この作品に登場する町にはモデルがあります。
ただしそれをそのまま書くと、全員ベタベタの関西弁になりますので、
あえて場所は特定していません。
時代背景がわからない方でも、
楽しんで読んでいただければ幸いです。
同じ町の元市民だった、tweety様に捧ぐ
- Somewhere in those days - 2004.9.22 ジュン
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今日は土曜日。
それでも、ゲンドウは一日仕事だし、シンジもやはりお昼までは幼稚園だ。
病院のクリスティーネは今日も元気だった。
病院食は食べ飽きた、うな丼を持ってきてくれないかと真剣に言い出し、ユイは困ってしまった。
いくらお金を出すといわれても、あんな匂いの強烈なものを持って病院を歩けやしない。
こっそりとお鮭の焼いたのを持ってくるからと言い含めたが、
鰻と鮭じゃ全然違うとクリスティーネはご機嫌斜めだった。
どうせポンコツ心臓で老い先が短いってわかったんだ。
好きなものを食べて何が悪い。
「なぁユイさんや、全財産アンタに譲るからさ。うな丼を食べさせておくれよ」
「まあ嬉しい。お鮭は鰻の何パーセントになるのかしら?」
「アンタ、鬼ね、鬼」
クリスティーネは肩をすくめた。
「アスカ、気をつけなさい。この人は嫁をいびるわよ。じわじわくどくどと」
「いびるって何?」
「いじめるってことよ」
「ええっ、お母さんがアタシをいじめるのぉっ?」
驚いてユイを見上げるアスカ。
「いじめないわよ」
笑いながら胸のところで手を振るユイ。
クリスティーネは部屋中に聞こえるような小声でアスカに囁く。
「あの笑顔に騙されちゃあいかんぞ、アスカ。
現にこの可哀相なばばあにうな丼を食べさせてくれんのじゃ」
「そ、そうなの?」
混乱してきたアスカ。
「ああ、この女はな、にっこり笑いながら…」
「お鮭持ってくるのも止めましょうか?」
「な、アスカ。こういうこと。いじめてるだろ?」
アスカにはよくわからないが、ユイの喋り方にはからかうような響きを感じた。
「もう!お母さん。グランマをいじめちゃダメぇ」
「くりさん、いい加減にしてください。アスカちゃんに先入観ができちゃうじゃないですか」
「ははは、家庭争議の元をつくることはないか」
「そうですよ。あ、本当にお鮭でいいですか?」
「ああ、何でもいいよ。少しボリュームのあるヤツで頼むよ」
「じゃ、帰りにお魚屋さんに寄りますから、その時に」
「任せたよ」
と、財布を開こうとする彼女をユイは止めた。
「そのうちがっぽりと返していただきますから」
「ああ、そうしておくれ。楽しみだ」
「ねえねえ、チョコはダメ?」
恐る恐る訊いてきたアスカに「ダメっ」の唱和。
「いじわるぅ」
いくら膨れて見せても、アスカの要求が通ることはなかった。
「さぁて、アスカちゃん。何にしようか?」
「あれ!あれがいいっ」
アスカが指差したのは尾頭付きの鯛。
どうしてこんな下町の魚屋にこんな豪勢なものがあるのかは、魚屋の大将の宣伝戦略だ。
なじみの料理屋に渡す前に店頭に置いて客引きと見た目をよくするためだ。
もちろん、料理屋には広告料の分を値引きして渡している。
「あれはダメよ。目の玉飛び出るほど、高いじゃない。
それにうちのコンロでどうやって焼くの?切り身じゃないとダメ」
「くぅ、つまんないよぉ。大きいのがいい」
「おやおや、奥さん。今日は外人さんのお嬢ちゃん連れて…って、
この嬢ちゃん、ひょっとして惣流さんちのあのお転婆娘の子供じゃねぇのかい?」
「あら、わかりました?」
「ねぇねぇ、お転婆娘ってママのこと?」
「あいたっ、ごめんよ嬢ちゃん。今はお転婆じゃねぇよなぁ」
今も充分お転婆だけど。
そうは思ってもユイは口には出さない。
「嬢ちゃん、名前は何ていうんだ?」
「アタシ、アスカっ!」
「へぇアスカちゃんかぁ。あれ?で、どうして奥さんが連れてるんだい?」
「あまりに可愛いから誘拐しましたの」
「げげっって、悪い冗談だぜ。ああ、そういや惣流さんとこのご近所だっけか。
そうか、くりさんが倒れたんで、アンタが預かってるわけか。偉いねぇ」
「そうか、てことは、あんたんとこのご主人かい?くりさんの命を助けたのって」
魚屋のおかみさんが接客を放り出して話に加わる。
いや、放り出された中年の主婦も興味ありげに近寄ってきた。
「私も聞いたよ。ほら、黒澤の映画でさ、三船敏郎がやっただろ。ええっと…」
「おお、赤ひげだ」
「ああ、それだ。そんな感じで救急車に乗って行ったって、神田さんとこの奥さんが喋ってた」
「神田さんってえらく遠いじゃねぇか。あそこの奥さんそんなに野次馬なのかい?」
「いいえ、ご主人の方よ。パジャマ姿で飛び出して行ったんだってさ。救急車の音聞いて」
「ははは、なるほどそりゃあいかにもってな感じだよ。今度会ったら冷やかしてやろ」
「あ。あの…」
話が別の方向に飛び火して、世間話に突入してしまいそうだ。
それに誇らしい気持ちもあるが、恥ずかしさもある。
その上、ぐずぐずしているとシンジが幼稚園から帰ってきてしまう。
おずおずと口を挟んだユイを大将だけではなく、その場の全員が注目した。
わっ、みんなに見られちゃった。
でも、誰の目も温かい感じ。
「おっとすまねぇ、買い物に来てくれたんだよな。何にする?」
ユイはもう一度並べてある魚を見渡した。
大きな魚は料理できないので、切り身にしてもらわないといけない。
財布の中身と相談すると、1キレ70円の鰆あたりが無難かもしれない。
魚偏に春だから、それでいいよね。くりさん。
「鰆…にしようかな。切り身にしてくれませんか。5つで」
「ありがとよ。じゃ、5つで…70円にオマケだ」
ユイは言葉を失った。
安すぎる。
1キレおまけというのは夕方に買い物に行った時にしてもらったことはあるが、
これでは4キレおまけになってしまう。
「ちょっとあんたっ。そりゃあおまけしすぎだよって、奥さんごめんなさいね」
一旦ユイに愛想笑いをしてから、おかみさんは大将に詰め寄る。
「あんたはいつもいつも美人に弱いんだから。えっ、何とか言ってごらんなさいよっ。
いくらなんでも70円で5キレはないんじゃないかい」
「ば、馬鹿野郎。そ、そりゃあ、この奥さんはとびっきりの美人には違いねぇけどよ」
魚屋の店先でという戸惑いはあるが、こうはっきりと人前で美人だと言われると嬉しくないわけがない。
「あらぁ、大将。そいつは聞き捨てならないわねぇ。美人にはサービスするわけぇ?」
当然、近所の主婦たちもおかみさんの援軍となった。
「み、みんな、誤解だぜ。お、おいらがおまけしたのは、くりさんのためでぇ」
少し顔色が青くなった大将が、やっとのことで言い返す。
くりさんのためと聞いて、全員があっと口を開ける。
そして、おかみさんがぼんと大将の肩を叩いた。
「痛えっ!」
「あんた、それならそうと最初っからはっきり言いなよ、もうっ!」
「ちょっと、加持鮮魚店さん?」
どきりっ。
主婦連中が店の名前をフルネームで呼ぶ時はいちゃもんをつけるときと相場が決まっている。
まさか他の買い物客にも同じサービスをしろと迫られるのか?
大将もおかみもまずいと思ったその時、
「あんたらけちけちしないで、もっとばぁ〜んとしてやんなよ」
「へ?」
「尾頭付きの鯛とかさ、舟盛りの鰹とか鮪とか、出してあげなさいよっ」
主婦たちは予想外の要求をしてきた。
「惣流医院にはね、随分とお世話になったんだから」
「そうそう、私は結婚したばかりの時だったよ。まだこんな身体じゃなかったからさ。
風邪ひいた時に惣流先生の前で胸を出すのが恥ずかしくて」
でっぷりと太ったおばさんが顔を赤らめた。
「何しろ、惣流先生はハンサムだったからねぇ」
「美人薄命って言うけど、やっぱり美男子も儚いもんかねぇ」
「あの先生が死んだ時には私ゃおんおん泣いたよ」
「まあさ、あれで奥さんが私らと同じ日本人だったら多分憎まれたんだろうけどねぇ」
「外人さんの美人ときた日にゃ、もう好きにしてよってもんだ」
「あの人の胸はあんた並みでさ、ウエストがあんたくらいなんだよ。信じられるかい?」
その主婦は胸の時に太ったおばさんを指差し、ウエストの時はがりがりの奥さんを指差した。
「ほ、本当かい!なあ、あんたなら知ってるだろ?」
いきなり話をふられて戸惑うユイ。
「え、えっと、胸は確かに」
大きかった。
その胸をゲンドウが…などと考えてはいけない。
私は医者の妻なんだ!と、必死で自分に言い聞かせるユイだった。
つまり、ユイがそう思ってしまうほどだったというわけだ。
しかしウエストの記憶はない。
「ねぇねぇ、ウエストって何?」
アスカがユイのスカートを引っ張る。
「あ、うん。あのね、ここのこと」
自分の腰を指差すユイ。
なぁんだとアスカは得心顔。
「グランマのここはママと変わんなかったよ」
耳をそばだたせる主婦たち。
「ママはね、お母さんよりちょっとだけ大きいかな?」
主婦たちはユイの腰を見て一様に驚き顔。
そして、その中の一人が気がついた。
「あれ?今、お嬢ちゃん、この人のことをお母さんって言わなかったかい?」
「うん、言ったよ。だって、お母さんだもん」
アスカは胸を張った。
そして、事の成り行きにユイは暗然となる。
これは行くところまで行かないと止まらないかもしれないと。
「どうしてお母さんなんだい。お嬢ちゃんの…」
「アスカだよ」
「ああ、ごめんね。アスカちゃんのお母さんは惣流さんとこの娘なんだろ?」
「そうだよ。ママはママ。でね、お母さんはお母さんなの」
は、はは。笑っておくしかない。
魚を楽しみにしている二人のことがなかったら、アスカを引っ担いで雲を霞と逃げ出しているところだ。
「どうして?」
ああ、言う。言うわ。絶対に言う。
「だって、アタシはシンジと結婚するんだもん。だからシンジのママはアタシのお母さんなの」
いい笑顔ね。
そう言って頭を撫でてあげたくなるような笑顔だった。
その満足気な顔に、一同は最初呆気にとられ、やがて顔を見合すと爆笑した。
次々とアスカの頭を撫でて「おめでとう」「よかったねぇ」とお祝いの言葉を与える。
そうなると、アスカはもう得意の絶頂。
「あんたも大変だね、こんなに小さなお嫁さんじゃ」
「え、ええ、まあ」
「こら、加持鮮魚店。これだけ祝いが重なってるんだよ。そこの大漁旗が泣いてるわよ」
景気付けに壁に貼ってある大漁旗が指差される。
「ああっ、もう仕方ねえや。鯛でも持ってくかい?」
破れかぶれの大将が叫んだ。
ユイは慌てて手を横に振る。
「あ、あの、嬉しいんですけど、けっこうですよ。そんな大きな魚、うちで料理できませんし」
「いいよ、何ならうちで焼いて持っていってやるよ」
大将よりも度量が大きいおかみさんが仕方ないねぇと笑う。
「あ、で、でも、あ、そうだ。もし、いただけるのなら、くりさんの退院祝いの時にっていうのは如何ですか?」
ユイのその提案は圧倒的な好意を持って受け入れられた。
「加持鮮魚店?わたしらが証人だよ。ちゃんと特大の鯛をしつらえるんだよ」
「お、おう。任せとけ。清水の舞台から飛び降りてやらい」
「へぇ、今日は随分と男ぶりがいいよ、大将。まるで裕次郎みたい」
「そ、そうかい?へっへっへ」
「あ、あの…それで、鰆なんですけど…」
ユイが50円玉一枚と10円玉二枚を掌に乗せ差し出す。
「いいよ、お代は」
「いえ、払います」
そして、ユイはにっこりと笑った。
「その代わり、少し分厚めに。って言ったら怒られますか?」
この発言も笑いを誘った。
おかみさんは「任しときな」と鰆の片身を手に奥へ。
こんな買い物は初めてだった。
店の人とはけっこう喋るが、こういう場で出くわした主婦たちと話したことはない。
こういう買い物ってけっこう病みつきになるかも。
ユイはそう予感した。
「お〜い、ごめんよ。中に入れないんだけどさ」
通りの方から若い男の声。
「ちょっと、開けてやんな。加持鮮魚店の次男坊のお帰りだよ」
詰襟の一番上を開けた高校生が主婦連中を掻き分けるように入ってきた。
「ただいま」
「おう、おかえり。上で美人が待ってるぜ」
肩に引っ掛けた鞄を下ろしかけたところで、その動きが止まった。
「待ってるって、まさか…」
「そのまさかのミッちゃんさ。リョウジ、おめえ、ミサトちゃん放り出して逃げ出したんだって?」
「に、逃げたんじゃねぇぜ。ダチと…」
「嘘つけ。伊吹湯の看板娘に声かけてよ。それでほっぺた引っ叩かれたんだって?
ミサトちゃんが教えてくれたぞ。ん?往復ビンタだったのか?両方赤いぞ」
「もう片方は葛城がやったんだよ」
つまらないぜと言いたげな高校生の表情を見て、ユイは可笑しくて仕方がなかった。
それに変なところで知り合いの名前が登場したものだし。
今日、お風呂に行ったらマヤちゃんをたっぷりひやかしてやろっと。
そこへ奥からおかみさんが息子を突き除けるように出てきた。
「へい、お待ちどう。分厚めに切っといたよ」
「ありがとうございます」
ユイのお礼を軽く受け流し、おかみさんは息子の尻をばちんと叩く。
「こら、逃げるんじゃないよ。ミサトちゃん、あんたの部屋でコーラの自棄飲みしてるんだから。早く行きな」
鮮魚店の息子の退路はおかみさんによって絶たれている。
彼は大きく溜息を吐くと、全然幸せそうもない調子で「幸せだなぁ…」と
加山雄三の『君といつまでも』を口ずさみながら奥へ歩いていった。
「ねぇねぇ、あのお兄ちゃんどうしたの?」
「う〜ん、多分浮気がばれた。違うかな?」
「浮気って何?」
魚屋からアパートまでの短い距離。
その間にアスカが質問してきた。
この返事は簡単なようで難しい。
恋愛についてどこまでわかっているのか見当もつかないからだ。
「えっとね、アスカちゃんとシンジが結婚したとするでしょ」
「やった、結婚結婚!」
言葉だけでそこまで喜ばなくてもと思うくらいの喜びを身体中で表すアスカ。
「それなのに、シンジがアスカちゃんとは違う女の子を好きになっちゃうの」
「げっ!」
アスカが手にしていたお出かけバックをぼとんと落とした。
「嘘!シンジ、アタシのほかに好きな子いるのぉっ?!」
「ち、違うわよ。これは説明のために」
「やだやだ、シンジがそんなのヤダっ!」
「う〜ん、じゃあ…」
「そうだ。お母さんとお父さんで説明して。髭のお父さんがほかの…」
「駄目っ!」
「ひっ!」
開けてはならない扉がある。
そのことをアスカは知った。
あのお母さんがあんな目をするなんて。あんな声を出すなんて。
きっとお父さんのことを好きで好きでたまらないのだろう。
そして、アスカは自分に誓った。
お母さんがお父さんを好きなくらい、自分もシンジを好きになろうと。
ただし、どうやってこれ以上好きになればいいのかまるでわからないのだが。
だが、浮気のことは何となくわかった。
別の人間を好きになること。
確かにそれは許せない。
シンジはアパートの階段にぽつんと座っていた。
やはり魚屋さんでの騒動で少し遅くなったのだ。
「あ、お母さん!アスカ!ただいまぁ!」
最上段で立ち上がって手を振るシンジ。
そのシンジに向って、アスカは大きく手を振った。
「おかえり!シンジっ!」
あなたたち、その挨拶は逆だってば。
そうは思いながらも、階段を駆け上がっていくアスカの後姿がとてもきれいに見えた。
危なっかしげに足を大きく上げて、よいしょよいしょと一段ずつ上っていく。
少しでも早くシンジのところに到達したいという気持ちが全身からほとばしっている。
羨ましいなぁ。私はあんなに身体中で愛情を表現できないから。
ユイ自身はそう思ってはいたが、それは誤解。
彼女のゲンドウへの愛情は誰が見てもわかる。
もしこれで彼女が自覚できるほどの愛情表現をしていたら、近所迷惑この上なかっただろう。
「遅かったね、待ってたんだよ」
「奥さんにはいろいろあんのよ。魚屋さんで晩御飯選んでたの」
「今日はお魚か。どんなお魚かなぁ?」
「んっと、さわらって言ってたよ」
「さわら?佐原健二ってウルトラQの人だよね」
「馬鹿シンジ。あの人はお魚じゃないでしょ。お魚の人間はラゴンじゃない」
「えっ、じゃラゴンを食べるの?」
「さわらって言ってるでしょ。ラゴンじゃないわよ」
まったくこの馬鹿はと言いたげにアスカは肩をすくめた。
その時、背後にユイの影が。
「お〜い、通行妨害ですよ。おうちのほうに進む」
は〜いとばたばた駆けていく二人。
鍵を開けて中に入り、まずは鰆の切り身を冷蔵庫の上の段に。
ちらっと包みの中を見ると、確かに大きい。
一切れが普段の倍くらいの大きさだ。
これはもう浮気できないわね、加持鮮魚店さんからは。
お昼御飯は惣流家の冷蔵庫から徴発してきたハムを使ってハムエッグ。
冷蔵庫の中のものを腐らせてはいけないと、クリスティーネから処理を頼まれているのだ。
「いただきまぁ〜す!」
手を合わせて、子供たちがお箸を掴んだ。
そして、シンジが醤油を手にお皿の方へ動かすと…。
「ちょっと待ちなさいよ。アンタ、ハムエッグにお醤油かけんの?」
「はい?かけるよ」
「私、ソース。ウスターソースよ」
「あ、そうなんだ。ちょっと待っててね」
ユイが水屋からウスターソースを出してくる。
受け取ったアスカはふふふんと笑いながら、ハムエッグの上に丸く黒色の輪を描く。
「それ、おいしいの?」
疑わしげに訊ねるシンジに、アスカは何も言わずにさっとシンジのお皿にも同じ輪を描いた。
「あああっ。何するんだよ〜」
「うっさいわね。私と同じもの食べなさいよ」
「お母さん…」
悲惨な顔で母親を見やるシンジを無視して、ユイは自分の分に醤油をかける。
「あ、自分だけずるい」
「シンジ。あなた、アスカちゃんと結婚するんだから、アスカちゃんに合わせなさい」
優しい母親がきっぱりと宣言した。
シンジは泣きそうな顔でお皿を見下ろす。
色はそんなに変わらないが、匂いがまるで違う。
「アンタ、食べられないの?浮気するって言うの?」
「う、浮気ってなんだよ」
ぼそりと言うシンジ。
こういう時は父親似になってしまうのは、
やはりその肉体にゲンドウの遺伝子がしっかり受け継がれているという証明か。
「んまっ、しらばっくれて。アンタはお醤油をかける女の子が好きなのねっ!」
疑心暗鬼の奥さんは白でも黒だと思い込む。
こんな調子で夫婦喧嘩をされては食事が進まないので、ユイは断を下す。
二人ともぐずぐず言ってないで、早く食べなさい、と。
世にも情けなさそうな顔で、シンジがハムエッグの皿に箸を伸ばした。
「どぅお?美味しかったでしょ」
「う、まずくはなかった」
素直な発言は当然アスカを怒らせる。
「んまっ、酷い。お母さん、シンジったら酷いよぉ」
顔を真っ赤にして地団太を踏むアスカに、ユイは優しく微笑みかけた。
「アスカちゃん、大丈夫よ。こういうのは慣れと、そして愛情だから」
「愛情って好きってこと?」
「そうよ」
「やったっ!じゃ、絶対だいじょ〜ぶ。シンジはアタシの事が大好きだもんねっ」
「う、うん…」
歯切れの悪いその声に、アスカの顔が少し歪む。
あらら、もう破局なの。この二人は。
無理矢理くっつけようとは思わないけど、こういうのってまわりで見てるのはいやなものね。
「で、でも…僕やっぱり…」
「やっぱり、何よ!もう私のことなんか!」
「だって、お刺身にソースなんていやだよっ!」
その時、時間は止まった。
シンジの心からの叫び。
アスカはぽけっと口を開け、ユイは頬の筋肉がつりそうになった。
なんだ、そういうことか。
「アンタ、馬鹿?お刺身にどうしてソースをかけんのよ」
「だって、さっきアスカが…」
「はぁ?アタシ、お刺身にソースなんかかけないわよ」
「でも、お醤油じゃなくて、ウスターソースを使うって…」
もう限界だった。
ユイは横倒しになりバンバンと畳を叩いて笑い出した。
シンジはすべての食品において醤油をソースに代えて食べないといけないのだと思い込んだらしい。
まだわけがわかっていない二人の誤解を解くのにはしばらく時間がかかってしまった。
ユイの笑いが治まるまで。
「よかったぁ。ハムエッグならいいけど、お刺身とかいか天にソースはいやだよ」
「そんなのアタシだってイヤよ。アンタ、じょ〜しきで考えなさいよ」
ユイは思った。
アスカは常識という意味をわからずに使っていると。
きっとキョウコがその言葉をよく使っているのだろう。
これ以上笑うと身体によくなさそうなので、ここは我慢。
「あ、そうだ。僕ちょっと行ってくる」
「どこへ?アスカも行くっ」
「え?でも、アスカの知らない人のとこだよ」
「誰んとこ?」
「あのね、幼稚園で一緒のヒカリちゃんの…」
ぱんっ!
アスカが卓袱台を叩いたが、手が小さいので可愛い音しか出ない。
「浮気っ!」
「何、それ?」
シンジはけろりとした顔で聞き返した。
さっきの会話の中では浮気の説明はされていなかったのである。
「浮気っていうのは他の女の子を好きになるってことよっ!」
「あ、そうなんだ」
にこにこと頷くシンジ。
それに引き換え、アスカの疑わしそうな顔といったら物凄い。
この顔はニセウルトラマンが出てきたときに、テレビを睨んでいた時の表情と同じだった。
「じゃ、僕は違うよ。僕はアスカが好きなんだもん」
聞いている母親の方が照れてしまうようなストレートな物言いである。
だが、言っているシンジも告白を受けたアスカもまだそういう恥じらいを知らない。
「ふん。信じられますかっていうのよ。アタシも着いてく。
アンタが浮気をしてないかこの目で確かめてやるわっ」
やる気満々のアスカを先頭に真ん中にシンジ、
そして先方に迷惑をかけてはまずいので最後尾にユイも控えている。
「あ、違うよ。アスカ。そこ、左」
「わかってるわよ!知らなかっただけよっ」
アパートから徒歩1分。
ほんのすぐ近くの六軒長屋の一番奥が目的地だった。
インターホンや呼び出しベルなどあるわけもなく、
アスカは格子戸をごんごんと叩いた。
ガラスがびりびりと震える。
「はぁ〜い」
がらがらっと扉を開けたのは小学校高学年の女の子。
長い髪をきゅっとくくった活発そうな美少女だ。
そう、彼女が綺麗であることはアスカにもわかった。
「どちらさま?」
「アンタがシンジをゆ〜わくしたのねっ!」
完全に場違いなビジュアルの白人幼女にいきなりまっこうから指さされて、
洞木コダマは対応に困ってしまった。
もとより、外人と喋ったこともない。
その相手が日本語を使っていることすら気が付かないくらいだ。
「え、えっと、あの…お母さんいないの。買い物で…。困っちゃったな」
「ああっ、やっぱり困ってるっ。アタシはシンジの奥さんなのよ!」
「わっ、どうしよう」
「こら、シンジ。こいつの名前は何ていうのよ!」
「僕知らない」
「んまっ、名前も知らないのに好きになったのっ?信じらんない!」
目の前で幼児に夫婦喧嘩をされてコダマはさらにうろたえる。
ああ、やっぱり着いてきて良かったと、ユイは思った。
「アスカちゃん、いい加減にしなさい。ごめんなさいね、いきなりで」
優しそうな大人に声をかけられて、コダマは一安心。
「い、いえ、そんなことないですよ。はい」
現在、洞木家を精神的に支えている彼女だ。
落ち着いてしまえば、同年代の少女よりも遥かに大人である。
「アスカちゃん、シンジのことを好きなのだったら、シンジを信用しなさい。
あんまり疑いすぎると、嫌われちゃうかもしれないわよ」
ユイの真剣な言葉にアスカの肩がびくんと震えた。
「ほ、ホント?」
「うん。本当よ。そうやって別れてしまった夫婦も多いわ」
ユイはほんの少しだけ言葉を省略した。
映画や小説では、という言葉を。
浮気して別れた夫婦のことは少しは聞いたことはあるが、愛しすぎて鬱陶しがられたなんて物語の世界だけ。
もちろんそういう例も世の中にはあるのだろうが、残念ながらユイの周りでそういう夫婦はいない。
それにここのところはアスカにそこまで教える必要はないわけだ。
「げっ!」
ユイの言葉は効果覿面。
アスカは恐る恐るシンジを振り返った。
「し、シンジ?アタシのこと嫌い?」
その返事は実にあっさりとしたものだった。
「ううん、大好きだよ。だってアスカは僕のお嫁さんだもん」
「えへっ」
六軒長屋の洞木家の玄関先。
突然現れた幼稚園児に夫婦喧嘩と仲直りを見せられ、コダマは困ってしまった。
そして助けを求めるようにユイを見上げる。
「ふふ、ごめんなさい。人様の玄関先で」
「あ、あの、ご用件は…?」
当然である。
「あら、そうね。シンジ、あなたでしょう?」
「うん。あのね、ヒカリちゃんにこれをって」
シンジは手にしていた封筒を差し出した。
「はい?」
「えっと、幼稚園の先生からです」
「あ、なんだ。じゃ、ヒカリ呼んでくるね」
コダマは身を翻して、中に入っていった。
「あ、あのさ、それってもしかして、ら、ラブレター?」
「へ?らぶれた〜って何?」
「そんなことも知らないの?えっとね、アンタの事が好きってお手紙に書くの」
「それがらぶれた〜なの?それじゃ違うと思うけど」
幼稚園の先生に頼まれたのだと、シンジは説明する。
もちろんユイにはわかっていたが、最初からアスカにちゃんと説明しないのは彼女の悪い癖。
好奇心が強いのと面白がる性格は少し傍迷惑かもしれない。
ただ面白がって見物するだけのために着いてきたのではないことだけはわかるが。
ラブレターについての二人のやりとりを微笑んで見ていた、ユイの耳に家の奥の方でこんこんと咳の音が聞こえてきた。
そしてミシミシという階段がきしむ音。
まだ何やら言いあいをしている二人に「こらもう止めなさい」と注意する。
やがて奥から出てきたのは髪をお下げにした少女。
彼女を見てユイはあれっと思った。
病気だと思ったのに、パジャマでも寝巻きでもなく普段着なのだ。
その少女の後ろにコダマも続いて出てくる。
やはり姉らしく妹が心配なのだ。何しろちょっと意味不明の幼児カップルが相手なのだ。
「あ、えっと、シンジちゃんだったっけ?」
「うん、僕、シンジだよ。えっとね、これ先生からお手紙なの」
「ありがとう」
シンジよりも健康そうな手で手紙を受け取る。
「ねぇ、シンジ。紹介しなさいよ」
「あ、うん。あのね、なんとかヒカリちゃん」
シンジにはヒカリやコダマの姓が読めなかった。
「洞木、よ。こほん…」
ふふふ、と笑うヒカリ。
その後、少し顔を背けてこんこんと咳をする。
アスカとしてはシンジがこの女の子の苗字を知らないことに嬉しさを隠せなかった。
「アタシ、惣流・アスカ・ラングレー!アスカって呼んでいいわよ!」
シンジを押しのけるようにして自己紹介する。
少し偉そうな態度なのは仕方がないとして、
アスカが初対面の人間に自分から名乗りを上げるのは珍しい。
「私、洞木ヒカリ。あの…アスカちゃんって、幼稚園にいなかったよね」
アスカのような容姿の園児がいれば目に付くはずだ。
でも、ヒカリはまだ2日しか通園していない。
だから自信がなかったのだ。
「うん、アタシはもうすぐドイツに行くの。だから幼稚園には行ってないの」
「あ、そうなの?ドイツってどこだっけ?アメリカのお隣?」
「違うわよ。フランスの隣。ヨーロッパよ」
その時、コダマがとんとんと快活な足音を立てて階段を上っていった。
そしてすぐに降りてきた時には、手に地球儀を持っている。
「ねぇ、これで見てごらんよ」
玄関先に地球儀が置かれ、みんなが顔を寄せ合う。
「見て見て、ドイツはここよ」
さすがに小学校高学年。
コダマがすぐにドイツを指差す。
「うんうん、ドイツはここなのよ」
「へぇ、遠いんだ。ここに行くの、あなた?」
「そうよ、ここの……」
目を皿のようにしてドイツを見るアスカ。
「あれ?どこどこ?ハンブルグがないよ。この辺なんだけど」
「え、アスカって地図に載ってないところに行くの?」
「違うわよ、ハンブルグはドイツなの。西ドイツよ」
「でもこっちのドイツにないよ。お隣のドイツじゃないの?」
「そっちは同じドイツでも行けないドイツなの」
「どうして?」
「そんなの知んないわよ。ど〜せ、大人の勝手でしょっ」
確かにそうだ。
ドイツが戦後東西に分かれたのは大人の都合。
朝鮮半島だってそう。ベトナムだって。
この子供たちにそんな大人の理屈がわかるわけがないし、わかって欲しくもない。
この子たちが二度とあんな戦争を経験しないで済みますように…。
子供たちを見ていて、そう願わずにはいられないユイだった。
終戦はユイが2歳の時。
ユイは覚えている。
山一つ向こうの町が空襲に遭ったときのことを。
母の背におぶられ見た光景。
まるで夕焼けのように山向こうの夜空が真っ赤に染まっていた。
その時、その町に住んでいたユイの親戚は一家全員死んでいる。
おぼろげな記憶の中の遊んでくれた従姉妹もその中にいた。まだ国民学校に入ったばかりの双子だったが。
防空壕が直撃されたのだと、数年後母親に聞いた。
丁度彼女たちと同じ年頃になっていたユイはショックを受け泣き明かした。
はっきりとした記憶がなかったので、その遊んでくれた双子の女の子が実在していたのかも知らなかったのだ。
母親が彼女たちが写っていた写真を見ていたのを横から見て思い出したわけだ。
ベトナム戦争が続き、ソ連とアメリカが睨みあうこの時代。
絶対に戦争は起こしたくない。
ユイはそう思わずにはいられなかった。
この子供たちのためにも。
ハンブルグの一件は、コダマが地図帳を出してきてくれたので解決した。
「ほらね、おっきな港町だってママが言ってたもん」
危うく地図に存在しない町に引っ越すものだと思いかけていたアスカが気を取り直した。
「凄く遠いところに行くのね。こんこん…ごめんなさい」
また咳をするヒカリ。
「まだ病気治ってないの?」
「ううん、熱はなくなってるの。でも、咳が止まらなくて…」
咳をしているヒカリの代わりにコダマが答える。
「うちね、今お母さんが入院してるから…」
「まあ、どこか悪いの?」
つい口を挟んでしまったユイに、コダマとヒカリはよく似た微笑を浮かべた。
「ううん、妹ができたの。それでまだ入院してるんです」
「あ、そうなの。おめでとう」
「おめでとっ!」
「えっと、おめでとう」
「ありがとうございます!」
コダマに続いて礼を言おうとしたヒカリだったが、また咳き込んでしまう。
「大丈夫?」
「うん、すぐにおさまる…こんっ…」
「お医者様には?」
「行ってないの。お金が…」
ユイの質問にコダマが答えにくそうに小さな声で言った。
「お父様は?」
「お父さんは仕事。今、日雇いなの」
どういう事情かわからないが、洞木家は経済的に困っているようだ。
「お薬は?」
「ただの風邪だから大丈夫だってお父さんが」
「飲んでないの?」
おせっかいだとは思う。
でも、医者の妻だったユイなのだ。
放ってはおけない。
「とにかく風邪薬を…」
そう言いかけて、ユイは口をつぐんだ。
ただの風邪でいいんだろうか。
もし間違えていたら。いや、風邪じゃなかったら?
これは予感なのかもしれない。いや、もしかすると手前勝手な願望なのかも。
そうは思いながらも、ユイは言わずにはいられなかった。
「今晩はうちでお食事しない?おばさんが風邪に負けないものつくるから」
ユイは再び魚屋へ。
二人分、増えたから。
しかも病中の人間が食べるのだから、精のつくものが良い。
加持鮮魚店のおかみは鰈を安くしてくれた。
煮付けにしよう。
4枚買って、1枚はくりさんにも持っていこう。
コダマは恐縮していたが、食欲には勝てない。
この数日、彼女が作れるものと父親が買ってくるものしか食べていない。
母親の料理から遠ざかっているのだ。
それにコダマはまだ良い。
彼女には給食があるのだから。
幼稚園を休んでいるヒカリのお昼には、コダマが作ったおむすびとお漬物だけ。
これじゃ身体がよくなるわけがない。
今日会ったばかりの人の世話になるのは少し恥ずかしいが、別に気後れはしない。
このあたりは下町育ちの良さだろう。
ユイのつくった鰈の煮つけを卓袱台の蝿除け網の中に入れ、置手紙を書く。
第3青葉荘の碇さんのところで晩御飯を食べてます、と。
今日はゲンドウの迎えにはシンジとアスカは行かさない。
それではヒカリとコダマの居心地が悪くなってしまうから。
それに一番大きな理由は、事前にシンジたちに喋られてしまうとゲンドウに警戒をさせてしまうから。
ゲンドウには突然ヒカリちゃんと出逢ってもらう。
ヒカリちゃんには悪いけど、あなたには武器になってもらいますね。
ユイは勝負をかけていた。
父親が失業し日雇い状態で収入が不安定。
母親は出産で入院し、しかも重いお産だったので入院が長引くそうだ。
出産と入院の費用を捻出しようと父親は必死になって働いているのだが…。
コダマに聞いた話ではヒカリの病気のことを詳しく言ってないらしい。
だから父親は熱が下がったことでもう大丈夫だと思い込んでいる。
そんな父親に二人は病院に行く費用のことが気になって言い出せないのだ。
幼い姉妹の健気さにユイは胸が詰まる想いだった。
そのためにゲンドウにヒカリを診させようと思ったのだが、
素直に頼んだだけでは逃げられてしまうかもしれない。
いや、何とか逃げようとするだろう。
ユイにはわかっていた。
本当にゲンドウが医師を辞める気でいるならば、
逆にヒカリを気軽に診てくれるだろう。
心が揺れているからこそ逃げるのだ。
ならば、逃げられないようにするまで。
これでも、逃げようとするならば、私が身体を張る。
どうすればいいかはよくわからないけどね。
「おばさん、美味しい!」
「本当?」
「うん、凄く美味しいよ。ね、ヒカリ」
「うんっ。美味しい」
ところどころに咳は混じるが、ヒカリも嬉しそうに食べている。
そんな彼女の様子を横目で見ながらアスカとシンジも楽しそうだ。
別に物凄いご馳走が並んでいるわけではないが、楽しく食べることが一番のご馳走。
ゲンドウを待たずに晩御飯を食べるのは、シンジには久しぶりだった。
前の街では診療で忙しい父親と一緒に食卓を囲むことの方が珍しかったのだ。
それがここに引っ越してきてからは毎日晩御飯は一緒。
ほとんど父親と会話をすることはないのだが、
家族全員で食べる晩御飯はシンジにとって何ものにも代え難かった。
だが、今日の晩御飯は楽しい。
ユイはゲンドウを待っているので、卓袱台には子供たち4人。
別にお喋りが白熱しているわけではない。
それでも子供だけの食卓というのはどこか楽しいものだ。
「ねぇねぇ、妹って名前決まったの?」
「うん。ノゾミっていうの」
嬉しそうに答えるコダマ。
ヒカリも嬉しそうだ。
「ヒカリは妹を欲しがってたもんね。これでお姉ちゃんになれるんだもん」
「うん、わた…こほんこほんっ」
勢い込んで喋ろうとしたヒカリだったが、咳がそれを邪魔する。
食べ終わったアスカがちょこちょこと歩いて行き、ヒカリの背中をさする。
「痛い?」
「うん、大丈夫。ありがとう」
咳を出さないためにか、小さな声で礼を言う。
「そうだっ。ね、どっち見る?悟空と黄金バット」
コダマとヒカリは顔を見合わせた。
「遠慮しなくていいのよ。白黒だけどね」
ユイが優しく言葉を添える。
すると、コダマが恥ずかしげに目を落とした。
「うちはないんです。今」
あ、しまった。ユイは臍を噛んだ。
そこまで考えてなかった。
今ないってことは、質に入れたのか。
どうしよう。変に慰めなんか言わない方がいいし。
「そっか、ないのね。じゃ、悟空にしよっ。おっもしろいんだからっ!」
アスカは空気を読んでいるのだろうか。
それとも無意識に?
ともあれ、助かった。
ユイの感謝を背にアスカはテレビの前に。
ガチャガチャとチャンネルを回し、そのままシンジの横にちょこんと座る。
その場所は最初に座っていた場所とは違う。
これも無意識なのかしら。
ユイはこれから訪れるはずのクライマックスのために緊張していた気持ちが和らいだのを感じた。
うん、将来どうなるかはわからないけど、うちの息子のためにアスカちゃんは欲しい。
この子なら、きっとシンジがくじけても背中をどやしつけてくれるだろう。
そう思うと、すっと笑みが広がった。
そして、左の頬にあの感触が…。
あ、そういえば、アスカちゃんには片えくぼがまだ出てなかったんだ。
どうしてなんだろう?
母親の性ってことなのかしら…。
くりさんに話したら笑われるでしょうね、きっと。
ユイは片えくぼを浮かべながら、小さな恋人たちの背中を見つめていた。
こつ、こつ、こつ……。
来た……。
ユイは息を呑んだ。
あの足音のリズム。
絶対に間違えやしない。
毎日あの足音が楽しみなんだから。
あのリズムがシンジの軽やかな足音に雑じる、ユイにとって絶妙のアンサンブルを。
ただし、今日はいつもとは違う。
胸が苦しい。喉が渇く。
お願い、あなた。
お医者様をすることが貴方の夢なんでしょう?
がちゃり。
扉が開いた。
「今、帰った」
玄関先にぬっと立つ仏頂面の髭男。
ゲンドウを見て、コダマとヒカリがびっくりしたのは仕方がないと言える。
ただし、ゲンドウの方も驚いたのだ。
シンジとアスカの迎えもなく一人寂しく帰宅すれば、家の中には見慣れぬ少女が二人増えている。
この前はいきなり金髪美人に土下座された。
一人で帰宅するのはしばらく避けたほうがいい。
彼が咄嗟にそんなことを考えていたなどとは、子供たちにわかるわけがない。
「おかえりなさい、お父さん!」
「おかえり、お父さん!」
シンジとアスカの声が重なる。
それを聞いてようやくお客様二人は、玄関先の大男が闖入者ではなくこの家の主人だと思い出した。
「あ、あの、こんばんは」
「こんばんは、こほん…」
ヒカリが遠慮がちに咳をする。
その時、ゲンドウがかすかに身じろぎしたのをユイは見逃さなかった。
「あなた、突っ立ってないで中に入りなさいよ。お客様が困っちゃうでしょ」
「ああ、うむ」
ぎこちなく頷くと、ゲンドウは靴を脱ぎ、歩み寄ったユイに弁当の包みと汚れ物を渡す。
その間に何度かちらりとヒカリの方を見ている。
それを確認したユイは心の中でしっかり頷いていた。
やっぱりこの人はお医者様。あの咳が気になるんだ。
でも、だからといってこっちから追いやるのは駄目。
せいぜい水を向ける程度にしなきゃ。
「お母さんはご出産で入院してて、お父さんは朝から夜遅くまで働きに出てるんだって。
だから今晩はご招待したの」
「うむ…そうか」
その時、コダマとヒカリが目配せをした。
一家団欒の時間だからお邪魔をしてはいけない。ここらで帰りましょうと。
そして、言葉を出そうとした時、アスカが先に喋った。
「ねぇ、7時30分から何か見る?」
「あ、う、ううん。もう帰らないと。それにお風呂にも行かないといけないから」
まずい、このまま帰られちゃいけない。
ユイは水を向けることにした。
「ああ、そうか。ヒカリちゃん、ずっと入れなかったんだものね。でも…大丈夫?」
「う、うん、大丈夫…こほっ…です」
「そう?だけど、お医者様にも診てもらってないんだから…」
言葉はヒカリの方を向いているが、訴えているのはゲンドウへ。
「何?」
それは意識せずに出た言葉だった。
自分の声が聞こえて、ゲンドウはしまったと思った。
こういう話は避けないと…。
しかし、あの咳は…。
3秒もかかっていなかっただろう。
だが、そのわずかな時間の中でゲンドウは葛藤していた。
自分はもう医者ではない。
しかし、あの咳を見過ごしにはできない。
このまま放置していいのか?自分が逃げるために…。
ゲンドウは目を瞑り大きく息を吐いた。
そして、彼はつかつかとヒカリの前に歩み寄った。
彼女の前に膝をつくと、無愛想もいいところな顔つきで言う。
「口を開けるんだ」
「え…」
明らかに怯えているヒカリ。
ユイは思い通りに動いてくれた嬉しさもさることながら、相変わらずのつっけんどんさを見て軽く溜息をついた。
これはやはりいい看護婦さんを探さないと…。
流石に姉だ。コダマがさっと二人の間に入った。
「あの、すみません…」
「よかったねっ」
コダマの背中でアスカの声がした。
振り向くと、アスカがヒカリの肩をぽんぽんと叩いていた。
「あのね、シンジのパパはお医者さんなんだよ。
アタシのグランマが死にそうだったのを助けてくれたんだよ。
ヒカリのごほんごほんも治してくれるよ」
「えっ、お医者さんなの?」
明らかに医者のイメージとは違うゲンドウに戸惑うコダマ。
「う、うむ」
仕方なしに頷くゲンドウ。
「お金がないんですけど、いいですか?」
「金などいらん」
ユイは嬉しかった。
が、続くゲンドウの言葉でその嬉しさもかなり退いてしまったのだが。
「手遅れになっては大変だからな」
「あなたっ!」
慌てて駆け寄るユイ。
「この咳は良くない。ぜんそくか…いや、推量はいかん」
「あ、あのっ」
さすがにコダマの年齢ともなると、ゲンドウの言葉の意味がわかる。
「ユイ。懐中電灯だ。大きくてもそれでいい」
「はい、あなた」
ユイは懐中電灯が置いてある玄関脇の戸棚ではなく、押入れの方に向かった。
そして、押入れの襖を開けると、下の段に入っているあの旅行鞄を引っ張り出す。
「何をしている。早くし……」
言いかけたゲンドウの口が止まる。
ユイが開いた鞄の中身には黒い往診用の鞄がそっくり入っていた。
その横にはアイロンがあてられ綺麗に畳まれた白衣も入っている。
「ユイ。お前は…」
「聴診器も要りますよね」
ゲンドウは瞑目した。
鞄の中身は本ではなかった。
捨てる様に言ってあった医療器具だったのだ。
それを見た途端、ユイの気持ちは痛いようにわかった。
医者を続けさせたいという彼女の気持ちが。
「ね、ヒカリ。上を脱がないとダメよ。ほら、早く」
コダマがヒカリを急かす。
生活費が少ないから、大丈夫だと言う妹の頑張りに甘えてしまっていた後悔がコダマを苦しめていた。
小児喘息がどれほど辛いものかは同級生の姿を見てよく知っている。
工場のすぐ傍にあるこの街では呼吸器を痛める子供の数が多いのだ。
まだ公害病という社会現象が一般化されていない時代だった。
「シンジは見ちゃダメ」
「へ?どうして」
「アンタ馬鹿ぁ?れでぃが裸になるのを見ちゃダメでしょうが」
「だって、お風呂だって…」
「だってもくそもないのっ。アンタはあっちむいてなさい」
「う、うん」
納得できないままにシンジは背を向ける。
「あ〜、と言ってごらん」
もはやゲンドウは目の前の患者しか見ていなかった。
ヒカリの上着を手にしたコダマは手にじわりと汗をかいている。
「よし、もう服を着ていいぞ」
ゲンドウは聴診器を外した。
「おじさん!あ、えっと、先生。ヒカリは?」
「ここでは詳しくはわからん。大きな病院で診てもらったほうがいい。
今なら手遅れにならんで済むと思う」
「本当ですか!で、でも…」
コダマは躊躇った。
お金がない。
「父親は仕事だと言ってたな。まだ帰らんのか」
コダマは柱時計を見た。
8時過ぎ。
もう帰っているはずだ。
その旨を伝えると、ゲンドウは黙って立ち上がった。
「案内してくれんか。話をしてくる」
「はいっ」
コダマが大声で答える。
「あなた、私も…」
「お前はここにいろ。子供たちを見ていてくれ」
「でも…」
「ふん、俺にそういう話ができるか不安なのか?」
ゲンドウは自嘲するように口を歪めた。
「俺は医者だ。言うべきことは言う」
30分後、ゲンドウとコダマはアパートに戻ってきた。
左の頬を少し腫らし、少し喋りにくそうに彼は言った。
「今から社長のところに行ってくる」
「伯父さまの?」
「ああ、少しやりあって来る」
にやりと笑ってゲンドウは背中を向けた。
その背中をコダマが憧憬を込めた眼差しで見送る。
「かっこいい…」
10歳やそこらでゲンドウのことを理解されては困る。
自分がそうであったことなど完全に忘れ、ユイはむっとなった。
そしてユイは好奇心と嫉妬をも併せて、コダマに何がおきたのかを訊ねた。
洞木家の主人にゲンドウはヒカリに喘息の疑いが強いことを伝え、検査を強く勧めた。
酒の入っていた彼はゲンドウの胸倉を掴み、いい加減なことを言うなと凄む。
止めようとしたコダマにさらに興奮してしまった父親はゲンドウを殴ってしまうが、
ゲンドウは蚊にでも刺されたかのような表情で粘り強く病状を説明する。
このままでは悪くなる一方だ、娘のためにもこの町を離れる方が良いと。
そして、金の心配をする父親に風呂に入ってきて酒を抜けと命令した。
その上で就職を頼みに一緒に行ってやるとそっけなく言う。
「ははぁ、それで伯父さまのところか。なるほどね」
「何がなるほどなんですか?」
「うん。きっと自分の代わりにあなたのお父さんを雇えと要求しに行ったんだと思うわ」
「代わりって。じゃ、先生は?」
おやおや、先生?この娘ったら、あの人を完全にお医者さまにしちゃったわね。
「今はね、あの人工場で働いてたの。でも、これからはお医者さまに戻るから」
「そうなんですか…」
わかったようなわからないような表情で、コダマが首を捻った。
その表情が可笑しくてユイは「ふふふ」と笑みを漏らし、それから大声を上げた。
「ああっ、いけない」
「どうしたんですか」
「ほら、見て」
ユイの視線の先は奥の4畳半。
すでに時計は9時を回っていて、3人の5歳児は頭をくっつけるようにして畳に寝転がっていた。
「こら、みんな歯を磨きなさいっ」
「ヒカリったら…」
「どうする?このままうちで寝かせる?」
「いいえ、お父さんが心配すると思いますから。連れて帰ります」
ああ、いい子だ。
本当に長女って感じで。
結局、ユイはヒカリを背負い、六軒長屋まで歩いた。
そして、別れ際にコダマがまたもユイを驚かせるようなことを口走ったのだ。
「おやすみなさい。本当にありがとうございました。
あの…先生にもよろしくお願いします」
ぴょんと頭を下げたしっかり者の小学4年生にユイは笑みを浮かべた。
「ありがとう。こっちの方がお礼を言わないといけないのよ」
「はい?」
怪訝な顔のコダマにユイは右手を差し出した。
わけがわからないままに、コダマはその手を握りしめた。
少なくとも、何かすべてがうまく行きそうな気がする。
それもこれもこの碇家の人々と知り合ったおかげ。
ユイの方もそれとは逆のことを考えていた。
まさかこういう形でゲンドウが医者に戻るとは思ってもいなかった。
これは彼女たち姉妹のおかげだと。
長屋からアパートまでの短い距離をユイは踊りながら歩きたい気分だった。
お医者さまのあの人が帰ってくる。
やっと、帰ってくるのだと。
「ヒカリ、寝た?」 「ううん、まだ起きてるよ」 「あのね、お姉ちゃん、決めたの」 「何を?」 「大きくなったらね、私、看護婦さんになる」 「へぇ、こほん…そうなの」 「あ、ごめんね。早くおやすみなさい、ヒカリ」 「うん、おやすみ、お姉ちゃん」 コダマはもう一つ決めたことをヒカリに言わなかった。 それはどこの病院の看護婦になるか。 私、あの先生のところで看護婦さんになるんだよ…。 |
<あとがき>
土曜日のお話です。
ごめんなさい。
病気のことはよくわからないし、詳しく書きたくないのでぼかして書いてます。
さて、ミサト。
いよいよ、登場!
…って、セリフもないぞ(爆)。
加持鮮魚店の場面は長かったかも知れませんねぇ。
ただ、私はああいうシークェンスや会話が好きでして。
コダマちゃんは勝手にイメージしました。書くの初めてかな?
次回は!日曜日。前半を耐えてください。
いよいよ最終回です。
感想などいただければ、感激の至りです。作者=ジュンへのメールはこちらへ 掲示板も設置しました。掲示板はこちら |