幸せは球音とともに ー 1971編 ー 中 2004.2.10 ジュン |
さて、話は昭和46年にさかのぼる。
壁を蹴っていた金髪の女の子は、僕を認めると酷い言葉を発したんだ。
「アンタ馬鹿ぁ?ぼけっと見てるんじゃないわよっ!」
いやはや、こんな言葉を初対面の、しかも女の子、その上外人さんにかけられたのは生まれて初めてだった。
その時は何故か彼女が日本語を話すことを奇妙だとは思ってなかった。
多分、あまりに流暢で柄の悪い日本語だっただけに、素直に受け入れてしまったんだと思う。
僕は戸惑った。どう対応したらいいのか思いつかなかったんだ。
そして黙り込んでいる僕に彼女は舌打ちをして、もう一度壁をどかんと蹴飛ばした。
「はんっ!冴えないヤツ!」
そんな捨て台詞を残して、金髪の少女は身を翻した。
さらさらの髪の毛がふわっと靡いた。
その時、どこか甘いようなふわっとした香りが僕を襲う。
たったったっと軽快な靴音を響かせて、女の子は僕の視界から消えた。
この後、鈴原君たちのところにすぐに戻っていたら、この僕はどうなっていたんだろう?
彼女との接触はこれだけに終わり、プロ野球を好きになることもなく、今の僕はいなかった筈。
よくもまあ、2階席への階段を見つけ、そこへ登っていったものだ。
自分で自分を…この時の僕を褒めてあげたい気分だね。
2階席は予想よりも高かった。
下から見上げているのとは大違いだ。
高所恐怖症は僕にはなかったけど、それでも最前列の手すりからグラウンドを覗き込むとめまいがしそうになった。
思わず手すりをぎゅっと握り締めてしまう。
2階席の観客は思い思いの格好で野球を見ていた。
寝そべっている人。手すりに寄りかかってる人。
野球は関係なしにびったりと寄り添っているアベック。
走り回っている小さな子供。
僕はゆっくりと2階席を移動していった。
ここから一塁側の内野席は良く見える。
鈴原君と相田君が並んで座っているのもしっかり確認できた。
二人とも僕のことなんか忘れて、試合を夢中になって見ているようだ。
その忘れられている僕は野球を見るよりも、球場の雰囲気を見ている方が面白かったんだ。この時はね。
そして、うどんをふぅふぅ言いながら食べているおじさんを見て、自分も食べようかなって思ったときだったんだ。
あの声が聞こえてきたのは。
何を喚いているのかはわからなかった。
外国の言葉だけど、あの声はさっきの女の子の声に間違いない。
僕はまた最前列の方に向かい、下の席を見下ろした。
「○×▼□◎!」
いた…。
三塁側の内野席で金髪の彼女がグラウンドに向かって叫んでいる。
何を言ってるんだろう。
今は四回表の近鉄の攻撃。
えっとバッターは、ラングレー…って、ああ外人選手なんだ。
それで英語で怒鳴ってるのかな?がんばれって…。
でも何だか口調がそんな風には感じられない。
寧ろ怒ってるように聞こえるんだけど。
あ、三振だ。
すごすごとベンチに引き上げるラングレー選手に、女の子はさらに叫び続けていた。
あんなに可愛い顔してたのに、随分と乱暴な子なんだな。
僕は関係ないやと引き続いて2階席の探索を続けた。
一番端まで行って、そこから球場の外を眺める。
うわぁ、結構遠くまで見渡せるんだ。
僕の家…は見えるわけないか。
ガタコンッガタコンッ!
ダイヤモンドクロスを通過する電車の音がここまで聞こえる。
あ、電車の基地…っていうのかな、あ、そうそう車庫だ。
車庫が並んで見える。
マルーン色の電車もたくさんとまっている。
へぇ、ここが阪急電車の車庫なのか。
試合そっちのけで僕はぼけっとそんな風景を見ていた。
その時だ。
「何見てんのよ」
この口調。高い声。
間違いない、あの女の子だ。
僕は背後から聞こえてきたその声に殺意を感じてしまった。
ここから突き落とされる!
…わけはないか。でも、一瞬ドキッとしたのは事実だ。
わずかな風に乗ってさっきと同じ香りがする。
その香りは僕の隣に移動してきた。
「返事しなさいよ。それとも日本語喋れないの?」
さすがにどう見ても外人丸出しのこの女の子にそんなことは言わせてはおけない。
僕は風景を見ながら答えた。
「う〜ん、電車が走ってるところ」
「何それ。野球場に来てどうして外見てんのよ。変なヤツ」
確かに彼女の言うとおりだ。
でも、何だか反抗したい気分。
「じゃ、君の方はどうしてここにいるの?」
「はん!近鉄がふがいないからでしょ!」
「あ、近鉄ファンなんだ」
「まさか!誰があんなチームを」
「え?じゃ、どうして?」
「ママの知り合いが選手なのよ。ラングレーって外人選手。
ま、怪我してるのを隠してたみたいだからダメなのは当然だけどね」
「そうなんだ…」
「変なの…」
ぼそりと彼女が呟いた。
僕は思わず彼女の横顔を見てしまった。
同じくらいの年頃なのに随分大人びて見える。
「何が?」
「どうして、アンタなんかにこんなこと喋ってんのかな?」
独り言のようなその言葉に僕は何も言えなかった。
いや、子供だからって訳じゃない。
それが僕のキャラってことだ。今だってそうだもの。
いつだって彼女に「気の利いた台詞の一つ位言ってみなさいよ」って言われてしまう。
でも、今の僕は知ってるんだ。
彼女が歯の浮いたような言葉が嫌いだってことを。
だからこんな僕なんかと波長が合っていることを。
でも当然その時の僕にそんなことがわかるわけなんかない。
「ちょっと、何か返事しなさいよ。馬鹿」
「馬鹿はないだろ。関西じゃ嫌われるそうだよ」
「へぇ、そうなの?」
「みたいだよ。僕もこの間初めて知ったんだけど。阿呆の方がいいみたい」
「ふ〜ん、知らなかった。じゃ、アンタはこっちの人間じゃないの?旅行?」
「違うよ。引っ越してきたんだ」
「どこから?」
「東京」
「私、横浜。4ヶ月前にね」
「僕は…3週間くらい前かなぁ」
僕はその時視線を彼女に移した。
いつの間にか隣に並んだ女の子は風景をじっと見ている。
その横顔に僕は生まれて初めての感情を抱いた。
フジ隊員にもアンヌ隊員にも緑川ルリ子さんにも抱いたことのない感情を。
みんな綺麗だなとは思っていたけど、この時のようなことを感じたことがない。
あの金色の髪の毛に触ってみたいとか、ずっとお喋りしたいとか。
それに胸がどきどきして頭がふわふわしている。
これに比べたら、転校してきた時の緊張なんて何てことない。
一目惚れ…ってヤツ?
そういえば、突拍子もないうちの母さんが「シンジの初恋はまだぁ?」って最近よく聞いてきてたっけ。
どうやら母さんの初恋が小学校5年生だったみたいで、それで興味があるらしい。
でもそんな話を母さんがしているとき、父さんの目が怖いんだ。
もしその初恋の相手が父さんの目の前にいたら、ただではすまなかったと思う。
まあ、この時の僕には母さんがわざと父さんの前で、そんな話をしていたことなんかわかる筈がなかった。
今ならよくわかるけどね。
どうやらこの亭主に嫉妬させる攻撃というのは女性の十八番のようだ。
つまり、うちの奥さんにも時々やられてるってこと。
本当にいたのかどうかも怪しいけど、
横浜の隣の家にカヲルって色白の男の子が住んでいて、幼稚園の時に結婚の約束をしたんだって。
嘘だってことは百も承知しているのに、彼女にそう言われる度に僕の心は乱れ、
見ず知らず(もしかしたら架空の存在)であるカヲルという少年に激しい憤りを感じてしまうんだ。
もし目の前にいたら握りつぶしてやる!
ね、こんな風に脱線してしまうほど嫉妬してしまうんだ。
話を元に戻すと、初恋というものの存在を知っていた僕としては、
このときの気持ちがその初恋というものじゃないのかと感じていたんだ。
でも、こんなに簡単に初恋ってしてしまうものなの?
しかもこんな会ったばかりの外人の女の子に?
「あの、僕、碇シンジっていいます」
「何よ。私に名乗れって言ってんの?」
横目でじろりと睨みつけられた。
わっ!どうして自分の名前なんか言っちゃったんだろう?
そうだよね。相手の名前を聞きたいから普通名乗るんだよね。
そりゃあ彼女の名前を知りたいかと言われれば、知りたいに決まってる。
たとえ、この一瞬の出逢いとしても。
だけど、このときの僕はあまりの失言に後悔で心が一杯だった。
この場からもう行っちゃうよね、絶対に。
小学生の癖に変なヤツだって思ったのに決まってるよ。
「ふん!アスカ、よ。私、惣流アスカ。馬鹿みたい。ど〜して自己紹介しなきゃいけないのよ」
「あ、ありがとう」
ついお礼を言ってしまった。
でも野球場の2階席の最上段の端っこで、こんな会話をしていていいんだろうか?
グラウンドでは一生懸命野球をしているのに、みんなその試合を見ているのに、
そっちにお尻を向けているんだから。
あ、飛行機雲。
伊丹から飛び立った飛行機だろうか?
「お腹すいた」
「はい?」
「お腹すいた」
彼女は僕の方を見ないで、同じ言葉を繰り返した。
それって、僕に奢れって言ってるんだろうか?
「うどん、でいい?」
さっき食べていたおじさんのうどんが美味しそうだった。
その記憶のせいか、うどんを選んでしまった。
「関西風の薄い味のでしょ」
「多分」
「アンタも関東の人間だったら、そんなのイヤなんじゃないの?」
あ、そうか。横浜って言ってたよね。
しまった。お好み焼きか焼きそばの方がよかったかも。
「まあいいわ、それで。もちろん、アンタの奢りでしょうね」
僕は財布の中身を頭の中で確認した。
大丈夫!余計めに持って来てよかった!
「うん。じゃ行って来る!」
僕はダッシュした。
といっても急な階段だから、つんのめりそうになる。
慌てて立ち止まった僕はふと不安になって彼女を振り返った。
金髪の少女は、さっきと同じ姿勢で球場の外を眺めている。
「何よ」
わっ!どうしてこっちを見ないで僕がわかるの?
この疑問は今でも解けていない。
彼女が台所に立っている時に、そっと忍び寄っても絶対にばれてしまう。
彼女には碇シンジ検知装置が内蔵されているんだろうか?もしかして003みたいなサイボーグかもしれない。
だって、いつまでたっても彼女は若くて美人で…申し訳ない。
彼女は私のウィークポイントなのだ。
「碇さんは奥さんの話をする時本当にいい笑顔になりますね」ってよく同僚にからかわれているほどだ。
もう40半ばになろうというのに。
でも、このときの僕はこれが初めての体験だったので、それはもう驚いてしまった。
そして、またわけのわからないままに変な質問をしてしまった。
「あ、あのさ、僕が帰ってくるまで、ここにいてくれるよね」
「大丈夫。ちゃんと待ってる。ここで」
彼女は一度も僕の方を見ずに、よく通る声でそう断言した。
うん、確かに断言って感じできっぱりと言ってくれたんだ。
このとき、彼女が何を思ってこんな風に言ってくれたのか、いまだに謎なんだ。
いつ尋ねてみても、それはそれは綺麗な微笑を浮かべて唇に指を置く。
絶対に秘密らしい。僕が浮気でもすれば教えてくれるってことなんだけど…。
それなら永久に秘密のままじゃないか。
本当に意味があって言ってくれたんだろうか?
「わかった。いってきます!」
彼女の言葉に安心して、僕は階段を駆け下りていった。
一分でも、一秒でも早く、彼女にうどんを届けたい。
僕は夢中だった。
おあげが乗って2杯で240円。
お箸をプラスチックの丼に乗せて僕は慎重に歩いた。
うどんの屋台は回廊にあったので、2階席までけっこう階段がある。しかも最終目標地点はその最上部だ。
こぼすな…こぼすなよ…。
気持ちは急くけれども、さっさと歩くわけにはいかない。
ゆっくり、慎重に、僕は歩を進めた。
でも、そんなに歩かなくても済んだんだ。
2階席への階段を上がりきったところ。青空をバックに彼女が立っていた。
黄色いワンピースの裾を風に揺らせながら。
僕はそんな彼女の姿を仰ぎ見て、声を失ってしまった。
いや、僕の名誉のために言っておこう。
風に吹かれたスカートから真っ白なパンティが見え隠れしていたからじゃない。
あ、正直に言うと、ちょっとはそれもあったかもしれないけどね。
11歳だけど、僕はおませな方だったんだ。
声を失ったのは彼女が綺麗だったから。
だって、母さんが買っていた『スクリーン』に載っている女優さんみたいに綺麗に見えたんだ。
おまけにこの金髪で青い目の少女は見事な日本語の吹き替えで喋るんだ。
少々乱暴な言葉だけどね。
「遅いわよっ!」
「ごめん」
仁王立ちして叱責されているんだけど、さっさと歩けるはずがない。
これまでの苦労が台無しになってしまう。
僕はじっと階段を見つめながら上っていった。
あと、3段、2段、1段…ふぅ、到着。
やっと顔を上げると…。あれ?笑ってる。
さっきの怒鳴り声から考えててっきり怒っているもんだと思っていたのに。
彼女は笑顔で手を差し伸べてくれた。
えっと…手はふさがってるんですけど…。
一瞬そう考えて、それから僕は顔を赤らめてしまった。
彼女が手を出したのは、うどんの丼を受け取るために決まってるじゃないか。
馬鹿だなぁ、本当に僕は。
僕と彼女は2階席の前の方で、並んでうどんを食べた。
だけど食べ始める時、あることを思い出して、彼女に言うべきかどうか悩んだんだ。
結局、もしそうだったらいけないと思って、僕は覚悟を決めた。
「あ、あの…」
割り箸を手にした彼女は小首を傾げた。
「うちはキリスト教だけど、こんなとこで食べるときにはお祈りはしないわよ」
「ち、違うんだ。あの…」
「何よ」
「し、七味!」
「はい?」
うわっ!少し力みすぎて声が上ずっちゃった。
「七味、入れてこなかったんだけど、よかった?」
彼女は目を丸くした。
続いてその可愛い頬がぷるぷると震え始めた。
何だか大きく深呼吸をしながら、ゆっくりとうどんを隣の席に置く。
そして、ぷっと吹き出すと、身体を折り曲げて爆笑する。
「か、勘弁して。きゃははは、何それ。お、おかしい!」
笑い転げる彼女の隣で、僕は憮然としていた。
せっかくの好意と覚悟を笑いものにされたからだ。
でも、何故か心の中は暖かかった。
「ねえ、笑ってないで食べないと。うどん、のびちゃうよ」
「わっ!」
僕の言葉に彼女は慌てて起き直った。
「もう!馬鹿シンジ。アンタが変なこと言うから」
「ば、馬鹿シンジ!」
「アホシンジの方がいい?」
「う、う〜ん」
正直なところ、関東育ちの僕には“馬鹿シンジ”の方がいい。
だけど、ここは関西。
馬鹿は禁句だ。
どっちがいいんだろう?
「ほんとにアンタ、馬鹿ね。アンタだって早く食べないといけないじゃない」
仰るとおりです。早く食べないと。
僕は割り箸を割った。
この時のうどんの味を僕は今でも忘れていない。
東京のしょうゆの濃さに慣れていた僕には関西のうどんは味気なく、そして物足りなかったけど、
この日のうどんは違った。
何故か物凄く美味しかった。
私と一緒に食べたから美味しかったのよって、当然のごとく彼女は言う。
多分それが正解なんだろう。
そして当然のごとく、彼女の方はどうだったのかという質問に対する答えはない。
ただ、このとき彼女も僕も最後の一滴までお汁を飲み切ったのは確かだ。
彼女は食べ終わると、スコアボードをちらりと見た。
6回表の近鉄の攻撃中で4対1で阪急が勝っている。
「バッターは土井か…。1アウトだから回ってくるかもしれないわね…」
「誰に?」
「ラングレー…」
「あ、じゃ応援しないと」
「う、うん…」
お母さんの知り合いだってさっき言ってたもんね。
でも何だか気乗りがしないみたいだ。
彼女はお箸で空になった丼の底をつついている。
「行こうよ、ね?」
「ううん、いい。やっぱりいい」
「でも…」
「うっさいわね。どっか行きなさいよ」
彼女は僕を睨みつけた。
せっかく仲良くなれたのに、台無しだ。
僕は馬鹿だ。
泣きたくなるような気分で僕は立ち上がろうとした。
でも、それは物理的に不可能なことだった。
彼女が僕のシャツの裾を握り締めていたんだ。
僕の奥さんの証言に因れば、あんなに簡単に立ち去ろうとは誰が考えるだろうか?ということだ。
何だか自分に気があるような素振りを全身で表していたのに、たった一言であきらめるんだから。
それで慌ててしまい、咄嗟にシャツを掴んだということだ。
おかげで未だに人情味のない冷たいヤツだとことあるごとに言われる始末。
人生簡単にあきらめちゃいけない。
言葉の裏まで考えよう。
彼女と付き合っていく中でこうしたことを学んでいった僕だったけど、
大人じゃないこの時は何が何だかわからなかった。
どこかに行けと言いながら、行くなと言わんばかりに僕の服を握り締めている。
まさに初体験だった。
女性は…特に彼女は不可解である。
ただ、この時の僕は素直に喜んだ。
彼女の言葉も嘘なんだと了解した。
で、僕は何も言わずに座りなおす。
「6番、ファースト、ラングレー。背番号4」
場内放送が響いた。
隣の彼女がきゅっと身体を固くしたのがわかった。
そして、目を伏せる。
お祈りをするように両手を握り締め、何かブツブツと外国の言葉を呟いている。
そんな彼女を見ているのは悪いことのような気がして、僕はグラウンドに目を落とした。
2アウトだけど、ランナーが一塁と三塁にいる。
ホームランを打てば一気に同点だ。
でも、あっという間に2ストライク1ボール。
阪急の投手が綺麗なアンダースローで4球目を投げ込んだ。
場内は歓声に包まれた。
そして、三塁側の一部だけが失望の溜息を漏らす。
空振りの三振だ。
目を瞑っていた彼女だったけど、音を聞いていればどうなったかはわかる。
彼女の目尻からすぅっと雫が零れた。
僕は大変なものを見てしまったような気がした。
彼女の唇がわずかに動く。
そこから漏れた言葉は僕にもわかる言葉だった。
「……Papa……」
やっとわかった。
彼女はあのラングレーって選手の娘なんだ。
ママの知り合いって、まあそれは知り合いには違いないけど。
何だかあの彼女の罵声や乱暴な行動もそれで納得できた。
僕は膝の上で震えている彼女の手にそっと掌を重ねた。
今考えると随分と大胆な真似をしたと思う。
でも母さんに言わせると、小さいときから僕は時々考えられないような行動をとるらしい。
その行為を両親は“暴走”と名づけていた。
だけど、この時の暴走行為は歴史的な暴走だったんだ。
もしこの時手を重ねてなければ、お前たちだって生まれてなかったかもしれないんだぞ。
そう息子や娘に胸を張って言うが、大抵子供たちは相手にしない。
また惚気が始まったとあきれるだけだ。
彼女は一瞬びくんと手を動かしたけど、すっと掌を返して僕の手を握り締めてきた。
再び、僕の奥さんの証言。
この色魔!だそうだ。
悲しみに包まれているいたいけな少女の心の隙間に付けこんだ、今世紀最悪の色事師だと。
だから、初めて会ったアンタにいろいろ喋ってしまったんじゃない!
そう言って、ぷぅっと頬を膨らませる。
僕と同い年で40をとっくに過ぎているのに、まだ少女の面影をしっかり残している彼女。
この時代の少女はぽつりぽつりと話を始めた。
彼女は6歳の時に両親と一緒に来日した。
元大リーガーの父親が関東の球団に助っ人として入団したためだ。
来日して2年はラングレー選手は活躍した。
だけど、3年目に受けたデッドボールの所為で調子を落とした上に肩を痛めたらしい。
そのことは彼は誰にも言わなかった。
言わずにその年はプレーを続け、そしてクビ。
そして故障した事を知らずに、近鉄がラングレー選手を獲得したというわけだ。
彼女も母親と一緒に神戸に。
その頃から父親との仲が悪くなってきたらしい。
「だって、私聞いちゃったんだもん。もう選手としてはダメだって、パパがママに話してるのを。
今年一年ばれないようにプレーして、貰うものは貰ってアメリカに帰ろうって」
彼女が握り締めている僕の手に零れてくる透明の雫。
一生懸命に普通に喋ろうとする彼女。
でも、声が上ずってくる。
「こ、こんなの、パパじゃない。パパはかっこよくて、男らしいんだもん。
そんなお金のために人を騙して野球するなんて、信じらんないっ!」
その翌朝から彼女は父親と普通に喋れなくなったらしい。
僕はどうすればいいんだろう…。
「ね、アンタも酷いと思わない?」
涙に濡れた青い瞳で僕を見る。
ここで「そうだね」って言えばいいのに、僕は彼女のお父さんを弁護してしまったんだ。
「う〜ん、どうなんだろ…」
すっと手が退いた。
虚ろになった掌が凄く冷たいような気がする。
彼女を見ると、眦が吊り上がっている。
回廊で壁を蹴っていた時の表情だ。
「何よ、アンタ。私が悪いって言うの?!」
「いや、君が悪いとかそういうのじゃなくて、それ本当にお父さんの本心?」
「え…」
虚を突かれたように彼女は唇の動きを止めた。
うまく言えるかな?
僕はゆっくりと喋り始めた。
「あのさ、僕そんなに運動神経いいことないんだ」
「何よ、いきなり」
「だから友達と野球しても目立つ守備位置でもないし、打順も後の方なんだ。
でもさ、それでも楽しいんだよ。みんなと野球していることが」
彼女は黙って僕の言葉を聞いている。
それも真剣に、まっすぐ僕の目を見て。
「お父さんもそうなんじゃないかな?
ただ野球が好きだから、プロの試合に出ていたいから、怪我を隠しているんじゃないの?
それがわかってしまったら、試合に出られなくなったり、クビになったりしてしまうんでしょ。
お金がどうのっていうことは笑い話とかで…。
だって、君が直接聞いたんじゃないんでしょ。立ち聞きだったんだから。
一度、ちゃんと聞いてみたらいいんじゃないかなぁ」
僕は言葉を切った。
彼女は何も言わない。
ただじっと考えているみたいだ。
僕の推理は当たっているんだろうか?
ポプラ社の少年探偵団シリーズもルパンシリーズも読破してるんだ。
お願い当たって!
「わかったわよ…」
「えっ」
「パパに聞いてみる。それでいい?」
「う、うん!」
「もし、私が間違ってなかったら、私家出するからね。
そん時はアンタん家で面倒見てもらうからね。いい?」
「ええっ!」
「そんなに自信たっぷりに言うんだから責任取りなさいよね」
彼女はそう言って、ぷいっと横を向いた。
ああ、神様。どうしましょう?
何だか推理が当たってなくてもいいような気がしてきました。
僕って最低だ。
「じゃ、下に降りましょうか?」
「え?下って、グラウンドに?」
「ば、馬鹿ね。試合中でしょ今は。ホントにとんでもない思考回路してるわよね、まったく」
わざと惚けたわけじゃないけど、結果オーライだ。
彼女の表情が少しほころびた。
「行くわよ、馬鹿シンジ」
ああ、どうやら馬鹿シンジで決定してしまったようです。
この決定はどんなに関西文化に馴染んでも覆ることはなかったんだ。
この歳になっても、僕は馬鹿シンジ。
まあよっぽどのことがない限り、今はそう呼ばないけど。
さすがに関西で主人を馬鹿呼ばわりしてしまうと、
いくら親愛の表現だって主張しても悪妻扱いされてしまうからね。
僕は苦笑いしながら彼女に着いて行く。
2階席から1階の三塁側内野席に。
試合は8回の裏が終わろうとしていた。
依然としてスコアは、4対1で阪急のリードのまま。
そのことに対して、いつの間にか僕は悔しさを覚えていた。
これって、近鉄ってチームを応援しているってこと?
いくらこの初恋の君のお父さんが近鉄の選手だからって、そんなの…。
あれ?でも、どこのチームを好きになってもいいんだよね。
もともと僕にはひいきのチームはなかったんだし。
それにただ鈴原君たちに連れられてきただけなんだもの。
いいんだ。どこのチームを好きになっても。
まだ選手の名前を全然知らないんだけどね。
まあ、それはいいとしよう。
とにかく、僕は今日この時から近鉄ファンだ。
よろしくっ!
だけど三塁側の内野席はあきらめムードが漂っていた。
ベンチの斜め後方にある自由席に座った僕と彼女だったけど、
その時聞き慣れた大声が耳に飛び込んできた。
「うおぉぉいっ、何でそっちにおるんやっ!センセっ!」
見つかった…。
というよりも、忘れてた。すっかり…。
「おおおぉいっ!帰ってこんかいや、そっちは近鉄やぞっ!」
現在の野球場ではありえない光景だ。
グラウンドを挟んで一塁側と三塁側で会話をする。
もちろん大声を出さないといけないけど、この時代のしかもパリーグならそれが日常だった。
組織立った応援もなかったし、鳴り物もほとんどなかった。
だから、鈴原君の声もよく聞こえるということだ。
それにお客さんの数も多くないから、鈴原君に僕たちが目に入ったわけ。
「誰あれ?アンタの知り合い?」
「うん、一緒に来てたんだ。忘れてた」
「ぷっ。ほんとに惚けたヤツね。で、帰る?お友達のところへ」
僕は大きく首を振った。
「帰らないよ。き、君とここで近鉄の応援をする!」
「ふ〜ん、そうなの。ま、お好きなように」
そんな素っ気無さを装いながらも、嬉しそうに目が笑っている。
「うん、好きにするよ」
「こらぁっ!センセっ!返事せえや!」
僕は大きく息を吸い込んで、立ち上がった。
あんな大声が僕に出せるだろうか。
いや、がんばって出すんだ。
「僕はこっちにいるっ!」
わぁっ、思ったより大きな声が出せた。
それに結構響くじゃないか。
「何でやっ!」
よしっ!言うぞっ!
「僕は近鉄ファンになったんだっ!」
そう言い切った僕の肩を立ち上がった彼女がポンと叩く。
いや、それだけじゃなかった。
周りから歓声が巻き起こったんだ。
「おおっ!坊主ええぞっ!」「よう言うたっ!」「近鉄はええでっ!」「よっしゃっ!」
ついでに拍手も巻き起こる。
め、目立ってる…。
グラウンドに散った阪急の選手までがこっちを見ているよ。
「馬鹿シンジ、アンタ見直したよ。うん、じゃ私も」
彼女は僕の手を握ると、ふわぁぁ〜と息を吸い込んだ。
「私も今日から近鉄ファンよっ!」
よく通る、ソプラノの声が西宮球場に響いた。
一瞬の静寂の後、僕の時よりも大きな歓声と拍手が三塁側を中心に爆発した。
近鉄のベンチからも何人かの選手が出てきて、観客席を見上げて笑っている。
近くにいたおじさんは遠慮なしに僕の頭をぽんぽんと叩いているし、
彼女には何故か焼きそばのお皿が回ってきていた。
何だかすっかり最終回前の見世物みたいになってしまった僕たちだった。
鈴原君たちといえば、表情までは見えないけど、
やっぱりあきれてると思う。
無所属の僕を阪急ファンに仕立てようと考えていたはずだから、
まさか敵の、しかも人気のない近鉄ファンになってしまうだなんて考えもしていなかっただろう。
それに見ず知らずの金髪の美少女が僕の隣にいるんだから。
そして並んで座っている僕たちには周りから差し入れが相次いだ。
で、でも、お酒だけは勘弁してください。
「三番レフト小川、背番号7」
9回表。
3点差を追う近鉄の最後の攻撃が始まった。
一人ランナーが出ると、彼女のお父さんに打順が回ってくる。
「あ、そうそう」
遠慮なしに焼きそばを食べている彼女が僕に語りかけた。
半分くらいの大きさになっているお好み焼きをパクつきながら、僕は彼女に顔を向けた。
「これから私のことを“君”だなんて気安く呼ばないでよね」
え…。
口の中のお好みを咀嚼するのも忘れてしまった。
それって…。
少し青ざめた僕を見て、彼女はにやりと笑う。
「私にはアスカって名前があるんだからね。ちゃんと名前で呼びなさいよ」
「で、でも…」
嬉しいけど、恥ずかしくて女の子を名前でなんか呼べないよ。
「はん!それも“さん”とか“ちゃん”とか付けないでよね。
私の方がアンタをシンジって呼び捨てにしてるんだから。
あ、もし言えないんなら、友達になってあげないわよ」
一見理路整然とした脅迫は彼女の得意技だ。
どこかに間違いがあるのはおぼろげにわかるんだけど、
彼女はそれを迫力でごまかしてしまう。
我が家の男ども…つまり、僕と息子はいつもこのやり方でやり込められてしまう。
ただし娘だけは何を言われても平気な顔ができる。
見習いたいんだけど、どうしても真似はできない。
数十年経過してもそうなんだから、出逢ったその日に僕がどうこうできる訳がない。
僕は抵抗をあきらめた。
「う、うん、わかったよ。そうする」
「よしっ!じゃ、シンジそのお好み少し頂戴」
「あ、どうぞ」
「それだけじゃないでしょ。どうぞアスカ、でしょ」
「うっ…」
ああ、さっきの大声の方がまだ緊張感がましだったよ。
だけど、言わなきゃね。
「じ、じゃ…どうぞ、あ、あ、アスカ」
「ぶぶぅぅっ!私の名前はアアアスカじゃないもん。やり直し」
ごくん。
よし、今度は…!
「どうぞ、アスカ」
「よろしい」
うわぁぁぁっ!
周囲から歓声が起こった。
え?僕の勇気に対してじゃないよね。
グラウンドでは小川選手がファーストベースを駆け抜けていた。
ノーアウトランナー一塁。
何かが起こりそうな予感がした。
それは彼女…じゃない、アスカも同じだったんだろう。
二人は慌てて差し入れの食べ物を片付け始めた。
もちろんお酒を除いて全部口の中にね。
うわっ、満腹!
よし、これで応援の体勢はできた。
僕は隣のアスカを見た。
アスカもちょうど僕の方を向いたところだった。
二人は大きく頷きあうと、声を揃えて怒鳴ったんだ。
「近鉄、がんばれぇっ!」
次回 1971編 〜下〜に続く
超ローカル&ノスタルジックSSの中篇です。
もちろん近鉄にラングレーという名前の選手はいませんでした。
この試合も思い切りフィクションです。
この当時は近鉄の三番は小川亨選手ではなかったと思います。
あの頃は一番を打っていた様な気がします。
まあ今回は投手がアンダーハンドだということで三番に抜擢されたということにいたしましょう。
さて、そのアンダーハンドの投手は?山田?足立?さあどちらでしょう。
どちらにしてもそれは綺麗なフォームで投げていました。敵ながらうっとりと見ていましたから。
上編掲載後、多くの方からメールと掲示板書き込みで励ましのお言葉を頂戴いたしました。
本当にありがとうございます。
今回はかなりびくびくしながら掲載しておりますので、本当に元気をいただきました。
では、少しだけ語句の説明を…。
2階席……ここの最前列は本当に怖かった。三塁側の端の方で最前列に座り手すりを握り締めていましたら、バックネット越えのファウルボールがかなり離れた場所の手すりに当たったんです。それでも僕のところまでビリビリが伝わってきました。変な感心の仕方でしたが、プロって凄いんだなぁと思いましたね。
マルーン色の電車……生まれてこの方この色の電車を眺めて育ってきましたので、この色が珍しいとは思ってもいませんでした。当時はもっとゴツゴツした車体でしたね。
フジ隊員……「ウルトラマン」の科学特捜隊の隊員です。
アンヌ隊員……「ウルトラセブン」のウルトラ警備隊の隊員です。メディカルセンターでナース姿もしょっちゅう披露していたこともポイントが高かったのかもしれません。
緑川ルリ子……「仮面ライダー」第1クールのヒロインです。藤岡弘の骨折降板と共に番組から姿を消しました。設定では本郷(藤岡)を折ってヨーロッパに行ったとか。でも1年後に帰ってきたのは本郷一人。どこ行ったんやぁっ!
カヲルという名の少年……これこそ文字どおりの当て馬です。私の作品では彼はそんな役ばかり。因みに当て馬というのは三原監督(太陽)や野村監督(南海)がよく使った作戦でした。
伊丹から飛び立った飛行機……関空ができて発着便数が減った時、妙に静かになったのを思い出します。また、大阪空港のことを伊丹空港とも呼称していたので、大阪府伊丹市と間違って認識されがちだったのでしょう。
大丈夫。ちゃんと待ってる。ここで……えっと、使っちゃいました。「星空の向こうの国」の名セリフです。70年代じゃないんだけどね。
関西風の薄い味……関西の人間は薄いとは思っていません。育ちって怖いですねぇ。
003……「サイボーグ009」のヒロインです。平成版のあの設定には脱帽しました。多分004のキャラを生かすためですけどね。
土井……土井正博。19歳の四番打者として昭和37年に一軍デビュー。この人の豪快なフォームは凄かったですねぇ。だって本当にバットを振りかざしてるんですから。この人がトレードされた時は本当にびっくりしました。
関東の球団……う〜ん、イメージでは大洋ホエールズかヤクルトアトムズなんですが。もしかしたら東映フライヤーズかもしれません。
ポプラ社……少年探偵団もルパンもまだ存在しますが、今のあの装丁と注釈は頷けません。読ませることよりもわからない言葉を調べながら読むことが肝心でしょう。あ、じゃこの注釈はっ!いや、子供相手の話です。
声のやり取り……昔を知らない人には不思議でしょうが、あの当時は可能でした。組織応援団などいませんでしたし、トランペットとかもありませんでした。1975年くらいからかなぁ。所謂赤ヘル旋風(広島)のコンバットマーチからブームになって今に至っているような印象があります。敵の応援観客に「今日はあのおっさん来てへんのか」とか会話をしてましたから。
小川……まるで農作業にでも行くように飄々とバットを持ってバッターボックスに入り、こともなげにヒットを打ち、一塁ベース上でにへらと笑う。まさに職人でしたね。
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