この作品に登場する町にはモデルがあります。
ただしそれをそのまま書くと、全員ベタベタの関西弁になりますので、
あえて場所は特定していません。

時代背景がわからない方でも、
楽しんで読んでいただければ幸いです。





同じ町の元市民だった、tweety様に捧ぐ

 

 
500000HIT記念作品

- Somewhere in those days -

 

(2)

昭和42年4月10日 月曜日


2004.9.8         ジュン

 










 

 翌日、碇家の部屋の扉をどんどんと叩く者がいた。
  その時、部屋に残っていたのはユイだけ。
  「は〜い、どなた?」と扉を開けると目の前には人はいない。
  あれ?っと目を落とすと金色の髪の毛が。
  咄嗟に昨日の夜の子だと、ユイはすっと膝を落とした。

「こんにちは」

  アスカは顔を赤らめながら少し目を俯かせて応じる。

「こ、こんにちは」

  ユイはまた笑いがこみ上げてきた。
  うちの息子相手にはあんなに大胆不敵なのに、どうして大人相手にはこんなにしおらしいのか。
  悪いなと思いながらもついからかいたくなってしまう。

「おばさんにご用?」

  ぶるぶるぶると凄い勢いで首を振るアスカ。

「じゃ、回覧板かな?」

  また、高速で首を振る。
  ムチ打ちにならないのかしら、この子。

「それじゃ、何かしら。もしかして、シンジにご用かしら?」

  息子の名前を持ち出した途端に、アスカの顔がぱっと輝く。
  おやおや、まさか一目惚れ?
  まあ、シンジは私に似て可愛いから、当然かもね。
  かなり自惚れた考えを浮かべながら、ユイはアスカにとっては残酷な答を返した。

「ごめんね。シンジは幼稚園なのよ」

  えっと声にならない叫びをあげて、アスカはぽかんと口を開けたまま。
  彼女はシンジが留守だという状況をまったく考えてなかったのである。
  あまりに反応が凄すぎて、ユイの心はちくりと痛んだ。
  ちょっと前置きが長すぎちゃったわね。

「でも、今日はお昼までに帰ってくるから、
 お昼ごはんを食べたらシンジにおうちまで行かせましょうね?」

  ユイの渾身の微笑みに、しかしアスカは大きく首を横に振った。



「ただいまっ!」

  幼稚園の話題はウルトラマンの最終回一色。
  僕も手を振った、私もサヨナラって言ったとみんなが主張。
  まだ入園式をしたばかりで実は初めての幼稚園生活。
  幼稚園の先生たちも収拾が付かず、騒動を治めるのにてんやわんやだった。
  もっとも当の園児たちはこれで垣根がなくなり仲良くすることができたのだが。
  これは余談。
  シンジは幼稚園が楽しかったよと母親に報告しようと勢いよく階段を上がってきたのだ。

「遅かったわね、馬鹿シンジ!」

  優しい母の笑顔が待っているはずなのに、
  扉の向こうに立っていたのは赤みがかった金髪の少女。
  実に偉そうに腰に手をやり、笑顔は笑顔でも不敵なそれを浮かべている。

「えっ!」

  玄関先でシンジが硬直してしまったのは無理もない。
  夕べは暗がりだったからはっきりと見えてなかった上に、
  物干し台の方が高かったので少女の背の高さとかもよくわからなかったのだ。
  それにあの黄色いワンピースの色があまりに鮮烈だったから。
  こうして、昼間に目の前にしてみると、まず感じたのが自分と背丈がそう変わらない事。
  そして、赤みがかった金髪がとても綺麗だという事。
  一番強烈だったのが、ガキ大将のような笑みで自分を見ていた事だった。

「何ぼけっとしてんのよ。アンタの家でしょ。早く入んなさいよ」

「う、うん。おじゃまします」

「アンタ馬鹿ぁ?自分の家なんだから、ただいまっでしょうが」

「あ、うん。ただいま」

「おかえりなさいっ。遅かったじゃないの」

「え、う、うん。ごめんなさい」

  ユイは笑っちゃいけないと必死になっていた。
  流しのところに立って、まな板に握り拳をぐっとおしつける。
  それでも肩が震えるのを抑えることができない。
  見たい、実際に見てみたい。
  でも、見てしまったら畳に転がって笑い転げてしまうのは間違いないと思う。
  そんなことをすればこのプライドの高そうな少女は絶対に傷ついてしまうだろう。
  大人なんだから我慢しなきゃ。
  だけどまぁ、これっておままごとよね。
  見てみたいよぉ。
  好奇心と節度の狭間でユイは揺れていた。

  さて、なし崩し的におままごとに突入してしまった二人は…。

「はい。お荷物をど〜ぞ」

「あ、うん、ありがとう」

「いえいえ、ど〜いたしまして」

「えっと、どうしたらいいの?」

「突っ立ってないで座んなさいよ」

「はい」

「はいじゃないでしょ。パパはもっとカッコよくないと」

「えっ、う〜んと、何て言えばいいの?」

「馬鹿ね。アンタのパパの真似をすればいいんでしょ」

「え!父さんの?えっと…うむ」

 ぶっ!
 流しでユイが吹いた。
 慌てて口を押さえたが、間に合わない。
 恐る恐る振り返ると、金髪の少女は悲しげな目で睨んでいる。

「ごめんねっ、シンジが主人の真似したものだから、つい…」

「似てたの?」

「そっくり」

「ふ〜ん、そうなんだ。アタシはパパがいないからわかんないの」

 一瞬、ユイは息を呑んだ。
 そうだったのか。
 全然気付かなかった。
 いや、だからこそ強気と内気が彼女に内在しているのだった。
 私としたことがうかつね。
 心の中でこつんとユイは自分の頭を打った。
 だがここで同情したような顔をしてはならない。
 そのことは自分にはよくわかる。
 自分もそうだったのだから。

「あらあら、でもね、うちのパパさんは普通のパパとは違うのよ」

「そうなの?」

「ええ、凄く変わってるんだから」

「ふ〜ん、じゃシンジ、アンタ別のパパできる?」

「できないよ。知らないもん」

「なんだ。仕方ないわね。じゃ、その普通じゃないのでいいわ」

「父さんは凄いんだもん。普通じゃないもん」

「はいはい」

 少女は一人前に肩をすくめた。
 この辺りのしぐさは日本人には真似できないわね。
 ユイは微笑むと玄関に向かった。

「少しだけ出てくるからお留守番お願いね」

「任しといてっ!」

 息子より先に少女の方が返事する。
 これは我が息子はかなり振り回されそうね…。
 そう思いながら、ユイは階段を降りていった。
 彼女の行き先はすぐ近く。
 表通りの惣流家。
 裏側が面しているが、碇家の文化住宅は裏通りの未舗装道路。
 惣流家は表通りにあるのだが、なぜか玄関は通りから中に入らないといけない。
 大きな玄関が表にあるのだけれども、そこは戸板で塞がれている。
 ユイはその戸板と付近の様子を今更ながらにまじまじと見た。
 どこか懐かしいような雰囲気がそこには漂っている。
 昔は何かここでしていたのね。商店じゃなさそうだけど…。
 そこを横目に見て短い脇道に。
 ここはユイのお気に入りの場所だった。
 花壇をつくっているのは他の家にもある。
 だが、ここの花壇は外国風なのだ。
 ユイが通っていたミッションスクールの中庭に雰囲気が似ている。
 花や蔦が計算されて配列されている。
 ほんの3mほどが回りの下町の光景とは明らかに一線を画していた。
 
「で、その先がどうして純和風の格子戸になるのかな?」

 思わず口に出た。
 ここに来るのは3度目。
 前の2回は二階の窓に干していた洗濯物が惣流家の裏手に落ちたため。
 惣流家の未亡人は快く洗濯物を回収してくれ、お菓子のお土産もつけてくれた。
 「私にもお宅と同じような年頃の孫がいるんでね」と優しげに笑って。
 「それじゃ毎日落としますよ」と笑うユイの肩を彼女はぽんぽんと叩いた。
 だからその2ヵ月後にまた洗濯物を落としたときは、
 ユイは真っ赤になって「わざとじゃないですよ」と切り出したものだった。
 さて、その惣流家の未亡人は白人女性。
 ただし日本語はぺらぺらだ。
 無口なゲンドウよりも日本語は達者かもしれない。
 戦前に日本人の夫と結婚し、それからずっとここに住んでいたらしい。
 ただ白人といってもドイツ人なのでそれほど肩身は狭くなかったようだ。
 ドイツは日本の同盟国だったから。
 そして、復員してきた夫とこの街でずっと暮らしてきた。
 10年前に最愛の夫を失っても。
 ユイはこの未亡人が好きだった。
 あまり外には出ないようだが、
 毅然とした雰囲気だが、その中に温かさが隠されているのがよくわかる。
 ミッションスクールにいたアメリカ人の先生のように。
 成績優秀なユイが大学に進学せずに結婚すると宣言した時、彼女だけは賛成してくれた。
 勉学だけが人の生きる道じゃない。貴女にしかできないことをなさい、と。
 ユイは自負していた。
 世界中で、ゲンドウの妻をやりこなせるのは、この私だけだと。
 
 こんこんっ。

「はい、どなた?」

「裏のアパートの碇です」

 少し重い足音がして、格子戸が開く。
 唇に笑みを浮かべ、未亡人がユイを見下ろす。
 20cmは背が高い。
 
「どうしました?洗濯物ですか?」

「いえ、お孫さんを預かってますので、身代金を要求に参りました」

 こんなジョークが通じるのかしら?
 少し不安だったが、何となく確信があった。
 未亡人は「まあ!」と口を手で押さえた。
 そして、真剣な表情でこう言ったのである。

「お昼からハンバーグって言うのは贅沢でしょうかね」



「はい、どうぞ」

「わっ、ハンバーグっ!」

「あれ?これグランマの?」

「ぐらんまって何?お店の名前?」

「アンタ、ホントに馬鹿ね。グランマはおばあちゃんのことでしょ」

「へえ、君のおばあさんの名前はグランマっていうんだ」

 アスカはあきれた顔をした。

「アンタ馬鹿ぁ?英語でおばあさんのことをグランマっていうのに決まってんでしょ!」

「英語ってアメリカ語?」

 あああっとアスカが小さな頭を抱えてしまった。
 シンジは怪訝な顔。
 この当時の下町の幼稚園児では、シンジクラスでも末は博士か大臣かと言われていたくらいだ。
 したがってアスカのレベルが高すぎるということなのだが…。
 そのアスカは明らかにいいカッコをしてみたかったようだ。
 心持ち顎を上げると、澄ました表情で口を開いた。

「ぺらぺらぺ〜ら」

 シンジの耳にはそうとしか聞こえなかった。
 ただ素直に感心して、顔を輝かせる。

「凄いや。アメリカ語?」

 アスカはしかめっ面でシンジを睨みつける。
 そして、さらに英語でべらべら喋り続けた。
 お茶碗にご飯をよそってきたユイがその言葉に耳を傾ける。

「へぇ、そうなの。お母さんは雑誌の記者をしてるの?」

 アスカが口を閉ざした。
 意表をつかれた様な顔でユイを振り返る。

「おばさん、英語わかるの?」

「少しね」

「じゃ、ドイツ語は?アタシ、ドイツ語も喋れるのよ」

 顔はユイの方を向いてるが、意識は完全にシンジの方だ。
 明らかにシンジに自慢しているようだ。

「ふふ、ミッションスクールでは英語だけだったからなぁ。でも、うちのおじさんはドイツ語を喋れるわよ」

 その言葉にアスカよりもシンジが驚く。
 
「本当?シンジのパパってドイツ語話せるの?」

「う、うん。少しね」

「私は少しじゃないわよ。ちゃんと喋れるもん」

 まだ小さな二人は気付かなかった。
 ユイが喋りすぎたと後悔していたことを。
 
「だってね、アタシもうすぐドイツに行くのよっ」

「わっ!ドイツって外国でしょ。凄いね」

 ふふんと少女は得意そうに笑った。
 
「さあさあ、二人ともお喋りしていないでいただきなさい」

「うん、いただきます!」

「いただきまぁすっ!」

 美味しいね、当たり前でしょ、などと食べながらも二人の話は続いている。
 ユイはすっと台所に戻ると、ゲンドウ用にわけておいたハンバーグをひとつお皿に入れ、それを蝿避け網の中に置く。
 惣流未亡人からは5個いただいたのだが、子供たちに2個ずつ。
 そしてゲンドウに残りの一個。
 どうせお前はどうしたと聞かれるから、お昼に食べたと嘘をつく予定。
 シンジに変なことを言われてはいけないから、さっさとご飯に漬物でお昼を食べてしまうユイ。
 今晩のおかずは、ゲンドウに余計な気を使わせないように見た目が豪華に見えるようなものにしないと。
 


 食後、アスカはシンジのお絵かき帖を発見。
 この頃の幼児のそれとご多分に漏れず、中身は怪獣、ウルトラマン、新幹線に車。
 うつ伏せになったアスカは一枚一枚をしげしげと眺め、ふぅ〜んと声を上げる。
 見られているシンジの方は正座して、まるでまるで審判を受けているようだ。
 4畳半の方で遊んでいる二人を横目にユイは6畳間で読書。
 彼女は自分の愛読書を数冊だけ持ち出していた。
 ゲンドウには旅行鞄に詰め込んできたと言ってあるが、実際には持ってきたのはほんの数冊。
 今押し入れに入っているその旅行鞄の中に何が詰め込まれているのかは、彼女以外の誰も知らない。
 妻の鞄を隠れ見るようなゲンドウではないから。
 さて、ユイは子供の時から本に親しんできた。
 暗誦できるほど読んできたが、やはり本そのものが手元に欲しい。
 少女の時に読んで虜になった「小公女」「家なき娘」「赤毛のアン」。
 そして最後に買った「青年の樹」も持ってきていた。
 この文庫を読み終えた数日後にあの事件が起きたのだった。
 この時、ユイが読んでいたのは「赤毛のアン」。
 まさか、あのお絵かき帖で息子の頭をぶちはしないだろうが、
 アスカの髪の毛の色がユイにその本を選ばせたのだろう。
 こんな下町で赤金色の髪の毛の少女に出逢うとは。何となく不思議な感じである。
 
「アンタ、ゼットンの胸の色は黄色よ!」

 お絵かき帖の最後のページ。
 昨日の夜。あの騒動の後に描いた絵だ。
 ウルトラマンとゼットン。
 ウルトラマンはきちんと赤いクレヨンを使っているが、ゼットンは黒だけ。

「え、そうなの?」

「アンタ、昨日の観てたんでしょうが」

「うん、観てたよ」

「だったらっ」

「うちのテレビ、カラーじゃないもん」

 あっと口を開けたままのアスカ。
 ユイはこの一瞬の静寂にこの少女の優しさを覚えた。
 見た目の生意気さでは「なんだ白黒なの」という言葉が出てきてもおかしくない。
 まだ小さな子供なのだ。優越感を覚えてもいいはずなのである。
 
「そっか、そうなんだ」

「うん、色はご本で見るの」

「へぇ、どんなご本持ってるの。見せなさいよっ!」

 ユイは微笑んだ。
 屈託のない息子に対して、少女は話を逸らす。
 その無骨な話の逸らし方に好感を持ったのだ。
 そんなこともわからずに、シンジはいそいそと自分の本を持ってくる。
 月に一冊くらいは好きな本を買ってあげようとしているユイだ。
 ほとんどがウルトラマンの本になってしまっているのは仕方がないだろう。
 この時期、怪獣とウルトラマンはシンジの心の大半を占めていたかもしれない。
 
「アタシ、これ持ってない。ママが漫画嫌いなの」

「お母さんが漫画を嫌いなの?テレビも?」

 アスカは唇を尖らせた。

「1時間だけ見せてくれるの。グランマの家にお泊まりするときもね、指きりさせられたの」

 不満そうに喋っていたアスカがそこでにっと笑った。

「でも、グランマは好きなだけ見てもいいって。グランマ、大好きっ!」

 厳格そうな顔つきだけど、惣流さんも孫には甘いのね。
 ユイは本に栞を挟んだ。
 今日はここまで。
 文章や展開を読んでいるのではなく、本を読むという行為自体を楽しんでいたのだ。
 
「シンジ、母さんは買い物に行ってくるけど、どうする?」

「え…」

 即座の返事を躊躇うシンジはアスカの視線を感じた。
 ぺたんと座って漫画を読んでいた彼女だったが、シンジの返事を全身で聞いている。
 もちろん、幼児のシンジにそれを察することができるわけがない。
 ただ、その場の雰囲気でまだ一緒に遊んでいたいという気持ちにはなった。
 もっともユイもそう思えばこそ、先ほどのような問いかけをしたわけだ。

「えっと、お留守番してる。いい?」

「いいわよ。その代わり、お外に出ちゃダメよ」

「任しといてっ!」

 またも返事はアスカだった。
 しかも、畳の上に立ち上がり、腰に手をやり足を踏ん張って。
 息子の方はにこにこと笑いながらそんなアスカを見ている。

「じゃ、よろしくね」

 そう言い残し、ユイは買い物籠をぶら下げて外へ。
 市場の方に向おうとすると、丁度惣流家の未亡人が玄関前の花壇に水をやっている。
 金属のバケツの水を柄杓ですくって水を撒く。
 如雨露を使った方が外国人っぽいけど、この人にはこういう姿は似合うわね。
 その時ふっと彼女の頭に浮かんだのは“麗しの花の小道”という言葉。
 ふっ、アンじゃあるまいし。それにセンスがないってアンに滅茶苦茶言われちゃいそうだわ。
 
「こんにちは」

「おや、買い物?」

「はい。お孫さんはうちの息子とお留守番をすると」

「ほう、えらく気に入ったみたいだね。シンジちゃんのことを」

 未亡人はシンジの名前を知っていた。
 話したことはなかったはずなのにと、怪訝な顔のユイに未亡人は優しく微笑みかけた。

「アスカがね、夕べ嬉しそうに教えてくれたのさ。お友達ってね」

「ああ、それで」

「今日はね、繁田さんでメンチカツが安かったよ。5つで4つ分の値段さ」

「あ、数がピッタリ。それ、いいですわね」

 ぽんと手を叩くユイに老女というにはまだ若すぎる彼女は目を細めた。
 なるほど、さっきのハンバーグは子供たちに2つと、亭主の晩御飯に1つか。
 自分は食べてないわけだ。5つしかなくて悪いことをしたわねぇ。
 しかしまぁ、良妻を絵に描いたような子ね。
 賢母の方もなかなかのようだし。
 うちのキョウコもこういう子に育っていれば…。

 クリスティーネは密かに思い、そしてそんな自分を恥じた。
 育てたのは他ならぬ自分ではないか。
 それに別にキョウコの夫は悪人ではなかった。
 アメリカ人でその上軍人だっただけ。
 ただこの街で空襲を受け、命辛々逃げ惑った記憶は消えはしない。
 B29の爆弾で家を失い知り合いを失い、グラマンの機銃掃射で幼い子供までが殺されるのをこの目で見た。
 日本軍もドイツ軍もそれに類したことはしていただろう。
 それが戦争。
 されど自分の身体で体験したことだ。
 アメリカの軍人と聞くと、どうしても身構えてしまう。
 それで強く反対してしまった。
 その結果、キョウコは家を飛び出してしまった。
 “くりさん”は結局彼女の結婚式にも出なかった。
 その次に彼女が娘と会ったときは、既にアスカは2歳を過ぎていたのである。
 喪服の娘は何も言わずに母親の胸で泣き崩れ、
 その横でアスカは見慣れぬ女性をただじっと見つめていただけだった。
 ラングレー少尉は昭和38年年末に南ベトナムへと異動し、昭和40年2月に戦死。
 アスカは写真でしか父親の顔を知らなかった。

 無理矢理にでも一緒にさせない方が良かったのだろうか?
 クリスティーネは眠れぬ夜に時々思う。
 そして、その度にアスカの写真を見て思い直す。
 この幼い子供の存在を消すような考えはいけないと。
 その後、彼女は折にふれてアスカの面倒を見に東京に出向いた。
 雑誌社で働くようになった娘の負担を減らすためという意味もあった。
 それよりも保育園で母を待つというアスカが可哀相だという思いも強かったのだ。
 しかし、このままここで暮らして欲しいという娘の訴えには首を横に振ってしまった。
 孫娘には悪いが、あの街に骨を埋めたい。
 その思いが強かった。
 それに娘にドイツ人の恋人ができたことを知った所為もある。
 その男はアスカのことも疎んじてはいない。
 新しい家庭を持つには自分のようなものはいない方が良いと判断したわけだ。
 
「あと一週間か。しばらくはアスカの顔を見ることもできないねぇ」

 蹲ったクリスティーネは掌に掬った水を静かにチューリップの葉に滴らせた。
 葉の上に浮いた水滴が集まり、葉元から茎を伝っていく。
 5月にはキョウコたちはドイツへ旅立つ。
 彼の赴任が終わり、母国へ帰るのだ。
 その時にキョウコは籍を入れ、アスカともどもハンブルグへ。
 ミュンヘン生まれのクリスティーネとしてはあんな煤臭い街と思ってしまうのだが、
 それは今住んでいるこの下町も同じこと。
 毎日が工場のスモッグに覆われた空を見上げて暮らしているのだから。
 人間はつくづく自分中心なのだと、クリスティーネは苦笑する。
 ドイツへ行かれてしまっては、もう東京にいた時のように孫や娘と会うことはできない。
 せめてアスカが結婚する時までは生きていたい。
 20年後か、もう少し後か…。
 あと20年としてその時自分は69歳。
 死んだ亭主はお前は心臓が悪くなりそうだから気をつけろと言っていたが、まだまだ大丈夫。
 早く結婚して正解だったわと彼女はしみじみと思った。
 まさか39歳で亭主と死別するとは想像もしていなかったが。
 さすがに親切なご近所も外国人への再婚の世話までは躊躇ってくれていた。
 それはクリスティーネには助かっている。
 断るに決まっているからだ。
 自分の男はあの亭主だけで充分。
 その点、娘とは考え方が違うと彼女は溜息をついた。
 どちらが正しいということは言えないと思う。
 それでもクリスティーネは自分の考えを貫く。そういう性質なのだから仕方がないと。

「よいしょっと」

 立ち上がった彼女は孫娘が新しいボーイフレンドと遊んでいるはずの部屋の窓を見上げた。
 アスカはどっちに似ているのかねぇ。
 とにかく幸せになってくれれば良いが。
 


 その孫娘はお昼寝をしていた。
 ユイが「ただいま」と帰ってくると、部屋の中は静まり返っている。
 一瞬、どきりとして首を伸ばすと、奥の4畳半に二人が寝転がっている。
 慌てて奥へ進むと、座布団を枕にして気持ちよさそうに寝息をたてていた。
 
「あらあら、お手手まで繋いじゃって。シンジも結構手が早いのかな?」

 薄い布団を二人のお腹にかけようとすると、しっかりと握っているのは金髪の少女の方の手。
 ユイはふふふと声に出して笑った。

「白人の方が積極性が強いのかもね。ああ、でも可愛い。女の子も欲しいなぁ」

 そう呟くとユイは溜息をついた。
 今の暮らしでは無理。三人が精一杯だ。
 子供が二人になると自分も働きに出ないと暮らしていけない。
 我慢しよう。
 彼女はつまらなそうに頷いて、そして買い物籠を台所へ運ぶ。
 揚げたてのメンチカツはハンバーグと一緒に蝿避け網の中に。
 それから保存がきくお菓子を水屋の中に。
 隠れてお菓子を食べるようなシンジではないが、しまい込んでしまうのは母親の習性なのだろうか。
 今日のアスカではないが、幼稚園に行き始めたのだから友達が遊びに来るかもしれない。
 そのためにお菓子を買っておいたのだ。
 


「おい、碇」

 ゲンドウが振り向く。
 社長が雑誌を手に立っていた。
 
「済まんが、ここを訳してくれんか。どうしても意味が通じん」

「あと20分待ってもらえませんか。この行程が…」

「ええで。わしが見とくさかいに」

 関西弁の同僚がにやっと笑う。
 この町工場では大学などというとんでもない学歴を持っているのが二人いる。
 社長の冬月とゲンドウ。
 一年半ほど前にいきなり入ってきた無口な男がそんな学歴を持っているとは誰も気付かなかった。
 酒も呑まず、付き合いも悪い。仕事が終わるとさっさと服を着替え帰ってしまう。
 最初はそんなゲンドウをみんな嫌っていた。
 社長が工場長にゲンドウの学歴のことをふと漏らしたこともみなの目を白くしていた。
 だが、そういう偏見はやがて消えた。
 学歴が高いので見下しているのではなく、ただ無愛想なだけだということがわかったからだ。
 その上、仕事は間違いがない。
 繊細さと粘りが要求される部署だったが、それこそ無駄口も叩かずに一心不乱に仕事をする。
 残業も厭わないし、判断にも間違いがない。
 所謂職人肌のタイプなのだと、みなが了解したわけだ。
 町工場にはそんな職人肌のオヤジが少なからずいる。
 逆にそれがわかってしまえば、そんなゲンドウの無愛想面も面白みが出てきた。
 先ほどの関西出身の男などは休憩時間などに何度もゲンドウを笑わせようとする。
 そして「今笑ったやろ?」などと茶々を入れ、場が和むほどになった。
 彼を笑わせることは難しいが、彼がいても別に変な空気にはならない。
 
 それがゲンドウには不思議だった。
 職場に溶け込んでいる自分が。
 学校にいたときは彼は異端児だった。
 小学校も大学もそうだった。
 無愛想な表情が嫌われていたわけだ。
 そのようなゲンドウでも恋はする。
 小学校5年生の時に初恋をした。
 副委員長で勉強もでき面倒見のいい女の子だった。
 ある日彼はその子に消しゴムを借りた。
 その次の日、彼はお礼だと新しい消しゴムを渡し、彼女は笑顔でお礼を言い受け取った。
 ゲンドウ少年は幸福だった。
 2日ばかりは。
 その消しゴムを同じクラスの嫌われ者が使っているのを見るまでは。

「へっ、貸してなんかやらねぇぜ。○○からもらったんだからな。へっへっへ!」

 ゴミ箱に捨てられなかっただけまし……なのか?本当にそうなのか?
 少年は自問自答し、そして自嘲した。
 もう人を好きになどなるものかと。

 そういう類の誓いは簡単に破られるものである。
 中学生になった彼は1年先輩の図書委員に恋をした。
 ただ、今度はゲンドウは何もしなかった。
 彼女を見ているだけでいい。それだけでいいと思っていた。
 ところが、ゲンドウは殴られた。
 その子のボーイフレンドに。
 もし、その相手が格好のいい男だったなら、ゲンドウも殴り返していたかもしれない。
 その頃ゲンドウは既に175cmを超えていた。
 横幅はなかったが威圧感はたっぷりのゲンドウに、そのボーイフレンドは眦を吊り上げて向ってきた。
 彼の足が震えていた。
 怖かったのだ。下級生だが明らかに自分より強そうなゲンドウに向っていくことが。
 2発殴られて、ゲンドウは体育倉庫の裏で青空を見上げていた。
 「二度と彼女に近づくな」と決め台詞を言われたような気もする。
 殴られたのに、憧れていた彼女にふられたのに、今回は自嘲癖が出なかった。
 何故か羨ましかったのだ。
 あんな風に必死になって向ってきた彼が。
 仰向けになって流れていく白い雲を見つめ、ゲンドウはできないと思った。
 憧れの彼女のためにあんな風に戦うことが。
 異性を好きになるというのはどういうことなんだろうと自問自答する。
 恥も外聞もなく、どんな相手であっても戦って獲たいということか?
 それは嫌われていても強引に…。
 ここに至ってゲンドウは自嘲した。
 結局は身体が目的ということか?
 まったく何て醜い性根のヤツなんだ、俺は。
 もう二度と恋などすまい。
 
 高校は隣の県の男子校だった。
 相次いで両親を失っていたゲンドウはこの高校の寮に入る。
 回りは男ばかり。無骨なのからなよなよとしたのまで、すべて男。
 だがいくら女性に相手はされなくても、ゲンドウに衆道の趣味はなかった。
 ところがやはり恋はする。
 今度の想い人は年上の人。
 体育の時間に柔道をしていて左腕を折ったのだ。
 その治療のために通院した診療所の看護婦に心を奪われてしまった。
 きっかけはただ「馬鹿な真似をするんじゃないわよ」と微笑まれ、つんとおでこを突付かれたから。
 喧嘩をしたために骨折したのだと誤解されたのだ。
 彼の風貌から彼女はそう思い込まれてしまったのだが、ゲンドウは怒ったりはしない。
 彼女に一目惚れをしたのだから。
 そして、またもや恋は破れた。
 一ヵ月後の夕焼けの頃、彼女と道で出くわした。
 その彼女は子供と手を繋ぎ、赤いランドセルを背負ったその子は彼女のことを「お母さん」と呼びかけた。
 結婚していただけではなく、こんな大きな子供まで…。
 六分儀ゲンドウ、痛恨の思い違いだった。
 そして、自棄になったのか何と学生服のまま駅前のパチンコ屋に突入。
 パチンコ台のガラスを割り、弁償と停学のしっぺ返しを貰った。

 ゲンドウはパチンコ台のガラスを左手で軽く撫でた。
 このあたりに拳骨を叩きつけたのだ。
 割れ方が良かったのかその時、かすり傷ひとつ拳にはしていない。
 そのかわりパチンコ屋の店員に両方の頬を殴られ口の中は血塗れになったが。
 ゲンドウはその頬も撫でる。
 すっかりごつごつになってしまったな。
 あの時はけっこうすべすべとしていたものだが…。まあ、まだ16歳になったばかりだったからな。
 苦笑した彼は指先に集中する。
 4発目で天のチューリップが開く。
 よし、今日は調子がいいぞ。
 他人にはわからない特上の笑みを浮かべたゲンドウだったが、その時邪魔が入った。

「お父さん!」

 弾き過ぎたパチンコ玉はチューリップの遥か向こうを飛び去った。
 振り返ると、そこには愛する息子。

「シンジか。うん?」

 店内の時計を見る。
 まだ6時30分。
 
「どうした、少し早いな」

「あのね、僕ね、おうちのお風呂に入るの」

「おうちの?行水か?」

「違うよ。あのね、あれ?」

 シンジが周りを見回す。

「あれ?あれれ?」

「ふん、どうした?」

 ゲンドウの“ふん”が愛情たっぷりの鼻笑いだと家族以外の誰がわかろう。
 
「あっ、いたっ!もう、どうしてそんなところに」

 ちょこちょこと入り口の方に戻っていくシンジ。
 ガラス戸の向こう側。曇りガラスになっている下半分に小さな影が見える。

「ほら、入りなよ。怖くないよ」

「だって、ママが怒るもん。あんなのは下品だって」

「下品って何?」

「知らないわよ、そんなの。でも…」

「大丈夫だって、お父さんがいるから怖くないよ、おいでってば」

 ゲンドウは嘆息した。
 あのおっとりとしたシンジがあのように積極的に。
 その相手は昨日の夜の少女だとは声ですぐにわかった。
 そしてシンジに引っ張られて通路を恐々とやってくる金髪の少女。しかも物凄く可愛い。
 これは完全にミスマッチだった。
 油びきされた焦茶色の床のあちこちに吸殻が散り、ところどころに痰が吐かれている。
 きれいな場所ではない。
 空気も悪い。工場の煙突から吐き出されているそれに比べればかなりましだが。
 それでも時々扉を開けて中の煙った空気を入れ替えねばならないのだ。
 そんな場所をおずおずと歩いてくるアスカ。
 常連客も店員も唖然とするのは仕方がなかっただろう。
 
「ふん、友達か」

「うん、アスカって言うんだよ」

 ゲンドウはアスカを見下ろした。
 アスカは半べそ。
 そんなに怖いか、俺の顔は。

「あのね、アスカのおばあちゃんのおうちのね、お風呂に入るんだよ。
 だから早めに晩御飯を食べるから帰ってらっしゃいって」

「そうか」

 ゲンドウはちらりと残り玉を見た。
 始めたばかりだから球受けには十数個しかはいってない。
 今日はあきらめよう。

「シンジ、するか?」

「え?あ、僕はいいよ。アスカがしなよ」

「えっ!」

 アスカが素っ頓狂な声を上げた。
 ゲンドウも驚いた。

「ほら、してごらんよ。すっごく面白いよ」

「う、うん…」

 そこは子供だ。
 興味はある。
 少しおどおどとしながらパチンコ台に近づく。

「お父さん、お膝に乗せてあげてよ。いつもみたいに」

 ゲンドウ万事休す。
 ユイがこの光景を見れば腹を抱えて笑ったことだろう。
 およそ物に動じない彼が困ってしまっているのだ。
 膝の上にこんなに可愛い少女を乗せる。
 そんなことをこの俺がしてもしいのだろうか?
 しかしいつまでも戸惑ってばかりはいられない。
 ゲンドウは脚を開き、シンジの定位置である右足の膝を開放した。
 息子はといえば、父親の狼狽にはまるで気付かず。
 ここにこうやって座るんだよとアスカへこまめにアドバイス。
 そして、いつの間にかゲンドウの膝にはアスカのお尻がちょこんと乗っていた。
 やっとの思いで見下ろすと、ふと見上げたアスカの青い瞳と正面衝突する。
 ユイ、すまん。
 何がすまないのか自分でもよくわからないうちに、ゲンドウは心の中で妻に詫びていた。

「アリガト…」

 小さな声でアスカが言う。

「うむ…」

 内心の動揺とは裏腹に、いつもの如き落ち着いた返事。

「ほら、こうやって打つんだよ」

 見本を示したシンジの玉はチューリップから外れる。
 
「あ、外れちゃった。あのお花を狙うんだよ、ね」

「う、うん…」

 びゅん、ちんっ。
 思い切り弾いた玉は盤の端の鐘を空しく鳴らす。

「もっと、ゆっくり打たなきゃ」

「うん」

 びゅっ、すこん。
 緩やかに打った球は盤上に辿りつかず逆戻りで玉受けに。
 
「ダメだなぁ。もう少し、強く」

「うん」

 ゲンドウはおかしかった。
 一人前にコーチしているシンジの姿が。
 その言葉を素直に受けて玉を弾くアスカも可愛い。
 このやりとりはユイに教えてやろう。
 きっと涙を流して喜ぶだろう。

「あ、入った!」

「やった!」

 ちん、じゃらじゃら。
 最後の一球で開いていたチューリップにやっと入った。
 玉受けに出てきた10個の玉にアスカは顔を輝かせた。
 そして、ぴょんとゲンドウの膝から飛ぶと、玉受けに手を入れる。

「これ貰っていいの?」

 シンジにそう訊く。
 シンジにはわからない。
 そこで父親の顔を見上げる。
 ゲンドウはしかめっ面で軽く頷いた。

「ダメだ。だが…ひとつくらいならよかろう」

「三つはダメ?」

 期待に満ちた瞳で見上げるアスカにゲンドウは苦笑した。
 やはり頷くしかない。

「やった!」

「よかったね」

「じゃ、これシンジにあげる」

 アスカはシンジの掌にパチンコ玉をひとつ置く。
 
「大事にするのよ。きれいね、ぴかぴかで」

「うん、きれいだ」

「うふふ、で、これは私の」

 アスカは自分の左手にパチンコ玉を置く。
 それをぐっと握り締める。

「それから、これはシンジのパパにあげる」

 アスカは右手をゲンドウに突きつけた。
 親指と人差し指に挟まれた銀色の玉。
 ゲンドウは右手の拳を開いた。

「はい、プレゼント。ふふふ」

 置かれた玉がころころとくすぐったく掌の上を転がる。
 ゲンドウは拳を握ると、パチンコ玉をポケットに。
 子供二人もそれに習う。
 
「では、帰るか」



 今日は昨日と風景が違う。
 昨日はお父さんの背中でいつもと違う街を見たような気分だった。
 そのことをシンジはアスカに話す。
 ゲンドウは子供たちの後ろをゆっくりと歩いていた。
 時々、ポケットの中のパチンコ玉を指先で転がしてみる。
 女の子というのもいいかもしれない。
 俺の今の稼ぎでは無理だが。
 そんな時、シンジが言った。

「肩車も凄いよ。すっごく高いんだから」

「アタシ、そんなの知らないもん。パパいないんだから」

「あ、そうか。ごめんね」

 ああ、この子はそうなのか。
 ゲンドウは軽く目を瞑った。
 そして、彼は衝動的に動いた。

「きゃっ!」

 ふわっと身体が浮く。
 アスカは空に放り投げられたのかと思った。
 だが、すぐに自分のお尻がしっかりとした場所に納まったのを感じる。
 物凄く高い場所。
 母親や祖母にしてもらったおんぶよりも遥かに高い場所。
 そこがゲンドウの右肩だとわかるのに、数秒かかった。

「しっかりつかまってなさい」

「う、うん」

 アスカは両手でゲンドウの頭にすがりつく。

「うわぁっ!高い?」

「うんっ!すっごく高いよっ!」

「いいなぁ…」

「シンジはダメだ。二人一度にはできん」

「ちぇ…」

「ふふふ、いいでしょ、シンジ!」

 アスカは明るく笑った。
 すぐ近くで聴こえる、その笑い声がゲンドウにはくすぐったかった。
 なにやら耳元が熱くなるくらいに。
 そして、アスカは思った。
 新しいパパはこんなことをしてくれるかな、と。





 シンジはぽかんと口をあけていた。
 引っ越してくる前には碇家にも家庭風呂があった。
 タイルで覆われた丸いお風呂。それは銭湯の小型版みたいなものだった。
 そのことは微かに覚えている。
 それにテレビとかでお風呂の場面を見たこともある。
 だから、外国の人は泡ぶくぶくのお風呂に入るものと思い込んでいた。
 でも、目の前にあるのは大きな木のお風呂。
 よじ登らないといけないくらい大きい。
 それにこの匂い。
 シンジはくんくんと鼻を鳴らした。

「へへへ、いい匂いでしょ」

 先に入っていたアスカが振り返った。
 さすがに5歳児。
 何も隠そうとはしていない。
 それはシンジも同様。

「うん、すっごくいい匂い」

「アタシもグランマのとこの木のお風呂大好きなの」

「おうちのお風呂は木じゃないの?」

「違うわよ。つるつるのお風呂」

「つるつる?」

 プラスチックという言葉は二人は知らない。
 プラモデルがプラスチックモデルのことだということでさえ知らないのだから。
 シンジは銭湯の表面がタイルのお風呂しかわからない。
 片や、アスカは銭湯を知らない。
 木のお風呂に並んで腰掛けて、二人は自分の知っているお風呂のことを話した。
 まるでサイコロのように正方形の惣流家のお風呂。
 その半ばあたりに腰掛がある。
 直接熱湯が当たらないような仕掛けになっている場所の上側に蓋のようにして、幅30cmくらいの板が渡っている。
 その場所がアスカやシンジのサイズには丁度いい腰掛になるのだ。
 
「ねぇねぇ、明日はそのせんと〜に行こうよ」

「え?僕は行くと思うけど?」

 ついておいでよとは言わないシンジに、アスカはぷぅと頬を膨らませた。

「アタシは行っちゃいけないってことなのぉ?」

「だって、おばあちゃんがダメって言うんじゃないの。こんないいお風呂があるんだもん」

「行くの、行くの、行くのっ!」

「う、うん」

「でね、でねっ、アタシもそのフルーツ牛乳とリンゴジュースを飲むのっ」

「ふたつも飲んだらお腹が痛くなっちゃうよ」

「じゃ、アンタがどっちか飲みなさいよ。半分っこしよっ」

 これは名案だとばかりにアスカが笑う。
 その時、扉をこんこんとノックする音。
 
「これ、早く身体を洗いなさい。のぼせてしまうよ」

「はぁい」

 いい返事を返して、アスカは舌をぺろりと出した。
 
「ね、シンジ。洗いっこしよっ!」




 



「ユイ…、その…なんだ…つまり…」

「子供はダメですよ」

 おずおずと切り出したゲンドウにユイはきっぱりと言い放つ。
 シンジはぐっすりと夢の世界。
 今日の夢はアスカと一緒に遊んでいる夢。
 暗闇に包まれた部屋の中に二人の囁き声が微かに聞こえた。

「そうか……」

「気持ちはよぉくわかりますけどね」

 本当は私も欲しいんですよ…。
 その言葉はユイの心の中だけで発せられた。






<あとがき>

 お若い読者の方、まだ着いてきてくれてますか?
 今回は注釈はいたしません。あしからずご了承下さい。でも、要るのかな?少し揺れてます。

 洗いっこの続きは書きません。
 というか書けませんねぇ。

 この当時にたからものにしていたパチンコ玉。
 いったいどこにいってしまったんでしょうか…。
 グリコのおまけとかがぎっしりつまったカンカンに入っているかも。今度実家に行ったら捜してみましょう。

 次回はこの翌日。
 銭湯に行く話です。その銭湯の名は、伊吹湯。は〜い、マヤちゃん、出ておいで〜。って、チョイ役だけどね。

 

 

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