− U −








 想像していたことではあった。
 彼女に恋人がいるということは。
 しかし、そんな男は力ずくで追いやって、何としてでも彼女を手に入れる。
 そんな決意でドイツにやってきたのだ。
 だが、子供は、想定外だった。
 家庭を…母と子を引き裂くのか?
 恋人を引き裂くことならできても、親子は……!
 親と子供の関係というものは、青年にとってのアキレス腱だった。
 
「Gut.  Wie alt ist Ihre Tochter?」
 
(よしきた。いくつだい、娘さんは?)

「Fmm, noch 2 Jahre alt.」
 
(ふふふ、まだ2歳よ)

「Ach ja?  Dann sie soll gerade suess.  Einzelkind?」
 (じゃ、可愛い盛りだ。一人っ子かい?)

「Tja, ich wuensche mir noch ein Kind, aber das kann man nicht...」
 (そうねぇ、下の子を神様にお願いしてるんだけど、こればっかりはね)

「Hier.  Wie finden Sie diese?  Eine huebsche Maus.  Sie wird sich bestimmt freuen.」
 (ほいよ。これがいいね。可愛いねずみさんだ。きっと喜ぶよ)

「Wirklich!  Sie hat ein huebsches Gesicht!」
 (ホントっ。可愛い顔してる!)

 洋ナシを縦半分に切ってホワイトチョコレートで包み目鼻をつけたチョコマウスを見て、まだうら若き母親はにっこり笑った。
 その笑顔を見て、青年は空を見上げた。
 冬のドイツの空の色は灰色である。

 終わった。
 すべてが終わった。
 とにかく、この街を出よう。
 何をするにしても、この世から己の存在を消すにしても。
 それはこの街でしてはいけない。
 彼女の住むこの街では。

 さようなら、アスカ。

 青年の想いは自己完結した。

 最後にもう一度だけ、いいよね。
 君の顔をこの目に焼き付けて、それから僕は…。

 青年は視線を空から地上に戻した。
 
「うげっ」

 まるで14歳の頃のような奇声が彼の唇から小さく漏れてしまった。
 これこそが条件反射というものだろう。
 彼女が何か予想外の動きをした時、思わずうろたえてしまう。
 この時もそうだ。

 目の前に彼女が立っていたから。
 腰に手をやり、顎を思い切り上げて青年をじっと睨みつけている。
 紙に包まれたチョコマウスがその手にまだ握られているところはいささか滑稽に見えるのだが、
 青年に笑う余裕などあるわけがない。

「Hier habe ich einen kuemmerlichen Kommandant gefunden」
 (やけに貧相な司令ね)

 ドイツ語だった。
 しかし、今の青年には意味はわかるし、揶揄するような口調はまるで日本語で喋ってきたかのようにも感じた。
 
「ぼ、僕は…」

 いつ以来だろう。
 自分のことを“僕”と言ったのは。

「Du!  Diese Bohnenstange!  Du sollst Dich etwas buecken!」
 (ちょっとアンタ。そこのせいたかノッポ。少し屈みなさいよ)

「う、うん」

 また、ドイツ語に日本語で返す。
 そして青年は素直に膝を曲げて顔の位置を低くする。
 真向かいに立つ女性は腰に手をやり、顎をぐいっと上げた。
 だがあの時と違って、心なしか蒼き瞳が潤んでいるようだが。

「Nimm Dein Sonnenbrille auch weg!」
 (サングラスも取るのっ)

「わかった」

 従順にサングラスを外した時、彼女はにやりと笑った。
 ああ、懐かしい笑顔だ。
 そう思うまもなく、娘は青年の頬を両手でしっかりと押さえ込むと顔を近づけるのだった。
 触れ合う唇と唇。
 バードキスでも大人のキスでもなかった。
 ただ乱暴に、そして一方的にキスを仕掛けてきた娘は、やがてしかめっ面になって顔を離した。

「Uhhh..  Das ist eklig. Warum laesst Du Dich so einen Bart wachsen!?」
 (気持ち悪いっ。なんでそんな髭なんて生やしてるのよ!?)

 さすがに唾までは吐かないまでも、しかめた顔は本音そのものだ。
 ああ、この表情も昔そのものだ。
 でも、もう君は変わってしまったんだね。
 待ち望んでいた再会。
 しかも、あの日以来のキス。
 だが、彼女には娘がいるのだ。
 まさか、この歳で養女とかではないだろう。
 
「あ、あのさ…」

「Sprichst Du bitte auf Deutsch?」
 
(ドイツ語で喋ってくれる?)

「ご、ごめん」

 また条件反射のように日本語で謝ってしまってから、彼は一生懸命でドイツ語を思い出した。
 咄嗟に出てこなかったのだ。
 いつもはドイツ語で考えてドイツ語で喋ることができていたのに、
 まるで習いたての頃のように彼は必死に日本語をドイツ語に翻訳していた。

「Ich hab Dich gesucht.  Hier in dieser Gegend.」
 
(探してたんだ。ここで)

「Seit wann?」
 (いつから?)

「Ich bin etwa im Mitte August hierher gekommen.  Und seitdem immer」
 (8月の中頃に来て、それからずっと)

「Ach so.  An der Muenchner Uni?」
 (あ、そ。ミュンヘン大学?)

「Ja」
 (うん)

「Welche Fakultaet?」
 (何学部?)

「Fakultaet fuer Geschichts - und Kunstwissenschaften」
 ( 史学・芸術学部だよ )

「Das ist ja...  Wie kommst Du dahin?  Solche Wissenschaften helfen ja gar nicht beim Stellensuche.」
 (へぇ、ずいぶんと就職には役に立ちそうもない学問してるのね)

「Er...   Du...」
 (あのさ、君は…)

 青年はおずおずと切り出した。
 こうなれば聞かぬわけには行かない。
 彼女があれからどうしたのか。
 どんな男と恋に陥ちたのか。
 自分のことはただの行き掛かりだったのか?
 しかし、その問いかけは先に進まなかった。

「Also, gehen wir!」
 (さ、行くわよ)

 彼女がきっぱりと命じたからだ。

「Folge mir.  Ach, nimm das bitte.」
 (ついてきなさいよ。あ、これ持ってね)

 手首に引っ掛けていた袋を青年の顔の前に突き出す。
 もう随分と使い込んだ形跡のある布の袋だ。
 そしてその中にはさっきのチョコマウスを放り込んだ。
 他にはパン屋さんの紙袋に、野菜がちらほら。
 背を向けて歩き出した彼女は、くるっと振り返った。

「Ja, noch eins.  Ich entschuldige Dir nicht, wenn Du weglaeufst. 
  Wenn Du sowas begehst, dann verfolge ich Dir auch bis zum Arsch der Welt und toete Dich.」
 (あ、そうだ。逃げたりなんかしたら承知しないわよ。
  そんなことしたら宇宙の果てまで探しだして、コロシてあげるから)
 
 ニヤリと笑うと彼女は再び背を向けた。
 ジャンバーのポケットに手を突っ込んで、腰までの金髪を左右に揺らせながら歩いていく。
 青年の目から見ると、実に楽しげな様子だ。
 これはおかしい。
 だが、甘い期待など抱いてしまえば、その先に断崖絶壁が待っているというのがオチだろう。
 彼は気を引き締め、溜息を一つ漏らし、彼女の背中を追う。
 そして強烈なデジャヴに襲われたのだ。
 あの暑く、鮮烈な記憶の夏。
 制服の彼女の背中を目ながら歩いた日々。
 しかしこの時受けた偽りの記憶は、明らかにミュンヘンの冬の道を彼女の背中を見つめて歩いていたものだった。
 
 もういい。
 行くところまで行こう。
 青年は決めた。
 その上で、身の振り方を考えればいい。
 そして苦笑。
 なんだ、俺は何も成長していないじゃないか。
 大事なことは人任せ。
 俺自身の道標を見つけるために、ここまでやってきたのか?
 この4年間はそのためにあったのか?
 でも、それでいい。
 彼女が望むとおりにしよう。
 
「Upps.  Warte mal kurz!」
 (おっと、ちょっと待ってて!)

 思った途端に、早速の望み。
 今決めたとおりに青年は足を止めた。
 彼女は彼を置き去りにして、傍らのお店に飛び込んだ。
 ミュンヘンの店は閉店が早い。
 コンビニなどない街だから、買える時に買っておかないといけないのだ。
 彼女が飛び込んでいったのは劇場横のドラッグストアだった。
 凄い勢いで突っ込んで行ったかと思いきや、すぐに扉から顔を出して叫ぶ。

「Geh nicht weg!」
 (どこか行ってしまわないでよっ!)
 
 青年は苦笑して頷いた。
 その反応に納得したのか、次に姿を消した後はしばし店から出てこなかった。
 それはほんの短い時間だったが、彼にとっては充分じりじりするだけの刺激を与えたのである。
 再び会えたことで、逆に喪失感が募るということが彼にはよくわかった。
 だから彼女が扉から飛び出してきた時は正直ほっとしたものだ。

「Was hast Du gekauft?」
 (何を買ったの?)

「Irgendwas」
 (さあね)

 彼女は笑顔で紙袋を顔の辺りにかざした。
 
「Siehst Du?」
 (わかる?)

「Ich habe keinen Durchsicht.」
 (透視能力なんかないよ)

 笑顔が弾けた。
 まるで少女のように。

「Hahaha, Baka-Shi....  Ne, aber Du sagst das?」
 (ふふっ、馬鹿シ…ううん、アンタの癖に言うじゃない?)

 今言いかけたのはあの言葉?
 無性に確かめたかったが、青年はやっとのことで堪えた。

「Ich bin ja schon 19 Jahre alt.」
 (もう19歳だからね)

「Ich auch.  Du bist ja nicht die einzige, die erwaechst」
 (私だって。アンタ一人が成長してるんじゃないわよ)
 
 頬を膨らませて彼女は声を張り上げた。
 どうにも青年の肉体的な成長振りがお気に召さなかったようだ。
 自分の背丈がほとんど変わっていないためだろう。
 ただ、青年は気づいていた。
 彼女の腰周りがしっかりとしていることに。
 これが母の身体なのか。
 ふと、そんなことを考えたのである。

 二人して歩くこと15分ほど。
 その間、空白の4年については彼女も、そして彼も喋らなかった。
 話題は現在の彼女の勤め先のことだ。
 何と彼女は大学のすぐ近くにある大きな古本屋さんで仕事をしていたのだ。
 そこは店の作りが大きいだけで新古本など置かず昔ながらの商売をしているのでそれほど流行っているようには見えない。
 青年は何度もその店の前を通り過ぎていた。
 古臭そうな店であることが逆にいい感じに思えて、中に入ってみたかったのだが彼女を探す時間が惜しくて後回しにしていたのだ。
 もし店の中に入っていたなら、あっさりと再会できていたはずだ。
 彼は歩きながら頭をぼりぼりと掻いた。
 サングラスはもうポケットの中にしまっている。
 さっさと見つけてしまっていたらどうだろう。
 3ヶ月かかったことがよかったのかどうか。
 それは彼にはわからなかった。
 ただ、ゆさゆさと左右に揺れる彼女の金髪を眺めていると、そんなことはどうでもいいような気になってくる。
 
「So gleich wird die Wohnung.  Jetzt passt der Vermieter auf meine Tochter auf.」
 (もうすぐよ、下宿は。大家さんに娘を預かってもらってるの)

 そのことを忘れていたわけではない。
 彼女の娘の存在。
 しかし、彼女の唇から娘のことが漏れると急に現実味を帯びてくる。
 そして、青年は何も返事ができなくなってしまった。
 押し黙ってしまった青年のことを彼女はどう思っているのか。
 見たところ背後の様子など気にも留めずに彼女は足を進めているように見える。
 青年に彼女の表情は見えるわけがない。
 その時、笑顔であろうと努めていた彼女の面には様々な表情が浮かんでは消え、また浮かんでいた。
 恐れや希望、不安や喜び、そして悪戯っぽいものまで。
 その表情の意味するところはすべて空白の時間にあることは間違いない。
 ただ一つだけ彼女は気に留めていた。
 彼の足音がきちんと自分についてきているかどうか。
 逃げ出したりはしないかどうか。
 足音が乱れたら何がなんでも後を追いかけようと、全身で緊張していたことはもちろん青年には見抜けなかった。
 成長したとは言え、彼はあくまで彼女の彼なのだから。



 石づくりの古い家だった。
 彼女の話によると、学生であっても夫婦もいれば子持ちもいる。
 そういった連中の下宿にしていたらしい。
 ところがサードインパクトの余韻もおさまった今、こういった古い下宿に住む学生は減っているという。
 近代的なアパートメントを好むようで、現在下宿しているのは彼女たちだけということだ。

「Wenn Du reingehst, gibt es gleich die Treppe.  Erste Stock auf rechten Seite.  Nicht geschildert
und auch nicht abgeschlossen.  Du kannst einfach reingehen.」
(入ったらさ、すぐに階段があるから二階の右側。あ、プレートも何もないからね。鍵も掛かってない。
 部屋に入っててもいいわよ)

 自分は大家さんに客人を招きいれることを言ってくると彼女はさっさと扉を開けた。
 そして彼を見もせずに廊下を進んでいく。
 青年は迷ってしまった。
 しかし彼女が上がれというからには従わざるをえない。
 彼はゆっくりと階段を上った。
 その先にあるものを恐れるかのように。
 建物の奥の方で会話が聞こえる。
 その大家さんと彼女が話しているのだろう。
 笑い声も聞こえてくるが、何を喋っているのかは判然としない。
 階段は無限に続かない。
 十数歩で二階に辿りついた彼は薄暗い廊下を見透かした。扉が二つ左右にある。
 右側が彼女の部屋だ。
 青年は深呼吸をした。
 一度では足りずに二度三度。
 そしてドアのノブに手をかけた。
 ひんやりとした金属の感触がその手をすぐに引っ込めさせる。
 中に入って待っていてもいいと彼女は言った。
 ということは…今、この部屋の中に彼女の夫はいないということだろう。
 いれば、入れとも言わないし、子供も大家さんのところにいないはずだ。
 それはわかるのだが、それでも彼は躊躇った。
 彼女の家庭に踏み込んでいいのか。
 その家庭を壊すことになるのではないか。
 壊してしまいたい。
 彼女を奪い去ってしまいたい。
 しかし、子供は…。
 堂々巡りだ。

「Was machst Du da?  Wenn Du so im Mitten des Wegs stehst, koennen wir auch nicht reinkommen.」
 (何してんのよ。そんなところに突っ立ってちゃ、中に入れないわよ)

「Upps...」
 (あ…)

 振り返ると、目が合ったのは彼女ではない。
 彼女がおんぶしている幼女だった。
 その子は暗がりでもわかるほどに青い瞳をキラキラさせて青年を見つめていた。

「Wer ist der Onkel?」
 (だぁ〜れ、このおじさん?)

「Hahaha, er hat komischer Bart, nicht wahr?  Du, weg damit.」
 (ふふふ、変な髭でしょう?ほら、そこをどきなさいよ)

「ご、ごめん」

 日本語で返した青年を、母親は睨めつけた。
 そして、身体で押しのけるようにして青年を移動させると扉を開く。
 
「Du, bitte schalt an.」
 (ほら、電気をつけて)

「OK, Mutti.」
 (うん、ママ)

 負ぶさったままの幼女が照明のスイッチを入れる。
 まばゆいばかりの光に包まれた室内を青年は母子の肩越しに見た。
 子供がいるのだからもっと乱雑ではないかと思ってしまったのは、日本にいた時の彼女の粗雑さぶりが要因だったのかもしれない。
 しかし室内は意外なほどにきちんと片付けられていて、また簡素なものであった。
 ただ眼を引くのは壁にかけられたアドヴェンツカレンダーと、窓際の机に置かれたアドヴェンツクランツだ。
 前者はクリスマスまでの、一種の日めくりカレンダーだ。
 その日の数字を捲ると中から絵やお菓子が出てくる。
 日本で言えば駄菓子屋の当てものを想起してもらえればいいだろう。
 後者は言わば卓上型のリースだ。
 4本の太いロウソクを立てて日曜日ごとに1本ずつ明かりを点していく。
 今日はもう23日だから、3本のロウソクは殆ど姿はなく、残りの1本がわずかに数センチばかりを余しているだけだ。
 その二つが部屋に彩を与えている。
 それによく見れば、子供のおもちゃが箱の中にあったり、壁にはおそらくこの子が書いたものだろう絵が貼ってある。
 他にも赤ん坊の写真などが数枚壁に飾られていたりする。
 青年は瞑目した。
 ああ、家庭だ。
 ここには温かな家庭がある。

「Also, Du komischer Onkel, bitte gehst Du den Bart abnehmen.」
 (さてと、変なおじさん。その髭を剃ってきてくれるかしら)

 幼女を降ろした彼女が楽しげに言い、ずっと手に持っていた紙袋を青年に差し出す。

「Was ist das?」
 (これは?)

「Rasierer.  Du kannst ja nicht mit einen fuer Frauen den Bart rasieren. 
 Ja, ich werde Dich nie verzeihen, wenn Du damit was schreckliches begehen wuerdest.」
 (カミソリ。さすがに女性用のでその髭は無理でしょうが。あ、当然、それで変なことを考えちゃ許さないわよ)

 青年は苦笑した。
 その手もあったか。
 確かにそう言われずにカミソリを手にしていれば発作的に己の喉を掻き切っていたかも知れない。

「Hinter den Tuer findest Du Waschbecken.  Du hast auch warmes Wasser, obwohl es immer etwas laenger dauert. 
 Du darfst auch meine Seife benutzen.」
 (洗面所はそこの扉ね。お湯は出るから。しばらく時間はかかるけど。せっけんは特別に私のを使っていいわ)

「Bitte nehmen Sie aber nicht mein Baerchen.」
 (あたしのくまさんのはつかわないでね)

 母の手をしっかりと握った幼女が青年を見上げている。
 そのおずおずとした口調と真剣な眼差しに青年は思わず微笑んでしまった。

「Keine Sorge.  Ich werde das nicht benutzen.」
 (大丈夫だよ。じゃ、クマさんのは使わずにおくからね)

 その返事に得心して、女の子はうんと頷いたかと思うとすぐに母の後に隠れてしまった。
 青年はもうすぐ無くなってしまう髭をしごいた。
 この顔は嫌われたようだ。
 きっとお父さんはハンサムなヤツなんだろう。

「Lass den Tuer offen, Bart-Onkel.」
 (扉は開けといてね。髭のおじさん)

 青年は彼女を少し睨みつけると、紙袋を受け取った。
 そして洗面所に向うと、背後で彼女が娘に語りかけた。

「Hier hast Du was.  Kannst Du jetzt essen.」
 (じゃあね、これを食べてなさい)

「Wow!   Maeuschen-Schokolade!  Mutti, danke!」
 (わぁい!ねずみさんのチョコだぁ!ママ、ありがとっ!)

「Aber, Du musst nachher gut die Zaehne putzen.」
 (そのかわり、ちゃんと歯を磨くのよ)

「Ja, das mache ich!」
 (うんっ。ちゃあんとするよっ)

 あのクリスマスマーケットで買ったチョコマウスを渡したのだろう。
 おそらく輝くような目で母から渡されたお菓子を見つめているのだろう。
 遠い昔、自分にもそんな日々があったような気もする。
 いや、もしかしたらあれは父から渡されたリンゴ飴だったか。
 
「Wenn Du so nah an die Heizung gehst, schmirzt die Schokolade.」
 (暖房機にあまり近づいたら、チョコが溶けちゃうわよ)
 
 からかうような母の声に、幼女はきゃっと奇声を上げる。
 母親は食堂の方からよいしょと椅子を抱えて運んでくると、洗面所の扉の前に置きそこにどっしりと座った。
 その気配に青年が振り返ると彼女と目が合う。
 その瞳は鋭く彼を射抜いた。

「Ich halte Dir die Augen.  Du machst immer so ploetzliche Ueberraschungen.」
 (監視させてもらうわ。どうもアンタは昔から突拍子もないことをしたりするからね)

 真剣で真っ直ぐな視線は青年をたじろがせた。
 どうやら彼女は本当に彼が自殺してしまわないか心配なようだ。
 ここにつれてきたのはどういうことなのか?
 彼はとりあえず頷いた。

「Schau mal, Du hast ja schon warmes Wasser.  Rasier Dich schnell.」
 (ほら、もうお湯になってる。さっさとそのいやらしい髭を剃って頂戴)

 彼女の言うとおりに蛇口からは湯気が出ていた。

「Du?  Ich darf nicht den Bart einfach in die Leitung durchlaufen lassen, nicht wahr?」
 (えっと、剃った髭は流したら駄目だよね)

「Natuerlich nicht!  Du Japaner sind alle so unzuverlaessig! 
Du hast ja dort alte Zeitungsblaetter.  Ich schmeisse spaeter weg.」
 (当たり前じゃない!まったく日本人はやることがいい加減なんだから!
 そこに古新聞があるからそれに集めなさいよ。あとで捨てるから)

「Verstanden.」
 (わかったよ)

 彼はクマさんじゃない普通の石鹸を手にした。
 よく伸びたものだ。
 綺麗に剃り落とすのにたっぷり10分はかかっってしまった。
 ドイツ語の新聞の上には白い泡塗れの黒い髭がたっぷりと置かれた。
 こういうときにでも性格は出るものだ。
 彼は丹念にカミソリを肌に滑らせた。
 どうせ剃るなら剃り残しはイヤだ。
 そんな彼の様子をじっと彼女は見ていた。
 鏡に映る彼女がずっと笑顔であることが気にはなる。
 昔の彼女なら笑顔になりたくてもそっぽを向いていたりしていたからだ。
 家庭を持って丸くなったのかな?
 さて、これでいい。
 青年はごしごしと顔を洗った。
 久しぶりに会ったつるつる肌の感触が何故か楽しくなる。
 そしてフェイスタオルで顔の水気を拭き取った時だ。
 扉口の彼女が立ち上がって一気に彼の元に飛んできた。

「わっ」

 驚いたのは当然だ。
 背中に飛び乗った彼女が頬を摺り寄せてきたのだから。

「Ja, ja, ja.  Das ist es.  Du sollst so sein.」
 (わおっ、これこれ!アンタはこれでないとねっ)

 人妻にこんなことをされていいのだろうか。
 罪悪感とともにむくむくと彼女への愛しさがこみ上げてくる。
 彼女はちゅっと頬に口付けると、傍らに降り立った。

「Tja, wie wirst Du so hoch?  Was hast Du gegessen?  Es wird ja alles problematisch ab demnaechst.」
 (まったく何食べてこんなに背が高くなったんだろ。これから大変ね)

「Ab...    demnaechst?」
 (これ…から?)

 これからがどういう意味なのか、青年が考えられたのはそこまでだった。
 そこからの展開は彼の思考範囲をはるかに越えてしまったのだから。

「Gut!  Jetzt ist die Zeit!  Tadaaaaaa.」
 (よしっ!じゃあ、いよいよデビューよ!じゃんじゃかじゃぁ〜ん!)

「えっ!」

 彼女は青年の腕を抱え込むとまるで引きずるかのように戸口へと誘う。
 引っ張られるがままにリビングに登場した彼は室内を見渡した。
 そこにはチョコマウスを食べ切ってご満悦の幼女が窓際に立っている。
 女の子は顔を上げ、その笑顔が凍りつく。
 信じられないものを見たのだ。
 それは青年の顔。
 幼女は不躾にも彼の顔を指差した。

「Ja, Du bist richtig.  Das ist derjenige, auf den Du laengst gewartet hast.」
 (ふふん、そうよ。アナタが待っていた人よ)

 母親の言葉に幼女は口をパクパクする。
 青年は指された顔を掌でぺたぺたと触る。
 サングラスは元から外している。
 となれば、変化したのは髭がなくなったこと。
 
「V...  Vater?」
 (パ、パパ?)

「パパぁ?」

 思わず日本語の発音で鸚鵡返しして、鼻の辺りを指差す。
 
「Getroffen!!  Du hast ja ewig auf ihn gewartet, nicht?  Wie ist er?」
 (大当たりっ!ずっと待ってたのよね。どぉお?)

「Hurray!  Vater, das ist mein Vater!」
 (やったぁ!パパだ、パパだっ!)

 この子の瞬発力は母譲りなのだろう。
 幼女はあっという間に青年の膝に飛びついてきた。

「え、え、えっと、あの、ええっ?」

 予想外の展開に青年は縋るような目付きで母親の方を見る。
 しかし、彼女は青年の視線など気にもせずに娘に語りかけた。

「Siehst Du?  Ich hab Dir gesagt, dass Dein Vater in Japan arbeitet und somit Du nicht sehen kannst.  Ich habe Dir nicht gelogen!」
 (ほらね、パパは日本でお仕事だから会えないんだって。ママは嘘つかなかったでしょっ!)

「Ja!!  Vater!!」
 (うんっ、パパ!)

 両足で飛び跳ねながら、幼女は青年の太腿をぐっと抱きしめる。
 もちろん片足だけで手一杯だったが。
 そんな娘の感情の爆発に満面笑みの母親は青年の耳に顔を近づけた。 
 
「こら馬鹿シンジ。何突っ立ってんのよ。子供と同じ目線なんて親の基本でしょうがっ」

 日本語だった。
 再会して彼女が初めて喋った日本語がこれだったのである。
 青年は息を呑んだ。

「ほら、さっさと膝をつきなさいよ。この鈍感男」

 早口で囁くと、すぐにドイツ語で娘に喋る。

「Dein Vater wird Dich hochheben.」
 (パパが抱っこしてくれるんだって)

「Schoen!」
 (わおっ!)

 青年が床に膝をつくや否や、幼女は彼の首にすがり付いてきた。

「Vater!」
 (パパっ!)

「えっと…」

 至近距離で見る幼女の顔は青年の琴線に何故か触れた。
 今までは母親似だと思っていたが、それは赤金色の髪の色と青い瞳の所為だった。
 こうして間近で見ると、その顔立ちは赤い瞳の少女を想起させたのである。

「ほら、名前で呼んであげてよ。パパさん」

 耳元の囁きは無茶を言った。
 横目でそんな要求をする女性を見ると彼女は悪戯っぽい目で彼を促す。
 視線を抱っこしている幼女に戻すと、その瞳は期待でキラキラ輝いていた。
 こうなれば自棄だ。
 この無垢な笑顔を見ると、思いつく名前は一つしかなかった。
 例え記憶の中のその表情が幼女とはまったく違う無愛想で無表情なものであっても。
 青年は覚悟した。
 もっとも幼女の母親が娘を悲しませるわけがない。
 となれば、その名前は彼が想像できる範疇に決まっている。
 彼は唇を開いた。

「レイ…?」

 Lailaはにっこりと微笑み、夢にまで見た父親の唇にキスする。
 青年がその娘と交わした初めてのキスは見事なほどにチョコレートの味がしていた。
 ドイツ語ではライラと発音するのだが、母親が彼女を英語読みのレイラから“レイ”という愛称にしたのだ。
 もちろん、意図的にしたことに決まっている。

 青年はその時、壁に飾られた写真の一枚を見つめた。
 そこには学生服姿の少年と少女が並んで写っている。
 かつてカメラ好きの友人から貰った唯一の写真で、入院中の彼女に渡したものだった。

「Ja, wie Du gerade geahnt hast...  Das war das einzige Photo vom Vater.  Lay ist mit dem Photo gross geworden.」
 (そうよ。あれがたった一枚のパパの写真。レイはあれを見て育ったの)

「Wie ich gesehen habe, stehen Mutti und Vater sehr gut zusammen.」
 (うん、ママとパパはなかよしさんなの)

 どう見ても口げんかをしているようにしか見えないその写真が、幼女の目には違って見えたのか。
 青年はレイを抱いたまま、斜め後を見上げた。
 慌てて眼のあたりを拭う母親がそこにいる。
 彼女はそっぽを向いて嘯いた。

「Ich weine doch nicht.  Natuerlich nicht!」
 (泣いてなんかいないわよ。泣いてなんかっ)

 

 

− V − へ