全国に何人かはいる筈の近鉄ファン兼LASの人に捧ぐ。
そして、執筆を応援していただいている皆様にも。
幸せは球音とともに ー 1974編 ー 〜 下 〜 2004.5.30 ジュン |
描:神有月葵 |
アスカがやってくれた。
二学期が始まって1ヶ月。
晩御飯の後片付けも終わったとき、母さんと3人で食後の果物にありついてたときだった。
アスカがおもむろに茶色の封筒を取り出した。
そして、母さんに「はい」って渡す。
母さんは中の手紙を取り出し、一言。
「わっ!パーマ屋さん行かなきゃ」
「へ?何なの?」
「学校から招待状。何着て行こうかしら」
「あの水色のワンピースは?」
「ちょっと若作りし過ぎてないかしら?」
今のは絶対に本心じゃない。
したがって、受け答えしているアスカもちゃんと返事してくれてる。
「全然大丈夫。一人でいたら20代半ばでも通用するわよ」
「そうかなぁ」
「そうなんじゃないの?」
余計なことを言った僕は母さんにすっとりんごの皿を下げられてしまった。
まだ一切れしか食べてないのに…。
「アスカ、何かしたの?白紙で答案出したとか」
「とんでもない!目下学業はぐんぐんアップしてんわよ!」
それは事実だ。
アスカのウィークポイントは国語と社会。
基礎知識が浅いからね、これは仕方がないと思う。
だけど、それを解消しようと1年の時から猛勉強をしてるんだ。
だから、アスカはクラスでもトップレベル。
そんなアスカに勉強の事で呼び出しはないよなぁ。
「で、いつ?」
「明後日ね。あら。シンジ、アナタも同席するようにって」
「へ?僕まで?アスカ!どういうことだよ!」
「さぁね、全然心当たり無いわ」
真正面から僕を見つめるその瞳には何の曇りも無かった。
うん、間違いなく何か企んでる。
何だかとんでもないことが起きそうだ…。
そして2日後の放課後。
生徒指導室…なんてものはこの当時なかったから、僕たちは指示通り応接室に向かった。
事務室と校長室の間。
何だか聖域って感じだ。
僕とアスカは教室から母さんを迎えに行った。
その母さんは校門のところで日傘をくるくる回しながら立っていた。
やっぱり水色のワンピース。
腰のところでベルトをしているけど、とても呼び出しをくらった保護者の風体じゃない。
とても目立つ…。
この人何者?ってな感じでみんながちらちら見ながら下校していく。
「母さん!」
なぁんて大声をかけるわけが無い。
僕だって恥ずかしいのだ。
さささっと走りより母さんを引っ張ってこようとしたのに、
やっぱりアスカが邪魔をしてくれた。
「お母様!ごめんなさいっ!私のためにわざわざ学校まで来ていただいて!」
この女の子誰?
僕の好きなあのアスカじゃない。
周囲50mの人間に充分聞こえるような大声で話しかけ、そして大仰にお辞儀をする。
ほら、周りのみんなもびっくりして動きが止まっちゃってるよ。
「あら、そんなことないのよ。アスカさん」
この人誰?
僕の知ってる母さんじゃない。
「い、行こうよ。ほら」
僕はさっさと背を向けた。
待ってると、今日のこの二人はどこまでお芝居を続けるかわかんないもんね。
応接室には青葉先生と何故か伊吹先生が待っていた。
一通りの挨拶が終わった後、青葉先生は真面目な顔をして母さんにプリントを差し出した。
受け取り目を通す母さん。
えっと、あれって確か進路希望の…。
「ええっと、お母さん…じゃなかったですね、碇君のお母さん」
「何でしたらお姉さんとでも…」
「ううぅんんっ!」
僕は思わず大きな咳払いをした。
いきなり何を言い出すんだ、母さんは。
取って置きの一言を邪魔された母さんは僕を横目で睨みつける。
ああ、今晩のおかずは僕のだけ散々なような気がする。
もしかしたら、何もないかも…。
運良く青葉先生は母さんの取って置きを聞き逃してくれたようだ。
いや、どうやら聞かなかった振りってやつかもね。
「ああっと、お解かりいただけましたか?」
青葉先生は言葉を改めた。
すっかり先生口調だ。
「この進路希望ですか?実に簡単明瞭なことが書かれてますわねぇ」
僕は母さんの手元を覗き込んだ。
この進路希望なら僕も3日前に提出したところだ。
僕は県立の宝塚第弐高校を書いた。
まあ、今の成績なら大丈夫だと思う。
アスカとも話し合ったんだから、アスカも同じところを書いてるはずなんだけど…。
まさか!アメリカに帰るって書いたのかもっ!
あ……。
そこにはアスカ独特の筆跡でたった一行だけ書かれていた。
シンジと同じところ。大学も同じところ。卒業したらすぐ結婚。以上。 |
………。
何と単純明快な。
僕としては物凄く嬉しいけど、これは照れる。
伊吹先生も頬を染めているよ。
当のアスカは平然としているのにね。
「あの、これが何か?」
出た!
母さんはどうしてこれが問題になるのかと言わんばかりの口調で問い返す。
おとぼけしているのではない。
まるで1+1の答えは2ではないのか、とでも言わんばかりの口調なんだ。
もっとも母さんの場合はもっと複雑な計算式だろうけどもね。
だって、母さんは大学では将来を嘱望された研究者だったらしいもの。
でも、その有望な研究者はとある企業に就職してわずか2ヶ月でその世界から去ってしまったんだ。
その理由を僕は知らなかった。
この数分後までは。
そんな母さんの態度に青葉先生が少し退いた。
女性慣れしていないもんね、先生は。
男に凄まれた方が対処しやすいと思う。
でも、さすがに同性の伊吹先生は違った。
ぐっと身を乗り出すと、熱っぽく語り始めた。
「よろしいでしょうか。私は本来お二人の担任ではありませんから、口を出すべきではないのかもしれません。
でも、惣流さんからこのお話をお聞きしまして、このままじゃいけないと、青葉先生に…」
ちらりと横目で見る伊吹先生。
決していい感情のこもった視線ではないので、青葉先生は目を彷徨わせている。
「青葉先生に申し上げて、この席を設けました。
この時代に、惣流さんのような有望な人材を家庭に埋もれさせてよろしいのでしょうか」
あ、なるほど、そういうことか。
僕はようやくこの会の趣旨を了解した。
「はん!この時にやっとだったのぉ?やっぱりシンジは鈍いわよねぇ」
モロゾフのプリンをガラスコップごとお盆に載せてきた、我が妻が耳元で毒づいた。
このプリンをカップからわざわざ出して食べる人間の気が知れない。
プッチンプリンじゃあるまいし。
「仕方ないだろ。アスカと母さんみたいに計画立てていたわけじゃないんだから」
「へっへぇ、マヤちゃん単純だからあっさりと引っ掛かったわよねぇ」
別にアスカは馬鹿じゃないし、あの資料だって普通に書くこともできたわけだ。
それをあんなことを書いたのは、トウジと洞木さんのことが決着したあの時、
残った問題は青葉先生の片想いだけだったんだ。
“青葉先生の恋を実らせる友の会”の会長たるアスカにとっては、
2年越しの活動に大団円を迎えさせようと考えたわけ。
その秘密兵器として母さんを持ち出したんだ。
あの面白好きの母さんが出馬要請を断るわけが無い。
そういえばあの頃、二人が額をくっつけてなにやらこそこそ話してたっけ。
絶対に僕への悪戯だって思い込んでいたのは被害妄想…?
「アスカ、スプーンがないよ」
「コップに吸い付けば?ずぼぼぼってさ」
「アスカじゃあるまいし。いくつの時だっけ?
一気に吸い込んでやるわって、モロゾフのプリンのコップに口押し付けて…。
真空状態になって取れない取れないって大騒ぎしたよね」
「ああ、懐かしいわね。あの時は一生こんな口になっちゃうんだって、思っちゃったわ」
「鼻も入れて無くてよかったよ。プリンで窒息死だなんて恥ずかしいもんね」
「子供だから仕方なかったのよ」
「子供?確か、シンイチを産んだ直後だったよね。
洞木さんがお医者様に持って来てくれたんだっけ。プリン。
アスカは23歳…いやもうすぐ24だったよね…」
アスカがバタバタと駆けていった。
まずい!
僕が駆けつけたときには、ダイニングへの入り口はすでに封鎖されていた。
その前にでんと椅子に座ってアスカがこっちに背中を見せている。
問答無用ってことだ。
中に入るなら私の屍を越えていけ…アスカの言いそうな台詞だ。引用は間違ってるけど。
指で食べろって言うの?プリンを。
その時、心優しき我が娘は助け舟を出してくれた。
「はい、お父さん。これ使って。コンビニで貰ったの」
「ありがとう、レイ!」
受け取ったのは、割り箸だった。
パソコンの前にとぼとぼと戻り、
茶碗蒸しのような気分でプリンを食べる僕を笑う声が背後から聴こえる。
二人の女性の声。アスカと…レイ!
きっと握手でもしているんだろうな。
レイのそういった遺伝子は絶対に母さんから伝わったに違いない。
澄ました顔で悪戯する。
この時の母さんもそんな感じだった。
つまり、アスカは伊吹先生を搦め手から攻めようと思い立ったわけ。
いくらイベントを組んでもはっきりしないんだもんね。
そこで母さんを引っ張り出したんだ。
この計画には最適の人間を。
といっても、この時点での僕には計画の全貌はまったく見えていない。
ただ母さんが出てきた以上、かなり大きな成果を考えているんだろうなってことだけはわかる。
そんなことも知らず、教育熱心な伊吹先生は真っ向から二人に向かっている。
明らかに罠にかかっている。
かわいそうに…。
失礼かもしれないけど、伊吹先生が僕と同類のような気がしたんだ。
舌なめずりしてフォークとナイフを構えている、
二匹の美しい(でいいだろ)女狼の眼前にそうとは知らず自分から出て行ったんだから。
「惣流さんの成績はとても優秀です。
1年の時は国語に苦しみましたが、今はそれも充分以上の成績です」
アスカがにっと笑ってVサイン。
青葉先生がすかさず「こらっ」と嗜める。
愛する人の話をちゃんと聞けと。意味はすぐにわかるよ、僕でもね。
「もちろん、碇君の成績も優秀です。
志望校は間違いなく大丈夫です。
いえ、本人が望むならN高クラスでも太鼓判を押せます」
「Nはダメっ!あそこは男子校!」
「惣流!」
「ふんっ!」
青葉先生に怒鳴られアスカはそっぽを向いて腕組みした。
大丈夫だって。僕がアスカの行けない学校を志望するわけないだろ。
「あの…僕は公立でいいです」
「うちの子は家計のことを心配しておりますの」
ああ、心配だよ。
わけのわからないものを山ほど買ってはバザーに出してるのは誰?
そういやアスカの実家にもよくいろいろなものを送ってるよね。
この前は、確か信楽焼の狸だった。1m以上あったよ、あの狸。
キョウコさんもいろいろ送ってくる。
この前は、オークションで落としたっていう、ルート66の行き先表示板だった。
重い、大きい、押入れに入らない。
で、庭に杭をでんと突き刺して、そこにしっかりと固定するしかなかった。
この先にサンタフェだって…。物置しかないよ、小さな庭の向こうには。当時もそうだし、今でもね。
絶対に二人とも購入代金よりも送料の方が高くついてるはずだ。
まあ、父さんの稼ぎが悪いとは思わないけど、母さんの使い方を見ていると子供としては不安だよ。
「そうですか。いいお子様ですね」
ははは、美人に褒められるとまんざらでもないや。
ましてや伊吹先生に優しげに微笑まれたりなんかしたら…。
「ひっ!」
「どうしたの、碇君?」
はい、左に座っているアスカに手の甲を抓られました。
そして、右に座っている母に太腿を思い切り抓られました。
その上、前に座っている青葉先生に向う脛を蹴られました。
言えるわけないよね。
3人とも知らん顔して、そっぽ向いてるんだもん。
くそぉ、青葉先生まで!
「何でもありません、はい」
「そう?えっと、どこまでお話しましたっけ?」
「うちの二人が成績がとてもよいとお褒めいただきましたの」
だからどこの奥様なんだ、母さん?
どうせ、父母会かなんかで旧家の人かなんかに感化を受けたんだろ?
結構いるからね、蔵とかがある大きな大きな家の子が。
だけどあのおっとりとした関西弁までは完全にコピーできないから、少し変な感じだ。
でも言わないよ。どんな目に合わされるかわかんないもんね。
「ああそうでした。とにかくその成績優秀な惣流さんが、こんな将来設計しかしていないなんていけないと思います」
伊吹先生が一気に言い切った。
なるほど、このアスカの人生設計じゃ就職はしないってことになるよね。
ははぁ、なるほどなぁ。
そんな感想しか僕は持てなかった。
だって僕自体どんな仕事につきたいかだなんて正直考えたこともなかったから。
そういう僕がアスカの方針に異論があるわけがない。
僕はぼけっとして、母さんは平然とし、そしてアスカは知らん顔で天井を見つめている。
伊吹先生は怒った。
まあ、怒るだろう。
怒って当然だ。教師なんだもん。今の僕には伊吹先生の気持ちがよくわかるよ。
あの時はごめんなさい。
「まあ、どうしてですの?女の幸福は家庭に入ることではないのかしら?」
うんうんと力強く頷くアスカ。
でも、伊吹先生はその一言で闘志に火がついたようだ。
「今は時代が違います。あ、でもウーマンリブと混同しないで下さい。
私が言いたいのは、これからはその能力に応じて仕事を選び、そのために大学や高校を志望するべきです。
それには男女の区別はありません。
優れた女性はその力を社会のために使うべきです。
惣流さんはずば抜けた能力があります。はっきり言って、家庭に入るのはもったいない。
お母様の時代とは違ってきてるんです。
あの頃は大学にも行かないような…」
「あら、私、出てますの」
僕には見えた。
母さんがニヤリと笑ったのを。
いや、顔なんか見てないよ。どうせ表情は微かに微笑を浮かべてるいつものアレだろうし。
ま、家族にだけ見える心の顔ってヤツかな?
ぞわぞわっと右側から波動が来たもん。
「あ、もうしわけありません」
「いいえ、たいした所ではありませんし」
あああっ!この大嘘つき!
短大か何かと思い先生が話を逸らすのがわかっているから、アスカがおとぼけ突っ込みをすかさず入れる。
「ええっ!東大って、東京大学じゃなかったの?私、勝手にそう思い込んでた。もしかして東京花嫁大学とか?」
そんなのあるかっ!
おとぼけにもほどがあるぞ。まあ、アメリカ国籍だからこういうときにアスカのボケは有効なんだ。
「えっ!お母様は東大に?!」
先生が二人とも目を剥いた。
母さんは表情を崩さない。
笑顔の影に、それがどうしたの、馬鹿らしいって見事に表現している。
「はい、そちらで主人と知り合いましたの。
あそこに行って良かったと本当に満足しておりますわ。
○○や△△などに留学しないで良かったと」
アメリカの超有名な大学の名前を挙げられて、先生たちは言葉を失った。
この時の僕はそれがそんなに凄いこととは理解できてなかったんだ。
まあ、当事者の家族ってそんなものだと思う。
この母さんの話にはひとかけらの嘘も混じってないんだ。
ここから母さんの恐怖の五月雨トークが始まった。
大学で父さんと出逢ったことから、恩師の教授の話、就職のこと、その他もろもろ。
かなり有名な教授らしく、その人が仲人ってことでも先生たちは圧倒されていた。
へぇ、あのおじさん、そんなに凄い人だったんだ。
関東にいたときに何度か母さんに連れられて遊びに行ったことがあるよ。
おいしかったなぁ、メロン。生まれて初めて食べたのがあそこだった。
あ、鰻も。海老のてんぷらや鯛のお刺身も…。あ、ステーキもそうだったような…。
ん?
もしかして、母さんはご飯をたかりに行ってた?
そういえば、帰りに色々お土産を貰ってたような覚えがある。
あらら…!
そういうこと?
僕たちが母さんところに遊びに行った時に、タッパーいっぱいに食料を持って帰るのと一緒か。
母さんもしっかりその準備をしてるもんね。
葛城先生もそうだったのかなぁ。
いや、長い間会ってないぞ、先生に。年賀状は来てたからご存命なことは確かだけど、元気にしてるかなぁ。
今度、アスカたちと遊びに行くか。
さて、中学校の応接室。
15分以上も母さんは喋り続けていた。
先生たちも一時の驚愕からは抜けたようだけど、母さんのしゃべくりに言葉を挟むことができない。
これにはコツが要るからね。
素人の二人には絶対に不可能だ。
でも、ただ煙に巻くことが目的じゃない。
だから母さんはあからさまに隙を見せた。
ほっと息を吐き、コップに入ったお茶を美味しそうにゆっくりと飲んだんだ。
慌てて口を挟む伊吹先生。
「あ、あの、お母様?あの…す、凄いんですねぇ」
先生、そりゃ主張じゃなくて感想だよ。
自分でも気づいたのか、少し頬を赤らめて何とか方向を修正しようとする。
「えっと、お母様の場合はつまり、ご主人に出逢うまでは一心不乱に勉強しておられたわけですから、
やはり将来の仕事についても考えておられたわけですよね」
「ええ、そうですの」
「では、やはり研究の道一筋に」
「当然ですわ。結婚する気などまったくございませんでしたから」
「げっ、そうだったの?」
思わず口を出してしまった。
それに対してアスカからの妨害がなかったところから見ると、寧ろいい質問だったのかもしれない。
母さんは机の上の僕の手にそっと掌を重ねた。
「そうよ。お父様に出逢わなければね」
お、お父様、だってさ。
アスカの唇もぴくぴく震えている。
日頃は、ゲンドウさん、若しくはあの人だからね。
「そしてね、いつか結婚しようと思ってそれぞれの就職先でがんばろうとしたんだけど」
「僕ができたの?」
「うぅぅぅぅんっ!」
物凄い唸り声が響いた。
アスカだ。
今のはダメだったようだ。
あ、因みに僕の誕生日が6月6日。二人の結婚記念日は同じ年の1月15日だ。計算は当然合わない。
でも、母さんが会社を辞めたのは5月の末だから、僕は関係ないか。
こりゃ失言。
「あなたは同棲してからできたのよ」
「同棲!」
伊吹先生が信じられないものを見るような顔で大声を出した。
今は昭和49年。
『神田川』や『同棲時代』が流行ったのは去年の出来事だ。
大学を出て2年目の伊吹先生としては、もろにその世代と被っていたわけだ。
日本中でヒットしたのは去年でも、この数年は学生たちの中で同棲が進行していた。
顔見知りの学生が同棲したり、学生結婚したりしているのを見ていたわけだ。
「不潔です」が口癖の伊吹先生だからそういう周囲の風潮を苦々しく見ていたんだと思う。
「ええ、楽しかったですわ。3畳一間でしたから、両側の壁に本が天井近くまで積まれていて、その間で寄り添って眠ってましたの」
芝居っ気抜きで懐かしげな表情の母さん。
さすがにここでの五月雨トークは自粛したようだ。
ごほんと咳払いした先生はさらに頬を赤らめている。
「あの、お母様。子供たちの前ですので、あまりそのようなことは」
「まあ、ごめんなさい。伊吹先生もご結婚前ですわよね。あの、そろそろいかがですか?」
「はい?」
「ご結婚ですわ。お相手はいらっしゃいませんの?」
来た来た来た。
母さんがジャブを繰り出した。
「い、いませんっ!」
ちょっと、伊吹先生。立ち上がってまで言うことじゃ…。
あ…、母さんとアスカの二人共に唇の端がほんの少し上がった。
「まあ、いらっしゃらないの?凄くお綺麗なのに、もったいない」
「わ、私、そんなっ!」
「男の人がお嫌い?」
くわっ!母さんったら何てこと言うんだよ。
ほら、伊吹先生は立ち上がったまま固まっちゃってるじゃないか。
「あの、碇さん。それは失礼でしょう。伊吹先生はそんな不健全な方じゃありません。
私などよりよっぽど立派な教育者です。わ、私は…」
「そんなマヤ先生が大好きです、と」
タイミングを計っていたアスカが爆弾を投げ込んだ。
「そ、惣流!」
青葉先生も立ち上がった。
完全にペースは母さん&アスカ組のものだ。
「別に隠すことないでしょ。マヤ先生だって知ってるわよ、ね!」
「わ、私!」
「あら、青葉先生はこちらをお慕いなさっていらっしゃいますの?
まあまあそれはそれは。あぶないところでしたわ。
私、危うくこちらのお綺麗な先生にお見合いを勧めるところでした」
絶対に嘘だ。
口ばっかり。
でも、二人の先生は慌てた。
青葉先生だけじゃなく、伊吹先生までが大きく手を振って断ったんだ。
「そうですか?では、お見合いの話はなしとしましょう。
でも、どうしてご結婚されないのかしら?」
「そ、それは…」
口ごもる伊吹先生。
「まあ、お二人ともそんなに突っ立ってらっしゃらずに、どうぞお座りになって」
こうなると母さんが完全に主導権をとったも同然だ。
恥ずかしがる伊吹先生に母さんは遂に答を引き出した。
「この仕事が好きだから辞めたくないんです。
結婚したら辞めないといけないから……」
「あら、どうして?」
「はぁ?」
伊吹先生は目を丸くした。
結婚…いや、同棲したから仕事を辞めたという当の母さんから素直に質問されたからだ。
僕だって、あきれてしまった。
まあ、蛙の面に何とかってのは母さんにぴったりだもんね。
「あ、あの…お母様は、それが原因でお仕事を続けられなかったのでは?」
「それって何でしょうか?」
「えっ!あの、つまり、家庭と仕事を両立できないから」
「おほほほ」
僕の知らない人が笑ってる。
頼むから家ではそれをしないでよ。
「それは違いますわ。あの人、とても嫉妬深いんですの」
母さんはけろりと言った。
うん、これは間違いじゃない。
僕にはよくわかる。
「私が職場で誰かに誘惑されていないか。それを考えると、仕事が手につかなかったらしいですわ」
「あの…それは家にいても一緒なのでは?ずっと鍵をかけて閉じこもっているわけではありませんでしょう」
へぇ、伊吹先生、意外に冷静だ。
「それが違うんだな。ね、お母様」
お、お母様ぁ?
ユイママとか、ママとか言ってるだろ、いつもは。
「あのね、家とか町で何かあったとしてもそれは事故みたいなものでしょ。
職場は違うわ。毎日毎日同じ人と顔をあわせるんだもん。
それで、夫がいる身でも俺の方が!なぁんて馬鹿が出てくる可能性が高いじゃない。
だって、こんなに若くて綺麗なんですもの。私だってそれが心配だから就職しないの」
そこで青葉先生が身を乗り出した。
「あの、すみませんが、お母さんも惣流も少し考えすぎなんじゃないですか?
そんなことを考えてたら生活できませんよ。なぁ、碇。お前もそう思わないか?」
「思いません!」
僕は大声を出した。
演技じゃない。
先生たちは突然叫んだ僕に呆気にとられ、母さんとアスカはしてやったりという表情を僕を見ていた。
はいはい、どうせ僕は扱いやすいんでしょうよ。
まあ、その時の僕には周囲のもののことなど眼中になかった。
心の中からの叫びをただ口にするだけだったんだ。
「そんな!絶対にダメだよ。アスカを狙うヤツが絶対に出てくるよ。アスカっ!」
「はい、はぁ〜いっ!」
アスカが元気に手を上げた。
「僕が何とかするから、アスカは家にいてよ。お願いだよ」
「はい、はい、はぁ〜いっ!わかりましたぁっ!私はずぇ〜たいに就職しませんっ!」
この反応は明らかに予期していたものだ。
まあ、アスカと母さんが事前協議していたら、僕の反応なんて手に取るようにわかるんだろうな。
きっと僕のセリフだってシナリオどおりだったはずだ。
この時の一生懸命に叫んでいた14歳の僕がもし目の前にいたら、よしよしと頭を撫でてあげたいと思う。
「惣流さん!碇君もっ!」
「先生。こういうことですの。私の主人はこのこの父親ですのよ。どれだけ嫉妬深いか」
人のことは言えない。
帰宅してきた父さんの上着から下着に至るまで、目を光らせ鼻を利かせて浮気チェックをしているのは母さんだ。
その碇家の伝統はしっかりとアスカが引き継いでいる。
しかし、父さんに比べて僕の場合は非常に立場が悪い。
何故なら父さんは工場長という高い身分(らしい)にもかかわらず、社内でただ一人秘書は男性を使っているらしい。
それにひきかえ、僕の勤務先は女子高だ。
当然、職場である教室は若い女の子の匂いでいっぱい。
それは実に芳しく………もとい、実に強烈で僕の背広とかにも仄かな匂いがする。
で、アスカは吼える。
状況はわかっているはずなのに。
閑話休題。
うちのこういうことをいちいち書いていては、いつまでたってもこの二人の先生は結ばれやしない。
結論から言うと、伊吹先生は青葉マヤになることはなかったんだ。
伊吹先生は何と素早いことに、その年の12月に結婚式を挙げてしまった。
相手は当然青葉先生。
どういうことかというと…。
翌年の4月に第参中学に転任していった青葉先生は、そこでも青葉という姓を使い続けた。
芸名って感じだね。
一人娘のマヤさんのために、青葉家の次男であった先生は自分の姓を捨てたんだ。
伊吹先生が結婚を躊躇っていたのは、仕事のこともあったが家名を継ぐ宿命を背負っていたこともあったらしい。
公的には伊吹シゲルという名前になった先生は、幸せこの上ない表情だった。
もちろん、新婦の伊吹マヤ先生もね。
あの日、中学校の応接室で二人の先生を煙に巻いた挙句、母さんは正式に青葉先生にその場で告白させてしまったんだ。
あなたはこの碇家の男どものように度量が小さいのかと。
好きな人に好きな仕事を続けさせてもあげられないのかと。
硬派の青葉先生は情けない碇家の男性とは違うぞとばかりに、
俺と結婚しても是非先生を続けてくださいと、いきなり告白とプロポーズをしたんだ。
で、伊吹先生は婿養子になるがいいのかと素早くレシーブ。
青葉先生は速攻で姓などどうでもいいことだとエースを奪った。
その後のことは知らない。
興味津々の僕とアスカは母さんに背中を押されて部屋を出て行ったからね。
さて、僕が本当のことを知ったのはその日の夜のことだった。
本当のことというのは、アスカが就職しない理由。
そして、母さんが仕事を辞めた理由。
それを聞いて、僕は彼女たちの愛の深さに正直言って少し怖くなった。
いや、本当は喜ぶべきことなのかもしれない。
簡単に言うと、彼女たちは不器用なので一つのことにしか夢中になれないそうだ。
だから、仕事ではなく愛するものを選んだのだと言う。
まず母さんは就職したものの、毎日会えない父さんのことが気になって気になって仕方がない。
このままだと責任を持って仕事ができないことを悟ったらしい。
そして退職して同棲。
アスカも同じらしい。
アメリカに戻ったときに僕のことで腑抜け同然になってしまったんだって。
毎日泣き暮らして、友達も作らずに。
自分でもそんなことになるとは思いもしなかったらしい。
彼女の計画ではずっと僕と文通を続け、そして大学を出て一流会社に入り、僕と国際結婚をして共稼ぎでバリバリ働くはずだったらしい。
それが、大学どころか通わねばならない学校でさえ欠席がちになってしまった。
で、その娘の姿を見たキョウコさんが決断したらしい。
中学生からアスカを日本で暮らさせると。
当然、ラングレーさんは猛反対。物凄い夫婦喧嘩になったんだって。
だけど、自分を例に挙げるキョウコさんに遂に折れたそうだ。
まさか13歳で娘を嫁に出すとは思いもしなかったと。
因みにキョウコさんの例というのは、もちろんラングレーさんとの結婚のことだ。
その時、ラングレーさんはメジャーに昇格したばかりだったらしい。
日本から留学してきていたキョウコさんと電撃結婚したそうだ。
キョウコさんとラングレーさんはまさに一目惚れ同士で、そうなってしまうとキョウコさんは勉強どころでなくなってしまったらしい。
大学そっちのけでラングレーさんの試合を追いかけ、ついに退寮、そして自主退学となった。
そのことを後悔など一つもしていない彼女は、娘にあんな苦しみを10年以上もさせる気かと訴えたんだって。
すぐに僕のことなど忘れるに違いないと甘く見ていたラングレーさんは、自分の妻のことを思い出しそして仕方なしに承諾した。
娘の幸福が一番だと。
要は、碇家と惣流家の女性は物凄い才能を持っているにもかかわらず、その不器用な性格で何か一つしか貫くことができないわけで。
母さんとキョウコさんは仕事や夢よりも愛情を選んだ。
そして、アスカも同じ道を選んだんだ。
これはその彼女たちの愛情の対象である男にとってはかなりのプレッシャーになる。
その愛情に応えないとね。
この事を母さんの口から聞き、その後でアスカからもきっちり念押しされたんだ。
「逃がさないわよ」
てね。まあ、逃げる気なんてさらさらないけどね。
ただこんな論理は伊吹先生には理解できないと思う。青葉先生にだってそうだ。
これがわかるってことは、母さんの息子だって事なのかもしれない。血で理解するって感じかも。
何はともあれ、碇シンジは14歳にしてアスカを妻にするばかりか、専業主婦として養っていかねばならないという宿命を背負ったのだ。
「重い?背負うのイヤ?」
「とんでもない」
パソコンチェアーの背もたれにかじりつく妻の囁きに、僕は短く応える。
この重みだけは世界中の誰にも背負わしたくない。
僕だけの特権だ。
「で、シンジ。今回、近鉄は?」
「成績が悪いから、触れない」
「くわっ!いい加減なっ!まあ、仕方がないか」
「だろ?」
「あっ!でもでも、次は1975年じゃないのさ!」
「そうだよ、ついに1975年がやって来るんだよ」
「よしっ!アンタ、気合入れて書きなさいよ!」
「あそこの場面も?」
僕は悪戯っぽく尋ねてみた。
その結果は、恒例のパームレストによる後頭部の一撃だった。
1975年の春には、僕たちは中学3年生になる。
「幸せは球音とともに」
1974編 下
おわり
<あとがき>
う〜ん、近鉄のネタはついに予告だけ。
今回は殆どが応接室の中だけです。いや、予算がなかったからセットを組めなかったわけではありませんよ。
次回は1975年の話。このお話は近鉄がらみになってしまいますね。
さて、恒例の注釈コーナーです。今回は少ない。
モロゾフのプリン………神戸の洋菓子店『モロゾフ』のカスタードプリンなのですが、関西人は『モロゾフのプリン』という名前で強烈なビジュアルイメージを持っています。高さ10cm、直径6cmくらいのガラスコップの中にカラメルを底にしてカスタードプリンが入ってます。これをお皿に移して食べるのは、超お金持ちか関西以外の人でしょう。スプーンを使ってカップのまま食べ、食べ終われば綺麗に洗って、コップとして使います。中流以下の家庭には食器棚に一つは転がっているものでした。あのガラスコップは重宝しましたよ。私はプラモデルの筆洗いとかにも使いましたし、震災のときにもしぶとく割れずに残りましたねぇ。
ルート66………アメリカ合衆国で一番有名な道路。シカゴからロスまで。歌やドラマのタイトルにもありますね。ただし1985年にその役割は別の道路に委譲し、オリジナルのルート66は地図からは姿を消したそうです。
神田川………南こうせつとかぐや姫の大ヒット曲。これを聞くと東京の大学に進学すると、必ず同棲しないといけないのかという錯覚に囚われます。
同棲時代………これも当時大ヒットした漫画(原作:上村一夫)です。今日子と次郎のせつない物語です。ん?今日子?うっ、漢字で書くと岸田今日子の方を連想してしまう。
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