彼方からの手紙
(11) 〜 (12)
(11) 2016年12月
愛するアスカへ。
もうすぐ誕生日ね。
今年は私とシュレーダーだけでなく、ハインツからもプレゼントがあるわ。
彼ときたら、ずっと悩んでいるのよ。
何を贈ればアスカは喜んでくれるのだろうかって。
私は何でも喜ぶわよと言ってあげるんだけど、
シュレーダーが“変なものをプレゼントしたらお姉ちゃんは二度と口を聞いてくれないよ”などとからかうの。
それを真に受けて頭を抱えてしまうのだから、どうしようもないわ。
さあ、いったい何にするつもりなのかしらね。
私も楽しみ。
親愛なるママへ。
本物のパパからプレゼントを貰うなんて何年振りかしら。
7歳までは間違いなくパパからだったわよね。
8歳からは急にセンスがよくなったから、ママがパパの代わりに贈ってくれてるってすぐにわかった。
それだからつき返さずに貰っていたのよ。
本当にパパに悪いことをしたって思ってるの。
一生懸命に選んでくれた誕生日のプレゼントを中身だけ見てそのまま返していたんだもん。
でもね、中身を見たのは私が意地汚いからじゃないのよ。
きっとパパを憎んでいても、心のどこかでパパを求めていたんだと思うの。
だから包装を解いて中のプレゼントを見て、それから鼻で笑っていた。
趣味が悪いとか、子ども扱いしてとか、品物で釣ろうとしてとか。
ママにも悪かったわ。
わざとビリビリに破った包装紙を一緒に箱の中に詰め込んだプレゼントを持って帰らせたんですもの。
しかもわざわざ呼び出して、ね。
今、もし私があの場所にいたら、あの生意気な娘の頬を往復ビンタするわね、絶対に。
ママも引っ叩いてやりたかったんじゃない?
本当にごめんなさい。
パパにもそう言っておいて。
ううん、そういうことは自分で言わないと駄目よね。
今年のプレゼントを受け取ったら御礼の電話をするから、その時にちゃんと謝る。
だからパパが逃げないようにしておいて、お願い。
それからプレゼントの中身は何でもいいから。
あ、パパのセンスに期待していないって意味じゃないわよ。
カレンダーが12月に切り替わった。
アスカは不安だった。
シンジが誕生日のプレゼントに何を選んでくれるのかを。
彼の誕生日に選んだのは、チェロのケーホルダー。
それは今もチェロのケースにぶらさがっていて、
アスカが隠し持っている同じキーホルダーの方は彼女の引き出しの宝物入れで待機している。
晴れて彼氏彼女になった暁には、アスカも学生鞄に取り付けようと思っているのだ。
さて、その計画はいつ叶うことだろうか。
その遠大な計画はともかく、問題はシンジからのプレゼントだ。
アスカの誕生日の存在は幸いにも彼に伝わっている。
もっともこれは彼女唯一人の視点であり、
現実には彼はずっと前から誕生プレゼントを何にするか悩みに悩んでいたのだ。
しかし、その誕生日の出来事を語る前にある事件を記さねばならない。
何しろ11月の末には彼らを震撼させる大事件がおきたのだ。
葛城ミサト、女児出産。
11月28日だった。
急に産気づいた彼女は、慌てふためく婿養子を叱咤激励しながら産婦人科へ。
アスカたちも知らせを聞いて夜の街を自転車で走った。
そして目にしたのはあの加持(元姓)リョウジのおろおろとする姿だった。
分娩室に入ってもう30分になるが本当に大丈夫なのだろうかとリツコに問う姿を見て、
アスカもシンジもその目を疑った。
ましてリツコが「わからないわ」などと真正直に返したものだから、その後の彼はまさに動物園の熊。
口の中でブツブツ呟きながら廊下を歩き回る。
椅子に座っても30秒も経たないうちにすぐに腰を上げてしまう。
そんな彼の姿にアスカは驚いてしまった。
およそ何事にも動じない、飄々とした男だと思っていたのに、こんな姿を隠そうともしない。
その姿にアスカは自分の父親をだぶらせた。
自分が生まれたとき、あの父もこんな風になってくれたのだろうか。
それならば、物凄く嬉しい。
リョウジを見るアスカの眼は温かかった。
それがこの後の騒動の元になるとは彼女はまるで気がつかなかったのである。
彼女の眼差しを錯覚したのはシンジだった。
優しい視線がリョウジに投げかけられているのを間近で見ていたのだ。
そもそも加持リョウジは彼の憧れの存在だった。
あんな大人になりたいと思っていたのだ。
最近になって何故そんな風に思っていたのか、少しわかりはじめている。
アスカの影響だった。
彼女が慕うリョウジの存在を大人の、いや男の理想像として捉えた。
シンジのような少年としては当然の感想だっただろう。
それが微妙に変じていったのはどうしてか。
もちろん今でも彼に好意は持っている。
ところが時に彼の存在が疎ましく感じることがあり、自分でも驚いているのだ。
その理由は今となってはよく分かっている。
アスカだ。
使徒戦時、アスカはやたら加持の事を口にしていた。
その時分は「またか」という程度の反応だった。
だが、サードインパクト後は違う。
彼女への恋心に気がついてからは加持を見る目が変わった。
彼の姓が葛城になっても、ミサトのお腹に赤ちゃんができても、それは同じだった。
いや、寧ろ逆に疎ましさの方が強くなってきたのかもしれない。
親しげにアスカに話しかけるくらいならまだいい。
だがリョウジが何気なくアスカの肩に手を置いたり、頭を撫でたりすると胃のあたりが重くなってしまうのだ。
それは自分がしたくてもできないことを
いとも簡単にリョウジがしてしまうことに対する腹立たしさに起因することだと容易にわかった。
しかもそれに対してアスカが怒ったり、いやな顔をしないから余計にシンジの心は曇った。
寧ろ嬉しげな表情に見えるのだ。
自分の想いを打ち明けられないもどかしさも手伝った、その恨みとも嫉妬心ともつかない微妙な感情は
アスカ本人ではなくリョウジの方に向けられたのである。
想い人を憎むわけにもいかず、逆恨みとも言える感情を抱かれたリョウジもいい迷惑だろう。
もっともその感情を押し殺して…、いや、そんな気持ちになる自分を責めてしまうシンジだから、
表面上はリョウジにもアスカにも気づかれていなかったのだが。
だが、ここに約一名。
野性の本能か勘か。
出産という大事業を成し遂げたばかりの女がシンジの感情に気がついたのである。
病室でみんなの祝福を受け満面の笑みの葛城ミサト。
シンジの微妙な表情が彼女の目にとまった。
アスカにからかわれたリョウジが彼女のおでこをつんと突付いた時、シンジは思わずさっと目をそむけてしまう。
まるで第3新東京市に来たばかりの頃のような暗い表情が一瞬彼の顔に浮かんでいた。
そういうことか。
ミサトは微笑んだ。
二人は彼女の大事な弟と妹なのだ。
もう使徒戦の時のような思いはさせたくない。
ましてや自分たちが原因になるようなことで。
「リツコぉ、退院ってやっぱ一週間なのぉ?」
「さあ、知らないわ。個人差があるんでしょう。5日くらいの人もいると聞いたわ」
「よしっ、じゃ5日に決めた。そうしたら誕生日に間に合うもんね、へっへっへ」
「あら、あなたの誕生日は真珠湾攻撃の日じゃなかったっけ」
「もうっ、せめて針供養の日って言ってよぉ。って、私のじゃなくて、アスカの誕生日じゃない」
「あ、なるほど」
出産を終えた妊婦と2ヶ月後に予定日を迎える妊婦が見事に呼吸を揃えた。
このあたりの呼吸は誰にも真似はできない。
二人はアスカを見て微笑んだ。
「12月4日が日曜日でよかったわね。パーティーがお昼にできるから」
「私は夜の方がよかったわン。って、赤ちゃんがいるから駄目か、やっぱし」
「じ、じゃ、料理とか僕がっ」
ようやく口を挟んだのはシンジだった。
その顔にはさっきの一瞬の暗さなど微塵も感じられない。
今の発言も一歩どころか二三歩前に出てのものだけに、アスカを始め室内の人間全員が笑顔になった。
「私も手伝う。洞木さんもきっと」
レイの微笑みも嬉しげだ。
赤ちゃんをガラス越しに見たが、正直に言うと別に可愛いとは思わなかった。
だが、その誕生をこんなに喜ばれるということは羨ましくもあり、楽しくもある。
人間の誕生というものを身近で知ることのなかった彼女は、
誕生日を祝う意味合いが何となくわかってきたような気がしていた。
シンジの誕生日を雰囲気で祝っていた時と違って、
今度のアスカの誕生パーティーは自分も楽しめそうな気がしてきた。
何を準備をするかを考えるだけでもわくわくしてくる。
アスカは何も言えなかった。
ありがとう、そう小さく呟くだけすらできなかったのである。
ただ俯いて頬を染めているだけ。
しかし、それだけのことで大人たち三人には充分伝わった。
だが、結果から言うと、
産婦人科にいたミサトが動けなかったことが事態を悪い方向へと動かしてしまったのである。
動けないミサトにプレゼントの購入を頼まれたリョウジが娘誕生に気分を良くしてサービス精神を発揮してしまった。
上限5千円と妻に言われていたにもかかわらず、気が大きくなっていた彼は数枚の万札を財布に忍ばせていた。
しかも彼はその能力を駆使してアスカの喜ぶものをリサーチしていたのである。
彼には罪はない。
罪はないが、この時ばかりはいささか状況を読み損なっていたと言えよう。
彼の情報源となったのは、碇レイだった。
彼女はリョウジの知りたいことをすっかり喋ってくれた。
アスカが欲しがっているものを。
この時、彼がウキウキ気分でなければ、もう少し踏み込んでいたかもしれない。
ただ、使徒戦時と違い、レイとアスカの仲がいいということだけで甘く考えていた。
確かにアスカはレイと友人となり、何でも喋ってはいる。
だが、この時プレゼントに何が欲しいかなどということをあまりに詳しく喋りすぎていた。
しかもレイからのプレゼントは別のものを指定していたのである。
赤色のエプロンが欲しい、と。
この指定にはレイは喜んだ。
何しろプレゼントに何を買えばいいのかまったくわからなかったのだから。
贈り先からのリクエストなのだから、レイにとっては渡りに舟。
にっこり微笑んで、それを誕生日にプレゼントすると宣言したのだ。
その直後にアスカはさりげなく(彼女としては)はっきりと(相手がレイだから)秘密を漏らしたのだ。
男の人からは青色のペンダントが欲しい、と具体的にアスカは語った。
さすがにシンジからとまでは言えないし、シンジに伝えてくれとも言えやしない。
そこである程度まではっきり言い、誰にも秘密にする必要はないと言うにとどめた。
そして、シンジにそれとなく(彼女としては)おぼろげに(相手がシンジだから)告げたのである。
「レイったらリクエストを訊いてくるのよ。
だからさ、こ〜ゆ〜のがいいって言ったの。
そしたらさ、それは男の人からもらう方がいいと思う、なぁ〜んて言われちゃったのよ。
レイもなかなか言うようになったわよね、はははははっ。
結局、男の人からのプレゼントのリクエストをレイに話しちゃったってわけっ」
いささか語尾に力が入ってしまったのは仕方なかろう。
今回のアスカの命題は、シンジから青色のペンダントをプレゼントしてもらいたいということである。
もちろん彼女の意向を調査してくれているのかどうかも問題なのだが、
ふと手にした情報誌にこんなことが書かれていたのだ。
12月生まれのあなたは意中の人に青色のペンダントをプレゼントされればその想いが叶うでしょう。
最初は鼻で笑ったものだが、一度読んでしまうと気になるものだ。
青色というと12月の誕生石である、トルコ石かラピスラズリを意味しているのだろう。
要は誕生石をプレゼントしてもらうと恋が叶う、という単純な判じ物にすぎない。
しかし、そんなものにでも縋りたくなるのはアスカとしては当然の帰結であろう。
指輪などではサイズの問題が出てくるがペンダントなら色さえ伝われば大丈夫ではないか。
こうして彼女はシンジから青色のペンダントをプレゼントしてもらえるように苦心することになったのだ。
そして、その情報はシンジに伝わった。
彼は3ヶ月前からお小遣いを貯めていき、総額5千円の予算を手にしていた。
レイからの貴重な情報を受け、おっかなびっくりで調査したところ何とかそんな予算でも購入は可能だ。
シンジは喜んだ。
アスカの欲しいものを贈ることができる。
彼は顔を真っ赤にしながら、それでもできるだけきれいなペンダントにしたいとショップを回った。
5千円の予算で買えるものには、廉価で若い恋人が購入することが多いためかハート型のデザインが多い。
さすがに現状のシンジがアスカに贈ることができるデザインではない。
贈れば最上級の喜びをアスカが示すことなど彼の想像の域を超えていた。
そんなものを渡せば突き返されると思い込んでいたのだ。
結局、彼はトルコ石のペンダントにした。
逆三角形で水色に近いものだ。
本当はラピスラズリの方にしたかったのだが、彼の予算ではハート型のものしかなかったのである。
きっと“青色の”というのは誕生石を意味しているのだという推理があったので、
トルコ石でいいだろうと考えたわけだ。
これが彼の財布の限界だった。
彼の予算の12倍の金額でリョウジがラピスラズリのペンダントを購入したなどとは夢にも思わずに。
12月4日。
アスカは朝から碇家に追放されていた。
レイを送ってきたゲンドウの車に収監されて、彼女は隔離されてしまった。
すっかり舞い上がってしまって誕生パーティーの準備の邪魔になるからだ。
何しろ3日前にレイにプレゼントのことをシンジに喋ったと聞き出してから、
ナチュラルハイ状態が続いているアスカだ。
もしプレゼントが青色のペンダントじゃなかったらどうしようか。
そんな不安よりもプレゼントがそのものズバリであったならという、嬉しい方の想像が逞しくなってくる。
にんまりと笑っている少女の顔をルームミラーで垣間見るのはいささか不気味なものだ。
何しろレイの微笑を菩薩と例えるならば、アスカのそれは黄金仮面の如きものであったから。
ゲンドウは運転に集中した。
アスカが待ち望んでいるものはシンジの部屋に隠されていた。
誰も家捜しなどせぬというのに、引き出しの奥の奥。
そこにトルコ石のペンダントはきちんとラッピングされて出番を待っていたのだ。
誕生日のパーティーが始まったのは、午後1時。
参加者は碇家からはレイに加えてゲンドウとリツコの夫婦。
中学校からはヒカリと彼女に強制参加させられたトウジとケンスケ。
新婚の青葉夫妻と、最近彼女ができたという噂の日向マコト。
ゲンドウに連行されてきた冬月コウゾウも窓際の椅子に座っている。
そして、長居はできないのよねと赤ちゃんを大きな籠に寝かせて連れてきたミサトとリョウジだ。
平日に催されたシンジの時と違い、日曜日のお昼だけに千客万来、まるで同窓会のようである。
ただし司会者がいるわけでもなく、出し物があるわけでもない。
飲んで、食べて、喋って。
そのようなものでしかないのに、アスカは嬉しくて仕方がなかった。
彼女は暫しシンジのプレゼントのことを忘れ、心地良い空気に抱かれていた。
飲んで、食べて、喋って。
それらが一段落して、まるで示し合わせたかのように場が静かになる瞬間がある。
それを狙い済ましたかのように赤ん坊の泣き声が部屋に響いた。
「わっ、忘れてたっ」
一杯だけだと釘を刺されて、ちびりちびりとビールを楽しんでいたミサトが椅子から立ち上がる。
「あら、お乳?」
何気ないリツコの一言にうら若き少年たちは一様に顔を赤らめ、何故かマコトも真っ赤になった。
悪びれもせず、照れもせず、ミサトはさっさと赤ん坊の元に。
「ミサトの母乳ってアルコール入ってんじゃないの?」
アスカの冗談にみんなが笑う。
「失礼ね!ずっと禁酒してたんだから、アルコール分ゼロよっ!」
「じゃ、これからもそうしないと」
「あちゃぁ、晩酌くらいにしとくからさ。それならOK。問題なし」
「葛城さんの晩酌って何本飲むんですか」
「缶ビール1ダースは固いわね」
アスカだけでなく、マヤやリツコまで半畳を入れる。
「もうっ、1本にしてるわよ、1本に!」
「樽で1本じゃないの?」
「樽は本で数えませんっ。やっぱ、アスカは日本語駄目ねぇ。そんなんじゃ受験失敗するわよ」
「はっ、首席合格狙ってんのよ、アタシは」
こんなことを立ち止まって話していたわけではない。
赤ちゃんを抱き上げ、授乳のためにアスカの部屋に向かうミサトに女性陣全員がくっついていったのである。
そして最後に部屋に入ったアスカは振り返ってびしりと言い放った。
「男子禁制!覗いたら殺すわよ」
ぴしゃんと閉まった扉を見て男たちは苦笑い。
「さすがの俺でもなぁ」
ケンスケは眼鏡を取って天井を仰いだ。
正直に言うとミサトの裸に興味はあるが、だからと言って赤ん坊に乳を含ませる姿を見て欲情など覚えようがない。
「やはり何か。授乳というものは珍しいのだろうか、今となっては」
「子供の数が少ないですからな。昔とは違って」
感慨深げな冬月とゲンドウの会話を聞いて、一同はそういうものかと頷いていた。
しかし、そんな感慨も扉の向こうから漏れてきた声に消し去られてしまったのである。
「わっ、飲んでるっ」
「当たり前でしょ。でも、おいしそうね」
「ふふん、製造元がいいからよ」
「だけど、おいしいのかしら?本当に」
「あら、マヤ。忘れちゃったの?」
「うちはミルクだったみたいなんですよ。先輩は?」
「さあ、多分ミルクでしょ」
「これと牛乳は違うの?」
「もうっ、レイったら!牛乳は牛でしょっ。ま、ミサトのは牛も顔負けだけどさ」
さすがの葛城リョウジも周囲の者の視線が怖く顔を伏せる。
確かに彼女の胸はリョウジの知る限りトップクラスであった。
こういう部分になるとケンスケやトウジの表情もにやけてしまう。
「人間と牛で、味が違うの?」
「とぉ〜ぜんじゃない!って、飲み比べたことないけどさ」
アスカに母乳かミルクかの記憶はない。
今度父にそっと確かめてみようかとも思うが、今はこう言ってしまってもいいだろう。
母と言う存在を持たないレイに彼女はそのように言い切った。
「じゃ、確かめてみたい」
「ええっ」
叫んだのはアスカだけでなく、ヒカリとマヤも同様だった。
ミサトとリツコは微笑んだだけである。
因みにリビングの男たちは思わず顔を見合わせた。
そしてリョウジが囁いたのである。
「あれは美味くはないぞ」
続いてゲンドウが唇を開きかけた。
すると傍らの冬月が彼の肩をぐっと掴んだのである。
「ゲンドウ。私の美しい思い出を汚さないでくれないか」
「むぅ…」
呻いた彼の耳は赤く染まった。
「ちょっと待ってね、レイ。うちの娘が飲み終わって、げっぷをしてからよ」
「了解」
何事かぺちゃくちゃと喋っている女性たちと違って、リビングの方は一種独特の沈黙が訪れていた。
その沈黙の意味を口にしたのはトウジだった。
「やっぱしあれかいな。ミサトはんの胸をちゅうちゅうするんかいな、あいつが」
返事はなかった。
まったく男というものはいらぬ妄想をするものである。
あのシンジでさえそうだったのだから、もしアスカがこのことを知ったならデコパッチン程度ではすまなかっただろう。
しばらく後、レイはミサトの母乳をぺろりと舐めた。
掌に出してもらった母乳の味は彼女の顔に戸惑いを浮かべさせたのである。
美味しくはないし、何とも形容しようがない。
牛乳をイメージして味わうのだからそれももっともなのだが。
珍妙な表情に好奇心がそそられたのか、結局全員が母乳を味わった。
リツコまでもが。
「これが、赤ちゃんにはいいのかしら?」
「これがって何よ。もうすぐあんただって出るようになるのよ」
「私に出るかしら」
「さあね。でも成分調整なんてするんじゃないわよ」
「まさか」
真顔で否定するリツコの顔がおかしくて、みんなが笑う。
微笑むレイはミサトの腕の中の赤ん坊を覗き込んだ。
「もう、寝てる」
「寝るのが、赤ちゃんの仕事だからね。で、お腹が空いたら泣いて」
「それから、お漏らししても泣く、と。
お母さん、早く気がついてよって」
「リツコ、それどういう意味よ。
まるで私が放りっぱなしにしそうって風に聞こえるじゃない」
「あら、ごめんなさい。一般論だったんだけど」
眠れる赤子に遠慮して、女たちの笑い声は小さくなっていた。
「まあ、味を知りたかったら結婚して赤ちゃんを作って、奥さんに頼んでみるんだな。それしかない」
リョウジが結論を出し、男たちは苦笑した。
「では、一番早く味わうのは青葉君かな」
「いや、うちはまだ…。もしかするとマコトのヤツがフライングして…」
「そ、そんな、俺はそこまで…」
口走ってしまい顔を真っ赤にしたマコトを見て、部屋の空気が和む。
その時そっと冬月がゲンドウをたしなめた。
「何も言うな。一人でこっそり味わっておけ」
こういう話題になると冬月のゲンドウへの対応はきつい。
生涯独身者のやっかみだと思って、彼は耐えることに決めた。
そして、15年ぶりに母乳を味わうことも固く心に誓ったのである。
まさか乳房に直接とまでは考えもしなかったが。
誕生パーティーの主役はアスカでないような気がして、シンジはそれに少し腹がたった。
しかし、当の彼女はけろりとした顔で赤ちゃんの話題に加わっている。
アスカは別に中心が自分でなくてもいいと思っていた。
パーティーだけでなくすべてにおいて。
但し、それには大きな注釈がつく。
碇シンジにだけは中心でなくてはならない。
そうあって欲しい。
彼女の希望とは裏腹に、現実に彼の世界の中心はアスカだ。
彼女の中心がシンジであることと同様に。
さて、いささか不満顔のシンジだったが、赤ちゃんのためにミサトたちが長居するわけにもいかず、
パーティーはもうすぐお開きということになった。
そして、アスカが待ちに待った誕生日のプレゼントの授与式である。
レイが贈る赤いエプロンに続いて、ヒカリのお鍋と鍋つかみセットやトウジのキッチン小物。
どうやらそれはヒカリの見立ての気配が濃厚だったが。
そして、みんなを唸らせたのはケンスケのとっておきだった。
運動会の写真。
アスカがシンジをおんぶして疾走する場面を見事に捉えたものだ。
真剣な眼差しのアスカにひきかえ、照れまくっているシンジの表情のアンバランスがたまらない。
この写真を大きく引き伸ばして、パネルにしたのである。
「アリガト!いい場所に飾るからねっ」
頬を真っ赤に染めながらアスカはケンスケに誓った。
そして、大人たちも思い思いのプレゼントを彼女に贈った。
そのやり取りをシンジは胸をドキドキさせながら見ている。
別に自分がトリを務めようとは思っていなかった。
例によってタイミングを失っていただけだ。
だから彼はプレゼントの小箱を手に突っ立っている。
喉はからから、背中に汗。
ところが、その汗が一瞬でひいてしまった。
リョウジが彼のものと同じようなサイズの小箱をアスカに渡し、
その包装を彼女が捲った時だった。
中に入っていたのは、ラピスラズリのペンダントである。
アスカは声を失った。
周りの者は溜息を漏らす。
見るからに高価なものだとわかったからだ。
自分の設定した予算とは違うのがわかり、ミサトは誰にも聞こえないように「こら」と小声で傍らの夫を叱り付けた。
リョウジはそれに対し、別にいいだろとアイコンタクト。
あげてしまったものは仕方がないとミサトが溜息を吐いた時だった。
彼女の野生の勘が働いた。
目の前のアスカは明らかに動揺している。
それは高価なプレゼントだからではないように見えた。
そして、部屋の外れにいるシンジに眼を移すと、彼は泣き出しそうな顔をしていた。
まるでこの街に来た頃のように情けない顔つきで。
その手に小箱が握られていることを見て取るや否や、ミサトは大声を上げた。
「あああっ、こらっ!この馬鹿!プレゼント間違えてるじゃない!」
「えっ、いや、俺は」
「ごめんっ、アスカ。それ、私の誕生日プレゼントなのよ!
この馬鹿にリクエストしてたんだけどさ、間違えてそっちを持ってきちゃったみたい」
叫びながら、何も言うなと夫を一瞬で黙らせる。
「あ、そ、そうなの?」
「そうね、アスカのにすれば少し高価すぎるものね。
でもミサト。一度あげたのだから、その本当のプレゼントに何か色を付けなさいよ」
「わかってるってば、ビール1ダース…ってのはまずいから、クリスマスディナー券でもつけるわよ」
そう言いながら、ミサトはナイスフォローとリツコにウィンクする。
そのウィンクは続けてアスカにも向けられた。
アスカも勘は鋭い方だ。
詳しいことはわからないが、ここはミサトに追随する方がいいと判断した。
何しろ、彼女もシンジの表情を見てしまったからだ。
「わぁっ、儲けたっ!そうねぇ、こ〜ゆ〜高いのは、もっと大人になってからでいいわ。
一瞬、嬉しかったけどさ。へへへ」
「ごめんね。じゃ、後でさディナー券付きで本物を届けるから、これは返してね」
「OK!包装破っちゃってごめん」
袋の中に小箱と包装紙を入れ、アスカはリョウジに手渡した。
「ごめんね、葛城さん」と囁き声つきで。
事ここに到るとリョウジも自分の失敗に気がついたようだ。
彼は明るくおどけるように受け取ると、大声でぼやいた。
「あ〜あ、これでこいつにもまた別のものを付けろって言われるんだろうなぁ」
「と〜ぜんじゃないっ。楽しみだわぁ、何をプラスさせようかしらね」
この成り行きに気づいたものも気づかなかったものも笑い声を上げた。
こうして、アスカの誕生日パーティーはお開きになったのである。
大人たちは先に退出し、ヒカリたちが大急ぎで後片付けを始める。
ミサトがトウジに「シンちゃんがプレゼントを渡すから早くみんな出て行くのよ」とこっそり告げたからだ。
手伝うというアスカは主賓だからとソファーに座らせた。
そして、ケンスケがシンジに誕生日記念でチェロでも聴かせてやれよと言う。
それはシンジにとっても渡りに舟だった。
プレゼントをもう一度ポケットに収めたものの、再チャレンジのために心ここにあらずといった状態だったからだ。
チェロの音色は弾いている本人を落ち着かせるとともに、聴くアスカの心もうっとりとさせた。
彼女にとっても先ほどの様子から判断して、シンジからのプレゼントが期待度たっぷりだから胸はどきどき状態なのである。
そんな二人を微笑ましくも見守りながら、毒舌も忘れない級友たちである。
「あほらし、とっととくっつきゃええのに」
「そうだな、はた迷惑というか何と言うか」
「あなたたちぃ〜、でも、アスカたちもいい加減にしなくちゃね」
「ふふふ、面白いわ」
何がどう面白いのかというツッコミをレイに投げかけることはトウジはしなかった。
彼はあらかた片付いたリビングを見渡す。
ソファーにはケンスケの贈ったパネルが置かれ、シンジの部屋から流れるチェロの音はどことなく柔らかく、そして温かく感じられた。
まあ、がんばってんか、センセ。
彼は心の中でシンジにエールを送ったのである。
その1時間後。
緊張の一瞬が訪れようとしていた。
シンジはどうしてみんながいる時のドサクサ紛れに渡しておかなかったんだと後悔し、
アスカはマンツーマンで渡された時の対応をどうすればいいのか未だに悩みまくっている。
とりあえずどちらからともなくテーブルに向かい合って座った。
そしてシンジは何度も右のポケットに手を入れては出してを繰り返す。
それが見えているだけにアスカの焦燥感は膨れ上がる一方なのだ。
もしかしてシンジはわざと焦らしているのではないか。
いいや、あの馬鹿にそんな高等テクニックがあるはずがない。
いつものように踏ん切りがつかずに悩んでいるに決まっている。
これが他のことであれば、怒鳴りつけるなどの後押しをするアスカなのだが、
今回ばかりはそうもいかない。
何しろ自分のリクエストしたプレゼントが入っているのかどうかの瀬戸際なのだ。
今までの状況から99%彼のポケットの中には、青色のペンダントが入っているはずだ。
その筈なのだが、相手はあのシンジなのだ。
大どんでん返しで赤色のブローチとかが入っている可能性もある。
もしかすると、あの駄菓子屋のビー玉が10個ばかり入っているのかもしれない。
いや、10円チョコが何個か…。
いけない、いけない。
考えれば考えるほど、期待や予想とはまったく違うものが出てくるような気がしてくる。
シンジは何度も決心していた。
唯一言だけ言えばいいだけではないか。
誕生日おめでとう、と。
そしてポケットの中の箱を渡せば終わりだ。
それだけのことなのに、踏ん切りがつかない。
よし、言うぞ!と決心し、カウントダウンをするのだが、
残り2カウントのあたりで、「だ、だ、だめだ。まだだめだ」と弱気の虫がむっくりと起き上がってくる。
簡単にことが進むような二人ではない。
失うことを恐れて一歩踏み出すことができない。
その上、こういうことになればアスカまでもが相手を非難するのではなく、己の不甲斐なさに歯軋りする始末。
このままでは、シンジの誕生日の再現となってしまう。
手渡しするのが恥ずかしいために相手が寝てから…現実には起きていたが…部屋の中に放り込む。
渡すことはできるのだが、それでは進展しないのだ。
1年に一度のこのイベントもまた不発なのか。
期せずして、二人とも同じことを思ったその時だった。
「わっ」「きゃっ」
数十年前の黒電話ではあるまいに、優しい音色の電話のベルに腰を浮かして驚く二人。
そして「アタシが出る!」と叫んだアスカは飛びつくように受話器を取った。
「もしもし…?」
その通話の間でアスカが発した言葉は唯それだけだった。
甲高い少年の、シンジにとっては意味不明の言葉の濁流が受話器から飛び出してきたのである。
「 Hallo? Asuka?
Ich bin's! Erkennst Du mich nicht? Ich bin's, Schroeder! Dein
Bruder!
Ja, ich wollte eigentlich gleich sagen:
Herzlichen Glueckwunsch zum Geburtstag!!
Hehe. Ja, wir sind gerade auf dem Weg zur Kirche. Natuerlich zum
Gottesdienst am Sonntag.
Tja, eigentlich will ich nicht, da so langweilig... upps, verraet
mir bitte nicht!
Vati und Mutti sind noch vorzubereiten.
Ich wollte Dir einfach als Erste meiner Familie den Glueckwunsch
mitteilen,
also ich rufe Dich jetzt heimlich an! Die Nummer hatte ich schon
vorher notiert.
Ich bin klug, nicht wahr?
Tja, jemand kommt gleich. Tschuess!! Alles Gute, Asuka!!
」
ガチャンという受話器を勢いよく置いた音がシンジの耳にも届いた。
遥かドイツの音が。
アスカは呆然とした顔で受話器を置き、そしてぷっと吹き出す。
「何よこれ。アタシ、ありがとうも言ってない…」
「えっと、弟さん?」
「うん、シュレーダー。日曜礼拝に行く前にこっそりかけてきたの。
アタシにおめでとうってママたちよりも先に言いたかったんだって」
「へぇ…、何だか、えっと、何て言うんだろ、あのさ、そうだ、可愛いね」
「ははっ、変なシンジ。でも、ホント。アンタの言う通り。可愛い、凄く」
いつになく、ぶつ切りの言葉だったが、それが逆にアスカが本音で喋っていることを感じた。
微笑むアスカは少し足取りも軽くテーブルに戻ってくる。
そして、椅子に座る前に思いついた。
「ねっ、コーヒーでも飲む?」
「うん。そうだね、じゃ僕が」
腰を浮かしかけたシンジだったが、アスカはもうキッチンに歩き出していた。
「いいわよ、アタシが淹れたげる」
「でも誕生日なのに…」
「いいのっ。誕生日なんだから、アタシの好きなようにさせてよ」
そう言い残し、赤金色の髪を靡かせて彼女はさっさとキッチンの中へ。
シンジはその後姿を見送って、思わず知らず大きな溜息を吐いた。
少なくとも緊張のひとときは過ぎた。
いや、先送りになったという方が正しいが、次はちゃんと、普通に、言えるような気がする。
アスカの弟君様々だ。
コーヒー豆を量っているアスカも、特大の溜息を吐いている。
助かった。
あのままではいつか感情が爆発してしまって取り返しのつかない事態を招いていたかもしれない。
これで巧くシンジを誘導できるかもしれない。
そんな気がする。
シュレーダー様々だ。
「ふぅ、美味しいね」
「ブラックで飲めないくせに」
「仕方ないだろ。無理して苦いのを飲むより、こっちの方が美味しいもん」
シンジは美味しそうにコーヒーを啜る。
何よりもシンジの好みの量の砂糖とミルクを先に入れておいてくれたことが、彼をいい気分にさせているのだ。
そして、その表情がアスカをもいい気分にさせている。
場は充分和んだ。
だが、だからと言ってさっさと進めるシンジでもない。
彼は充分に準備体操をしてからプールに入るタイプなのだ。
「えっと、アスカの弟って…」
「シュレーダーっ?」
「うん。シュレーダー君。今、ずっと一人で喋ってたの?」
「そうよ。アタシ、もしもし、だけしか言ってないのよ」
「へぇ、それだけでわかったんだ。凄いね」
「女の声だったからじゃない?アタシじゃなくてもきっと思い込んでるわよ」
「じゃ、番号間違えてたら大変だったね」
「ホントっ。アンタにしちゃ、なかなか巧いこと言うじゃない」
楽しげに笑うアスカにシンジの口も軽くなった。
「あ、そう言えば、アスカって名前で呼ばないんだね、リョウジさんのこと」
「ん?加持さんじゃなくなったんだから、葛城さんでいいじゃない。ミサトはミサトなんだしさ」
「う〜ん、まあ、そうなんだけどさ。なんだか、葛城さんって言いにくくて」
「気にしすぎなんじゃない?婿養子に行ったから?名前なんて唯の符号じゃない」
「だったら、どうして名前の方で呼ばないの?」
アスカは内心首を捻っていた。
この会話は唯の世間話なんだろうか。
どうも違うような気がする。
「だってさ、アタシだって女の子なのよ。男の人を名前の方で呼ぶなんて抵抗あるわよ」
それは事実だった。
加持に熱を上げていた時でさえ、“リョウジさん”とは呼べなかったのだ。
「そうか、シュレーダー君は弟だもんね」
「あったり前じゃない。まだお喋りできないけど、カールだって名前で呼ぶわよ」
「そ、そ、そうだよね。は、はは」
明らかに挙動不審である。
この会話に流れを向けたときの自然さはどこへ行ってしまったのか。
もはやシンジはアスカの目を見られなくなってしまっていた。
「トウジだって名字で呼んでるものね、鈴原ってさ」
「アンタ馬鹿ぁ?ど〜して、このアタシがあんなヤツをファーストネームで…」
そこまで言って、ようやくアスカはピンと来た。
もしかしてそういうこと?
これって、物凄くいい方向に話が進んでいるんじゃないの?
まさか、シンジは告白を?
アスカの頬にさっと朱が走る。
「あ、アタシが…」
言うのよ、アスカっ。
彼女は自分を奮い立たせた。
「アタシが、ファーストネームで呼ぶのは…、呼ぶ男性は…、そ、その、つまり」
この時、シンジは顔を上げてしまった。
もし、そのまま彼が俯いていたならばアスカも反射的に言い換えていなかっただろう。
ちゃんと“好意を持っているから”という意味の言葉を発するつもりだったのだ。
ところが、当のシンジと目が合った瞬間、恥ずかしさが先にたってしまい、咄嗟に目を逸らしてしまったのだ。
顔ごと。
「決まってんじゃないっ。家族同様ってことよ。んまっ、アンタの場合は出来の悪い弟ってことよねっ、はははっ!」
あああああ〜ん、アスカの馬鹿っ!
言いたいことが言えないばかりか、まさに一言余計。
アスカは良すぎる反射神経を呪い、シンジは期待していた言葉との落差にがっくりする。
いつものように言葉のすれ違いで、せっかくのこの状況も実ることはなかった。
二人は内心の落胆を押し隠して、会話を続けるしかなかった。
「そっか、弟か…、って、僕の方が誕生日早いじゃないか」
「こ〜ゆ〜のは年齢よりも経験とか知識とかがものを言うのよ」
「そうかなぁ」
「そうなのっ。ま、アンタみたいな情けないのが弟分だから、アタシとしては目を離せないってことなのよ!」
ははは、と口では高笑い。
心の中では大泣きのアスカは、究極に至る進展はあきらめた。
ここはプレゼントを直接貰う。
しかもその中身が“青いペンダント”であれば、言うことは何もないではないか。
彼女は無理矢理に回路を切り替えた。
「ねっ、シュレーダーのプレゼントって覚えてる?」
プレゼントにアクセントを置いた発言に、シンジの身体は敏感に反応しびくんと震えた。
「え、えっと、印象画風のアスカの絵」
「こらっ、馬鹿シンジ!それはおまけでしょうがっ。それに印象画って何よっ!」
「アスカが言ったんじゃないか!これは印象画なんだって」
シュレーダーとアスカは顔を合わせたことは一度もない。
電話では何度も喋っているのだが、お互いに姿は写真でしか知らないのだ。
だから、少年は姉の姿を写真を元に描いた。
一番最近の写真はシンジが撮ったパンツ丸見えの後姿。
その前が夏休みの浴衣姿である。
「仕方ないでしょ。浴衣の写真は上半身だったんだから。見たこともない日本の服なんだもん」
シュレーダーはまるでカッターシャツのように、浴衣を上半分ですっぱりと切って下にスカートを履かせている。
おまけにそのスカートは風に膨らむように捲くれてパンツが丸見えになっていた。
黄色のスカートにピンクのパンツ。
浴衣も写真の通りにピンクでヤグルマソウが服からはみ出して描かれている。
顔を大きく描きすぎた所為で、アスカは見事な4頭身。
身体をディフォルメされた上に、髪の毛は鮮やかなオレンジ色で口よりも大きな目は空よりもはっきりした青色。
その二つの色に影響されたために、アスカの唇は毒々しいばかりの真赤々。
顔に使った色が派手すぎたのを反省したのか、
背景をど派手にして物凄い顔の色を消そうと思ったのが間違いで
鮮やかなグリーンのために余計に赤色が引き立つ始末。
しかし助言を求めた父親が言葉に窮して「20世紀初頭の印象派モゴモギョのようだ」と逃げた。
その適当な逃げ言葉を真に受けた少年は逆に胸を張ってしまった。
そして、プレゼントを詰めた箱の中にこの絵も入れたのだ。
架空の人物であるモゴモギョの、再来である天才少年画家の作品だと豪語したカードつきで。
3日前にプレゼントBOXを受け取ったアスカがお礼の電話を入れた時、
自称天才少年画家を讃える言葉に困り果てたのは余談。
「ええっと、絵の他は…彼の大好物の飴玉の詰め合わせと、ドライフルーツケーキだっけ」
「あたり。自分のお小遣いでしてくれたんだもん。シュレーダーにすれば大奮発よ、きっと」
「そうだよね。あ、じゃ、僕も彼の誕生日に何かしないと…」
よし、掛かった。
アスカは(邪悪な)笑みを漏らさぬように顔を引き締めた。
「はぁ?どうしてよ」
「だって、僕も食べちゃったじゃないか。飴もケーキも」
「そうだっけ?」
「ああっ、アスカが食べろって言ったんじゃないか。だから、僕…」
「あ、そう。それじゃ、仕方ないよね。
シュレーダーはね、4月2日生まれ。よろしく」
「4月かぁ。わかったよ。アスカも用意するんだろ、その時に」
「何をよ」
「そ、それは…」
言えっ。馬鹿シンジ、言ってしまうのよっ!
アスカは念を込めて、それとなくシンジを睨みつけた。
「ぷ、ぷ、プレゼント…」
言葉と一緒に彼の顔もお辞儀した。
ここではっきり言えと責めつけてもいいが、それなら押し黙ってしまう恐れがある。
今はその小さな呟きをしっかり聞いたとする方が絶対によい。
アスカはそう判断した。
「あっ、プレゼントねっ!なるほど、シンジ。Gut
! 」
「そ、そう?」
「シュレーダーも喜ぶわよ。そっかそっか、プレゼントか。
誕生日のプレゼント、ねぇ」
ここまで来れば、もうアスカも逃げようがない。
シンジを追い込むとともに、自分の逃げ場をなくそうとしたわけだ。
彼女は自分からプレゼントを要求しようと考えた。
「こ、これっ。ぼ、ぼ、僕からっ」
手を出そうとしたその瞬間に、シンジは叫んだ。
アスカの顔を見ることができなかったのは減点だが、これが彼には精一杯。
突き出された小箱をアスカは咄嗟に両手でしっかり受け取った。
「これ、何よ」などと言うつもりだったのに、出てきた言葉はこれだった。
「アリガト!開けていい?」
いいもくそもない。
逃げ出したいシンジを目の前に、アスカは震えそうになる指先を叱咤激励して包装紙を捲った。
そして小箱の蓋を開ける。
その瞬間、彼女は大きく息を吐いた。
トルコ石のペンダントがそこに。
「ご、ごめんね。その程度でさ…」
「ど〜してよ」
「だってさ、僕のなんてリョウジさんのに比べたら…」
「はっ、あれはミサトの誕生日プレゼントじゃない!」
「でもさ、あんなに高いの見ちゃったんだから…」
「だ、か、ら、あれはっ」
アスカは大きく息を吸い込んだ。
「け、結婚した夫から妻へのプレゼントじゃないの。
も、も、も、もしも、よ。あ、あんな凄いのをさ、プ、プレ、プレ」
ええ〜いっ、しっかりしろ!馬鹿アスカっ!
「プレゼントしたかったら、け、け、け、結婚してから…したらいいじゃない」
最後はさすがに殆ど声になっておらず、視線もテーブルに落ちていた。
しかし、アスカは興奮しきっている。
ついに言ってしまった。
そして数秒後、彼女は恐る恐る目を上げた。
愛する人の様子を窺うために。
「あ、そうだよね。歳相応のってことか。アスカはミサトさんの半分以下だもんね」
アスカは瞑目した。
この、鈍感男!
ここまで思い切ったことを言ったというのに!
そりゃあ誰が誰と結婚するとまで言わなかったけどっ。
目を開けると、その鈍感大王はにこにこと残りのコーヒーを飲んでいた。
まあ、仕方がないか。
今日はこのプレゼントをもらったってだけで。
アタシのリクエスト通りの青いペンダント。
これって、シンジが少しはアタシのことを大事に思ってくれているってことよねっ。
アスカは微笑んだ。
その微笑をちらりと見て、シンジもまた喜んでいたのだ。
自分のプレゼントを喜んでくれた。
あんな高価なペンダントを見てしまったのに、この程度のものであんなに綺麗な笑顔を見せてくれている。
しかし、さっきは驚いたなぁ。
アスカの口から“結婚”なんて言われちゃったから、一瞬心臓が止まっちゃったかと思ったよ。
でも、誰とって言ってなかったから、僕にも少しは脈があるってことだよね。
変に突っ込んで、結婚を考えているような男の人が誰かなんてはっきり言われてしまうともうおしまいだ。
だって、その人が僕のわけないもんね。
だけど、まだ結婚なんて…って思ってたら絶対に落とし穴にはまっちゃうぞ。
だって、女の人は16歳で結婚できるって聞いたもん。
アスカは今日で15歳。
ということは来年の今日にはもう結婚できるってことじゃないか。
男は18歳からだから相手は僕じゃない。
リョウジさんはミサトさんと結婚したから大丈夫……だよね。
もしかすると、ドイツの婚約者とかがいるのかも!
ああっ、今日の電話もシュレーダー君からじゃなくてっ。
僕がドイツ語をわからないと思って、二人で示し合わせてっ。
あ、でも、確かに子供の声みたいだったよね、ははは、考えすぎだよ、考えすぎ。
とにかく、今は惚けているに限る。
どうもシンジ君は鈍感ではなく、敏感すぎたようだ。
とりあえず、今日のところは。
ママ、聞いて、聞いて!
シンジから誕生日のプレゼントを貰ったのよ!
私の願いどおりに、青色のペンダント。
トルコ石ってパッとしないから大嫌いな誕生石だったけどね。
そりゃあどうして12月に生まれたのよ!って、4月とか5月とか9月とかを羨ましがったものよ。
中でも7月のルビーなんて憧れだったわ。
それがどうしてトルコ石なのよ。ラピスラズリにしても綺麗だけど、やっぱりねぇ。
でもでも、もう今日からはトルコ石に文句なんて言わないわ。
トルコ石、最高!
しかもね、プレゼントを貰った後に、シンジにお願いしたのよ。
このペンダントをつけてってね。
髪の毛を上げて首筋を見せたら、もうドキドキしちゃった。
後のシンジがどんな表情してるか気になっちゃって。
鏡で見えるようにしておけば良かったって思ってももう後の祭り。
でもね、鎖を繋ぐ時にちょこちょこと彼の指が首に当たるの。
恥ずかしいやら、こそばゆいやら。
大騒ぎしちゃった。
ねぇ、一つだけ訊いていい?
パパからのプレゼント。
左右2枚飾れる写真立てなんだけど、あの写真はママは知ってるの?
知ってるわよね。ママが荷造りしてくれているんだもの。
一応、確認しておきたかっただけ。
愛するアスカへ。
よかったわね。
でもシンジ君がノスフェラトゥでなくてよかったわね。
無防備に首筋なんか見せていると噛み付かれるわよ。
それから、あなたは黙っていたけれども、シュレーダーがこっそり日本へ電話したこと。
しっかり請求が来たから露見しました。
電話をしてお祝いを言った事はむしろいいことだけど、秘密にしたことは褒められません。
日本語の文章を10個覚えることで許してあげました。
そして来年は日本語でアスカにお祝いを言いなさい、とね。
彼は頭を抱えていたわ。
お姉ちゃんはこんなわけのわからない言葉をどうして喋れるんだって。
あなたのシンジ君がドイツ語を喋るのと、うちのシュレーダーが日本語を喋るのと。
どっちが早いか勝負する?
さて、写真の件です。
もちろん、私は知っています。
逆にハインツがそのことを言ってきてくれて喜んだの。
ハインツとキョウコさんと、そしてあなたが写った家族写真。
あなたはまだ2歳くらいね。
幸福そうな家族。
それを片側に入れて、そして将来のあなたの家族の写真をもう一方に飾る。
彼にすればいい考えね。
しかも手作りのスタンドだし。
シュレーダーが手伝わせろ!って騒ぎまわっていたのよ。
さすがにハインツはこれはパパが一人で作るんだって必死に突っぱねていたわ。
だからシュレーダーは対抗して絵を描いたの。
大丈夫よ、安心して。
将来が待ちきれなければ、この前の祭りの写真でも飾ればいいわ。
いじわるママへ。
シンジがノスフェラトゥなんて酷い!
せめてドラキュラにしてよ!
彼はツルッパゲなんかじゃないし、前歯も出てないし!鼠なんかには似てないもん!
でも、彼に血を吸われたら…。
きっと私は彼の奴隷になってしまうの。吸血鬼の映画みたいに。
それとも私が女吸血鬼になって、シンジを意のままに。
なぁんてね。
ママの作ってくれたシュトレン。
毎日少しずつシンジと食べてます。
それにもう一つのプレゼント。
ノートに一杯の料理のレシピ。
本当にありがとう。
ひとつひとつ覚えていくね。
来年は自分でシュトレンがつくれるといいな。
出来がよければ、そちらに輸出します。
文句を言わずに食べてね。
私、がんばるから。
追伸
空いている片側にはお祭りの二人の写真は飾りません。
決めました。
私たちみんなの写真がいいの。
来年の春休みに一度ドイツに帰ります。
何とかしてシンジも一緒に。
そしてシュレーダーやカールと一緒に、もちろんママとパパもよ。
みんなで一枚の写真におさまるの。
私、がんばってそれまでにシンジと未来を語れるようになってみせるわ。
もうひとつ追伸
ドイツの春って、どんなのだろう。
覚えてないから楽しみなの。
きっと素敵だと思う。
最後の追伸
みんなからの誕生日プレゼント。
本当にありがとう。
みんな愛してる!
(12) 2017年1月
親愛なるママへ。
クリスマスイヴに計画していた告白作戦は見事に失敗しちゃった。
だって、あの馬鹿ったら、本物のシャンパンを一気飲みしちゃったのよ。
で、酔っ払っちゃってダウン。
タクシーでマンションまで運んでもらって、引きずるようにして家まで連行して。
ベッドに叩き込んだらそのまま翌朝までぐっすりと眠っちゃったのよ。
せっかくとっておきのドレスでディナーに行ったっていうのに、
後で見てみたらあちこち汚れてるし、破けた場所だってあったわ。
もう、最低!
まあ、翌朝にしっかり約束させたからいいんだけどさ。
来年のクリスマスイヴはディナーとドレスをシンジが驕るってことで。
ということは、私たちには来年もあるってことなの。
お馬鹿なアスカへ。
本当にお馬鹿さんね。
あなたたちには来年も再来年もずっとあるじゃない。
どうしてもっと勇気を出さないの?
彼の告白を待つの?
自分から言ってしまいなさい。
絶対に大丈夫ですから。
と、いくらお説教しても駄目なんでしょうねぇ。
言葉を尽くしてどうなるものなら、とっくの昔に彼と恋人同士になっているはずだから。
ということで、ママはあることを考えました。
それは何かって訊かれても教えてあげません。
この月曜日に届けられたドイツからの手紙にアスカは仰天しただろうか?
いや、実は彼女はそれどころじゃなかったのである。
マリアからの手紙を受け取った時も、心ここにあらずといった状態で封を開け、
そして文面を読んで、「どうせアタシは馬鹿なのよ」と叫びベッドにダイブしたのだ。
彼女はさらに布団の中で丸くなって、所謂アスカ反省モードに入ってしまった。
したがって、彼女は手紙を最後まで読んでいなかったのである。
それがどういう結果を生んだかは最後まで取っておくとして、
まずは何故アスカが心ここにあらずといった心理状態になってしまったかである。
話の元を辿れば、オーバー・ザ・レインボーの甲板まで遡ってしまうので割愛する。
要は二人とも破局を恐れて何も言えないでいるということだ。
彼ら二人以外の者は、すべてアスカとシンジを夫婦認定しているにも関わらずである。
元より二人が現状で満足しているわけがない。
事あるごとに告白の機会を窺っているのである。
それが一方通行であると思い込んでしまっているところにも問題がある。
さらに踏ん切りがなかなかつかないため、自分を鼓舞するために何かしらのイベントを活用する。
それもまた二人が二人共に同じなのだから拙い結果を生んでしまうのだ。
二人とも綿密に練った(つもりの)計画を立てている。
だから相手は自分のシナリオ通りに動いてもらわないと困るのだ。
二人で顔をつき合わせて共作しているのならばいい。
しかし、アスカもシンジも相手がそんな自分勝手なシナリオを組み立てているなど想像だにしていない。
そのために大抵はその綿密且つ完璧な(つもりの)シナリオは最初の段階で崩壊するのが常だった。
クリスマスのディナーの時もそうだった。
ミサト夫婦に貰ったディナー券を手に、二人はそれぞれ壮大な計画を胸にホテルに向った。
いつものように綿密且つ完璧で、今回はさらに魅惑的なシナリオが用意されている。
何しろクリスマスイヴなのだ。
舞台演出はできすぎるくらいにできている。
そう、その舞台演出があまりによかったことが間違いだったのである。
それぞれが野心を胸に味もよくわからずに、素晴らしい食事を味わった。
デザートも食べ終え、テーブルの上からは食器が消え去り、
残されたのはグラスが二個だけ。
もちろん、そこに注がれているのはジンジャーエールでシャンパンではない。
アルコールは飲めないけれども、せめて雰囲気だけはとこの色の液体を注文したことが悪かった。
普通にコーヒーか紅茶にしておけば良かったのである。
シンジは指輪が入った小箱をポケットに忍ばせていた。
アスカの誕生日でペンダントをプレゼントした勢いで、今度は指輪で彼女にプロポーズまでしてしまおうと考えたのだ。
まず、交際からはじめようという考えは彼にはなかった。
そんな余裕はまったくなく、オール・オワ・ナッシングだったのだ。
そこまで思いつめていれば、喉も渇くといったものだ。
それはテーブルで対面している女性も同様だった。
彼女の計画は……割愛する。
とにかく、彼女もオール・オワ・ナッシングでシンジを獲得しようとしていた。
だから、喉が渇き、頻繁にジンジャーエールを飲み干してもう4杯目。
シンジにいたっては6杯目である。
当然、生理現象が発生する。
アスカは困り果てていた。
こういう状況で「トイレ!」とは言えない。
シナリオ進行よりもまずはそちらを優先し機会を窺っていたのだが、格好のチャンスが訪れた。
「ぼ、ぼ、僕、ちょっと、あの……行ってくるね」
少し顔を赤らめたシンジが手洗いに消えた瞬間、アスカはダッシュした。
彼女の計算では何事にもスローモーなシンジよりも早くことを済まし元のテーブルに戻れるはずだった。
アスカは計算間違いをした。
何よりも生理的欲求が彼女の目を曇らせてしまったのだろう。
男よりも女の方が準備と後始末に時間がかかるのは当たり前だ。
しかもアスカが素早く個室から飛び出してきた時、シンクの前は化粧直しの女性で一杯だった。
最初は強引に間に入っていって手を洗おうとも思ったのだが、彼女も乙女のはしくれである。
手を洗うだけでは駄目だ。
化粧をしているわけではないが、勝負顔になっているか髪は乱れていないか、チェックはしないといけない。
アスカは隙間を見つけて洗面台に向かい鏡に写った自分を入念に確認したのだ。
そして、満足一杯の面持ちで化粧室から出てくると、何とシンジは沈没していた。
しかも隣のテーブルで。
緊張しきっていた彼はアスカという目標物がいなかったために、運悪く席を外していた隣のテーブルにどすんと座り、
ウェイターたちが注意する前に目の前のグラスを一気に飲み干したのだ。
彼らと同様に化粧室に行っていた妙齢のカップルは花も盛りの20代半ば。
当然、この後はこのホテルに部屋を取っていて、グラスの中身はジンジャーエールではなくシャンパンである。
そのシャンパンを味もわからずにシンジは一気飲みをしたのだ。
生まれて初めてのアルコール摂取は彼を酔いの世界へと誘った。
顔を赤くし、気分をよくして、そして彼はテーブルに突っ伏した。
ウェイター達はあまりに素早い酔いっぷりにしばし呆然。
アスカが期待に胸を膨らませて化粧室から再登場したのはその時だった。
肩を叩き、背中を叩き、頭を小突き、頬を引っ叩いたが、彼は幸せな寝顔のまま。
もっとも昨晩から緊張とシナリオの反復練習のためにほとんど眠っていなかったのだから無理もなかった。
結局、彼はウェイター達やホテルマン、そしてタクシーの運転手に多大な迷惑をかけて帰宅することになった。
アスカはここでいいですと、マンションの玄関でシンジを降ろしてもらった。
微笑む運転手に最敬礼した彼女はドレスアップしたその身なりでいつもの仁王立ち。
見下ろすのは玄関から入ったところの壁に寄りかかって眠る最愛の男。
彼女は盛大な溜息を吐いた。
あまりの情けなさにこのまま放置しておこうかとも思ったが、そんなことをすれば風邪くらいで済めばいい方で凍死する可能性もある。
昨年のような中途半端な冬ではなく、10数年ぶりの本格的な冬なのだ。
常夏で慣れてしまった日本人は先を争って冬物衣料や暖房用品を買いあさり、
その頃の日本は突発的な景気に賑わっているところだ。
極寒のドイツで育ったアスカにとってはちゃんちゃらおかしいくらいの寒さだが、逆にそれだからこそ冬の怖さも知っている。
シンジへの折檻は後回しにして、彼女はひとまず彼を部屋まで収容することに決めた。
「ほら!立ちなさいよっ、馬鹿シンジ!」
当然、返事もない上に、彼は魅惑的な世界に没入しているまま微笑を浮かべている。
こうなれば、シンジに肩を貸して部屋まで歩くしかない。
まさか、彼を担いだりおんぶなどできるわけがないからだ。
しかし、結局アスカはシンジをおんぶした。
宥めてもすかしても肩を貸しても歩いてくれないのだ。
放って行くわよとエレベーターに乗り、大きな声で「ホントに行っちゃうわよ」と叫んでフロアの数字を押す。
そして扉が開くと、二人の部屋までダッシュし素早く鍵を開ける。
リビングの照明を点けて、横目で壁のパネルを睨みつけ溜息を連発させながら自分の部屋に突進。
「もう、サイテー!」などと連呼しながら、ドレスアップした衣装をぱっぱと脱いでさっさと普段着に着替える。
ヒールの高い靴は脇に除けて、いつもの運動靴をきちんと履く。
さらにもう一度盛大な溜息を玄関に残して、アスカはエレベーターホールに駆け戻った。
一階に戻るとシンジは先ほどとまったく同じ姿勢のまま。
「この馬鹿っ。風邪ひくわよ!」
ぴしりと鼻先に指を突きつけたが、彼はすぅすぅと安らかな寝息を返すだけ。
その寝顔を見てアスカは怒ったのだろうか。
いや、違う。
彼女は優しく微笑んだ。
もしかするとシンジが一度も見たことのないくらいのものであったかもしれない。
もちろん、周囲に誰もいなく、さらにシンジも眠りの世界に没入中。
だからアスカはもう一歩、踏み出した。
きょろきょろとあたりを見渡し、誰もいないことを確認し、そして彼女はそぅっと顔をシンジに近づける。
こんなチャンスは滅多にないのだ。
もちろん四六時中一緒にいるのだから、シンジが無防備でいる時はよく見受けられる。
だが、それはあくまで眠っているのであって、目を覚ます可能性はいくらでもある。
決して意識不明状態ではないのだ。
しかし今はどうだろう。
酔っ払ってしまって、言わば意識不明も同様ではないか。
これは、チャンス。
大チャンスではないか。
と、言っても、彼女はかの時の様に邪悪な笑みを浮かべたわけがない。
その頬に恥じらいの朱をさっと散らし、その瞳は微かに揺れている。
しかし、彼女はこのチャンスをものにしてシンジの唇を奪うなどという大それたことは考えていない。
ただ、あの大好きな頬にチュッと軽く口付けるだけだ。
それだけのことだが、彼女にとっては断崖絶壁から飛び降りるようなものである。
アスカは大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
一度では足らず、5回深呼吸を繰り返した。
そして、シンジを見下ろす。
彼は相も変わらずすやすやと寝息を漏らすだけ。
「いっくわよぉ」
小さな声で自分を励ましたつもりだったが、深夜のマンションの玄関ホールは意外と声が響く。
自分の声にアスカは思わずびくんと背中を震わす。
再びシンジの様子を恐る恐る窺うが、彼にはまったく変化はない。
アスカはもう一度、もっと声を落として「行くわよ、アスカ」と我が身を勇気づける。
彼女はそっとその場に蹲った。
無防備にこちらに向けている右頬にターゲットをロックオンする。
鼻息も荒くいきなり顔を近づけようとして慌てて思いとどまる。
急いで舌をぺろりと出して唇を湿らせる。
リップが剥げ乾燥し、緊張も加わってすっかりかさかさになってしまっていたのだ。
よし、これでいい。
これならば、変な感触を相手に、そして自分にもたらせる事もない。
いくらシンジに記憶が残るということがなくても、やはり気持ちのいい結果で終わりたい。
そんな彼女の乙女心を笑うことはできまい。
ちゅっ。
時間にしてほんの2秒程度。
その2秒が短くもあり長くもあり。
シンジの頬から唇を離した瞬間に、アスカはさっと飛び退りくるりと背中を向けた。
やった、やった、やっちゃったっ。
ガッツポーズも勝利の踊りもなかった。
アスカはただ頬を真っ赤に染めて、そして高鳴る鼓動を抑えようと両手で胸にそっと添えている。
頬へのキスの余韻を楽しんでいたのか、それともあまりの幸福感に思考が飛んでいってしまっていたのか。
もっともそれも数秒のこと。
彼女は大きく頷くと、まだ火照っている顔をシンジの方に向けた。
さっきと同様に眠りこけている彼を優しく見下ろし、それからにっこりと微笑んだ。
「さぁて、運動会の続きと行きましょうか」
先ほど部屋に飛び込んでいった時に横目で見たパネル。
相田ケンスケが撮影し、誕生日プレゼントとして贈ってくれたものだ。
運動会の障害物競走でアスカがシンジを背負って疾走しているところを見事に捉えた写真。
消極的ではあったがシンジの反対を押し切って、リビングの壁に飾っているのだ。
その“おんぶ”をアスカは再現しようとしていた。
幸福感一杯の微笑みと共に。
甘かった。
運動会の時と違って、今のシンジは眠っているのだ。
自分の意思でおぶさってくれないから、まず背中に乗せる時点で彼女の甘美な計画は頓挫したと言ってよい。
さっきは意識が無いことを喜んだのだが、今はそんな悠長なことを言ってはおられない。
なんとか彼の身体の下にもぐりこんでようやく背中に寄りかかってくるようにはできたものの、
今度はその体勢からよいしょと立ち上がることができない。
あの時はあんなに簡単におんぶできたというのに。
アスカは奇妙な屈辱感に苛まれていた。
このあたりはやはりセカンドチルドレンとして誇り一杯にがんばってきた名残だろう。
彼女にとって“できない”と投げ出してしまうことはプライドに関わるのだ。
特にこの場合、周囲に誰もいないからこそ、アスカは投げることが出来ない。
シンジを部屋に運ぶことができるのは自分ひとりなのだ。
しかもこのままここに放置していては彼が凍死してしまう、と
彼女はあらゆる神や家族友人知人その他諸々の助けを口走りながら、よろよろと何とか前進し始めた。
身体中汗一杯、頭の血管が切れそうなくらいに全身の力を振り絞って。
さらに、耳元ですうすうと安らかな寝息を伴奏曲にして。
翌日、シンジはホテルにいたはずなのにどうしてリビングの真ん中で毛布に包まっているのかわけがわからず。
その時お風呂でシャワーを浴びていたアスカは二三日筋肉痛に悩まされた。
そして、例によってタイミングを外してしまったシンジは、クリスマスプレゼントを渡せずに机の中に仕舞い込む。
その存在をアスカはあの夜リビングに彼をすっ転がしたときに知ったが、敢えて何も言わなかった。
自分に渡すつもりであったことは間違いないのだから。
結局、お正月にも初詣や年始周りというイベントはしっかりとこなしたものの二人の関係には何の進展もなかった。
進展があったのは、一月の下旬にさしかかった時のことだ。
そう、ドイツからの手紙が届く一日前、2017年1月22日のことである。
アスカの作戦が失敗したのは二人の温度差だったのだろう。
彼女はクリスマスの折に大胆にも頬にキスをして中身は知らないがプレゼントもあったことを確認している。
しかしシンジの方は頬のキスは知らない上に、
酔っ払って眠ってしまったという不祥事を起こしてしまったという焦りが大いに心を占めている状態だ。
その上、アスカからのクリスマスプレゼントは彼と一緒に毛布に包まっていて、
アスカは心が満タンだったから彼にプレゼントを要求しなかった。
しかもその後のイベントがすべて空回りに終わっている。
焦れば焦るほど失敗してしまうのだ。
このままでは来月のバレンタインデーが惨めな結果に終わってしまう。
その思いが主というわけではなかったが、何度も頭を掠めたことは事実。
何しろ昨年のバレンタインデーはアスカから何ももらえなかったのだから。
お忘れの方もいらっしゃると思うので改めて明記しておくが、
昨年のアスカは彼にチョコレートを渡すことができず、強引に学校を休ませて“隔離作戦”を決行した。
そして、シンジにはまったくわからない伝言メモを“愛の手紙”として渡しただけの自己満足でその日を終えたのだ。
シンジから見ると完全にスルーされたバレンタインイベントと言える。
これが去年であれば、まだよかったのかもしれない。
しかしこの一年、傍目から見ると彼ら二人は充分に愛を育んできている。
本人たちに自覚がないだけで、まったくもって幸福なカップルにしか見えないのだ。
事実、告白していないという一点だけが問題で、日々の暮らしには二人とも何の不満もない。
そういう時間を過ごしてきただけに、シンジとしては今さら“義理”では駄目だという潜在意識があったのだろう。
そこへもってきての年末年始の不祥事(彼視点の)である。
アスカの計画が根本から崩れたのはそんな理由があったのだ。
「はんっ、まあ、あれよ。うん、そうね、アタシとアンタの仲だからさ、そのつまり…」
アスカはやはりシンジの顔を見て言えなかった。
もっと真剣に言った方がいいとは思ったものの、冗談めかしく喋れば言葉が出やすい。
それでもこんなにぶつ切りの前置きを並べ立てないといけなかったのだが。
だがシンジはしっかり焦らされていた。
彼女はまったく意図していなかったが、恥ずかしさのあまりなかなか本題に進めなかったことで彼の意識を揺さぶってしまっていたのだ。
これは、もしかして…とシンジが期待を抱いたのは仕方がなかろう。
あのアスカが、あんなに照れているのだ。
鈍感な彼でもわかるほどに。
しかし、そんな思いが強くなったがために、アスカの言葉はシンジの心に打撃を与えてしまったのだ。
「あのさ、だから…、そう」
アスカは斜め45度上、天井を睨みつけた。
日曜の朝だ。
もしこの作戦が成功すれば、このまま町に出かけてラブラブデートとしゃれこんでもいいではないか。
彼女は覚悟を固めた。
言うのよっ。
「義理チョコでよければあげるわっ!」
「ぎ…り…?」
その声がこわばっている事にアスカは気づかない。
だからこそ彼女はさらに声を励ました。
「そうよっ!義理よ、義理っ!義理に決まってんじゃない!」
照れも手伝い、アスカは“義理”をオンパレードした。
ましてシンジの顔を見ていないだけに、彼の顔色がどんどん青ざめていくこともわからなかった。
そして、駄目押しするかのように彼女は言い放とうとした。
これでシンジからあの返事が戻ってくると期待して。
但し、さすがにそれまでの勢いがなく、その言葉は恐々と小さくなったことが、さらに彼の誤解を膨らませたのである。
「そ、そのかわりさ、ほ、本命は…」
「誰かにあげるんだねっ!いらないよっ!義理なんて欲しくないっ!」
叫ぶか早いか、シンジはリビングを飛び出していった。
アスカが予想外の反応にぎくしゃくと顔を戻したときには、すでに扉が閉まる音がしている。
「ち、違う…。そんな……」
呟きが漏れると共に、彼女は床にぺたんとお尻をついた。
涙の源泉も枯れ果てたかと思う頃、ようやくアスカは友人たちに発見された。
成功したかどうかの連絡もなく、携帯へのメールにも反応がなく、やっとのことで出た電話には無言だった。
やっとのことで家にいることだけ聞き出したヒカリはレイを緊急招集してマンションに駆けつけたのだ。
「アスカが悪い。ややこしいことをするから」
レイにきっぱりと言い切られて、アスカはまたも顔をゆがめ、隣で彼女を慰めていたヒカリもまた身体を小さくした。
その理由はこうだ。
数日前、ヒカリとトウジはついに交際関係に突入したのだ。
それはヒカリからの一言がきっかけだった。
彼女は勇を鼓して、トウジに告げた。
「あ、あの…義理チョコでも、もらってくれる?」
「あ、あ、当たり前や。い、いいんちょから貰えるんやったら」
「あ、あ、ありがとう。で、でも、他には誰にもあげないから」
「ほ、ほんまか」
それから先はとんとん拍子だった。
結局、その場の雰囲気で告白しあった二人である。
その嬉しさのあまり、ヒカリはアスカに事の成り行きを「秘密だ」と喋ってしまったのである。
そして、アスカが親友の真似をしたわけだ。
ところが結果は見事に失敗。
アスカとシンジではそう簡単に話が進むわけがなかったのである。
「そう。私にも秘密だったのね。しくしく」
声だけで泣かれて、思わずレイの視線から目を伏せてしまったヒカリである。
「でもいいの。秘密なら私にもあるから。お兄ちゃんはアスカのことが大好きなの」
泣きすぎて目が真っ赤になっているアスカがびっくりして顔を上げる。
「い、いつ、聞いたのよ」
「聞いたのじゃないの。知ったの。サードインパクトの時に」
「うそ」
「本当。だからおにいちゃんのことをあきらめたの。絆だから」
レイの言葉は少ない。
だから聞く者が補完しないといけないのだ。
つまり、彼女が碇シンジのことをあきらめて妹に徹したのは、その生い立ちや戸籍などの問題ではなく、
シンジの心がアスカに向いていることを知ったからだということだった。
アスカはまじまじとレイを見つめた。
ということは、もしシンジが誰のことも気にとめていなければ
彼女は何の気後れもなく彼を獲得しようとしていたということか。
それを問うわけにもいかず、アスカは涼しい顔で座っているレイから目をそむけた。
何はともあれ、このとんでもない女がシンジをあきらめてくれてよかった。
心の底からそう思ったアスカである。
さらにそんな二人を横目に自分達は平和でよかったと思わずにはいられないヒカリであった。
三角関係とかでどろどろしていなくて。
「これまでもアスカに話したでしょう。でも信じてくれなかった」
「だ、だって、シンジの心を知ったなんて言ってなかったじゃない」
「結果がすべて。私は間違いないことだって何度も言ったわ」
それは確かだ。
だが、アスカはその言葉をレイの推論だと思っていたのである。
そうだとわかっていれば…。
アスカはもう平静に戻っていた。
時間が解決したわけではない。
レイの言葉の所為である。
シンジが自分のことを好きだとはっきりわかったのだから、もう苦しむことはないではないか。
あとはそれをお互いにはっきりさせればいいことなのだ。
「わかった。シンジが怒るのも当然ってことね。アタシが小細工しすぎってわけ」
反省したアスカは苦笑した。
そんな親友の姿にヒカリは思わず吹き出しそうになってしまった。
何と立ち直りの早いことか。
もっとも、大好きな相手の気持ちがわかったのだから当然とも言える。
もともと彼女は前に向ってひた走る気性なのだから。
「アリガトね、レイ。アタシ、ちょっと、顔洗ってくる」
「あ、じゃ、シャワー浴びてきた方がいいかも。髪の毛も凄いことになってるし」
ヒカリのアドバイスに、ざんばら髪になっている状況を横目で見るとアスカは悲鳴を上げた。
そしてバスルームの扉が閉まる音を聞いてから、ヒカリはレイに語りかけた。
「レイって、偉いのね。よくそれであきらめたと思うわ」
自分ならばそれでもあきらめずに片想いを続けるに決まっている。
それなのにこのレイはよくもあっさりとあきらめたものだ。
ところが、友人の賞賛にレイは顔を赤らめもせず、けろりとした顔で呟いた。
「今のは、嘘」
「ええっ」
思わず叫んだヒカリはシャワーの音に安心した。
「嘘って、本当?」
「そう。私は妹だから。お兄ちゃんはお兄ちゃんなの。でもお兄ちゃんの心なんか知らない」
「ど、どうするの。アスカ、信じちゃってるわよ、完璧に」
「嘘も方便」
レイはふっと笑った。
彼女の微笑みはほんの少しだけ大人っぽく見え、ああ綺麗だとヒカリは思う。
その生誕の謂れなど知らぬ者であっても、この時のレイの笑みはまるで慈母の如く感じただろう。
シンジの居場所は簡単にわかった。
ケンスケの家だった。
そこにはトウジも現れて、すぐにその情報はヒカリにメールされたのだ。
だから湯上りのアスカは安心し、友人二人とお喋りに興じた。
だが、こちらの友人二人は左右からシンジを攻撃をし続けたのである。
それはもう、ぐうの音も出ないほどに。
まず、ケンスケの部屋に直行したところはシンジも昔の彼ではないと言える。
かつての少年ならばあてもなく電車に乗って彷徨ったりどこかしらで膝を抱えて蹲っているところだ。
それがこうして友人を訪ねていったのだから、この一年で彼は大いに成長したわけだ。
だが愚痴を零そうとしたところ、ちょっと待てとケンスケに制止された。
そして少し席を外した間にケンスケはトウジに連絡したのだ。
トウジの顔を見た途端にシンジは少し顔を歪め目をそらしてしまった。
彼はトウジに会いたくなかったのである。
何故ならこの関西弁の少年が今幸せ真っ盛りだという事をシンジは知っていたからだ。
数日前に真っ赤な顔で事の成り行きを省いて結果だけを聞き、ケンスケと二人で祝福したところだった。
その時もっといろいろと聞き出していれば、今日のようなことにはならなかったに違いない。
しかしそういうことにずけずけと首を突っ込める彼ではない上に、
トリオの中で事実独り身となってしまったケンスケとしても友人として祝福はするが惚気話など聞きたくもなかった。
だからトウジの幸福の詳細はシンジには伝わっていなかったのである。
したがって、不幸のどん底にいると自負している彼にとって、トウジには話をしたくないと思っても不思議はない。
またアスカに占有状態となっているシンジとトウジが話をするのはほとんど学校の中に限られる。
自らの幸福を喋りたくて仕方がないトウジが無理矢理にケンスケにだけは内容を話した。
聞きたくもなかったが、結果的にはその馴れ初めを知っていたケンスケはシンジの話を聞きすぐにピンと来たのだ。
アスカがヒカリの例に倣おうとしたのだと。
そして、シンジがとんでもない反応を示したと聞き、トウジを呼び出して説諭しようと思ったわけだ。
シンジは愕然とした。
部屋から飛び出した時よりもさらに青ざめた表情で顔を俯かせる。
「まあ、センセの気持ちもわかるけどなぁ。せやけど、こう…なんかピンとこうへんかったか?」
「仕方ないぜ。こういうヤツなんだから」
「そうだよ、僕はどうしようもないんだ…」
何を言っても前向きにどうこうという発言のないシンジに、二人の友人は溜息交じりに顔を見合す。
この件に関しては、アスカに合わす顔がないとぶつくさ言い続けるシンジを半ば強引にマンションまで連行することで終った。
ただし、義理チョコをどうするという具体的な話し合いももたれずに、二人の関係はその日の朝のままとなる。
友人たちが部屋から姿を消した後も、アスカもシンジも互いの気持ちについては確かめることができなかったのだ。
しかしこの事件でこれまでよりは幾分相手の気持ちを知ったことになる。
特にアスカにおいてはレイの“嘘”のおかげで、まず安心だと思うようになった。
ただシンジについては、やはりこれはアスカの悪戯かもしれないという疑惑が心の中に巣くっている。
そのためにさらにもう一歩踏み込むことができなかったのだろう。
月曜日の朝。
それぞれの友人たちは二人の関係がまったく進展していないことに憤慨した。
昨日の騒動はいったいなんだったのか、と。
特に日曜の昼下がりを初デートと企画していたトウジとヒカリは憤懣やるかたない。
そこでトウジは密かにある計画を立案したのだ。
正確に言うと、トウジが「どうにかならんか」と言い、ケンスケがプランを立てたのだが。
その計画はヒカリたちにも伝えられ、早速翌日に実行へと移されることになった。
火曜日の放課後、シンジは友人たちに視聴覚室に連れ込まれた。
しっかりと鍵を掛け、カーテンを締め切り、一部だけ電灯を点ける。
まさに秘密の集会そのものの雰囲気だ。
当然、シンジは何事かと不安で一杯になる。
箸が転んでも何か不吉なことがあるのではと思ってしまう彼なのだ。
余談だが、彼のこの不安については何か心に暗雲があるときに限る。
それ以外の時は箸が転ぼうが何も考えずに箸を元の位置に戻すだけで済ませるシンジなのだから。
「なんだよ。昨日の続き?また?」
「ああ、まあ、そういうこっちゃ」
「も、もういいだろ。僕が悪かったんだって認めてるじゃないか」
「まあそれはそれ、これはこれってこっちゃな」
「わからないよ、全然」
「待てよ、トウジ。そう焦るな。ここはゆっくり責めつけようぜ」
計画の一旦とはいえ、少し本気モードかも知れぬとケンスケは内心自嘲していた。
この作戦が成功に終わると、晴れて俺一人だけが相手がいないわけだ。
まあ、綾波もそうだけど…あいつはちょっと違うような気がするしなぁ。
ううむ、まあいい。残り物には福があるって言うじゃないか。
あるよな、福。
俺にも、どっかにさ。
「責めつけるって何さ。僕たち、友達だろ」
こういう時、シンジの表情はとてつもなく暗くなる。
信じていた者に裏切られた気分。
怒るより先に陰鬱な気持ちになってしまう。
怒るということならば、当然彼女の方だ。
シンジからほんの数メートル離れた場所で、アスカは友人二人に羽交い絞めにされていた。
ヒカリに背中から抱きとめられて、レイに口をしっかりと蓋をされている。
「離しなさいよっ」と叫び暴れるのだが、「ふがふががぁ!」と身もだえするに留まった。
「静かにして、アスカ」
「そう。おとなしくしていればいいことが聞けるから」
「うがっ。ごぉじでぎょ!」
シンジのピンチが目の前にあるだけに暴れるなという方が無理な話なのだが、
ここはヒカリの言葉が彼女をぴたりと静止させた。
「アスカ。碇君があなたのことを好きだって言うから暴れないで」
アスカの目がぐわっと見開かれる。
そしてマジックミラーの中でうな垂れているシンジの姿を睨みつけた。
「そうよ。黙って見ていればいいの。うふふ」
レイはそう言うとそっとアスカの口から掌を外した。
微笑んでいた彼女だが、掌にべったりとついてしまったアスカの唾液の感触に顔をしかめる。
さすがにスカートの裾で拭くのも躊躇われ、ポケットから出したハンカチでごしごしと拭う。
彼女がハンカチを持ち歩くようになったのはリツコと生活するようになったからで、
それまではまるで男子のように濡れた手を適当に振って乾かしていただけだったなどということは余談。
「どういうことよ、これは」
これは何かの策略だと高ぶる気持ちを必死に落ち着かせたアスカは低い声で問うた。
「あのね、これマジックミラーなの。向こうからは見えないのよ」
「そんなのわかるわよ。で、どういうことなのかって訊いてるの」
その質問を聞いて、レイとヒカリは思わず顔を見合わせ白い歯を見せた。
第壱中学の視聴覚室には準備室から教室の様子を覗くことができるマジックミラーが備え付けられている。
何のために存在するのかはわからないが、
掃除中にそれを発見したケンスケとトウジはいつの日にかの悪戯のネタとして記憶しておいたのだ。
それを今回の作戦で使用したわけである。
二人のどちらかを教室に連れ込み同居人のことを好きだと言わせる。
その言動を準備室からカップルの片割れに見せ付ける。
そうすればさすがに素直な気持ちに気がつくだろうという単純且つ効果的(ケンスケ談)な作戦だ。
そしてどちらを問いつめるかと4人で考えたところ、2秒後には満場一致でシンジが採択された。
アスカならば教室に連れ込まれた時点で何かあると勘ぐって作戦の進行が順調に行かない可能性が高いからだ。
その点、シンジならば鈍感というか素直というか、まず露見する心配はないだろう。
4人の選択はまさに正しかった。
現在、シンジは友人の言葉に落ち込んでしまい、アスカはカラクリ自体は見破りその真意を尋ねてきている。
ヒカリは手短に作戦のあらましを説明した。
それを聞いてアスカはにっこり笑って、小さく「アリガト」と漏らし、じっとマジックミラーの中のシンジを見やった。
なるほど、トウジやケンスケ相手にはっきりと「アスカが好きだ」とでも言うところを聞いたならば何も疑うところがない。
「今の聞いたわよ」とでも言いながら出て行けば、シンジも腹をくくるだろうし、
この自分も言いたいことをいえる気がする、とアスカは胸をドキドキさせながらじっと教室の様子を窺った。
ヒカリとレイも向こうの様子に興味はあるのだが、この状況でアスカと顔を並べるような真似ができるわけがない。
ここは好奇心を抑えて、親友の人生における最大の喜びの瞬間を1mほど下がって見守ることにした。
しかしながらやはり他人の色恋沙汰というものは気になるものだ。
レイでさえ、兄とアスカの問題ということも手伝って無表情ながらも興味津々なのだから。
「まあ、こないだのあれもそやけどな、ええ加減にここではっきりしてもらお、思うてな」
「どういうことだよ」
芝居気たっぷりのトウジだが、シンジはやはりまったく気付きもしない。
それを鏡越しに見てアスカは何とも言えないような気持ちになっていた。
この場で彼の気持ちがはっきりされるということはとにかく素晴らしいことだ。
それにこうやってみんなが自分たちのことを心配してくれていることも嬉しい。
こんな風にマジックミラー越しに彼らの様子を覗いているというのも楽しかった。
しかし、何かが彼女の心に引っ掛かっていた。
あのシンジの暗い表情がその大きな理由ではないかとアスカは密かに思った。
彼はお芝居とは知らずに、友人に責められて苦悩しているのだ。
アスカは唇を噛んだ。
やめさせた方がいいかもしれない。
シンジのあんな顔を見るのは嫌だから。
「ヒカリ、あのね…」
肩越しにアスカは声をかけた。
だが、その時教室の方ではすでにシナリオがクライマックスに差し掛かるところだったのである。
「つまりだ。お前が惣流を好きなのかどうか、はっきりしろってことだよ」
「そ、それは」
「あんなぁ、あれで惣流は人気あるんやで。わしらにもよう訊かれるんや。
碇シンジと惣流はつきあっているのかどうかってってな」
「つきあってないのなら、交際を申し込むってな。
今までは俺たちは、あの二人は結婚の約束までしているって大げさに言ってやってたんだぜ」
「せや。そやけどな、肝心のお前らがはっきりせぇへんからなぁ。わしら困っとんねん」
「だから、俺たちにだけははっきり教えてくれよ」
「惣流のことを好きなんかどうかや。わしらにやったら言えるやろ。ホンマのとこ」
「そ、そうだったんだ」
どうやらつるし上げられるということではないのだと、幾分シンジの表情が明るくなった。
それを見てアスカはひとまずホッとする。
しかし、まだ彼女の心は晴れていなかった。
「ここには俺たちしかいないからな。言ってしまえよ」
「楽なるでぇ。正直に言うたらすっとするわ」
「そうだな。トウジだってそうだったんだから」
「わ、わ、わしは…まあ、せやけど」
シナリオ外のツッコミを入れられて、さすがのトウジも首筋を赤くした。
因みに準備室のヒカリの方は真っ赤に頬を染めている。
しかしトウジはおほんと大きな咳払いをして、胸を張った。
「まあ、あれや。わしはそのつまり…」
ああ、しっかりせい!と彼は心の中で自分を叱咤激励した。
「わしは、いいんちょのことが好きやさかいなっ。はっきり言うたるわいっ!」
彼は目の前のシンジにではなく、明らかに別の人間に向って叫んでいた。
鏡を覗いていたアスカはニンマリと笑って振り返る。
そこにはまさに顔を真っ赤にして硬直した少女がいて、その頬をレイがつんつんと突付いていた。
その様子を見て、からかうよりもいいなぁと和んでしまうアスカだった。
そして、シンジは。
彼は感動していた。
目の前でヒカリのことを好きだと宣言した友人の姿に、彼は優柔不断な自分が恥ずかしくなったのだ。
シンジは唇を噛みしめた。
掌を何度も握り締めては開く。
言うんだ、はっきりと。
ここでちゃんと言えば、アスカにもきちんと告白できるような気がする。
彼は顔を上げた。
その顔をアスカは息を呑んで見つめてしまった。
あの笑顔と同じくらい大好きな表情。
滅多に見られない上に、一度もそんな表情で自分を見てくれた事がない。
それは主にチェロを弾いているときに見られた。
真剣でありながらも温かく、優しく、それでいて厳しさも垣間見える。
そのような表情で彼が紡ぐ言葉とは…。
彼女の胸の高鳴りはとめどなく早くなっていく。
そして、シンジの唇が開きそうになった時、アスカの心の中で火花が散った。
「僕は…」
シンジは言おうとした。
友人たちに自分の思いを。
そして、今日中にアスカに告げるのだ。
大好きだ、と。
その時だった。
がんがんがんっ!
「馬鹿シンジっ!何も言うなぁっ!」
何かを叩く音と共に、アスカの叫び声が聞こえた。
このお芝居をまったく知らないシンジは彼女がどこにいるのかと文字通り飛び上がった。
そして周囲をおっかなびっくりで見渡すが、もちろんアスカの姿は見えない。
「絶対に喋るんじゃないわよ!」
念押しの叫びにトウジとケンスケはしまったぁという表情でマジックミラーを見る。
理由はわからないが、とにかくこの作戦は失敗だ。
準備室の扉ががちゃがちゃと乱暴に開かれ、続いて紅茶色の髪の少女が一目散に飛び出してくる。
「あ、あ、アスカ…」
まだ口にはしていなかったもののシンジとしては喋ってしまったも同然の気持ちだった。
わなわなと震えようとする間もなく、彼の手はアスカにしっかりと握られてしまった。
「行くわよっ、馬鹿シンジ!」
どこへ、などと訊く暇もなかった。
シンジの手をぐいっと引っ張るとそのままアスカは教室の扉へ。
鍵を開けて廊下へと飛び出していった。
残された二人は扉が自然に閉まるのをぼけっと眺めていただけだった。
ママ、聞いて!
もう絶対に大丈夫よ!
シンジは私のことが好き!
まだ言葉では聞いていないけどね。
ううん、私の勝手な思い込みじゃないのよ。
シンジは今すぐに言ってくれそうだったんだけど、私がお願いしたの。
ああ、最初から話すわ。
それはね、日曜日に喧嘩をして、その翌日だったの。
もう、駄目ね、私って。喧嘩のことから書かないといけないのに。
何を書いたらいいのか、もう頭の中がお花畑って感じ。
幸福で幸福で!
喧嘩の理由はね、やっぱりバレンタインデーのことで……。
愛するアスカへ。
あらあら、可愛いアスカは幸福すぎて狂ってしまったのかしら。
あんなに分厚い手紙を貰っても読むのに困ってしまうわ。
しかもまるで前衛的。時間があっちに行ったりこっちに行ったり。
私はもっとオーソドックスな小説が好きなのよ。
ああ、そうだ。
もうそっちに届いたかしら。
上手に使うのよ。
長い手紙にしてもちゃんと読んでくれないでしょうから、今日はこのくらいにします。
じゃあね。
追伸
おめでとう。よかったわね。
マリアからの短い手紙が届いた翌日。
ドイツから荷物が届いた。
中に入っていたのはとんでもない量の生チョコレートである。
そしてカードにはこう書かれていた。
シンジ君にチョコレートを渡すことができないのなら、これを全部一人で食べなさい、と。
シンジに渡すチョコレートをどうしようかと悩み続けていたアスカは包みの中身を見て小躍りして喜んだのである。
しばらくするとどんな手作りチョコにするかという次の悩みが到来したのだが。
さて、あの日。
視聴覚教室から飛び出して行った後に何があったのか。
何もなかった。
告白もなければ、ましてやキスなどもない。
二人がしたのは、約束だけだった。
アスカはシンジの手を掴んだまま廊下を突っ走った。
目的地はなかった。
人気のない場所を探すというよりも、高ぶる心を落ち着かせるために走っていたのかもしれない。
もちろん、アスカの意思だけで走ることはできない。
シンジもまたアスカに負けまいと、だが彼女とペースを合わせて、
いや合わせるまでもなく二人の走るペースは計ったようにピタリと一致していた。
まるで運動会の二人三脚の時のように。
途中ですれ違った教師から「馬鹿者!」と叫ばれたが、それも遥か遠くに置き去りにした。
二人が足を止めたのは体育館の裏手。
別にそこを選んだのに意味はない。
上靴で動ける場所の限界がそこまでだからというだけだったのかもしれない。
はぁはぁと息も荒い二人は互いの顔を一度も見ずに、しかし手は握り合ったまま離そうとしなかった。
どちらからともなく、コンクリートに腰を下ろす。
だが、しばらくは会話はなかった。
競うように口から白い息を吐き、視界に相手の顔が入らぬように斜め横を必死に見やる。
そして、握り合った手に二人同時に力が込められ、そのタイミングに二人は思わず顔を見合わせた。
笑顔もなくただじっと見つめあう。
やがて、ぷっと吹き出したのはアスカだった。
「みんなに悪いことしちゃった」
「え、みんなって、トウジとケンスケ?」
「そうね。それに、レイとヒカリも」
「レイ?」
「ふふ、アンタ、知らないでしょ。あの教室は隣からマジックミラーで見えるのよ」
「ええっ!」
たまげるシンジにアスカは面白おかしく彼らの作戦を説明した。
その目的が何であるかまで。
さすがに“好き”という言葉は使わなかったが、二人のことを心配してという説明で十分シンジには伝わる。
昨日の一件があるからなおさらだろう。
シンジはまた唇を噛みしめた。
「アスカは…どうして出てきたの?」
「わかんない」
アスカは即答した。
確かにわからないのだ。
彼女はシンジの顔から目を逸らし、だが手は握ったままに冬の空を見上げた。
「もしかして…」
「何よ」
「あ、うん、やっぱりいいよ」
「こら、言いかけた言葉は引っ込めんじゃないわよ」
「でも、ちょっと恥ずかしいから」
「うっさい。言いなさいよ。恥ずかしいんなら、そっち向かないから」
「言わなきゃ駄目?……痛いっ!」
骨も砕けよとばかりアスカはぐっとシンジの手を握り締めた。
「わ、わかったよ。言うからやめてよ!」
「はんっ、さっさと言わないからよ、馬鹿」
アスカは待った。
自分でも驚くほどゆったりとした気分で。
そして、シンジは自信なさげにぽつりぽつりと喋りだした。
「えっと、僕が今思ってるのは…あそこでアスカが聞いてるのを知ってたら、
自分の気持ちは言わなかったんじゃないかってことなんだ」
アスカはごくりと唾を飲み込んだ。
悪い結果が待っているのではないと思うのだが、こういう場合どうしても悪い方に考えがちである。
「つまりね、ああ、恥ずかしいなぁ。だから…、そういうことはやっぱり本人に向って言わないと…」
「そっか!」
「痛いっ!」
「ごめんっ」
自分の気持ちに気づいた瞬間、シンジの手をまた強烈に握ってしまい、この勢いで二人の手は離れてしまった。
ずっと掌が繋がりあっていたためか、急に物寂しくなってしまった二人である。
だが、今の二人はもう一度手を繋ごうとはどちらからも言うことなどできない。
触れ合うかどうかという微妙な距離がそこにあった。
接してはいないのにお互いの体温が小指の辺りに感じられる。
「わかった。アンタと一緒だったのよ、きっと」
アスカは乾いた空を愛しげに見上げた。
「どうせ言葉にしてもらえるのだったら、知るんじゃなくて、聞きたかった。そ〜ゆ〜ことよね、たぶん」
最後は少しおどけた感じにしてしまった。
やはり恥ずかしい。
だがここから逃げ出さずにシンジと会話をしている自分がアスカは不思議だった。
とはいえ、事ここに到って逃げ出すなど言語道断だ。
彼女は自分の手がシンジと手錠で繋がれているのだと思おうとした。
愛の手錠ってヤツよっ。
アスカはそんな陳腐なネーミングに内心苦笑するのだった。
シンジは一生懸命に自分に言い聞かせていた。
逃げちゃ駄目だ、と。
そして彼もまたアスカと手錠でつながれているのだとも思おうとしている。
絶対に言うんだ、今ここで、アスカに。
さっきトウジとケンスケには言うつもりだったじゃないか。
アスカのことが大好きだ、と。
彼は覚悟を決めた。
何かを振り切るようにさっと腰を上げたシンジはアスカの前に立った。
空で一杯だった彼女の視界にいきなりシンジの顔が飛び込んでくる。
それは先ほどのあの凛々しげな表情であった。
わっ、来るっ!
そう思った瞬間、アスカは咄嗟に叫んでしまった。
「待ってっ、シンジ!言葉にするのは!」
「えっ!」
人生最大の告白をしようとしたところに、その相手から制止されシンジは目を白黒させた。
アスカはニンマリと笑いながら…少しばかりぎこちない笑みだったが…、ゆっくりと立ち上がった。
そして、同じ背格好の少年に向って右手をまっすぐに差し出した。
それは握手を求めているのではなく、何故か人差し指が一本拳から突き出ている。
鼻先を指差されたシンジは若干目を真ん中に寄せて、何が起こるのかどきどきしながらアスカの出方を待った。
彼女は指を彼のおでこの上に移動させてちょんと突付く。
すっかり身体を硬直させていたシンジは少しばかりの力で情けなくもよろよろよろめいた。
「何するんだよ」
「さあね、アタシにもよくわかんないの」
しゃあしゃあと言ってのけたアスカはシンジの背中の方に回りこみ、
そして大胆にも彼の背中に寄りかかった。
背中が熱い。
冬服の学生服を通してだから彼の体温が伝わってくるはずがない。
だが、アスカはしっかりと感じていた。
シンジの熱い思いが背中から伝わってくるのだと。
それはアスカ自身の身体の火照りだというツッコミは野暮というもの。
シンジの方もまた背中のぬくもりに頭が蕩けてしまいそうだったのだから。
「あのさ、お願いがあるの」
「う、うん」
しっかりしろ、シンジ!
自分を叱咤するものの、言葉はやはりすっと出てこない。
「チョコ、もらってくれる?あっ、ぎ、ぎ、ぎ…」
昨日の失敗を思い出し、慌てて“義理”じゃないと付け加えようとしたアスカだが、
昨日はあんなに簡単に言えた“義理”という言葉がすっと出てこない。
しっかりしなさいよっ、馬鹿アスカ!
「つ、つまり、あれよ。ぎ、ぎ」
「えっと、義理?」
「そう!それよ!」
アンタ、やればできるじゃない!
もしかすれば彼の人生で最高のタイミングで発した言葉ではないだろうか。
そう思ったアスカだったが、ふと自分の発言に気がついて冷や汗をどっと噴出した。
「ち、ち、ちがうわよ!馬鹿!あ、馬鹿はアタシ!義理じゃなくて、本命なのっ!」
言ってしまってから、アスカは口を掌で押さえた。
しかし、溢れ出た言葉は明朗な叫びとなってシンジにしっかりと届いてしまっている。
もしシンジがアスカの顔を覗くことができたなら、彼はそこに白人ではなく赤色人の少女を見ることになっただろう。
アスカは知らずのうちに目が潤むのを感じていた。
周囲の景色がぼやけて見える。
ついに言っちゃったんだ、アタシ。
「ありがとう、アスカ。あのさ、ぼ、ぼ、僕も…」
この姿勢なら言える。
僕にだって言える。
はっきりと言える。
そう思ったシンジは自分も告白しようと決意した。
ところが、その瞬間、またもやアスカが邪魔をしたのだ。
「ち、ち、ちょっと待った。まだ言っちゃ駄目っ」
「ええっ」
アスカは本当にわからない。
本命チョコをくれるって言うのに、どういう意味なんだよ。
困り果ててしまったシンジに、アスカはぼそりぼそりと説明を始めた。
彼女にしては小さすぎる声音で、シンジは一生懸命にその言葉を聞き取る。
つまりこういうことだ。
去年のバレンタインデーのリベンジをしたいということ。
あの時、本命チョコを渡したかったのだが恥ずかしくてどうすることもできず、
逆にシンジを学校に行かさずに隔離作戦を実行した。
さすがにあの時渡した“愛の手紙”は恥ずかしすぎて、
それにあまりに小細工しすぎていたような気がして、口にはしなかったアスカである。
それでも、彼女の言いたいことはシンジにはよくわかった。
アスカらしいや。
屈辱は100倍にして返す、だっけ。
いや、100万倍だっけ?
まあ、いいや。
それでアスカの気が済むのなら、それで。
もうすっかりと安心したシンジは余裕の固まりであった。
それにその方がバレンタインデーが楽しみだ。
もうあと3週間足らずでその日はやってくるのだから。
アスカはぐっと体重を背中にかけた。
それに気付いたシンジは歯を食いしばって、それを受け止める。
しかしアスカはそれで納得しなかったようだ。
さらに足を踏ん張って力を加えてくる。
負けるものかとシンジも足を突っ張る。
「おい、お前ら。押しくら饅頭じゃなくて、キスはしないのか?」
天からの声。
びっくりした二人がその方角を見ると、
体育館の横扉がいつの間にか開いていて、そこから覗いているのはたくさんの顔、顔、顔。
バレー部、体操部、卓球部…。
体育館を使っていた部活動の生徒達である。
「こらっ、黙ってたら、したかもしれないでしょ。キス」
体操部の女の子が声をかけたバレー部の男子を責める。
「馬鹿言え。この雰囲気でするか」
「でもびっくりしたわ。この二人ってまだ告白してなかったのね」
「まあ、どっちにしても誰にもどうにもできないけどな」
「そうそう、蟻一匹入り込めないわよ」
「蟻じゃなくて、絶世の美女ならどうだ?」
「そうだな、誰か試してみるか?」
「あのねぇ、それって私たちに喧嘩売ってるわけ?」
「おっ、てことは認めてるんだな。惣流には負けるって」
「この馬鹿!あんたなんか、一生ピンポン玉とつきあっていればいいのよ!」
こんなかしましいやり取りが続く中、アスカとシンジはじっと耐えていたのだろうか?
答はノーだ。
最初に彼らの存在を確認した時点で、二人は手に手を取って雲を霞と逃げ去ってしまったのだから。
これらがあの事件の結末だった。
もちろん、アスカとシンジはそれぞれの友人たちに連絡を取り、
女性陣は甘味処、男性陣はお好み焼き屋へご馳走することで感謝の意を表したのである。
彼らはわざわざバレンタインデーまで告白を先送りにした二人に呆れ果てたのだが、
それでもそこまで発展したのは自分たちの崇高な献身のおかげであると恋人候補生二人へ恩を着せた。
無論、それに対してアスカもシンジも友人たちにお代わりを厭わなかったのである。
二人とも、まだ冬最中であるのに心は春爛漫だったのだから。
アスカは布団の中に潜りこんで考えていた。
どんなチョコレートをシンジに贈ろうか。
何しろ素材はたっぷりある。
そして、ふと考えた。
あれだけあれば、己が全身にチョコレートコーティングすることも可能ではないだろうか。
時計は午前一時を示している。
ベッドの上でこんもりと丸みを帯びた山のようになっている布団は微動だにしない。
30秒ほど経過して、真っ暗な部屋に掛け布団と毛布ががばっと舞い上がった。
ベッドの上に立ち上がったパジャマ姿のアスカは、それはそれは真っ赤な顔で叫んだのである。
「この馬鹿シンジ!エッチ!スケベ!変態!」