全国に何人かはいる筈の近鉄ファン兼LASの人に捧ぐ。
そして、執筆を応援していただいている皆様にも。
幸せは球音とともに ー 1971 夏秋編 ー 〜 中 〜 2004.3.28 ジュン |
「4番、ピッチャー、アスカ」
アスカは自分でコールしておいてから、ゆっくりとバッターボックスに入った。
といっても空き地だからボックスなんてないんだけどね。
ホームベースの代わりにそこらに落ちていた板を置いてある。
もちろん他のベースも板が置いてあるんだ。
この空き地は広いから三角ベースじゃなくてちゃんと四角になってる。
「ふん!いっちょ前にウグイス嬢つきかいな!わしの球が打てるかいな!」
トウジがぐるぐると腕を回す。
アスカはにやりと笑うとバットを構えた。
うわぁ…お父さんのフォームそっくりだ。
後で聞いてみると、家でお父さんに特訓されたそうだ。
格好だけ見ていたら物凄く打ちそうなんだけど…。
「はん!阪急のへなちょこピッチャーなんてぶちのめしてあげるわっ!」
「ふんっ!山田のシンカーが打てるかいっ!」
トウジはアンダースローから庭球を投げ込んだ。
これは確かに打てない。
だって、アスカの背中の方を通過していくんだから。
「あ〜ら、さすがの私もアレは打てないわねぇ。今日は山田さんは調子悪いのかしら」
「く、くそったれ!山田はやめや!今度は米田や!」
トウジは振りかぶった。
アンダースローではどうもコントロールが定まらないらしい。
それでオーバースローの米田投手に変更したようだ。
「タイム!」
「な、なんやねん。今投げるとこやんけ」
「アンタ馬鹿ぁ?米田はサウスポーよ。アンタ、右じゃない」
「あ、アホっ!わしは右の米田や!」
「ふ〜ん、ま、いっか。じゃ、来なさいよ、右投げの米田なんかちょちょいのちょいよ!」
「なんやとっ!行くでっ!」
剛球とは言えないまでも、僕らの中ではトップクラスの速球だ。
ぶるんっ!
アスカは豪快なフォームで空振りした。
「へっへぇ〜ん、見んかいっ!どないやっ!」
「はん!今のはタイミングを計ったのよ!庭球を打つなんて初めてなんだからねっ!」
そう。さっきまで僕とアスカは軟球でキャッチボールをしていたんだ。
そこにトウジたちがやってきて一緒に野球をしようと誘ってくれたんだ。
僕とアスカを足してやっと8人だけどね。
4人ずつに分かれて、守備はピッチャー、ファースト、サードに外野…といってもセカンドの少し後なんだけど。
キャッチャーは攻撃側の人間が担当するし、ボールストライクの判定はなし。
空振りとファールだけがストライクになるんだ。
だって板っきれのベースじゃ判定できないし、もしアンパイヤ制度を導入するとファーボールが連発になってしまう。
そんなのは全然おもしろくない。
僕たちは勝敗を賭けて野球をしているんじゃなくて、野球をすることを楽しんでるんだから。
打たないと、攻撃側も守備側も面白くないもんね。
それにここの空き地でする時は、ボールは軟球じゃなくて庭球を使うんだ。
何故かと言うと、空き地は野球用に空き地になっているわけじゃない。
長方形になっているから、レフトは広いけど、ライト側には洞木さんの家がある。
そう、クラスの委員長の家だ。
軟球を使ったりなんかしたら、窓ガラスを割ってしまうかもしれない。
だからここで野球をするときは軟球野球ってわけなんだ。
「はははっ!強がり言うとるわ!」
トウジはすこぶる強気だった。
その理由はその時の僕には全然わからなかった。
アスカに恋した事で初恋の味というものを覚えた僕だったけど、他人の恋までわかるほど人生経験は豊富じゃない。
トウジはギャラリーを猛烈に意識していたんだ。
ギャラリーっていうのは、そのライトスタンドで観戦しているたった一人のお客さん。
洞木家の二階の窓から僕たちを見ている彼女…そう現在の鈴原夫人のことなんだ。
今から考えると、トウジはやたらこの空き地で野球をしたがっていたんだ。
他の場所なら軟球を使えるところもあったのにね。
もちろん、彼の意識の中には洞木さんに“ええとこ見せたい”という気持ちがあったに違いない。
で、この頃の洞木さんはトウジの事をどう思っていたかというと…。
僕たちには絶対に教えてくれないんだ。ご亭主のトウジにもね。
アスカはどうやら知っているようなんだけど、女の秘密だそうでこの僕にも教えてくれない。
自分のことは何でもかんでも喋るくせにね。
「さっさと投げなさいよ。ぼんくらピッチャー!」
「うっさいわい!行くでっ!」
トウジが渾身の力で投げた球をアスカははじき返した。
ボールはぐぐっとライトの方へ…。
「いかれたぁっ!」
僕は凄いって叫ぼうとしたけど、ボールの行方を見て固まってしまった。
わわわっ!
塀を越える!それどころか、ボールはそのまま洞木さんの家へ…。
僕も、アスカも、トウジも、そしてみんなも、動きが止まってしまい、飛んでいくボールを見つめていたんだ。
アスカは少しだけ走り出したところでバットも持って立ち止まっている。
綺麗な放物線を描いたボールはぐんぐんと伸びて…。
ち、ちょっと、窓のところに誰かいる!
「危ない!」
洞木さんだ。
僕たちの野球を見てたんだ。
その時、僕たちはそのボールが庭球だってことをすっかり忘れてた。
そんなものだ。何しろ自分たちがプロ野球の選手のつもりでボールを追っかけてるんだから。
みんな洞木さんが大怪我をするもんだと息を呑んでいたんだ。
そして、洞木さんは胸元でぽんとボールを受け止めた。
その瞬間、全員がほっと溜息をついんだけど…。
「アウトやな」
トウジが腕組みをして大きく頷きながら言った。
「はぁ?アンタ、何言い出すのよ。完全にホームランでしょうが!」
「そうだよ、トウジ!ホームランじゃないか」
当然、僕はアスカ側につく。
「うるさいわい。ボールはいいんちょが取ったやないか。アウトや、アウト」
「そうだな。とられたんだからアウトだ」
ケンスケまでがわけのわからない理屈をこねだした。
アスカはバットをその場に放り出すと、ゆっくりとトウジの方に歩き出した。
ま、まずいよ。
喧嘩になっちゃうよ。
アスカは男の子が相手でも全然気にしないで突っかかっていきそうだもん。
ぼ、僕が止めなきゃ。
僕は慌てて睨みあう二人の間に走っていったんだ。
「アンタねぇ、いい加減にしなさいよ。あの完璧なホームランを認めないって言うの?」
「何言うとんや、取られたんやからアウトやないけ」
「そ、それはおかしいよ、塀を越えたんだからホームランじゃないか」
「そうよ!シンジの言う通りよ!ど〜してアレがアウトになるのよ」
「取ったやんけ」
「取ったのは観客じゃない。アンタのチームのメンバーじゃないでしょうが」
「そんなん関係あらへん。とにかく取られたんやからアウトや」
「アンタ馬鹿じゃないの?それともあの子はアンタの彼女ってわけぇ?」
「な、な、な、何やてぇ〜!」
今ならよくわかる。
トウジが激怒したわけが。
この時は、単にアスカの売り言葉を買っただけだと思っていたんだ。
片思いの女の子の事でからかわれたトウジはむきになった。それはもう強烈に。
「アホアホアホアホアホ!とにかくアウトや、アウト!それ以外あらへんっ!」
「滅茶苦茶じゃないか、トウジ」
「センセは黙っとき。こないだまで好きな野球チームもなかった癖に」
「ぼ、僕は近鉄ファンだ!」
「よく言ったわ、シンジ!」
「選手の娘は黙っとき。どうせ去年は別のチームのファンやった癖に」
「な、な、な、何ですってぇっ!」
言ってはならないことが世の中にはある。
今や猛烈な近鉄ファンになっているアスカは、トウジの向う脛を蹴飛ばそうとした。
その時、トウジにとって、いやこの場のギスギスした雰囲気を救う女神が現れたんだ。
「ねぇねぇ、今ホームラン打ったの、あなた?」
女の子の声にアスカが振り向くと、つっかけを履いた洞木さんがニコニコ笑いながら歩いてきていた。
その胸元にはさっきのホームランボールが抱きしめられていたんだ。
彼女の登場でみんな黙ってしまった。
「わ、私、だけど…」
「凄かったわねぇ。鈴原の豪速球を見事に打ち返したんだもんね。はい、これホームランボール」
「あ、アリガト…」
「よっしゃっ!ほな試合再開やっ!」
「へぇ?」
トウジと洞木さん以外の全員が文字通りずっこけてしまった。
あんなにアウトアウトと主張していたトウジが、あっさりホームランと認めたのだから。
関西に来たばかりの僕とアスカはまだみんなの様に上手くすることはできなかったけどね。
だけどその後何年も吉本新喜劇を見ているうちに、ベタな笑いのツボはいつの間にか身体に染み付いてしまった。
機会があればアスカの「何でやねん」という見事な突っ込みを披露したいものだ。
まあ、彼女は人前では猫を被るからよほど親しくならないと見ることは出来ないと思うけど。
「何言うとんねん。いいんちょがホームランや言うとんやから、ホームランやないか。みなおかしいんとちゃうか?」
おかしいのはトウジの方だ。
この豹変が洞木さんの登場によるものだとは何となくわかったものの、僕は途方にくれてしまった。
その時、すぐに反応したのはアスカだった。
僕の奥さんはいまだにこのことを自慢している。
このときトウジの洞木さんへの恋心を簡単に見抜いたことを。
だってさぁ、見たまんまだったじゃないよ。豪速球って言われていい気になっただけじゃなくて、ヒカリと目を合わせられないし、いいカッコしようとするしさ、何しろあの表情と態度が好きです!って大声で叫んでるみたいなもんじゃない。それに…(以下略)。
「よぉし、それじゃ近鉄が1点先行ねっ!」
「おい、こら、いつの間にお前ら近鉄になったんや」
「別にいいじゃない。どうせアンタたちは阪急にするんでしょ」
この展開には他の子から文句が出た。
近鉄はともかく阪急ファンの数もそう多くはない。
当然、阪神と巨人ファンからクレームがついた。
だけど、阪急代表がトウジで、近鉄代表があのアスカなんだ。
そんなクレームに屈するわけがないよね。
それに洞木さんが「別にいいんじゃない?」って、スコアボードを地面に書き始めたからね。
誰も我らが委員長に逆らえやしない。
「い、い、いいんちょもせえへんか?」
「私はいいの。見てるだけで楽しいから」
「ほ、ほんまか?」
「うん、試合が終わったら麦茶ごちそうしてあげる」
この二人の関係がずっと続くだなんて僕には想像できなかった。
最高2回戦までしか行かなかったけど、この二人が僕たちの高校の野球部のショートとマネージャーになったんだ。
その時はもうラブラブの公認カップルになっていたんだけどね。
とは言え、このお二人さんは見事に僕とアスカを隠れ蓑にしてくれた。
どんなにベタベタしても、僕たちのおかげで全然目立たなかったらしい。
そんなに僕たちは目立ってたんだろうか?
もちろん、この時の泥だらけのガキ大将と面倒見のいい委員長にはその後の片鱗は全然見られない。
ただ、その後の野球は無性に楽しかった。
4時頃にアスカが空き地から帰る時、みんなと前からの友達みたいになっていたんだ。
この時、僕が凄く嬉しかったのは、アスカが自分のことを“惣流”と苗字で呼ばせたことなんだ。
ただ一人、洞木さんには「アスカって呼んでね」って言ってたけど、彼女は女子だ。
男子で僕だけがアスカのことを名前で呼べる。
優越感というよりも、単純に喜べたんだ。
アスカにとって、僕は他の男子と違う存在なんだってね。
その一週間後、僕は国鉄の大阪駅でアスカと待ち合わせをしていた。
今と違って携帯電話なんかない時代だ。
もし場所や時間を間違えたら取り返しのつかないことになってしまう。
僕は何度も確認した。
午前11時に国鉄大阪駅東口の改札前。
そりゃあ、アスカを探すのは簡単だと思う。
いくら人が多くても金髪の女の子なんかそういるはずがないからね。
だけど、僕はアスカを待ちたかったんだ。
僕の家に来るときにあんなに早く来てくれたんだもの。
今度は僕の方が待つ番だ。
気合を入れて僕は午前8時30分に到着した。
………。
それから3時間。
もう11時30分を越えた。約束の時間から30分が過ぎちゃった。
それなのに、アスカは来ない。
アスカの家の電話番号は知らないから確認のしようもない。
僕は正直言って泣きたくなっていた。
試合の時間が1時からだから待ち合わせ時間は11時のはず…。
もしかしたら場所を間違えちゃったとか!
その可能性の方が高い!
探さなきゃ!でも、こんな人の多いところでどうやったら!
たしかここは改札が何ヶ所かあったっけ。
とりあえずそこを見に行って…ああ、ダメだ、もしその間にアスカが来たら…。
僕の悪い癖が爆発してた。
堂々巡りの優柔不断。
ど、どうしよう…。
その時、天から声が降ってきた。
『北海道苫小牧市からお越しの……』
そうだ!放送だ。放送してもらって…。
どこに行ったらいいんだろう?駅長室?……ってどこかな?
まず駅員さんに訊いて……。
この場所から離れないように、改札の駅員さんに訊いてみよう。
僕はどきどきしながら改札口で凄いスピードで鋏を使っている駅員さんの背中を目指した。
うわぁ、ひっきりなしに人が入って行くから声がかけられないよ。
でも、訊かなきゃアスカに会えない。
僕は覚悟を決めて駅員さんの背中に声をかけた。
「あ、あの…」
「悪かったわねっ!」
「!」
振り返るとアスカがいた。
息を弾ませて脇腹を押さえている。
「はぁ、はぁ…、何で阪急と国鉄は…ぜぇぜぇ…こんなに離れてんのよ」
「アスカ!」
「まったくもう…こ、この私が、お、降り損ねる、くふぁ…はぁ…な、なんて…」
「だ、大丈夫?」
「大丈夫じゃない、わよ!こんなに…走ったの、生まれて…ぜぇぜぇ…初めてなんだから…」
アスカは両膝に手を置いて、肩で大きく息をしていた。
阪急電車を降り損ねたって言ってたけど…梅田って終着駅なのにどうして?
アスカが落ち着くのを待って、そのことを訊いたら、せっかくおさまりかけていたアスカの顔の赤さがさっきよりももっと赤くなってしまったんだ。
そっぽを向くと、せっかく梅田まで着いたのにそのまま折り返して三宮に向かってしまったのだと小さな声で言った。
ダイヤモンドクロスを通過するときに飛び起きたらしい。
「ということは、寝過ごしたってこと?」
「う、うっかりよ。ちょっと、て、徹夜したから、熟睡しちゃったのよ。日本人って全然親切じゃないわ。終着駅なのに誰も起こしてくんないんだもん!」
アスカは僕の方を見ないで、手足を振り回しながら力説している。
この時は単純に憤慨しているのだと思い込んでいたけど、何年後かにこれがアスカの照れだと知ることになる。
まあ、この当時の日本人は今より親切だったことは確かだけど、逆に外国人慣れ、英語慣れは全くしていなかったんだ。
特急電車の座席の隅で眠り込む金髪の美少女に声をかけるような、勇気を持つ人はなかなかいなかった。
熟睡したアスカが折り返してしまったのは仕方ないともいえるかもしれない。
少なくとも今と違って当時はダイヤモンドクロスがあったから、アスカは梅田三宮間を往復し続けることだけは免れたわけだ。
「ねえ、徹夜ってどうして?」
僕の他愛もない質問に、アスカはこれ以上赤くなりそうもないほどの顔になった。
アスカはしどろもどろになりながら、背中のリュックサックから紙包みを出してきたんだ。
「これ…」
俯きながら、アスカは僕にその包みを差し出した。
後年、僕の奥様はこう言っている。
『アンタがいけないんだ。私は日生球場で渡そうと思ってたのにさ、駅でいきなり尋問されるんだもん。
それにさあそこで黙ってたらただの寝坊助に思われちゃうじゃない?』だそうだ。
紙包みの中には帽子が入っていた。
白い野球帽。
その中央に“B”のマークがついていた。
「わっ!これって近鉄の帽子じゃないの?どこを探してもなかったんだよ。阪急百貨店にも」
「うん…、でもオフィシャルじゃないの」
「おふぃしゃるって何?」
「えっと…その…公式の帽子じゃないってことよ」
アスカが申し訳なさそうに言う。
僕はもう一度野球帽を見た。
真っ白な帽子の真ん中の“B”マーク。
これが公式じゃないの?
よく見ると、マークの縁がしっかりと縫われている。
こんなの初めて見た。
マークって普通は糊で貼られているんじゃなかったっけ。
この時、アスカは僕に何の説明もしなかった。
まだ子供の僕にアスカの行動の意味を察することはできなかった。
ただアスカの指先に絆創膏が何枚か貼られていたことで、徹夜の原因だけはわかったような気がした。
その僕の視線に気づいて、アスカは慌てて手を後に引っ込めたんだ。
「ママに手伝ってもらったんじゃ…バースディプレゼントになんないんだもん。だから…巧くできなくてさ、何度もやり直して…」
ぼそぼそと小さな声でアスカは言う。
周りは人ごみで聞こえにくいはずなのに、僕にはしっかりと聞き取れた。
マークは歪んでもなければ、糸の縫い取りもしっかりとしていた。
再び奥様の証言。
『近鉄百貨店に行けば、いやパパに頼んだら簡単にオフィシャルの帽子なんて手に入るんだけどさ。
せっかくシンジにあげる初めてのプレゼントなんだから、気持ちをいっぱいに込めて贈らないとね。
そのマークだってしっかり縫い付けておかないと、何かの拍子にぽろっと取れたりなんかしたらやだもん。
ふふふ、頭が大きくなってサイズがそのうち合わなくなるって、そん時にはぜんぜ〜ん気がつかなかったわ。あははは』
因みにその告白をした時もまともに僕の方は向いてくれなかったっけ。
とにもかくにも、初めて貰ったアスカからのプレゼントを袋に保管しておくなんて考えは僕にはなかった。
何しろ、お子様だからね。
早速、その帽子を僕はしっかりと頭に被ったんだ。
そしてアスカを見ると、彼女はそれはもう満面の笑みを浮かべていたんだ。
「よく似合うよ、シンジ」
「本当?ありがとう、アスカ!」
ロマンチックさの欠片もない場所だった。だってマンモス駅の改札口のすぐ横だったんだもんね。
ただ周りは人でいっぱいだけど、みんなどんどん中に入っていくからそんなに人目は気にならない。
それよりもアスカの喜んでいる顔を見ているだけで僕は嬉しくて仕方がなかったんだ。
で、その時、駅の大時計の針は12時30分をさしていたんだ。
そのことに気付いて、僕たちは慌てて切符を買って環状線のホームに走った。
二人とも笑いながら…、そしてしっかりと手を繋いで。
その二人の頭にはお揃いの野球帽が乗っかっていた。
アスカがニヤリと笑いながら、リュックサックから自分の分の野球帽を出してきたんだ。
僕のとまったく同じの“B”のマークが入った白い野球帽。
自分の分も作っていたから徹夜になったそうだ。
世間にとってはオフィシャルの野球帽じゃないけど…。
僕たちにとっては、これこそ二人の幸せへと続くオフィシャルのアイテムに違いなかった。
あ、もちろん、その当時の僕たちにそういう認識は全然なかったんだけどね。
僕たちはオリジナルの近鉄の野球帽で誇らしげに歩いた。
日生球場に着いて、その小ささにびっくりしたけど、とにかくここが近鉄バファローズの本拠地。
近鉄ファンの聖地となるわけだ。
その日の試合は大田幸司が登板したけど、結局6対3で負けちゃった。
アスカのお父さんは4打数1安打の2三振。
僕とアスカはネット裏の席で悔しがった。
あ、このネット裏の座席はラングレーさんからのプレゼントだったんだ。
凄く迫力があって、試合の後でラングレーさんに僕は何度もお礼を言った。
アスカは「どうしてシンジの誕生日に勝ってくれないのよ!」って、お父さんを困らせていたけどね。
これで僕が観戦したときの近鉄の成績は二連敗となった。
「シンジ、また観に行くわよ。勝った試合を見ないとねっ!」
もちろん、僕に異存はまったくない。
この時から毎週日曜日はアスカと会うことになったんだ。
こっちで試合がある時は応援に行って。
そして、関東や九州で試合の時は、僕の家かアスカの家で遊んだ。
僕の家に来るときの方が圧倒的に多いんだけどね。
だって、彼女は…。
「4番、ピッチャー、アスカ!」
「くそぉ!今度は打たせへんでっ!」
「アスカ、がんばって!鈴原なんかやっつけちゃえっ!」
「打てっ!アスカ!」
「OKっ!シンジっ!」
野球ができるスペースがあれば、そこが僕らの野球場だった。
観客席もスコアボードもなく、ベースは大抵板っきれだったけど、僕たちには大切な場所だったんだ。
この年の夏、僕たちは汗びっしょりになってボールを追いかけた。
「幸せは球音とともに」
1971 夏秋編 中
おわり
さて、恒例の注釈コーナーです。
ベース代わりの板………ダンボールの切れ端を使うこともありました。それもなければ、バットのグリップでベースを書いたものです。でも書くだけではすぐにベースが見つからなくなってしまいますので、なんとか目印になるものを探しましたね。
ウグイス嬢つき………プロ野球選手になりきるときはこれをしないといけません。まあ、果し合いの名乗りみたいなもんです。言わないと誰の真似をしているかわからないってこともありますが(笑)。
米田………サウスポーの勝利数第一位の選手です。タフな選手で阪神、そして近鉄が最後の所属チームになりました。でも、私にとっては彼はやはり阪急ブレーブスの名投手ですね。
庭球………黄色や緑のテニスボールじゃありません。ふにゃふにゃの軟式庭球です。私の家は団地だったので、棟と棟の間の公園で野球をしていました。当然、小さい子供もうろうろしているのでボールは必ず軟式庭球を使っていましたね。これでも当たると痛いんですけど。今は団地内では野球禁止ですから…。ちょっと寂しい。
国鉄………これを注釈しないといけない時代になったんですね。今のJRです。正式名称は日本国有鉄道。
大阪駅東口………今は御堂筋口という名前になっています。ここで待ち合わせだなどとは正気の沙汰ではありません。人人人…。こんなところでプレゼントを渡すなんて、さすがは二人はお子様です(笑)。
改札の駅員………今は機械式になっていますからあの神業的な改札鋏のパフォーマンスを見ることはできません。あれを見て駅員を志望した子供も多かったはずですよ。
阪急と国鉄………歩いて5分くらいでしょうか。ただし歩道橋か地下道、もしくは長い長い信号のある横断歩道を通らないといけませんから、国鉄大阪駅と阪急梅田駅は離れているという認識が関西人にはあります。だって、地下鉄と阪神は国鉄のすぐ近くなんですから。
阪急梅田駅………阪急電車の本線(神戸線、京都線、宝塚線)はすべてこの梅田駅が発着駅となります。ずらっと並んだ9つの線路とホームは何だか外国の駅を想像させてくれますね。
ダイヤモンドクロスで起きた………はい、それで起きてももう遅い。三宮行きの特急は西宮北口のホームを出発してからダイヤモンドクロスに突入します。ここで目を覚まして、いくら泣き叫んでも次は三宮まで止まりません。アスカは自宅のある六甲駅まで通過してしまう羽目となりました。さぞ泣きべそをかいて…いや堪えていたことでしょうね。彼女のロスタイムは都合一時間強となるはずです。
白い野球帽に“B”マーク………えっと、私はそうしてました。スポーツ店でBのマークを買って野球帽に貼っていましたね。近鉄百貨店で買うなんて考えもしてませんでした。
環状線………大阪環状線です。日生球場のある森ノ宮駅には外回りで大阪から4つ目です。え?違うですって?だって当時は“大阪城公園”駅なんてありませんでしたからね。
日生球場………西宮球場、大阪球場、甲子園球場といった近隣の野球場と比較すると、まあこれがプロの使う野球場かと思うくらいこじんまりとしていましたね。
大田幸司………近鉄初の全国区スターです。いや入団前にスターだったんですが(笑)。彼は甲子園の悲劇のエースでしたから。
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