この作品に登場する町にはモデルがあります。
ただしそれをそのまま書くと、全員ベタベタの関西弁になりますので、
あえて場所は特定していません。

時代背景がわからない方でも、
楽しんで読んでいただければ幸いです。





同じ町の元市民だった、tweety様に捧ぐ

 

 
500000HIT記念作品

- Somewhere in those days -

 

(8)

昭和42年4月14日 金曜日その弐


2004.9.21         ジュン

 










 キョウコの伝言が来た。
 病院に電話が入り、今日そっちに行くから家で待ってろとだけ。
 急ぎだからユイさんに電報を打っておいてと病床の母に頼む。
 ナースセンターに出向いたクリスティーネは、アンタが自分で打てと言い返したが、
 住所がわからないから打てない。急いでいるからお願いと。
 言いたいことだけ言って電話を切ってしまった。
 まったくあの子ったら、いつもこんなだよと、クリスティーネはひとりごちた。
 
 電報はすぐにユイの元に届いた。
 『キヨウイクカライエテ゛マツテロ。キヨウコヨリテ゛ンコ゛ン。
 ヒ゛ヨウニンヲコキツカウナンテナンテコタ゛。ワタシカ゛オコツテイタトキツクイツテオイトクレ』
 電報代をまるで考えずに、クリスティーネも言いたいことを言って来ている。
 これを受け付けた電報局の係りの人の顔を見てみたかった。
 ただ、ユイはキョウコのその短い…母親のそれよりはるかに短い伝言に手ごたえを感じていた。
 あのキョウコが自信もないのに伝言などするわけがない。
 きっと何か素晴らしい情報を手にやってきてくれるに違いないと。



 それは情報ではなかった上に、手に持てるような代物ではなかった。

「赤木リツコと申します」

 場所はあの喫茶店・黎明。
 昼下がりの喫茶店で、アスカとシンジはクリームソーダとホットケーキを相手に格闘中。
 ユイと並んだキョウコは反対側の椅子に東京から連れてきた女性を座らせた。
 たしかまだ20歳にはなっていなかったはず。
 就職しているのだろうか、それとも大学生?
 いずれにしても、その娘は背筋を伸ばし、真っ直ぐにユイを見つめていた。
 いや、この場合、睨んでいたという方が正しいかもしれない。
 意志の強そうな太い眉毛の下で、瞬きもしない目がじっと動かない。
 まるでユイを検分しているかのように。

「全部、喋っちゃったわよ。この娘に」

「え…」

 キョウコは不敵に笑いながら、コーヒーカップに唇を寄せた。

「単刀直入に申し上げます」

「あ、はい、どうぞ」

 個性的な短い髪のその娘は、まるで真剣勝負を挑むかのように紋切り型で切り出してきた。
 居住まいを正すユイ。

「貴方たちがされたことは大変迷惑です。どうしてくれるのですか?」

「え?あの、つまり、どういう意味ですか?」

 リツコは眦を上げた。
 
「これまで私が使った分のお金を返す当ては今はないんです。いつまで待っていただけるのですか?」

「ちょっと待って。つまり…」

「つまり、アンタたちが用意したお金はこの娘にとって迷惑この上ないお金ってことなのよ」

「あ、親の敵からってこと…」

 ユイが納得しかけた時、いらだたしげにリツコが口を挟んできた。

「違います。母が死んだのは車の所為で医者の所為ではありません。
 それなのに、どうして母を助けようとしてくださった方を恨まねばならないのです?」

「憎しみの対象にするとか。ひき逃げの犯人が逮捕されなかったわけですし」

「貴方のご主人が車を運転していたわけではないでしょう?
 それなのに、どうしてひき逃げ犯の代わりに恨まねばならないのです?
 理屈に合わないではないですか」

 何を馬鹿げた事を言っているのだとリツコは明らかに腹をたてている。

「でも、それが普通の気持ちの流れじゃないのかしら?それにお酒を呑んでいたのだし」

「あきれた…」

 リツコは首を横に振った。

「そんなに憎まれたいのですか?自己犠牲もいいところ。そういう自分たちに酔ってられるのではないですか?
 酔うといえば、お酒にしてもそうです。
 新聞にはそう載っていましたが、
 度を過ぎた飲酒であれば救急隊員の方が処置を任せるはずがないじゃないですか。
 馬鹿馬鹿しいったらありません」

 いやはや随分とはっきりものを言う娘だと、ユイは呆気にとられた。
 しかし、不快ではない。寧ろさっぱりしていて気持ちいいくらいだ。
 隣のキョウコはくすくすと笑っている。

「なかなかいい子でしょ。話しやすくて。でも、自分の主義主張と異なれば納得させるのは一苦労よ」

 キョウコのその批評がピッタリだとユイは思った。
 
「つまり、主人が用意したお金が邪魔だと?」

「はい。交通災害育英基金だと弁護士の方が申されましたので、素直に受け取って今まで毎月使ってきました。
 アルバイトをしようにも研究が主体の学問なので、そのお金で助かってきたのは事実です。
 つまり、学費と生活費で毎月の手当はすべて使ってしまっているということ。
 返えそうにも今は返しようがありません」

 熱っぽく語っているのだが、どこか客観的に喋っているように見える。
 まさに理系で研究者タイプの女性なのだ。

「そんな、返さなくてもいいのよ」

「何故ですか。私は貴方たちに保護を受ける謂れがありません。この方に」

 と、リツコに視線を向けられて、キョウコがにっこり笑って小さく手を上げる。

「事情は聞きましたが、それこそそちらの事情だけの話ではありませんか。
 自分の気持ちを納得するためだけにこの私を利用したとしか思えません」

「あ、確かにそれもあるけど。だけどかわいそうだって」

「可哀相なのはこの世で私だけではありません。勝手にこんなことをされた私はどうなるのですか?」

「えっと、どういうことかしら?」

「まるでマリオネットの人形。
 自分で生計を立てることができるようになっても、貴方たちに返すお金で首が回らなくなります」

「いや、ですから、返さなくてもいいって」

「だから、いただく理由がありません」

 ユイは困り果ててしまった。
 隣のキョウコをすがるように見ると、彼女はにやっと笑って「はい、平行線」と小声で言う。

「じ、じゃ…、貴女のご希望は?」

「希望?そうね、まずとっととそのような自己憐憫と卑下した生活をやめてくださらないかしら。不愉快この上ないわ」

「不愉快って、そんな…」

「はぁ…頭の回りがよくないのね。貴方たちが私のために苦しい生活をしていることが耐えられないのよ」

 碇ユイ。
 小さな時から賢い子だと言われ続けてきた。
 生まれて初めてだった。頭の回りが悪いと目の前で言われたのは。

「くくくっ、言われたわね、ユイ。確かにこの娘の言う通りよ。
 彼女の主張が基になれば、アンタたちがあんな安アパートに暮らしているのは物凄いプレッシャーになるわ。
 学生食堂で200円Aランチを食べるのでさえ、気になると思うわ。この娘なら」

「Aランチは120円です」

「はいはい、120円ね。安いわね、それ。まあいいわ。でも、やっぱり気になるでしょ」

「はい、喉が通りにくくなります。でも、栄養を取らないと学問を続けられませんし、続けるとアルバイトはできない。
 どうしてくれるのですか。身動きが取れないではありませんか」

 どこかが間違っているような気がするのだが、彼女の主張を是とすれば確かにがんじがらめ。
 頑固なこの娘にすれば、キョウコの訪問で足元の大地があっという間に崩れ去ったようなものだったのだろう。
 その理由がわかればそんなお金を使うわけにいかなくなるからだ。

「因みに新幹線代は私が貸してあげたの。もう使えないからって」

「あらら、そこまで」

「当然ではないですか。返せないものを使うわけにはいきません」

「だから返さなくてもって、また平行線ね。困っちゃったわ」

 頭を抱えたくなったユイの肩をキョウコがぱしんと叩いた。

「おやおや、アンタともあろうものが何を困ってんのよ」

「だって、キョウコ。どうしたらいいのか…」

「あはは、簡単じゃない、こんなの。だからここまで引っ張ってきたのよ」

 自信たっぷりに言うキョウコを二人は呆然と見つめる。
 
「アンタはこのユイたちのお金で生活と勉学を続けることができないわけよね。それが負担になって」

 リツコが頷く。

「要はそのお金が押し付けがましい善意だからなわけよ。はいはい、ユイの気持ちはわかるけど今はシャラップ」

 押し付けがましいとまで言われてむっとしたユイが口を開こうとしたが、キョウコに頭から押さえつけられる。

「ということは、善意じゃなければいいわけ。わかる?お二人さん」

「わからないわ」

 リツコも首を振った。

「おやまぁ、察しの悪いこと。アンタたち、契約しなさい」

「はい?契約…」

「そう、契約。アンタは…」

 キョウコはリツコを真っ向から指差した。
 その指先にまったく動じる様子もなく、リツコは眉だけを顰めた。

「もうそのお金を使っちゃってるんだから、その分を返したい上に、
 これからの学費や生活費を何とか工面しないといけないわけよね」

 はっきりと頷くリツコ。

「だったら一番簡単なのは、これまで通りにそのお金を使うことね」

「ですから、それは」

「黙ってらっしゃい。先に進まないから」

 キョウコがニヤリと笑った。

「問題はそのお金が道理に反しているってことなのよ。
 彼女にすればね。てことは、そのお金を道理に合うようにすればいいの。ほら、簡単」

「どうやって?」

「だから、ユイがこの娘に条件をつければいいのよ。ああしろこうしろって」

「はい?」

 ユイもリツコもきょとんとしている。
 キョウコは悪戯っぽい瞳を輝かせて話を続けた。

「わかんないかなぁ。分割で金返せってのでもいいし、自分の女になれって…」

「キョウコったら!」

 慌てて子供たちの方を見るユイ。
 二人はいまだホットケーキと格闘中。
 シンジの方がナイフの使い方が巧いのは何故だろうかとユイは少しだけ思ってしまった。
 ビジュアル白人のアスカは不ぞろいなサイズでホットケーキを切っている。
 我が息子の方はきれいな格子状に切りそろえている。
 よく考えればナイフの使い方は教えたことがなかったのに、こういうのって素質なのかしらと微笑んでしまった。
 顔を戻すと、リツコが考え込んでいた。

「あの…」

「なるほど、わかりました。金を返すか身体で支払えと。それならば、私は…」

「こらこら、わかってないぞ。二者選択じゃないわよ。私は例を上げただけ」

「そうだったんですか。わたしはてっきり」

 少し頬を染めて自分を見つめたリツコに少しだけ不安を感じたユイだった。
 進む方向性が見えてきた所為か、リツコに余裕ができたのかもしれない。
 ミッションスクールでそういう趣味の生徒を少なからず見てきたので、何となくわかるものがあるのだ。
 ここは話を逸らさないと。

「えっと、貴女は大学生?」

「はい。おねえ…」

「な、何を勉強しているの?」

 慌てて質問を続けるユイ。

「薬学です。おね…」

「ああ、そうなの。そうなんだ」

 ユイは隣でくすくすと笑っているキョウコを横目で睨みつけた。
 キョウコはどうやら最初から彼女の嗜好性を知っていたようだ。
 私にはミッションスクールの昔からそういう趣味はないの。あの人一筋なんだから。

「ああ、それじゃ、こういうのはどうかしら?
 しっかり勉強に励んでもらって、そして医学界の発展にっていうか、
 今は治せない患者さんを一人でも多く治せる様にがんばってもらうっていうのは。
 お金の方はもちろん返還不要ね」

「なるほど、奨学金ってわけか。それならいいわね」

「少し抽象的ですね」

 小首を傾げるリツコ。

「その条件が呑めないなら、今すぐ使ったお金を返していただくってことで」

「わっ、脅迫。居直っちゃったよ、この人は」

 キョウコがおどけて見せる。

「今現在の返却が無理なんですから、選択肢はないということですね。
 なかなか酷な事を…。もしかすると、そのような趣味が」

「ありません」

 頭から言い切るユイ。

「ふふ、それじゃ、これで決まりってことで」

「待ってください。こちらからも条件があります」

 場を締めようとしたキョウコをリツコが制する。
 妙なことを言い出すのかと警戒した二人だったが、リツコの口から出てきたのはあまりにまともな要求だった。



 今日の仕事は定時に終わった。
 ゲンドウはいつものように伊吹湯に回り一日の汗を流した。
 そして県道を北に歩き、国道を越えて2本目の通りを左に曲がる。
 仕事帰りのいつもの道だ。
 すぐ隣を私鉄が走っている。
 4両編成の短い電車ががたごとと車輪を響かせながら走り去っていった。
 恒例のパチンコ屋は駅のすぐ手前にある。
 駅前では一番大きな建物になる上、
 夕方の風景にネオンサインが自己主張を始めているので遠くからでもよく見える。
 ゲンドウ本人はゆっくり足を進めているつもりでも
 コンパスの長さで周りのものには早歩きをしているかの印象を与えていた。
 シンジの大好きな小さなプラモデル屋さんを通り過ぎ、
 胃袋を大きく刺激する匂いに悩まされながら、ゲンドウは歩いていった。
 タレの香ばしい匂いが通りにあふれ出している焼き鳥屋。
 鉄板に焼けたソースの匂いがするお好み焼き屋。
 焼き魚の匂いがじわりじわりと表にたちこめている小料理屋。
 今日の晩飯は何だ?
 できれば日本料理がいい。
 どうも客人に合わせて西洋料理ばかり続いているような気がするゲンドウは、
 焼き魚であったなら言う事はないなと思った。
 もちろん、ゲンドウがユイに文句を言うわけはないのだが。

 この数日、ゲンドウはどこか心が軽かった。
 それを彼はアスカの所為だと思い込んでいた。
 確かにその発端はアスカの出現である。
 しかし、実際にはクリスティーネに施した医療行為が彼の心を満たしていた。
 そのことをユイはよく知っていた。
 わかっていないのは、いやわかろうとせずに別のことが原因だと思い込もうとしているゲンドウ本人なのだ。
 
 パチンコ屋まで後20mほど。
 勤め帰りの会社員が駅からどんどん押し寄せてくる。
 この時間帯に駅前の商店街を通る車はまずないため、車道にも人が行き来していた。
 ゲンドウは歩く早さを少し抑え、ゆっくりと足を動かす。
 そして、目の前に立っていた女性を避けて進もうとした時、その女性から声をかけられた。

「何の挨拶も無しなのかしら?」

 ゲンドウは顔を上げた。
 聞き慣れた声ではなかったので、その声が自分に向けられたものだとは最初思っていなかったのだ。
 そこに立っていたのはショートカットの若い女性。

「む。すまん」

 いったい何の粗相をしたのかまるでわからないが、とにかく謝っておいた方がいい。
 まったく視界に入っていなかった女性から睨まれたと怒られたこともあるゲンドウなのだ。

「あら、私のこと、お忘れなの?酷いわね」

 予想外の言葉。
 女性の知り合いなど、この町には数少ない。
 ゲンドウは不躾は承知でまじまじとその女性を見る。

「おやおや、本当に忘れているみたいね。私、赤木リツコです」

 リツコは腕組みをしながら名乗った。
 もちろん、その名前の女性が何者なのかはすぐにゲンドウにはわかった。
 そして、彼はもう何も話せなくなってしまったのだ。

「お久しぶりです。碇先生」

「む…。先生では、ない。もう辞めた」

 何故ここに彼女が来たのか。
 ゲンドウは想像もできなかった。
 償いはしているつもりなのだ。
 完全にできるとは露ほども思っていなかったが。

「私は、許しません」

 あの時、この娘はまだ高校生で、制服を着て通夜の席にいた。
 頭を下げて詫びる俺に彼女は何も言わなかった。
 それどころか、激昂する親戚を冷ややかに制止したくらいだ。
 死んだ者は帰らないし、母親が死んだのは交通事故で医療事故ではないのだと。
 その時の冷静な口調そのままに、彼女は俺にそう言った。

「ど、どうすればいいのだ?」

 ゲンドウは訊くしかなかった。
 リツコはゲンドウから育英基金が出ていることなど知らないはずだ。
 つまり、頭を下げ、医者を辞めただけでは駄目だと、そういうことだとゲンドウは了解した。

「お仕事を辞めたそうですね」

「む。うむ…」

 ぱしぃんっ!

 
「あちゃあっ!あの娘、手加減無しでぶったわよ!」

「その方がいいわ。小細工しない方が」

「お父さん、かわいそう」

「アタシはシンジをぶったりはしないからね」

 道路の真ん中で頬を引っ叩かれたゲンドウの親近者4名がすぐ近くに隠れていた。
 キョウコの知り合いの洋品店の中に潜んでいたのだ。
 ガラス越しで、距離も10mは離れているので声はまったく聞こえないが、大体の雰囲気はわかる。
 リツコという娘もゲンドウ同様にマイペースなので、
 街中の人通りが多い場所でこのようなやりとりをすることに何の躊躇いも恥じらいも持ってはいないようだ。
 
「シンジにアスカちゃん、このことはお父さんには秘密ですからね」

「大丈夫!アタシの口は固いのよ!」

 固いはずである。
 シンジとアスカの手にはお菓子屋さんの緑色の袋。
 どうやら口止め料にまたシスコ社のウルトラマンチョコをせしめた様だ。
 
「ちょっと、ユイ。私のアスカを恐喝の常習者にしないでよ。癖になったらどうするの」

「う〜ん、それはやっぱり母親の責任かな?あ、あの人ったら、変な顔してる」


 それはそうだろう。
 殴られたことは理解できる。
 なにしろこの娘の母親の命を救えなかったのだから。
 しかし、その後に言われた言葉はまるで理解できない。

「許しません。今すぐ医者に戻って下さい」

「何?何と言った」

「あら、聞こえなかったのかしら?貴方が医者を辞めたのは母への責任を負ったのではないのじゃないかしら。
 辞めてしまえば、逃げることができるんですから。つまり、貴方は弱い人間なわけ」

 激するわけでもなく、淡々としかし辛辣な言葉を口にする。
 別にこの話す内容をあらかじめユイたちと決めていたわけではない。
 もしリツコの言葉をユイが聞いていたなら、どれだけ驚いたことだろう。
 ゲンドウの行動の本質をリツコが見抜いていたわけだから。
 世界中で自分ひとりがゲンドウを理解できるものだと思い込んでいたのだから。
 だが、しかし、幸いにもリツコの言葉はユイには聞こえなかった。
 聞こえていなくてよかった。誰にとっても。

 ゲンドウはすぅっと息を曳いた。
 どうしてこの女は俺の心の中にずかずかと土足で入ってくるのだ。
 殴ってやろうか。
 彼が女性に対してこんな暴力的なことを考えたのはこれが最初で、そして最後であった。
 
「殴るんですか?どうぞ、お好きなように。人間は本当のことを言われると腹が立つらしいですわね」

 この時、ゲンドウの頭の中にユイの顔が浮かんだ。
 なるほど、ユイは素晴らしい。
 この娘と同じことを考えていても、ユイは口に出さない。
 もし彼女にこのようなことを言われたら、首を絞め殺しているかもしれない。
 そして自分の命も…。
 
「医者には、戻らん。いや、戻れん…」

 それだけ言うと、ゲンドウは目を伏せた。
 
「意気地なし。貴方がそんな調子では、死んだ母も浮かばれません」

 リツコはさらに言葉を重ねた。

「育英基金という名のお金が貴方から出ていることを私は最近になって知りました」

「うっ…」

 呻くゲンドウ。どこから漏れたのだ?
 
「お金のことは感謝します。もしご支援いただいてなければ、私は進学できませんでしたから。
 ただし、貴方がこういうことになっているのなら、私、貴方にお金をお返ししないといけません」

「いや、それはいかん」

「では、お医者さまに戻ってください。今すぐとは申しません。
 でも、半年経ってもまだ戻っていらっしゃらなければ、
 私はこの身体を売り払ってでも、お金をお返しするつもりですので。
 それでは、その時を楽しみにしています。碇先生」

 リツコはさっと一礼すると、すたすたと駅の方へ歩いていった。

「ま、待て」

 ゲンドウはそう声をかけたものの、彼女を追いかけようとはしなかった。
 そのまま数分ほど歩道に立ち尽くして、そしてパチンコ屋に背を向けた。
 アパートの方ではなく、河川敷の方へ向かったようだ。


「かわいそう…。あんなにしょげちゃって」

「へぇ、あれで落ち込んでるの?わかりにくい人ね」

「あら、凄くよくわかるんだけどなぁ。どうしてわからないのかしら」

 ユイが小首を傾げた時、子供たちの声が聞えた。

「ああん、はずればっかり。シンジは?」

「僕のもダメ。あたらないよ」

 背後の二人はお菓子屋の袋を開けて、流星バッジのあたりカードが入っていないか捜索中。
 いや、捜索が終わったところだった。
 さすがにチョコレートを咥えてはいないが、剥き出しのチョコレートが袋の上に散乱している。

「あっ、あなたたちっ」

「こらっ、もう開けたの?馬鹿っ」

「だって、暇だったんだもん」

 言い返すアスカに、慌てて袋の中にチョコレートを戻すシンジ。
 アスカの方は悠然ともう一度包装紙で包みなおしている。
 
「この子らったら」

「あ、そうだ。駅に行かないと。リツコさん、待ちぼうけよ」

「ああそうだった。急げっ」

 洋品店のおばさんにお礼を言って、4人は駅に向かった。
 案の定、改札口でリツコはじっと待っていた。

「ごめんねっ、待たせちゃって」

 リツコは涼しい顔をしてさらりと言う。

「引っ叩いてしまいました。いけませんでしたか?」

「いえいえ、ありがとうございます。なんだったら反対側も叩いていただいても」

「あら、キリスト教ですか」

「ええ、ミッションスクール」

「で、どうだったの?反応は?」

 のんびりとした世間話に突入しそうなユイに代わって、キョウコが結果を訊く。
 まったくユイったらのほほんとしちゃって…。
 ま、こんな調子だからこの子に惹かれる人間が多いのかもね。
 この初対面の癖に頬を少し染めている合理的娘だってそうだし、ママだって…。
 ふふ、このキョウコでさえいちころだったものねぇ。
 ホント、私が男だったらなぁ…。
 あんな不細工な男に独占なんかさせないのに!
 そっちの方の趣味がないのが残念というか、なかってよかったというべきか。

「揺さぶることはできたと思います」

 リツコは結論だけを告げた。
 半年後にゲンドウが医師に戻ってないときは、彼女が自ら身を滅ぼすと言ってのけたことを。
 詳しく話さないでよかった。
 ゲンドウの心の動きをリツコがそこまで把握していたことがわかると、
 間違いなくユイはショックを受ける。
 ところがリツコはゲンドウにまるで興味を持っていないので、
 今後彼に関わることはないだろう。
 ただ、もしゲンドウが自信あふれる姿でリツコの前に現れていたら…。
 面食いではないリツコはもしかすると、ゲンドウに惹かれていたのではないだろうか。
 出逢い方ひとつで人と人の関わり方は随分と違ってしまうのかもしれない。



 リツコは新幹線の駅までユイに送ってもらいたげではあったが、
 子供たちがいるのでと言われてしまうとこの改札口で我慢せざるを得ない。
 握手を求めるユイの手をどきどきしながら握りしめたリツコはしばらくは右手を洗えなかった。
 2日後の実験の際に泣く泣く消毒薬が入った洗面器に手を入れた彼女である。

「はい、お姉ちゃん、これあげる」

「あ、僕も僕も」

 アスカとシンジは握り締めていたお菓子の袋に手を突っ込んだ。
 
「このチョコ、美味しいよぉ」

「こら待て、アスカ。アンタ、在庫をはかそうとしてるでしょ」

「シンジまで!」

「在庫って何?わかんない」

「ああっ、つまり、今あるチョコをなくして、次のを手に入れようって思ってんでしょ!」

「そ、そんなの知んないわよ。ねぇ、シンジ!」

 いきなり話を振られて戸惑うシンジ。
 彼はアスカにつられただけで、そんな目論みはまるでなかったのだ。

「え、う、うん。おみやげ」

「そうよ、おみやげおみやげ!」

 母の疑惑通りのことを考えていたアスカはシンジの尻馬に乗ってあどけない5歳児に徹した。

「はぁ…、仕方ないわね。リツコさん、一つづつ貰ってくれます?」

「はい。では」

 その時、キョウコとユイは目を丸くした。
 リツコはアスカとシンジの持っていた袋をそのまま取り上げたのだ。
 一瞬えっとなった子供たちだったが、当然この展開は願ったりかなったり。
 ニコニコ笑いながら、はいどうぞと。

「ちょっと、リツコさん?」

「一つってチョコを一つなのよ。アンタ、そんなに」

「大丈夫です。一度で食べるわけではありませんから。研究の時に小腹が空きますので丁度いいんです」

 リツコが微笑んだ。
 それは初めて見る彼女の素直な笑顔だった。
 あら、可愛いじゃない、歳相応で。
 キョウコは腕組みしながらそう思った。

「アリガトね。ホントはママの言う通りなの。流星バッジが欲しいから」

 みんなに聞こえているのも知らず、アスカがこそこそとリツコに耳打ちする。
 
「流星?何それ?」

「ウルトラマンの。ほら、科学特捜隊のっ」

「はい?ウルトラ…何?」

 呆気にとられた二人の子供を残してリツコは東京へ帰っていった。
 ウルトラマンを知らない人間がいるなんて、アスカとシンジには信じられない。
 チョコを持って行ってくれたのはよかったのだが。



 キョウコは一旦母親の病院に向かった。
 娘に「ママと一緒のお布団で寝る?それともシンジちゃんの隣で…」と訊ねたところ、
 いともあっさりふられてしまった訳だ。
 今晩は病院の簡易ベッドでクリスティーネの横で眠り、明日の朝一番に東京へ向かうそうだ。
 身体は大丈夫かと心配するユイに、キョウコは高らかに笑った。
 アンタたちとは身体の出来が違うのよと。
 
 晩御飯の仕度はできている。
 今日は肉じゃがとほうれん草のお浸し。それとキャベツのおみそ汁だ。
 おみそ汁のお鍋はまだコンロの上。
 ゲンドウがまだ帰ってきていないからだ。

「お母さん、お父さん遅いね」

「うん。でも、大丈夫よ。お腹が減ればちゃんと帰ってくるわ」

「ふぅん、なんだか子供みたい」

 自分が幼児の癖にませたことを言うアスカに、ユイはにっこり微笑んだ。

「あのね、男の人ってどんなに歳をとっても子供みたいなのよ」

「シンジも?」

「そうね、きっとシンジも」

「ええっ、僕は大人になったらちゃんと大人になるもん」

 少し頬を膨らませてシンジが主張する。
 
「ふふ、そうなるかな?」

「なるもん!」

 精一杯胸を張るシンジをアスカは嬉しげに見つめている。
 そうねぇ、将来アスカちゃんと結婚するなら、
 しっかりと手綱を持っておかないとどこへ走っていくかわからないものね。
 
「じゃあねぇ、アスカちゃんはどっちがいい?
 大人っぽいシンジと子供のようなシンジとだったら」

「どっちでもいいよ。だって、シンジなんでしょ、どっちも」

 即答だった。
 こいつは恐れ入りました。
 ユイはぺたんと自分のおでこを叩いた。
 ただし、どうも惣流家の女性の夫は若死にするようだ。
 シンジはそんなの真似しちゃダメよ、と母たるユイは思うのだった。

 その時、扉がすっと開いた。
 玄関側に背を向けていたユイだったが、神経はそっちに集中していた。

「おかえりなさい、あなた」

「う、うむ」

 いきなり喋りかけて来た妻の背中に、ゲンドウは精神的に数歩後退りする。
 本当に後に下がれば手すりを越えて転落してしまうので、それはできっこない。
 
「遅かったんですね。どちらにいらしたんですか?
 シンジとアスカちゃんが迎えに行ったのに、パチンコ屋さんにはいらっしゃらなかったみたいですね」

 きっとユイは微笑みながら喋っている。
 背中しか見えないが絶対にそうだ。
 
「す、すまん。少し川っぺりをあるいていた」

「お一人で?まさか、女の人と会っていたんじゃないでしょうね」

 ゲンドウは面の皮は厚くない。
 無愛想で表情に乏しいだけなのだ。

「そ、そんなことはない。待ち合わせなどしておらん」

「あ、そ。じゃ、早く食べましょう。子供たち、お腹がぺこぺこよ」

 ユイは少し溜息をついた。
 なるほど、かなり気持ちは揺れている。
 それでもまだ医者に戻るとは言えないようだ。
 戻る気があって言えないのか。
 それとも戻る気がないから言えないのか。
 外堀はこれで埋まったのだ。
 あとは、本人次第。
 自分は医者だと認めてしまえばそれでおしまい。
 ええ〜い、言ってしまえ、碇ゲンドウ!
 ユイはお味噌汁を温めなおしながら、握りこぶしに力を入れた。

 ゲンドウが卓袱台に座り、子供たちは既にお箸を構えている。
 お味噌汁を配り、そして御飯をよそう。
 
「はい、どうぞ」

 このユイの一言が晩御飯の開始の合図。
 「うむ」と一言唸るだけのゲンドウ。
 「いただきまぁ〜す!」と叫ぶシンジとアスカ。
 その後で「いただきます」と手を合わせるユイ。
 晩御飯はできるだけ家族が顔を揃える。
 これは別に碇家だけの事ではない。この当時の日本の家族はこれが普通だったのだ。
 
 随分と待たされた所為だろう。
 アスカとシンジは凄い勢いで食べ始める。

「こら、二人とも。よく噛まないとダメよ」

「ふぁ〜い!」

 口の中におじゃがが入ったまま返事をする二人。
 卓袱台の上を見ると、アスカのほうれん草はすでに全部なくなっていて、
 逆にシンジのそれは手がつけられていない。
 食前に二人が話していたところによると、二人ともほうれん草が嫌いなようだ。
 先に食べてしまうか最後に食べるか。
 こういうところにも性格が出るのね、とユイは微笑ましく思う。
 さて、目をゲンドウに向けると、当然食が進んでいない。
 単純なゲンドウは気持ちの揺れがそのまま食欲にも直結しているのだ。

「あら、あなた。肉じゃがはお嫌いでしたっけ」

「む、いや、そんなことはないが」

「ないが…なんですか?」

「うむ…」

 言うことはできない。
 言えば、ユイは必ずこの俺を医者に戻してしまうだろう。
 ユイの気持ちはよくわかっている。
 だが、ここは何か言わねばならない。
 変化球を投げられないゲンドウは咄嗟にリツコに出くわす寸前に思っていたことを口にした。

「焼き魚が食べたかった」

 その言葉を聞いた途端、ユイは目を丸くした。
 そして、口を押さえると、畳に転がって笑い出したのだ。
 どう言い訳するのかと思えば、焼き魚が食べたいだなんてっ!
 まったくもうどうしてこの人はこんなにっ!
 
「お母さん、どうしたの?」

「大丈夫?おじゃがに毒でもはいってたの?」

「アスカったら!毒なんか入ってるわけないだろ」

「わかんないわよ。笑うのが止まらない毒とかさ」

「そんなの僕たちも食べてるじゃないか」

「あ、そっか」

 家族の心配を余所にユイはその後数分笑い続けた。
 横隔膜が痛くなるまで。
 ゲンドウに心配しなくていいから食事を続けるように言われ、子供たちはまた肉じゃがと格闘する。
 焼き魚がユイのツボだったのか?
 ともかく誤魔化せてよかったと、ゲンドウはホッとして肉じゃがに箸を伸ばした。
 うむ、旨い。
 誤魔化せてあげてよかった。
 ユイはひくつく胸を押さえながらそう思っていた。
 これで明日の晩御飯のおかずは決定。
 さて、何の魚にしようかしら?



 


 洗濯物を干していると
 今日も窓越しにアスカの背中が見える。
 声をかけようとして、ユイは思いとどまった。

 いけないいけない、またびっくりさせちゃう。
 ん?
 あれぇ?
 何、あの子。もしかして…。
 やっぱりそうだ。ちらちらこっちを見てるもの。
 そうか。柳の下の泥鰌を狙ってるのね。
 くくくっ、可愛いっ。
 私が声をかけた途端に、びっくりしてずっこけるってわけね。
 そして泣き顔をして、またチョコを買ってもらおうと。
 ああ、どういう風にするのか見てみたいっ。
 ダメダメ。毎日お菓子を200円も買えないわ。
 ごめんね、アスカちゃん。
 ああ、でも、あの背中ったら!
 

 まだかなぁ〜、まだかなぁ〜。
 今日こそ流星バッジをもひとつあてて、シンジとお揃いにするんだから。
 う〜ん、まぁだかなぁ〜。
 早くお名前呼んでよぉ〜。





<あとがき>

 金曜日のお話のその弐です。

 上の画像の窓の中にこっそりアスカを合成しました。
 こういうお遊び好きなんです。
 というよりも絵心があれば挿絵にしています。
 描けないから、こうして画像で遊んでいるわけです、はい(泣)。

 さて、リツコさん。
 今度こそこの役にと張り切っていたミサトさんを押しのけて、新登場です。
 ミサトの場合は両親が死んでミサトの胸に傷を残してしまったと…。
 そういう設定も考えていたのですが、ミサトなら育英基金呑んじゃうぞ(爆)。
 でもって、リツコさん登場。あ、この当時、金髪に染めているのはお水の方くらいです。
 したがって、彼女は珍しく黒髪とあいなりました。
 私としては、アスカに次いでよく動いてくれるキャラですね。
 今回もがんばってくれそうです。

 次回は!土曜日の続き。ある姉妹が登場します。姉の方は書くの初めてかも?

 

 

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