あの頃、どこかの街で

- Somewhere in those days -

(10) & (エピローグ)



(10) 昭和42年4月16日 日曜日
 



 ゲンドウは複雑な表情をして立っていた。
 その隣でユイは笑いを堪えていた。
 まるで小学生が宿題を忘れて怒られているような雰囲気だからだ。

「へぇ、それじゃアンタはうちの診療所を貸せと。そう言いたい訳だ」

「貸せとは言ってない。俺を雇えと言ってるんだ」

「やなこった。誰がアンタみたいな仏頂面を雇うもんか」

 クリスティーネはベッドの上でそっぽを向いた。
 約束が違うとユイは言いそうになったが、ぐっと堪えた。
 相手はくりさんだ。あのキョウコの母親で、アスカの祖母なのだ。
 どう出るかなど予想できるわけがない。

「そうか。では余所を探す」

「ふん、無愛想の上に短気か。そんな医者を雇うような酔狂な病院があるもんか」

「うむ、それはそうだろう」

 ああ、この人ったら納得してるよ。

「だったら自分でやれば良いじゃないか。私はアンタなんか雇いたくないからね。
 自分で勝手にやれば良いのさ。そうだね、廃工場の方を改築して住処でもつくるんだね。
 私は家賃をいれてくれればそれでいいよ」

「ふん、改築だと。そんな金があるか」

「へぇ、最近の改築は店子の方が費用を持つのかい?
 そいつは初耳だ。大家は濡れ手で粟というわけか」

 クリスティーネは明らかに会話を楽しんでいた。
 ゲンドウはというと、会話など楽しむというものではない。

「アンタはこっちでは医者をしたことがないんだ。
 私に任せておけばいい。医師会やら何やら面倒くさい手続きが一杯あるからねぇ。
 それに薬の会社とのやり取りもあるし、看護婦も必要だ。
 どうせ前はユイさんとこに居座ったんだから、開業医の初歩なんてわからないんだろ?」

「む…わからん。まったく」

「まったく何て医者なんだろうね。恐れ入るよ。ユイさんや」

「はいっ」

 急に話を振られて、ユイも直立不動になってしまった。
 これではゲンドウのことを笑えやしない。
 クリスティーネは活き活きとした目で話し続ける。

「やっぱりアンタがしっかりしないとダメだよ。
 私が退院したらアンタと一緒にいろいろ出かけるからね。
 医師会とか、役所とか、薬の会社だってそうだ。心しておくんだよ。
 前みたいに家付きのお嬢様って悠然とはしてられないんだ。
 アンタがこの診療所の中心にならないと」

「えっ!」

「おっと、妙な顔するねぇ。そんな覚悟もなくて主人の尻を叩いてたのかい?
 甘いねぇ、本当に甘い。アンタがしっかり診療所を支えないといけないんだよ」

 その言葉にゲンドウが大きく頷いた。

「その通りだ」

 ばしんっ!

「痛いではないか」

「はぁ…、まったく何て人だろ」

 ゲンドウの尻を平手で叩いたユイが病室の天井を見上げた。
 
「アンタ、それがわかっててこの仏頂面を医者に戻そうとしてたんじゃなかったのかい?」

「う〜ん、どうなんでしょう?」

 ユイは真剣に悩んだ。
 とにかく医者に戻すことが最優先で、その後のことはどこか安直に考えていたのかもしれない。

「おいおい、冗談だろ。本当に考えてなかったのかい?」

 こくんと頷くユイ。
 珍妙な表情でユイを見つめていたクリスティーネはやがて、あはははと笑い出した。
 いかにも嬉しそうに。

「どうだろ、うちのキョウコのことだけを猪だなんて言えないよ、まったく。アンタも充分猪だわ」

「私、羊年ですのに…」

「羊の皮を被った猪ね。うちのキョウコはウサギの皮を被ってるけど」

「まあ悔しい。ウサギの方が可愛い」

 ゲンドウが口を開いた。
 
「いいではないか。俺はう…」

「はいはい、丑年にぴったりのあなたは黙ってて」

 クリスティーネはにんまりと笑った。

「いいねぇ、日本は。私なんか1918年生まれなんだけどさ。向こうじゃそれだけだよ。
 こっちなら大正7年ってのもあるし、午年だよ。お馬さんだなんて本当に嬉しかったね。
 若かった時は私ゃポニーテールにしてたんだよ。あの人にもクリスの髪はお馬さんの…」

 ユイもゲンドウも言葉を挟まなかった。
 いや、挟めなかったのだ。
 二人の目の前には、ポニーテールをした20歳足らずの美しい少女が確かにいた。
 その少女は自分の恋物語を語り始めた。
 惣流医師とクリスティーネは日本へと向う客船で知り合ったらしい。
 ドイツの医学校に留学していた彼に一目惚れ。
 南十字星が見える客船の甲板で始めて交わした口づけ。
 その上、下船した時大胆にもクリスティーネはそのまま惣流医師と駆け落ちしたと。

「駆け落ち!」

「だって。仕方がなかったんだよ。パパは大使館の職員だ、となれば私も東京に住まないといけないわけよ。
 そうなったら、あのこちこちのゲルマン至上主義者のパパが私と彼の間を裂こうとするのは間違いないじゃない。
 ふふん、無理矢理彼にくっついてきたわけよ。彼も日本語のわからない私を放り出すわけにいかないものね」

 不敵に笑うクリスティーネ。
 その顔を見て、ユイはぽんと手を叩く。

「なるほど、キョウコやアスカちゃんはくりさんに似たわけか」

「ん?当たり前じゃないか。一目惚れとしつこいのは我が家の女性の伝統なんだよ」

「ふんっ」

 ゲンドウが鼻を鳴らした。
 ぷっとユイが吹き出す。

「おや、今のが仏頂面の笑いなのかね」

「ええ、爆笑。わかりました?」

「ああ、まったくわかりにくい男だよ。これから長い付き合いになるというのに…」

 クリスティーネのその一言に、ユイは片えくぼを見せた。
 
「ふん、長くなるかどうか。その心臓じゃあな」

「あなた!」

「本当のことだ。まあ、食事を変えて…」

「やなこった。私は食べたいものを食べるんだ。放っておいておくれ。
 ああ、この鰈はおいしいねぇ。鰻の方がいいけどさ」

 ユイが持ってきた鰈の煮つけを美味しそうに食べるクリスティーネ。

「そうそう、加持さんとこがくりさんが退院したら鯛の尾頭付きをお祝いにくれるんですって」

「へぇ、そいつはいいや。じゃ、明日にでも…」

「ふん、減らず口を叩く。まだ一週間はここにいてもらう」

「なんだい、偉そうに。このろくでなしが」

「ああ、ろくでなしでけっこうだ」

 ユイは涙が溢れてきそうだった。
 あれ以来無口に輪をかけていたゲンドウがこんなに喋っている。
 しかも他人にはわかりにくいだろうが、こんなに上機嫌で。
 よかったんだ、私のしたことは。



「アスカぁ、地下はダメだよ。幽霊が出てくるよ」

「わかってるわよ。あそこには行かないわよ。ここの階段を上がるわよ」

「帰り道わかるの?」

「はん!あったり前田のクラッカー。アタシは天才なのよっ」

 前回の病院探検の時には、知らずに霊安室を訪れてしまった二人。
 今日は慎重に探検をしている。

「天才のアスカでももう1本はなかなか当たらないよね」

「ん?流星バッジ?」

「うん。ひとつ当たっただけでも凄いけどね」

「へへん。凄いでしょ、アタシ」

 得意満面のアスカ。
 
「アタシってさ、運がいいのよ」

「凄いね」

 シンジに褒められると、物凄く嬉しい。
 保育園で保母さんや他の子供たちにどんなに褒められても、ここまでの喜びはない。
 ただ得意になるだけだった。
 それなのに、いつもは唇を尖らせて少し不満げに一人でいることが多い。
 それがアスカだった。
 そんなアスカをシンジは知らない。
 シンジの知っているアスカは、いつも自信たっぷりでぐいぐいと自分を引っ張ってくれる。
 そしてその場所へ自分は行きたい。
 アスカと一緒にいたい。
 もちろんシンジの年齢でそこまで自己分析ができるわけがない。
 彼が思っているのは、ただアスカといれば楽しいというだけ。
 
 毎日があまりに楽しすぎて。
 シンジはすっかり忘れていた。
 いや、忘れていたわけではない。
 アスカがドイツに行くこと。
 クリスティーネのところにはお別れのために10日ほど滞在するだけ。
 本当なら今日東京に帰るはずだったのだ。
 それがあの入院騒ぎとそれに続くゲンドウサルベージ計画でうやむやになっている。
 大人たちは敢えて口にしていない。
 アスカはもうすぐそんな時がやってくることを知っている。
 でも、完全に忘れている風に見えるシンジに言わずにいる。
 シンジが泣き出しそうだから。
 そんなことはアスカにはできなかった。
 
「アスカとお揃いにしたいなぁ」

「絶対にあててあげるわよ。シンジの分も」

「お願い。僕あたらないから」

「ま〜かせて!」

 そう宣言したのはいいが、正直言って自信はない。
 あの一枚が当たっただけでも凄い幸運だったということはアスカのような幼児でもわかる。
 だから、あのあたりはシンジに渡していこうと決心していた。
 ドイツに行けばシンジに会えない。
 それを考えると泣きたくなってしまう。
 ところがいつもシンジと一緒にいるので、アスカには泣く暇と場所がない。
 それにアスカは泣かないでおこうと決めている。
 シンジが幼稚園に行っている間に泣くことはできた。
 でも一度泣いてしまうともう我慢することができなくなる。
 アスカはそう教えられていた。
 クリスティーネに。
 病院でユイが席を外した時、祖母にこんこんと教えられた。
 悲しむのは一度きりの方がいい。
 それにシンジのことも考えてあげろ。
 別れが迫っていることを知られてしまうと、あの素直で真正直な子は打ちのめされてしまう。
 その間際まで隠してあげなさい、あの子のためだと。
 アスカはそのすべてを理解できたわけではない。
 ただシンジが悲しむ顔を見たくない。どうせ見ないといけないなら一度だけの方がいい。
 それならば自分が我慢しないといけないんだ。
 そう納得した。

「ねぇねぇ、お昼は何かなぁ?」

「う〜ん、食堂のおうどんじゃないかなぁ」

「おうどんかぁ…ま、いっか。じゃ、アタシきつねうどん」

「僕も」

 シンジが笑う。
 その笑顔を見ているとお腹がキュウと鳴る。

「アスカ、お腹がすいてるんだ」

「うっさいわね、アンタはすいてないの?」

「あ、うん。食べたいなぁ」

「はん!アンタのためにお腹を鳴らしてあげたのよっ。さ、行くわよ!」

 照れ隠しも手伝って、アスカはずんずん進んだ。
 
「待ってよぉ。置いていかないでよ〜」

 アスカは唇をへの字にしたまま、シンジに顔を見せまいと歩いていく。
 置いていきたくなんかないわよ!
 そう、心の中で叫びながら。



「ごちそうさまでしたっ!」

「アスカ、早い!」

「アンタが遅すぎんのよ」

「だって、よく噛んで食べろって」

「アタシだってちゃんと噛んでるわよ」

 並んで座っている二人を見てユイはくすくすと笑う。
 確かにシンジは少し食べるのが遅い。
 逆にアスカは食べるのが早い。
 嫌いなものはいち早く食べる上に、好きなものはさらに速度が速くなる。
 別に欲張っているわけでもなく、美味しいから食が進むという風が正しいのだろう。
 シンジの方は嫌いなものを食べることは食べるのだが、時に箸で転がしていたりもする。
 そんな食べ方をユイが注意するのだが、この数日はその役目はアスカが果たしている。

「ほら、ワカメも食べないと」

「食べないと、ダメ?」

「そんなの当たり前でしょうが。好き嫌いしてたら大きくなんないわよ。アンタ、お父さんみたいに大きくなりたいんでしょっ」

 シンジが顔を上げる。
 目の前でゆっくりうどんを食べているゲンドウ。
 隣に座るユイと頭一つくらい違う。
 父親のように大きくなりたい。
 シンジは大きく頷くと、2切れのワカメを箸でつまみ、一気に口の中へ。
 顔を歪めながら咀嚼する。

「そうそう、よく噛むのよ。すぐに飲み込んだら栄養にならないわよ」

 おそらくキョウコの受け売り。
 隣で口やかましく言うアスカに嫌な顔も見せずに、シンジは言われるがままに口を動かしている。

「はい、ごっくんしていいわよ。よくできました」

 ゲンドウがふんと鼻を鳴らす。
 そしてユイに横目で睨まれて再び丼に顔を埋める。
 普通の人間には笑われているとはわかるわけもないが、何しろシンジは実の子。
 父親に爆笑されては気分がいいわけがない。
 今はアスカに神経が集中していたので気付かなかったが。

「お口の中が気持ち悪いよぉ」

「だったらお汁を飲みなさいよ。ほら」

 丼を抱えて口を近づける。
 こくんこくんと出汁を呑むシンジに、アスカはさらにお説教。

「最後に残してるからそうなっちゃうのよ。美味しいのと一緒に食べたらいいじゃない」

「だって、せっかく美味しいのに…変な味になっちゃうもん」

「アンタ馬鹿ぁ?それじゃ最初に食べなさいよっ」

「でも…」

「もう知んないっ。ぷんっ!」

 わざわざ声に出して、アスカはぷいっと顔を背けた。
 その横顔をシンジは情けなさそうな顔で見やる。
 それでも彼は言わなかった。
 次からそうするとは。



 食事が終わり、病室に戻るとキョウコがそこにいた。
 腕組みをし、ニヤリと笑っている。

「ママっ!」

「ふふ、お久しぶり」

 一昨日に会ったばかりで久しぶりもないものだが、彼女はいかにも嬉しそうに立っている。
 ゲンドウなどは初対面の土下座以来なので、少し腰が引け気味だ。
 キョウコは朝一番に受け取った電報を見て飛んできたらしい。
 もちろん、その電報を打ったのはユイだ。
 サルベーシ゛セイコウ の10文字を見て天井に向って右腕を突き上げたそうだ。
 それから、キョウコはしきりにゲンドウをからかった。
 まるで午前中のクリスティーネのように。
 やはり母子だ。



 そして、一時間ほども談笑していただろうか。
 会話が途切れた時、おもむろにキョウコが立ち上がった。

「さ、アスカ。帰るわよ」

 その言葉を聞き、アスカとユイははっとした。
 クリスティーネは目を瞑り、微かに息を吐く。
 母と娘だけの時間にすでに話し合っていたのだ。これからのことを。
 
「ママ?帰るって…おうち?」

 恐る恐る訊ねるアスカ。
 青い瞳が不安に揺れている。
 その5歳にもならない娘に母親は笑顔を向けた。
 ただし、その目は少しも笑わずに、真剣な眼差しをアスカに向けている。
 わかっているでしょうねとの思いを込めて見つめていたのだ。
 その意図はアスカに充分伝わっていた。
 そして、ユイにも。
 
「そっか、そうなのか、はは…」

 無理にでも笑い声を出そうとしていることは大人たちにはすぐにわかった。
 ごめんね、アスカ。
 まだこんなに小さいのに無理させちゃって。
 そんな思いをキョウコは決して表に出さない。

「そうよ。もうママだって大丈夫なんだし。ドイツに行く準備をしないといけないの。わかるでしょ、アスカ」

 その言葉はアスカではなくシンジに向けられていた。
 シンジが理解できるように。アスカがいなくなることが。
 それでも、あのキョウコでさえシンジの顔を見ることはできなかった。
 彼の両親も覗き見ることを躊躇していた。
 その中でただひとり、クリスティーネだけがシンジの顔を直視していたのだ。

 この子らもまだ若いねぇ。可哀相で見ることができないってことかい?
 大人っていうのはね、こういう時こそきちんと見届けてあげないといけないのさ。
 子供にとっては生きるか死ぬかって大事だ。
 それに目を逸らしていちゃいけない。
 まだまだだねぇ、すっかり大人って顔してるくせにさ。

 シンジはわかった。
 アスカが行ってしまうことを。
 まだまだ先のことと思っていたのに、それはもう今すぐのことだった。
 丸イスにちょこんと座ったシンジは口をぽかんと開けて、そして顔を歪める。
 今にも泣き出そうとしたとき、アスカが口を開いた。

「というわけよ、馬鹿シンジ。アタシ、ドイツに行くからさ。アンタ、ちゃんと待ってんのよっ」

 イスからぴょんと飛び降りたアスカは、にかっと笑ってシンジの肩をぽんぽんと叩いた。
 
「ふふん、何よ、変な顔しちゃってさ。アタシがドイツに行くことは前からわかってたでしょっ」

 アスカは喋り続けた。
 黙ってしまうと泣いてしまいそうだったから。
 
「そうそう、流星バッジのあたり券はさ、アンタに渡しとくからちゃんとこ〜かんしとくのよっ。
 忘れたりなんかしたら許さないからね。預けとくだけなんだからね。ま、遊んでてもいいけどさ」

 手を後に組みながら、アスカはシンジの周りをゆっくりと回る。

「あ、そうだ。あの赤影の仮面はアンタにプレゼントしたげる。大事に使いなさいよ」

「青影でいい。僕…」

 ぼそりと呟いた言葉にアスカの声がつまる。
 シンジの背中の方でアスカが顔を歪ませた。
 
「あ、アタシ…」

 口がへの字になる。
 そのアスカの肩にゲンドウがそっと手を置いた。
 アスカが見上げるといつもと同じゲンドウの無愛想な顔。
 そんな顔で睨みつけていると、アスカが唇を尖らせた。

 おやおや、無愛想面にも取り得があるもんだねぇ。
 なまじ母親の優しげな顔で接しられるよりも、アスカのような子にはそっちの方がいいってわけか。
 だけど、シンジちゃんの方は…。

 シンジはボロボロ涙をこぼしていた。
 アスカがいなくなってしまう。
 もう遊べないんだ。一緒にいることができないんだ。
 もっと一緒にいたいのに!

「アスカ、行くわよ」

 キョウコが動いた。
 打開策などどこにもない。
 あるわけがない。
 アスカはまだ5歳にもなっていないのだから。

「う、うん」

 アスカは顔を上げた。
 その時には既にキョウコは外に出て行こうとしていた。
 それはアスカにとっては好都合だった。
 きっとママはエレベーターのところにいるに違いない。
 そして下りのエレベーターを呼んでおいてくれている。
 すっと外へ出られるように。
 ゲンドウとユイがアスカに頷く。
 そしてクリスティーネが厳粛な顔つきで孫娘を見つめている。
 数秒の葛藤の後、アスカはにっこりと笑った。
 そして二度ばかり頷くと、その笑顔のままシンジの前に。
 
「アスカ…」

「あはは、変な顔。安心しなさいよ。アタシ、世界一の美人になってもちゃあんとアンタと結婚したげるからさ。
 でも、浮気なんかしたらずぇ〜ったいに許さないからねっ」

 ぼんっぼんっ!

 アスカがシンジの右肩を二度突いた。
 
「うわっ」

 イスから落ちそうになるシンジに目もくれず、アスカは祖母の方を向いた。
 
「グランマ!」

「なんだい」

「いってきますっ!」

 言うが早いか、アスカはクリスティーネに飛びついた。
 ベッドに身を起こしている彼女によじ登るようにして、その頬にキスする。
 そして、すっとベッドを降りるともう一度シンジを見る。

「じゃあねっ、馬鹿シンジ!」

 返事は待っていなかった。
 いや、もう限界だったのだ。
 アスカはそのままずんずんと扉の方へ歩いていく。
 それを見て、シンジは慌てて椅子から降りようとしたが、
 彼が着地した時には扉はばたんと閉まっていた。

「あ、アスカぁっ」

 後を追おうとしたシンジは足を縺れさせて床に転げた。
 膝を強かに打ったが、それでも必死に追いかける。
 廊下に出てエレベーターの方へ走ると、丁度扉が締まるところ。
 その隙間に一瞬アスカの髪の毛の金色が見えた。

 エレベーターの中では、キョウコがアスカの頭に手を置いていた。

「アスカ、まだダメよ。アンタの好きなあの子なら追いかけてくるでしょ」

「う、うん…」

 アスカは必死に涙を堪えていた。
 大声で泣きたいのに。大暴れして泣きたいのに。
 キョウコにはアスカのそんな気持ちが痛いほどわかる。
 でも仕方がない。
 何度も結婚をあきらめようと思ったのは事実だ。
 ところがそんな弱音をさっきクリスティーネに漏らした。
 すると、真顔の母親に一喝された。
 アンタはアスカに一生消せない心の傷を残すつもりか、と。
 自分のために母親が結婚をあきらめたなどということは、
 アスカのような子には決して許されることじゃない。
 アスカのためにもここは鬼の母になりきりなさいと。
 今、キョウコも子供に戻って泣きたい気持ちで一杯だった。

 絶望に打ちのめされようとしたシンジだったが、そのまま隣の階段に走る。
 「何でだよ、何でだよ」と呟きながら、階段を降りる。
 大人だったら何段もとばしながら降りれるのにと、シンジは悔しかった。
 彼にできるのは最後の一段を飛び降りることだけ。
 やっとのことで1階に降りたシンジは正面玄関に走る。
 そこの自動扉はすぐに開いてくれない。
 シンジの体重では反応してくれないのだ。

「開いてよ、お願いだよ!」

 その場で何度もジャンプしながら、シンジは叫んだ。
 アスカと二人なら開いたのに…。
 ようやくゆっくりと開いた扉の隙間にシンジは身体を潜り込ませた。
 駅まではほんの少し。
 シンジはぜいぜい言いながら改札口へ。
 「こら、子供だけはダメだぞ」という駅員の叫びを背中に、シンジはホームに駆け上がった。
 アスカは?
 アスカはどこ?
 ホームをずっと見るが、あの目立つ髪の毛はどこにも見えない。
 電車が走ってくる音とアナウンスがする。
 反対側のホームだ。
 はっとそっちを見ると、停車する電車の向こうに一瞬アスカとその母の姿が。

「あああああああっ!」

 言葉にはならなかった。
 もう間に合わない。
 シンジの家の方へ向かう電車じゃなかったのだ。
 反対側の国鉄に乗り換える駅へ向かう方のホーム。
 地下道を通って向こうに行く頃には電車は走り去ってしまっているだろう。
 アスカ、気づいてよっ!
 シンジは意味不明の叫び声をあげ続けた。
 電車に乗り込んだアスカの頭が扉ごしに見える。
 
「ああああっ、ああああああっ!」

 開いていた窓を通してシンジの声が届いた。
 追いついてこられても振り返らないつもりだったのに、
 こんな声を出されては無条件でそっちを見てしまう。
 シンジからはアスカの顔半分から上しか見えなかった。

 シンジは叫んだ。

「さよならぁ!」

 そして、手を振る。

「さよならっ!さ・よ・な・ら・っ・!!!!」

 アスカも手を振った。

「さよなら…」

 大きな声が出ない。
 アスカは両の頬をぱしんを叩いた。

「さ、さよならあっ!シンジ、帰ってくるからねっ!アタシ、ちゃんと帰ってくるからっ」

「さよならぁっ!」

 ほんの一週間前に光の国に帰っていったヒーローに対するものよりも、
 その二人の声はさらに大きく、さらに悲痛で。

 がたん。
 電車が動き出した。
 シンジはさらに大きく腕を振った。
 
「待ってるから!僕、ちゃんと待ってるからぁっ!」

「さよなら、シンジっ!」

 最後に聞えたのはそれだけだった。
 スピードを増した四両編成の電車はあっという間にアスカを連れ去ってしまった。

 シンジはその場にぺたんと尻餅をついた。

「行っちゃった…」

 我慢していたわけじゃない。
 ただ、きっかけがなかっただけ。
 力が抜けた今、シンジの涙を止めるものは何もない。
 じわりと出てきた涙はやがて雨粒のようにぽたんぽたんとホームを濡らした。

「ちゃんと食べるから…。ワカメもほうれんそうもレバーも食べるから…。
 きらいなのは最初に食べるから…。
 だから、行っちゃイヤだ…。イヤだよぉ!」

「シンジ…」

 ユイの声にもシンジは顔を上げられなかった。
 ぺたんとお尻と両手をついて、涙と鼻水と涎がぼとぼとと落ちる。
 そんな息子の姿にユイも涙ぐんでいた。
 その母親の肩をゆっくりと歩いてきた父親は優しく叩く。
 そして、ゲンドウは息子をぐっと抱き上げた。
 乱暴な抱き上げ方だったが、すぐにシンジはゲンドウの胸に縋りついてわあわあと大声で泣いた。
 両手と両足が暴れまわる。
 しっかり抱いていないと落ちてしまいそうだった。
 息子のこんな泣き声はゲンドウもユイも初めて聞いた。

 キョウコも同じだった。
 電車の中で泣き出したアスカはべたんと座り込んで床をばんばん叩きながら泣いた。
 こんな泣き方、私したことあったっけ…。
 結局次の駅で降りて、アスカが落ち着くのを待つしかなかった。


 
 本人たちはすでに日本とドイツに別れてしまったかのように思っていたが、
 実は30分くらいの間は、ほんの300mほどしか離れていなかったのである。











 あれから、10日。

 昭和42年4月26日、水曜日。
 クリスティーネが退院する日だ。
 幼稚園のためにその大イベントに参加できないシンジの悔しがりようはなかった。
 タクシーなどもったいないというご本人の希望で電車でのご帰還。
 ただし、電車を使ったのは訳があったことをユイは商店街で知った。

「おや!くりさん、退院かい?」「よかったねぇ」

 八百屋や肉屋からの祝いの言葉に笑顔で答えるクリスティーネ。
 その後ろに控えるユイとゲンドウ。

 ゲンドウはすでに月曜日から洞木家の大黒柱と選手交代をしていた。
 なんと気が早いと冬月にあきれられたが、言われて引き下がる彼ではない。
 それに洞木家のためにも早く働かせる方がいいと判断したわけだ。

「ほんなら、再出発の無愛想先生に万歳三唱や!それっ!」

 新工場の設営監督責任者となった彼の音頭で万歳が叫ばれた。
 因みに洞木も彼と一緒に新工場にすぐ行くことになっている。
 家族ごと引っ越さないとヒカリの身体を治す意味がないからだ。
 本当はまだ建設中だから一人で充分なのだが、
 逆に新しい業務を一から覚える方がよかろうという冬月の配慮もあったわけだ。
 それで喜んだのは関西弁の鈴原主任も同様だった。
 何故なら彼のところは奥さんを亡くしているので、子供たちの世話が大変だったからだ。
 洞木家の奥さんが出産後で大変なことはわかっているが、
 挨拶に来たコダマと、そして息子と同い年のヒカリがしっかりしているのを見て安心したわけだ。
 そして「悪いけどうちのごんたくれをよろしゅう頼むわ」と幼い姉妹に丁寧に頭を下げたのである。
 わかりましたと、笑って応える姉妹に息子は少し膨れっ面でそっぽをむき、父親にこつんと頭を叩かれた。
 もう一人の子供である2歳の妹の方は嬉しそうにコダマの服の裾を握って離さなかった。
 それを見て兄のトウジはさらに面白くなさそうな顔をした。
 これまでちゃんと面倒見て可愛がってやったんやないか。薄情なもんや、ほんまに…。
 その表情を見てヒカリは大いに不満だった。
 こんな暴れん坊みたいでお兄ちゃんらしくないのなんか大嫌い、と。
 お兄ちゃんは優しくないと…と、自分の姉であるコダマと比べてしまったヒカリである。
 この評価はトウジにとって酷だっただろう。
 彼は彼なりに妹の面倒を見、そして可愛がっていたのだから。
 この同い年であるトウジとヒカリはしばらくは顔を合わせても口を聞かなかった。

 さて、加持鮮魚店前に一同が達した。
 その頃にはユイはクリスティーネの意図がはっきりわかっていた。
 これはゲンドウのお披露目だと。
 自分の命を救ったのがこの無愛想な男で、そして実は医者だったと彼女は語った。
 そのうち惣流医院を再開し、この男がそこの医者になるとは一言も言わない。
 実に巧妙な宣伝だとユイは思った。
 ここでそんなことを言えば、ゲンドウに底意があるようなイメージになってしまう。
 まずはお披露目だけ。
 そしてそのうちに徐々に話を広めていくつもりなのだ。
 この無愛想な男が実はけっこう愛らしいということを少しずつ町の人間にわからせていこうというわけだ。
 
「おや!こりゃあ、くりさんじゃないか!退院おめでとう!」

 大将が真っ先に怒鳴った。

「ありがとよ。なんだって、私の退院祝いをしてくれるんだって?」

「おうよ、今日だってユイさんに聞いてるからさ、ちゃあんと用意してるぜ。なあ。おい」

「聞いたよ。尾頭付きの鯛に、それから舟盛りの刺身だって?」

 クリスティーネはからかってやろうと約束以上のものも加えた。
 ところが大将もおかみさんもニコニコ笑うだけ。

「ああ、よくわかったねぇ。食べきれるかわからないほど、豪勢に盛るよ」

 冗談とは思えないのでおかみさんに尋ねてみると、舟盛りは近所の人からのお祝いらしい。
 あの時店先に居合わせた主婦たちが音頭を取って、みんなで代金を出し合ったらしい。
 それを聞いてクリスティーネが珍妙な顔になった。

「おや、どうしたんだい、くりさん。泣いちゃうのかい?」

「ば、馬鹿だね。泣くことなんかあるかい。魚の匂いがきつかったんだよ」

「へぇ、そうかい。ま、そういうことにしてやっか」

 悪戯っぽく大将が笑うと、夕方に持って行ってやるからと大声で怒鳴った。
 そして、クリスティーネの背後に突っ立っている髭面の男に首を傾げる。
 その隣にユイが寄り添っているところを見ると…。

「あ、わかった。あんたが赤ひげ先生だねっ!」

「む…、俺の髭は赤くないぞ」

 とぼけたわけでもなく、ゲンドウは不機嫌そうに言った。
 ところが、その返事を聞いて大将は大笑いしたのだ。
 
「こ、こいつはいいや。ますます赤ひげ先生だぁねっ」

「ふんっ、わけのわからん…」

「あなた?あなたのことを三船敏郎のようだと仰っていただいてるのですよ」

「むっ、三船だと?」

 ゲンドウは眉をひそめた。
 その表情を見てユイは笑いを堪えるのに必死だった。
 わっ、この人ったら喜んでるぅ。
 
「おおっ、漢だねぇ。煽てには乗らないってか?」

 乗ってるってば、しっかり。
 しばらくは本人だけが三船敏郎のつもりでいるわね、こりゃあ。
 でも、この人が医者として生きるなら、あの赤ひげがいい手本になるのは間違いないわ。
 ユイは心の中でしっかりと頷いた。



「いいねぇ、我が家。あんなとこにいると我が家の良さがよくわかるよ」

 麗しの花の小道の前でクリスティーネは腰に手をやって、しげしげと自分の家を見渡した。
 そして、表通りに面した二階の角を指差す。

「あのあたりに看板がいるね。碇医院…いや、碇診療所かい?」

「まだあんなこと言ってる。ねぇ、あなた?」

 惣流医院という名前をそのままにするとユイたちは言っていた。
 呼びかけた相手の様子を見てユイはふんっと顔を背ける。

「赤ひげ診療所なんて絶対にダメですからねっ!」

「ははは、それもいいね。アンタもなかなか言うじゃないか」

「むっ、何も言っておらん」

 そうは言いながらもゲンドウは少し恥ずかしげだ。
 ユイの言ったことは的を射ていたのだろう。

「でも、本当にダメですよ。ここは惣流医院。
 アスカちゃんが帰ってくる場所なんですから」

「だからさ、お嫁に行くんなら碇でいいじゃないか」

「シンジがお婿さんに行くかもしれませんよ」

「それじゃあ、アンタんちが…」

 言いさして、クリスティーネはそういうことかと頷いた。

「で、2番目は女の子かい。それともまた男の子かね?」

「さあ…どっちでしょう?どちらでもいいです。元気であれば」

「俺はおん…」

「はいはい、でもあなた似の女の子はイヤですからね」

 ゲンドウは慌てて首を振った。
 自分に似るのは困る。
 ただ、彼は思った。
 十数年前に街角で見かけた母娘。
 あんな感じの二人が十年後くらい後にこの街を歩いているような気がする。
 歴史はめぐるものなのだ。

「さあ、中に入ろうか。宴会の準備をしないとね」

「まあ、催促しますか?あらら?」

 鍵穴に鍵を差し込むと手ごたえがない。
 ユイは格子戸に手をかけた。
 がらり。
 少し開く。

「おい、鍵を掛けてなかったのか?」

「掛けましたよ…うん、多分」

「どけ。泥棒かもしれん」

 ユイの身体を押しのけるゲンドウ。
 がらがら…。
 格子戸を開ける。

「えいっ!」

 ゲンドウの身体に手裏剣が突き刺さ…らずに、当たってそのまま下へ。
 赤と黄色の折り紙で折られた派手な手裏剣が三和土にぱらぱらと落ちた。

「出たわね、蝦蟇法師!」

 三和土の向こうに立っていたのは、黄色のワンピースに赤い仮面の金髪少女。

「赤影参上っ!」

 3人とも咄嗟に声が出なかった。
 10日前に東京に帰ったはずのアスカがそこにいた。
 
「へへんっ!」

 最初に声を出したのは思いがけなくゲンドウだった。

「俺は、……赤ひげだ」

「んまっ!赤影はアタシ!アンタは蝦蟇法師でいいのっ」

「むうっ」

 ゲンドウは不満げに声を漏らした。
 
「アスカ、誰と来たんだい?」

「パパとママよ!グランマに挨拶したいんだって、パパが」

「へぇ、そうかい。またご馳走を狙いに来たのかと思ったよ」

「へへっ、おっきなお魚でしょ。アタシ知ってるもん。
 グランマが退院するときにお魚屋さんが持ってきてくれるって」

 一瞬ユイは真剣に考えてしまった。
 本当にキョウコがそれを狙ったのではないかと。



「失礼ね。私はそんなに意地汚くありません!アスカじゃあるまいし」

「ああっ、酷い!ママ、酷いっ!」

「ま、あるものはいただきますけどね。ねぇ、ハインツぅ」

 ごほんっ!
 咳払いが二箇所から聞えた。
 クリスティーネとハインツと呼ばれた男の口から。
 キョウコが甘えて身体を摺り寄せたからだ。
 
「年を考えなさい、年を」

「まあ失礼な!私まだ24よ」

「それはユイさんでしょうが。アンタは今年で28になるんだろう」

「あら、知ってたの?」

「馬鹿言うんじゃないよ。アンタは曲がりなりにも私の一人娘なんだからね」

 そう言うとクリスティーネは視線を若きドイツ人に向けた。

「いいのかい?こんなおばさんでさ」

「ママったら!」

「あ、あ〜、私はぁ、そ、そのぉ…」

「ママっ。ドイツ人なんだからドイツ語で喋ってよ」

「私は、元、ドイツ人だ」

 聞く事はできるが喋る方は得意ではないハインツのために、キョウコが助け舟を出す。
 それを見てユイは微笑ましく思った。
 しかしその笑顔も長くは続かなかった。
 何故?
 それはメンバーが悪かった。
 惣流家の応接間兼書斎。
 そのソファーセットに腰掛けているのは…。
 クリスティーネ・惣流。ミュンヘン出身の元ドイツ人。ドイツ語はペラペラ。
 キョウコ・惣流。日本人だが、ドイツ人と結婚してドイツに永住する予定で英語とドイツ語はペラペラ。
 アスカ・惣流。日本人だが母親の影響で小さな時から英語・ドイツ語・日本語を自由自在に操る天才美幼女。
 ハインツ・ツェッペリン。ハンブルグ出身の生粋のドイツ人。日本語は危なっかしいがドイツ語はもちろん大丈夫。
 碇ゲンドウ。医者。ドイツ語は喋るのは苦手だがヒヤリングと読み書きは大学で優をもらっている。
 そして、碇ユイ。ミッションスクールで英語を習い人並み以上には話せる。ドイツ語?バームクーヘン程度。
 つまりユイだけが蚊帳の外というわけだ。
 真っ赤な顔で必死にキョウコへの愛情を訴えているハインツにみんなが笑っている。
 そう、ゲンドウでさえ鼻で笑っている。
 その上、みんな大きい。
 アスカは例外として、他の大人はみんなユイが見上げないといけない背の高さだ。
 疎外感…。
 う〜ん、シンジがこうなったら大変だ。
 アスカとの将来のためにもシンジは外国語を勉強しないと!
 教育ママとやらになりそうな自分にユイはくすりと笑った。



「キョウコ。本当に食べていくのかい?」

「あら、私たち邪魔者?」

 真顔のクリスティーネにキョウコがおどけて言う。
 彼女の言いたいことはわかる。
 シンジとアスカを会わせるつもりかというわけだ。
 
「孫たちのそんなの私に見せないでおくれよ。頼むよ」

「そんなのって何?アスカとシンジちゃんの感動の再会のこと?ママ、見たくないの?」

「その後が嫌なんだよ、アンタ何も考え…」

「んまっ!アタシとシンジを会わせてくれないの?グランマのウルトラいじわるっ!」

「だってね、アスカ。その後が…」

 目の前で涙の別れをやらかされれば心臓がパンクしてしまうかもしれない。
 話で聞いただけで涙が止まらなかったのだから。

「ああ、後ね。私の部屋をアスカに使わせるわよ」

 アスカはニコニコ笑っている。
 
「ほら、アスカきちんと挨拶しなさい」

「わかった!これからずっとお世話になります。ふつつかな嫁ですがよろしくごしどうください」

「アスカちゃん、意味わかってる?」

 ユイが思わず突っ込んでしまった。

「うん、わかってるよ。これはね、お嫁さんの挨拶なの。えっと、それからね。
 お父様、お母様、末永く可愛がってやってくださいませ。へへ〜ん、間違えなかったよ」

 得意げに顔をほころばせるアスカ。
 ユイは呆気にとられ、ゲンドウは舞い上がってしまっている。

「こ、これ、キョウコ。てことは、アスカを置いていくってことかい?」

 さすがのクリスティーネも慌てている。
 ついこの間、言い聞かせたところではないか。

「だって、あれは私が結婚をあきらめるかどうかってことでしょ。
 アスカとハインツと3人で話し合った結果なのよ、これは」

「ダメだよ、私は許さないよ。まだアスカは5つにもなってないんだ。
 母親と離れて暮らすだなんて、絶対にダメだ。言語道断だよ」

「ママがいるから安心じゃない。それに未来の両親だってほんのすぐ隣にいるんだし」

「何言ってんだい。私なんかいつ死ぬかわからないじゃないか」

「だから、アスカが傍にいるほうが安心じゃない。これも親孝行の一環よ」

「私を出汁にするつもりか。この親不孝者」

「それにさ、ドイツじゃダメなのよね。
 アスカはお医者さまになりたいんだって。
 それならドイツで免許とるって手もあるけど、そんなことをしたら医は仁術にならない。
 ちゃんと日本語を話してきちんとコミュニケーションが取れないといいお医者さまにはなれないわ」

 キョウコはまくしたてた。

「私だってアスカと離れて暮らすのは寂しいし不安よ。だけど…」

「だからアタシが言ったの。寂しいんなら、弟か妹をつくったらいいのって」

 アスカがクリスティーネの膝に纏わりつくようにして言った。

「ああ、その手もあるなって」

「キョウコ!」

 ハインツは真っ赤になっている。
 ゲンドウがしきりに頷いているので、ユイは肘鉄を食らわしてやった。
 
「ま、アスカが耐えられなくなったり、シンジちゃんを嫌いになったらいつでもドイツに送ってよ。
 着払いでいいからさ。どうせ、そんなことにはならないけど」

「うん!アタシ、シンジと結婚するもん」

「アンタたちは、本当に、もう…」

 クリスティーネはさじを投げた。
 別にアスカの面倒を見ることがイヤなのではない。
 母と娘が離れて暮らすことに異議があったのだ。

「ユイ。お願いね。アンタ、アスカに甘そうだから、ビシビシ鍛えてやってよ」

「え、えっと、どう答えたらいいんだろう?」

「わかりました。姑としてたっぷりしごきますって言えばいいのよ」

 キョウコが笑いながら言った。
 本当は寂しいはずなのに…。
 きっと彼女が一番辛いはず。
 でもそのキョウコがあんなに明るく振舞っているんだから…。

「じゃ、わかりました。ガンガンしごきます。容赦しません。これでいい?」

「OK。アスカ、しっかりしないとダメよ。ユイはにっこり笑いながら嫁をいじめるくちだからね」

「うん、アスカがんばるっ」

 アスカはしっかりと頷いた。その瞳は闘志に燃えている。
 クリスティーネは溜息をついてソファーに深く腰掛けた。

「話はまとまっちゃったようだね。ま、誰も彼も後悔しないように」

「大丈夫!」「わかってるって」「はい」「Ja!」「ふんっ」

 口々に誓う皆に、クリスティーネは肩をすくめた。

「さぁて、じゃあ次の議題」

 キョウコがにやりと笑った。それはもう、嬉しそうに。





 今日はお弁当の日だった。
 歩いて5分の幼稚園からシンジは一人で帰ってくる。
 こつんこつんこつん。
 階段を上がって、部屋の扉を開ける。

「ただいま!今日も残さずに食べたよ!あれ?」

 部屋にいるはずの母親の姿が見えない。
 シンジは靴を脱いで中に入り、鞄を下ろし、スモックを脱いだ。

「あ、そうか。おばあちゃんが帰ってきたんだ。
 アスカのところにいるんだ…」

 シンジは風でカーテンがはためいている窓に向かった。
 そして、顔を覗かせて、惣流家を見たときだった。
 物干し台に黄色い物体。

「あれ?」

 見間違えたかと思った。
 ごしごしと目を擦って、もう一度見る。
 物干し台に仁王立ちしている黄色いワンピースの女の子。
 赤めの金髪を風に靡かせているのは、紛れもなくアスカだ。

「あ、あ、あ、あ…」

「はん!もう忘れちゃったの?この浮気者!」

「あわわわ、わ、あ、…」

 動転したシンジは窓を乗り越えようとした。
 びっくりしたのはアスカ。

「こ、こら!馬鹿シンジ。そんなことしたら死んじゃうじゃない!」

「あ、アスカっ!」

 やっと言えた。
 
「ほ、本物?」

 アスカは怒った。
 もっと別の言葉を期待してたのに。

「くわっ!アンタ、アタシをニセモノだと思ってんの!
 アタシのどこがザラブ星人だって言うのよ!」

 物干し台の下。
 応接間兼書斎では、ユイがザラブ星人の解説を皆にしていた。
 窓から姿を見えないようにしているが、音は全部聞える。
 感動の再会を楽しもうとしていたのだ。

「ユイ、アンタよく知ってるわね」

「だって、シンジが見てるから」

「嘘吐き。自分だって好きなくせに」

 言われてぺろりと舌を出すユイ。

 さて、物干し台では地団駄を踏んでアスカが怒っている。

「だ、だって、アスカはドイツに行っちゃったんじゃないか」

「ふん!行ってないもん。それとも、アンタアタシに行って欲しかったのっ?」

 シンジは慌てて首を振った。

「じ、じゃ…本当に本物のアスカなんだね!や、やった!」

「あったり前田のクラッカーよ!これからずぅ〜っとアタシはここにいるんだからねっ!覚悟しなさいよ!」

「ぐわぁ!ほ、本当っ?やった、やった、やった!」

 大人組。
 喜びに躍り上がっているシンジの様子が手に取るようだ。

「ね、あの二人。ぶちゅってすると思う?」

「喜びのキス?どうかな…」

 そこのところは気になる。
 天使のようなキスシーンを見せてくれるのか、皆は期待に満ち溢れていた。

 シンジは、どんどんと畳の上でジャンプしていた。
 アスカの方も手すりを握りしめながらぴょんぴょん跳んでいる。

「やった!やった!やった!」

「あははははっ!あ、そうだっ!シンジ、アタシいいもの持ってるの。見せてあげる!」

「僕もいいものがあるんだよ!見せてあげるね!」

 シンジは部屋の中に戻った。
 アスカも物干し台から脱兎のように駆けだす。
 シンジの方が早かった。
 丁度、麗しの花の小道の真ん中で二人は出くわす。
 その真上が応接間兼書斎の窓だ。
 大人たちはその窓から首を覗かせた。

「アスカ!」

「シンジ!」

 二人は抱き合わなかった。
 アスカとシンジはお互いの手に持っているものを見、そして自分の手にあるものを見つめた。

「同じ…」「一緒だ…」

 手にしていたのはスパイダーガン。
 科学特捜隊のアラシ隊員が持っている大型の銃だ。
 引き金を絞るとプラスチック状の泡が出てくる子供たちの垂涎のおもちゃだった。
 アスカとシンジはにやっと笑った。
 そして、どちらからともなく手を繋いだ。

「いこっか!」「うん!」

 行き先は裏手の空き地。
 表通りの方に走っていく二人を見下ろして、キョウコが呟いた。

「なぁんだ、キスしないんだ」

「がっかりですね」

「こら、アンタたち」

 窓から離れたクリスティーネが腰に手をやって叱りつけた。

「あの後、おもちゃを買ってやって宥めたんだね。情けない。何て親だろうね、まったく」

 10日前に泣き叫ぶ子供についおもちゃを買って機嫌を取ってしまった母親同士は、
 顔を見合わせて苦笑した。
 この時とばかり、高価なものを要求した子供たちも抜け目なかったが。

 その後、しばらく二人は空き地で遊んでいた。
 別れた前と少しも変わらずに。



 夕方。
 手桶を持った二人の若者が惣流家を訪れた。

「ごめんくださ〜いっ!」

「すみません…」

「ちょっとぉ!もっと大きな声出しなさいよ!
 魚屋なんだから景気よくしないとっ!」

「お前の馬鹿声で景気は充分いいじゃないか。それよりどうして葛城が付いてくるんだ」

「サービスよ、サービスぅっ。ごめんくださぁ〜い、活きのいい魚が売り物の加持鮮魚店でぇ〜すっ!」

「焼き魚の活きはよくないってば」

 ぼそりとつぶやく学生服のリョウジをミサトは睨みつけた。

「は〜い、ごめんなさいね」

 2階から降りてきたのはキョウコ。
 予期せぬ金髪美人にリョウジの相好が崩れた。

「こ、こんにちは、加持鮮魚…、痛ぇっ!」

 足を思い切り踏みつけられて、それでも手桶をひっくりかえさなかったのは魚屋の息子として偉い。
 
「加持鮮魚店からお届けものです!」

「まあ、可愛いお魚屋さんね」

 セーラー服のミサトにキョウコが微笑みかける。

「ここに置きますね」

「アリガト。う〜ん、二人は恋人?」

「あらっ、違いますよ!もうっ!」

「痛えっ!」

 ミサトは肘でリョウジのわき腹を思い切り突いた。

「何するんだよ!」

「あ、ごみん。痛かった?」

「痛いに決まってるだろ」

「あははは。あ、ごめんなさい!これからもご贔屓に!」

 ミサトは逃げるようにリョウジの背中を押して玄関から出て行った。
 そんな二人を見送って、キョウコはにんまりと笑った。

「加持鮮魚店の二代目大将とおかみさんか。ありゃ、尻に敷かれるな。ふふ」



 退院祝いは豪勢なものになった。
 主賓には料理をさせられないので、ユイとキョウコが担当。
 和食と洋食が入り混じった賑やかな食卓となり、
 アスカとシンジは目を輝かせて料理に飛びついていった。
 そして、ゲンドウはあれ以来となるお酒を飲んだ。
 固辞する彼にクリスティーネが絡んだのだ。
 周りの皆も彼に勧めた。
 コップに注がれたビールをゲンドウはゆっくりと飲んだ。
 もちろんそれで酔うほどのものではなかった。
 だが、アルコールには酔うことはなかったのだが、
 ゲンドウは人の心に酔った。
 人の心の温かさに。

 食事の後は、アスカとシンジは『仮面の忍者赤影』を見た。
 今日は第4話。
 「白影さん捕まっちゃったぁ」「わっ蜘蛛!毒蜘蛛ぉ?」「のっぺらぼうだ、あの忍者」
 作品に一喜一憂する二人の反応を聞いているだけでも、充分な酒の肴になる。

「さて、見終わったらお風呂に行きましょうか」

 キョウコがそんなことを言い出した。
 
「ハインツは一度も銭湯に入ったことがないの。ゲンドウさん、お願いしますね」

「うむ…」

 ゲンドウは頷いた。
 そんなに喋りあったわけではないが、悪い男ではない。
 風呂の面倒くらい見てやろう。

「それから、ママも行くわよ。いいわね」

「えっ!な、何を言い出すんだ、お前は」

「だって、私はママとお風呂に入りたいんだもん。
 いくらなんでもここに大人二人入るのは狭いじゃない。ね、行こうよ、ママ」

「だ、だって、お前…」

 戸惑うクリスティ−ネ。
 これまで銭湯には行ったことがないのだ。

「お、お前は恥ずかしくないのかい?」

「全然。別に男湯に入るわけじゃないし。ユイだっているから」

「だ、だけどさ…」

「くりさん、覚悟を決めましょう。キョウコはしばらく会えないから甘えたいんでしょう」

「ふん!私は…」

「行こっ!ねっ、グランマ。おっきなお風呂!」

 クリスティーネは言い負けた。
 この歳でありながら恥ずかしくてたまらなかったが、結局伊吹湯に向うことになったのである。
 その伊吹湯では彼女が想像していた通りの反応が起こった。
 女湯でも男湯でも。
 ゲンドウは毎日来ているので違和感はないが、ハインツはもちろん初めて。
 紅毛碧眼で顔も知らない長身の青年が突然出現したのだ。
 その上、英語ではない言葉でゲンドウと会話をしている。
 彼は恥ずかしがらずに真っ裸になり、ゲンドウの指図どおりに曇ったガラス戸の向こうへ消えていった。
 その後姿を見送って、マヤの母親が顔を赤らめ溜息をついたとか。
 さて、番台の向こう側。女湯では…。
 町ではよく知られていたが未だ一度も銭湯に姿を見せたことのないクリスティーネが注目の的となった。
 しかし、それは彼女の予想していた遠巻きにしてじろじろ見られるというものではなかった。

「おや、くりさんじゃないか!」

「本当!ああ、そう言えば今日退院だったんだねぇ」

「初めてじゃないの、ここに来るのは」

 顔見知りの古参の奥さん連中が、着替えを始めようとしたクリスティーネの傍へすっと寄ってきた。
 ユイたちはさっと離れる。
 アスカとシンジはどうなるのかと好奇心丸出しで見ていた。
 もっとも二人の母親もわくわくして見ていたのだが。

「おめでとう!よかったねぇ、ここだって?」

 自分の裸の左胸を押さえる太りじしの奥さん。

「あ、ああ、危うくおっ死んじゃうとこだったよ」

 何とか会話を始めるクリスティーネ。
 彼女はまだ脱ぐ前だが、取り囲んでいる奥さんたちは全裸もいれば半裸も。
 ひとしきり退院祝いの会話をしたあと、頭株の奥さんが周りの奥さんを追い払った。

「ほらほら、くりさんは風呂に入りに来たんだ。話ばっかりじゃいけないだろ」

 ああ、そうかと離れる奥さんたちだが、視線はクリスティーネに釘付け。
 それがわかっているだけに彼女はなかなか脱げない。
 そこにアスカがちょこちょこと走り寄る。
 
「早く入ろうよ、グランマぁ」

 そう言うアスカは素っ裸。
 当然彼女の右手はしっかりとシンジの手を掴んでいる。
 
「そ、そうだね」

「くりさん?」

 ユイがにっこり笑った。

「こういう時はぱぱっと脱いでしまうのが一番ですよ」

「あ、ああ、わかったよ」

 クリスティーネは覚悟を決めた。
 そうなると、滅法潔くなるのが彼女だ。
 さっさと服を脱ぐとかいがいしく世話をするアスカの指示通りに脱衣籠に入れる。
 全裸になったその姿に溜息と嬌声が上がる。
 ユイもそうだ。
 あれで孫がいるの?反則じゃない。
 それでもやはり恥らいながら、クリスティーネは孫に手を引かれて洋室へ歩いていった。
 きっと、アスカがシンジから受け売りの銭湯の入り方を伝授することだろう。
 走ったらダメだよ。入るときには前を洗って。赤いボタンは慎重に…。
 ユイはそれを早く見たくてあっという間に裸になった。
 ところが隣のキョウコはまだ服を脱いでいない。
 それを見てユイは意地悪く笑った。

「あらあら、もしかしてキョウコも初めてでしたの?」

「ぐっ、は、初めて…よ。悪い?」

「いいえ。誰でも初めてがあるものですから。でも早くしないと置いていきますよ」

「や、やめてよ。脱ぐから待ってっ」

 慌てて服を脱ぐキョウコ。
 曝け出される白い裸身にユイは再度溜息を吐いた。
 き、綺麗…。
 クリスティーネのスタイルに日本人の血がそうさせたのか白く輝く肌理の細かさ。
 やだ、こんなのの隣にいたら比べられちゃうじゃない。

「先に行きますよ」

「ま、待ってよ。ねえっ!」

 二人の姿が脱衣場から消えた時、残された女性たちはことごとく首を振って溜息を吐いた。
 今日は凄いものを見させてもらったと。



 布団の準備がなかったので、ハインツはソファーでおやすみ。
 キョウコは母親の隣に布団を引っ張って行きおやすみ。
 クリスティーネは狭いのにとぼやきながらも嬉しそうだ。
 ユイとゲンドウはいつものように仲良く布団を並べている。
 奥の4畳半ではアスカとシンジも同じように布団を並べ、もう夢の中。
 すぅすぅと寝息が聞こえる。

「ユイ。寝たか」

「もう、寝ました」

「そうか」

「何ですか」

「その…何だ。二人目…」

「馬鹿おっしゃい」

「そ、そうか…」

「明日、子供たちはくりさんところで寝るみたいですよ。くりさんがにやにや笑ってました」

「ふんっ…」

 暗闇の中で満足そうにゲンドウが笑った…はずだ。
 しかもいやらしげに。
 ユイはぷうっと頬を膨らませて、そして形のいい足を布団からすぅっと出した。
 せぇのっ!

 ぼすんっ。

「げふっ!」

 命中!
 捕まえられないように、ユイはすぐにゲンドウの腹の上に叩きつけた足を布団に回収する。



 昭和42年4月27日に日付は変わった。

 すべて世はこともなし。
 
 

  この数ヵ月後。
  
  日本のどこかの街で、
  しばらくの間閉ざされていた小さな医院が再び開業した。


  以前はすこぶる美男子の医者だったが、
  今度の医者はすこぶる無愛想であった。

  ただ、その医院は妙に明るい雰囲気で、
  患者たちの評判は何故かよかった。

  
  その医院の名前は、惣流医院という。

 




 

〜 その後のことども 〜





 昭和42年夏。

「きゃあっ!」「うわぁっ!」

 アスカとシンジは悲鳴を上げた。
 突然、シスコ社から郵便が送られてきて、中を開けると流星バッジが入っていたのだ。
 この春にアスカがあてたものは既に送られてきて、
 アスカの部屋にある彼女の机…キョウコのお下がりの机の一番上の引き出しに厳重に保管されている。
 ではこれは何だ?
 間違いで送られてきたのだろうか?
 もしそうならこのまま貰っておいていいのだろうか?
 二人は顔をくっつけるようにして合議する。
 だが、いくら考えても結論は出ない。

「そうよ!間違えたのは向こうなんだからさ。知らん顔してりゃいいのよ」

「で、でも…返せって言って来たらどうするんだよ」

「だから、そんなの知らないって言えばいいのよ」

「だけど、おまわりさんが来たら?ザ・ガードマンが来たらどうするんだよぉ」

「ザ・ガードマンはおまわりさんじゃないわよ」

「でもでも、アスカが捕まっちゃうのなんてイヤだ」

「ど、どうして、アタシなのよ!」

「だって、アスカ宛に来たんだろ」

 アスカは封筒の宛名を見た。

「違うわよ。惣流医院宛だけど、碇ユイ様って…へっ?」

「お母さん?」

 二人は先を争って階段を降りた。
 ユイはクリスティーネの特訓を受けて病院事務を受け持っている。
 したがって今は家事よりも事務仕事を優先しているというわけだ。
 時間は2時過ぎで休診している時間なのだが、午前中の仕事のチェックで追いまくられている。
 
「お母さん、いい?」

「よくないけど、いいわよ」

 背中が喋った。
 シンジはアスカの顔を見た。
 アスカは顎をしゃくって、行けと指示する。
 忙しそうな母親の邪魔をすることはいい子のシンジとしては気がひける。
 だが、アスカに逆らうことはできない。
 それにこの流星バッジについてはシンジにとっても大事件なのだ。
 
「あ、あのね、き、今日ね、流星バッジが届いたの」

「あら、また当てたの?」

「ううん、違うの。間違えて送ってきたのかなぁ」

「じゃ、そうなんじゃないの」

 母親の背中はそっけない。
 だが、二人は気付いてなかった。
 机の前においてある鏡と壁の鏡を合わせて、ユイはしっかり二人の様子を見ていたのだ。
 しかも思い切り笑顔で。もちろん、片えくぼ付きで。
 喋りにくそうなシンジに代わって、アスカが口を出す。

「ねぇ、このまま貰っちゃいけない?」

「おまわりさんに捕まっちゃうわよ」

「げっ、やっぱり?」

 どうしようと顔を見合す二人。
 手に持っている封筒が凄く重く感じてきて、アスカはしっかりと持ち直した。
 シンジは泣き出しそうな顔でアスカに言った。

「交番に行こうか。ううん、僕が行ってくるよ」

 おお、よく言った我が息子。
 そうよ、男なんだからいざという時には凛々しくしないと。ま、泣きそうな顔してるけど。
 ほら、アスカちゃんったらうっとりした顔でシンジを見ているじゃない。
 
「大丈夫、シンジ?」

「うん、ちゃんと話をしてくるよ。アスカが捕まらないように」

「アリガト…って、アタシがやっぱり捕まるのぉ?」

 ちっ、気づいたか。
 やっぱりキョウコの娘ねぇ。うちのおっとり息子とは違うわ。
 
「捕まるのはお母さんよ!」

 真っ向から指を指すアスカ。
 おいおい、いつの間にか気分は名探偵か刑事さん?
 まあ、惣流家の人はミステリー好きだからアスカちゃんだってそうなるのはわかるけど。

「ええ〜、私が捕まるの?それは困っちゃったわね」

「しょ〜こがあるのよ。しょ〜こが」

「アスカ、しょ〜こって何?」

「知んないわよ。この前テレビで言ってたの。犯人を捕まえる時に言うのよっ」

「う〜ん、でもねぇ。お母さん、お腹に赤ちゃんがいるから…」

 その言葉を聞いた途端に、子供たちの表情が一変した。

「ホント?シンジの妹?」

「あら、弟かもしれないわよ」

「妹よ、妹。シンジ!アンタに妹ができるのよ!」

「うわぁ!凄いやっ!妹だって!」

「あのね、だから、弟かもって…」

「名前決めよ。アタシ、えっとぉ…何にしようかな?シンジは何がいい?」

「う〜ん。花子とか」

「何それ!変っ!そうだ、マーガレットは?いい名前でしょ」

「そっちの方が変だよ。碇マーガレットだなんて、おかしいよ」

 それはそうだ。まだ碇花子のほうがいい。
 もっとも花子などという名前は論外だが。
 いやそれよりもすっかり流星バッジのことを忘れてしまっている二人が可愛らしくて仕方がない。

「じゃ、じゃあ…あれ?何の話してたっけ?」

「僕の妹の話だよ」

「違うわよ、その前っ!あ、そうだ。お母さんが逮捕されるって話よ」

「逮捕って何?」

「おまわりさんに捕まって、死刑になるってことよ!」

 おいおい、アスカちゃん、前の方しかあたってないわよ。
 またテレビの影響ね。
 
「ええええっ!お母さん死刑になっちゃうの?」

 笑顔から泣き顔に一変するシンジ。
 現状では知識という点ではアスカにはまったくかなわない。
 ここいらで真相を話してあげようかとユイは決めた。

「あのね、あの流星バッジは二人へのプレゼントなの」

「へ?」

 アスカがきょとんとなった。
 
「プレゼントって誰から?まさか、ウルトラマンから?」

「う〜ん残念だけど人間よ。誰だと思う?」

 あんな凄いものをプレゼントしてくれるなんて、いったい誰だろうか?
 二人は考え込んでしまった。

「あっ、ママ?」

「ドイツにはウルトラマンチョコは売ってないでしょう」

「そうよね、言ってみただけよ。うん」

「えっと…、あはは、わかんないや」

「しっかり考えなさいよ。あっ、白影さん?」

「冬月の伯父さまじゃありません」

「あ〜ん、思いつかないよぉ。ヒント、ヒント!」

 ユイは片えくぼで微笑んだ。
 アスカの反応は本当に可愛い。
 息子の方は思いついても口に出さずに考え込んでいる。

「その人は東京にいます。女の人。二人とも会ったことがあるわ」

「へ?そんな人いたっけ」

「あっ!え、でも…やっぱり違うかも」

「言ってみなさいよ。ほらっ」

 煮え切らないシンジに痺れを切らしてアスカが催促する。

「えっとね、あの、お父さんを叩いた女の人」

「あっ!そうか。でも、あの人、ウルトラマン知らないって…」

 ユイはにっこりと笑った。

「正解よ。赤木リツコさん。あの子、今はウルトラマンのことよく知ってるみたいよ」

「そうなの?」

 アスカはいぶかしげにユイを見た。
 何しろあの時、彼女はウルトラマンの存在自体を知らなかったのだ。

「ええ、手紙を貰ったの。この前の映画を見たんですって」

「あっ!僕たちも見た、あれ?」

「キングコングと一緒にあったやつ?」

 言いながらアスカは手で胸をボンボン叩く。
 キングコングのつもりだろう。鼻の下を伸ばし顎を突き出して、美少女が台無しである。

「そうそう、3人で隣町の映画館に見に行ったあれ」

 夏休みに入ってすぐに公開された『長編怪獣映画ウルトラマン』と『キングコングの逆襲』。
 すでにそのころユイのお腹には新しい命が宿っていたはずだから、
 今更ながらにあの時座ることができてよかったとユイは思った。
 何しろ劇場の中は子供と付き添いの大人でいっぱい。
 ようやく座れた前から2列目でユイは後の観客のために身体を小さくして画面に見入った。
 ビデオがなく、しかも白黒テレビがまだ大半の時代だから、
 子供たちは大画面でカラーのウルトラマンに再会でき、どの顔もご満悦といった状態だった。
 ただ、子供たちが一様に「変だ」「おかしいよ」などと言い出したのは、
 同時上映の『キングコングの逆襲』に悪役で黒部進が出演していたからだ。
 黒部進というのはウルトラマンに変身する科学特捜隊のハヤタ隊員に他ならない。
 アスカとシンジも「どうしてハヤタさんがわるもんなのか?」と不満たらたらだった。
 それでも子供たちは作品自体は喜んで鑑賞した。
 大画面で格闘するキングコングとメカニコングの姿に歓声が上がっていたのだ。
 その中でユイは冬月に天本英世演ずるドクターフーの扮装をさせてみたらどうだろうか…、
 などと彼女らしいことを考えていたのだが。
 その映画をリツコが観に行ったということなのだ。

「へぇ、そうだったの。で、あの人があててくれたの?」

「ええ、毎日買っていたみたいよ」

「わあ、いいなぁ」

「大人の癖にずるい」

「でね、なんと、リツコさんったら、結局2つも当てたの」

「えええっ!」

 子供たちはビックリしてしまった。
 どれだけ買ったかという問題ではなく、結果的に2つも流星バッジを手に入れた彼女を素直に凄いと思ったのだ。

「それで、ひとつをプレゼントしますって。よかったわね」

「もうひとつは?」

「さあ、書いてなかったわ。誰かにあげたんじゃないの?」

「そっか。でも、嬉しいっ!これでシンジとお揃いっ!」

「えっ、じゃあれは僕がもらえるの?」

「あったり前田のクラッカー!古い方はアタシのね」

「うんっ!じゃ、遊ぼうよ、科特隊ごっこしようよ!」

「OK!空き地行こっ!あ、そうだ。ねえお母さん」

「なぁに、アスカ」

 この頃にはもうユイはアスカのことをちゃん付けで呼ばないようになっていた。
 もちろん、その方がアスカとしても嬉しいに決まっている。

「お礼のお手紙書くから。でも、後でいい?」

「ふふ、いいわよ。お昼寝終わってからね」

「わかった!じゃ、いってきます!」

「お母さん、いってきます!」

 先を争うように事務室から駆けていく二人。

「スパイダーガン、取って来ようよ!」

「じゃ、シンジはアラシね、アタシがハヤタさん!」

「あ、そんなのイヤだよ!アスカはフジ隊員でいいじゃないか。女なんだから」

「んまっ!しっつれいなっ!じゃ、アンタはバルタン星人に操られたアラシに決定!」

「そ、そんな…酷いよ!」

 微笑ましい言い争いをしながら、二人が階段を上がっていく。
 ユイはまだ膨らみを見せていないお腹を撫でた。

「元気で可愛いお兄ちゃんとお姉ちゃんでしょ。
 さてさて、あなたにはおちんちんがついてるのかな?」











 その赤ん坊にはおちんちんはついていなかった。
 昭和43年3月30日午後11時57分、碇家の第二子が誕生した。
 
「よかった、なんとか私と誕生日が一緒」

「よくない。明日だったら誕生日パーティーが2日続くのにさ」

「あ、そうか。アスカ凄い」

「へへんっ!」

「馬鹿だね、この子達は。ユイさん、でかしたよ。
 可愛い女の子じゃないか。色が白くて、アンタに似てるよ」

「そうでしょうか?抱かせてもらった時にあの人にそっくりな表情をしたんですけど」

「おやおや、どんな顔を見せてくれたんだい?」

「こんなのですよ」

 ユイは真剣な表情を作って、唇をすっとゆがめて言った。

「ふっ」
 
 それを見て3人は腹を抱えて笑った。
 
「そんなのヤだぁ。お母さんに似てる妹がいい!」

「僕も僕も!」

「もうっ!可愛いじゃないの、どうしてみんなわからないのかなぁ?」

「私も孫たちに賛成だ。顔はアンタに似てる方がいいよ」















 彼女はユイそっくりだった。
 少し色素が薄めなので、肌の色は白く、そして髪の毛の色もやや栗色だった。
 物静かでまだ2つになったばかりなのに、町で評判の美少女だったのである。
 ただし、問題がひとつあった。
 笑わないのである。
 いや、感情がないとかそういう意味ではなく、大声で笑わないという意味だ。
 可笑しいことがあっても、ただくすくすと笑うだけ。
 その笑顔も見慣れぬ人間には見せない。

「まったく、くだらぬところが似たものだ」

 ゲンドウはよくこぼした。
 そんな夫にユイはけらけら笑いながら言ったものである。

「あら、ご存じないの?あの子の…レイの笑顔って評判がいいんですよ。
 神秘的で美しいんですって。私も時々あの子の笑い顔を見てうっとりしちゃう時があるんですもの」

 そう言ってから、ゲンドウのいぶかしげな表情を見てユイは慌てて手を振った。

「違いますよ。私ナルシストじゃありません。いくら似てるからって…」

 午前中の診察が終わり、診療室にゲンドウのお昼を持ってきてそこでお喋り。
 
 ただ、ゲンドウのお昼というのはにぎりめしに漬物。
 質素なものだが、彼にとってはご馳走なのだ。
 何と言ってもユイが目の前にいるのだから。
 このお昼ごはんがユイとゲンドウの大事な時間である。
 職員たちも極力二人の邪魔はしない。

 だが、この日は違った。

「ユイさん!」

 この春、惣流医院に就職したばかりのはつらつとした娘が診察室に顔を覗かせた。
 彼女たちはこの時間を二階の食堂で過ごすのが通例となっている。

「あら、どうしたの?」

「お客様です」

「私に?」

 薬品会社の営業ならこの時間は鬼門だということをよく知っている。
 仏…いや観音さまのユイの機嫌が明らかに悪くなるからだ。
 従ってこの時間に顔を出すような野暮な客は見当がつかない。

「はい。ユイさんに」

「誰だろ。いいわ、そっちに行く」

「はい。あ、あららら、来ちゃった」

 マヤが慌てて扉から飛びのく。
 その彼女の足元をよたよたと歩いてきたのは色の白い幼児。
 一瞬、レイかと思ったが、その表情は彼女とはまるで違っていた。
 笑顔なのである。
 にこにこと笑いながら、彼はまっすぐにユイの方へ歩いてくる。

「え、えっと…。あっ!わかった!」

 ユイは彼のところまで駆け寄ると、ぐいっと抱き上げた。

「はじめまして。カール君よね」

 こくんと笑いながら頷く。

「わぁ!話には聞いてたけど、本当にニコニコ笑ってる!可愛い!」

「でしょう?なかなかの出来だと思わない?」

 扉のところで腕組みをしているのはますます美しさに磨きのかかったキョウコだった。

「キョウコ!」

「はい!ユイ。元気してた?」

「してるわよ!もう!連絡もなしに来るんだから!」

「連絡したでしょ。去年のクリスマスに。来年は万博見物に里帰りするからって」

「ま、キョウコらしいか」

 そう、いかにも電光石火のキョウコらしい。
 顔を合わすのはアスカを預けて行った時以来になる。
 30を越しているのだが、とてもそうは見えない。

「あ、ユイ。そろそろ降ろしてくれない?
 そいつ色魔だから、綺麗な女の人に抱かれてるとすぐに眠っちゃうのよ」

「へぇ、そうなの?」

「ええ、男には薄笑いなのよ。ほら」

 床に降ろされたキョウコの長男はゲンドウを見て鼻で笑った。
 そしてぷぃっと背中を向けるとよたよたと扉の方へ歩いていく。
 明らかに態度が違う。

「さっきの女の子。伊吹湯の娘でしょ」

「そうよ。マヤちゃん」

「あの子の足にもピッタリ抱きついちゃってさ。先が思いやられるわ」

「いいじゃない、可愛いから」

「そこがヤツの付け目なのよ。まさかママにまで手を出すとは思えないけど…」

「誰が何だって?」

 不服気な声にキョウコが振り向くと、そこにはクリスティーネが立っていた。
 幸せそうな顔をしている孫息子がその腕の中に。

「これだ。年齢制限無しか、うちの息子は」

 肩をすくめたキョウコはその母親の足元にくっついている未見の生物を発見した。

「きゃっ!リトルユイ!可愛い!」

 レイにとっては姉と慕うアスカが突然巨大化したように思ったのだろう。
 目を大きく開いて信じられないと言わんばかりの表情になっている。
 そのレイの前にキョウコは膝を曲げて目線を合わせた。

「はじめまして。私、キョウコって言うのよ」

「お姉ちゃん?」

「お姉ちゃんでいいわよ、うん」

「調子に乗るんじゃないの、キョウコ。レイ、その人はアスカのママ。おばさんよ、おばさん」

 ユイの暴言にキョウコは横目で睨みつけた。

「ふん!自分が20代だと思って、何よ!よし、ユイ!今日は伊吹湯に行くわよ!
 ドイツで年下の亭主に可愛がってもらって、さらに磨きのかかった肉体でぎゃふんと言わせてあげるわ」

「ふふ、いいわよ。ぎゃふんって言ってあげる。こら、あなた。鼻の下伸ばすんじゃありません!」

「う、うむ」

 やはりユイはことゲンドウのことになると目が早い。
 銭湯でのキョウコを想像してしまったゲンドウの些細な表情の変化を見逃してなかった。

「ただいまぁっ!誰か来てるの……わっ!ママだっ!」

 赤いランドセルを背負ったアスカが玄関から飛び込んできた。
 彼女の脱ぎとばした靴をきちんとそろえてから、シンジも部屋に入ってくる。
 アスカはレイを突き飛ばさないように大回りして、母親の背中にジャンプした。

「ママ!ママっ!」

「こら、アスカ。もう2年生なんでしょ。この甘えん坊!」

「うっさいわねっ!」

 その時、クリスティーネの腕の中でカールが身じろぎした。
 降ろせと言っているらしい。
 床に降ろしてもらったカールはそのままべたっと姉の頬に顔をくっつけた。

「きゃっ!誰?」

「カールよ。アンタの弟」

 突然の攻撃に驚いたアスカだったが、正体がわかると安心した。
 
「そっか、お前がカールね。アタシがアンタのお姉ちゃんよ!世界一の美少女なんだから喜びなさい!」

 うんうんと頷きながらも、カールは姉の身体にびたっとくっついたまま。

「うふっ、くすぐったいよ、もう!」

 その美しい姉弟の初対面の抱擁に、みなが微笑ましく見守っているその場でただ一人だけ気分を害していた男がいた。
 そう、この場合、彼は少年ではなく一人の男だった。
 シンジはむっとした顔つきで足を進めると、カールの脇に手を入れて強引にアスカから引っぺがした。
 そして、目を白黒させているカールの身体を無意識に手近な人間の身体の方へ押しやった。
 そこに立っていたのは無表情でことの成り行きを見ていたレイだった。
 カールはレイを見て、さらに笑顔を深くした。
 彼にしてはエデンの園だったかもしれない。ここは美人だらけだ。
 そんなカールに向かって、レイは人差し指を突きつけた。
 
「あなた、だれ?」

 さすがにキョウコはまだカールに英才教育は施していない。
 したがって言葉は通じていないのだが、ニュアンスはわかるようだ。
 カールはにっこり笑って、巻き舌で言う。

「カァルゥ」

 レイは険しい表情をした。聞き取れなかったのだろう。
 そして、自己流で翻訳したのだった。
 彼女は大きく頷くと、カールの名前を呼んだ。

「かおる。あなた、かおる、ね」

 カールはそれでいいよとばかりににっこりと笑う。
 そして、一同はレイの微笑を拝観する事ができたのである。

 この時、キョウコは直感した。
 もう一人子供が要る、と。
 結局、その勘は正しかった。
 その22年後、カールは碇という姓を名乗ることになったのだから。
 現在、ハンブルグのツェッペリン家の老夫婦は3人目の子供にできた孫たちに囲まれている。














「こぉら、シンジ。早く歩きなさいよ!」

「待ってよ、アスカ。ジャンケン強すぎるんだよ」

 二人分の荷物を持ったシンジがひいひい言いながら、それでもアスカに追いつこうと足を動かす。

「シンジが弱すぎるのよ。何出すかわかっちゃうんだもん!」

「どうしてわかるのかなぁ」

 ぼやくシンジの前にアスカはつつつと引き返してきた。
 そして、真っ直ぐに指を突きつけると、ニヤリと笑った。

「それはね、愛の力よ!」

「や、やめてよ、こんなところで」

「何よっ、私の愛が要らないって言うのっ!」

 この頃にはアスカは「アタシ」から「私」に自然に切り替わっていた。
 場所は二人が通っている中学校からの帰り道。
 中学校は駅の北側。小学校は線路のこちら側だった。
 アスカにとっては通学路が長くなったことは幸いしている。
 中学生になって授業等でシンジといる時間がどんどん少なくなっているのだ。
 何しろこの頃は一学年に10クラスある。
 二人が同じクラスになることはまず不可能だ。
 小学校の6年間5クラスでも一年しか同じ教室で過ごしたことがない。
 そんな学校生活を過ごしているのだから、登下校の時間は貴重なのだ。
 
「そ、それは要るよ。絶対に要るけど、でも、こんな場所で」

 シンジは周りを見渡した。
 二人とも部活動をしていない(アスカの要望)ので、時間は午後4時前。
 
 昭和52年10月28日、金曜日。
 今日の二人の関心ごとは、今晩の『太陽にほえろ!』で転勤したスコッチ刑事がゲスト出演すること。
 さっきまではその話題で盛り上がっていた。
 ただし、鞄持ちでシンジが5連敗したことで話題がスライドしていったのである。
 
 アスカの声は大きい。
 わざとかと思うくらい大きい。
 夕方前の商店街への通りはけっこうな人通りだ。
 当然、アスカの声に二人は注目の的。
 思春期を迎えたシンジはそれが恥ずかしくてたまらない。
 同じく思春期を迎えたはずのアスカは人目が気にならないようだ。
 買い物中のおばさんに露骨に笑われても、へへへと愛想笑いで済ましてしまう。
 世間では惣流医院の跡取り夫婦がまたやってるよ、と思われているだけ。
 仲裁に入ったりするような馬鹿者は一人もいない。
 仲が良いことくらい見ていればすぐにわかるからだ。

 ところがこの日は違った。
 仲裁ではなかったが、声をかけてきたものがいたのだ。

「もしかして、アスカちゃんと……えっと、ごめん、名前忘れちゃった」

「失礼ねっ!シンジよ、シンジ。馬鹿シンジっ!」

 叫びながら振り向いたアスカは、そこに立っている女性を見て首をかしげた。
 見覚えが少しもなかったからだ。
 それはシンジも同様。
 とにかく美人であることは間違いないが、知り合いではない。
 ショートカットにしているがマヤとは少し雰囲気が違う。
 きりっとしていて、しっかり者という雰囲気がたっぷりである。
 アスカは口調を改めて訊ねた。
 
「えっと、どちら様でしたっけ?」

 こういうときのアスカとシンジの構図。
 何故かシンジを背後に置いてしまうアスカ。
 闘争意欲が人よりも弱いシンジと、人よりもかなり強いアスカ。
 この二人は自然にこういう動きになってしまうのだ。
 ガキ大将や野犬に相対する時、必ずアスカがシンジを庇ってしまう。
 ただし、シンジの名誉のために付け加えておこう。
 彼が闘争本能に目覚めるといささか怖い。
 小学校低学年までは「泣虫強虫」と呼ばれていた。
 アスカがピンチに陥った時には、わあわあ泣きながら前後不覚に敵に飛びついていくのだ。
 ガキ大将は逃げ出し、野犬も最終的には遁走してしまう。
 何しろ危険なのだ。叩かれたり、噛まれても一切退かないのだから。
 アスカや親たちがどれだけ狂犬病のことを心配したことか。
 だが、今回の敵(アスカにとって)は、美人の女性。
 アスカの背後でシンジは暢気に誰だっけと考えている。

「やっぱり覚えてないか。ま、仕方ないわね。何回かしか会ってないし」

 ジーパンにカッターシャツの女性はにっこり微笑んだ。
 どこかで見たような気がしてならない。
 そんな二人の背中を押すようにして、娘は道を急がせた。
 早く行かないと診療時間始まっちゃうから、と。



「お久しぶりです!洞木コダマです!」

 ゲンドウとユイの前で深々と頭を下げる彼女の名乗りを聞いて、アスカとシンジはあっと顔を見合わせた。
 あの六軒長屋の洞木家の長女。
 
「ああ、あなたね、すっかり美人になっちゃって」

 うむと頷いたゲンドウは後でユイにねちねちと責められた。
 やっぱり若い子の方がいいのね、鼻の下伸ばしちゃって、エトセトラエトセトラ。

「ありがとうございます。実は私、本日は就職のお願いに来ました!」

 高校卒業後看護学校に入学し来年春が卒業予定のコダマは、あの時の誓いを成就すべく、
 念願の惣流医院での看護婦の仕事を求めにやってきたのだ。

「いいって仰っていただくまで、私ここを動きません!」

 と頭をもう一度下げた場所は診察室の真ん中。
 しかももう患者たちは待合室を埋め始めている。

「あなた…この時間を選んできたわね」

「ごめんなさい!絶対に断られないようにと思って。妹にはあきれられましたけど」

「あ、妹さんはどう?元気?」

「はい!お蔭様で。すっかりよくなって、走り回ってます!」



 もともと断る理由はなかった。
 ゲンドウともそろそろ若手の看護婦が必要だと話していたのだ。
 コダマは上機嫌で帰っていった。

「ふぅ…なんだか緊張するわね」

「アスカでも緊張することがあるんだ」

「こら、馬鹿シンジ!だって、何年ぶり?あの時にちょっとだけ話した相手なんだもん。どうやって喋ればいいか不安よ」

 アスカはもう一度すぅっと深呼吸して黒電話のダイヤルを回した。
 そのダイヤルはコダマが残していった自宅の番号。
 久しぶりに話がしたいと思ったのもある上に、コダマから聞いたヒカリの進学希望先がアスカたちと同じだったのだ。
 その高校は隣の市にある公立の進学校。
 二人は医大志望なのでその学校を目指していたのだ。

「もしもし、あの、私、惣流と申しますが…」

 緊張していたアスカの顔が崩れた。

「あ、なんだ。コダマさんか。ふぅ…緊張して損した」

 その表情の変化に笑い出したシンジをアスカは横目で睨みつける。

「はい。お願いします。………あ、もしもし、私、アスカ。覚えてる?」



 電話が終わったアスカはすこぶる上機嫌だった。
 何しろ3時間である。
 シンジは15分間は我慢した。が、それが限界。
 アスカは途中でクリスティーネとユイに何度も頭を小突かれたが、その度に舌を出してもう少しとねだるのだ。
 最初はなかなかスムーズに会話できなかったが、それぞれの学校の話をしたりしているうちに打ち解けてきた。
 それにアスカがシンジの自慢を何度もするものだから、ヒカリがいいわねぇと羨ましげに漏らした。
 その言葉の調子を気に留めたアスカがヒカリの口をこじ開けた。
 隣の家に住んでいる幼馴染の少年のことが好きなのだと。
 だが、顔を合わすと喧嘩ばかりしていると悩みを打ち明けさせたのだ。
 そこでアスカはダブルデートを提案した。
 ヒカリに有無を言わせず2日後の日曜日に遊園地に行くことを決めた。
 彼がどういうかと不安げなヒカリにアスカはアドバイスする。
 どうしても男子同伴になる。もし一緒に来てくれないと恥をかいてしまう、と言えばいい。
 聞いてる範囲じゃアンタに気があるのは確かだから、絶対に大丈夫。
 あ、変に他の男子の名前を持ち出さないほうがいいわよ。
 男って馬鹿だから気を回しすぎてピエロを気取られてしまったら笑い事ですまないからね!
 アスカの愛読書はやはりミステリー。惣流家の蔵書は次から次へと読破している上に、今は横溝正史が大ブーム。
 角川文庫の新刊が出るたびに即行で購入しているアスカである。
 推理力と対応力には自信を持っていた。

「ええっ、じゃ、映画は中止?『八つ墓村』あんなに楽しみにしてたじゃないか」

「延期よ延期。止めるとは言ってないでしょ。
 それに明日初日なんだしさ、これだけブームなんだから一週間で終わるわけないじゃない」

「う〜ん、仕方がないか。ダブルデートで『祟りじゃぁ〜』なんておかしいもんね」

「そりゃあそうよ。さぁて、となれば軍資金集めね。遊園地なんか計画に入ってないから、何とかしないと」

「えっと、じゃ僕はくりさんだよね」

「そうそう、お母さんに見つかるんじゃないわよ。グランマには律儀に頼めば大丈夫だから。
 問題はお父さんからどうやってお母さんを引っぺがすかよね。まさかトイレやお風呂に飛び込んでいくわけにいかないし」

「そんなのダメだよ!それは僕が何とかするよ。うまく母さんを呼び出すから」

「OK!ま、一分あれば余裕よ、余裕」

 アスカが腰に手をやって豪語した。
 確かにゲンドウはアスカに甘い。

 軍資金強奪計画は見事に成功した。
 ただし、2日後のダブルデートは、おまけがついた。
 アスカとシンジの間にはレイが嬉しそうな表情を浮かべていたのだ。
 密謀を聴かれてしまっていたのである。もっとも隣の部屋にいればアスカの声は筒抜けなのだが。
 口止め料として遊園地についてきたレイはご満悦。
 アスカとシンジも瘤付きデートでも文句はさほどない。
 何しろレイは可愛い妹なのだから。
 それに、ヒカリと幼馴染で意中の少年・トウジとの仲もアスカが見たところ「全然OK!」であった。
 筋書き通り途中ではぐれて二人きりにさせて、オバケ屋敷で手も繋がせることに成功した。
 その夜のヒカリからの電話は感謝と経過報告でまた3時間を越えてしまったのだが。

 シンジは思った。
 これまでアスカには友達はいても親友と呼べる女の子がいなかった。
 どうもあの洞木さんはアスカの親友になってくれそうだ。
 あのボーイフレンドの鈴原君も悪いやつじゃなさそうだし。
 なんだか彼といい友達になれそうな気がする。
 アスカの長電話を微かに聞きながらシンジはそんなことを考えていた。
 そのためにはみんな揃ってあそこに入らないと。
 そう言えば鈴原君は毎晩洞木さんに家庭教師されてるってこぼしてたなぁ。
 でも、不平そうに言ってたけど、嬉しそうだった。
 きっと彼も洞木さんと同じ高校に入りたいんだ。
 よし、僕もがんばろう。
 そう思い、シンジは単行本を閉じた。
 書名は『花神』。その年の大河ドラマの原作だった。
 主人公が無愛想な医者というのがシンジのツボだった。
 誰を連想したかは書かずともわかるはず。

 5ヵ月後、彼ら4人は揃って志望高校に合格した。

 


 










「この中に、●●新聞の人はいますか?」

 彼女の第一声はそれだった。
 大学の講義室に設けられた記者会見の場。
 ●●新聞といえば日本でも有数の大新聞。
 世界的な新薬を生み出した才媛の記者会見にいないほうがおかしい。
 何かいい話でもあるのかと、その記者がにこやかに手を上げた。
 彼女は目を細めると、いとも素っ気無く言った。

「ではこの部屋から出て行ってください。●●新聞には記事にしていただきたくありませんから」

 どよめく場内。フラッシュが続けざまに焚かれ、リツコの白い肌が浮かび上がる。

「な、何故だ。いや、何故ですか。どうしてうちが」

「だって、嘘を書かれるのは嫌ですから」

 記者は激怒した。当然、そうだろう。
 そして、その理由を尋ねる。
 記者会見は波乱の幕開けとなった。
 大学関係者は青ざめ、他の記者たちはこれはいいネタが拾えそうだとほくそ笑む。
 リツコのシナリオ通りにその場は展開していった。

 ところが、少しだけシナリオは狂った。
 別の新聞社の記者が、リツコに反論したのだ。
 それは理屈に合わないと。
 理由はわからないが、一方的に自分の主張を押し付けるのは良くない。
 それにたとえ●●新聞側に非があるとしても、それならそれで記者会見までに対処しておくべきではないかと。
 リツコは眉を顰め、そして冷ややかに訊ねた。

「あなたはどこの方?」

「毎朝新聞の日向です」

「わかりました、では先に説明しましょう」

 彼女が語った母親の死にまつわる憶測記事についての話は記者たちの興味をそそった。
 社会部の記者ではないが、みなやはり新聞記者なのだ。
 記事になりそうなネタにはそそられる。
 いい加減な記事の結果医者が医院を閉じその街を去った。
 そしてその医師は私財を名を隠して自分の育英費に回るように手配した。
 その2年後に立ち直った彼はある町でまた医者を始めている。
 美談だ。どこを料理しても格好の記事になる。
 リツコが淡々と喋るだけに話はリアルさが増すばかり。
 結局、本人とは何の関係もない●●新聞の記者が独自の判断で社を代表して陳謝し、そのことは調査させると頭を下げた。
 そうせざるを得なかっただろう。
 もしここでそうしなければ、間違いなく自分の新聞がマスコミから袋叩きにあう。
 リツコは『無様ね』と言いたい所だったが、ここは堪えて無理に微笑んだ。
 そのぎこちなさがさらに彼女の無念さを示すものだと過剰演出されたのはご愛嬌。

 結局肝心の新薬の会見よりもそちらの方が目立ってしまった。
 それはリツコの期待通りの結果だったのだが。
 これで少しでも恩返しができたか、と。
 日本人は美談が好きだから。
 あの先生どんな顔してインタビューを受けるんだろう。
 ユイさんがいらっしゃるからうまくフォローしてくれるはず。
 それにキョウコさんのお母さんが美談の上塗りをきっとしてくれる。
 この人がいなかったら私は死んでいたとか。
 そんなことを思っていたリツコに質問が飛んだ。

「すみません、あの…これは新薬とは関係のない質問なんですが…」

 質問をしたのは先ほどリツコが感心した日向記者だった。

「はい、なんでしょう?」

「その胸ポケットについているものなんですけど…。それはもしかして…」

「あら、これ?」

 リツコは大事そうにその宝物を触った。
 胸に輝くマークは流星。

「私の宝物」

 そのリツコの微笑みはその日の会見の中で一番美しかった。
 日向記者はそう思った。



「ああっ、ほら見て見て!」

 自分のことが書かれた記事にゲンドウは恥ずかしがってすでに診察室へ逃走していた。
 居間で広げた記事を読んでいたアスカがリツコの写真を指差したのだ。

「え、何?何か写ってるの?」

「ほらほら、3個目はリツコさんが持っていたんだ」

「あっ、本当だ…。へぇ、なんだか嬉しいね」

「うん、そうね」

 自分たちの流星バッジはそれぞれの机の上に飾ってある。
 あの時の二人の出会いを記念して。

「ほら、早く行かないと遅刻するわよ!はいお弁当!」

「アリガト!あ、シンジ、駅で新聞買おうよ。もっと色々書いてるかも」

「うん!じゃ、急がないと!」

「こらっ、そんな野次馬根性丸出しで!」

 ユイは二人の首根っこを抱えながら注意する。そしてこう付け加えた。

「ちゃんと持って帰ってくるのよ。私も読みたいからね」

「はぁい!いってきます!」

 シンジが慌てて弁当箱を鞄に入れてアスカの背中を追う。
 その孫たちを見送って、クリスティーネが日本茶を啜った。

「今日は大変な一日になりそうだね。きっと記者とかが来るよ」

「そうでしょうか?」

「ああ、間違いないね。こりゃあ、うまく使えば…」

「また、くりさんはよからぬことを」

「ふん、どこがよからぬことかい。あの子達のためにもこの病院を大きくしてあげようってんだよ」

「あらあら、また大層なことを」

「それよりいいのかい。また寝坊してるよ」

「あ、いけない!レイの馬鹿!」

 診療所の隣に改築された碇家。
 クリスティーネもこちらの家で寝起きしている。
 心臓に負担がかからないように一階に部屋を割り当てられて、
 「私は高いところが好きなんだよ」と不満は言っていたが、その後心臓の発作は一度もない。
 7時前に家を出ないといけないアスカとシンジと違い、中学一年生のレイには余裕がある。
 余裕があるから寝坊の癖ができたのか、深夜放送のせいか、おそらく両方が原因なのだが。

 クリスティーネの予報通りに新聞記者が次々と惣流医院を来訪した。
 恥ずかしがり屋のゲンドウは診療中だと逃げ、そして午前の診療が終わると往診だと黒い鞄を抱えてさっさと逃げ出してしまった。
 それもまた誤解され、毅然とした態度の立派な医者だという記事のもとになったのだ。
 ●●新聞からは局長自ら頭を下げにきて、あの記者は退職しているので懲罰できずに申し訳ないと繰り返し詫びた。
 それに対してユイが「今が幸せですから、かえってあれで良かったのかもしれませんよ」と微笑んだものだから
 彼らはさらに恐縮してしまった。
 また、クリスティーネはゲンドウ復活のいきさつを面白おかしく語り、
 看護婦のコダマも妹の病気を見つけてくれた大恩人で父親の就職の世話もしてくれたと思い切り持ち上げた。
 
「ユイさん、照れくさそうですね」

「本当。なんだか恥ずかしいわ。私も逃げ出したいくらい」

「先生はどこかしら。まさか白衣を着てパチンコ屋じゃないでしょう?」

「それはいくらなんでも…。まあ、川っぺリじゃないかしら?ぼけっと川面でも眺めてるんでしょう」

 マヤは夫のことを何でも見抜いているユイに感服していた。
 彼女はこの春に12年来のプロポーズをようやく受けたばかり。
 結婚式を来月に控えている。
 ミュージシャンの夢破れ、東京から帰ってきた青葉シゲルは、今伊吹湯の見習いとして汗を流している。
 結婚の条件は、@婿養子になること(一人娘だから)
 A共働きを続けること(惣流医院の事務仕事が好きだから)
 B番台でギターは弾かないこと(客足が悪くなるから)
 C一日一曲はマヤのためにビートルズを弾くこと(ラブソング希望)
 D昔の女のことはすべて忘れる(東京での過去の火遊びは寛大にも許してあげる) だそうだ。
 もっとも、5番目の項目はシゲルは忘れてもマヤは一生忘れなかったが。
 自分でも意外だった。こんなに妬くほどこの人のことが好きなんだったっけ、と。
 中学の時からつきあってくれとシゲルに言われ続けてきた。
 東京の大学に行ってそのまま中退しアルバイトをしながらミュージシャンになろうとした頃からだろうか。
 たまに帰ってきた時ごとにプロポーズする彼のことが気になりだしたのは。
 それは多分、惣流医院に就職してユイとゲンドウの夫婦を見てきたためかもしれない。
 夫婦っていいなと、憧れを持ったため。
 何度自費出版しても殆どレコードが売れず、ついに一人寂しく故郷に帰ってきたシゲルの姿が胸を打ったのは確かだ。
 ともあれ、マヤはユイのようになりたかった。
 あんな妻に。なかなかなれないとは思うけど。
 だからこそ、マヤは惣流医院を離れられなかったのかもしれない。

 クリスティーネの目論みは成功した。
 惣流医院の評判はぐんぐん上がり、患者の数も増えた。
 その上、マヤとのつながりでシゲルの父・ゴウゾウを説き伏せることに成功し、
 マンションを建設しようとしていた場所を病院の用地に切り替えさせた。
 それはシンジたちが住んでいたアパートや六軒長屋の界隈である。
 老朽化していた六軒長屋は取り壊している途中だったし、アパートの住人も近くの第二青葉マンションに移っていた。
 まあ、うちのろくでなしを貰ってくれたマヤさんへの結婚祝いじゃと最後はゴウゾウは豪快に笑ったものだ。



 翌年、昭和55年2月。
 惣流医院は鉄筋コンクリート5階建ての病院となった。
 碇ゲンドウが院長となり、医師や看護婦の数も増え、入院設備も整った。
 その新しい建物の前に、かつての惣流医院と碇家の住居はそのまま残されている。
 その二つの建物は今は増設した短い渡り廊下で繋がれた。
 そして、アスカとシンジはあの物干し台に上がって、新築の惣流医院を見上げた。

「なんだか、圧倒されるね」

「何言ってんのよ。ヤル気を出さなきゃダメじゃない。あそこのお医者様にならないといけないんだから」

「そうだね。浪人しないようにがんばらなきゃ」

「こら、馬鹿シンジ。また弱気なんだからっ。前を向け、前をっ!」

 そうシンジにはっぱをかけながら、実はアスカは一抹の寂しさを覚えていたのだ。
 シンジが住んでいたアパートがなくなってしまったことを。
 すでに別の人間が生活していたのだが、あの数日のことは忘れることなどできない。
 あそこはアスカにとっての聖地だったわけだ。
 だけど、まだここがある。
 この物干し台があるんだ。
 アスカは手摺を握ってぴょんとジャンプしてみた。
 ぎしぎしっ。
 幼児の頃とは違い、物干し台が悲鳴を上げる。

「まっ、失礼ねっ!」

「ん?何が?」

 小さな声で抗議したアスカにシンジが尋ねる。

「なんでもないわよ。なんでも…」






























 そして、さらに月日が流れた。


















「あ、あのね…」

「ん、何かな?」

「あのね、あれ…」

「えっ!こ、これ?これ、欲しいの?」

「うん」

「こ、こ、困ったなぁ…」

 3歳くらいの子供が指差しているのは、机の上の棚に飾ってあるウルトラマンの人形。
 世間ではガシャポンと呼ばれているフィギュアだ。
 銀縁メガネの優しげな顔の医師は頬を爪で掻いた。

「すみません、先生。こら、ケイタ」

「仕方ないわよねぇ、こんなところに飾ってあるんだもの。ね、僕」

 白いカーテンを捲り上げて、金髪に白衣の女性が顔を覗かせた。

「はい、これをあげるから。こっちの人形はごめんね」

「あっ、コスモスだっ!やったぁ!」

「まあ、女先生。ごめんなさい」

「いいんですよ」

「ありがとう!」

 顔をほころばせて母親と出て行く子供に手を振って見送る二人の医師。

「今のが最後の患者さん?」

「あ、ああ、そうだよ」

 その返事を聞いた途端、金髪女性の表情が変わった。

「こら、馬鹿シンジっ」

「はいっ」

 40を過ぎてもこの二人の力関係は変わっていない。
 心なしかシンジの背中がぴっと伸びたような気もする。

「アンタね、あれほど言ったじゃないの。このガシャはこっちに飾っちゃいけないって。
 家の方に飾っておきなさいって、口を酸っぱくして説教してあげたでしょうが」

「で、でも、どうせならAタイプの方がいいじゃないか。アスカもそう思うだろ」

「そりゃあウルトラマンはAタイプが…って、話をはぐらかすんじゃないわよ!」

「それにアスカだって自分の机にバルタンとかカネゴンとか飾ってるじゃないか」

「私はいいの。いつ子供におねだりされても代替品を用意してるんだもの」

「酷いよなぁ。ダブったの全部自分で持っていくんだもん」

「何言ってんのよ、アンタにもわけてあげたでしょうが」

「ブルトンばっかり8個もね。あんなのあっても仕方ないじゃないか」

「何よ、アレは掌の中でぐにぐに動かしたら血行にいいじゃない。喜ばれるわよ」

「子供が血行にいいって喜ぶわけないだろ」

「他にもまわしてあげたでしょ。ダブったの」

「ヤメタランスとかモチロンとかブニョとかをね。自分はミクラスとかタッコングとかしっかり抱えてるくせに」

「まっ!人聞きの悪い!だいたいアンタが悪いんでしょうが。同じモノ何度も出して!」

「し、仕方ないだろ。運の問題だよ」

「次回は私が回す番ですからね!1200円で全部揃えてやる!」

「あ、バルタンはダブってもいいよ。僕が…」

「うっさい!夫婦なんですからね、財産は共有すればいいじゃない!」

「自分は私物化してるのもある癖に…」

「何か言った?」

 アスカが腰に手をやってイスに座ったままのシンジを見下ろした。
 
「だいたいねぇ…」

「惣流先生!」

「はい!」「何?」

 二人の声が重なる。
 声をかけた看護師が吹き出した。

「女性の方の惣流先生です。お電話、そちらにまわしますね」

「アリガト、お願い」

 そう笑顔で返したあと、「ふん!」と顎を突き出して受話器をとる。

「もしもし?あ、ムサシ君?あ、入荷したの?わかったわ、すぐ行くからよろしくねっ」

 受話器を置いたアスカはニヤリとシンジに笑いかけた。

「シンジ、入荷したって。さ、行くわよ!」

 肩で風を切るようにしてアスカが出て行く。

「あ、こら、アスカ。白衣で行くのか?もう!」

 脱いだ白衣をちゃんと畳み、シンジがアスカの後を追う。
 そんなふたりを見送って、さっきの看護師がぷっと吹き出した。

「これ。霧島さん?」

「ごめんなさい、でもまるで子供みたいだから。二人とも」

「いいじゃない。仲がよくて」

「それはそうですけど…婦長?」

「何?」

「本当に二人とも40過ぎてるんですか?」

 まだおかしそうに新人看護師が笑う。

「そうよ。妹と同い年だから、もう42になるわね、二人とも」

 コダマは表情を崩した。
 とてもそうは見えないわね、あの二人は。
 どう見ても30代半ば。羨ましい!





「こんちは!女先生!」

「どうもっ!」

「えらくお急ぎだねぇ」

 つかつかと歩くアスカに商店街の店主たちや通行人が声をかける。
 金髪で白衣なだけに目立つ目立つ。
 声をかけた一人一人にアスカはにこやかに笑って、それでも肩で風を切って歩いていく。

「これ、アスカ?」

 その落ち着いた声に、アスカは急停止。
 加持鮮魚店の前にいたユイが呼び止めたのだ。

「何?お母さん」

「白衣で歩くんじゃありませんよ。それに何ですか、そんなに急いで」

「あ、ちょっとねっ!」

 えへへと笑ってアスカはまた足を進める。
 その後を走ってくるシンジをユイは呼び止めなかった。

「あれ?ユイさん、息子さんは呼び止めないの?」

「ふふ、いいのよ。あの子はアスカしか目に入らない子だから」

「へぇ、いいね。一途でさ。ね、今度息子さんの爪の垢持ってきてくださいよ」

「どうするんだい?」

「決まってるじゃない。うちのろくでなしに煎じて飲ませるのさ。
 営業営業って、また女の尻追っかけてるんだ。店ほったらかして」

 ユイは微笑んだ。
 その背筋は曲がってもおらず、碇家と惣流家の家事は一手に引き受けている。
 さすがにクリスティーネも86歳。彼女に家事をさせておくわけにはいかない。
 医院の方は伊吹マヤ事務長がそつなくこなしているので、安心して任せていた。
 
「違うんじゃないの。ミサトさんがしっかりしてるからお店の方は安心して任せているとか」

「あはは!」

 ミサトは豪快に笑った。
 先代のおかみさんよりも女丈夫である。
 ただ、最近はバストサイズを維持しているのはいいのだが、ウエストが拙い状態になりつつあるらしい。
 ビールの量を控えるべきかと真剣に悩んでいる加持鮮魚店二代目おかみだった。

「今日は秋刀魚をいただこうかしら。11尾ね」

「あいよっ!毎度っ」





「こんにちは…」

 玄関から顔を覗かすと、奥から可愛らしい足音が二人分聞こえてきた。

「おばあちゃん!」「ば〜ば」

 レイのところは子供がなかなかできなかった。
 碇家の跡継ぎということにはこだわっていなかったが、やはり子供は欲しい。
 そうこうしているうちに、なんかの拍子であっさりとレイは妊娠した。
 それが彼女の32歳の時。
 待望の第一子は活発な女の子。
 そして、1年おいて第二子を妊娠。
 今度は愛想のいい男の子だった。
 口の悪いアスカなどは「何か詰まっていたのではないか」と続けざまの出産をからかったものである。

「ああ、こんにちは。ユウコにアキラ」

 よっこらしょと靴を脱ぎ、まとわりつく二人の孫の頭を撫でながらユイはリビングへ向う。
 扉を開けると、レイはソファーでくつろいでいた。

「あら、いらっしゃい」

「いらっしゃいもないものよ。今日は秋刀魚ね。塩焼きでいいかしら?」

「うん、お任せ」

「はぁ…これだ」

「ごめんね、今度は少し早くなりそう」

 レイはにっこり微笑むと、はちきれそうなお腹をさすった。
 予定日まであと二週間あるが、どうやら早めに出てきそうな気配である。

「あなた、これで終わりでしょうね。調子に乗ってぽんぽん産むんじゃありませんよ」

「う〜ん、神様の思し召しかな?」

「まったく、もう…」

 あきれながらもユイは第二碇家の晩御飯の用意をする。
 第二といっても第一碇家との距離はおよそ5mほど。
 前に貸し本屋をしていた場所を買い取って住居に改築したのだ。
 そこに住んだのが、碇家長女のレイとその夫で婿養子のカール。
 10年ほどの間は二人には広い家だったが、今は遊びまわる子供たちのおかげで広さを感じなくなった。
 
「兄貴たち元気?」

 レイに言葉をかけられ、隣の台所の母親の声だけが返ってくる。

「ああ、いつもと同じ。さっきもすたこら歩いてくアスカを追っかけてシンジが走って行ったよ」

「くすくす。相変わらずね」

「カオル君は?」

「もう、お母さんったら!うちの亭主の名前はカールです」

「あら、あなたが言ったのよ、カオルって。覚えてないの?」

「覚えてるわ。でも、カールなの。お母さん、しつこい」

「それじゃ、生まれてくる子供に付けたらどう?カオルなら男でも女でも大丈夫よ」

「……」

「どうしたの、レイ?」

 黙りこんだ娘に母親は台所から顔を覗かせた。

「カールと同じことを言うのね。お母さん」

「あら、カオル君じゃなかったカール君もそんなことを?」

 レイは膨れっ面で母親を睨みつけた。

「お母さんがいけないの。あのことを何度も言うから。それでカールまで」

「あらら、そうだったの?」

 それだけ言うと、ユイは台所に引っ込んだ。
 彼女が不機嫌になるとなかなか復旧しないことをよく知っているから。
 ただし、今はレイに見事に担がれていた。
 ユイの顔が引っ込むと、レイはにっこり微笑むと優しくお腹を撫でた。
 元気で出てらっしゃいね、カヲルちゃん。





「おおきに!助かったで、カール」

「いえいえ、どういたしまして。あのゼーレの担当者はバイエリッシュが強すぎます」

「何や、それ?」

「ミュンヘンの方の方言ですよ。関西弁みたいなものです」

「アホ言え、関西弁は方言やあらへんで。ホンマに」

 営業第一課長の鈴原トウジが凄んでみせるが、付き合いの長いカールはあっさり受け流す。

「課長は面白いですね。英語とドイツ語を喋るのに、日本語は標準語がダメなんですから」

「そんなんかまへんやないか。これで通じるんやさかい」

「奥さんも綺麗な標準語ですし」

「へっ、綺麗なのは言葉だけやあらへんで」

「はい、そこまで。奥さん自慢はもうお腹いっぱいです。なんならうちの素敵なレイのお話でも?」

「あちゃあ、そいつは勘弁してくれや。カールの惚気もきっついさかいにな」

 トウジは手を振ると、自分のデスクに戻って行った。
 そんなトウジの後姿を見送って、カールは微笑んだ。
 そして、いけないいけないと慌てて自分の部署に戻る。
 来週あたりに産まれそうだとレイが言っていたのだ。
 仕事は前倒しに片付けておかないと。





「ああ、わしや。どないや、ノゾミちゃんとこは。引越し終わったんかいな?」

「ええ、まだお部屋は片付いてないけど、家具は納まったわ」

「さよか。手伝いに行かれへんで悪かったなぁってよう言うといてや。旦那さんにもな」

「お仕事ですもの。仕方ないじゃない。あなたの代わりに私ががんばったから大丈夫よ」

「すまんなぁ」

「いえいえ、その代わり出されたお寿司は私が一人でいただきますから」

 電話の向こうでくすくす笑うヒカリ。

「おっ!持ち帰りはあらへんのか?」

「意地汚いわね。まあ、帰りに駅前寿司買って帰っておくわ。来週になったらしばらく日本料理食べられないものね」

「は?何や、それ。どういうこっちゃ?」

 愛妻に携帯電話を入れながらメールチェックをしていたトウジは首を捻った。

「あら、お父さんが言ってたわよ。来週はあなたがドイツに出張するって」

「おいおい、わしまだ聞いてへんで。あのクソ部長、わしより先に娘に漏らすか、ホンマに」

 本来ならカールの仕事だが、あそこはもうすぐ子供が産まれる。
 まあ仕方あらへんな…と、トウジは思った。
 ヒカリの方は父親への悪罵は聞き流すことにした。
 真剣に悪口を言っているのかと少女の時はトウジのことが大嫌いだった。
 だが、そのうちに関西弁への慣れと彼の照れに気付いてしまうと、そこから好意へと向うのは簡単だったのだ。
 引っ越してきてよかった、本当に。ヒカリはいつもそう思っていた。

「だれか偉い人の道案内らしいわよ。大丈夫?」

「偉い人か…。苦手やな、そんなん」
 




「あなたぐらい語学に堪能なら道案内は不要なのではないのですか?」

「私、興味のないことは覚える気がないんです」

 冬月会長はこの女性ならそうだろうなと思った。
 世界的に有名な薬学博士。
 ユイの親戚だからと今回のプロジェクトに参加してくれたのだ。
 まあこの女性なら、あの海千山千のキール会長と互角に張り合えるだろう。
 その光景を見てみたいものだと、冬月はほくそ笑んだ。
 
「そういう事は主人が面倒を見てくれましたから」

 そういう普通なら言葉にできないようなことでも平然と喋る。
 それが恥ずかしいことと思わないから。
 自分に足りないところを補ってくれる人。
 リツコの辞書には一目惚れという単語が存在しなかったために、夫のことはそのように理解してきた。
 妻は研究所にでずっぱり。夫は新聞社に出ずっぱり。
 すれ違い夫婦なのに、離婚話など一度も出たことがない。
 生まれた三人の子供もそれぞれ自分の進みたい道を自分で見つけ突き進んでいるようだ。
 ただ、周りから見ただけではわからないところで、みんなが結びついているのだろう。
 ここも一風変わった夫婦だな。
 自分の姪夫婦のことを思い出しながら、冬月はなぜか楽しかった。

「今日は東京に帰られるのですか?」

「いいえ。貴方の姪御さんに会ってからにしますわ」

「では、連絡しておきましょう。今からではユイのところには夜になってしまいますからね」

「あら、大丈夫ですわ。仕事柄、診察室のベッドでもゆっくり眠れますから」

 やはり観点が違う。研究者という人種はわからん。
 リツコを見送ってから、冬月はユイに連絡を取った。





「わかりました。ユイさんに伝えておきます」

 マヤは受話器を置いた。
 ネルフの冬月会長って90越えてるわよね、それで現役で働いてるんだから凄いわ。
 少しボケ気味の舅と比べて、マヤは軽く首を左右に振った。
 それでも、冬月はいつまでたってもこの事務室に電話をかけてくる。
 ユイはいるかと。
 マヤがユイから事務長職をバトンタッチされてもう3年経つのだが。
 やはり人間歳を取ると頑固というかやり方を変えられないものなのかとふと思う。
 
 第一碇家に連絡しても誰も出ない。
 惣流家も同様。
 アスカとシンジは現在診察時間。
 ゲンドウも院長室。
 ユイは第二碇家で食事の準備だろう。
 おそらく惣流家の子供たちはまだ部活動なのだろう。
 残るはクリスティーネだが、花壇の手入れか散歩か。
 仕方がない。マヤは第二碇家の短縮ボタンを押した。

「もしもし、あ、ユイさん?マヤです。あの…日向リツコ博士がおいでになるそうです」

 電話の向こうでユイは慌てている。
 秋刀魚は人数分しかないのだ。

「あの、お寿司かなにか手配しましょうか?」

 それはダメだと、ユイは断言した。
 家庭料理を食べさせてあげないと。
 あの人、インスタントの女王なんだからと、ユイはマヤにあることを頼んだ。
 了解したと伝えて、マヤは別の短縮ボタンを押す。

「もしもし、私。はいはい、私も愛してます。もうそっちにシンイチ君行った?」

 まだだと相手の返事。
 では、来たらこれこれのことを頼むってお祖母様が仰ってたと伝えてくれと頼む。
 
「あ、そうそう。今日は『And I Love Her』にしてね。そんな気分だから」

 電話を切った後、マヤはにっこり笑ってイスに深く腰掛けた。
 もうテンポの速い曲は指が苦しくなってきたから、ラブソングばっかりでいいわ。
 もともと甘い曲のほうが好きだし。
 さてさて、あの子の方はどうなんだろう?
 マヤは机の上に飾っている写真を見つめた。
 伊吹湯前で一家全員集合している写真。
 祖父。祖母。シゲルにマヤ。そして、ギターを抱えたロン毛の長男に、兄貴なんか嫌いって感じで膨れっ面の長女。
 長男が帰省してきた時に撮影した写真だ。
 あの子は父親を越えられるのかな?
 父親と違って作曲できるから、いい線行くかも…って、親馬鹿だ、私。
 とにかく精一杯がんばってみ。そう思いながら、マヤは写真の長男の顔を指で突付いた。





「おうっ!来たな、若旦那」

「こんちは」

「ありがたいねぇ、家に風呂があるのに、うちに寄っていってくれるのはさ」

「あ、う、うん。大きいお風呂って気持ちいいからね」

 この大嘘吐き野郎が。
 シゲルは心の中で悪態を吐いた。
 わかってるんだぞ、お前の魂胆は。
 お前は俺の可愛い可愛い娘を狙ってるんだ。
 くそぉ、背が高くて、頭が良くて、スポーツもできて、顔だって…俺には負けるがハンサムだ。
 髪の毛の色が染めてないのに金髪というのも癪に障る。
 瞳だって蒼い。黙っていれば立派な外国人だ。
 文句のつけようがないほど完璧な●●中学生徒会長に、シゲルは営業笑いを浮かべた。

「家から伝言だぜ。帰りに加持さんとこに寄って秋刀魚を一尾買って来いってさ」

「ええっ。面倒くさいなぁ…」

「そんな口聞いたらあのお母さんに頭小突かれるぞ」

「うちのお袋様は小突くんじゃなくて、殴ってるんです。手加減ないんだから」

「ははは、それで剣道することにしたのかい?防具で頭を護るためによ」

「そうかも。でも竹刀で向っていっても負けそうです。お袋様には」

「へへ、だろうな。じゃ、忘れるなよ。風呂でのぼせてしまって」

「あはは、まさか」

 シンイチは脱衣籠の方へ歩いていった。
 番台の上に座るシゲルはしかめっ面で彼が裸になる姿を眺めていた。
 しかしまあいい男だねぇ。そりゃああんなのが同じクラスにいたら惚れてしまうのは当たり前…。
 ええぃ、くそっ!
 ダメだダメだ、うちのサツキにゃまだまだ男はいらねっ。
 けっこう年を取ってからできた二番目の子供で、しかも女の子だけにシゲルはサツキにべったりだ。

「ちょっと、お父ちゃん!」

「わっ!」

 番台というのはけっこうバランス感覚が必要だ。
 女湯側から当の愛娘に声をかけられ、シゲルは危うく男湯側によろっとなる。

「こらっ、驚かすな!」

「何度も呼んでるわよ。それより何?男湯に指名手配犯人でも来たの?すっごい目で睨んじゃって」

「ふん、惣流医院の跡取り息子が来ただけだ」

 ちらっと顔を覗かせようとした伊吹サツキは父親の言葉に顔を真っ赤にして飛び退った。

「うへっ!惣流君が!」

 親というものは子供の恋心には敏感なのが普通である。
 何しろ自分も思春期を過ごしてきたのだから。
 それにシゲルは12年間、マヤを想い続けてきたのだ。
 ただその割には東京で数人の女と付き合っていたのがマイナス点。
 しかもそのことをマヤのみならず、義父義母、その上二人の子供にまで知られている。
 夫婦喧嘩のたびにマヤがそれを持ち出すからだ。
 確かにそれを言われると二の句が継げない。
 息子はともかく、目にいれても痛くない娘にそんな過去を知られているのはシゲルにとって痛恨だ。
 
「あ、あのさ、惣流君が出てきたらね、生徒会の連絡事項があるからって…」

「裸のまま呼ぶのか?」

「不潔っ!お父ちゃんのスケベっ!」

 くるっと背を向けてサツキはのしのしと長椅子に進み、どんと腰を下ろす。
 そして、父親の顔を睨みつけ、ぷいっと顔を逸らす。

 へっへっへ、マヤによく似てやがら。
 よく言われたよな、不潔ってさ。『プレイボーイ』とか『平凡パンチ』を学校に持っていって、
 わざとアイツに見られるようにしてたっけ。
 あれはあれで気を惹こうとしてたんだろうな、馬鹿なことしてたぜ。
 




「どうして伊吹君もついて来るんだ?」

「あ、ああ、あのね、文房具屋さんにちょっと」

「ちょっと、何?」

「え、えっと、消しゴム」

「消しゴムならそこのコンビニでも売ってるよ」

 言ってしまってから、シンイチはしまったと思った。
 せっかく伊吹さんと二人きりで歩いているのに!
 言ってしまってから、サツキはしまったと思った。
 消しゴムじゃなくてもっと違うものを言えばよかった!

「あ、そ、それと、0.3で4Hのシャー芯を!」

「あ、そ、そうなんだ。い、伊吹さんって僕と同じ芯使ってるんだ」

「あ、そ、そうなの?知らなかった。全然、知らなかったわ。あはは」

 知らないはずがない。
 サツキの決死の調査の結果、シンイチが使っているシャーペンを特定できたのだ。
 当然、恋する乙女としては同じシャーペンを探し回ったわけ。
 
「それじゃ、時田文具店に行かないとないよね。あそこでも時々品切れしてるから。
 あ、そ、そうだ。も、も、も、もし、なかったらさ、僕のわけてあげるよ。家に買い置きがあるから」

「ほ、本当?じ、じゃ、も、も、も、もし、なかったら、お願いしちゃおうかなぁ」

 夕焼けさん、ありがとう。
 これだけ赤かったら、顔の赤みはわからないよね。

 夕日の中のサツキの横顔をシンイチはとても綺麗だと思った。
 マヤさんの若いときの写真をおばあちゃんに見せてもらったけど、やっぱりお母さん似なんだなぁ。
 でも、僕には伊吹さんの方が綺麗に見える。
 ああ、ずっと見ていたい!でも、そんなところを見られたら嫌われてしまう。
 シンイチは涙を飲んで前を向いた。

 綺麗な横顔。
 お母さんが外国の血を引いてるからかな?
 あの眼の蒼さは吸い込まれそう…。
 ああ、いけない。こんなところを見られたら嫌われちゃう。
 サツキは涙を飲んで前を向いた。





「いいねぇ、あの風景」

「何がよ?」

「あれだよ、あれ」

 リョウジが店先を真っ直ぐに前を見つめながら歩いていく二人連れを顎でしゃくった。

「惣流医院の若大将と伊吹湯のマドンナだ。惚れあってるのに、気付いてない」

「ふふん、そうねぇ、周りから見てると一目瞭然なのにね、不思議なもんね」

「中学や高校の頃はあんなもんか」

「そうそう、私とアンタもそうだった」

「違うぜ。俺は別にお前のことは…」

「私、今、ちょうど包丁持ってるんだけど?」

「はぁ…またそれか」

 営業帰りのリョウジが店先でミサトといつもの調子で会話している。
 リョウジが大学に落ちたその日。
 その大学に自分は合格が決まっていたミサトが加持鮮魚店に飛び込んできた。
 「私、大学行かないから、加持も大学行かずに家の仕事をしなさい!」と脈絡のないことを叫び、
 こうなったら結婚しましょうとリョウジの部屋に立てこもったのだ。
 両方の両親の説得も功を奏さず、挙句の果てに刺身包丁を胸に押し当てお嫁さんにしないなら死んでやると。
 しからばと、今度は渋るリョウジを両方の両親が説得。
 頭を抱えたリョウジは結局頷くしかなかった。
 おまけに喜んだミサトが手にした包丁に力を入れてしまい、5mmほど自分の胸を刺してしまい、さらに大騒動。
 担ぎ込まれた惣流医院でゲンドウにこんなものは傷には入らんとぺたんとバンドエイドを貼られた。
 結局、その夜からミサトはずっと加持鮮魚店に居ついてしまった。そのまま押しかけ若妻となったわけである。
 ミサト曰く、アイツは浪人したらこれ幸いと女の尻を追っかけるに決まってるから…だそうだ。

 こうして二人がシンイチとサツキが店先を通っていくのを見送っているということは、
 シンイチは秋刀魚のことはすっかり忘れているということになる。





「わあ!綺麗っ!」

 相田写真館のウィンドウをサツキは食い入るように見つめた。
 大きく引き伸ばされた結婚写真。
 緊張している花婿の隣は幸せいっぱいの花嫁がにっこり笑っている。
 その金髪の花嫁の顔はシンイチが毎日見ている顔だ。もちろん花婿の方も。
 
「しっかし、お袋様はバケモンだよな」

 サツキの後ろでシンイチが呟いた。

「あら、どうして?こんなに綺麗なのに」

「これ、もう20年近く前の写真なんだ。親父はそれなりに年くってきてるけど、お袋様は凄いよ。上手に年取ってるっていうのか」

「へぇ…。じ、じゃ、惣流君はお母さんみたいなのが、た、タイプなんだ」

「えっ、た、タイプ?」

「うん、やっぱり外国の人みたいなのがいいのかなぁなんて」

 シンイチが背中の方にいることを幸いに、サツキは頬を赤らめながら訊ねた。
 サツキがウィンドウを見ていることを幸いに、シンイチは頬を赤らめながら答える。

「ぼ、僕は日本人の方が。髪も黒いのが好きだし。み、短い方が…」

 サツキは絶対に髪は伸ばさずに、そして染めまいと決めた。
 シンイチがサツキの髪を見つめながら答えていたことを知らずに。

 そのやりとりを前からウィンドウ越しにしっかり見ていた男がいた。
 晩御飯までの間、暇をもてあましていた写真館の主人、相田ケンスケである。
 ケンスケは小学校と中学校の間、二人とよく遊んでいた。
 その縁で二人の写真はけっこう撮影してきている。
 練習だからと、恥ずかしがるシンジを説き伏せてアスカと二人で写真のモデルにしたこともある。
 その時の写真はウィンドウではなく、カウンターの中の写真楯に飾られていた。
 中学の制服姿で直立不動のシンジの腕にアスカがしがみついている。
 この写真を見ると凄く心が和むのだ。

「さてさて、おっちゃんがお節介をやいてあげようかな…」

 ニヤリと笑うとケンスケはカウンターのイスから腰を上げた。





「そ、そんな、困ります!」

「そ、そうですよ!どうして僕たちがモデルに!」

「惣流に…あ、女の方だぜ。アイツに頼まれてたんだ。
 ドイツの母親に送るからお前さんを見つけたら撮っといてくれってな」

 大嘘だ。

「そ、それなら、どうして私が!」

「そうですよ」

「そりゃあな、ガールフレンドと一緒に写ってる方がドイツのおばあさんも喜ぶに決まってるじゃないか」

「が、が、が…」

「私、そんな…」

 違いますとは言いたくなかった。
 それにこれはチャンスだ。
 サツキはありったけの勇気を出した。

「わ、わかりました。じゃ、写ります!」

「い、いいの?」

「うん!」

 顔を真っ赤にして頷くサツキ。
 シンイチにも異存はなかった。当然であろう。
 大好きな女の子とツーショットで写真に撮られるのだから。





 その写真店の前をリツコが歩いてきた。
 そして、いつものように、アスカとシンジの結婚写真を眺める。
 彼女の視線は二人の胸元。
 あの、景品の流星バッジがついている。
 ふふふと笑うと、彼女はウィンドウから離れた。
 ふと空を見上げると、すでに夕日の残り香は消えようとしていた。
 私とマコトって…結婚写真撮ってたかしら?
 




 写真撮影で大胆になったサツキは、時田文具店にはなかったことにして、
 シンイチにシャー芯をわけてもらうことにした。
 そこで二人揃って惣流家の玄関に入ったのだが、即座にユイに叱られる羽目になる。
 秋刀魚を忘れていた。
 しかもお客様は既に到着していると。

「罰です。シンイチはカレーを食べなさい」

「あ、うん。いいよ。二日目だからかえって美味しいし」

「サツキちゃんも食べていく?シンイチと同じカレーになるけど。マヤ…お母さんには電話しておくから」
 
「いいんですか?カレー大好きです」

 伊吹サツキは幸せだった。
 今日は素晴らしい一日だ。
 昨日よりもシンイチの方に何歩か近づけたような気がする。





 午後8時30分。
 今日は珍しくアスカとシンジは夜勤ではない。
 もっとも何かあればすぐに呼び出される距離なのだが。
 二人は食事前にあの物干し台に上がっていた。
 
「あ〜あ、けっこうダブっちゃたなぁ」

「でも、よかったじゃないか。リツコさん、あんなに喜んで貰ってくれたんだし」

 シンジはリツコの様子を思い出して頬を緩めた。
 キングジョーとリツコはどこかよく似合っている。
 嬉しげにロボット怪獣を掌に置いたリツコはとても若々しげに見えた。

「結果じゃなくて経過なのよ!1200円で揃えるつもりだったのにぃ。悔しい!」

「医者は結果がすべてなんだろ?」

「ガシャと医者の仕事は別物っ!」

 すぐに熱くなる妻の膨れっ面にシンジはそっと口付けた。

「ば、ば、馬鹿っ!アンタ、何考えてんのよ!ここは病院から丸見えなのよ!ほらっ!」

 アスカが真っ赤になって指差した先には、本当に人がいた。
 窓のところに立っていた看護師が口を押さえているのが見える。

「はは、あれは霧島さんだっけ?」

「アンタって昔っから変なところで大胆なのよね。こらっ、見世物じゃないわよ、あっち行けっ」

 犬でも追い払うようなアスカのジェスチャーに霧島看護師は慌てて一礼して窓から消えた。

「まったく、もう」

「はは、たまたま居合わせただけだよ。そんなに…」

「馬鹿シンジ。アンタに怒ってるんじゃない」

「あ、そうなんだ」

 アスカはくぅっと手を空に伸ばした。
 背筋をぐっと伸ばす。

「くううううぅっ、お腹空いたぁっ!」

「今日は秋刀魚だよ。ほら…」

「ホント、いい匂い…」

 秋刀魚の焼ける芳しい匂いが仄かにたちこめて来ている。

「さあ、そろそろ降りようか」

「待ちなさいよ。そろそろ迎えに来るんだから、待ってあげなさいよ」

「あ、そうか」

 



「ふん、王手だ」

「馬鹿だね。そこは角が効いてるよ。ほれっ」

「うっ」

 クリスティーネはしっかりとした手つきでゲンドウが打ち込んだ香車を取り上げた。

「油断も隙もない婆さんだ」

「何言ってんだろうね、アンタがヘボなんだよ」

「ならば…」

 ゲンドウは腕組みをして考え込んだ。
 その顔にはいまだ髭は健在だが、もはや赤ひげとは言えない。
 限りなく白に近い灰色という感じだ。
 クリスティーネはわざとらしくその掌でゲンドウから取り上げた駒をジャラジャラと弄ぶ。

「むぅ、ならば、王手角取りだ。どうだ」

 得意げなゲンドウの顔は一瞬で歪んだ。

「そこは飛車道だ。どうして見えてないんだろうねぇ」

「ま、待て。それは間違いだ」

「おやおや、待った、かい?男らしくないねぇ。ほれ、もう王手はないのかい?これで詰みだよ」

「ううっ」

 呻き声を上げたゲンドウはがっくりと肩を落とした。

「せっかく飛車落ちで勝負してやってるのに、すぐに肝心の飛車を取られちゃ意味ないじゃないか」

「くそっ、もう一番だ」

「けっこうだね。ただし、その前に」

 クリスティーネがすっと手を差し出す。

「このクソ婆」

 ゲンドウは懐から財布を出すと100円玉を取り出し、その掌に憎憎しげに叩きつける。

「毎度あり。どうだい、次は角も落とそうか?」

「ふん!このままでかまわん」

 そう履き捨てるように言うと、ゲンドウは小銭の中から銀色の球を取り出して無意識に掌で遊ばせる。
 あの日、アスカに貰ったパチンコ玉だ。
 その後、彼はこのパチンコ玉をお守り代わりにいつも持ち歩いていた。
 その謂れを知っているクリスティーネはそのことをからかったりはしなかった。

「お〜い、ミクや。おいで」

 床に腹ばいになって本を見ていたアスカとシンジの第二子の惣流ミクが顔を起こした。
 小学校3年生の癖に文庫本に夢中で、国語辞典を脇においてじっくりと本の世界に入り込んでいたのだ。
 この娘の本好きはユイの隔世遺伝だろうと皆に言われている。

「なぁに、おっきいばあちゃん?」

「じいさまがまた負けおった。こいつをいつものところに頼むよ」

「うん、わかった」

 ぱっと立ってすたすたと歩いてくる。
 それは本人からすれば普通の動きだが、老人たちから見ればなんて素敵なんだろうと思える。
 自分たちにもあんなに身軽に動けた時があった。
 ミクの姿が眩しく見えるほどだ。
 老人が子供に甘いのはこれも理由の一つかもしれない。

 彼女は曾祖母から100円玉を受け取ると、飾り棚に置いてある大きなビンに入れた。
 これはある程度溜まるとユニセフなどに募金するシステムになったいる。
 もちろん、賭け将棋に負け続けているゲンドウだけが加金しているわけではない。
 ミクやシンイチも小遣いから出していたのだ。

「ミク?」

「なぁに、おばあちゃん」

「そろそろ焼けるから、パパとママを呼んでおいで」

「うん!」

 ミクは長い黒髪を靡かせて、隣の元医院へ向った。
 黒髪と黒い瞳を除けば、アスカと顔の造作はそっくりである。
 
「そういえば、客人はどうしたんだい?姿が見えないけど」

「うふ、リツコさんなら隣の図書室で熱心に読書中ですよ」

「おや、医学書かい?それとも…」

「漫画、ですよ。アスカとシンジが溜め込んだ漫画。あれを読むのがうちに来る楽しみなんですって」

 まったく変な人だよとでも言いたげに、クリスティーネは首をこくんこくんと左右に曲げた。

「で、シンイチとマヤさんとこの娘は?部屋でキスでもしてるのかい?」

「もうっ、くりさんったら。二人とも相手の顔も見られずに、自分のコーヒーカップを一生懸命見つめてますよ」

「おやおや、あの二人の息子のわりに晩生だね、シンちゃんは」

「わりにって、くりさんご存知なんですか。二人のファーストキス」

「ああ、知ってるよ。中2の6月6日。シンジの誕生日の夜さ。場所は物干し台の上」

「この出歯亀婆が」

「あら、私も見てましたよ。物干しの入り口のところで。本当に初々しかったわ」

「私は下の花壇からだった。何しろアスカの声が大きいからねぇ。歯が当たったって大騒ぎさ」

「ああ、そうでしたそうでした」

 まったく、この家の女どもは。ゲンドウは額に皺を刻んで、いらだたしげに言った。

「おい、クソ婆。次の勝負だ」

「あいよ。また連勝記録を伸ばさせてもらおうかい」

「ふん。心臓に毛がはえとる。発作もあの時一度きりではないか。まるで詐欺だ」

「よく喋るねぇ。ユイさんや、このじいさんの方が詐欺だと思わないかい?あの頃の100倍以上喋ってるよ。
 初めて会ったときは『うむ』とか『ふん』ばかりで、アンタの通訳が必要だったのにねぇ」

「うるさい。ほれ、これはどうだ」

「なんだい、また中飛車か。アホの一つ覚えだね」

 この二人の将棋は見ているだけで嬉しくなってしまう。
 ユイは楽しげに皺を深くした。
 その皺のせいで、もう片えくぼは見えにくくなっている。
 ただ、彼女は自覚していた。
 今はもう誰と話していてもあの片えくぼができているのだと。

 ああ、人生は素晴らしい。





「パパ、ママ!」

「来たわよ。お迎えが」

「ああ、秋刀魚の使いがね」

「何?私のこと?」

 危なっかしげな表情でミクは物干し台を見た。
 
「ねえ、ここ大丈夫?」

「へ?大丈夫よ。ほら」

 アスカが足を踏ん張ると、物干し台がぎしぎしと文句を言う。

「ええっ!壊れるんじゃないの?」

「大丈夫だよ。ほら、おいで」

 シンジが誘うとおっかなびっくりでミクが足を踏み出す。
 ぎしっと床が鳴り、少し顔が引き攣る。

「本当に大丈夫?」

「そうね、ミクの世代はこういう場所に馴染みがないもんね。怖くて当たり前か」

「昔はね、ここがこの周りで一番高い場所だったんだよ。
 ここに黄色いワンピースを着た…」

「ストップ!パパとママの出会いの話は耳にタコができました。あっ!あそこに」

 ミクが表通りを指差した。
 サツキを送っていくのだろう。
 彼女とシンイチが通りを歩いていくのが見えた。
 その距離感は微妙なもの。
 ただし、伊吹湯を出たときよりは前後左右ともに近づいていることは確かだ。

「おにい…きゃっ」

 二人に声をかけようとしたミクの口をアスカの手が塞いだ。

「こら!気の利かない妹ねぇ」

「うぐぐっ」

「えっ、あの二人ってそうだったのか?」

「相変わらずの鈍感馬鹿シンジね。二人っともお互いをいつも意識してるじゃない」

「うぐぐぐっ」

「アスカ、ミクが死にそうだよ」

「あ、ごめんねっ」

 手が外された途端に、ぷはぁっと大きく口を開けて酸素を取り込むミク。

「酷い酷い。児童虐待」

 ぷぅっと膨れるミクの頭を撫でてシンジはアスカの横に立った。
 街灯に照らし出されて歩いていく、若き二人の姿がだんだん遠ざかっていく。
 その姿を見送っているうち、いつしかアスカとシンジの手はしっかり握り合っていた。

「もう!秋刀魚冷めちゃうぞ」

 ミクはつきあってられないとばかりに肩をすくめ、両親を置き去りにして物干し台から姿を消す。
 私もいつか好きな人ができるのかな?
 そして、ずっと先にはどこかの誰かと結婚して…やっぱりパパとママみたいに…なれたらいいな。
 ミクはリビングに戻る途中で、扉が開いている両親の部屋を覗いた。
 電気のスイッチを入れると、壁面にある大きな飾り棚が浮かび上がった。
 そこには人形やおもちゃが飾ってある。
 そういう場所によく見られるような洋酒のビンなどはまったくない。
 時々、模様替えだと言って二人で嬉しそうに並べ方を変えたりしている。
 だが、あの流星バッジはふたつ並んで飾り棚の特等席から動くことはなく、
 そしてその横にはミニサイズの赤い座布団の上に銀色のパチンコ球が二個、いつも身体を寄せ合っていた。




 
 物干し台の二人はしばらく手を繋いだままじっと空を見上げていた。

 幼きアスカが「あっち」と指さした星空を。

 
 






<おしまい>


 

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