていたんじゃないですか?」
「ほう、来たばかりというのにかね」
「ええ、所属している大学の研究所に問題が起きたそうですよ。帰ってこいというからには彼女はかなり重要なポストにいるのかもしれません。
しかしこのセミナーは観光も兼ねてますからね。国に戻るのは腹立たしいでしょう。だから…」
「それは違うんじゃないかな…」
教授は優しい声音で言った。
青年は不思議に思い、何故かと訊いた。
「日本の少女を見送る時の表情を見なかったかね。寂しそうだったよ。もっと会話をしたかったような感じだった」
「会話?喧嘩じゃないんですか?好戦的な性格をしているからもっと口喧嘩を続けたかったということ…」
「違うよ、チャンくん。あのドイツ娘は日本の少女と仲良くなりたかったのだよ」
「仲良く?まさか」
どう見ても喧嘩を売っていたではないですかとチャン青年は笑い出した。
そんな彼に教授は思い出してごらんと言う。
君もかつては天才少年と言われた日々があっただろう、と。
「そういえばそんな頃もありましたねぇ。今はただの大学院生ですが」
「そんなに謙遜することはない。君の未来は明るいよ」
「教授は占いもするんですか?まあ、いいです。かつての天才少年に何か御用でしょうか」
「人付き合いは巧い方だったかな?」
問われた青年は苦笑した。
「駄目でしたね。大人相手には悪くなかったとは思いますが…」
「だろうね。同年代の中では存在が浮くというものだ。特に子供のうちはね」
青年は教授を見つめた。
思えば教授の歳はいかほどだったか。
確か七十歳は軽く超えていたはずだ。
1945年からこの大学で教授を務めている彼はどれほどの数の天才少年や少女たちを見てきたのか。
おそらくそれは何千人という単位になるだろう。
自分もその中の一人。
チャン青年が香港で天才少年と言われアメリカ留学を決意したのは12歳の時だった。
希望の地アメリカに到着した彼は寮に入ったがすぐには馴染めなかったのだ。
大人たちには君と同じ天才の子供ばかりがいるからすぐに仲良くなれると言われていた。
彼もそう思い込んでいたのだが、それが巧くいかない。
同じ東洋系の少年もいる。彼も英語をずっと喋ってきているから会話に不自由はない。
それなのに最初の一言が口から出てこないのだ。
大人相手には何でも喋ることができるのに同じ年頃の者にはつい怖気づいてしまう。
香港にいた時はレベルの違う相手と喋る話題が何もなかった。
秀才たちを見下していた部分がなかったとは決して言えない。
自分だけが天才だとまだ10歳にもならないうちから自負してきていたのである。
ところがアメリカに渡ると、天才少年はごろごろいるではないか。
実際はそこに集められてきたのだから彼のいる場所にだけごろごろしていたのだが、チャン少年はその現実に畏怖した。
特別な存在だと認識していた自分のアイデンティティが崩壊したわけだ。
見下すのでも、見上げるのでもない、対等な立場での会話がこんなに難しいものとは思わなかった。
しかし、幸運にも少年はそこで潰されはしなかったのだ。
チャン青年は苦笑した。
「思い出しました。あの時、香港から来たならブルース・リーの真似をしろといきなり言われて殴り合いの喧嘩になったんですよ」
「なるほど、道化になることもなく、黙殺するでもなく、からかいを受けて立ったということだね」
「そのようです。無意識にしたことですが…、どうやら良い選択をしたみたいですね」
「その喧嘩の相手はどうしたかね」
「ジムですか。マサチューセッツに行きましたよ。ばりばりやってるようです」
但しそれは女性関係の方ですが、とチャン青年は笑った。
無二の親友とまではいかないまでもそれなりに今でも付き合いはある。
彼と殴り合いをした後で周囲との距離感がおぼろげに見えてきた。
すぐにではなかったが、3ヶ月もすれば普通に会話ができるようになったのである。
「これは私の勘だがね」
「勘ですか」
「そう、勘。ドイツの娘は日本の少女のことを考えて声をかけたのだろうよ」
「考えて…ということは、つまり彼女が孤立しているように見えての」
「お節介だな。簡単に言うと」
にやりと笑う教授を見て青年は快活に笑った。
「随分と乱暴なお節介ですね。普通に声をかければいいものを」
「だから彼女も孤独な天才少女だったんだろうよ。同世代との話が巧くできないというかつての君たちの仲間だ」
「なるほど。しかし、珍しいですね。白人の娘が…」
青年はあの日自分にニヤニヤ笑いながら近づいてきた真っ黒な顔を思い出した。
思えば黒人と話をしたのはあれが初めてだったではないか。
現在の彼の立場ではそんなことは少なくなったが、アメリカに渡った当初は白人と有色人種の間にそれなりの壁を感じたものだ。
今でも肌の色や国籍の違いというものは天才少年少女たちの中で自然なグループ分けの要因となっている。
「おいおい、君。彼女は日本語で話しかけているんだよ。それに彼女の名前は“Soryu”という。オリエンタルな響きがしないかね?」
「そうか。そうでした。私は日本語を聞き取っていたんでしたよね」
青年は苦笑した。
うっかりすると何語を喋っていたのかを忘れてしまう時もある。
「相変わらず教授はよく見てますね。ドイツ娘の名前もチェックしていたんですか?」
悪戯っぽく言うと、教授はくつくつと笑った。
「私が興味のあるのは人間そのものだよ。人間観察ほど面白いものはない」
天才少年たちが大挙してこのゲストハウスに来た時、鞄のネームプレートに何語ともわからない名前のアルファベットがあったので、誰が取りに来るのか見ていたらしい。
暇なんですねとからかうと、それが私の仕事なんだよとにやにや笑われた。
この名物教授の部屋は工学部には当然ない。
だが、彼は大学内のあらゆる場所に姿を現す。
そして興味を持つとだれかれ構わず声をかけるのだ。
教授、学生に留まらず、出入りの業者や賄い婦にまで話しかける。
毎日こんなことをしていていいのだろうかと不思議に思うほどだ。
しかし学内をのんびりとクラシックを鼻歌にして歩く姿はこの大学の名物である。
逆に声をかけられないということは人間的につまらないというレッテルが貼られてしまうという怖さもあった。
そういう意味では自分のどこが面白いのだろうかと、チャン青年は思っている。
だが研究室の恩師にはあの教授に話しかけられるほどだから見込みがあるようだと変な期待をかけられているのだ。
自分にはわからないものがどこかにあるのかもしれない、と青年は消極的に自信を持って納得することにしている。
「では、ドイツ娘は置き土産に日本の少女を快活にしてあげたということですかね」
「さあ、どうか。もしかすると君が言っていたように腹立ちをぶつけていたのかもしれんよ」
「教授…」
青年は苦笑した。
話をまぜこぜにしてしまう教授のやり口には慣れているが、それでもどこか脱力してしまう。
「どうかな。徹夜明けの身体が軽くなったかね」
「はは、相変わらずですね。お見通しでしたか。いや、ありがとうございます。眠気が覚めました」
「それはよかった。では、また」
教授は冷めてしまったコーヒーを飲み干すと紙コップを手に立ち上がった。
一礼するチャン青年に向かって微笑むと、彼はふらりと歩いていく。
次の観察対象を探しに行ったのかどうか。
徹夜明けだということをどうして見抜いたのかは訊く気もしなかった。
訊けばワトソンのような気持ちになるだけだからだ。
香港にいた時は推理小説など見向きもしなかったのだが、アメリカに来てからノンフィクションも読むようになった。
周りの人間が意外にも専門書以外も読んでいることに驚いたのだ。
勇気を持って訊いてみると(当然喧嘩の後だ)、それくらいの余裕がないといい仕事(学問ではない)はできないと言われた。
そして、それは口実で面白いからに決まってるだろうと明るく笑われたのだ。
専門書が面白ければそればかり読んでいてもいいじゃないかとも別の人間から聞き、まさしく目から鱗が取れたような気持ちになったのだ。
そのうちに青年が愛読するようになったのが推理小説だった。
ハードボイルドではなく本格派の方だ。
彼は喧騒がなくなったカフェテラスの一角を見つめた。
日本の少女もドイツ娘もそこにはもういない。
彼は教授と同じように紙コップを飲み干すと立ち上がった。
徹夜で書き上げたレポートを読み直さないといけない。
きっと何箇所かスペルを間違っていることだろう。
背筋を伸ばすとこくんと背骨が小さく鳴った。
その翌日のことだ。
碇ユイはカフェテラスに到着するとすぐに彼女を探した。
しかし名前も知らないあのドイツから来た自称天才少女はどこにもいなかった。
ユイは軽く溜息を吐くとポケットから本を出す。
昨日のあの本だ。
さあ来なさい、ドイツ娘。
ユイはページをめくった。
理論がどうこうではなく、その理論を導き出すまでの研究者たちの悪戦苦闘が描かれている、この本が彼女は大好きだったのだ。
だからその理論自体が古臭いものであろうがどうでもよいのである。
それが餌のつもりだったが、次第に彼女は本の世界に引き込まれていった。
その餌に食いつきたくても不可能だった。
何故ならその時、ドイツ娘はすでに機上の人となっていたからである。
惣流・キョウコ・ツェッペリンはハンドバックからドイツ語で書かれた本を取り出した。
それは何度も読まれているようで随分とくたびれてきている。
その本の題名を日本語に訳すと、それは日本の少女が読んでいたものと同じになる。
彼女は不敵に笑った。
この本を好きだなんて、けっこうあの娘やるじゃない。
でも可哀相にねぇ。あの子、日本にいる限り大学になかなか入れないんだもの。
とっとと海外流出すればいいのに。
もしかしたら、家族か何かの関係で日本に留まる必要があるのかも…。
ま、いいわ。いくら考えても仕方がないもの。
キョウコは本のページを開いた。
飛行機が大西洋に出ても、キョウコは本に没頭していた。
もう何百回も読み返しているが、飽きる気持ちなどまるで起きない。
ユイは本を閉じた。
講義が始まるまで後10分だ。
今日は来ないのかしら…。
彼女は立ち上がり、そして窓ガラスに映る自分と顔を合わせる。
首を僅かに曲げたり傾けたりして、自分の髪型を確かめた。
昨日のボサボサ頭と違って、今日はしっかり髪を梳いてきている。
せっかく……と、心の中で呟き、そしてユイは小さく息を吐いた。
さて、しっかり講義を拝聴しますか。
教室に歩み寄ったとき、扉から出てきた金髪の少女とぶつかりかけたユイは英語で「ごめんなさいね」と言ってにっこり笑った。
よしっ。
ユイは心で誓う。
この後ずっと英語で通してやる。
そして次にあのドイツ娘と顔を合わした日には英語で喋ってやるのだ。
私だって日本が誇る天才少女なんだから。
キョウコは夢を見ていた。
とても不思議な夢だった。
奇妙な怪物を相手に戦っている夢だ。
なんと自分はロボットだか何だかわけのわからないもので、似た感じのもう一体と一緒に戦っているのだ。
紫色のもう一体と息をぴったり合わせて、最後には怪物をやっつける。
キョウコは隣に立つもう一体に話しかけた。
アンタ、なかなかやるじゃない。見直したわ。
人間にはとても見えない姿だというのに、キョウコにはそれが誰だか承知していた。
あの日本娘だ。
そこで夢が覚めた。
彼女は苦笑した。
まるで子供が見るような夢ではないか。
しかし、結構面白かった。
それにあの娘……。
その時点でようやくキョウコは気がついた。
あの日本人の娘の名前を聞きそびれてしまったことを。
まあ、いい。
いずれ、何年かすれば…。
有名な科学雑誌に写真つきで紹介されることだろう。
別に有名になりたいとは思わないが、自分の欲する道を進んでいけば自ずと著名になってしまうだろう。
私もあの娘も超天才だし、それに美人だしね。
そうなると互いの名前を知る時が来る筈。
その時までのお楽しみ、ってことね。
キョウコは胸元に開いたままにしてあった本を閉じた。
ドイツに帰ったら普通の本を読んでみようかしら…。
「しっかし、ホンマに驚いたのう」
「ああ、綾波があんなに喋るのを初めて聞いたぜ。もしかすると学校以外ではそうなのか?」
相田ケンスケに問われたシンジはとんでもないと首を横に振った。
彼もあんな様子のレイをはじめて見たのである。
「さすがの惣流もいつもの調子が出えへんみたいやったな」
「俺なんて取っ組み合いが始まるかと思ったぜ」
それはシンジも同じだった。
本をレイから取り上げたところまではいつものアスカだった。
何読んでんのよ、と偉そうな口調で言った彼女はカバーされた本をめくり、その題名を見て数秒黙り込んだのだ。
すると立ち上がったレイがアスカから本を取り返した。
そこで無表情のまままた椅子に座るのかと思えば、あの無口なレイが口を開いたのだ。
酷いことするわね。何様のつもり?この本は大事な本なの。邪魔しないでくれるかしら。
文章にするとたったの一行だが、あのレイがこれだけ喋ったのである。
教室にいた生徒たちが唖然としたのは当然だろう。
だからアスカも黙り込んだのはそれと同じ理由だとみんな思い込んだのだ。
ようやく彼女が返した言葉は悪態ではなかった。
その本、誰に貰ったの。
アスカの質問にレイはぽつりと「司令」とだけ答えた。
ああ、いつもの彼女だと思ったのも束の間だった。
アスカが何とか自分のペースを取り戻そうとしたのか、顔をこわばらせたままだったが言葉を売ろうと試みたのだ。
ずいぶんと古臭い本よね、そんな理論はもう過去のものよ。
すると、なんとレイがその言葉を買ったのである。
二人は討論を始めた。
やがて昼休み終了の予鈴が鳴り、本鈴が鳴ってもなお議論は窓際で続いた。
しかしながら、その議論はシンジにも、いや生徒たちの誰にも理解できなかったのである。
何故なら物理だか化学だかの理論が問題になっていて、横文字は飛び交うは、日本語が出てきても意味不明だったりという状態だったのだ。
5時間目の担当教師が教室に入ってきても二人は言葉を止めない。
生徒たちも自分の席に着席せずに遠巻きにしているだけだ。
何度か洞木ヒカリが止めに入ったのだが、アスカもレイも聞く耳を持たない。
入ってきた教師にヒカリは謝ったのだが、教師自身呆気に取られてしまったのだ。
彼は理科の教師だったので、トウジに意味わかりますか?と訊かれたのだが、恥も外聞もなく彼は首を横に振った。
あまりに専門的過ぎると。
そして彼は生徒の個人情報を漏らしてしまったのである。
アスカは大学を卒業しているからわかるのだが、レイの方がこんなに頭がいいとはみな思っていなかったわけだ。
そんなことを口にしたトウジたちに教師は「綾波は理科の点数は満点だ」と言ってしまったのだ。
しかしそれでもこんな専門的な論争ができるほどとは…と、教師は舌を巻いていた。
結局その論争には決着がつかなかった。
扉が開けっ放しだったので、通りかかった学年主任が一喝して二人の論争を止めたのである。
ついでに理科の教師も目玉を食らってしまったが。
そして、放課後になるとアスカはさっさと帰っていったのである。
実は論争が終わってから、アスカとレイは一度も言葉を発していない。
触らぬ神に祟りなしとばかりにシンジも彼女に声をかけなかった。
アスカが出て行く後姿をいつもの無表情で見送るとレイもさっさと教室を出て行ったのだ。
そして、三馬鹿と称される三人がこうして教室で話をしているのである。
「せやけど、センセ。大変やなぁ。帰ったら、家ん中凄いことになってるんとちゃうか」
「ああ、足の踏み場もないくらい割れた皿が散乱しているとか、壁に悪口をスプレーで落書きしているとか」
「まさか…」
苦笑で否定はしたものの、可能性までは否定できないシンジだった。
彼は内心びくびくしながら帰宅したのである。
マンションが視界に入って、まず一度足を止めて溜息ひとつ。
後は数歩ごとに溜息を漏らし、エントランスでがっくりと肩を落とし大きな溜息をもう一度。
エレベーターの前でも一度ならず二度三度。
箱の中に入っても、扉が開くまでにも、廊下を歩きながらも、溜息ばかり。
そして、葛城家の扉の前に立ち、とっておきの盛大な溜息をひとつ。
本人は数える気もないのでわからないであろうが、わずか5分の間に溜息の数は72回を数えた。
恐るべきことに4秒とちょっとの間に一度の溜息である。
そんなに帰りたくなければどこかに寄り道でもすればよいものを真っ直ぐ帰宅するところが彼の彼たる所以だろう。
律儀というか、融通が利かないというか。
彼はいつもの言葉を吐き、自分を奮い立たせる。
「逃げちゃ駄目だ」
シンジは73度目の溜息を漏らしてから、カードキーを通した。
ぷしゅぅっという空気音と共に扉が開く。
中から涼しげな微風がシンジの頬に当たった。
アスカの靴を確認するまでもなく、彼女が帰ってきているのはこのエアコンの風が教えてくれる。
「ただいま…」
小さな声で帰宅の挨拶をしてからシンジは靴を脱いだ。
その時、彼は思わず「あれ…?」と小さく声を漏らした。
いつもならば脱ぎ散らかされているアスカの靴がきちんと揃えられている。
揃えるのは機嫌のいいときのシンジの役目だった。
もしそのまま放っておいてもアスカから噛みつかれる事もないので、いつも彼が揃えているわけではない。
だが、彼が手を出さない限り、アスカの靴は散らばったままなのである。
それが今日はきちんと揃えられていた。
シンジにはそれが何かしら不吉なことのように思える。
まるで断崖絶壁に揃えられた自殺者の靴のように感じたのだ。
彼は慌てて中に入っていくと、リビングには人影はない。
トウジやケンスケが面白おかしく言っていた様な惨状の欠片もそこには見えない。
寧ろ綺麗に整頓されている方だ。
ここ3日ばかりミサトが帰って来ていない所為かもしれない。
とりあえず鞄を置いてこようと自室に向かったシンジは、“ジェリコの壁”が開いているのを見た。
中を覗くつもりはなかったがアスカが机に向かっている後姿が目に入る。
シンジはほっと溜息を吐いた。
その溜息は74度目にはカウントされない。
何故ならば、その性質がまるで違うものだからだ。
彼はアスカに声をかけようとし、思いとどまった。
角度を変えて見れば、彼女が本を読んでいるのが見えたのである。
学校でのレイのように読書の邪魔をされて不機嫌になられてはたまらない。
向き足差し足忍び足。
シンジは静かに自分の部屋に向かった。
彼は思い出したのだ。
昨日の夜、彼女に本を読んでいるのを見た事がないといったことを。
その結果、アスカが大いに不機嫌になったことも。
もしかすると、今日彼女がレイの読書の邪魔をしたのもその影響かもしれない。
最上級の気を利かせたシンジは自室に入ると自分も静かに…読書でもしようかと思ったが彼も本を持っていないことに気がついた。
この家には雑誌類しかない。
ミサトさんは活字が嫌いなのかなぁ…。
そんなことを思いながら、彼は鞄から宿題を取り出すのだった。
アスカはすっかり本に夢中になっていた。
ドイツ語で書かれたその本は随分とくたびれている。
しかし、彼女はその本を手放す気も買い替える気もない。
何故なら、アスカにとってその本は唯一無二のものなのだ。
母の形見。
中身はすべてドイツ語なのに、何故か裏表紙をめくったところに日本語で名前が書かれている。
惣流・キョウコ・ツェッペリン、と。
何故、その本の日本語版をレイが持っていたのか。
偶然なのか、何か理由があるのか。
学校からの帰り道、ずっと考えてきたがアスカにはまったくわからなかった。
あの本は布製のカバーを纏っていたが、アスカの本と同様に結構の年代モノだった様な気がする。
レイは司令から貰ったと言っていたが、司令があんな本を読んでいたのだろうか。
それはどうも彼の雰囲気に似合わないような気がする。
そんなことを考えながら帰宅し、机の引き出しに閉まっていた本を取り出すと疑問は頭からいなくなってしまった。
久しぶりに読む本に引き込まれていったのだ。
その頃、レイはシャワーから出てくるといつものようにバスタオルを首に引っ掛けただけの裸のままで部屋の中を移動していた。
そしてひび割れた鏡の中の自分の顔を見て瞬きをする。
瞬間、誰かの言葉が頭の中にひらめいたのだ。
女の子なのだから髪の毛くらいセットしないと。そんなボサボサ頭じゃ駄目ね。
その声はレイの知っている誰の声でもなかった。
彼女はそっと自分の髪を撫でた。
どこで聞いたのだろうか。
弐号機パイロットの声に似ているような気もしたが、それは口調だけで声音はまるで違う。
いったい誰なのだろうか。
レイは微かに首を傾げると考えることをやめた。
まずは下着を着けよう。
飲み物はそれからだ。
いつかのように碇シンジが入ってくれば困る。
自分は困らないが、彼が困る。
それは以前に学習した。
レイは下着を取りにベッドサイドに向かった。
その途中、チェストの上には割れた眼鏡とそして本が無造作に置かれていた。
布製のカバーをつけたまま碇ゲンドウに渡されたものだが、そのカバーをめくってみるという発想はレイにはなかった。
もし、カバーに隠された裏表紙を見たならば、綾波レイは何を思っただろうか。
日本語と後から書き加えられた英語の2つの言語で書かれた、碇ユイという名前を目にしてどんなことを思うのか。
そして、裏表紙のさらに裏側、ゲンドウも気がつかなかった場所に小さな文字で書かれ、そして消しゴムで消された文章が見えたならば…。
そこにはこう書かれていたのだ。
惣流・キョ〜コ・ゼッペリンの馬鹿やろ〜!
あなたになんか負けないんだから
それは京都の私立高校に入る直前、憤懣のあまりに書き込んだものだった。
中学の頃から出入りを認められていた京都大学の図書館で、アメリカから取り寄せた科学雑誌を読んでいるうちにあの少女の写真を見つけた。
美しい白衣の娘は朗らかに笑い、その彼女がドイツの生物工学分野のエースだと書かれている。
その写真は“Soryu Kyoko Zeppelin”という名前の女性だと紹介されていた。
“Soryu”はともかく“Kyoko”は日本人以外の名前であろうわけがない。
畜生、日系人だったんじゃないの。
しかももう大学をとっくに卒業してるんですって?
こっちはようやく高校だっていうのに!
日本の教育制度の馬鹿野郎!
ユイは腹立ち紛れにあの本のカバーの裏に書き込んだのだ。
ツェッペリンをわざわざ読み間違えた風に書いたところなどまるで子供のようである。
そして、その4年後後にユイは消しゴムでその悪態と決意を消した。
恋人に買ってもらった布製のカバーをくたびれた本にかけた時に、大人気ないと恥ずかしく思ったのである。
その本を今、綾波レイが手にしている。
ゲンドウに渡されたからというそれだけの理由で読んだのだが、今はもうその本を読むことが楽しみとなっている。
そのことに気がついているのはゲンドウその人だけだった。
かつて、その本をユイが読んでいるときに浮かべていた、微かな笑みをレイも浮かべていることを見たのだ。
誰も気づきはしない、微かな、本当に微かな笑みを。
アスカは本を閉じた。
すっかり満足した彼女はふと思う。
もしかするとこの本を読んでいるのだから、あの優等生は悪いヤツではないのかも…。
ぶるぶるぶるっ。
アスカは大きく首を横に振った。
とんでもない。
この私に逆らおうだなんて100万年早いのよっ。
まっ、楽しかったけどさ。
あんな感じで話が…半分喧嘩みたいだったけど、やり取りができるなんて、夢…ううん、嘘みたい。
案外面白かったってことは否定しないわよ。
馬鹿シンジ相手にはまったく話は通じないだろうし…。
リツコなら大丈夫だけど、あんな感じで話はできっこないもんね。
この天才美少女アスカ様と対等に話をしようなんて、優等生も生意気よねぇ…。
そこまで考えた時、腹がきゅうと小さく鳴り、彼女は顔を赤らめた。
時計を見るともう8時ではないか。
彼女は母の形見を引き出しの中に丁寧に仕舞うと、すっくと立ち上がった。
そして、斜め上45度の角度で首を傾け、大声を上げた。
「ばぁかシンジっ?ご飯まだぁ?」
彼女の予定ではどたばた慌てて何だかんだと言い訳するシンジをどやし付けるつもりだった。
しかし、彼は想定外の言葉を返してきたのだ。
「できてるよっ。スープ温めなおすね」
シンジの返事を聞き、アスカは一瞬きょとんとする。
読書に夢中になっていた彼女は、時々彼がこっそりと様子を窺いに来ていた事に気がついてなかったのである。
自分でもわからなかったのだが、そんな彼女の姿を見ていると何故か優しい気持ちになり、いつもよりもきちんとした食事をシンジは作った。
静かに玄関を出て、近くのスーパーで簡単にできる煮込みハンバーグセットというものを買ってきたのだ。
日頃インスタントや出来合いで済ませる彼としては清水の舞台から飛び降りるクラスの冒険である。
サラダは出来合いで、スープはインスタントだが牛乳を加えて作るものだ。
シンジにとってはかなり力を入れて作った夕食であろう。
しかし、何故そんな夕食を作る気になったのかはまったくわからない。
もちろん読書している間にシンジがそんな事をしていたとアスカにわかる筈もない。
生き生きとしたシンジの言葉に彼女は複雑な表情を瞬間浮かべ、そしてにんまりと笑った。
よくわからないが、空腹の時に食事がすぐにあるというのは幸福この上ないことではないか。
アスカは声を張り上げた。
「早くしてよっ!お腹空いてるんだからっ」
お腹は空いているが、心は満腹である。
本を読むのもたまにはいいものね。
開けっ放しになっていた“ジェリコの壁”をアスカは満足気に通過した。
わぁ、いい匂い!ハンバーグ?シチュー?あ、スープって言ってたからシチューはなしよね。
キッチンから漂ってくる匂いに誘われ、アスカは小走りにリビングへ向かった。
「アスカ、来なさい。お昼ごはんよ」
「うぅ〜、もうちょっと」
「駄目よ、食べ終わってから読みなさい」
「ぐふぅ」
「本は逃げないわよ。温かい間に食べなさい。アスカの大好きなハンバーグよ」
その言葉を聞くとアスカは大きな絵本を放り出してばたばたとテーブルに走った。
そして幼児用の背の高い椅子によじ登るようにして腰掛ける。
目の前にあるハンバーグやサラダを目にして瞳を輝かせた。
「わあっ、いただきます!」
フォークを手にしてまず好物のハンバーグに取り組む娘を見て、キョウコは幸福そうに微笑んだ。
「今日もママは遅いからね。先に寝てなさい」
「ごほんよんでまってるっ」
「駄目。ちゃんとベッドに入ってなさい」
毎度リビングのソファーで絵本を手に眠ってしまうそうだ。
夫からその話を聞いているキョウコはいつも娘を叱るのだが、アスカはその習慣を改めない。
あと30分ほどでベビーシッターが来るので、彼女と入れ替わりにキョウコは研究所に出る。
愛する娘の食事する姿を楽しみながら、キョウコはさっさと自分の食事を済ませた。
じろじろ見るのも拙いかと、キョウコは傍らに置いていた本を手にした。
やがて食べ終わったアスカは「ごちそうさまでした!」とにこやかに笑う。
そして母親が本を読んでいる姿を見て、幼女は思ったことをそのまま声にした。
「ママ、それおもしろい?」
「ええ、凄く面白いわよ。ママの愛読書だもの」
「あいどくしょってなぁに?」
「大好きなご本ってこと」
「ふぅ〜ん。それじゃ、アスカもあいどくしょをよむ!」
「ふふふ、アスカにはまだ無理よ」
「むりじゃないもん!」
「駄目。そうね、10歳くらいになったら読めるかな?」
自分の娘ならこの大人向けの本でもそれくらいの歳で読めるだろう。
彼女もそうだったのだから。
「ぐふぅ〜、10さいってあしたになる?」
「あと7年よ」
「7ねんって…らいしゅ〜くらい?」
「2500回くらい眠らないと駄目ね。お昼寝抜きで」
アスカは不満気に唇を尖らせた。
「アスカが読めるようになったら、この本あげるわよ」
「ホントっ?」
「本当。約束するわ」
「やくそく、やくそく!」
アスカは母親が手にする本を見つめた。
いつの日かその本を読みたいと3歳の彼女は心から願う。
そしてその本が“あいどくしょ”という大好きな本になるようにも、と。
いつしかこの時の記憶は思い出の中に埋没してしまうのだが、現在14歳の彼女は母の形見となったこの本を楽しんで読んでいる。
但し、愛読書であるかどうかはアスカにはまだわからない。
ただ、シンジの作ったハンバーグを食べるうちに胸の奥の方が温かくなり、何か懐かしい思いに包まれたことを彼女は知った。
それが母との記憶というところまでは思い出せなかったが。
しかし、この日から、アスカはシンジの作ったハンバーグが大好物になったことだけは確かだ。
形は不揃いでところどころ焦げていたが、彼女は充分美味しいと思ったのである。
この時彼は彼女に美味しいと褒められて、心の底から嬉しく思ったことを素直に受け入れていた。
さらに驚いたことには、明日は自分が食事を作るとアスカが言い出したのだ。
これは同居してから初めてのことである。
シンジは願った。
彼女の気が変らないことを。
そしてもうひとつ。
できれば、その料理が不味くありませんように、とも。
第一章 − 了 −