幼馴染
−四−
お転婆アスカ、
恋に目覚めるとき
碇シンジは運命の悪戯か、アスカと同じクラスになった。 転校生だと紹介され廊下から入ってきた彼が教室にアスカの金髪を見つけぱっと破顔し た時、彼女は迂闊にも微笑み返してしまった。ただし、彼の笑みが誰に向けられたのかは クラスの誰にもわからずじまいに終わった。その後、アスカは二度と彼の顔を見ようとせ ずに、窓の外を一生懸命に見ていたからだ。 結局、彼女はその日一言も彼と言葉を交わさなかった。 最近、窓が叩かれなくなった。 ほぼ毎日、ごつんごつんという音がカヲルの部屋の窓ガラスから鳴っていたのに、3日 に一度くらいの回数に減ってきた。しかもその時に話す時間も明らかに減っている。 体調が悪いのか、それとも…? もちろん、彼が黙って見ているわけがない。 カヲルは窓越しに訊いてみた。何か気になることがあるのかと。しかしアスカはきっぱ りと何もないと言い切った。話をしていると何てことはない。いつもの調子でいつものア スカだ。 だからカヲルもいくばくかの不安は感じながらもそのままで放っておいたのだ。 その不安は毎日でなくなったことが元だと彼は誤解していた。 それは音だったのである。 彼女の部屋で鳴っているのは確かに今までと同じビートルズ。しかし、いつもより曲調 がおとなしい。「イエスタディ」と「ミッシェル」、「アンド・アイ・ラブ・ハー」に、 それから今度は「イン・マイ・ライフ」が加わった。 先日、レイの家でシンジが約束通りに追加の一曲を披露してくれたのだ。 その日のうちにアスカはカセットテープを編集してその曲を録音したのであった。 カヲルはしばらくの間、その事実に気がつかなかった。 アスカは自分が変わってきているのに気づいていた。 バラード系の曲を好きになってきたのは興味が出てきたからだと思っていたのだが、制 服から私服に着替える時、無意識にジーパンを外すようになってきたのだ。 しかも外出する時に限って。 滅多に着ないスカートやワンピースを選ぶ娘に、母親は何も言わずに温かい微笑を向け るだけだ。20年ほど前の自分を見るようで。 アスカのその格好をカヲルは町中で見かけた。 レイと並んで歩くその姿は彼の目に新鮮で、彼は嬉しくなってしまった。何しろアスカ といえばジーパンが定番で、スカートなど制服以外ではお目にかかることなどなかったの である。 すらりと伸びた白い脚に彼は相好を崩したものだ。 彼は迂闊だった。 アスカの服装が変わってきたことに男の影響を考えなかったのだ。 そこは恋愛に初心者のカヲルだ。 しかも彼の場合、アスカへの恋心を認識しても何一つ変わることがなかったのだから、 余計にアスカの変化に気がつかなかったのだろう。 気がついたのはアスカ本人の方が先だった。 体育大会でフォークダンスを踊る時、シンジとパートナーになった時身体中の血が沸騰 した。…ような気になった。それは練習の時からの傾向で、カヲルやトウジを相手にした ときはいつものように軽口を叩き手も適当に繋ぐだけ。 しかし相手がシンジの時にはそうもいかなかった。押し黙ってしまい、彼の顔も見られ ず、手もつかず離れずといった具合。 そんな変化を自分でさすがに気がついた。 碇シンジのことをいつの間にか意識している自分のことを。 そうなれば、現在の自分の変化もすべて了解できた。 ビートルズで好きな曲が変わってきたこと。 私服の選び方。 授業中に無意識にシンジの横顔を見てしまっていることもそうだ。 アスカは慌ててしまった。 この自分が男子に好意を持ってしまっている。 しかも、これといってカッコよくもない男の子に。 彼女はううむとばかりに腕を組んだ。 女の子には似合わない大型ラジカセからちょうど流れてきているのは「ミッシェル」だ った。シンジがチェロで弾いていたその曲を聴き、机に頬杖をついた彼女は眉間に皺を寄 せる。 そして、彼女は大きな溜息を吐いた。しかしその溜息には少しも落胆の色はなく、寧ろ 幸福感さえ漂うものだった。 アスカはせいのっとばかりにベッドにダイブした。うつぶせになり、足をバタバタさせ るたかと思うと、枕元の猿のぬいぐるみを抱きしめてごろんごろんとベッドで転がる。 しばらくしてから、彼女は思いついた。 「ねぇ、カヲル。アンタ、レコード持ってない?」 「持ってるよ。レコードなら山ほどね」 「この意地悪。えっとね…」 カヲル呼び出し棒を片手に、アスカはメモを読んだ。 『バッハの無伴奏チェロ組曲』。あの日。彼と初めて逢ったときに聴かせてもらった曲 だ。やっとのことでレイから題名を聞きだしたのだが、惣流家にはクラシックのレコード が有名どころの数枚しかない。 そこで隣家の豊富なライブラリーを思い出したのだ。 「ああ、多分あるよ。でもマイナーな曲をどうしてだい?しかもチェロかい?」 「いい曲だからよっ。貸してくれる?」 「ああ、かまわないさ。そっちに持っていこうか?」 「ううん、いい。カヲルんとこの玄関まで行くからそこで貰うわ。じゃっ」 言うが早いか、アスカは身を翻した。手にしていた棒ががらんと畳に転がる。 カヲルは吹き出してしまった。 今すぐ探せというのかい? 本当に我儘なお嬢さんだねぇ、君は。 カヲルは嬉しげにステレオの横の棚に蹲った。 作曲家で分類していてよかったと思いながら。 数分後に階下に降りると、もうアスカは玄関に立っていて、カヲルの手のレコードを見 るとその表情が明るく輝いた。 「あったの?さすが、アタシのカヲルよね。アリガトっ!」 「いえいえ、どういたしまして。上がってく?うちで聴いていくかい?」 「ううんっ。いいわ。録音もしたいし」 「こっちの方が音がいいよ。聴いてからにすれば?」 純粋にクラシックファンとしての発言と、一緒にいたいという気持ちと。 しかし、アスカは一人で聴きたかった。あの時の彼のことを思い出して聴きたかったか らだ。だから「ごめん、アリガトねっ」と明るく玄関から去っていった。 その弾むような背中を見送って、なぜバッハかと首を軽く傾げるカヲルである。 帰宅し、応接間のステレオに借りてきたレコードをセットする。針を落とすと同時に、 急いでソファーに戻って姿勢を正して音が流れるのを待った。 そして静かにチェロの音色が。 アスカは眼を閉じた。 彼女程度の耳の持ち主でもレコードとシンジとでは演奏者としての腕が大きく違うこと くらいはわかる。しかし、レコードはアスカにとって水先案内人に過ぎなかった。 曲が始まりしばらくすると、彼女が聴いているのはあの時のチェロの音だった。 レコードはアスカを記憶へと誘う。それはあの日の彼の姿だけでなく、教室や体育大会 やいろいろの記憶に繋がっていく。 胸がドキドキして、頬が熱い。 恋心は不思議だ。何故彼を好きなのかなどという問いかけなど自分ではしない。 とにかく好きなのだ。 その気持ちだけが尊いのであって、それを疑うような好意は冒涜なのだ。 しかし、好きであるというだけでは心は安らがない。 自分の気持ちを相手に受け入れて欲しい。 だが、拒否されることを考えると恐ろしくて何もできない。 そして毎日がそのまま過ぎていく。 会話するだけで心が躍り、予期せぬ場所で出くわすとその幸運に歓ぶ。 他の異性と彼が喋っていると心が曇り、彼が風邪で休んだりすると一日が憂鬱になる。 自分がこんな風になってしまうとはアスカにとって意外だった。 意外すぎて、誰にも言えない。カヲルにもレイにも。言えば、笑われてしまいそうで恥 ずかしいのだ。 そうして考えてみると、自分にカヲルのことが好きだと告げたレイを凄いと思う。自分 の気持ちに胸を張っているからこそだと。 もちろん、レイがアスカに告げたのは彼女とカヲルとの仲が進展しないようにという配 慮だったとは思いもよらない。思わなかったからこそ、アスカはレイの望まぬ方向へ歩み だそうと考えてしまったのだ。 カヲルとレイの間を仲立ちする。 彼女はその思いつきにわくわくした。 これはアスカにとっての代償行為だったのだろう。 自分はとてもじゃないがシンジに告白など絶対にできない。 誰にも言えない。 その代わりに親友の想いを遂げさせる。もしそれが叶えられれば自分の恋もうまくいく かもしれない。そんな恋の辻占をも込めて、アスカはレイの気持ちをカヲルに届けようと した。もちろん、レイに意向など訊きはしない。そんなことを訊いても、恥ずかしがって やめてくれというに決まっているからだ。 それに彼女の気持ちもわかる。もしカヲルに拒否されればという恐れも。 しかし、アスカには確信があった。 レイは可愛いし、自分の願いだし、カヲルは受け入れてくれると。 思いたったが吉日。 但しもう夜だ。 アスカは明日にカヲルへ話をしようと決めた。 その翌日は11月3日、文化の日。 朝から雨が降っていた。 アスカはたいしたシナリオも組み立てず、傘も差さずに小走りで4秒足らずの隣家に向 った。雨降りだから窓越しも何だし、こういう話はやはり面と向ってするものだ。 インターフォンを鳴らすとカヲルの「は〜い」という高い声が聞こえてきた。 扉が開くまでの間、アスカはわくわくしてきた。 彼女には明るい未来しか見えていない。カヲルが彼女の提案を断るとは思ってもみてい なかった。だから彼女は顔を覗かせたカヲルに明るい笑顔を向けたのだ。 「はい、カヲル。今日はね、とってもいい話を持ってきたのよ」 「へぇ、何だい。いい話って」 こういう場合、自分にとって都合のいい想像をしてしまうのはどうしてだろうか。 その想像は一瞬で崩されてしまうのだが。 「レイがね、アンタのこと好きなの。ねぇ、つきあってあげてよ。いいでしょ」 アスカも想像していた。「困ったなぁ」と照れてしまう幼馴染の顔を。 だが、カヲルは笑顔を引っ込めてしまった。滅多に見られない真顔で彼は即座に口を開 いた。 「悪いけど、駄目だ」 「ど、どうしてよっ。レイはいい子じゃない。あの子のどこが気に入らな…」 「帰ってくれ」 断られると思ってもいなかった上に、追い出されるとはアスカはその眼を疑った。しか し現実に目の前にはぴしゃりと閉ざされた玄関扉がある。 彼女は拳でどんどんと叩いた。 「ちょっとっ。カヲル!アタシの話聞きなさいよ!」 「聞きたくないね。とにかく帰ってくれ」 素っ気無いその言葉を残して、彼の足音は奥の方へ消えていった。アスカは予期せぬ展 開に困り果て、再度インターフォンを鳴らすが何も返らない。彼女は唇を噛み、自分の家 に走った。窓越しに話をしようと思ったのだ。 しかし、彼の部屋はいつものレースだけでなく、分厚いカーテンまでしっかりと閉めら れている。彼が部屋にいることは確実だ。照明が点いているし、何より大きな音でクラシ ック音楽が聞こえてくるのだから。 アスカはいつもの棒でごんごんと窓ガラスを叩く。 だが、返事は当然ない。 逆にレコードの音が大きくなっただけだ。 「どうしてよ…」 アスカはわけがわからなかった。同じ断るにしてもこんな態度をどうしてとられないと いけないのだ。その原因が自分だとは思いもよらない。 彼女は困り果て、そしてレイにはこの事を黙っておこうと決めたのである。 だが、レイは知ってしまった。 カヲル本人の口から聞かされたのだ。 彼としてはレイがアスカに頼んだと思い込んでしまったのである。自分の恋に浮かれた アスカがいい気になって仕出かしたことだとは考えもしなかった。 レイが憎い。自分とアスカを引き裂こうとする張本人が彼女だ。何が仏だ、観音だ、菩 薩だ。悪魔のような女じゃないか。 カヲルは哀しみのあまり完全に自分を見失った。 こうなれば、レイからアスカを遠ざけないといけない。 彼は1年の連絡網を探し出し、綾波レイの家の電話番号を回した。 「アスカ。レイちゃんから電話よ!」 一階からの母の呼び声にアスカは溜息を吐いた。 今日はできることならレイとは話したくない。 親友の知らないうちに彼女の恋を終わらせてしまったのだから、アスカの気が重くなる のは当然だろう。しかし居留守など使えるわけもなく、ひとまず普通に喋ればいいのだと 自分に言い聞かせ階段を降りたのだ。 だが、電話の向こうからは冷たい言葉しか聞こえてこなかった。 「何てことをしてくれたの?私が頼んだ?いつ?私、そんなこと頼んでない。 今のままでいいって言ったはず。どうして、そんなことを言ったの。 もう、私…。あの人に嫌われた。二度と近づくなって言われた……」 ところどころで鼻を啜る音が混じっている。 アスカは身体中が震えた。 カヲルがレイに話したのだ。どうしてそこまでする必要がある。 言葉が出てこない。何か言わないと、謝らないといけない。しかしいったい何を言えば いいのか。 「れ、レイ…、あ、アタシ、ね…」 「アスカなんか大嫌い!絶交っ!」 痛切な叫びとともに電話は切れる。 アスカは受話器を握り締めたまま虚空を見つめていた。 ごんごんごんごんっ! 窓がまた大きく叩かれた。 ふん、叩くならガラスまで割ってしまえばいいじゃないか。 僕の心をずたずたにしたんだから。 「カヲルの馬鹿ぁぁぁっ!」 その叫びの後、何かが下に落ちる音がした。 あの棒を投げ捨てたのだろう。続いて窓がぴしゃりと閉まる音。それを最後にカヲルの 耳に聞こえるのは雨音だけになった。レコードはもう最後まで演奏されて針は元に戻って いる。 彼は部屋の真ん中で仰向けになり、じっと天井を見つめていた。 綾波レイが悪いんだ。全てあの女が。 「ねぇ!レイっ?お願いっ、出てきてっ。レイぃっ!」 インターフォンを鳴らし、扉を叩き続けてもレイは姿を見せない。レイの部屋の明かり が点いているのだから、彼女がいることは間違いない。傘も差さずに突っ走ってきたアス カはびしょ濡れのまま綾波家の玄関に立ち尽くしていた。 とにかくレイに謝りたい。勝手にカヲルにレイの気持ちを伝えてしまったことを。自分 が馬鹿だったのだ。浮かれた自分が。 アスカは門のところで為す術もなくただじっと待った。 許してくれるわけがないと思ってはいるが、とにかく謝りたかった。 部屋のカーテンの隅からそっと外を窺ったレイは、そんな親友の姿を見て心が痛んだ。 あのプライドの高いアスカがああまでして許しを請おうとしている。きっとカヲルが誇張 して自分に伝えてきたのだ。 しかし、レイはもう言ってしまったのだ。大嫌いだと、絶交だと。 言いようもない哀しみが彼女を突き動かしてしまった。 もう、二度と元には戻れない。親友をあんな目に合わせているのだから。 レイは涙に濡れた眼を拭おうともせず、人気のない家を歩いていった。アスカのいる玄 関の方でなく、電話のある居間へと。両親が法事のために泊りがけで出かけている今、頼 れる人は彼しかいなかったから。 もう6時を過ぎていた。 雨の所為ですっかりと暗くなっている。 アスカはあのままの姿勢で佇んでいた。このまま肺炎になって死んでもいいとまで彼女 は思いつめていた。元々は自分の差し出口が原因ではないか。 そんなところにぴちゃぴちゃと足音が近づいてくる。アスカは道路から見えないところ へ身体を移す。しかし足音は自分の方へ一層近寄ってきた。 「あれ?惣流さん、だよね。ど、どうしたんだいっ。傘も差さないで!」 アスカはその声の主を見ることができなかった。うな垂れたまま地面を見ていると、す ぐ近くに運動靴が見え、雨の雫が身体にかからなくなった。 「レイ、いないの?おかしいな、あいつに電話で…あっ、ま、待ってよ……」 レイに会うことができそうなのに、アスカはこの状態に耐えられなかった。彼のことを 好きだという気持ちだけで有頂天になってしまい、結果的にレイと喧嘩になってしまった のだ。 その彼が目の前にいる。 とうとうアスカは何も言わずに、そこから逃げ出してしまった。 残されたシンジは狐につままれたような表情をしていたが、さすがに二人の間に何かあ ったということくらいの察しはつく。 彼は真剣な表情で扉を叩いた。 「レイ、開けてっ。開けるんだっ」 11月の雨は冷たく、しとしととこの町に降り続けていた。
−五−
気取屋カヲル、
カッコをつけるとき
アスカは都合3日学校を休んだ。 仮病ではない。 やはり雨の中数時間濡れ鼠になっていたためにその夜から高熱が出たのだ。 入院まではしなかったが、赤木医院の若先生に往診してもらい点滴を打たれ、2日目に 37度まで体温がようやく下がったのだ。 さすがのアスカもあと1日休みなさいと言われ、まだ青白い顔で頷いた。 レイと顔を合わせ辛かったこともあったのであろう。 その土曜日はじっとベッドに横になり、これからどうすればいいのか答の出ない問題に 悩み続けていたのである。平熱まで戻ってはいるが、まだ頭が少しふらふらする。 いつもよりも小さな音でビートルズをかけ、その一曲の間に溜息を数回。 ベッドから身体を起こすとレースのカーテン越しにカヲルの部屋の窓が見える。 まさに秋晴れ。陽射しが暖かそうだが、アスカの心には木枯らしが吹いている。 彼女は未だにわからなかった。何故カヲルがあんな態度をとったのか。レイが怒ったの はよくわかる。彼女の頼みを無視してアスカが自分勝手に行動したのだから。しかもカヲ ルに申し出を断られたのだから尚更だ。 だが、カヲルの方は何故なのだ。彼が自分に異性としての好意を抱いているのだという 答えは一切浮かんでこない。余程レイが苦手なのか。まさか女に興味がないとか。そこま では極論にしても、今誰とも付き合う気がないのにアスカが仲人口をきいて来たからか? 一番自分のことを理解しているはずのアスカがそんな行動に出たから腹が立ったのか。今 回のカヲルのことがアスカにはまるでわからなかった。わからないがために彼のことは二 の次にされてしまう。 それよりもレイだ。 どうやって謝れば許してもらえるのか。 アスカは必死に考えた。 考えたが、明確な答は出ない。 とにかく病気が治ったらもう一度レイの家に行こう。いや、許してもらえるまでずっと 通うのだ。みんなが見ていようが雨が降っていようが、土下座してもいい。土下座しても 許してもらえるとは思っていない。 それだけのことを自分はしたとアスカは思っていた。 恋する乙女の純情を踏みにじったのだ。 カヲルがわざわざレイに電話したのは……きっと自分が説明不足だった所為に決まって いる。 彼がそんな意地悪なことをするわけがない。 渚カヲルはアスカにとって…。 堂々巡りの思考の果てにアスカはまたうとうとと眠ってしまっていた。 午後3時過ぎ。 眼の覚めたアスカは喉が渇いたので1階まで降りてきて、母の買い物に行くという置手 紙を見た。するとインターフォンが鳴り、彼女は何の気なしに応答する。 「はい…」 「あの…碇といいますが…」 アスカは慌てた。 その時にはレイのこともカヲルのことも頭からすっ飛んでいる。 何といっても彼女は病後。当然、ずっとお風呂にも入っていない。昨晩、母親に身体を 拭いてもらってはいるが、まず気になったのは自分の匂い。髪の毛や肩の辺りをくんくん と嗅ぐがよくわからない。 インターフォンに応えてしまっただけに、出ないわけにはいかない。 それに彼に会いたい。 あの時、顔も見ずにレイの家の前から逃げ出してしまった。 そのことで彼が怒っているのではないか。いや、怒っていて当然だ。従兄妹のレイが彼 女のために傷つけられたのだ。 彼にも謝らないといけない。 身体の匂いなんて……とは思いながらもやはり気になってしまうのが乙女の純情。 躊躇いながらアスカは玄関に向かった。 扉を開けてすぐに彼女は廊下の陰に逃げ込む。 じわりと開いた扉の向こうから、恐る恐ると顔が覗く。 「ごめんください。碇といいます。あの…」 「ごめんなさいっ。ママ、今いないから」 「あ、ご、ごめんっ」 「と、とにかく、中に入って」 誘導されるままにおずおずとシンジは玄関の中に入った。扉はしっかりと閉められず、 10cmばかり開いたままだった。 これは彼にとって幸いだった。 彼というのはシンジではなく、カヲルである。 玄関先でうろうろしているシンジの姿を彼は窓からちらりと見たのだ。そして、直感し た。綾波レイの親戚だと言うこの転校生がアスカにちょっかいをかけたのだと。自分たち の平穏な世界を乱したのはこの男に違いない。 そう確信した彼は部屋を飛び出し、玄関から様子を窺っていたのだ。カヲルはシンジが 家の中に姿を消してすぐに、玄関脇の壁にはりついた。扉の隙間から話し声はきちんと聞 こえる。親が外出中の彼女の家に押し入るとはなんというヤツだ。 カヲルは拳を握り締めた。 だが、事態は彼の想像の通りには動かなかったのである。 「あ、あのね、レイのことなんだけど…」 アスカの姿は見えない。 声は廊下の陰から聞こえるから、おそらくそこにいるのだろうと見当をつけてシンジは 喋っていた。 「あいつ、人付き合いが下手と言うか、頑固と言うか、えっと、つまり、君に謝りたいん だけど、どうすればいいのかわからないんだ。君が病気で休んだから余計に途方にくれち ゃって」 こういう風に喋ろうと考えてきたのに、いざとなると上手く言葉にできない。 もっともアスカの顔が見えないことは彼には喜ばしいことだった。あの顔を見てしまう と絶対にしどろもどろになってしまいそうだからだ。 「だから、あの…、言い過ぎたって思ってるんだけど。君が風邪を引いたって聞いてね。 もしかすると仮病で、自分に顔を合わせたくないからかもって。 ああっ、そんなことないって僕はレイを叱ったよ。うん。惣流さんはそんなことをする 人じゃないって」 廊下の陰のアスカは胸を押さえていた。 彼にそんな風に思われて嬉しいのと、月曜日に学校に行くのが憂鬱だなと思っていたこ との懺悔と。 「で、横からしゃしゃり出てきて悪いんだけど。僕が間に入るって言ってきたんだ」 シンジは唾をごくりと飲み込んだ。 「レイを許してやってください。これまで通り友達でいてあげてくださいっ」 彼は最敬礼した。 アスカが許してくれなかったら、土下座してもいいと思っている。レイにとっても、彼 女は間違いなく大切な人だ。 「いいの?レイは許してくれるの?アタシを…」 彼にとって初めて聞く、アスカのか細い声。 いつも元気な喋り方だけに、その声は彼の胸を締め付ける。 彼は顔を上げた。すると廊下の陰にさっと紅茶色の髪が隠れた。 「悪いのはレイだ。君はレイのことを思って、その男の子に声をかけてくれたんじゃない か」 「でも、レイは…そんなことしなくていいって」 「レイに意地悪しようと思ったんじゃないんだろ?きっとその男の子がOKしてくれるっ て信じてたんだろ?」 言葉にならずに、頷くことしかアスカにはできなかった。 頷くだけでは彼にわからないとも思ったが、声に出して「そうだ」などと言えようか。 玄関脇でカヲルは唇を噛んでいた。 こいつは拙い。この男はアスカの弱みに付け込んでいる。 カヲルは乱入するタイミングを計っていた。 「じゃ、いい?明日、レイをお見舞に来させるから。それでかまわないかな?」 アスカはやっとのことで声を出すことができた。 ほんの小さな短いフレーズだったが。 「うん」 シンジはにっこりと笑った。 「ありがとう。そ、それから…」 笑顔は消えた。 彼はぐっと拳を握り締め、血が滲むほどに唇を噛んだ。 「それから、君に…お願いがあるんだ」 アスカははっと息を飲み、カヲルは荒々しく息を吐いた。 だが、その二人ともにまったく予想しなかった言葉が彼の口から漏れたのである。 「僕を振って欲しいんだ。だ、だから、僕のことなんか大嫌いだって、い、言ってくれな いかっ」 アスカは廊下から顔を覗かせた。 彼の言っている意味がわからない。付き合って欲しいとか、好きだとかという言葉でな いことは確かだ。 彼が欲しているのは、アスカに嫌われること。 意味がわからない。 カヲルも眉を顰めていた。 新種の求愛方法かとも疑ったが、どう考えてもそんな感じではない。 彼はさらに様子を窺うことに決めた。 シンジはアスカの顔から眼をそらした。 一瞬、彼女と目が合ったが、とてもじゃないが顔を見て話などできない。 「僕は…、あの、つまり、ぼ、僕なんか大嫌いって」 「あ、アタシ…」 「だから、口も聞きたくないってことで。ごめんなさい!」 何がごめんなさいなのか、彼は再び最敬礼すると、踵を返した。 アスカが二歩三歩歩み寄ろうとした間に、シンジは玄関の扉を大きく開け放し外へ飛び 出していった。玄関脇に立っていたカヲルの存在に気づきもせずに。 シンジは道路に飛び出し、その場で一度立ち止まり、そして空を仰いだ。 数秒後、肩を落とすと見るからにとぼとぼと歩き出した。 そんな彼の姿をカヲルは笑みもなしにじっと見つめた。 これはどういう意味なのか。まったく意味不明だが、これは大きなチャンスではないの か?彼はニヤリと笑った。 アスカがシンジのことをどう思っているのかまるでわからない。だが、彼はアスカの心 を充分に揺さぶってくれた。 ここはアスカにレイに暴言を吐いたことをまず謝罪し、それはアスカのことが好きだか らで、ついそんなことをしてしまったのだと言えばいい。ずっと昔から好きだったのだと 言えば、必ずアスカは応えてくれる。 カヲルには自信があった。 だから彼は明るい表情で扉に手をかけた。 が、その表情は硬く、凍り付いてしまった。 扉の隙間から泣き声が聞こえてきたからだ。 アスカの泣き声。 あの日、幼稚園に入る前に、ただ一度だけ聞いたことのある泣き声。 涙を零すことはあっても、必死に耐えるのがアスカだ。 それが今、彼女は泣いていた。 ただその泣き声はやはり子供のそれでなく、声を張り上げているわけではない。 うっうっとくごもったような泣き声だった。 おい…。 これは…。 カヲルは壁に背を持たれかけた。 どういうことなのだ? もしかすると、好きなのはアスカの方なのか。あの碇シンジという特に特徴もないよう な冴えない男に、あのアスカが恋をしていたのか。 違う、違う、違う。 そんなはずはない。 アスカが恋をするのは自分のような…自分のようなっ。 そうだ。 これはアスカの心の迷いに違いない。 やはりこの自分が彼女をしっかりと受け止めればいいのだ。 揺れる心を必死に落ち着かせて、カヲルは扉を開けた。 アスカ…と呼びかけて、にっこり微笑みかけるつもりだった。 だが、彼の微笑みは凍り付いてしまった。 廊下にぺたんとお尻をつけて、手で顔を覆い泣いているその姿は、 まぎれもなく10年ほど前に見たものと同じだった。 カヲルは躊躇った。 一瞬、彼女を抱きしめてしまえと誰かが耳に囁いた。 おい、大チャンスだ。抱きしめて唇を奪うんだ。 馬鹿なことを言うな。僕はアスカを守ってあげると誓ったのさ。それに失恋した乙女の 心につけ込んで…。 もう一人の声が聞こえた時、カヲルは頭の中で対立する二大勢力に待ったをかけた。 失恋? このアスカの姿。 どう見ても悔しくて泣いているのではない。 哀しくて、哀しくて、まるで見捨てられた子供のように。その姿はあの時の、苛められ た時の比ではない。恐怖心を堪えていて爆発したのがあの時のアスカだ。 だが、今のアスカは違った。 好きな男に告白して拒否されたのではなく、その前に向こうから嫌いだと言われたよう なものだ。 こんな屈辱、いや哀しみはあろうか。 カヲルは唇を噛みしめた。 もはやその表情には笑みの欠片も見られない。 「アスカ」 びくんと身体を震わせるパジャマの少女。 カヲルがすぐ近くに立っていたことも気づかなかったのだ。 彼女は恐る恐る顔を上げ、指の隙間から青い瞳を覗かせる。その瞳は哀しみと苦しみに 濡れていた。 カヲルはすぅっと息を引いた。 アスカのこんな眼を見るのはもう金輪際勘弁して欲しい。 しかも彼女はカヲルの姿を確認した途端に泣き声を張り上げた。まるで子供のように。 あの時のようにわぁわぁと実に無防備に。 これは…。 カヲルは苦笑した。 これでは、まるで僕が彼女の…。 「好きなんだね、彼が」 こくんと頷く。 その動きとともに紅茶色の髪の毛がばさりと顔の前に垂れた。 カヲルはその髪を優しく持ち上げ、首の後ろへ回す。そして彼女の頭をそっと撫でた。 アスカの震えが止まる。 だが、その時彼はどうでもいいことを考えてしまった。 病気だったからお風呂に入ってなかったんだな。だから髪の毛がべとっとして…。 カヲルは苦笑した。 おいおい、こういう時に僕は何てことを考えてるんだい? これは恋する男の気持ちじゃないね、まったく。 僕はアスカにとって永遠の幼馴染に過ぎないのか。 いや、きっとこの気持ちは…。 「アスカ。よくお聞きよ。 今すぐ、顔を洗って、その泣き顔を綺麗にするんだ。 それから、パジャマを着替えて、そのまま部屋で待ってること。 そうしたら…」 カヲルは全身全霊の力を込めて、優しく微笑んだ。 その笑顔をアスカはじっと見上げている。 「僕が彼を連れてくる。絶対にね」 アスカの口が「でも」と動く。 そんな彼女の頭をカヲルはぽんぽんと軽く叩く。 「自分の気持ちをはっきり言うんだ。 そうすれば、きっと彼は君の願いを叶えてくれるさ」 血を吐くような思いなのに、言葉はスラスラ出てくる。 そんな自分が恨めしくもあり、誇らしくもあり。 アスカの口が「ホント?」と動いた。 「馬鹿だね。僕の力を見くびるんじゃないよ。じゃあ、僕の言った通りにしてるんだよ、 いいね」 もう一度、にっこり微笑むとカヲルはアスカに背を向けた。 完璧だ。 さようなら、わが恋。 いや、本当に恋だったのかな? 扉に手をかけたカヲルは、しかしそこで立ち止まってしまった。 そして、実に間の抜けた質問をしないといけない自分を呪ったのである。 「で、彼の家はどこなんだい?」 カヲルは自転車を頭に思い浮かべなかった自分を呪った。 体力のない自分を呪った。 それなのに、彼に追いついてしまった自分を呪った。 そして、肝心のことを失念していた自分を…。 堤防下の河原に連れ出した碇シンジの目は怒りに燃えていた。 まさにカヲルを憎しみの炎で焼き殺さんがばかりに。 最初は何故そこまでと思い、そしてすぐに思い出した。 碇シンジにとって、渚カヲルとは綾波レイの心をズタズタに傷つけ、その親友である惣 流アスカと仲違いさせた張本人なのだ。しかも、どう見ても今彼は大好きな女の子に自ら 振られてきたところだ。その理由はとんとわからないが、これだけは確かだ。 今この時、彼はカヲルのことを生涯の仇敵と捉えている。 こいつは弱ったな。 今さらながらにカヲルは困り果てていた。 どう考えても話を聞くような心理状態じゃなさそうだ。 決闘だ、果し合いだ。 しかも場所はそういう情景にピッタリの河原である。 そういう目で見ると、のどかに風に揺れる薄の穂でさえ殺伐として見えてくる。 血に飢えた野獣とまではいかないが、カヲルをぐちゃぐちゃにしてやりたいとは絶対に 思っているだろう。いつもは優しげな顔つきが、眼がぎょろりとなって唇がまくれ上がっ ている。 こんな顔を見たら、アスカの恋も冷めるんじゃないかなぁ。 そんなことを思いながらも、恋する乙女の感情は不可解だからとカヲルはその考えをぽ いと河原に投げ捨てた。 「ええっと、僕のことは知っているよね」 ぎくしゃくとシンジが頷く。 やれやれ、これはどうしても喧嘩をしないわけにはいかないようだね。 「碇シンジ君。僕はね…」 「気安く呼ぶな」 ようやく出てきた初めての台詞がそれである。 いささか震えていたのは、武者震いだろう。 じゃ、シンジ様とでも呼べばいいのかい?と口から出そうになって何とか思い止める。 べらべら喋る自分の癖はこういう時には便利が悪い。まさに売り言葉に買い言葉になって しまいそうだから。 カヲルは溜息を吐いた。 彼から毒気を抜くしかないが、それには喧嘩をしないと仕方がなさそうだ。シンジに殴 りかからせるために挑発すればいいわけだが…。 さてさて、殴り合いってどうやればいいんだろうねぇ。 アスカやトウジ君に聞いておけばよかったよ。 平和主義者のカヲルは苦笑交じりの笑みを深くした。 カヲルの笑顔は女子には好評だが、男子にはすこぶる評判が悪い。 案の定、シンジは顔色を変えた。 「バ、バカにしたな!そりゃあ、僕は君みたいにモテモテじゃないぞっ!」 ほほう、そう見えていたってことか。 じゃもう少し、バカにさせていただこうか、シンジ君? 「そうかい?君はモテモテになりたいんだ。 へぇ、アスカ一人にモテるんじゃ駄目なんだね。いやはや贅沢な人だねぇ、君って」 シンジの忍耐を司る全神経が切断された。 「うわあああああっ」と文字にすれば勇ましいが、いささか気の抜けた叫び声を上げて 彼は飛び掛っていった。 カヲルの胸倉を掴んで、「こいつっ、こいつっ!」と揺さぶる。 揺さぶられながら、カヲルは思った。 殴られたら痛いんだろうねぇ、注射よりも痛いんだろうねぇ。 そんなことを考えながらも、彼は笑顔のままだ。 そして、ついにシンジはカヲルの左頬を殴りつけた。もっとも至近距離からのパンチな のでそれほどの肉体的ダメージはない。 「ふふん、殴ったね。僕を殴ったんだね。僕の人生で君が初めてだよ」 挑発して言った言葉じゃない。 思ったことを口にしただけの、カヲルとしてはいつものことだ。 だが、シンジにはやはり馬鹿にされているとしか思えない。だから彼は至近距離のパン チをカヲルの頬に連打した。さすがに連打されるとどんどん痛くなってくる。カヲルは流 石に笑顔を引っ込めたが、応戦する気配は見せない。 やがて、喧嘩慣れなどまったくないシンジは疲れてきた。小学校時代に何度か見せた暴 走時には、すぐに先生や周りの者に止められたから、キックや頭突きなどの技は一切持っ ていないのだ。 しかも相手が無抵抗だけに、シンジは少しずつ冷静さを取り戻していったのである。 彼はカヲルを突き放すと、ぜいぜいと息を荒げながら言った。 「ど、どうして、何もしないんだ。お、怖気づいたのか」 カヲルは頬を撫でた。 だんだん痛みが増してくる。 「痛いねぇ。うん、痛いよ。でも、彼女達の痛みに比べれば…。そういうことだね」 シンジは眉を顰めた。 レイは何という奇妙な男に恋をしたのだ。 こういう男が好みなのか? 惣流さんもそうなのか? 女子は…女はわからないっ。 どうやら毒気は抜けたようだ。 殴った所為か、カヲルの反応なのか、それはわからない。 「さてと、碇君。いや、シンジ君でいいよね」 「よくないっ」 シンジは即座に拒否したが、カヲルはまったく聞く耳を持っていなかった。 「じゃ、シンジ君にするよ。今すぐ、アスカの家に戻ってくれないかなぁ」 「はぁ?」 「聞こえなかったかい?アスカの家に戻ってくれないかと言ったんだよ」 シンジは彼女の家に戻って自分はどうするのか、ほとんど想像できなかった。 だから、唯一頭に浮かんだ情景を口にしたのだ。 「ぼ、僕に君たちの仲を見せつけようって言うのか?どこまで人を…」 「おやおや被害妄想の固まりだねぇ、シンジ君は。もっと気持ちのいい想像ができないの かい?」 「その名前で呼ぶなっ。……気持ちの…いい?」 「ああ、そうだよ。きっと天にも上るって気持ちだろうねぇ。羨ましいよ、君が」 作り笑いにしかシンジに見えず、彼はカヲルの言葉を疑う。 もったいぶった発言だけに余計にそう思ってしまうのだろう。 もっともこういう態度だけにカヲルを相手にしていても喧嘩にならないというのも現実 だった。暴走していたシンジでさえ、いつの間にかカヲルのペースに巻き込まれそうにな っている。 「わからないよ、何を言ってるんだよ」 「物分りの悪い人だねぇ。どうしてわからないんだい?」 さすがに痛くなってきたのか、連打された左の頬をさすりながら、それでも笑顔は絶や さない。 「わかるわけないじゃないか。だいたい、僕は彼女に振られたんだぞ」 「シンジ君、何が振られたんだよ。僕を怒らせたいのかい?殴るよ」 「何だよ、結局喧嘩を売っているんじゃないかっ」 カヲルは彼とアスカが果たしてうまくやっていけるのかと心配になった。 日々彼女と丁々発止の会話を繰り広げて楽しくやっていたのだ。 こんな反応の鈍い相手で大丈夫なのだろうか。 あくまで自分が物差しの彼は不安でたまらない。 人と人との付き合い方には様々な形があることをまだカヲルはわかっていない。 そもそもアスカが好きな異性とカヲルのような会話がしたいのなら、 最初から彼を選んでいるはずなのだから。 「違うよ。仕方ないねぇ。簡単に言うと、アスカは君が好きなのさ」 簡単に言えばいいというものではない。 特に疑心暗鬼の状態にいる者には。 シンジはまたもや血相を変えた。 それを見てカヲルは頭を痛めた。 口の中が切れているようで肉体的にもじんじんと痛みがあるというのに。 「つまり、さっきの君は勝手に自爆したのさ。だから…」 「だから、なんだっ」 シンジは二歩三歩と詰め寄った。 また胸倉を掴みそうな雰囲気たっぷりである。 キリスト教信者でないカヲルは右の頬を差し出す気はまるでない。 「アスカは泣いたんだよ。君に嫌われたと思ってね」 「えっ。そ、そんな。嘘だろ」 「わざわざ嘘を言って殴られるような物好きじゃない。僕はいたってノーマルなのさ」 カヲルを知る者すべてが「異議あり」と挙手しそうな発言を平気な顔でする。 「で、でも、惣流さんは君と…」 シンジの眼はもうぎらついていない。 彼の世界感が崩れかけている。 アスカとカヲルが交際していて何人も入り込む隙間もない世界。 だからこそカヲルはレイにあんなひどいことを言ったのではないのか。 「ねぇ、シンジ君。座って話そうよ」 カヲルは河原のコンクリートを指差した。 そしてシンジの返事を待たずに彼はすたすたと歩いていく。 その後をシンジは素直について行った。 これでもう大丈夫だろうとカヲルは考えた。 興奮の嵐が収まったのだ。 彼はもう歓喜の世界に入り込むに違いない、と。 カヲルの読みは甘かった。 シンジは彼の話をやっとのことで信用したが、何故か彼は笑顔にならなかったのだ。 彼はぼそりと言った。 「それでも…、やっぱり、僕は…惣流さんに嫌われないといけないんだ」 シンジは膝を抱え、そして傍らの小石を足元の流れにぽぉんと放る。 ゆらゆらと揺れる水面を哀しげに見やる彼の肩をカヲルはぐいっと掴んだ。 「どうしてだいっ。アスカが…あのアスカが、君を好きなんだぞ。君だって好きなんだろ うっ」 「好きだよっ。大好きだっ!」 肩の手を振り解き、シンジは叫んだ。 まるで血を吐きそうなほど苦しげに。 「だったら、何故だ。僕には信じられない」 「き、君の…君の所為じゃないか」 「僕の…?」 「君がレイの気持ちを踏みにじったから」 「交際を断ったから…なのかい?それとも、電話で酷いことを言ったから?」 シンジは抱えた膝の上に顎を乗せた。 「どっちも、かな?いや、ごめん。やっぱり君じゃなくて、僕だ」 「よくわからないねぇ。シンジ君がどうしたっていうんだい?」 「レイと約束したんだ。僕も振られてくるから、これで二人一緒だからねって」 カヲルはもちろんシンジとレイの秘密など知るはずがない。仲の良い従兄妹だとしか思 わないのが普通だ。シンジにしてもカヲルに真実を話す気はない。簡単に話せるようなこ とではないからだ。 だから、そのことに触れずにシンジは話した。 レイの気持ちを考えて、好きな女の子に振られることにしたのだと。これで一緒なのだ から、アスカと元の親しい友人同士に戻って欲しい。 そのようにレイに言い聞かせたのだと、 言葉を選んで喋る彼にカヲルは何かしら胸に去来するものがあった。 一人っ子である彼には兄弟愛という類のものがよくわからない。 もしそれがわかっていれば、アスカへの想いがそれに似た類のものであったと了解でき ていたのだろう。 とにかくも、この時のカヲルにはシンジの語ったことと兄弟愛という言葉がすぐに結び ついた。従兄妹と聞いたが、この二人は兄弟のように育ったのだろうとも想像がついたの だ。 「美しい兄弟愛ってところだね、うん。でも、彼女はどうだったんだい?それで喜んだの かい?」 「そ、それは…」 シンジは口ごもった。 レイは彼の宣言を聞いて少しも喜ばなかったのだ。それどころかそんなことはやめてく れと必死になって訴えた。彼女はシンジたちが考えているような、アスカとカヲルが交際 しているという話はまるで信じていない。アスカの話すことには嘘はないと知っているか らだ。あの親友がそんなことはないと言っている以上、それが全てだ。 だから、シンジがアスカのことを頭からあきらめるようなことはない。 兄とアスカがお似合いだとレイは思っていた。 自分とアスカがタイプは全然違うのに親友であるように、カヲルとはまったく異なるシ ンジが似合っていると…。肉親故の判官贔屓であるとは思いながらも、そんな信仰にも似 た確信があったのだ。 それにレイは知っていた。 ここ最近のアスカの変化を。 カヲルがさっと流してしまっていた趣味の変化を彼女は敏感に察知していたのだ。 私服、好きな曲、視線、言動…。 誰か好きな男子ができたのだ。 アスカは何も言ってくれないが、その相手がシンジではないかとレイは思っていた。 それだからこそ、彼の宣言を拒否したのだ。 しかし、彼女は男気というものをよくわかっていなかったので、 彼の宣言を拒否すればするほどシンジを意固地にさせてしまったのである。 「ふふふ、そうだろうね。仏のレイちゃんならそうだと思うよ」 「仏の…って何だよ、それは。で、でも、僕は約束したんだ」 「約束と言ってもそれは君が勝手にしたことじゃないか。 ということは、勝手に撤回しても誰も文句なんて言わないさ」 「ぼ、ぼ、僕が言うっ」 カヲルは微笑んだ。 意図的ではなく、自然に笑みがこぼれたのだ。 「随分とガンコな人だねぇ。君って」 「そ、そんなの関係ないよ。約束は約束だから」 「まったくこれだから、人類は進歩しないのさ。間違いは間違いだと認めなきゃ」 「間違い…じゃないよ」 シンジはぼそりと吐き出した。 もう少しだとカヲルは自分を鼓舞する。 アスカのためだ。 とはいいながらも、そういう自分に苦笑する自分もいる。 「君はねぇ、この人類の中で物凄く幸運な男なのさ。なんと、あのアスカの心を惹きつけ たんだよ」 「そ、そんなわけあるか」 「それが不思議なことにそうなんだよねぇ。いったいどこがいいのやら」 本音だった。 醜男ではないが、カッコいいとは決して言えない。言動がきびきびもしていない上、ス ポーツも人並みだ。それは体育の授業が同じだからよく知っている。とりたてて言うなら ば、楽器が弾けるということくらいか。それとも、レイと顔立ちが似ているからなのか。 「そ、そうだよ。僕なんて、全然駄目だよ。だから、きっとそれは君の勘違いだよ」 シンジはじっと水面を見つけている。その背中は少し丸くなっていて、彼の自信の無さ を見るからに表していた。 どうして僕がこいつを励まさないといけないんだと思いながらも、カヲルはつい彼の肩 に手を置いてしまった。 「勘違いじゃないさ。間違いないよ、シンジ君」 「そんな…僕なんか…」 「試してみればいいじゃないか。自信がなくても試すことはできるだろう?」 「でも…」 さらに俯いてしまうシンジだったが、カヲルはぽんぽんと肩を叩く。 まったく手のかかるやつだ。 「いいから。僕を信じてよ。ね、シンジ君」 「で、でも、や、やっぱり駄目だ。レイが可哀相だ」 「また、振り出しに戻っちゃったねぇ」 「だって…、そうじゃないか。レイは君にこっぴどく振られてるのに、僕がそんな…」 カヲルはシンジの視線を追うように水面を見つめる。 そして向こう岸の方に眼を移す。 離れているから声までは聞こえないが、楽しげに子供たちが遊んでいる。小学校に入っ たくらいだろうか。鬼ごっこなのか、くるくるとそのあたりを駆け回る男の子や女の子た ちを彼は眺めた。 その遠い眼には今眼前の風景ではなく、数年前の景色が写っていた。 アスカやトウジたちと走り回っていた、あの日。 男女の差別無く、時には泥だらけになって遊んでいた、あの頃。 時には一緒にお風呂に入ったり、庭のビニールプールで行水したこともあった。 世界中の誰よりもアスカの近くにいたのが自分だった。 もう…。 もう、あの日には戻れないんだね。 カヲルは微笑んだ。 その笑顔には曇りはない。 それよりも今のこの状況を何とかしよう。 彼の決意は清々しく、そして毅然としていた。 「ねぇ、シンジ君。こういうのはどうかな?」 シンジはちらりとすぐ横に座るカヲルの横顔を見た。その真っ直ぐな眼と微笑みは、同 じ男性なのに綺麗だなと感じてしまった。まるでギリシャかどこかの彫刻のように。 「僕も試してみることにするよ。だから、君も試してみればいいんだ。それならばいいだ ろう?」 「えっと、どういう意味?」 「君はアスカに会ってその気持ちを確かめる。僕は…。 まず、仏のレイちゃんに謝るよ。ちゃんと目の前でね。それから、彼女が望むなら、試 しに付き合ってみよう。それでやっぱり僕の気持ちが変わらなければ、レイちゃんにきっ ぱりとあきらめてもらう。 これだったらいいだろう?」 「でも…」 「デモの多い人だねぇ、学生運動などにアスカを引き込まないでくれたまえよ」 「え?」 冗談がすぐに通じるような相手ではない。 おそらく彼の親戚である綾波レイもそうだろう。 きっと僕の軽薄さを見てすぐにいやになるさ。 カヲルは少したかをくくっていたのだ。それに一度はアスカに恋心を抱いてしまってい たのだ。アスカではないレイが心の安息をもたらせてくれるわけがない。 「いいだろう?それなら、仏のレイちゃんもあきらめが…」 「それはどうかなぁ」 意外なほどに明るい声がした。 驚いて傍らを見ると、シンジが笑っていた。カヲルは知らなかったが、いつもアスカが 素敵だと思っていた、その笑顔だ。レイの家で馬鹿話やゲームをしている時の笑顔。それ は彼が心の防壁を取り払っている時にしか見せないものだ。 「きっと、君はレイに夢中になるよ」 「おいおい、それは身贔屓が過ぎるねぇ。僕は…」 カヲルは一瞬しまったと感じた。 これは拙い提案だったのかもしれない、と。 「これはテストなんだよ。ただのテストさ」 「ありがとう、渚君。本当に」 カヲルはシンジの肩から手を離し、いささか狼狽気味に立ち上がった。 蜘蛛の巣に引っかかってしまった蝶。その気持ちはこんな感じだったのか? 彼の脳裏に彼女のアルカイックスマイルが一瞬浮かんですぐに消える。 カヲルはその戸惑いを隠すためか、別の話題に転じた。 「そ、その呼び方はやめてくれないかなぁ。渚と呼ばずにカヲルと呼んでくれないか」 「え?カヲル君…でいいの?じゃ、カヲル君」 あっさりと呼び名を変えたことで、カヲルは驚いてしまった。 友人たちが中学に上がったあたりから名前でなく名字で呼ぶようになった。カヲルとい う語感が女子の名前を呼ぶような感じで気恥ずかしくなったために。それが彼には不満だ ったが、男子は誰一人名前で呼んでくれなくなってしまったのである。 その時、カヲルはアスカが彼に惹かれる気持ちの、その幾ばかりかが理解できたような 気がした。 「へぇ、呼んでくれるんだ」 「えっ、呼んじゃいけなかったの?」 「いいや、それでいいのさ」 そう言ってから、カヲルは口の中に溜まった血をぺっと草むらに吐き出した。ずっと我 慢していたのだが、どうにも気持ちが悪かったのだ。 その血の色を見て、座ったままだったシンジの顔色がさっと変わる。 「ご、ごめん。怪我してるんだ。あんなに殴ったから」 「いいさ、殴らせようと思ってやったことだからね」 シンジは大きく頷いて立ち上がった。 「あ、あのっ。カヲル君。僕を殴ってよ。思い切り」 「いやだね」 「どうしてだよ。それじゃ、僕の気持ちが…」 「君の気持ちなんか関係ないね。それに、君を殴ったりなんかしたら、後でアスカにどん な目に遭わされるか」 考えただけでもぞっとすると、カヲルは肩をすくめた。冗談めかしく言ったもののおそ らくアスカはカヲルに危害を加えるだろう。その推理に彼は自信があった。 「そ、そんなぁ」 「それよりも早く来たまえ。アスカはこうしている間でもずっと不安な気持ちでいるのだ からね」 「ああ、でも、本当に…」 「君って本当に駄目な男なんだねぇ。君はアスカが欲しくないのかい?」 変なものの言い様になってしまったと、慌てて「アスカの心が」と付け加える。しかし 今のシンジにはそこまでの欲望は夢見ていない。アスカと付き合えるかどうかの時点で止 まっているのだから。 そんなシンジが羨ましくも見える。 「しかし、シンジ君。もし君がアスカを泣かせるような事があるなら、僕は君を殴るよ。 その時は何の遠慮もなく、こっぴどく殴るよ。アスカがいくら止めても、殴る。 アスカを裏切るようなやつは絶対にこの僕が許さないからね」 「はは、そうだね。もし、惣流さんが僕なんかを…」 カヲルは頬がずきずき痛かった。 そして思ったものだ。この肉体の痛みのおかげで、心の痛みを消してくれている。 いや消えてはいない。わかりにくくしてくれているだけだ。 だから、今自分は笑っていられる。 それからの道すがら、シンジは饒舌だった。不安を打ち消そうとするためか、レイのこ とやチェロのことを喋り続けた。 あのカヲルが聞き役に回らざるを得ない。しかしこれはカヲルにとって好都合だった。 一歩一歩アスカの元に近づく度に、まるで死刑台に向うような趣がある。胃はずんと重 く、舌が回りにくい。 こんな想いを抱いていたことをずっと隠して生きねばならないのか。 いや、一人だけ、喋らないといけない人がいた。 カヲルはその人の顔を思い描いた。アルカイックスマイルの少女。綾波レイには全部き ちんと話さないといけないだろう。何故彼女にあんなことを言ったのか。その理由を。 もし彼女が望まなかったとしても、自分は喋ってしまうような気がする。 カヲルは苦笑した。 確かにシンジ君が言うように、僕は彼女から逃れられないかもしれないねぇ。 まあ、その時はその時さ。 そう、その時になって考えればいい。 僕は自由人だから、とカヲルは空を仰いだ。 雲がゆっくりと左右に流れていく。 君は風、僕は雲。 まあ、確かに君は昨日まで風邪を引いていたわけだしね。 下手な語呂合わせにカヲルは笑った。 楽しそうに。 そんなカヲルに自分の話がおかしかったのかとシンジは錯覚して、彼もまた笑った。 さて、カヲルが本当にシンジを連れて来たことでアスカは慌てふためいた。彼に言いつ けられたように顔を洗い、服を着替え、部屋の中でうろうろと歩き回っていたのだ。 ただ、その間にレイからの電話が入っていた。 二人は互いに詫び言葉を相手に伝えきれない程に並べ立て、そしてもちろん和解した。 明日、アスカの家に遊びに来ることを約束し、その時に手作りのクッキーをご馳走すると 宣言する。私を人体実験に使う気なのとレイは笑った。 それから彼女は真剣な声音になって、シンジのことを頼んだ。 馬鹿なことを言うかもしれないけど相手にしないで、と。心にもないことを叫ぶだろう けどと言われると、アスカはもう遅いわよと力なく返した。そして勝手に宣言して帰って いったと彼女は告げたが、レイは簡単に切り替えす。 「ねぇ、アスカ。あなたは碇君を好きなんでしょう」 返事はなかったが、受話器から漏れ聞こえる息遣いは正直だった。恥じらいと情熱が電 話線を伝わってくる。レイはアスカの返答もなしに話を続けた。 「じゃ、お願いね。碇君もあなたを好きだから」 「嘘…」 小さな呟きだけが返ってくる。 「私は嘘が嫌い。あの人、無器用だから、アスカがリードしてね」 電話口でレイは微笑んでいた。 実の兄妹だとわかった時もあんなに狼狽してしまったシンジだ。カヲルが迎えに行った と聞いたが、おそらく駄々を捏ねていることだろう。 でも、カヲルなら必ず兄をアスカの元に連れて行く。 レイには確信があった。 あの人はそういう人なのだ。 私にあんなに酷いことを言ったのはアスカのことを好きだったから。好きな女の子から 別な子と付き合えと言われれば逆上するのは当然。私だって彼にあんなことを言われて前 後の見境がなくなってしまったのだもの。 今でも、私は彼のことが好き。 好きだから、理解できて、許せる。 電話を終えた後、レイは自室で祈り続けた。兄がカヲルさんの言うことを聞きますよう に。そしてアスカの想いをちゃんと受け止めますように。 そのレイの表情は机の中に仕舞われている実母の写真その人の如く、優しく慈しみに溢 れていた。 シンジを玄関に待たせておき、カヲルはアスカの部屋へと階段を上った。部屋に入った 彼はアスカに微笑みかけ、下に降りろと伝える。 彼女はぎこちなく頷き唇をギュッと噛んだ。いつもの不敵な笑みがこぼれていないとい うことで、彼女がかなり緊張しているのがカヲルには手に取るようにわかった。 「そういえば、彼はかなり鈍感な方だね。それに…」 緊張をほぐそうとしてアスカにかけた言葉だったが、微妙に棘があることに自分でも気 づいた。だからカヲルは慌てて言い差したのである。 「彼はね、つまり、あれだよ、僕を名前で呼んでくれたんだ。うん、名前の方でね。カヲ ル君ってさ」 「へぇ、それは…」 言いかけた言葉がしわがれていたので、アスカはえへんと小さく咳払いをした。 「それはよかったじゃない。アンタを…カヲルって呼んでくれたのね」 「そうだよ。まあ、それだけでも彼は評価に値するね」 「馬鹿。でも…いい人でしょ、彼って」 「ふふん、まあね」 カヲルは首の後ろで手を組んで天井を見やる。 そんな彼に小さく「アリガト」と言い残し、アスカは恐る恐る階段を降りていった。 その背中にカヲルは呟いた。 「しっかりやれよ」 一人部屋に残された彼は目を閉じた。 息を吸い込むとアスカの匂いが身体に入ってくるかのように感じる。それは肉惑的なも のでなく、どことなく懐かしさを伴う甘き香りだった。 耳を澄ますと玄関先で話している二人の声が聞こえる。それは言葉少なくではあるが、 柔らかな空気を感じさせるものだ。 カヲルは、はっと息を吐き出した。彼らの会話に聞き耳を立ててどうなるというのだ。 彼は部屋をぐるっと見渡した。 ここに前に来たのは夏休みのことだ。それがもうかなり昔のことに感じられる。何故だ ろうかと思っているとそれは部屋の雰囲気が前と変わっていた所為だった。 まず目を惹いたのは大きな姿見だ。カヲルの部屋でも小さな鏡があるのに、女の子であ るアスカは洗面所にあるからいらないじゃないといつも言っていたものだ。 それが全身を写せるような背の高い姿見が壁にかかっている。 他にもちらほらと以前になかったぬいぐるみや写真立てが見られた。 机の上の写真立てを手に取ると、そこにはレイを真ん中にしたシンジとアスカの3人で 撮ったカラー写真が入っている。おそらく綾波家の庭なのだろう。レイだけが自然な微笑 みで、残りの二人は明らかに意識しあってぎこちない。 カヲルは苦笑して、その写真立てを元の場所に戻す。 もう一つ見えた写真はベッドサイドだった。木製のフレームに入ったその写真にはチェ ロを奏でるシンジの姿。それはレイから貰ったもので、音楽教室の演奏会のものだ。 カヲルはその写真は手に取らずに遠くから眺めただけですませた。 彼は瞑目した。 こうやってだんだん彼女は遠い存在になっていくのだろうか。 それとも、幼馴染としてずっと死ぬまで付き合っていくのか。 目を開けた彼は、姿見の中の自分に問いかけた。 「僕はいったい何処に行くんだろうね」 真剣な表情を彼はすぐに崩した。 その答えが簡単に出たからだ。 自分は綾波レイの家に行かねばならないのだ。シンジとの約束を果たすために。 だが、彼は部屋を出ようとしなかった。 何故なら階下からアスカの笑い声が聞こえてきたから。 「ああっ、そんなの駄目だってば。アタシのことも名前で呼んでよ。カヲルだけなんてず るいわよ」 カヲルはまだ二人に合わす顔ができていないと実感していた。普通に会話できる自信が ない。さっきのように一人ずつ話をするならばよいが、二人が楽しげに会話をしている状 況は話が別だ。 殴られた頬がうずく。そういえば、アスカは自分の頬に気づきもしなかった。いや、彼 女の死角になる様に立っていたのは自分だ。同情されたくなかったのか、カッコをつけた のか。 自分でもその理由は判然としない。 カヲルはアスカの愛用する大きなラジカセの前に座った。そして、カセットテープの再 生ボタンを押す。しかし最後まで再生されていたテープはガチャンと音を立ててボタンを 元の位置に戻した。 「やれやれ…」 彼は取り出しボタンを押してテープを裏返した。再生ボタンを押すと流れてきたのはや はりビートルズだった。苦手なロックンロールにカヲルは顔を歪めた。 「Roll Over Beethoven、ねぇ。ベートーベンをぶっ飛ばせなんて、野蛮この上ないよ」 だが、彼は停止ボタンを押そうとはせずに、ごろりと畳に仰向けになる。 しばらくはこうしていよう。 ロックンロールで階下の言葉を消し、自分だけの世界に入ってしまいたい。 やがて、彼の耳にはロックに代わって、愛するクラシック音楽が聴こえてきた。 その時聴こえたのは、ピアノソナタ第14番嬰ハ短調作品27の2。“月光”だ。 アスカのことを異性だと認識した日。好きだと意識した日に、彼の部屋に流れていた曲 だ。 カヲルの目尻から耳たぶの傍らを伝って一滴の涙が零れた。 ぽとっと畳に落ちた音が聞こえる。 彼はぼそりと呟いた。 「カッコいいとはこの事さ…。畜生っ……」 ぐっと目を瞑ると、ぽたりぽたりと二回だけ、畳が鳴った。 そして、彼の耳には再び現実の音楽が飛び込んできた。彼にとっては騒がしいだけもの だが、カヲルにはわかっていた。おそらくは死ぬまで、この曲を聞くと胸の奥が熱くなる であろうことを。 幼馴染を幼馴染のままにしておくことにした、この秋の日の記憶とともに。 しばらくしてからカヲルはふと思い出した。 もし“友情の架け橋”が存在してくれていたら、ここからとっとと逃げ出すことができ るのにと。だが、その残骸の棒切れですら今はもう庭に放置されたままだ。 逃げ場なし。 あきらめきった彼は苦手なジャンルの音楽に身を委ねるしかなかったのである。いつし かカセットテープは数曲進み、「デビル・イン・ハー・ハート」という歌がカヲルを惹き つけた。彼でも訳せるような詩が頭から離れなくなったからだ。 あの娘の心には悪魔が住んでいる。 いいや、彼女は僕の天使なのさ…。 残酷な天使…かな? とりあえず、よかった。 その天使は彼の恋心に気がついてなかったのだから。 もしカヲルが告白していれば、彼女はこう言っただろう。 「アタシよりももっといい女性が…」 ぶるるるっ。 とんでもない。 そんな台詞は絶対に聞きたくない。 だが、アスカはカヲルにその言葉はかけないだろう。 彼らは再び幼馴染の関係に戻るのだから。 彼は幼馴染の小さな時の姿を脳裏に描いた。 確かに彼女は天使の様に可愛かった。 いや、この自分だってそう言われていたではなかったか。 あの頃の二人はただ毎日が楽しく、将来の事などこれっぽっちも考えていなかった。 幼馴染という、ある意味特殊な関係になってしまうとは。 友達、恋人、兄弟。 そのどれとも似ているようで微妙に違う、不思議な存在。 「Roll Over …、えっと、幼馴染って英語で何だっけ?」 少し真剣に考えて、彼はすっぱりあきらめた。 わざわざ英和辞典を捲る気も起こらない。 いつしかカヲルはビートルズの曲を聴きながら、畳を踵で叩きリズムを取っていた。 「まあ、いいか。幼馴染なんてくそくらえ!」 いつになく快活な調子で天井に叫び、にやっとカヲルは笑った。それはいつものシニカ な笑顔でなく、清々しく、さっぱりとして、しかしどこかしら寂しげに見える。 彼はそっと呟いた。 「歌はいいねぇ」
幼馴染 −了−