ゴジラの日
ちんッ。
小気味の良い音を立てて鈴が鳴った。
赤金色の髪をおかっぱにした少女は神妙に手を合わせた。
「キョウコさん、マフラーも忘れないようにしなさいね。今日は寒くなりますよ」
「はい、おばあさま」
キョウコと呼ばれた少女はにっこりと笑って祖母に応えた。
活発でクラスの中でも男子と対等に渡り合うような少女も彼女の前ではしおらしい子になる。
とはいえこの祖母が恐ろしいわけではない。
寧ろ華奢な身体で実におとなしく見える老女なのだ。
明治の初め頃に生まれ、お嬢様学校で学んだということはそれなりの家柄であったわけだ。
もっとも職業軍人の父の勧めた縁談を嫌い、駆け落ち同様に軍人ではない男と結婚したのだから、見かけとは違いかなり骨のある女性だともいえる。
惣流キョウコは母を写真でしか知らない。
彼女を産んだ時に命を落とした母親代わりに育ててくれたのがこの祖母である。
第二次大戦中の大変な時に白人の容姿をした赤子を育てたのだからその苦労は並大抵ではなかっただろう。
それがわかるだけにキョウコは祖母には逆らえない。
この前も映画を見たいと申し出たが即座に却下されてしまった。
映画はいけないのではなく、彼女が見たい映画の内容が問題だったのだ。
話は数日前に遡る。
「ゴジラ、ゴジラって五月蝿いわね、男子は!」
「へへっ、惣流のヤツ、自分が見てないものだから噛みついてきやがる」
「馬鹿言ってんじゃないわよ!さっさと掃除しなさいよ、あんたたち!」
ただでさえ男子を真面目に掃除させるのは困難なのだ。
他の女子ならば何も言えずに自分たちだけで掃除をしているところだ。
もちろん後で先生に告げ口し男子を叱ってもらうのだが、キョウコだけは違った。
ガキ大将相手でも引き下がりはしない。
さすがに5年生ともなると取っ組み合いとはいかないが、言葉を拳に代えて男子に立ち向かっていたのだ。
男子も女子相手に手を上げるわけにもいかず、結局不承不承掃除をするのだが、
それでもガキ大将たちはその威厳を保つためか、すぐには掃除に取り掛からない。
この日もそうだった。
今日はちゃんばらではなく、ゴジラごっこだった。
背を丸め、映画で見たゴジラの真似をして、最後には取っ組み合いになる。
キョウコも新聞や雑誌でゴジラの姿は知っていたが、どう見ても彼らのはゴジラではなく火を吐くゴリラだ。
しかしビルに見立てた机を転がしたりするので、掃除の邪魔にしかならない男子に彼女はすぐに頭に来た。
文句を言ったが切り返された言葉は実は彼女の心をぐさりと傷つけたのだ。
キョウコは『ゴジラ』を見たかった。
見たくて、見たくて、仕方がなかったのである。
しかし、一人で映画は見に行けない。
映画館に連れて行ってもらうには、彼女の場合は祖母か父親に頼まねばならない。
まず父親にはこれまで一度も映画館には連れて行ってもらってない。
ここ3年ばかりで急激に大きくなった電気機器会社に勤めている父親は文字通り休みもないほど働いている。
そんな父親に無理は言えないと最初から思ってしまう。
となれば、祖母しかいない。
これまでも何度か祖母に映画へ連れて行ってもらった。
だが、今回はなかなか言い出せなかったのだ。
どう考えても祖母とゴジラは相容れないような気がする。
公開前から見に行きたいと思っていたキョウコだったが、すでに公開から1週間が過ぎ映画を見た同級生が現れだすとなおさらにその思いは強くなっていったのである。
もっとも映画を見たのはすべて男子だったが、この場合キョウコにはどうでもよかった。
自分の見たいものを見たい。
彼女の欲求は単純だったからである。
この時はその欲求不満も手伝って、いつもよりも激しく男子を叱責し掃除をさせたのだ。
女子たちからはよくやったと讃えられたが、キョウコの心は晴れない。
さらに映画を見たくなってしまったのである。
そしてその夜、彼女はとうとう祖母に切り出した。
「あのね、おばあさま。あたし、見たい映画があるの」
おずおずとキョウコは話しかけたが、祖母はゴジラという映画のことすら知らなかった。
どんな映画だと説明を求められて、彼女は知っている限りのあらすじを話す。
しかしながら、そのような類の映画は祖母の守備範囲にはない。
従って祖母にはまるで見当がつかないようだ。
怪獣という単語が一般的になかった時代なので、説明する方もされる方も困り果てていた。
その時、ともに食卓を囲んでいたトモロヲが初めて口を開いた。
「母さん、それはおそらく『キングコング』のような映画ですよ」
「きんぐ…?何、それは」
もちろん『キングコング』も『ゴジラ』同様に彼女の守備範囲から外れていた。
「なぁに、巨大な猿がニューヨークを舞台に大暴れして最後にはエンパイアステートビルから落ちて死ぬという筋立てです」
関心なさげに言うと、トモロヲはぱくりと小芋を口にほうばる。
ああ、その映画も見てみたいとキョウコは目を輝かせた。
怪獣はわからないが、巨大な猿は祖母の頭でイメージがつかめたようだ。
「馬鹿らしい。キョウコさん、お猿さんが見たいなら上野にお行き」
「あたしが見たいのはお猿さんじゃなくて、ゴジラっ」
「だからお猿さんの仲間のようなものでしょう。上野ならゴリラやキリンもいますよ、ええ」
取り付く島もないとはこのことか。
そういうゲテモノ映画は教育上よろしくないと判断したようだ。
キョウコは唇を尖らせると、ぶつぶつと愚痴を言う。
「だって、友達たちがみんなみんな見に行ってるって…。おもしろかったって言ってるんだもん…」
「キョウコさん」
「何?連れて行ってくれるのっ?おばあさまっ」
「小芋をお箸でつつくんじゃありません。下品ですよ」
「ごめんなさい」
祖母だけには素直に謝ることができるキョウコだった。
そうしないと正座させられて、仏間で説教なのだ。
3年前に死んだ優しい祖父や母親の写真が飾られているその場所はどうにも彼女にはなじめない。
怖いとは思わないが、重苦しい雰囲気にさせられるからだ。
「ああ、そうだ」
トモロヲがまた突然声を上げた。
「キョウコ、今度の日曜日は銀座に行くからね。文房具と本を見に行くから、お前も一緒に来なさい」
「はい、お父さん」
父親の命令は絶対だ。
条件反射のようにキョウコが答えると、トモロヲはうむと頷き小芋に箸を突き刺した。
惣流家のある牛込から銀座まで都電を乗り換えていく。
かなり早い時間に家を出たので有楽町で都電を降りたのはまだ8時過ぎだった。
こんなに早く出て来てどうするつもりなのか。
店も何も開いていないではないかとキョウコはきょろきょろ周りを見渡すが、父親はそんな娘の相手もせずつかつかと歩いていく。
都電に乗っている間もこうして歩いている時も、トモロヲは何も話さない。
今朝からキョウコが耳にしたのは「いってきます」「降りるぞ」「こっちだ」の3つだけなのだ。
もっともキョウコの父親はそれなりに無口な方だ。
決して機嫌が悪いわけではない。
寧ろ今日は機嫌がいい方ではないかとキョウコは思っている。
今日の父親はスーツは着ておらず、皮のジャンパーを羽織っていた。
口に出したことは一度もないが、キョウコは父親が世界中で一番カッコいいと考えている。
その父親が足を止めた。
「ああ、もう並んでいる。この時間で正解だったな」
障害物になっている父親の背中を避けて首を覗かせると、キョウコの目に入ってきたのは映画館とその前に並ぶ人々だった。
看板に大きく貼られているポスターは『ゴジラ』である。
「お父ちゃん!ご、ゴジラっ?」
映画館を指差すキョウコはもう興奮を抑えられない。
鼻息も荒く父親を見上げると、彼はにやりと笑い「久しぶりのお父ちゃんだな」と漏らした。
小さい頃から「お父ちゃん」と呼んでいたキョウコだったが、祖母にそろそろよしなさいと言われ改めていたのが、
あまりの興奮に元の呼び方に戻ってしまったのだ。
「い、いいの?」
「ああ、おばあちゃんには内緒だ」
「あ、ありがと!あ、アタシ、並んでくる!」
言うが早いか、キョウコは駆け出した。
ほんの1ヶ月ほど前に見た運動会の徒競走よりもさらに早いのではないかとトモロヲは笑いを抑えられない。
あの時は1等賞のノートを貰ったが、今回は何を賞品にしようか。
トモロヲはそんなことを考えながら、ゆっくりと映画館の方に歩いていった。
既に行列に並び、こっちこっちと手招きする娘の方に。
映画は面白かった。
生まれて初めて見た怪獣の迫力は物凄く、ポスターや新聞の写真などとは比較にならない。
キョウコは10歳でしかも聡明な子供だったから、人間ドラマの方も大いに楽しめた。
それでも画面に集中できないこともあったのだが、その時に彼女は父親の様子を窺ってみたのである。
父親は彼女から3mほど離れていた。壁面に寄りかかり、トモロヲは立ち見していたのだ。
満席だったからではない。
早い時間に着いたおかげで座席は選べるほどに残っていた。
真ん中の方の良い席をキョウコは選び、その隣に鞄を置き父親の席を確保したのだが、そのトモロヲは通路で首を横に振った。
背の高い自分が座ると後の子供が可哀相だと言って、彼はすっと壁際に向かいそこに立ったのである。
そんな父親の行動をキョウコは誇らしく感じた。
周りの子供たちに「どう!あたしのお父ちゃんって素晴らしいでしょう!」と触れ回りたいほどに。
しかし大人である(と自負している)キョウコはそんなことはしない。
彼女がしたことはただ父親に向かってにこりと笑っただけだ。
それに対して、トモロヲはどうでもよいと言わんばかりに手を小さく振っただけだ。
父親の反応にキョウコは満足し、椅子に深く座り直した。
まもなく始まる世紀の映画に備えるために。
ゴジラは帝都東京を破壊しつくした。
実際は芝浦から隅田川に至るまでのコースだったのだが、観客はそうは思えなかったのである。
その圧巻は何よりも銀座を蹂躙する場面であった。
そして子供たちのみならず大人までもが一瞬声をなくしてしまったのは、ゴジラの尻尾で日劇が破壊された瞬間である。
今まさに自分たちがいる場所が目の前で崩れ去ったのだ。
誰もが呆然とするのは当然だろう。
そして観客の半分ほどが息を潜め首を後に恐る恐る向けた。
ちょうど今、水爆大怪獣が劇場の前を歩んでいるのではないか。
日曜日の朝だということを忘れ、夜の街を紅蓮の炎が包んでいるかのような錯覚を覚えた。
ほんの数秒だったが観客はみなスクリーンから目を離してしまったのである。
キョウコもその一人だった。
そんな彼女をトモロヲは暖かい眼差しで見つめていた。
スクリーンに『終』の文字が出た時、場内に嘆声と歓声が溢れた。
すげぇとか面白かったという子供の声が響く中、場内が明るくなり、
キョウコは椅子から立ち観客の中を縫うようにして父親の元に向かう。
ようやくそこにたどり着くと、トモロヲはキョウコに言った。
「どうだ?見るのか、もう1本も」
キョウコは大きく首を横に振った。
同時上映は『仇討珍剣法』。
時代劇のコメディでそれはそれなりに面白そうだったが、今はまったく見る気はしなかった。
トモロヲはくすりと笑った。
「だろうな。では、行くか」
「うん!」
1時間半以上スクリーンに見入っていると、晩秋の光でも目に眩しい。
表に出ると劇場前は行列が続いている。
キョウコは誇らしげにパンフレットを片手に歩いていった。
「ねぇ、お父ちゃ…じゃない、お父さん、このパンフレットわからないように隠しておくね」
「おばあちゃんに見つからないようにか?無駄だな」
「どうして?あたし、絶対に見つからないように…」
「パンフレットを見ようが見まいが、今日映画を見に行ったことくらい気がついているさ」
「ほんとっ?」
「ああ、本当だ。あの人は何でもお見通しなんだ」
「でも、おばあさま全然怒らなかったじゃない?」
優しく送り出してくれた祖母の笑顔を思い出し、キョウコは首を捻った。
「あの人の本音はそういうゲテモノ映画を自分が見たくないということで、お前に見せたくはないということだ」
「そうなの?」
「ああ。それで、私に連れて行けという暗示をしたんだな」
「へぇ…」
キョウコはあの夜のことを思い出したが、あの中のどれが暗示になるのかまるでわからなかった。
しかし今こうして念願の『ゴジラ』を見ることができたのだからもうどうでもいいかと思い直す。
キョウコは大いに満足だった。
ただし明日、学校に行ってもガキ大将たちに見たと言い触らすような真似はしない。
問われれば見たと答えるだろうが、自分からは一切言う気がないのだ。
彼女は貧富の差が小学生の間でもあることをよく承知している。
自分の家は大金持ちではないがそれなりに金持ちだと自覚している。
かなり大きな家には蔵もありテレビもある。
もっともテレビの方は父親の仕事の関係で持っているのであり、めったに見ることがない。
祖母が目が疲れると言うので、放送時間になってもほとんど点けていないのだ。
間違いなく友達からは羨望の眼差しを受けているキョウコだった。
彼女自身はお高くとまる気もないし、実際ざっくばらんな性格で面倒見もいい。
女子の中でのリーダー格で友達も多いのだが、親友と呼べる相手が何故かいない。
それがキョウコの悩みの種ではあったが、嫌われているわけでもなく外で遊ぶ相手は山ほどいた。
ただ家に遊びに来る友達がいないだけなのである。
寡黙な父親が嫌がるのではないかとか、祖母への気遣いなども手伝って、自分から誘う気になれないことも事実だ。
そしてもうひとつ、大きな理由があった。
それは彼女の容姿だ。
日本人とドイツ人の混血であったが、その容姿は白人そのものである。
口を開けば日本語しかないのであるが、見ただけではわからないし、初めて会った人には必ず「日本語が上手ね」と言われる。
友達は小学校で顔をつき合わせているから問題ないのだが、家まで行くと家族というものがある。
その視線がキョウコは痛かった。
キョウコ自身がそうなのだが、アメリカ軍に空襲の被害を受け家や家族友人を失ったり、家族が戦死したりしているのだ。
心の底のどこかで白人に対する恨みを抱いてしまうのかもしれない。
もちろん直接嫌味を言われたり意地悪をされるわけではないのだが、その空気が嫌だったのだ。
小学校低学年の時に何度か友達の家に行き、どこの家でも同じような感触を受けた。
キョウコは小さい時から気持ちの強い子供だったので、その場ではにこにこと笑い帰宅してから塞ぎこんだのである。
その後頃合を見て、祖母がキョウコにもわかるように説明してくれた。
その説明により自分が周りの子と違うのだと認識できたのだが、同時に祖母の周囲への憤りも充分感じた。
だからこそキョウコは自宅に友達を連れてくることを躊躇ったのである。
それが癖のようになり、彼女は外でしか友達と遊ばないようになった。
家に連れてきてもいいのよと祖母に言われても生返事でお茶を濁してしまうのだ。
テレビがあると言えばほとんどの子が喜んで来るであろうが、どうしてもそれがキョウコには嫌だったのだ。
もので釣っているのが見え見えだし、自分と遊ぶことではなくテレビが目的だということ自体が彼女には許せない。
そんなキョウコが周囲の子供より大人びていくのはその豊かな体格も手伝って必然であったのかもしれない。
だが、キョウコは明るい子であり、おとなしいとは決して形容できない子だった。
その明るい笑顔があったからこそ、復員後のトモロヲは心の支えになったのだ。
亡き妻に似た明るい笑顔が彼を前向きにさせた。
女児誕生。母親の遺言にてキョウコと命名す。後顧を憂ふことなく、粉骨砕身せよ。武運長久を祈る。母より
何故妻が死んだのかは一切語られていない短い文面だった。
戦局が悪化している中、それだけでもよく伝わったものだとトモロヲは後になって思った。
その時は赤ん坊を産み落とした妻が死んだということしか彼には理解できなかったのだ。
もしこの時、出撃があったならば自殺行為をしていたかもしれないほどに、彼は悲しみに包まれた。
生きろ、生きて帰れという謎か。
直接そう書けないから、本文より長い励ましの言葉を書いたのだろう。
母親の性格を知るトモロヲは数日後にそう受け取ることができた。
戦闘を逃れるような真似はしない。
しかし特攻を志願したり、無茶な戦闘はするまい。
トモロヲは密かにそのように決意し、生きて帰ろうとお守りの中に入れてきた妻の写真に誓った。
運良く、彼は生還する。
空襲を免れた我が家にようやく戻った時、キョウコはもう4歳になっていた。
初対面の親子は感動的な対面をしたわけではない。
妻の面影を大いに残した幼児は気の強そうな目で彼を見上げている。
父親だと言われてもその意味がよくわからないのであろう。
生まれてからは祖父母しか知らずに、蔵と庭だけで育った子である。
白人の姿形をしている子供に危害を与えられてはならぬと、惣流家では自前の防空壕を庭に掘っていた。
空襲のたびにほとんど用を成さないであろう、その粗末な壕に3人で入っていたらしい。
彼が生還した安堵感からか、トモロヲの父はほどなく病没した。
戦争がなければ、妻も父親も死ななかっただろう。
薬もなければ、医師も不足していたのだ。
白人女性の出産に手を貸してくれたのは母親の実家絡みの知り合いの産婆ひとりだったのである。
産婆はすまない申しわけないと繰り返し詫びたそうだ。
手配した医者は空襲もない夜にもかかわらず朝になってからようやく現れ、簡単な臨終の宣告をしただけであった。
惣流家の菩提寺も彼女を埋葬するのに難色を示したという。
ドイツの人間だからキリスト教なのであろうというのがその理由だった。
惣流の名前のためか、お布施の額だったのか、結局葬儀抜きで埋葬だけは先祖代々の墓に施された。
それらのことをトモロヲは父親が死ぬ前に聞かされた。
母親は一切喋らなかったのである。
嫁を死なせてしまったことを謝ることも悔やむこともなく、
ただこれからはあなたがしっかりするのですよとトモロヲに厳しく言いつけただけである。
それがいかにも利かん気の強い母親らしいとトモロヲは感じた。
おそらく一人になれば母は仏壇に向かって詫びていたに違いないと彼は思った。
許すも許さないもない。
病んだ父と、母と、そして娘のために必死に生きようと彼は決めた。
彼の前には惣流家代々の墓があり、そこには人種の違う娘が埋葬されている。
彼女も戸惑っていようが、ご先祖様たちも困り果てていることだろう。
そう思うと、トモロヲはくすりと笑い声を上げた。
そして、妻に宣告した。
まだまだそちらには行けないから一人ぼっちで我慢しなさい。
ようよう冥土に行くことがなれば、その時にこの恨みを晴らすがいい。
トモロヲは顔を上げ、そして傍らでじっと拝み続けている娘の小さな頭を撫でた。
キョウコは青い瞳を父親に向け、きょとんと首を傾げる。
その顔が驚きに変わる。
背の高い父親に抱き上げられ、肩車をされたからだ。
この年になるまでこういうことを彼女はされたことがない。
病身の祖父には肩車などしたくてもできなかったのである。
生まれて初めての肩車にキョウコは目を輝かせた。
「タカイ、タカイ」
こんなに高い場所に上がって嬉しいが、怖い気持ちも手伝い彼女は父親の頭にしがみつきながら歓声を上げた。
「帰るぞ」
「ウン、オトウチャマ」
トモロヲのことをお父様と呼べと祖母に躾けられていたキョウコはそう答えた。
やがてその呼び名は“おとうちゃん”に変じたが、トモロヲも祖母も改めるように命じることはなかったのである。
寧ろ、トモロヲは嬉しかった。
お父様と呼ばれるよりもずっと親しみがこもっている様な気がしたからだ。
キョウコに「オトウチャマ」「おとうちゃん」と呼ばれるたびに、生きて帰ってきてよかったと心底から思ったものだった。
「ゴジラはあっちから来たんだよねっ」
日劇を出て左に曲がり数寄屋橋へ向かった親子だったが、橋を渡る途中でキョウコが前方を指差した。
「ああ、そうだな。銀座尾張町から日劇の方へだからね」
キョウコは橋のコンクリートを靴でがんがんと踏む。
「凄いね。こんなのをゴジラは踏み抜いたんだ」
家の中では背伸びしがちなキョウコだったが、今日ははしゃいでいる所為か言動がいつもより子供っぽい。
それがトモロヲをほっとするような気持ちにさせた。
いささか肌寒いが晴れた日曜の銀座だ。
人通りは多い上に欄干から外堀を眺める人たちもいて、数寄屋橋は賑わっている。
「へへへ、こんなに頑丈なんだからゴジラでないと潰せないね」
娘の言葉を聞き、トモロヲはそうだねとばかりに微笑む。
実は東京都の計画で数年も経ずにこの数寄屋橋は取り壊されるらしいと彼は知っている。
しかし今そのことを娘に告げる必要はこれっぽっちもない。
何年も後に、数寄屋橋が無くなってしまってから、今日の風景を思い出せればよいではないかと彼は思った。
少なくともトモロヲ自身は、いつまでもこの橋とキョウコのはしゃぐ姿を忘れることはないだろうと感じていた。
「わっ!お父ちゃん、見て!和光がちゃんとある!」
人ごみの中だというのにキョウコが大声を上げた。
橋を渡りきったところで、200mほど先に和光ビルが見えたのだ。
映画の中でゴジラに壊された時計塔は当然健在である。
それを確認して、彼女は興奮のあまり叫んでしまったのだった。
それほどに映画はキョウコにインパクトを与えたわけだ。
さすがにその時は周囲の人ごみからくすくすと笑い声が起き、それに気づいたキョウコはさっと父親の背中に隠れた。
彼女は頬を染め、父親のジャンバーの背中にしがみつく。
ちらりとトモロヲが振り返ると、キョウコと目が合い彼女はぺろっと舌を出した。
尾張町の交差点に立ち、和光ビルの大時計を見上げキョウコは嘆声を上げた。
さすがに声は抑えていたが、興奮の方はまだまったく収まっていない。
「凄いなぁ、あれよりゴジラは大きいんだよ。ぷふぅっ」
彼女は周りを見渡すと、交差点の向こうの方に炎に包まれた松坂屋も見える。
もちろんゴジラは出現していないので、百貨店は何事もなく銀座の大通りで賑わいを見せていた。
松坂屋の方に行ってみるかと父親に言われたが、キョウコはもういいよと首を横に振った。
その表情を見て、トモロヲはぴんと来た。
「少し早いがお昼にするか」
そう切り出すと、キョウコはうんうんと大きく頷く。
映画の興奮のためか喉が乾いていた上に、お腹も空いているようだ。
トモロヲはよしとばかりに歩き出した。
彼が向かったのは資生堂パーラーだった。
まだお昼前だったので運良く席は空いており、親子はすぐにテーブルに着くことができた。
トモロヲはランチ、キョウコはカレーライスを頼んだ。
以上でよろしいでしょうかとウェートレスが尋ねると、トモロヲは娘にさらりと言う。
「アイスクリームはいらんのか?」
キョウコは「いいのっ?」と目を輝かせ、父親が頷くのを確認してから勢い込んで注文を加えた。
食後でいいですねと問われ、お願いしますと頼む。
彼女が席を離れてから、キョウコは小さな声で父親に言った。
「カレーとアイスを一緒に食べる人なんているわけないのにね、変なの」
「カレーの前に食べるかもしれんだろ」
トモロヲにすかさず切り返され、キョウコは一瞬考えたがすぐに笑い出す。
「やっぱり変よ。口の中が甘いのにそれからカレーなんて」
娘の意見にトモロヲは賛成した。
カレーライスは辛く美味しく、アイスクリームは甘く美味しかった。
食べ終わったキョウコはにこにこしてお腹を撫でる。
トモロヲは食後のコーヒーをちびりちびりと飲みながら、娘の表情を堪能していた。
やはり時折はっとするほど亡き妻に似て見える時がある。
もしあの時、一日だけの休暇を家に戻らなかったら。
家に戻っても、妻を抱いてなければ。
この娘は授かっていなかった。
その一度の逢瀬で妻は妊娠し、出産時に命を落とした。
夜半に懊悩するような時は、そのことをトモロヲは考えてしまう。
そしてそんな事を考えてしまう自分を責めた。
そういう考えはキョウコの存在を根本から否定してしまうことではないか、と。
キョウコを妻の生まれ変わりだなどという浅薄な考えは彼にはない。
クリスティーネは彼女の人生を生き抜いたのだ。
24歳という短い生涯であっても後悔はなかったはずである。
それはそうあって欲しいというトモロヲの思い込みではなく、彼女を愛した男としての実感だった。
日本に向かう船の上で、このまま沈没して死ぬことになっても後悔はないと言い切っていた彼女だったのだから。
「お父さん、本屋と文房具屋さんに行くのよね」
「ああ、文房具は銀座だが、本は丸善まで行くぞ」
「わっ、丸善。楽しみっ」
目を輝かせてキョウコは笑った。
近所の本屋にはないものが丸善には多い。
買う買わないは別にして、色々な本を見ることができるのは嬉しい。
そんな娘の笑顔を見て、トモロヲは勘定書きを手に立ち上がった。
次に親子は文房具屋に向かった。
生活に余裕が出てきて、しかも輸入文具が店頭に並ぶようになると、トモロヲには懐かしい文房具が欲しくなった。
机に閉まっていた万年筆の先やインクといった消耗品もそうだが、ノートなどももしあるのなら使いたい。
ドイツでの留学の日々を思い出させるものならば、日本製より値が張っても手に入れたかった。
そこで数ヶ月に一度は輸入文房具を扱う店に行く習慣ができたのだが、
昭和29年頃になるとアメリカ製品以外のものもそれなりに日本に入ってくるようになっている。
この日もトモロヲは消耗品と来年用の手帳を物色しようと思っていた。
その父親に着いていったキョウコは自分の知っている文房具屋とはまったく雰囲気が違うことに驚いてしまった。
なんだが“カッコいい”のである。
洒落ているといったようなボキャブラリーはまだこの時の彼女にはなかったのでこういう表現になるのだが、
彼女の目には展示されている商品がきらきら輝いて見えた。
手にとってよいのかどうかも躊躇ってしまうほどに。
そんな娘の様子を見て、いつもならばさっさと購入するトモロヲは時間をかけて物色することにした。
こういう場所は子供にとって遊園地の一種でもあることを彼は知っていたからだ。
キョウコは自分の使っているノートと全然違う装丁に綺麗だと思ったり、
彼女から見ると目の玉が飛び出るくらいに高い値札がついている筆記用具を目を丸くして見ていた。
しばらくすると清算を終えたトモロヲがキョウコの元に歩み寄った。
「どうだ、何か欲しいものはあるか?」
キョウコは欲しいものは欲しいと言える性格をしていた。
しかし、相手の様子を見るだけの分別も兼ね備えている。
祖母が相手ならば、そう聞かれれば遠慮なく告げている。
何故なら祖母がそういう孫を甘やかせるようなことはなかなか言わないからだ。
めったにないチャンスに飛びつくというよりも、これは何かを買わないといけないのだなと判断するわけである。
だが、父親相手には困ってしまう。
あまり二人きりで出かけることがないことがそうさせてしまうのだろう。
それにキョウコは不要なものを欲しがる性質ではなのだ。
確かにカッコいいノートはたくさんあるが、今使っているノートで充分ではないか。
万年筆やボールペンよりも鉛筆の方が使いやすい。
何より間違えても消しゴムで消せるのだから。
そう考えてみると、これといったものが思い浮かばない。
遠慮しているのではなく、当時の小学生にとってあまりに次元の違う文房具だったので判断ができなかったのであろう。
すぐに返事ができなかった娘を見て、トモロヲは彼女の状況を判断できた。
なるほどそうかと思った彼はつかつかと筆記具のブースに行き、そこで1本の鉛筆を手に取りキョウコに手渡した。
それは赤鉛筆である。
「これにしよう。日本製に比べて少し淡い色調だが、これならばそう贅沢とも言えんだろう」
キョウコが使っているのは丸い赤鉛筆だったが、これは六角式になっている。
それだけでもかっこよく見えるし、鉛筆のお尻の方も赤い塗料で覆われていた。
明らかに外国製としか見えないもので、彼女は息を呑んだ。
こんな綺麗な赤鉛筆を使っていいものだろうか。
「あ、あのね、これ、飾っておくの?」
いつもの彼女らしくもなくおずおずと口にしたキョウコにトモロヲは快活に笑った。
「馬鹿な。どんどん使えばいい。ああ、しかし、噛むなよ」
清算するためにキョウコから赤鉛筆を取り上げた彼はにやりと笑いを残してカウンターに向かった。
その最後の一言を聞いて、赤金色の髪の娘は頬を染めた。
父親はちゃんと知っていたのだ。
キョウコに鉛筆のお尻を噛む癖があることを。
ああ、恥ずかしい。明日から、いや今すぐにあの癖は絶対にやめよう!
彼女は父親の背中を見つめながらそう誓った。
この日、銀座の伊東屋で父親に買って貰ったステッドラー社製の赤鉛筆。
トモロヲに言いつけられたようにキョウコは学校でもそれを使った。
その後、彼女は自分のトレードマークのようにその赤鉛筆を使うことになる。
そして、最初に買ってもらった赤鉛筆は残り3cmほどになった時、
アルミのキャップを外して、机の奥にそっと閉まっておいた。
その赤鉛筆の残骸はいつの間にか無くなってしまったが、買って貰った事はずっと忘れないでいた。
キョウコの鉛筆を噛む癖はその日を境にして見られなくなったのである。
銀座から日本橋まで歩いたがキョウコはまったく疲れを感じなかった。
お出かけ用の布鞄に入っているパンフレットと赤鉛筆が彼女の足を軽くさせていた。
今日は何と素晴らしい日なのだろうか!
キョウコは隣を歩く父親をちらりと仰ぎ見た。
友達の父親たちよりも断然カッコいい。
いや、この人ごみの中でも一番に違いない。
自分のすぐ近くにある父の大きな手。
キョウコはその手を握ろうかと考え、しかし止めた。
恥ずかしかったのだ。
もう11歳なのだから、父親と手を繋ぐなど駄目ではないか。
そう考えて、少し動きかけた右手を慌てて自分の身体に寄せた。
文房具屋と同様に、本屋も近所のそれとは大いに違っていた。
キョウコの読む本は駅前の本屋で充分ことが足りていたので、こういう大きな本屋には初めてだったのである。
父親は洋書の置いてある階にいるから好きな場所に行ってきなさいとキョウコに言った。
彼女はあちらこちらのコーナーを動き回り、時に気になった本を手に取ってみた。
児童向きの書籍コーナーでもあれこれと見たが、あまりに本が多すぎて目的のない探索人には始末に終えない。
キョウコは30分ほどで父親のいる階に足を向けた。
彼の姿はすぐに見つかったが、娘は声をかけずに遠くからその様子を窺ったのだ。
トモロヲは熱心に何かを読んでいる。
もっともその何かというのは外国語で書かれていることは間違いない。
近くの本がすべてそうだからだ。
いくら白人の容姿をしていても、日本生まれで日本育ちのキョウコには何一つとして読めるものではない。
彼女が読み書き及び聞き取り喋ることができるのは、日本語だけなのである。
しかしそれを知っているのは彼女の周囲だけで、第三者はそう思うはずがない。
何よりもそこは洋書コーナーなのだから。
洋書と外国人(の姿形)とは、相性が良過ぎるではないか。
「ペラペラペラペラ」
話しかけられたのは自分に違いない。
キョウコは大いにうろたえた。
目の前にいる外国人の女性はにこにこと笑いながら声をかけてきたのだ。
「あ、あ、あの…」
キョウコは一歩二歩と後退する。
ここ数年、こんなに追い込まれてしまったことは彼女の記憶にない。
ガキ大将に立ち向かう時も、上級生の女子に挑発された時も、一部の先生に意地悪をされた時でさえも、
彼女は歯を食いしばって耐え、決して逃げなかったのだ。
しかし今度は違う。
例えるならば、街中で等身大のゴジラに出会ったようなものではないか。
もちろん、それはゴジラでなくても虎や狼や熊でもよい。
ともあれ人外の輩に面と向かってしまったようにキョウコはうろたえてしまった。
白人で初老の背の高い女性が人外とは失礼な話で、しかも人種は二人とも同じなのだ。
その女性にキョウコの事情を察することができるわけもなく、彼女は尚もにこやかに話しかけてくる。
その話し言葉は英語なのだろうが、キョウコにとっては法事の際のお経の方がまだ理解できようものだ。
彼女は進退窮まった。
何故なら、その背中に当たっているのは書棚でもう既に後はない。
あわあわと口を開け閉めしたキョウコはついに魔法の呪文を叫んだ。
「お父ちゃん!助けてっ!」
お父ちゃんという名の魔法使いはすぐに現れた。
いや、慌てて駆けつけてきたという方が正しい。
その手には読んでいた洋書が持たれたままだったのだから。
「どうしたっ?」
「こ、こ、この人がっ」
“この人”はキョウコの発した英語ではない言葉に驚いた顔をしている。
即座に場の様子を見取ったトモロヲは苦笑すると彼女に話しかけた。
キョウコはまたもや息を呑んだ。
今日という日はどれほど息を呑めばいいのだろうか。
よく考えてみれば当然のことである。
父親はドイツ人の女性を妻とし、ドイツに留学していたのだから。
しかし、娘の前でトモロヲが外国語を操るのは初めてのことだった。
父親の唇から発せられるのはまさしく外国語だった。
この年のゴールデンウィークに祖母と行った映画を見た時は英語だったのだが、
言葉を聞くよりも字幕を読む方が大変だったキョウコである。
その時スクリーンの中にいた俳優たちのように、今トモロヲが流暢に外国語を喋っているのだ。
やがて白人女性はにこやかに笑いキョウコの頭を撫でて苦しそうに口を開けた。
「さ、よ、おぉ、な、るあ」
ああ、さようならかと理解するのに1秒ほどかかってしまった。
しかし舌が張り付いてしまったキョウコは大きく頭を下げただけで言葉が出てこなかったのだ。
代わりにトモロヲが挨拶をしてくれた。
「さよなら。Good-bye」
白人女性は小さく手を振ってその場を去った。
キョウコからすれば、去ってくれた、というところであろう。
彼女にとってゴジラ襲来級の嵐が去った後、父親への尊敬の念は大きく膨らんでいった。
お父ちゃん、すごいっ!
そんな娘の思いには気づかず、トモロヲは微笑みながら説明した。
「あの人はただお前が可愛かったから声をかけただけだよ。日本生まれの日本育ちで英語がまだわからないと言ったら驚いていた」
「まだ…って、あたし、英語なんて喋れないよ」
それは謙遜でもなくキョウコの実感だった。
今見て、聞いた生の英語など絶対に自分が喋ることなどできるわけがない。
「中学に上がれば英語の授業があるさ。今の人も日本語を勉強しないといけないと言ってたよ」
「むぅ…、でも、あたし…」
「もしお前がドイツで生まれて育っていたなら、日本語など絶対に喋れないと言っているに違いない。
クリスも…」
言いかけて、トモロヲは急に口を閉ざした。
キョウコは父親の口から母のことを聞いたことはない。
亡き母のことは祖父母から教えてもらったことばかりだ。
そして祖母から固く約束させられている。
お父様にお母様のことは聞くのではありませんよ、と。
お父様が哀しみますからねと言われ、キョウコは素直にその言いつけを守ってきたのだ。
今日、この時までは。
この時、キョウコは祖母の言いつけをつい失念してしまった。
「お母様が?」
タイミングよく合いの手を入れられたトモロヲは一瞬戸惑いの表情を浮かべたが、すぐに普段の顔に戻る。
「ドイツにいた間は日本語などほとんど覚える気はなかったのだが、いざ日本に来るとなったらそれは懸命に覚えたものだよ」
「そうだったの…。で、ペラペラになった?」
トモロヲは優しく微笑んだ。
おそらくその当時のことを思い出したんだろうなとキョウコは感じた。
「残念ながら駄目だったな。片言が精一杯だ」
「なぁんだ。じゃ、あたしも…」
「子供の頃に覚えると習得は案外簡単なものだよ。私も小さな頃から父さんに教えられたからね」
「おじいさま?」
「ああ、そうだ。おっと、本を持ったままじゃないか」
トモロヲは今更ながら手にしたままだった本に気がついた振りをした。
思い出話をしたがらないのは父の性格なのだろうと、その時キョウコは思った。
そしてそのついでに、祖母の言いつけも思い出したのだ。
「ごめんなさい」と言おうとしたが、すっと言葉に出てこない。
それは天邪鬼ということではなく、謝れば父が何故かと問うに決まっているからだ。
そうすれば祖母の言いつけを言わねばならないし、それで父が気を悪くするに違いないとキョウコは感じた。
だから、彼女は咄嗟に別の話題に切り替えた。
「それ何のご本?オートバイ?」
「ん?これか…。サイドカーというんだ。ドイツにいた時に時々乗った」
隣に座席のついたオートバイの写真が表紙に載った雑誌をトモロヲはキョウコに見せた。
その時、彼女は察した。
きっと隣に乗せていたのは母親に違いないと。
だから父はそれ以上話さずに、さっさと雑誌を棚に戻したのだろう。
トモロヲは数冊の洋書を購入し、その後別のフロアに足を進めた。
それが児童図書のコーナーだったのでキョウコは驚いてしまった。
父親は子供たちの間を歩いていき、すぐに目当てのものを見つけ出したようだ。
彼の背中を追ったキョウコは目の前に差し出された本の題名を読む。
「エーミールと探偵たち?うん、読んだことない」
それならばと父親は本をカウンターに持っていく。
紙袋に入れられた本を父から渡され、キョウコは小さく「ありがとう」と言った。
それが面白い本かどうかまったくわからないが、とにもかくにも父親に買ってもらった本なのだ。
嬉しくないわけがない。
戸惑っているのは買ってもらったのが唐突だったからだ。
赤鉛筆のようにどれがいいかと訊かれた訳でなく、最初からこの本をと決めていたことに彼女は首を傾げてしまったのである。
その理由を教えてくれたのは、喫茶室だった。
プリンを食べ終えたキョウコにトモロヲは突然本の話を始める。
「あれはな、クリスが好きだった本だ。まだ子供の時に読んで大好きになったらしい」
「そうだったんだ」
「キョウコ」
トモロヲは真剣な顔で娘を見つめた。
その表情を見て、キョウコは背筋がすっと伸びるのを感じたのだ。
「あの本を書いたケストナーという作家はな、政府に、ナチスに目をつけられ焚書されたのだ」
「焚書?」
「本を集めて焼くことだ。あの本は児童文学だから免れたらしいが、その他のすべての本がドイツのあちらこちらの町で集められて広場で焼かれたそうだ」
「悪いことをしたの?」
「いいや。ナチスの政策に反対していたからだよ。
児童書は免れたといってもそういう作家の本を公然と持つことはできない。クリスはそれからずっとベッドの下に隠していたんだ」
トモロヲは優しいが、しかし厳しさをこめた眼差しで娘を真っ直ぐに見つめた。
「そういうことがあったと覚えておくといい」
キョウコはテーブルに置いた袋を見下ろす。
今しがた父親に見せられた本の表紙はこんな話など想像もできない感じの絵が描かれていた。
「大丈夫だよ。私も船の中で読んだが面白い小説だ。怖いところなどない」
「船って、日本に帰る?」
「ああ、そうだよ」
「じ、じゃ、その…お母様が持ってきたの?その本。もしかして家にあるの?」
「あるさ。空襲を受けなかったからね。今は私の本棚に置いてある」
「そうなんだ」
トモロヲは少しばかり照れながら娘に言った。
「しかし、あれはドイツ語だからね。残念だが、キョウコには読めない。だから日本語に訳された本を買ったんだ」
ああ、そういうことだったのか。
キョウコは理由を聞いて嬉しかった反面、幾分かの腹立ちを覚えた。
それは父や母に対してではない。
自分がドイツ語を読めないことについてだ。
ドイツ語だけでなく、英語もまったくできない自分が腹立たしい。
「読んで面白かったなら、他にも児童文学を書いているからね、ケストナーは。機会があれば読んでみるといい」
「うん、わかった」
娘の返事に満足したのか、トモロヲは残りのコーヒーを飲み干した。
「よし、帰るぞ」
丸善を出て、自宅に戻るために二人は都電の停留所へと歩いた。
運悪く都電は発車したばかりだったので、親子は寒風吹き抜ける道路の真ん中に取り残された形になった。
5分も待たずに次は来るだろうが、こういう都電の乗り場に立っていると何となく不安げに感じてしまう。
特に日本橋のような車の通りが多いところではなおさらだ。
キョウコはちらりと隣を見た。
父親は反対側の手に荷物を持っていて、彼女の側の方は手ぶらである。
チャンスと思ったかどうか。
自分でもわからないうちに、キョウコは父親の手を握った。
予想通り父の手は大きく、そして温かかった。
「ん?寒いか?」
「ちょっと」
「マフラーをすればいい。持ってきているのだろう」
「そこまではいい」
「そうか」
父はしつこく言ってこなかったので、キョウコはほっとする。
マフラーをするためには繋いだ手を外さないといけないからだ。
できれば、このまま家まで手を繋いでいたい。
彼女のその思いは都電に乗るまでは叶えられた。
しかし、意外に都電は空いていて二人は隣り合わせに座ることができたのだ。
さすがにその状態では手を繋いでいるわけにはいかない。
離した手はまだ父の手の温かさを残しているようにキョウコは感じた。
その幸福感も手伝って、彼女はずっと考えていたことを口にしたのだ。
「ねえ、お父さん?」
何だと見下ろしてくる父親に、キョウコは熱意を込めて見上げた。
この願いはぜひとも叶えて欲しい。
今日は次々と思いが叶う日なのだから、これもお願いします。
彼女は神様に祈った。
「英語、教えて?ドイツ語も一緒は無理でしょう?だから先に英語の方から」
「ほう…。丸善でのことが気になったのか?」
「うん、それもあるけど。でも、えっと、つまり、お父さんの英語が凄かったから」
「仕事だからな」
「へ?お父さんってテレビとか作ってるんじゃなかったの?英語を喋るのが仕事?あれ?」
父親の仕事のことを直接聞いていないキョウコは戸惑った。
ラジオやテレビを作る会社に勤めていることだけは知っているが、具体的なことは何も聞かされていないのだ。
「外国の客の相手をするんだ。英語ができるからな。芸は身を助けるというが…」
少し寂しげな表情に見えた父に、キョウコはずっと気になっていたことを意を決して訊ねてみた。
「飛行機は?もう空を飛びたくないの?」
少しは返事を躊躇うかと思ったが、トモロヲはすぐに口を開いた。
「いいや。もう充分だ」
「どうして?」
今度は返事に時間が掛かった。
トモロヲはにやりと笑うと、キョウコの手をぽんぽんと叩いた。
「もしゴジラが出てきたらどうする?戦闘機に乗ったお父さんはすぐに飛行機ごと…」
叩いた手をひっくり返し、爆発する様を手真似する。
「それでもいいか?」
「いやだ」
「だろう?ゴジラが出てきたらお父さんはおばあさんを背中に担いでキョウコの手を引っ張って逃げないとな」
「じ、じゃ、あたしはお母さんとおじいさまの写真を…あ、位牌とかの方がいいのかな?」
「写真の方がいいな、私は」
トモロヲはもう一度キョウコの手を優しく叩くと、優しく微笑む。
そして、仕方がないなという口調でこう言った。
「今晩からだ。英語用のノートを用意しておきなさい」
「う、うん!運動会でもらったのがあるからっ」
「1等賞のか?」
「うん、1等賞のっ。赤鉛筆も使う?」
「ああ、使うだろうね」
キョウコは満足気に笑った。
家に帰れば、買ってもらった赤鉛筆をナイフで削ろう。
そしてノートの表紙に、何のノートかということと自分の名前を書こうと決めた。
さすがに赤鉛筆ではどうかと思うので、父親から貰った事務用のボールペンにすればよい。
ああ、そうだ、日付も書いておこう。
英語の勉強ノート、惣流キョウコ、昭和29年11月14日、と。
この日のことは一生忘れられない。
キョウコはこの日をゴジラの日としてずっと記憶に残しておこうと決めた。
それから1年半の月日が流れた。
昭和31年4月、惣流キョウコは自己紹介をしていた。
座席は50音順に並んでいるので、彼女は22番目に挨拶をしたわけだ。
最後尾の彼女は自分の名前を名乗ったあとにぐるりと教室を見渡す。
教壇の担任教師を含めて、この場にいる者はすべて女性だった。
「こんな顔をしていますが、日本生まれの日本育ちです。
出身小学校は…」
祖母の策略で彼女の出身校を受験させられたキョウコは見事に合格してしまった。
このようなお嬢様学校には興味はなかったキョウコだったが、今更どうしようもできない。
しかし、自分は絶対にお嬢様ではないということをこの挨拶で周囲に叩き込んでおこうと彼女は決めていた。
キョウコは肩甲骨の辺りまで伸ばした金髪を右手でさらりと払った。
「これまでに見た映画の中で一番好きなのは…」
キョウコはにやりと笑った。
「だんぜん、『ゴジラ』です」
きっぱりと言うと、彼女はどさりと椅子に座った。
教室中はざわざわとざわめく。
この中の8割以上が初等部から上がってきたのだ。
そんなお嬢様方に『ゴジラ』の良さはわかるまい。
おそらくあの映画を見たこともない人間がほとんどの筈だ。
これで変人とレッテルが貼られるだろうし、入学式以降あれこれと声をかけられ続けたことからも免れることができるに違いない。
みんな示し合わせたかのように第一声は「日本語はわかりますか?」なのだ。
親切なお嬢様方なのだが、いい加減キョウコはうんざりしていたのである。
教師はざわめきを収め、次の生徒に自己紹介をするように促す。
最初のホームルームが終わり休憩時間になったが、キョウコの目論見どおり誰も寄っては来ない…筈だった。
「はじめまして、惣流さん」
前の方の席から一目散にやってきた少女がこんな短距離なのに息を切らせて挨拶をする。
「あ、えっと、あなたは確か…」
「出席番号3番、碇ユイ!仲良くしましょ!」
ぐっと突き出された手を払いのけるわけもいかず、キョウコは短い髪の少女と握手した。
「私は特待生。お嬢様じゃないから、ゴジラの良さはよぉく知ってるわ。ねっ、友達にならない?ねっ、なろうよっ。損はさせないから。
あのね、うちは本屋なのよ。欲しい本があったらすぐ注文してあげるし、予約もちゃんとしてあげる。どう?」
まるで機関銃のように喋り捲る少女にキョウコは悪戯っぽく笑った。
「あら、じゃ洋書も大丈夫?」
「洋書って…アメリカとかの?うぅ…」
唸り声を上げた彼女は、それでも手は繋いだままで小さく「意地悪」と呟いた。
しかしキョウコは相手の反応など気にもせずにしらっと言う。
これくらいのやり取りで傷つくようでは友達などなれる気がしない。
「こんな意地悪でよければ、友達になりましょうか?ところで、ケストナーは置いてる?」
「ある、ある!私、エーミール大好きなの!他のも当然置いてるわよ」
彼女は興奮ついでに握手した手を上下に振った。
ケストナーの本の題名を並べ立てる彼女に、ふふふとキョウコは笑った。
「よしきた。それならOKよ。どうもあなたとは気が合いそう」
「合う、合う!絶対に合う!私ってそういうのが凄くわかるの!嬉しい!」
キョウコはにっこり笑い、握手したままの手をもう一度ぐっと握った。
生涯の親友と出逢ったということまではわからなかった。
しかし、この同級生とは仲良くやっていけそうだと感じていたのだ。
「ねっ、アンギラスは見た?ゴジラは氷の中で生きてるよね」
「はっ、ゴジラを倒せるのはオキシジェンデストロイヤーだけに決まってるわ」
装丁が破れるほどに読んだパンフレットの知識を持ち出すと同級生は嬉しげに笑った。
「ねぇ、あなた…キョウコさんはどっちが好き?ゴジラとアンギラス」
「私?」
キョウコは普通の返事を返してなるものかと、しかしある意味で本音で答えた。
「私が一番好きなのは、芹沢博士よ」
「へ?」
ゴジラと刺し違えて死んだ、隻眼の青年科学者の名前を持ち出されて彼女は目を丸くした。
そして、あれは怪獣じゃないとげらげらと笑い出したのだ。
キョウコの父親を見たことがない彼女は、父と似た顔立ちの博士を好きだというキョウコの真意まではさすがに見抜けない。
あのゴジラの日を境にして、キョウコの父親への思いはかなり強くなった。
もっとも、あの日。
あの日がどうしてあんなに自分の思い通りになったのかは、その日のうちにわかってしまったのだが。
夕御飯の後、父親にまずアルファベットから教えてもらったキョウコは26個の文字を一生懸命に覚えた。
そしてその日の授業が終わったとき、トモロヲはすまなさ気に娘に言ったのだ。
来週は仕事で日曜日でも会社に行かないといけない。
だから今日は1週間早い誕生日祝いだ、と。
キョウコはその時ようやく今日の幸運の意味を知った。
なるほど、そういうことだったのか。
来週の11月21日は彼女の11回目の誕生日だ。
今日のあれやこれやは誕生日のプレゼントだったのだ。
しかし理由がわかってもそれがどうだというのだ。
畳から腰を上げたトモロヲが襖を開けようとした時、彼女は父親の背中に飛びついた。
「お父ちゃん、大好き!」
理知的で細面のトモロヲはすっかり仰天してしまい、この娘をどのように扱えばいいのか悩んでしまった。
まさかこういう時に妻にしたように接吻するわけにはいくまい。
このまま彼女をおんぶして家の中を歩くというのもどうだろう。
彼はただじっと娘に抱きつかれたまま、廊下の電球を見上げていた。
「やれやれ、ああいう大胆なところはクリスさん譲りですかね」
茶の間にいた祖母は耳だけで状況を大体把握していた。
彼女はそんな独り言を呟くと、ずずっと熱いお茶を啜った。
「しかし、お父ちゃんはいけませんね」
キョウコの祖母は渋面を浮かべたが、どことなく嬉しさが滲み出ている。
不器用な息子と孫の距離が少しでも短くなればよい。
これが彼女なりの孫への誕生日の贈り物だったのだ。
(おわり)