この作品に登場する町にはモデルがあります。
ただしそれをそのまま書くと、全員ベタベタの関西弁になりますので、
あえて場所は特定していません。
時代背景がわからない方でも、
楽しんで読んでいただければ幸いです。
同じ町の元市民だった、tweety様に捧ぐ
- Somewhere in those days - 2004.9.11 ジュン
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次の日、アスカは物干し台に上がっていた。
背後ではクリスティーネが洗濯物を干している。
アスカはつまらなそうな表情で手すりに寄りかかっていた。
「仕方がないわよ、シンジちゃんは幼稚園なんだから」
「ぷぅ、アスカも幼稚園行きたい」
「ハンブルグに行ったら似たようなものがあるわよ」
「グランマのいじわる。そこにはシンジはいないもん」
「おやまぁ、よほど気に入ったようだね」
「うん、結婚してあげてもいいわよ」
「おやおや。シンジちゃんは困るでしょうねぇ」
「どうしてよ」
「こんな何もできないお嫁さんじゃあねぇ」
アスカはすっと洗濯籠からタオルを拾い、ばたばたと振ってそれから祖母に差し出す。
「はい、どうぞ」
「洗濯干しの手伝いくらいはできます、か。じゃ、洗って干すのはシンジちゃんの役かい?」
からかうクリスティーネにアスカは膨れてぷいっと横を向いた。
「グランマのウルトラいじわるっ!」
横を向いた先には碇家の窓。
その窓が開いた。
ぱっと輝いたアスカの顔は期待外れにふて腐れる。
「あら、アスカちゃん、おはよう!」
「オハヨ…」
「惣流さん、おはようございます」
「碇の奥さん、おはようさん」
「あの…できれば、名前で呼んでいただけませんか?」
クリスティーネは手を止めてユイを見下ろした。
彼女はニコニコ笑いながら、こう言った。
「だって、いつも怒ってるような感じじゃないですか」
「はは、そうだね。じゃ…」
「ユイ、です」
「そうか、じゃユイさん。それなら私のことも名前で呼んでほしいものだね」
ユイは緊張した。
舌を噛まないような名前だったらいいんだけど…。
「クリスティーネ。言いにくければ、くりさんでいいよ。古くからの知り合いはそう呼んでる」
「えぇっと、クリス、ティーネ、さん…」
ユイはにっこり微笑んだ。
「やっぱり、くりさんにします。おはようございます、くりさん」
「はい、おはようさん、ユイさん」
そのあと、二人の女は微笑みあった。
名前で呼び合うと、随分と親しくなったような気がする。
そんな二人を見てアスカは思った。
大人って変だ。あたしとシンジは最初から名前で呼んでいるのに、と。
そのシンジは幼稚園から帰りお昼を食べてから、惣流家を訪問した。
玄関先に座って出迎えたアスカは少しご機嫌斜めだった。
「遅かったわね…」
三和土に届かない足をぶらぶらさせながら、アスカは頬を膨らませて見せた。
お昼をシンジと一緒にと言うアスカの希望はクリスティーネにはねつけられた。
碇家の暮らしぶりは彼女には予想できる。
毎日のようにアスカが押しかけるのはよくない。
しかしそれをアスカに説明などできるわけがない。
それにシンジを呼んで食事を振舞うのもユイの気持ちがいいわけがない。
いきおい、ダメと言ったらダメという言い方しかできなくなる。
それでアスカはご機嫌斜めだったというわけだ。
「ごめんね。待った?」
「待ったわよ。100万年も待ったわよ」
「100万ってどれくらいなの?」
アスカはうっとつまった。
わかるわけがない。
「とにかく、目茶苦茶長い間なのっ」
「ごめんね」
シンジに他の言葉があるはずがない。
「仕方がないわね、上がんなさいよ」
「おじゃましま〜すっ」
明るく言って靴を脱ぐシンジ。
きちんとそれを揃えていくのはユイのしつけの賜物だ。
アスカに続いて階段をとんとんと上がると、惣流家の居間や台所などがある。
常識をまだ知らないシンジは一階にはトイレとお風呂しかない、この家のつくりを特に変だとは思ってなかった。
「おや、いらっしゃい、シンジちゃん」
「あ、おじゃまします」
きちんと頭を下げるシンジに、クリスティーネは目じりを下げた。
「偉いねぇ。ちゃんと挨拶ができてるよ。アスカはどうなんだい?シンジちゃんところに行ったら挨拶できてるかい?」
「してるわよっ!ねっ、シンジ」
「えっと…」
正直に考えてしまうシンジにクリスティーネは笑みを漏らした。
その後、二人はかくれんぼうをはじめた。
シンジの家と違い、惣流家には隠れるところがいっぱいだ。
ルールは隠れていいのは一階と二階だけ。外と物干し台は禁止というわけだ。
「もういいか〜い」
「もういいわよっ!探せるもんなら探してみなさいよっ」
アスカの声が一階から響く。
おやおや、どこにいるのかこれじゃもろわかりだよ。
クリスティーネは新聞の株式欄を見ながら鼻で笑った。
「えっと、どこかなぁ。下の方で聞こえたような…」
シンジがゆっくりと歩いていく。
アスカは探してもらえるまで我慢できるだろうか?
きっと自分から見つけてもらえるように色々するのに決まっている。
短気な上に独占欲の強い孫娘のことを彼女はよくわかっていた。
案の定、アスカは餌を撒いていた。
彼女が隠れたのは一階の使われていない部屋。
そこへの入り口を少し開いておいたのだ。
それにはもうひとつ理由がある。
その部屋の窓は雨戸で遮られているから、扉を開けていないと何も見えないのだった。
シンジは一階に降りると周りを見渡した。
「どこかなぁ…?」
その声を聞いてアスカはほくそ笑む。
「うん、お風呂かも…」
見当違いの場所を決め込んだシンジはその方角へ進む。
そして、その途中にあった少し開いていた扉を何の気なしに閉じてしまった。
げげっ!
一瞬にして回りは真っ暗闇。
アスカは予想もしなかった展開に声も出なかった。
彼女が隠れていたのはその部屋の真ん中辺りにある金属製のベッドの下。
まったく使われていない部屋なのだが、クリスティーネがまめに掃除をしているから埃は殆どない。
だからこそ、アスカがその下にもぐりこんだのだが…。
最初はアスカにも我慢ができた。
暗い部屋。誰もいない部屋。ここは死んだグランパが仕事をしていた部屋。その仕事は…。
そこまで考えてしまうと、急にアスカは怖くなってしまった。
こ、ここで、グランパはきっと…。
「うぎゃあっ!」
アスカは一声とんでもない大声を上げると立ち上がろうとした。
もちろん、ベッドの下にもぐりこんでいるのだから、立てるわけがない。
すぐに頭をベッドに打ち付けてべちゃっと顔と手から床に倒される。
それがアスカには怪物か幽霊かに押さえつけられたように思えた。
「うぎ、うげ、ぐぎゃあああっ!」
何とかその化け物から逃げようと這って逃げようとするのだがうまく身体は動かない。
叫び声を上げ続けながら、アスカは必死に逃げた。
広いといっても日本の家。
アスカの叫びはシンジにもクリスティーネにも聞こえた。
ただ勝手のわからないシンジは右往左往するだけ。
お嫁さんにする予定のアスカがあんなに凄い声で泣き叫んでいるのだ。
僕が助けないと、とは思ってようやく声がする先を特定した。
クリスティーネも階段を降りてきた時、シンジは扉を開いた。
「うわわあああぁ〜んっ」
その瞬間、シンジは中から飛び出してきた金色のオバケに飛びつかれてしまった。
廊下に押し倒されるシンジ。
その上でアスカは狂ったように泣き叫びシンジの胸をぽんぽんと叩く。
「怖かったよぉぉ〜。どうして閉めたのよぉ。シンジのいじわるぅ!」
「これ、アスカ、止めなさい」
アスカの脇に手をいれひょいと抱き上げるクリスティーネ。
「あ〜ん、グランマ、グランマぁ」
祖母の胸に顔を伏せ泣くアスカ。
その姿をきょとんとした顔で見上げているシンジに、クリスティーネは優しく微笑んだ。
「馬鹿だね、この子は」
口ではそんなことを言いながらも手は優しくアスカの背中を撫でている。
祖母や祖父を知らないシンジにとって、その姿はどこか羨ましく見えた。
でも自分には母さんや父さんがいる。
アスカにはお父さんがいないんだもん。
そう思ったシンジは立ち上がると、アスカが飛び出してきた部屋を恐る恐る覗き込んだ。
しかし暗くてよく見えない。
ぱちっ。
明かりが点いた。
アスカを抱き上げているクリスティーネが壁のスイッチを入れたのだ。
そこに見えたのは…。
その日の夕方のことである。
碇家のお風呂は午後5時半に部屋を出るときから始まる。
行先は徒歩7分の伊吹湯。
県道の方に出て信号を渡って一つ目の角を曲がったところにある。
その伊吹湯の煙突はシンジの部屋からもよく見える。
家や商店が立ち並ぶ界隈では抜き出て高いものだ。
それから南へ目を移すと、もくもくと白や灰色の煙を吐き出す煙突が何本も見える。
その煙突たちは伊吹湯のそれよりも遥かに高く、そして太い。
そこから吐き出される煙は雨の日でも衰えを見せない。
一番海に近いところに大企業の工場がある。
そこに立つ煙突が一番太く高く大きい。
その手前に関連企業の工場。
そこの煙突は大企業に遠慮をしているかのように、一段低くなっているように見える。
遠慮知らずなのは一番町に近い工場街にある煙突たち。
決して高くはない。
ここの煙突は細めで低いが、何しろ数が多い。
下請企業の町工場の煙突たちだ。
その数が多い煙突が立ち並ぶ界隈でゲンドウは毎日汗に塗れていた。
ある程度の企業ともなると、その工場の敷地の中に汗を流す場所がある。
当然、冬月精密機械製作所にはそんな施設はない。
だから彼は工場からパチンコ屋に向う途中でこの銭湯に寄る。
それが5時半過ぎ。
運がよければ伊吹湯の前で家族が出くわすこともある。
そんな時もシンジはゲンドウと一緒の暖簾はくぐらない。
それは日曜日だけ。
あとの6日間はシンジは女湯。
アスカも同行している今日も、もちろん女湯。
「いい?アスカ、気をつけるんだよ。ここの信号は青になっても危ないんだよ」
「嘘っ!」
「本当だよ。この前も小学生のお兄ちゃんが轢かれて死んじゃったんだよ。ねえ、お母さん」
「ええ、かわいそうに…。車には充分気をつけなさいよ」
「うんっ!」
明るく答えるシンジとは裏腹に、アスカは緊張した。
信号を信用してはいけないなんて大変だ。
目の前の信号が青になったのを確認すると、アスカは左右を順番にきっと睨みつける。
そして、車がちゃんと停まっているのを見て頷くと、「行くわよ、シンジ!」と手を引っ張る。
ああ、可愛いなぁ。もう。
ゲンドウの申し出を断ったもののやはり自分でも女の子が欲しいユイだった。
くりさんも一緒にいきませんかと誘ったのだが、彼女は笑顔で断った。
私は家庭風呂のほうがいいのだと。
その気持ちはユイには少しわかるような気がした。
銭湯に肌の色が違うものがいたら、気になるに決まっている。
これまでの銭湯人生…といってもまだ2年にもならないが、その中で人種の違う裸体を見たことはない。
数回、墨を背負っている女性を見たことはあるのだが。
その時は怖いというよりも触ってみたい、近くで見てみたいと持ち前の好奇心を抑えるのに必死だった覚えがある。
今日は日系だけど白人にしか見えないアスカが一緒なのだ。
きれいに洗ってあげようと、少しわくわくしている。
「まあっ、可愛いっ!」
女湯側に入って、周りをきょろきょろしていたアスカはいきなり黄色い声を浴びせられた。
声の方角を見ると、体操服の上に半纏を着た高校生くらいの娘が立っていた。
胸のところできれいに畳まれたタオルをたくさん抱えて、にこにこしながらアスカを見下ろしている。
可愛いといわれて意表をつく表情を見せられるほどアスカは大きくない。
もちろん、にこっと笑って、どうだとばかりにシンジに向って顎を上げる。
「でしょう?マヤちゃん。すっごく可愛いでしょ」
「ええ、本当に。こんにちは、ユイさん」
マヤはタオルを番台の母に届けると、すぐに三人のところに戻ってきた。
そして膝を抱えるように身をかがめると、アスカのすぐ前でにこにこ笑う。
「こんにちは、お名前は?」
シンジの時は「アンタが先に名乗りなさい」と言わんばかりのアスカだったが、
アスカにとっては立派に大人なマヤに向ってそんな口が聞けるわけがない。
「あ、アスカ…」
消え入らんばかりの声で名前を言うのだが、それがまたマヤのハートを直撃した。
「か、可愛いっ!」
その大声にアスカはすっとシンジの背中に隠れた。
といっても、隠れられるほどシンジが大きいわけではない。
「あ、こんにちは、マヤお姉ちゃん」
「こんにちは、シンジちゃん。今日はすっごく可愛いガールフレンドと一緒ね」
「うんっ!」
元気に答えるシンジに気分を良くしたアスカがニコニコ笑いながらその横に立つ。
「シンジ、この人誰?」
「うん、このお風呂屋さんのお姉ちゃんでね。大人になったら僕と結婚してくれるんだって」
わっ、言ったぞ、我が息子。
ユイはブラウスのボタンを外す手を止めた。
こいつはおもしろそう。
「うふふ、そうよねぇ。シンジちゃんだったら、マヤお嫁さんになってあげるわよ」
アスカの目がくわっと開いた。
「んまっ!信じらんない!アタシの方が美人じゃないのっ。髪の毛の色だってアタシの方が金色よ!」
「あらら、私、日本人だからなぁ。そんなきれいな色にはなれないわ」
「ふふん!アタシの勝ちね」
アスカは可愛らしく仁王立ちして顎を上げた。
「じゃあアタシの勝ちだから、アタシがシンジのお嫁さんになるのよ!」
ユイの頬が緩む。
言った、言った、言ってくれました。
ブラウスの胸をはだけたまま、息子の対応をわくわくしながら見守っている。
「えっと…じゃ、僕がアスカのおむこさんになるの?」
「と〜ぜん!あたり前田のクラッカーよ」
「えっと、どうしようかな…?」
真剣に悩む息子の姿がユイには面白くて仕方がない。
しかしながら、もしアスカがマヤと同じ年頃であれば当然男ならば悩むところだと思う。
ショートカットで明るくて優しそうな美人のマヤ。
長い金髪で気は強くてやはり美人のアスカ。
どっちを選んだにしても折に触れて自分の選択に間違いはなかったのかと振り返ることだろう。
ただし、今はマヤが高校生で、アスカとシンジは幼児。
シンジの選択基準は何なのか、それがユイの知りたいところだ。
「アンタ、何悩んでんのよ。アタシが結婚してあげるって言ってんだから、結婚しなさいよ!」
「で、でも、最初に約束したのはマヤお姉ちゃんだし…。困っちゃったな…」
碇シンジ。
5歳にして真剣に恋ではなく、結婚に悩んでいた。
マヤもやはりこんな可愛い二人をからかってみたいのだろう。
茶々を入れてしまった。
「そうよ、私の方は1年前から約束してるの。ごめんね、あきらめてくれる?」
その言葉がきっかけとなって、幼児の最大の武器が出た。
泣く子と地頭には勝てない。
涙が溢れてきたかと思うと、あっという間にアスカの顔が歪んでいった。
ありゃま、これはまずいわ。
さすがに母親歴5年。このあと、どのような騒ぎになるかユイにはよくわかった。
でも、ここまで来れば誰にも止めることはできない。
それに当事者の母親だけに逃げ出すわけにもいかないのだ。
アスカは泣き出した。
大粒の涙をボロボロ零して、天にも届けとばかりに大声で。
「こら、マヤっ!あんた、何してるの!」
番台から娘を怒鳴る母親にマヤはただうろたえるのみ。
自分の一言でここまで泣くとは思ってもみなかったのだろう。
周囲の全裸、半裸、着衣の女性陣は何事かと注目し、
すぐに人垣が形成された。
「ち、ちょっと、えっと、アスカちゃん?ごめんなさい。あのね…」
「うわぁ〜んっ!」
聞く耳を持たないというのはこのこと。
マヤが言葉を発するたびにさらに声を張り上げてしまう。
「ゆ、ユイさん!助けてください!」
「ごめんね、こうなったらもう無理よ」
「ええっ!そんな…」
「うふ、シンジ。こら、シンジっ!」
アスカの真横で両耳を手で塞いでいる息子の手をユイは引っ剥がした。
「わぁっ。お母さん、助けて」
「馬鹿。シンジがちゃんとしないからこうなったのよ。
さっさと覚悟を決めてアスカちゃんをお嫁さんにしなさい」
「で、でも…」
シンジは先約のマヤの顔を仰ぎ見た。
マヤは大きく手を振って、それからシンジを拝んだ。
「ごめん!私、あきらめるから、シンジちゃんはこの子と結婚してあげて。お願い」
「あ、うん」
晴れやかな顔になったシンジはそれでも顔をしかめながら、騒音の元凶の耳元に顔を近づけた。
「あのね、僕!アスカと結婚するよっ!」
ぴたり。
騒音が一気に止んだ。
そこに響くのは男湯からの物音と、テレビの声、そして扇風機のがたことという音だけ。
アスカは顔を上げた。
真っ赤にはれた目。そしてまだひくひくしている胸。
「ホント…?」
やっとのことで出した声。
「うん、僕はアスカをお嫁さんにする」
アスカはマヤを見上げた。
慌ててうんうんと頷くマヤ。
「負けたわ。私、シンジちゃんをあきらめる。幸せになってね」
「ホント?絶対にホント?」
「本当よ。じゃ、そうね、本当だって証拠にフルーツ牛乳奢ってあげる」
「シンジのも?」
「はいはい。二人に奢ってあげるわよ。結婚祝いでね」
マヤがにっこり笑った。
「やった!」
「よかったね!」
「じゃ、シンジはりんごジュースの方にしなさいよ」
「うん、半分っこだったよね」
見る見る機嫌が直っていくその様子にマヤは胸を撫で下ろした。
「あの、マヤちゃん、私の分は?」
「ありません。お姑さんは自分で払ってください」
「あらら。ごめんね、騒がしちゃって」
素に戻って謝るユイにマヤは微笑んだ。
「いえいえ。ちょっとからかいすぎちゃいましたね。えへへ」
こつんと頭を叩いたマヤは、その後番台に呼ばれて母親からごつんと一撃を貰った。
その間に子供たちは真っ裸に。
ユイに先に入ってるねと言い残して、二人は大きなガラス戸の前に立つ。
「あのね、滑るから走っちゃダメだよ」
「うんっ。わかった」
「じゃ、開けるね」
がらがらがら。
むわっと熱気があふれてくる。
そして、アスカの眼前に初めて見る光景が広がった。
「すっごぉ〜いっ!」
タイルが敷かれた広い床。
わんわんと音が反響する空間に、大きな浴槽。
それにそこを動き回っている裸の人たち。
当然、アスカはこんなに大勢の裸の人間を見るのは初めてだった。
子供から老婆まで。年齢層は幅広いが、もちろん男は子供が数人だけ。
「行っていいのっ?」
「うん、でも…」
もう一度念を押そうとしたシンジだったが、もう遅かった。
わっと駆け出したアスカは四歩目でつるっと滑る。
それほど勢いがついてなかったので、ぺたんと尻餅をつくだけですんだ。
「いったぁ〜いっ」
アスカの声がわんわんと響く。
その自分の声にアスカはビックリしてきょろきょろ。
「もう、だから言ったのに。走ると滑るよって」
手を差し伸べたシンジにすがってアスカが立ち上がる。
「だってぇ…」
「危ないから、僕の言うとおりにしてよ、ねっ」
「うん、わかった。シンジの言うとおりにする」
「じゃ、そこの桶をひとつ取って」
アスカはシンジの指差す方向を見る。
入り口の横には積み上げられた風呂桶が。
「どれでもいいの?」
「うん、好きなのを」
「じゃ、アタシ赤っ!」
アスカがさっと赤い桶を手にする。
黄色の桶を手にしたシンジがゆっくりと浴槽へ歩いていく。
滑らないように用心しながらアスカもその後に続く。
そんな二人の姿を扉のところで口を押さえながらユイが見ていた。
この様子はくりさんに全部教えなきゃねぇ。
慣れというのはやはり凄いものだ。
ユイが初めてこの銭湯に来た時のこと。
シンジを連れて暖簾をくぐったまではよかった。
家庭風呂で育ったユイは集団で風呂に入るのは学校での旅行ぐらいだった。
しかもそれは友達たちと一緒。少しだけ恥ずかしかっただけだ。
だが、この街の銭湯に知り合いは一人もいない。
その日は引っ越してきたその当日。
ゲンドウは心配そうに言ったものだ。
「大丈夫か。俺は一緒に行ってやれないが…」
その真面目な一言でユイの緊張は少し解けた。
「大丈夫よ。あなたが女湯に入ってきたらすぐに警察行きよ。
それにシンジだって一緒だし。別に中に男の人がいるわけないでしょう?」
当然だ、冗談じゃないとばかりに睨みつけるゲンドウ。
自分以外の男にユイの裸を見られるくらいなら彼女の命を奪ってしまいかねない。
そんなゲンドウの表情にユイは微笑んだ。
「シンジ…」
母親に手をつながれたシンジの前に膝を折る。
それでも長身のゲンドウは見下ろす形になる。
シンジの頭に手を置くとじっと真面目な目で見つめた。
「ユイを…母さんを頼むぞ」
「うん」
まだ3歳のシンジは、それでもしっかりと頷いた。
ユイは吹き出しそうになるのを耐えた。
ここで笑うと親子ともに拗ねてしまいそうだ。
「よろしくね、シンジ。じゃ、行きましょうか」
それが引越しの荷物がまだ片付け切れてない、あの部屋での出来事。
そうして余裕を持って伊吹湯に赴いたユイだったが、
やはり一糸纏わぬ姿になってみると急に恥ずかしさがこみ上げてきた。
周りの女性を見てみても、みんなけろりとして素っ裸で歩いている。
十代の女の子がさりげなくタオルを垂らして前を隠していたが、胸はそのまま。
ああダメダメ。恥ずかしがっていちゃ。
そうは思うものの脚が動かない。
脱衣籠に下着まで入れて、シンジのパンツも全部入った。
その脱衣籠を棚に入れて札を取ればそれで準備は終わる。
「おかあさん、どうしたの?」
手におもちゃのアヒルを持ってシンジがあどけない笑顔で見上げる。
「え、うん。何てことないわよ」
何てことないことはない。
脱衣場に向けている裸の背中が熱い。
みんなが自分を見ているような感じがしてたまらない。
お尻の辺りがむずむずするのだ。
「あのぉ…」
「ひぃっ!」
全身で驚いてしまった。
恐る恐る振り向くと、そこには女の子が立っていた。
そのお下げ髪の彼女はにこにことユイを見つめている。
「あの、すみません」
「は、はいっ?」
声が裏返ってしまっている母親にシンジが首を捻っている。
そのシンジの頭を優しく撫でた少女が少しだけ頬を赤らめて言う。
「もしかしたら…初めてですか?」
「わ、わかりますか……?」
消え入らんばかりの声でユイが答える。
「はい、私ここの娘なんです。だから初めての人ってよくわかるんですよ」
「そ、そうなんですか?」
「ええ。でも、綺麗」
マヤはうふふと笑った。
その視線はユイの身体を見ている。
「まだ、結婚されてないみたいに見えますよ。とてもお母さんって感じじゃなくて」
「おかあさんだよ。ぼくの」
不平を漏らすシンジにマヤは「ごめんね」と笑った。
「さて、じゃ行きましょうか」
「え…」
「だって、そんなになって固まってちゃ目立つだけですよ。さっさと中に入らないと」
「あ、そ、そうなんですか」
「うふ、じゃ私も一緒に。お母さぁん!」
マヤは番台の母に叫んだ。
「私、お風呂入ってくるねっ」
言うが早いか、マヤはぱっぱと着ているものを脱ぎ捨てた。
そして服を脱衣籠に放り込むと、シンジに「じゃ、行こうか?」と呼びかける。
ガラスの向こうが何なのか興味津々のシンジは父親の頼みも忘れてあっさりとマヤに応じた。
「うんっ!」
「あ、シンジ…」
止める間もなく、マヤとシンジは入り口の方へ。
そして、二人はから〜んと桶の音が鳴り響く浴室へ入っていってしまった。
残されたのはユイ一人。
いつまでも裸で立ち尽くしているわけにはいかない。
ユイは大きく頷くと、扉へ向ってゆっくりと歩き出した。
右手と右足が一緒に出てるのではないかと思うくらい、ギクシャクした動きで。
子供っていいわねぇ。
私は最初あんなに勇気が要ったのに、あの子ったら全然平気。
あの日の自分を思い出して、ユイは微笑まずにはいられなかった。
「あのね、入る前にはしっかりと前と足を洗うんだよ」
「アタシ、汚くないもん」
「ダメ!それが礼儀なんだよ。ほらこうやって」
浴槽に桶を入れてお湯を掬い、それを自分の前にかける。
そしてまた掬ったお湯で足の裏を交互に濯ぐ。
文句を言っていたアスカもシンジの真似をする。
「どぉお?」
「うん、よくできました」
「へへんっ」
アスカが得意げに胸を張る。
「じゃ、入るよ」
よいしょと浴槽の縁に手をかけ跨ごうとするシンジ。
「ねえ、あっちの大きい方じゃないの?」
「あっちは大人のお風呂だよ。僕たちはこっち」
「でも、小さいのもいるよ」
アスカが自分たちと変わらない子供を見つけて言った。
「あ、あれはお母さんと一緒だから。それじゃ、大きい方はあとでね。今はこっちだよ」
ざぷん。
シンジが子供用の浴槽に入る。
丁度股の辺りまでしかお湯はない。
座っても首が充分出る高さだ。
「アスカもお出でよ」
「うん」
ざっぷん。
勢い込んで入ったアスカは、すぐに喜色を浮かべた。
「ひっろぉ〜いっ」
足をいっぱいに伸ばして、ばしゃばしゃさせる。
「プールみたいっ!」
「そうだよね」
「アスカちゃん、気に入った?」
いつの間にかユイが近くに来て、かかり湯をしている。
アスカは振り返ると、大きく二回頷いた。
「シンジ、泳ごっ」
「ああ、ダメだよ。怒られちゃうよ」
「ええっ、泳いじゃいけないの?そんなの、つまんないっ」
膨れるアスカにシンジはにっこりと笑いかけた。
「ほら、アスカ、これ見て」
シンジは手にしたタオルを左手の握り拳の上に置いた。
そして、水面にタオルを静かに置くと拳を抜く。
拳の後に空気が残っているので、その周りをシンジは絞るようにまとめていった。
アスカはこの先どうなるのか、まるでわからずにじっとタオルを見ている。
タオルがまとめられるにつれて、空気の入った部分がだんだん照る照る坊主の頭のようになっていく。
「わぁ…」
アスカが目を見張る。
シンジは得意げに張りつめたその頭をお湯の中へ沈めた。
すると、タオルの生地の隙間から小さな泡がぶつぶつと湧き出てきた。
そして、ぎゅっとタオルと絞るとぼこんと大きな泡が出る。
「あたしがする。あたしがっ!」
「うん、やってみて」
簡単なようではじめての者には少し難しい。
それでも何度目かのチャレンジで小さな頭ができた。
「やったっ」
えへへと笑うアスカ。
頭を沈めると、ぶくぶくと小さな泡。
そして小さな手でお湯の中の頭を握る。
ぶほんっという感じで残った空気が昇ってきた。
「おもしろ〜い」
「でもね、身体を洗ったあとのタオルで遊んだらダメだよ。怒られるからね」
「アスカ、汚くないもん」
膨れながらも仕方がないわねという顔つきのアスカ。
その後も二人はタオルで遊び続けた。
しばらくして二人はカランの前に座った。
コの字型の緑色の椅子を二つ並べて、そこにアスカとシンジはくっつかんばかりに座る。
もちろんその隣には笑みを絶やさないユイが陣取っていた。
「あのね、このボタンを押すとお湯とかお水が出てくるの」
「ふ〜ん」
「でもね、気をつけないと…」
「えいっ!」
アスカが手を伸ばしたのは、大好きな赤色のボタン。
軽く押しても何もおこらないので、ぐいっと体重をかけて押してみた。
それを見て、シンジもユイもわっと口を開けて止めようとしたが、間に合わない。
ぶしゅっ!
「あつっ!熱い熱い熱い!」
勢いよく噴出したお湯が赤い桶の底で跳ね返り、アスカの身体中に飛び散る。
立ち上がって暴れるアスカに、シンジは咄嗟に青いボタンを押して出てきた水を桶に入れアスカにかける。
「きゃっ!冷たい冷たい冷たい!」
熱湯の後の冷水だから効果は倍増。
即座にアスカはユイに伴われて子供用浴槽へ。
程よい温度に回復したアスカは、物凄い目付きで帰ってきた。
シンジは少し背中を丸くして、「ごめんなさい」と小さな声。
「わざと?」
「違うよ、絶対に違うよ。熱いって言ってたから慌てて」
それでもぷぅっと膨れるアスカ。
ここでシンジは自分の身体で反省した。
青いボタンで自分の桶に水をためると、それを自分の身体にかけた。
「ひぃっ」
一声叫ぶと、シンジはばたばたと浴槽へ。
中に入りほっと息をつくと、ばしゃんと隣にアスカも入ってきた。
「アンタね、アタシにもかかっちゃったじゃないの」
「あ、ご、ごめんなさい」
「でもいいわ、許したげる」
「あ、ありがとう」
「だけど、あれってどうやって使うのよ。あんな熱いのと冷たいのじゃ…」
「えっとね、混ぜるの」
「混ぜる?」
「うん、こうやるの」
もう一度、洗い場に戻った二人。
アスカは少し身を引き加減にシンジの実演を見守る。
「最初にねお水の方を入れるの。ぐいってしないでね」
半押しの状態で水を1/3ほど桶に溜める。
「それからね、お湯を気をつけて入れるんだよ」
飛び散らないように気をつけて赤いボタンを押す。
ぶしゅっと音がして、アスカが少し足をずらす。
だが、お湯はそれほど飛び散らず桶の中に。
「これでちょうどよかったらこれを使うの。
熱かったら水を足すんだよ。ぬるかったら、しんちょ〜に赤いのを押すの」
「わ、わかった。やってみるわ」
恐々と自分の桶を置き、そして青いボタンに手を伸ばすアスカ。
随分と時間はかかったが、何とか桶に適温のお湯は溜まった。
「やった、やったぁ」
「やったねっ」
喜ぶ子供たちを見て、泡だらけのユイは思った。
あの最初の日、私もアスカちゃんと同じことをしたっけ。
シンジと大騒ぎしたのをマヤちゃんに助けてもらって。
あの時、あの娘がいてくれなかったら本当に困っちゃったでしょうね。
でもまあ、この街の人なら戸惑っている人を見たら誰かが教えてくれていたと思う。
この街はそんな街。
環境は悪いけど、人情は厚いわ。
湯上り。
アスカとシンジはマヤの奢りのフルーツ牛乳とりんごジュースを半分ずつ飲んだ。
「あ〜あ、お小遣いから引かれちゃった」
横目で番台の母親を見るマヤ。
奢るといっておきながら、自分の懐は痛める気にはなっていなかったようだ。
「ごめんね、マヤちゃん」
「いいえ、いいんですよ。二人とも可愛いから」
ごくごくと飲んでいる二人を温かい目で見るユイとマヤ。
子供っていいなぁとマヤは思った。
自分の子供を持つには結婚しないといけない。
それには相手が要る。この人と家庭を持ちたいって思うような人が。
私にもいつかそういう人が現れるんだろうか?
だけど、どうしてユイさんはあんな無愛想な男の人を選んだのだろうかとマヤは笑顔の影で首を捻っていた。
何度か風呂上りにここの前で待ち合わせをしている碇家の家族を見たことがある。
挨拶をして「うむ」と無愛想に返事をされたことも。
ユイさんならカッコよくてお金持ちの相手くらい簡単に見つかりそうなのに…。
あの、髭親父のどこがいいんだろ…?
その髭親父は、伊吹湯を出たところでじっと立っていた。
今日はパチンコ屋に行かずに、アスカと一緒だと言っていた三人が出てくるのを待っていたのだ。
遅いな……。
空を見上げたゲンドウの目に一番星。
スモッグで煙った空にぽつんと晴れ間。
そのわずかな部分に星が煌く。
ゲンドウはその星をじっと見つめ、家族の幸せを願った。
そして、ふっと鼻で笑った。
星が動いた。人工衛星だったのだ。
「あ、お父さんだっ!」
息子の声に首を戻す。
駆けて来る息子としっかり手を繋いでいる金髪の少女。
そして、その向こうに愛する妻の笑顔。
少なくとも自分は幸せだ。
願わくは家族も自分と同じように思っていることを。
「マヤ、ケースの飲み物も勘定しておいてよ」 「はぁ〜い」 伊吹湯の営業時間は終わり。 少し落とした照明の下で後片付けをする母娘。 「もう髪は伸ばさないのかい」 「うん。似合ってるでしょ」 「母さんは長い方が好きだったんだけどねぇ」 鼻歌交じりに動く彼女が何故髪を切ったのか。 憧れのユイの真似をしたとはマヤ本人しか知らない。 |
<あとがき>
火曜日のお話です。
お若い読者の方、まだ着いてきてくれてますか?
今回は注釈はいたしません。あしからずご了承下さい。でも、要るのかな?少し揺れてます。
絵心があれば、羞恥に恥らうユイの後姿を描きたいところですが…。
そっちの才能はござんせん。もっともお尻が見えてもいけないから難しい絵になっちゃいますけどね(笑)。
あの頃の銭湯。懐かしいです。
父親が不規則な勤務だったのでほとんど女湯の毎日。
情けないことに風呂場で遊んだ記憶は鮮明なのに、その場にいた女性のことは何一つ覚えてません。
ま、子供ですから。
次回は!話が動きます。
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