【作者註】

この作品では既存の小説に関する描写があります。
 もしその小説が未読でネタバレ回避されたいと思う方はお読みにならないでください。




本を読む娘たち

エピローグ

− 未 来 −


ジュン





時は流れて、西暦2038年。
使徒戦もはるか昔の出来事として歴史の一部となりかけていた。
テロや内戦はなくなったとはいえないものの、セカンドインパクト以前とは明らかに激減している。
おそらくはセカンドインパクト、使徒戦と続いた災厄による人口減少と、そしてなによりもサードインパクトの影響だろう。
一度は赤い海の中で融合した人類が再び実体を現すまでの“空白の一週間”と名づけられた時間。
その間に何があったのか、文字通り神のみぞ知るということであろう。
人間の身体を有して復活した者たちは一様にその間の記憶を持っていない。
ただ、人として生きていくことにより幸福感を覚え、さらに科学の進歩や利便性を追求することに積極的でなくなったのは間違いない。
企業や研究機関は、人類の知的停滞として警鐘を鳴らしたが、現在のところその煽りにはほとんどの人間が同調していなかった。
サードインパクトの影響で闘争心などといった種類の感情が欠如したのだと主張する者もいるが、オリンピックなどのスポーツでの民衆の熱狂振りを見ているとそうとも言えないだろう。
それに、この知的停滞により地球の、そして人類の種としての寿命も延びたのではないかという思いの方に皆は賛同したのである。
この時、地球人口は8億人足らず。
地軸がセカンドインパクト以前に戻り、荒廃した自然も甦ってきている。
そのような街のひとつミュンヘンの郊外にある、こざっぱりとした家に住む一家の様子をしばし見てみよう。

 

「おぉ〜い、手紙が届いてるよ」

ここはドイツではあるが、その声はドイツ語ではない。
この家では時としてドイツ語に日本語が混じることがある。
そのきっかけは明確ではない。
時としてまきおこる夫婦喧嘩や親子喧嘩でさえどちらの言語も使用されている。
書架に置かれた多くの本もドイツ語に日本語、それに英語のものも混じっていた。
そもそも家の門扉に周囲ではあまり見られない表札というものが掲げられていてそこには日本語の文字が黒々と記されている。
そこに書かれている二つの文字を“そうりゅう”と読むことを近所の面々は知ってはいるが誰も書くことはできない。
読むことと喋ることは生粋の日本人並みのこの家の主婦が苦手な書きかたでしかも筆で一気に書いたのだからたまらない。
独特の味わいのある、漢字らしき二文字が並んでいるのだとしか日本人であっても解読が困難なのだ。
その文字が“惣流”と聞いてはじめて、ああなるほどと頷く始末。
しかしながら笑いの種になっているにもかかわらず、惣流アスカは書き直しをしようとはしない。
これでいいのよ、と嘯いている。
彼女の夫が僕が書き直そうかと申し出たところ、散々噛み付かれた。
その後この時の彼女の罵詈雑言をよく吟味してみるとこういう解釈に落ち着いた。
彼女の代で途絶えるはずだった“惣流”の名前を碇シンジが婿入りすることで存続させてくれてありがとう、その感謝の気持ちを表札に込めたのであって、その表札までを彼が書き直すということは“惣流”の家を碇の人間が乗っ取るということではないか、それは許さん、絶対に許さん、でもありがとう。
どうもこういうことらしい。
そして、惣流の名前を世界に広めるのだと子沢山を目指したアスカだったが、一姫、二姫、三姫と続き、数年間のブランクを経てようやく四太郎が誕生したのはほんの半年前のことだ。
今や一姫はすでに14歳になろうとしていた。
その長女からの手紙が届いたのだと惣流シンジは相好を崩しているのである。
しかし、妻の方は素気無い言葉を返してきただけだ。

「あ、そ」

「なんだよ、それは。せっかく日本から送ってきたんだよ。もっと驚いて喜ばなきゃ」

「あなたが仕事に行っている間に郵便屋さんが持ってきてくれて私が受け取ったの。だから驚きもしないわよ。
私があなたのデスクに置いといたのだもの」

「でも、うれしくないかい?」

「何言ってるの。ずっと日本にいるわけじゃあるまいし。まだ3週間も経ってないじゃない。
しかも私宛じゃないもの。あ、でも、誤解しないでよ。拗ねてるんじゃないから、ねぇ、カール?」

アスカは腕の中ですやすやと眠る長男に囁いた。

「拗ねてるんじゃないんだ」

「しつこいわね、相変わらず。ねちねちと。あなた、妹の爪の垢でもせんじて飲めば?
レイって、さっぱりした性格しているじゃないの。誰かさんと違って。あなたって父親似だったわけ?」

「に、似てないよ」

「どうかしら?髭つけて、サングラスかけて、問題ないとかぶつぶつ言ったらそっくりじゃないの?」

シンジはあからさまに嫌な顔をした。
だが、それが彼のポーズであることを妻はよく承知している。
ゼーレと渡り合い、使徒戦を乗り切り、今の幸福へ導いてくれた男。
彼の本来の目的がそうではなかったことをサードインパクトの10年以上後になって元チルドレンたちは知った。
一度だけ、シンジは父親に尋ねたことがある。
その事実を知ってずっと質問したかったのだが、答が怖くて口にできなかったのだ。



惣流家の三女が生まれた頃、孫の顔を見にドイツを訪れた碇ゲンドウとシンジは二人で散歩に赴いたのである。
夕陽に染まった町並みの中、日本人の親子は黙ったまま足を進めた。
どこへ行くとも決めずに歩いた二人はとある墓地にある遊歩道のベンチに腰をかける。
しばらくは父親は茜色の空を息子は見も知らぬ墓標を見つめていた。
そして、シンジがぼそりと口を開いた。

「タバコ、本当にやめたんだね」

そんな言葉を吐いたシンジはどうしてこういう問いかけをしたのかと自問自答する。
彼にそのような暇を与えたのは、現在の彼の父親はほとんど即答することがないからだ。
「問題ない」「知らん」「帰れ」などといった鰾膠もない切り返しの言葉を投げつけてきた使徒戦の頃とは違う。
ゲンドウは顎をこころもち上げたまま目を細めた。
柔らかい朱を含んだ雲は微動だにせず、緩やかに流れる時をそのままに示しているようだ。

「ふん。いつの話だ。そんなものはもう…」

そこでゲンドウは言葉を切った。
禁煙したのはいつの頃だったか。
そう、あれは…。

「知ってる。もう14年になるね」

ゲンドウは声にせずに口の中で「ほう…」と呟いた。
妻に迎えたリツコが子供を宿したことがわかった時、彼女は自らタバコを断った。
そしてゲンドウも密かに禁煙を誓ったのだ。
もっとも彼自身は誰にも言わなかったのだが、周囲の者はことごとくそれを知った。
が、彼の性格を慮った人びとはそのことを話題にはしなかったのである。
冬月やミサトでさえ。
そのきっかけとなった胎児はもう中学へ入学する年齢となっている。
もうそろそろシンジたちが使徒戦を経験した年頃だが、幸福なことに彼は所謂“戦争を知らない子供たち”なのだ。
誰に似たのか快活な青年に育っているのは不思議なものである。
知っていたのかという言葉は吐かず、ゲンドウは長男の横顔をちらりと見やった。
シンジはもう立派な大人だ。

そのシンジが煙草の話をしたのにはわけがあった。
それを彼はようやく思い出していた。
ああ、あれだったんだ…。

サードインパクトが終わり、解体するネルフの後始末にかかっていたときのことだ。
エヴァンゲリオンをどうするかという最大の問題が彼らを待っていた。
その解決法をシンジに伝えるためにゲンドウは息子を呼び出した。
それは碇ユイの墓があった場所の跡地にできた墓地。
用途的には昔も今も同じ墓地だが、その趣は大きく違っていた。
あの殺風景過ぎるほどの場所が今は公園墓地として整備されている。
日本にありきたりのそれとは異なり、そこはまさしく自然公園の中に墓地が点在していた。
なにしろ使徒戦のあおりで墓標は倒れ地は抉られ元にあったものがどれがどうと判断できる材料は皆無に近かったのだ。
そして地軸は元に戻ったものの生態系の復旧は困難を極めていたことも手伝い、人の住む以外の場所は自然を主とする考え方が人々の心に萌していたことからこのような場所が増えていたのである。
もっともそのスピードは20世紀の人類によく見られた迅速なものではなく実にゆっくりとしたものであった。
だからこの時も自然と接するために公園を訪れるものは少なく、ささやかな墓標に花を手向ける人々の姿がちらほらと見うけられるだけである。
遺体も骨もない墓がほとんどのこの場所で、ユイの墓に詣でた二人はやがて公園墓地から出た。
シンジは何も言わずに背の高い父の背中を見つめながら歩む。
その背中は明らかに迷っているような感触を息子に与えていた。
1kmばかりも歩いただろうか。
背の高い父親だったが歩幅の割りに歩くスピードはそれほど速くなく、シンジは普通に足を動かしていた。
公園墓地の入り口にはバス停があったが、歩いて1時間ほどの駅までの道を二人は進む。
海沿いの国道は閑静なものであった。
しばらくは民家も商店もないようで時折走り去る車の存在がなければ、この世の中に自分たちだけしかいないのではないかという錯覚すら与えかねないほどだ。
波が砕ける音に稀に海鳥の声が混じる。
あとは二人の靴音だけだ。
そして沈黙に耐え切れずにシンジが言葉を発した。

「母さんの、話なんだろ」

「シンジ。飲み物を買ってこい」

足を止め、いきなり振り返ったゲンドウはポケットから1000円札を出した。
見れば数メートルほど先の道の脇に自動販売機が鎮座している。
バス停がぽつんと立っているのだが、こんな場所で利用者がいるものかどうか。
ともあれバス停の横に1台だけ自動販売機があり、その少し向こうにわずかな石段を上った台座のようなものが見える人工の施設が見えた。
ゲンドウはそこを目指して足を進め、シンジは自動販売機のところに一人取り残される。
何がいいのかと問えば、コーヒーなら何でも良いとゲンドウとしてはわかりやすい言葉だけが歩き続ける背中から返ってきた。
それでもシンジとしてはぶつぶつと文句を口にせずにはいられない。
もっとはっきり言ってくれないとわからないよと小さく呟く彼の頭には愛する少女の姿がはっきりと映っていた。
あの高慢で自己中心的で唯我独尊を絵に描いたような少女ならばはっきりこれだとリクエストするだろう。
もしくは何も言わずにこれじゃないと買ってきた飲み物にわざといちゃもんをつけるか。
いずれにしても、それはまるで戯れているようにしか周囲には見えない。
そして心を通わせるようになった彼らにとってはそういうやり取りが楽しくてならなかった。
その少女からシンジはこの日父親から何を言われるのか既に聞いている。
セカンドチルドレンにはもう通知が為されていたのだ。
しかもゲンドウその人からである。
エヴァンゲリオンは永久放棄する。
コアは日本海溝に廃棄し、機体の方は月面に放棄するという形で国連その他との調整がついた。
さらにエヴァンゲリオンに関する研究は永久放棄することも決まり、調印もすでに終わっている。
そのことを告げられた惣流・アスカ・ラングレーは涙を流してなるものかという強い眼差しでこんなことを宣言した。
コアの処分作業に立会い、投棄のボタンは自分とシンジが押す、と。
アスカの主張をゲンドウは即座に認め、シンジには自分が話すと告げたのである。
しかし、その声音の中に弱々しさを感じたアスカは愛する少年へ密かにこのことを話しておこうと決めたのだ。
いざとなれば頼りになる(と信じている)彼だが、やはり弱々しい面は間違いなく持っている。
父親からいきなりこんなことを告げられれば、もしかすると憎しみなどの感情を芽生えさせてしまうかもしれない。
そのような予感がしたアスカはシンジにすべてを告げた。
そしてそれは意外なほどに冷静な態度で受け止められたのである。
シンジとてあの頃の少年のままではない。
わけもわからないままにいきなりエヴァンゲリオンに乗せられて戦わせられた日々とは違うのだ。
エヴァンゲリオンとは何なのか、セカンドインパクトやゼーレ、ネルフの真実を教えられた今、大人にはなっていなくともそれなりの判断はできるようになっているのであった。
だからシンジがアスカとまったく同じ反応を示してもおかしくはない。
いや、同じ境遇の二人だからこそ、同じ答を示して当然だったのだ。
そのことに気がついたアスカだったが、彼女は素知らぬ顔をしてこんなことを言っただけだった。
ふぅ〜ん、アンタって案外大人なのね、と。
その一言で単純な少年が有頂天になるのは計算の上だ。
翌日の放課後、最近お気に入りの店のチョコレートパフェを奢ってもらえたアスカである。
さて、そんなアスカの情報で父親から何を告げられるかを知っていたシンジだった。
そのために彼は精神的に余裕があった。
したがって、なかなか言い出せない父親のことが気になるのだが、さすがに人生経験の浅いシンジは誘い水をどのようにむけていいのかわからない。
そこで何も言えないまま父親の背中を見つめながら歩いていたのだ。
だが、父の強張った背中があまりに辛く見え、思わず声をかけてしまったのである。
しかも誘い水どころではなく、直球ど真ん中の言葉であった。
だからシンジは言ってしまってからしまったと後悔し、ゲンドウから飲み物を買ってこいと言われ心底ほっとしたのだ。
彼は自動販売機にお札を入れ、それからはたと困り果てた。
父はいったいどういう飲み物を好むのであろうか。
コーヒーといっても種類がこんなにあるのだ。
彼はずらりと並んだ缶コーヒーを恨めしげに見渡した。
一緒に暮らしていた頃のそういう記憶は欠片もない。
松代から出てきてからも父親が何を飲んでいたのかまったく気にしていなかった。
何かしらのカップがデスクにあったことは時折見ていたのだが…。
わからない。
銘柄を聞きに行こうかとゲンドウを見たが、道端で背を向けた彼はそのような問いかけをしていいような雰囲気ではない。
仕方がないなとシンジはボタンに指を伸ばした。
だが、日頃ブラックコーヒーなど嗜まわない少年はミルクと砂糖の入ったものを無意識に選んでいた。
両手に冷たい缶コーヒーを持った彼が戻ってくると、ゲンドウは何を言わずに歩みだした。
待っている間にどういう風に会話をしようかとシナリオを練っていたのだろう。
その舞台も決めてあった。
海岸沿いに進む道の少し先に何かの跡地があった。
おそらくは顕彰碑が立っていたのだろうが、使徒戦かサードインパクトかによって碑そのものが見当たらない。
それほど歴史的に価値がなかったためか修復はされずに台座だけが忽然と残っている。
その台座にゲンドウは腰をかけ、シンジはやや戸惑いながらも父親から50cmほど離れたところに座った。
そしておずおずと缶コーヒーを差し出す。

「あ、あの、これ…」

「うむ…」

そこに置けという僅かな首の動きを見て、シンジは缶コーヒーを父親の傍らに置いた。

「えっと、お釣り…」

ポケットから出した小銭を父親に渡そうとすると、少年としては予想外の言葉が返ってきた。

「お前が持っていろ。小遣いの足しにでもすればいい」

シンジは息を呑んだ。
これまでも普通の少年よりは多額(だと思う)のお金は貰ってきている。
ただそれは生活費としてネルフから公的に支給されていたものでしかも銀行に振り込まれていたものである。
だから、父親から直接お小遣いというものを貰った経験のないシンジにとってそれは大いなる驚きとなったのだ。
わずか760円、たった5枚の硬貨を握りしめた彼はその重みに思わず涙ぐんでしまった。
しかし中学生にもなってさすがに涙を見せるのは恥ずかしいと、シンジは鼻を一度啜り勢いよく缶コーヒーのプルトップを開き喉の奥へと褐色の飲み物を流し込んだ。
そのような息子の様子をサングラス越しに見ていたゲンドウは少なからず戸惑いを覚えた。
今の小遣い云々という言葉は考えるより先に口から出ていた。
父親らしいことなどしたことがないと自覚していた彼は少し慌ててポケットから煙草を取り出す。
落ち着かねば…。
息子は今からどの様な話があるのかそれなりに知っているようだ。
情報源は間違いなくセカンドチルドレンだろう。
どういうつもりで話をしたのかは知らぬが正直助かった。
しかし、やはりいざとなるとどう切り出せばいいのか難しい。
ゲンドウはほとんど吸っていない煙草を台座で揉み消すと吸殻を地面に捨てる。
そしてすぐさま次の煙草を取り出し紫煙を燻らせた。
これが自分を落ち着かせようとする行動であろうということは傍らのシンジにも何となくわかった。
だが、どういう風にすれば父親の助けになるのかがわからない。
同居人の少女に「アンタの辞書は気配りの言葉ってもんがないのぉ?」などとよく叱られているシンジだ。
それは先ほどのいきなり母親のことかと父の背中に言葉を投げつけたことでも証明できるだろう。
その自覚は彼にもあるからアスカにどうすればいいのかと質問もしている。
しかし彼女の答は散々頭を捻った挙句こうだった。

『本をいっぱい読むことねっ。ふんっ!』

シンジは苦笑するしかなかったが、ある意味彼女の意見は正しいといえる。
少ない語彙力を増やすには確かに有効な手段だった。
だが間に合わなかった。
今差し迫った状況で一生懸命に考えたが、どう言えばいいのかまったく見当がつかない。
少年は心の中で大きな溜息を吐いた。
本当に僕は情けないなぁ、と。
すると、俯いた彼の視野にあるものが入った。
散らばった吸殻である。

シンジがアスカのことを好きな理由のひとつ(もっとも後付であるに違いないが)に、彼女が意外なことに綺麗好きだという面がある。
魔界の主であったミサトと比べたから余計にであろうが、ある時はリビングを散らかしていても寝る時にはささっと片付けるアスカだ。
脱ぎ散らかしていた服も少ししてからそっと綺麗にたたんでいることを目撃したことがあった。
特に使徒戦が終わってから、いや実際には心が落ち着いたからであるが、シンジと二人で暮らすようになってそれが顕著になった。
だからこそシンジもアスカに感化されてきたといえる。
この時もそうだ。
彼は無意識に動いた。
コーヒーの残りを飲み干すと、その場に蹲り空いた缶へ吸殻を入れはじめたのだ。
落ちていた吸殻を全部缶に入れると、シンジは父親の傍らにその缶を置いた。
ゲンドウは迷った。
こういう時、父親はどういう反応をすべきなのだろうか。
父親の役目を放棄し、そして親からの愛情を知らずに育ったゲンドウは対応に困った。
だが、シンジは誉めてもらおうとしたわけではないので、別に主人の誉め言葉を待つ仔犬のような雰囲気は醸し出していない。
元の場所に腰掛けると、少年は指先の埃をはらっていた。
結局、ゲンドウはそのことについては何も言えず、本来言わねばならないことをようやく口にした。

「シンジ。恨むなら恨め」

少し小さくしわがれた声だったが波の音に遮られることなく少年の耳には充分届いた。
そしてそれが話のはじまりだということはすぐにわかる。
シンジは待った。
火をつけたばかりの煙草をゲンドウは深く吸うと灰皿代わりの缶の頭で押し消し吸殻を中に入れ、それから話しはじめた。
重い口ぶりだったが、それでもしっかりと話せたのではないかとゲンドウは思う。
だが、問題は息子の反応だ。
彼はサングラスの隙間からシンジの反応を窺った。
するとどうだろう。
シンジは第一声にこう言った。

「恨んだりしないよ」



おそらく死ぬまでその時の息子のぎこちない微笑を忘れられないだろう。
ゲンドウは今でもそう思っている。
あの時の彼の笑顔は精一杯の背伸びであったことも察することができた。
だからその時は「すまん」の一言だけですませるしかなかったのだ。
そして、ゲンドウはこういう結果に辿りつくことができた最大の要因に感謝したのである。
もしアスカがシンジに事前に話をしてくれていなければ悪い目が出ていたかもしれない。
あくまで結果に過ぎないが、現実にこうして助かったのは事実であった。
しかも松代から出てきた頃のシンジのことを考えると、今の成長ぶりはどうだろうか。
とくにあのレイの読書の一件からはかなりしっかりしてきているように感じる。
父親としてはマイナスにしかならないことしかしてきていないはずだ。
となれば、やはり…。
ここでゲンドウは久しぶりの発言をした。
そう、ユイと暮らしていた頃には時折発していた、所謂からかいの文句をである。

「セカンドチルドレンはお前にはもったいないな。ふん」

最後のふんは余計だったと後悔したが、癖はそうそうかんたんに抜けてはくれない。
ところがそんな父親のからかいに対し、シンジはこう返してきた。

「うん。僕もそう思う」

ああ…。
こいつは間違いなくユイの血をひいている。
ゲンドウは胸にこみあげてくる熱いものを抑えるために急いでまだ缶を開けていなかったコーヒーを手にした。
ごくごくごくと喉に押し込む。
甘い、甘いぞ、気持ち悪いくらいに甘い。
ブラックで飲み慣れているゲンドウにとって砂糖とミルク入りのコーヒーは途轍もなく甘いものだったが、喉の不快感とはまったく別に胸の奥は晴れ晴れとしていた。
だが、ゲンドウはこの三日後にまたしても息子相手にどぎまぎするような思いを抱くことになる。
リツコの妊娠を知り、再婚の許しを得るためにシンジに話をしないといけなくなったからだ。
もちろん彼は快諾し、レイが二人の養女となって戸籍的に彼の妹となることも知った。
そしてこの時、ゲンドウは新妻の禁煙に合わせて自分も煙草を絶つことを決心していた。
そのことをシンジは知らされなかったが、数日も経たずに父親の禁煙を知る。
だからこそ余計に、あの海岸沿いでの父との会話とタバコという組み合わせが鮮烈に記憶に残ったのだろう。

その記憶が二十年以上の時を隔てて甦り、ゲンドウに向かって「本当に煙草をやめたんだね」という言葉になったのだ。
日本でもなく、海沿いでもない、このミュンヘンで父と子が並んで腰をかけている状況がシンジをほのぼのとした気持ちにさせた。
実に平和だ。

まさしく、「神は天にいまし、世はすべて事もなし」である。

その言葉の連想がシンジに父への質問をさせたのだ。
母さんの本をどうしたのかという息子からの問いかけに、ゲンドウは未だに抜けない鼻で笑う癖を出した。

「持ってるぞ。まあ、持ち歩いてはいないがな」

どっちなんだよと苦笑するシンジに、髪の毛も髭も半分以上が白髪となっている老人はにっと唇の端で笑う。

「実はリツコのヤツに預けておる。わしが死んだ時に一緒に焼いてくれるそうだ」

シンジは「へぇ…」と父親の悪党面を横目で眺めた。
もっとも親戚連中の中で女性陣はその悪党面を可愛いとのたまうのだ。
それはアスカでさえ高校に入学する頃にはそんな言葉を漏らしていた。
そのことをシンジは大いに不満に思ったのだが、彼女はあろうことかとんでもないことを恋人に言ったのである。

「だって、アンタとゲンパパって似てるわよ。うん」

母親似を自負していたシンジは当然怒り狂った。
もちろんそんな彼の様子が面白くて仕方がないアスカはさらにからかう。
そしてもうそろそろかなと判断すると、彼の口を自分の唇で塞ぐのだ。
そうすればもう彼は彼女には敵わない。
そこから反撃できるようになるにはさらに3年の月日が必要だった。
もっともその肉体的優位性を保つことができたのはほんの数ヶ月のことで、すぐに彼女の肉体に心身ともに囚われているのは自分の方だと覚ったシンジである。
ただし、彼はそのことに不満は覚えなかった。
どうして不満などを覚える必要があろうか。

彼女には不満はないが、父親に似ていると言われることにはやはり不満はあった。
だが、その不満は母親の遺した文庫本に関する会話で消え去ったのだ。
シンジはおずおずと問いかけた。
もし、あのようなこと、つまりレイの読書にまつわる騒動がなければ、どうするつもりだったかを。
ゲンドウは一瞬虚をつかれたかのような表情を浮かべ、そしてあっさりと答えた。

「きまっとる。どこまでもユイの復活を追い求めておったわ」

老父は壮年となった息子を横目で見て、淡々と話した。

「お前たちを不幸に追い込み…、そうだな、リツコなどはわしの手で殺しておったかも知れん」

シンジは息を呑んだ。
そのような恐ろしいことを顔色も変えずに告げられたのだ。
表情を強張らせた息子に対して、ゲンドウは静かに笑った。

「ふん、恐ろしいか?そうだろうよ。今考えると、わし自身の事だが恐ろしい」

ゲンドウは夕焼け空を見上げた。
もし、あのままシナリオ通りに進めていれば…。
その父の横顔を見つめるシンジもまたあの当時のことを思い出していた。
父親らしいことなど全然示してくれなかったゲンドウ。
その意図がどこにあったのか今ならありありとわかる。
子供を持ち、幸福な家庭を築いた今だからこそわかるのだ。
もし、アスカを失い、彼女を取り戻す手段が彼に与えられていたならば、非合法的な事でもシンジは平気でできるかもしれない。
まさしくゲンドウと同じ事を。
しかし、今のシンジには絶対にできないことを承知している。
それは彼には子供たちがいるからだ。
可愛い子供たちに悲しい思いや危険なことをさせるわけにはいかない。
だが…。
シンジははっとした。
理屈ではなく、実感できたのだ。
あの時、ゲンドウが何故自分を遠ざけていたかを。
ゲンドウ本人からではなく、リツコと冬月から事情は聞いていた。
しかし、その理屈は理解できたのだが、腑におちなかったのである。
単純に子供よりも妻を選んだのではないかという風に思ってしまいがちだったのだ。
要は二者選択を避けるために、子供の方を遠ざけたというだけのこと。
不器用な男だからこそ非情としか思えないような方法を採ったわけだった。
なるほど、もし自分もそうしていれば…、だが…、やはり。
子供たちを捨てるなどということができるわけがない。
もし非情な選択をしたとしても、そんな犠牲を払って復活させたアスカが激怒しそれこそ彼女に殺されてしまうに違いない。
そして、彼女も自殺するだろう。
無理だ、今の我が惣流家では不可能な選択である。
シンジはぽつんと言った。

「やっぱり、父さんの真似はできないね。今の自分では」

その言葉に直接の返事はなかった。
ゲンドウは目を細めて息子を見、そしてベンチから立ち上がった。

「ビールでも飲みに行くか。アスカ抜きでな」

シンジは苦笑すると腰を上げた。

「後で怒られるな、絶対。除け者にしたってね」

「ふん、問題ない」

「駄目だよ。父さんも一緒に怒られるんだからね。逃げちゃ駄目だから」

「それは…。まあ、いいだろう。親子揃って叱られるか」

唇の端で笑ったゲンドウはシンジの肩をぽんと叩いた。
3時間後、足をふらつかせながら帰宅した親子は玄関先で立たされたまま、惣流家の主婦にがみがみ怒鳴られたという。



それからもう8年が過ぎようとしている。
アスカに一番似ていると噂の長女は大学進学を前に日本に旅立った。
サマーバカンスを日本祖父の元で過ごそうと赴いたのである。
惣流家は毎年日本で夏休みを過ごすのだが、今年に限って長女ひとりが先発したのだ。
長女はあくまで自分の意思でそうしていると思い込んでいるが、厳密に言うと両親、とくにアスカの策略であった。
向学心旺盛なのはいいが、かけがえのない十代を飛び級飛び級で勉学一筋でいいのかどうか。
度重なる飛び級で同年代の友達がいないということに、アスカは自分の姿を重ねていたのだろう。
それに日本に行った時の長女の姿はドイツにいる時よりも歳相応に、つまり子供らしく見えたのだ。
だからこそ、アスカは母親として長女の未来を考えた。
子供の将来を決め付けたわけではない。
選択肢を増やしただけのことである。
決めるのはあくまで長女自身だ。
アスカはそのようなことを一切シンジには相談していない。
子供への愛情に満ち溢れすぎている、簡単に言うと親馬鹿である彼に話をしたならばその結果は見えている。
進学でいいじゃないか、と。
しかしながら、もしその進学先が日本ならば答は180度変わってしまうだろう。
したがって、アスカは夫にも真意は告げずに、娘を日本へと送り出したのだ。
さあ、あの娘はどうするか。
親として心配する一方で、少しだけ好奇心もある。
その答が、いや答として明記はしていないだろうが、彼女の気持ちはこの手紙に書いてあるだろう。
内心は読みたくて仕方がないが、まずは我慢我慢。
親馬鹿の夫にまずは手紙を独占させてあげよう。
その後でじっくりと…。
感想文はともかく、文章の裏に含まれる意味を読み取るなどこの私にとっては簡単なこと。
アスカは不敵な笑みを浮かべながら、手紙に没頭している夫をリビングに置いて、自分の城である台所へと闊歩していった。
いくつになってもアスカはアスカのままのようだ。






 親愛なるお父様。

 ごめん、やっぱり駄目。
 愛するパパ、ね。
 パパのこと、お父様なんて呼べないわよ。
 ここは日本だからそう書いた方がいいかもって思ったんだけどやっぱりパス。
 では、改めて。

 愛する、パパ。
 
 日本に着てからもう1週間になります。
 早いものね。
 私がいないからって寂しいとパパは泣いてませんか?
 まあ、パパは大人だから泣かないよね、カールじゃあるまいし。
 カールはいい子にしていますか?
 ママに叱られて泣いてませんか?
 やっぱりママは相変わらずですか?
 
 こっちはみんな元気です。
 親切にしてくれますし、あちらこちらに連れて行ってくれます。
 2日前は京都の冬月さんのところに泊りがけで行きました。
 古いお寺とか案内してもらったのよ。
 セカンドインパクトの時にどうして水没しなかったのかって不思議だって言ったら、この土地は護られているからとか何とかわけのわからない説明を受けたの。
 まあ、現実に被害をほとんど受けてないんだから凄いものよね。
 中心地のビル街は倒壊したりしたのに、ずっと古いお寺や塔が大丈夫だったんだもの。
 でもね、冬月さんったら私を見て何度も笑うのよ。
 ママにそっくりだって。
 似てないよね!
 そりゃあ、瞳は青いし、髪の毛も黒くないけどさ。
 ママも私くらいの時には赤っぽい金髪だったって、みんなが言うの。
 だから、私がそっくりに見えるんだって。
 でも、ということは私もママみたいな髪の毛の色になれるってことだよね。
 それだけは楽しみ。
 だけど、ママみたいには私はならないんだから。
 もっと、もっと…、よくわからないけど、もっと、優しく?
 たぶん、そうかな。
 あああああ、むずかしいよ。
 ほらね、だんだん普通に喋ってる感じで手紙を書いちゃってる。
 
 実はこんな手紙を出すのには理由があるの。
 それは復讐のためよ。
 傷つけられたプライドは何十倍にでもして返してやるんだから!
 ねぇ、パパ。
 私がこんなことを叫んだら、レイおばさんがお腹抱えて笑い転げたんだけど何故?
 ただでさえよく笑う人だけど、異常なほど笑ったのよ。
 もしかしなくても、ママじゃない?
 ああ!どうして私はママに似てるのよ!
 あ、似てないわよ、全然。
 今のはあくまで世間の評判。
 ああ、そうだ、復讐の話だったわよね。

 私が日本に到着して翌日の夜のことだったわ。
 歓迎会を開いてくれたのよ。
 さすがに京都の冬月さんまでは無理だったけど、私が知っている他の日本の人はみんな顔を揃えてくれたの。
 あの、見たくもない、アイツも含めてね。
 だいたい同じ歳の人間がどうしてこんなにいるのよ。
 私に、レイおばさんとこのメグミ、日向さんとこのセイイチロウ君まではいいとして、青葉ユウキのやつまでも同学年なのよ。
 あの馬鹿が同じ14歳だなんて信じられないわ。
 こっちは秋から大学だっていうのに、未だにのほほんと中学生してるんだから。
 ああ、馬鹿なのはアイツだけ。
 メグミもセイイチロウ君も頭はいいわよね。
 アイツが人並みなのは体育と音楽だけに決まってるわ。
 きっとおじさんに似たのよ。
 青葉のおばさんの方はまだ30代にしか見えないくらい若く見えるし、頭も良さそうだもん。
 あ、セイイチロウ君もおじさん似だけどこっちはおじさんの方がいい感じだもんね。
 パパに似てるっていうか、真面目そうだし、頭だって禿げてないし。
 アイツのパパはもうかなり危ないわよ。
 頭の天辺がけっこう薄くなってたもん。
 きっとアイツも禿げるに決まってるわ。
 いつもにやにやしちゃってさ、学校でもててもてて困るなんてくだらないことしか口にしないし、本当に馬鹿。
 その点、セイイチロウ君はいつもにこにこして…。
 あ、にやにやとにこにこは全然違うんだからね。
 そうね、ママとパパくらい違う。
 ああ、復讐の話よね。

 その歓迎会のときにアイツが愚痴をこぼしたのよ。
 夏休みの宿題が面倒で仕方がないって。
 で、当然、メグミもセイイチロウ君も反論したわけ。
 あんなものはスケジュールを組んで取り組めばどうってことないって。
 当然よね、私も大いに賛成。
 そんなの常識じゃない。
 計画も立てられないじゃがいも頭ってことよね、アイツは。
 まあ、そんなじゃがいも頭が一番いやだって言ってたのが読書感想文よ。
 私はこれまで感想文なんて書いたことがなかったし、レポートとは違うって聞いて驚いたわ。
 ただ感想を書くだけなんて不思議この上ないわよね。
 そんなの発言すればいいだけだし。
 やっぱり日本人て自分の意見を人前ではっきり言えないってアレ?
 ママがパパによく言ってる。
 でも、そのほうが巧くいくことがあるって事を私は経験としてよく知ってるけど。
 ママのお喋りのせいでややこしいことになったことは何度もあるもんね。
 ママって都合のいいときだけ、ドイツ人になったり日本人になったりして酷いと思わない?
 まあ、ママの事はいいわ。
 パパに任せとく。

 つまり、読書感想文のことよ。
 私は笑ってやったわ
 そんなの一晩で書けるじゃないって。
 するとじゃがいも頭は突っかかってきたのよ、生意気にも。
 一度も書いた事がないくせにいい加減なことを言うなって。
 当然、私は一発食らわせてやったわ。
 あ、心配しないで。
 手加減(いや脚加減?)したから、むこうずね抑えて悲鳴あげたくらいよ。
 で、勝負することになったの。
 まだメグミもセイイチロウ君も書いてないって言ったから、4人で今晩中に書こうって約束したの。
 そして、翌日のことよ。
 あの馬鹿、確かに4枚書いてたけど、ほとんどがあらすじじゃない。
 私は一読してびりびりって破いてやったわ。
 書き直しって言ってやったら、あの馬鹿、青筋立てて怒ってんの。
 さすがに他の二人にも窘められたけど(へへん!難しい日本語知ってるでしょ)、破いた原稿用紙をセロテープで繋いだメグミも読んで呆れた顔したの。
 私の言うとおり、これじゃ先生に叱られるわよって。
 セイイチロウ君も苦笑して同意したものだから、あの馬鹿も大きな溜息ついて「俺の貴重な1時間を返せ」なんてぶつくさ言ってた。
 ま、同じ1時間製作でも私のは違うわ。
 私は胸を張って自分のをみんなに見せたの。
 すると、真っ先に言われたのが…。
 字が汚い。
 しかも三人とも口を揃えて言うのよ!
 確かに綺麗な字じゃないのは認めるけどさ。
 それから次に言われたのが、こんな感想文読んだことがないって言葉。
 私は一瞬喜んだわ。
 褒められたって思って。
 でも、どうも違うのよね。
 みんな首を捻って、確かに観想を文にしたものには違いないけど…って歯切れが悪いのよ。
 まあ、あの馬鹿は「こんなのだめだぜ」なんて言うから、速攻で蹴りを入れてやったわ。
 その時のことなの。
 レイおばさんが「にぎやかね」って部屋に入ってきたのよね。
 で、メグミの持っていた私の読書感想文を読んだのよ。
 すると、まあ大笑いを始めたの!
 またまた大笑いよ。
 畳をバンバン叩きながらね!
 30代後半の大人がするようなこと?
 目に涙を溜めてまで笑うんだから、頭にきちゃう。
 ねぇ、レイおばさんって本当に無口で無表情で無感動な人だったの?
 私には絶対にそんな女の子だったなんて見えないわ。
 確かにママやミサトおばさんみたいにペラペラは喋らないけど、ほら日本の諺で言うじゃない。
 箸がころがってもおかしい年頃。
 あれって10代の女の子の事でしょう?
 レイおばさんっていつも微笑んでるし、スイッチ入ったら壊れるんじゃないかってくらいに大笑いするわよね。
 きっと、あれよ、ほら、パパとかママがいつも馬鹿なことしてて、おばさんが呆れて見てただけじゃなの?
 まあ、いいわ、どうせそうだし。
 それよりも私の感想文を読んでレイおばさんが大笑いした原因がママだっていうから頭にきちゃうのよ。
 ママが書いた感想文も同じ感じだったんですって?
 ああ、確認したわよ、同じだった。
 情けないくらいに同じ。
 リツコおばさんが保管してたのよ、感想文のプリント。
 で、リツコおばさんの名前が出てきたって事はわかるわよね。
 一同、そうよ、みんな、全員がそのプリントと私の感想文を読んだってわけ。
 歓迎会の翌日だっていうのに、またみんな集まって宴会するのよ。
 ただ集まって騒ぎたいから、私の感想文を出汁にしただけでしょ、きっと。
 いいさらし者よ。
 おじいちゃんったら、いつもの「問題ない」を何度も繰り返してにやにや笑ってるしさ。
 あのセイイチロウ君まで真っ赤な顔してぎこちなく笑ってるの。
 笑うだけじゃなくて、どうして頬を染めてるのかしら?
 するとね、アイツがその種明かしをしたのよ。
 
 パパ、気をつけなさい!
 セイイチロウ君ったらね、なんと私のママの事が好きなんですって。
 物心がついた頃から、ずっとだっていうから凄いわよね。
 だから、1年に何度か会えるのが楽しみだったんですって。
 あ、ママには言っちゃだめよ。
 あの人のことだから有頂天になって得意げにああだこうだって演説始めちゃうんだから。
 絶対にパパの気持ちを逆なでしそうだしね。
 でね、あの馬鹿がセイイチロウ君をからかったのよ。
 私とママがこんなに似てる(感想文の事ね)んだから、今からこのお転婆(私のこと!ふん)を予約しておけばいいって。
 予約って何よ、私には選ぶ権利がないってわけ?
 当然、また蹴り飛ばしてやったわ。
 だって、セイイチロウ君が困ってしまったんだもん。
 さらに赤面して、私の方を見られないのよ。
 本当に困ったもんよね。
 あんなことを言われて意識してさ、これから私をママと一緒くたにして見られちゃたまらないわ。
 でもね、セイイチロウ君っていざとなったら結構やるのよ。
 あの馬鹿がまだからかってたら、いきなり爆発したの。
 調子に乗るなよ、って蹴りを入れたのよ、蹴りを。
 だけど、悲しいことに、避けられてしまって自分で尻餅ついちゃった。
 だから私が加勢してあげたの。
 避けるんじゃないわって優しく言って、思い切りあの馬鹿のお尻を蹴飛ばしたの。
 あ、ごめん。
 ちょっと脚色した。
 実際は、避けんじゃないわよ、馬鹿!って言ったの。
 まあ、セイイチロウ君にも感謝されたし、馬鹿はマヤおばさんに説教されてたからいい気味よね。
 あ、でもね。
 後で私、メグミに恐喝されたの。
 あまり、馬鹿馬鹿言うなって。
 薄暗い廊下の隅で、じっと睨みつけられたら、「ごめん」としか言えないのよね。
 だって、メグミ怖いもん。
 たぶん、あんな感じだったのかな?レイおばさん。
 メグミもお母さんを見習ってもっと朗らかになったらいいのに。
 あ、でも陰気って意味じゃないわよ。
 少しおとなしいだけ。
 だけどさ、これってアレだよね。
 メグミはあの馬鹿のことが好きって事?
 信じられない!
 あんな変なやつのことが好き?
 私はびっくりしちゃった。
 それからね、変なこと言うのよ。
 横取りしたら殺すからね、って。
 私、呆気にとられたわよ。
 あの馬鹿なんか好きでもなんでもないし、だいたい私はファザコンなんだからガキなんて好きにならないもん。
 安心した?パパ。
 だからセイイチロウ君にも悪いけど、子供の相手なんかしてられないわ。
 私は私、ママの代用品になんかされちゃたまらないわ。
 あ、でもでも、日本に来た時にセイイチロウ君に喧嘩売っちゃだめよ、パパ。
 パパはママのことになったら人格変わっちゃうんだから。
 ママに聞いたわよ。
 高校や大学で色々あったんだって?
 高校は日本だからまだわかるけど、ミュンヘン大学でたくましい白人相手に喧嘩を吹っかけたってママが馬鹿にしながら自慢してた。
 素直に自慢すりゃあいいのにね。
 ママらしいったらありゃしない。
 あれ?何の話だったっけ。

 そうそう!
 感想文のことよ、感想文!
 まず言われたのは日本語は誰に習っているかってこと。
 絶対にママに違いないってみんなが言うから、違うって反論したの。
 パパにも教わったって主張したんだけど、全然信じてくれないのよ!
 それじゃ謝る時になんて言うかってミサトおばさんが質問したから私は胸を張って答えたわ。
 「悪かったわね」って。
 すると、みんな爆笑。
 あ、大人たちって意味のみんなね。
 メグミたちはきょとんとしてた。
 さすがの馬鹿もわけがわからなくて、笑いそびれたみたい。
 私は何か失敗したかと思って言い直したの。
 「今のはジョーク。本当は、ごめんなさい、よね」
 にんまり笑って言ったんだけど、反応が悪いのよ。
 みんなにやにや笑って、首を横に振ってるの。
 そのうちにレイおばさんが真面目な顔をして、「ご、ごめん」って呟いたのよ。
 私は意味がわからなかったんだけど、またもや大人たちは大爆笑。
 ねぇ、パパ。
 もしかして、パパってあんなおどおどしてたの?
 ちょっとショック。
 パパに教えられたなら、謝る時はそう言う筈だってみんなが口を揃えて言うのよ。
 感想文といい、口ぶりといい、容姿も何もかも、ママにそっくりだって!

 私、ちょっとカチンと来ちゃった。
 だから、言ってやったの。
 今のは受け狙いで書いただけで、ちゃんと書けばまともな、面白くもない感想文くらい書けるってね。
 もちろん、はったりってやつよ。
 ふふん!
 もっとも自信がなければそんなこと言わないけどね。
 で、この手紙がその練習ってわけ。
 だけど、だめね。
 最初はちゃんとした文章で書こうとしていたんだけど、やっぱりこうなっちゃう。
 でも!
 私は絶対に負けたくないし、笑いものになりたくないもん。
 だから、もう一度やってみる。
 ということで仕切り直し。

 私が読んだのは『友情』という本です。
 パパは読んだことがありますか?
 男の人が主役だから、その気持ちがすべてわかるとは思えないけれど、何となく理解ができました。
 私は恋なんかしたことがないから……(以下略)。



 
 

「はははははっ、恋をしたことがないですってぇっ」

高笑いをしたアスカの胸で赤ん坊は安らかに眠っている。
どうしてこうも騒々しいのにすやすやと眠ることができるのだろうか。
シンジはあきれながらも食後のコーヒーを啜った。
次女と三女は同じリビングにはいるものの両親とは逆サイドでテレビにかじりついている。
子供たちにはアスカの声は濾過して聴こえるのだろうかとくだらないことを考えたあと、シンジは妻に話しかけた。

「書いてあるじゃないか。恋なんかしたことがないって」

「ふん。こんなの嘘。まあ、嘘というよりは自分の気持ちに気がついていないってことかな?」

アスカの言葉を聞いてシンジは血相を変えた。

「そ、そんなっ」

「パパ、うるさぁい」「テレビ聞こえないよぉ」

おいおい、とシンジは脱力した。
明らかに妻の声音よりはボリュームが小さいはずだ。
日頃声を荒げない父親の大声だからこそ煩いのだとはわからないシンジは親馬鹿の本領発揮で声を潜めて妻に尋ねた。

「ど、どこにそんなことが?書いていないよね、それっぽいことは。メグミちゃんのことは書いていたけど」

「うん、はっきりとは書いていないわ。でも、文面のあちこちに書いてあるのよね、これが」

「ちょっと、貸して」

奪い取るようにして手にした娘の手紙をシンジはあちらこちらと読む。
そんな夫の様子をアスカは楽しそうに眺めた。
しばらくしてシンジはテーブルの上に手紙を投げ出した。

「降参だ。全然わからない。どこにも書いてないように読み取れるんだけどなぁ」

疑うような彼の視線を受けてもアスカは動じない。
手紙を広げると、ここだあそこだと文章の吟味を始めた。
妻の高説を拝聴した夫はううむと唸る。
確かにそう読めばそういう解釈もできるだろうが、本当に正解なのだろうか。
その疑問を口にすると、アスカはまたも楽しげに笑った。

「もしかして最近あまり本を読んでないんじゃない?読解力が落ちてるとか」

思わずぎくりとするシンジは、確かに最近小説を読んでいないことに今さらながら気がついた。
所謂ビジネス文書ばかりを目にし、文章を作っている。

「学生していたときはあなたの方が感想文得意だったわよね」

「君は文章化する能力が一風変わっていただけだろ。昔から読解力とか犯人当てとか物凄く得意だったじゃないか」

「誉め言葉にしておいてあげる」

アスカはにんまりと笑うと赤ん坊のほほを指で撫でた。

「さてと、では私はメールでもしようかしら」

「誰に?」

「ふふ、あの子に決まっているでしょう。入学辞退するなら早めの方がいいし」

「に、入学辞退ぃっ!」

「もう!」「パパ!」「ふぇぇ〜んっ」

娘二人のみならず、赤子の息子にまで五月蝿いと決め付けられたシンジは「すまん」と素直に詫びた。
因みに夫婦が日本語で会話をしているので、娘二人の文句は日本語で、長男の方はまだ日本語でもドイツ語でもなかったが意味だけは明瞭である。

その夫の腕にアスカは赤ん坊を託す。

「はい、交代。その子を抱いていればそうは大声上げられないでしょう」

アスカは実に楽しげだ。
父親の腕に抱かれカールは目を閉じて寝息をたてだした。

「昔々なら今のは『ご、ごめん』だったわよね。手紙に書いてあったみたいに」

憮然とするシンジは昔の自分が情けないとみなに思われているようで不満なのだ。
だがそれも親しみのこもったものであるとは承知している。
心に余裕がなかった少年の頃とは違うのだ。

「それよりも、アスカ。恋とか、入学辞退とか」

「ああ、それね。実はね…」

アスカは夫を刺激しないように言葉を選んで話をした。
赤ん坊を落とされでもすれば大変だ。
それに面白がって夫を挑発しては大切なことが伝わらない可能性が高い。
妻の話を聞き、シンジは恨めしげな目で彼女を見つめた。
うわぁ、あの目…。
アスカは内心首をすくめた。
やばいなぁ、こういうときのシンジったら野生化するからね。
また家族が増えそうな予感に体形の維持は大丈夫かしらと彼女は算段する。
まだ40歳には届かないから…、うん、まだ、ぎりぎり、そうよね、男の子が一人じゃカールがかわいそうだし…。
私が5人の子持ちねぇ、あの頃の私からは想像もできないでしょうね。
しかもその相手が馬鹿シンジなのだから。
まあ、この私だからこそシンジの相手が務まるってものなのだけどね。

そのような妄想を頭に描きつつもアスカは長女の話を続けた。
まことに器用なものである。
もっとも天才美少女であった彼女が家庭内に主婦としてでんと収まっているのだ。
これくらいのことはお茶の子さいさいだと自負しており、家庭内限定ではあるがそれを認めさせている。
碇リツコ曰くアスカの主婦化は人類にとっての損失だそうだが、惣流家の主婦は自分がここにいることで必要以上の科学の進歩を抑えているのだとか嘯いていた。
シンジも子供たちもそれは悪い冗談だと思っているが、何はともあれアスカが家にいることを家族は歓迎している。
彼女は惣流家にとって精神的な柱なのだ。
いささか口が悪く、悪戯好きな面があるのだが。
その柱は自説を滔々と述べた。
赤ん坊を抱いたシンジは苦笑した。
竜頭蛇尾とはこのことではないのか?
どう考えても、長女にそんな気配はない。
手紙を読んでも自分はファザコンだとはっきり書いているではないか。
そりゃあいつまでもファザコンでは困るが、まだまだあの子は子供だ。
これはアスカの取り越し苦労、いや面白がって遊んでいるだけのことだ。
もうすぐ40代になろうというのに子供っぽいところが抜けない。
まあ、そこが彼女の魅力のひとつでもあるのだが…。

アスカは話を続けながら呆れ果てていた。
髭もなければサングラスも装備していないシンジは彼女にとっては真っ裸同然なのだ。
何を考えているのかかなりの確率で当てることができるとアスカは自負していた。
今も能天気な結論に達しようとしている心の動きが手に取るようにわかった。
この男、なぁ〜んにもわかっとらんわい。
年老いた父親を真似て、思い切りバイエルン訛りのドイツ語で彼女は心の中で呟く。
やはり小説を読まなくなると洞察力が鈍っていくのだろうか。
その点、私は大丈夫。
読書量にかけてはそんじょそこらの人間には負けていない筈よ。
ただし、レイにはかないません。
それだけは認めてあげる。
口に出しては絶対に言わないけど。
だって、私は世界一の根性曲がりなんですもの。
さてさて、それでは相変わらずの馬鹿シンジさんをちょっとからかってあげましょうか。

「じゃ、賭けましょうか?あなた」

少し媚を売るような口調でアスカは言った。
こういう声音であれば彼が警戒することは百も承知だ。
彼を騙すなど赤子の手を捻るも同然…って、赤ちゃんの手を捻るような鬼畜がいたらぶん殴ってやるわ。
例によってあさっての方向に考えを飛ばしながら、彼女はにやにや笑った。

「賭けの対象は2つ、いや3つかな?まず一つ目」

アスカは指を1本立てた。

「あの子が日本に留学すると言い出すかどうか」

「何言ってるんだ。馬鹿らしい。もう手続きが終わっているじゃないか」

「それでも日本を選ぶかどうか、よ。あ、私は賭けをするからってあの子を誘導なんかしないからね。それは信じて」

「信じないよ。負けるのが嫌いなくせに」

「ふふ、今回は別。だって最初から私の勝ちは決まってるもの」

「どうだかね。で、二つ目は?」

アスカは指をVサインにする。

「あの子が初恋をしているかどうか」

「してないって書いてあるじゃないか。私はあの子を信じるよ」

「本当にすくいようのないお馬鹿さんね。私に言わせると、恋しているって書きまくっているのよ」

「それはアスカの勘ぐりすぎだ。三つ目をどうぞ」

アスカは薬指も立てた。
性格が指の立て方に影響するのか、見事なほどにみしりと指3本が等間隔で同じ角度に開いている。

「これは二つ目の延長線上ね。あの子が好きなのは青葉家の馬鹿息子か日向家の孝行息子か」

「おいおい、馬鹿とは失礼な」

「あの子が馬鹿って表現しているからでしょう。まあ、セイイチロウ君がミサトたちに孝行しているのかどうかは知りませんけどね」

「どっちにしても二つ目で恋をしていないって選ぶんだから、三つ目は該当者なしだ」

「そんなのつまらないわよ。まあ、じゃ三つ目は該当者なしでもいいけど、どっちがあの子の好みかってだけでも考えてみてよ」

「だから…」

「もし世界に2人しか男の子がいないってことになったら、って事でもいいから考えてみてよ」

不毛なことを考えさせるやつだと苦笑しながらも、律儀に彼は三つ目の問題を頭に描いてみた。
う〜んとシンジは腕を組もうとしたが、息子の存在がそれを邪魔する。
さてさて、いつかは誰かに恋するであろう長女が好きになるのはどちらか。
ファザコンというならば自分に近いのはセイイチロウ君か。
しかしそれはないだろう、とシンジは決め込んだ。
そもそも彼の事はあまり手紙に書いていないではないか。
やたら馬鹿だ馬鹿だと書いているユウキ君の方ではないか。
それにメグミちゃんが彼に気があるということにどうも不快感があるように書いていたではないか。
アスカは馬鹿にするが私も読解力がちゃんとあるのだ。
幸か不幸か、容姿だけではなく性格も妻と長女は似ている。
やたら馬鹿を連発したり、メグミちゃんとの件で自分は恋などしていないと明記しているのだ。
敢えてアスカの問いに乗るとすれば、やはり…。
シンジは自信を持って答えた。

「もし、二人のうちのどちらかということになれば、まあ、そんなことは絶対にないだろうが、ユウキ君だね」

「前置きの長いことで。なるほど、予想通りね」

「ほう、ではアスカも同じ…」

「ふん、違います。予想したのは、あなたが馬鹿息子の方を選ぶって事。私は断然セイイチロウ君の方よ」

「ははは、それは違うな。そりゃあ、あの子がファザコンだって自分で言ってるのだから、私に似ているのはセイイチロウ君の方だろうけれども」

アスカは思わずぷっと吹き出してしまった。
その笑い方を見て、シンジはむっとして妻を睨みつけた。
それでもさすがに大声を出さなかったのは、彼も大人になったのか、それとも赤ん坊を抱いていたからか。

「でも、やっぱりユウキ君だ。手紙に馬鹿を連発しているだろう。きっと……」

胸を張って持論を述べるシンジは瞬間眉を顰めた。
ちょっと待て。
これは仮の話だったはずだ。
もしどちらかを選ばないといけないと仮定して、答を出しただけのことである。
しかし自分の今の発言は事実に立脚しているのだと、自ら認めていることにはならないか。
つい先ほど睨みつけたばかりの妻の顔を恐る恐る窺う。
ああ、やっぱり。
予想通りに彼女はにんまりと笑っていた。
シンジはわざとらしく咳払いする。

「君に調子を合わせてあげただけだ。そんなことは証拠にならないし、そもそも君もユウキ君を選んでないということだから…」

「ユウキ君は残念ながら煙幕。誰かさんのことを心憎く思っているのに自分で気がついていないからそのはけ口ってことかしら」

ここで口を挟もうとする夫をアスカは人差し指1本で黙らせた。
ゆらゆらと左右に揺れる指先にシンジは苦笑する。
こういうところは出逢った頃から全然変わっていない。

「もし百万歩譲ってユウキ君のことを馬鹿ユウキなんて呼びたいなんて思っていたなら、気楽にメグちゃんが彼のことを好きなんて書かないわ」

自信たっぷりに言うアスカはまるで自分が思春期の少女が如く目を輝かせた。

「そう思うでしょう?余裕なんてあるわけない。まず陰にこもってしまうでしょうね、あの子、見かけほど図太くないから」

「それは私も知っているよ。繊細な子だからね」

「親なら当然。だから、ユウキ君説は絶対に考えられない」

自信満々のその顔は出逢ったその時から全然変わっていない。
だが、眼差しが違う、まったく違う。
人を蔑むような眼差しをするのは夫や親友たちにだけ許されたものである上に、そこにはたくさんの愛情が含まれていることを彼らは知っている。
だからこそ、彼女に不快感を持たないようになった。
もっとも多感な十代の頃はいろいろと事件を繰り広げたこともあったのだが、それはもう今となってはいい思い出である。
シンジは落ち着いた気持ちで妻の顔を見つめた。

「で、セイイチロウ君はどうかしらね。あの書き方はどうも、いいえ、物凄く怪しく感じるわ」

「怪しいって、別に普通だろう」

「普通すぎるところが怪しいの。わからない?」

なんだとばかりに笑みを漏らしたシンジはあっさりと匙を投げた。

「わからないね、全然」

「そうでしょうね。じゃ、説明してあげる」

いらないよと言いたいところだがそうもいかない。
男親として娘の恋愛話は無視することができないのだ。
いくらまだまだなどと虚勢を張っていようが気になって仕方がないのは自覚している。
それを承知の上でアスカは話を進めた。
彼女の話を聞いたシンジだが今ひとつピンとこない。
アスカによると、一番怪しいのはセイイチロウ君がアスカのことを慕っているということだ。
気持ちは嬉しいがこんなおばさんを好きになるのは変だし、しかも本当に愛情を持っているのならばそのことを周囲に知られるはずがない。
だから、彼は本当は同世代の長女のことが好きなのにそれが恥ずかしいのでわざとその母親の方だということにしているのではないか。
しかもそれを否定しないということで彼女の歓心を買おうとしているに違いない。
そして、長女はそれを見事に買ってしまったのだ。

「どう?手紙の中であの子ったら私のことをけちょんけちょんに書いているじゃない?
しかも、比べられちゃかなわないって感じで。私は私で、母親とは違うんだって息巻いているような雰囲気たっぷりでしょう?」

「それはそうだけど、深読みしすぎじゃないか?ただの負けず嫌いだろう」

それに負けず嫌いならばお前の方が上だろうとシンジは心の中で思った。
アスカに比べれば子どもたちの負けず嫌いなど可愛いものだ。
ただし、いくら口の端にのぼらせなくとも彼が何を考えているかは妻にはまるわかりであった。
彼女はわかっているわよとばかりに鼻で笑うと、言葉だけは先に進ませる。

「甘いわね。五千万年くらいくらい甘いわ」

比喩がおかしいだろうと突っ込みなどいれない。
突っ込みを待っているのか、それとも単に勢いで間違えたのか。
間違いを指摘した場合の方が後の被害が大きいのは間違いないのでシンジは話を進めることにした。

「そうかなぁ。それにセイイチロウ君とそれほど仲が良かったか?」

「ふふ、あなたに何がわかるの?あなたが日本に戻るのっていつも一週間くらいでしょう?私は子供たちと一緒に夏は1ヶ月ほど滞在してるもの。
その間ずっと子供たちを見ているのよ。微妙な心の機微くらい簡単に見抜けるわ」

自信たっぷりに言い切る妻をシンジは知ってるぞとばかりに見つめた。
子供たちは祖父たちに任せてレイと一緒に買物三昧にあけくれているではないか。
そのような非難たっぷりの視線を受けてもアスカはめげない。
最初は子供たち同伴で赴いていたのだが、当の子供たちが留守番をしてみんなで遊ぶ方がいいと主張したのだ。
母親の長い買物に付き合わされる子供の憂鬱は昔も今も変わらない。
しかもその買い物がファッショナブルな服などではなく(その時もあるが)、古臭い本を捜し求めて汗だくになって街を歩くというものだからたまらない。
水没した旧東京が再び陽の目を見て数年後、人間というものはおかしいものでもともとの場所に同じような街を築こうとした。
それは日本だけではなくどの国も同じようではあったが、不思議なことにセカンドインパクト直前ではなくその数十年前の街の景観を復活させようとしたのだ。
日本の場合は乱立するビル街ではなく、背の低いビルディングと自然公園、それに普通の一戸建てが多く見られる、あの時代では到底考えられないような首都の姿となった。
いざそうなってみると、機能優先で開発されたセカンドインパクト以降の街並みが殊更に浮いて見え、国民は居住する街を復旧された市街へと求めたのである。
もっともそれは使徒戦を経て激減した人口という条件と貧富の差が縮まったことに起因するだろう。
何はともあれ、アスカとレイは顔を合わせるとまずある場所へ赴く。
それは元の場所に甦った古書街であった。
本など電子書籍でいいではないのかと失言したシンジに二人が左右から責めたてたことがある。
あのレイがアスカ並みに喋り捲ったのだから、彼女の書籍に対する愛情はおわかりになることだろう。
そのような二人の共通した意見は書籍は内容だけでなく、装丁、表紙、挿絵といったものも重視しないといけないということだった。
そしてそういった本を求めるためにセカンドインパクトと使徒戦を生き延びた本たちが集まる場所へ足を運ぶのである。
シンジは一度荷物持ちに付き合って二度とごめんだと呆れかえってしまった。
当然子供たちも同様だ、
留守番を主張して子供たちだけで遊ぶという結果となったのは当たり前といえよう。

だが、それでも四六時中買い物などに歩き回っているわけではない。
子供たちとできるだけ共有する時間はとっているアスカだった。
べったりとしすぎず、離れすぎず。
自分の経験を生かしている彼女だった。

「まあ、いいわ。いずれにしてももうすぐ結果がわかるもの」

そう、明後日には家族揃って日本へ赴くのである。
今回はシンジは最初の一週間を同行するのだ。

「あなた、大変よ」

「大丈夫だよ。今回はあちこち行く予定なんか無いし…」

「違うわよ」

アスカは朗らかに笑った。

「大変なのはこっちに帰ってきてから。私は日本だからできないのよね。手伝ってあげられなくてごめん」

「手伝って……って、おい、まさか」

「大学とかいろいろあるでしょう。休学扱いにしたほうがいいのか、それとも入学辞退にしてしまうか。
私の勘では辞退の方がいいと思うなぁ。二度と帰ってこないかもしれないし」

「お、おい」

「まあ、再来年の3月までが猶予期間ね。中学卒業までにはそれなりの決着がつくでしょう」

ね?と笑顔でアスカは夫に彼女の結論を押し付けた。
その明るい表情を見て、シンジはこれは真剣にやばいかもしれないと思いはじめる。
それは二人で歩んできた時間が成せる本能というべきものだろう。
だが、彼はおそらく数パーセントしかないであろう、妻の勘違いという方に賭ける事にした。
それが娘を愛する父親としての責務ではないかと、シンジはわけがわからないままに自分を納得させるのであった。

「ねぇ、アスカ」

「なぁに?」

「赤毛のアンの子供たちってどうなるんだっけ?」

冗談で言ったのかどうか、夫の表情を検分したアスカはどうも本当に忘れてしまっているようだと判断した。
彼女は大きな溜息をつき、とある方向をすっと指差す。
その白い指先が示しているのは、惣流家の奥様自慢の巨大な書架である。
ここからあふれている本もたくさんあるのだがそれらは通称"図書室"に収納されている。
毎年日本から帰ってきたときには買い集めてきた本を並べるのに大騒ぎをしながら楽しんでいるアスカだった。
そしてお気に入りの本たちはリビングの書架に鎮座している。

「3ヶ国語で全シリーズ揃えているから自分で確認しなさい」

「はは…、えっと、何巻目くらいだっけ?」

「ふん、覚えていないのだったら、一番最初から読みなさい。アンがグリーンゲイブルズに到着するところから」

アスカはニヤリと笑った。
教えてやるものか、私の大好きなお馬鹿さん。
どうせ一番読みやすい日本語版の文庫にするんでしょう?
大騒動のきっかけになった、あの懐かしい本にね。
眠れる赤ん坊を妻に渡し、書架へと歩んでいくシンジの後姿を優しげな眼差しで見つめながら、アスカはそっと呟く。

「神は天にいまし……」

『赤毛のアン』の最後の文句を口にしかけて、彼女は戯れに言葉を変えてみた。

「本は本棚にあり、惣流家はすべてこともなし…」

人差し指で赤ん坊の頬を軽く突くと、カールは微かに微笑んだように見えた。
赤ちゃんはどんな夢を見るのだろうか。
ベテランの母親でもどんな優秀な科学者でもわかるはずもないことを考えながら、アスカは次はどの本を読み聞かせようかと心を書架に彷徨わせるのだった。
決まっている方針はただひとつ。
子供たちに明るい未来を感じさせられる話だ。
それがあらゆる場所、あらゆる時代で共通の、母親たちの変わらぬ想いであろう。


「本を読む娘たち」  エピローグ − 了 −


 

あとがき



エピローグが遅くなり本当に申しわけございません。
これを機にもう一度最初から読み直してもらおうなんて気は毛頭ございませんので(本当ですよ!)。
最初はアスカとシンジの娘からの手紙だけで進むエピローグだったのです。
それがどうも感触がよくない(苦笑)。
で、仕事の忙しさにかまけて忘れてしまったのです(おい)。
そして、掲示板に書かれたお言葉で思い出した次第(滝汗)。

結局、二人の長女って名前なんだったんでしょうね(笑)。
あ、決めるのが面倒だから書いていないんじゃありませんよ(弁解)。


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