静止軌道上ラプソディ −怪説−

by  じゅんたろ〜

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 これは、母という存在を認める物語である。

 母を許すのでもなければ、母を求めているわけでもない。
 この話のヒロインはその父や母と異なり、母を喪失したという記憶がないのである。
 父・シンジはその母親の肉体が消失するという事件を目の当たりにし(もっとも彼にその自覚はその時無かっただろうが)、
 母・アスカはその母親の精神の殆どが消失してしまい、あの心中未遂に到ったことを徐々に知り(という点が彼女の悲惨な部分だろう)、
 そして互いにその父親から遠ざかった場所で幼児期から思春期に到るまで送ることになる。
 しかし、碇アキラには父がいた。
 再婚することもなく、無くした妻を追い求めることもなく、ただ娘とともに人生を歩むことを選んだ父親が。
 だからこそ、彼女は母親の不在をいくばくかの哀しみを覚えはするものの、自然なものとして受け止めていたわけだ。
 この差は大きい。シンジやアスカのように他者との距離感を人並み以上に意識することがない。つまり、普通の子供として育つことができた彼女は幸福だった。
 ただ、この物語を読み終えてどうだろう。ここは過去形にしてしまっていいものだろうかと考えてしまう。結果的に作品上では父と母は復縁することはなく、これまでと同様に別れて生きるわけだ。あくまで作品上では。読み終えた方の大半が彼女の父親と母親が死ぬまで会えないままだと感じてはいないはずだ。ダークな世界観の好きな読者なら、タラワの研究所がロケット発射の失敗で壊滅したり、有人月ロケットに搭乗したアスカが死んでしまったりとかと妄想を展開するかもしれないが、それは天邪鬼というもの。あのラストを読めば、いずれは二人が一緒に暮らす日が来るかもしれないという想像をする方が自然である。
 しかし、そこにはアキラの姿はないかもしれないが。
 これが“母を許す物語”なのであれば、話は違う。きっとアキラはアスカに帰るなと泣きながら詰め寄っただろうし、一旦は車に乗ったアスカも仕方がないわねとばかりに戻ってくるという、言わば大団円的終局を迎えたに決まっている。そうしないと、母を許したことにはならないからだ。百歩譲っても、研究(仕事?)のキリをつけたらもう一度日本へ来るとの約束くらいは残していた筈だ。
 ところが、リンカ氏は彼ら家族(あえて家族とさせていただく)に至極あっさりとした別れの場面を用意しただけだ。中には物足りなさを覚えた方もいるかもしれない。実は私ももう少しドラマティックに…などと喉元まで出ていたくらいだ。しかしながら、“母を許す”話ではなく“母という存在を認める”話にドラマティックなものが必要だろうか?
 おそらく、アキラはこう言うことだろう。

 「私にとっては充分ドラマティックな数日間だったじゃない!」

 それはそうだろう。彼女の意識の中では抹消されていた“母親の存在”。おそらくは友人の母を見ても、話しても、少しばかりの羨みと、そして“私には父がいる”という虚勢と本音が入り混じった大きな想いを抱くだけだったに違いない。前述したシンジやアスカのケースとは大違いだ。
 少し脱線するが、もしゲンドウがシンジと暮らし続けていたとするならば、リツコに手を出すこともなく(ここは自信なし)、シンジとの生活の中でいつしかユイ再生への信念が揺らぎだしていただろう。だからこそ彼の思いを貫き通すためには、シンジが傍にいてはならなかったのだ。従ってシンジを遠ざけたのは正解。正解だからこそ、私はシンジやアスカたちのような子供を道具にしたあの世界観が…(以下略)。
 さて、アキラである。彼女は突然現れた母親という存在に戸惑い、怒り、哀しみ、そして、逃げた。ああ、両親の遺伝子というものはこんなに強いものなのか。その父親や母親も彼女と同様で、その年頃において自己の許容量を越えた圧迫感を受けたとき、“ロスト”という道を選んだ。しかもその“ロスト”は一人彷徨う形であり、友人を頼ったりはしない。アスカはヒカリに助けを求めたのはまだ初期の頃だ。しかし、二人の名誉のために補足しておくと、まさに時代が違う。私の年代で言うと、父母の年代の人たちが戦争中のこと(思春期の頃のこと)を語る時、平和な時代の尺度で感想を持ってはならないのと同じである。アキラは平和な時代に育った。母はいないが、父親の愛に包まれて。だから逃げたとはいえ、それは友人の家を転々としているだけで、しかも家には連絡を入れている。実に甘い“ロスト”だ。
 しかし重ねて言おう。この世界では、各地で紛争は続いているが、使徒など出現もせず、エヴァンゲリオンもネルフも存在しないのだ。そんな世界で、ごく平凡な父子家庭で、アキラにそれ以上の何ができようか。
 彼女にすれば、母親の登場はただショックだっただけなのである。もし事前にシンジが説明していればどうだっただろうか。アキラの母親とはどういう女性で、こんな理由で別れて暮らすことになり、二人はこういう想いを娘に抱いているのだと。それでは物語にならないではないかという突っ込みは、しばし棚の上に置いていただこう。仮定の話だ。かくかくしかじかと話を聞いていたならば、ショックは受けずに、戸惑いを含んだ喜びという感情が彼女を支配していたことだろう。何故にシンジは話さなかったか。答えは、それが碇シンジという人間だから、に決まっている。普通のお父さんをしていても、基本性格は変えようがない。おそらくは娘が大きくなった時にはアスカのことを話そうと考えていたはず。それが親として当然の考えである。だが、結局彼は話すタイミングを見つけられないまま、ずるずるとこの時に到る。そういう姿がシンジには自然だ。何はともあれ、真実を告げられないままに、アキラにとっては青天の霹靂のような母の登場は、あのアスカの個性とも相まって何も知らない娘にはとんでもないショックを与えただろう。戸惑いや怒りや哀しみは、その中に包含されているのだが、形になって現れてきたのはおそらく家を飛び出してからである。そして自然ループが始まる。これも両親と同様だ。だが、前述したようにアキラには友人がいた。彼女たちと時を過ごし、自分のことを打ち明け、知らなかったこと(ヨシノンの恋)を知り、明らかに彼女は環状線(山手線に非ず。関西人ですから)を抜け出すことができた。さらに、戻るべき場所にいるのが仮初めの家族であった彼らとは違い、アキラを待つ者は肉親であり、実の親である。この二つの差は大きい。大きいからこそ、アキラも言わば大人への階段を上がろうとすることができたのだろう。
 まとめてしまうと、この作品は思春期の少女を襲った世界史的には些細な、しかし彼女にとっては宇宙へ飛び出すのと同クラスの事件を描いている。両親の過去を比喩することもなく、アキラが見ているのはすべて明日の世界だ。過去の出来事を知るのは両親の会話を立ち聞きした時だけで、しかもそこには彼女の知識では推測しきれないことばかりである。アキラがそこで知ったのは、別れているはずの両親が深く愛し合っているという現実、そして明日だ。母は言う。月に行くかもしれない、といとも気軽な調子で。日本とタラワどころの距離ではない。遥か38万キロの彼方である。ところが何故かそんな距離感が感じられない。立ち聞きしている彼女はそう思わないのだから。そこで私たちは感じることができるのだ。この男女は深く愛し合っているのだと。
 さて、この作品は『母という存在を認める物語』だと私は書いた。
 では、アキラはどこで嫌悪する白人中年女性のことを母と認めたのか。
 こともあろうにアスカがこう発言した後である。

「あんたまるで台風に強姦されたみたいだわよ」

 それまでも会話上、一般認識上で“母”という単語は出てきている。しかしながら、アキラが自覚して、この白人中年女性が“自分の母”であると語ったのは上記の台詞の後だ。

 確かにその通りなのだろうから言い返しはしない。けれど一体ほかに言葉はないのかと思わず私がため息を吐き出すと、口の悪い私の母は初めておかしそうに笑った。

 何故、このタイミングなのか。
 彼女は第6章に到るまで、何の事前知識もなくただ目の前に展開することどものみを受け取ってきただけだ。だからこそ、あの雨の中、形相も凄まじく自分を追いかけてきて胸倉を掴んで脅し上げた白人の中年女性のことも、彼女の言葉通りに受け取っていたはずだ。シンジのためにこうしているのだ、帰らないと酷い目に合わすわよ。と、ただそれだけ。
 それなのに、アキラはどうしてアスカを母と認めたのだろうか。
 上述したようにそれまでも“母”という言葉は使ってきている。だがそれらは一般認識上、戸籍上としての単語の一つであり、アキラの意識の中では重要な意味は欠片もない。だがこの部分からは違う。明らかに“自分の母親”として“母”という言葉を使用しているのだ。言わば、名詞から代名詞に変わったわけである。“母”イコール“アスカという名前の白人中年女性”だと。そんなに重要なターニングポイントが台風に強姦云々?と奇妙に思われるかもしれない。ここがリンカ氏の巧みなところだ。普通ならばアスカに脅迫されているところで、その真意に気がついて“ああ、この人は自分を娘と思って本気で心配してくれるんだ”と、母認定するという風に描くのである。ところがリンカ氏はそこを避けた。何故か。推論ではあるが、氏はリアリティを重視したのだろう。もし自分がアキラの立場であったなら、ほとんど初対面に近い“母親らしき白人中年女性”に胸倉をつかまれ罵詈雑言の嵐の中でそんなに冷静に分析できるわけがないからだ。実際には嵐が過ぎ去って、ほっとした時に気がつくわけで、その意味でターニングポイントがこの場所であることは大いに正解なのだ。
 しかもリンカ氏はここが重要な部分だと明記していない。実にさらっと流してしまっているのである。読者の大半がアスカの言動に目を(頭を)奪われてしまっていることを利用して、意図的に簡単な文章で収めてしまっているのだ。
 この後の話は母を理解していくことに終始する。深層心理的に“母を認知”してしまった以上、どこでそれを外部に表明するか。その時点でこの物語は(とりあえずの)終息を迎えるからだ。そこでもリンカ氏は周到である。父と母の事情を理解することにより、“母と認めたことを告知”するのではなく、前述したように学校生活の中でアキラが大人の階段を上がり始めたことで、“何だかあの母にもあったに違いない”と、あの別れの言葉で母へ告知したわけだ。

 「あ、えっと、じゃあ、さよなら。ママ……」

 それに対するアスカの言葉は、“頬撫で”の後である。「キモチワルイ」と言われなくて幸いだ、というのは冗談だが、返す言葉は「ええ、アキラも元気で」だけだ。ここでもリンカ氏は読者に補完を要求する。

 またしてもにやにや笑いは吹き飛び、今度は目の前に隕石が墜落したのを目撃したみたいな顔になって母は震え出した。ようやく言い切ることができた私はといえば早くも自分の言葉を後悔し始め、これはひょっとして馬鹿にされて笑われるんじゃないだろうかと母の様子に唇を噛んでいた。しばらくしてまだ立ち直っているようには見えない母は馬鹿にする風でもなく笑みらしきものを顔に浮かべて伸ばした手で軽く私の頬に触れ、けれどそれをすぐに引っ込めて、「ええ」と言った。

 これが三人称の小説ならば、この部分でアスカの心情が怒涛の如く描写されるに違いない。だが、これはあくまでアキラの一人称であり、何度も言うように彼女には過去のアスカに関する知識がない。だからこそ、この相手の動きが何を表しているのかを察することもできず、笑われるのではないかと後悔するほどだ。しかし、彼女もいつか了解するのだろう。母が何を思ったのか。
 その時、彼女はまた階段を一段上っているに違いない。

 

 この作品のもう一つの素晴らしさにお気づきになっただろうか?
 恐れ入ったことに、この『静止軌道上ラプソディ』なる作品は、実はエピローグ的外伝的要素が満載であり、読んだ者がそれぞれの心情に基づいて過去の話を紡いでしまうのだ。アキラの一人称であるから、過去の情報は極めて少ない。アキラと同様に会話や状況から読み取るしかないのである。
 アスカとシンジは何故別れたのか、アキラは何故シンジの手元に残ったのか、エトセトラエトセトラ。
 これを読み取るのは至難の業かもしれない。限られた情報量でどう話を紡いでいくのか。
 リンカ氏はところどころにヒントを記している。二人の会話の場面だけでなく、アスカがラングレーではなくツェッペリンを名乗っていることや、世界情勢を語っているところ、そういった場所からもあれこれ推理できる。
 で、実は私はリンカ氏に確かめてみた。背景はどうなっているのか、と。氏は見事なほどにバックボーンを形成していたのだ。それがいかなるものか、ここで明記することはできない。決してもったいぶっているわけではない。作品で描かれていることがすべてだからだ。その設定でアスカとシンジの話を書いて欲しいと依頼することも野暮というものだろう。
 そこで読者としてはどうすべきか。それぞれのやり方で二人の過去を想像するしかない。
 AEOEで、二人の結婚、そして出産後何者かに強制的に別れさせられた。その後ドイツ(?)に戻ったアスカは宇宙開発の仕事に従事し、6〜7年前に二人は海外で再会している。そして現在アスカには来日する差支えがなくなっている。
 さあどうする?『君の名は』的大メロドラマに仕立てるか、愛欲ドロドロ18禁ドラマにするか、アスカ中心の「一人でも生きていく」精神ドラマか、シンジとアキラを描く父子ものか。手はいくらでもある。
 ただこれだけは忘れないでいただきたい。アスカは、独りになったアスカは、シンジと娘に逢える希望もないままに、いかなる仕事を選んだのかを。

 ところが世界は私たち親子ほど穏やかではいられないらしく、今もテレビのニュースチャンネルから華南動乱を伝えるアナウンサーの声が聞こえている。セカンドインパクトと呼ばれる南極消失事件後に始まる二十一世紀は紛争と動乱の時代だ。現在も大規模な紛争があらゆる地域で起きていて、今ニュースで伝えられている中国華南地方もそのひとつだ。もちろんそれを黙って見ている人たちばかりではなくて、様々な努力によって世界中で炎上した紛争の火種は徐々に収束に向かい始めてはいるけど、今後百年はこの状況から抜け出せないだろうという悲観的な意見を言う人もいる。こんな時代に生まれた私たちは不幸だと。まあ不幸と評される私たちからしてみれば、私たちが不幸かどうかを手前の尻も拭かない奴が上から勝手に決めつけるなという感じだ。

 現代は紛争の世紀だと言ったけど私たちみたいなお気楽な人も世の中にはいて、ちょうどニュースもそういう人たちの話題に移っていた。国際宇宙開発財団がどうたらとかリポーターが喋っている。最近ようやく世界中の紛争が収まる兆しを見せ始めてきて、それなら皆で力を合わせてもう一度宇宙に乗り出しましょうと主張する建設的な人たちの集まりらしい。何しろセカンドインパクトからこちら、宇宙開発をする余力のある国など皆無で、二十世紀の人たちが夢見てきた真空世界は関心の外に追いやられて久しかった。二十一世紀は始まりから皆忙しかった。紛争に、食べるのに、建て直すのに、また紛争に。お尻に火をつけられて右往左往している人々に宇宙でふわふわ浮いている暇なんてなかったのだ。でもこの財団の人たちが紛争やめて皆で宇宙に行こうよと言い出した。紛争に使うよりも宇宙開発に使ったほうがお金も資源も有効的だよ。まあ最初は相手にされていなかったけど、何しろ粘り強かったし皆も頻発する紛争にうんざりしていた。それでとうとう地球の周りをぐるぐる回るどでかいステーションを建造してしまったのだ。今リポーターが伝えているのはそのニュースだ。ご飯を食べながら広い会場の長机にずらっと並んだ頭良さそうな人たちを眺める。誰も彼も誇らしげにフラッシュを浴びている。一番左に座った変なツナギみたいなのを着たおじいさんをカメラが大写しにしてリポーターの声がそれに重なる。一人ずつ紹介をするらしい。クレマン博士、チャン博士、ミハイロヴナ、ツェッペリン、チャウドリー……。ずらずらと並べ立てていく。


 いささか長い引用となったが、こういう時代にアスカが求めたのは何か。顔を見ることもできない、我が娘のために、彼女は明日を未来を渡したかったのだ。
 その母キョウコや、碇ユイと同じ理由で。本編中に「この子には明るい未来を見せておきたいんです」というユイの台詞がある。男たちの野望と異なり、彼女たちは自分の子供の明日を考えていたに違いない。
 そして、アスカも。独りになってしまった彼女にできることはそれしかなかったからだ。

 それにしてもそんな想いでずっとひとりぼっちで頑張ってきたはずなのに、愛しい娘に出会った途端にああいう言動に出てしまう。やはりアスカと言わざるを得ない。



 さてさて、最後になるが、これがLASなのかどうかという話である。
 確かに今現在、アスカとシンジは離れ離れとなってはいるが、どう考えても近い将来、3人は一緒に暮らすようになると思わざるを得ない。何故なら、母を認めたアキラは既に次の段階に移行しているからだ。母を許す、というよりも、母を知りたい、であろう。許すということは母を知らない限りできない行為なのだから。この推理には証拠がある。それはエンドの表記だ。

 T minus 3 minutes ... 2,1.

 これは打ち上げのカウントダウンである。母から娘へのアプローチはできない。それはもしアスカとシンジの境遇が入れ替わっていても同様だっただろう。愛するものを失う哀しみを知り尽くしている二人に、変なアプローチなどできる訳がない。だからこそシンジもずっとアキラに何も伝えられなかったのだ。
 だが、アキラは違う。
 彼女はそんな過去がない。母は存在していなかったが、それは物心がついたときからのことで、物語の中で語られているようにアキラにとってはごく自然なことなのである。逆に今、彼女には母ができた。愛すべき母なのかどうかまだ判断できないが、父のことを一途に愛しているようであるし、よくわからないが自分のことも…。だから、これは喜ぶべきことなのである。
 アキラがアスカにコンタクトを取るのはいつのことだろう?1年後?いや、私はもっと早いような気がする。それはアスカが乗るシャトルが地球に帰ってきた日かもしれない。もしかすると、アキラが国際電話をかけても繋いでもらえず、咄嗟に彼女の吐いた嘘が原因で、再び日本に金髪女性が嵐のようにやって来るという未来が用意されていたりする。またはアスカから預けられていた結婚指輪の存在をシンジがアキラに喋り、そのことから数ヵ月後マスメディアに立つツェッペリン博士の指にその指輪が。「これからは必ずアスカとツェッペリンの間に“I”を挟んでください」と胸を張ってインタビューを受けるアスカの姿というものも容易に想像できる。復縁により父を奪われてしまったような気になり、再びアキラが家出をし、今度は友達たちに馬鹿らしいと呆れられてしまうというコメディなども頭に浮かぶ。父母の姿に張り合うようにわざと幸村君を家に招きシンジが荒れ狂ったり、年の離れた弟か妹が欲しくないかとアスカにからかわれ真剣に悩んでしまったりと、そんな日々も充分起こり得る話である。

 そう。これは、LASに違いない。

 例え、人生の重要な時期を何者かに引き裂かれていたとしても、彼らにはアキラの出産に到るまでの道のりと、そして幸福な未来絵図がある。『静止軌道上ラプソディ』で読むことができないだけなのだ。しかし、書かれていないだけに、そういった部分が逆にイメージしやすい。そこがこの作品の大きな特徴であると断言できる。
 私はこの作品の行間に、そしてカウントダウン以降の余白に、LASがたんまりと詰まっているように思えるのだが、皆さんはどのようにお感じになっただろうか?



 随分と長々書いてしまったが、つまり、こういうことに尽きるのかもしれない。

 リンカ様、素晴らしい作品をありがとう。



 ★尚、この文章の内容とリンカ氏の思惑は大いに食い違っているかもしれません。氏とはこの怪説についてすり合わせ(答え合わせ?)などをしておりませんので、予めご了承下さい。文責はすべてジュンにあります。

 

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