全国に何人かはいる筈の近鉄ファン兼LASの人に捧ぐ。
 
 そして、執筆を応援していただいている皆様にも。

来年になったら近鉄ファンという存在そのものが消滅……。

せめてバファローズという名とペットマークだけは遺してほしいもの。


 

 

 

 

幸せは球音とともに

ー 1975編 

〜 序 〜


 

2004.6.16        ジュン

描:神有月葵

 
 


 

 

 2004年6月13日。早朝。

 碇家の4人は唖然となった。

 まず気づいたのは、レイだった。
 日曜日の午前6時に目を覚ましているのは我が家では彼女だけだ。
 そんなに早く起きて何をしているのかは誰も知らない。
 ただ、7時過ぎにはシャワーを浴びているところや微かに聴こえるCDの音から推察するに、
 どうも日曜日の早朝はレイの練習の時間らしい。

 で、そのレイが凄い勢いで僕たちの寝室の扉を開けた。
 ノックもなしに。
 よかった。
 僕が咄嗟に思ったのはただそれだけ。
 だって……、ね、わかるだろ?
 うちのマンションは防音とかはいいんだけどそんなに広くないんだから。
 当然ベッドはセミダブルなんだし。

「大変っ!」

 ただそれだけ叫んで、レイは走り去っていった。
 扉を開けたままで。

「ん…誰?今の?レイ?」

「うん、レイだった」

「で、何?」

「大変、なんだって」

「何が?」

「わからないよ」

 耳を澄ますと豪快な音が聴こえる。
 「起きなさいよ、馬鹿兄貴!」って声とばすんばすんという何かを打ちつけてる音。
 ああ、あれは枕で殴られてるんだな。
 起きようにも起きられないぞ、あれだけ連打されてると。

「まあ、あのレイがあんなにアクティブになってるんだ。余程のことだろうね」

 余程のことだった。

 7時のニュースを並んで見ていた僕たちは、その報道に声を失った。
 まさに唖然。
 事前にラジオで知っていたレイでさえ、映像付きで見て呆然としてしまったんだからね。

 近鉄バファローズがオリックスブルーウェーブと合併。

 そう、売却じゃなくて合併なんだ。
 ふと思ったのは売却の方がまだよかったということ。
 選手はどうなるんだ?あの岡本太郎デザインのペットマークは?
 これじゃ、近鉄という名前が消えるんじゃなくて、チームそのものが消えてしまうじゃないか。
 アスカも僕と同じ気持ちみたいだ。
 言葉もなく別のニュースに変わってしまったTVモニターを見つめている。
 そんな僕たちの中で真っ先に回路が繋がったのはレイだった。
 さすがに事前に知っていただけに復活も早く、そして前向きだった。

「馬鹿兄貴!」

「な、何や」

「ドーム、行くわよ!」

「え…」

「何ぼけっとしているのよ。こんな時に応援行かなくてファンって言える?
 私たちより選手の方がショックなんじゃないの?
 ほら、リツコさんにさっさと連絡する!」

「え、で、でも」

「デモも糸瓜もないの。しないんなら私が連絡するわよ」

「ま、待てよ。3時まで話しとったから、まだ寝てる…」

「3時!シンイチ、アンタ、それ電話で?!」

 アスカが復活した。

「で、電話だよ。チャットじゃ、その、やっぱり、直接声が聴きたいし…」

「馬鹿!何使ったの?うちの電話?携帯?こっちが掛けたの?向こうから?どっち?」

「えっと…確か、昨日は向こうからで家の電話やったと…」

 ばしぃいいいんっ!

 どうして、カーペットを叩いてそんなにいい音がするの?

「こらっ!あちら様に迷惑でしょうが。昨日って事は4〜5時間はしてたんでしょう!
 どれだけ電話代がかかると思うのよ!私、顔向けできないじゃない」

「そ、そりゃあ、6時間はしとったけど…」

「6時間!」

 綺麗に3人でユニゾンした。
 レイも息がぴったりだ。

「ま、待てよ。あいつんとこ、うちの番号を固定契約してるからかなり安くつくんやってば」

「問答無用!さあリッちゃんとこにすぐ電話する!それからリッちゃんの家の人に代わってもらいなさい」

 リッちゃん……。
 ああ、そういう仲なんだ。
 でも、僕が彼女のことをリッちゃんなんて呼んだらアスカに殺されるだろうな。
 でもまあ、アスカはさすがに主婦だ。
 こういうところで復活できるんだから。

 その後、シンイチがリツコさんに電話し、俄然目が覚めた彼女がレイに同調して、
 本日は近鉄激励野球観戦デーと決まったようだ。
 どうやら今日は「世界の中心で……」を二人で観に行くつもりだったらしい。シンイチは。
 あれは来週もやってるから、チケットも無駄にはならないだろ?
 で、アスカがリツコさんのお母さんのナオコさんに電話代のことで詫びを入れた。
 ありゃあ、あとでうちの電話代もチェックされるぞ。
 我が息子の事ながら、今回の件については自分で何とかしてもらおう。
 近鉄ショックも手伝って厭世的な僕はそう決めた。
 アスカ相手にがんばれるわけもないけどね。ま、とにかくがんばれや、my son。

 いつもよりかなり早く目覚めたけど、こんな衝撃的なニュースを知ってしまって、
 もう一度おやすみなさいなんてできるわけが無い。
 子供たちが早めに出かけてしまったからは家の中は静まり返ってしまった。
 どうも我が家は男性陣の復活は簡単にはいかないようで。
 シンイチも半ば呆然とレイとリツコさんに引っ張られていってしまった。
 まあ、あれで試合の応援をしているうちに元気が出てくるだろう。
 ボロ負けしてショックが倍増しなければいいが。
 そうだ。レイの言うように、ファンよりも選手の方がショックだろうな。
 会社がいきなり他の会社と合併するようなもんだ。
 いやそれだけじゃない。定員が決まってるんだから、当然リストラされる選手だって一杯出てくるに違いない。
 もっと大阪ドームに行けばよかったかな?
 年間予約シートも買えばよかったかもしれない。
 でも我が家は観戦する場所がばらばらだしなぁ。
 僕とアスカは一塁側内野自由席。
 ライトスタンドの今風の応援スタイルは苦手だ。
 もちろん子供たちはライトスタンドで全力で応援している。
 僕はコーヒーカップに口をつけた。
 啜ろうとしたけど、もう中身は無い。
 その時点でやっと気付く。
 アスカが淹れてくれたのも意識してなかったことに。
 ああダメだ。本当にもう。

 ぴんぽんっ!

 断固とした感じでインターホンが鳴る。
 誰だろ?
 時計を見上げると、もうすぐ12時だ。

「ほら、シンジ。ぼけっとしてないで玄関開けてよ。もうすぐ上がってくるからね」

「誰が?」

 インターホンの受話器を置いたアスカがこっちも見ずに言い残し台所に戻る。
 僕は首を捻りながらソファーから立ち上がった。
 いったい誰が来たんだ?

 ぴんぽんっ!

 今度は玄関の方のインターホンだ。
 僕はふらふらとさまようように玄関に向かい、扉を開けた。
 向こう側には胡麻塩頭のトウジの笑顔があった。

「センセ、こりゃまた思い切りがっくりきとんのぉ」

 いきなりこれだ。

「なんだ、トウジか」

「わしだけやないで。今日は嫁はんも一緒や」

「こんにちは、碇君」

 う〜ん、40を越えて碇君は…。
 まあ、ずっと碇君だから仕方ないけどね。
 4人も子供を産んでいるのに、すらっとした体型を維持しているのは驚異的だと思う。
 両手にスーパーの袋を持った洞木さん…じゃない鈴原さんが、
 僕とトウジを押しのけるようにして玄関から廊下に入ってくる。

「おじゃましま〜す。アスカは台所?」

「ヒカリ、いらっしゃいっ!」

 台所からアスカの大音量。
 トウジも手にスーパーの袋を持っていた。

「ほな、これちょっと持って行ってくるわ」

 僕は予報もなしに来襲した鈴原夫妻の後姿を呆気に取られて見送った。

 

「今日は休み?」

「んにゃ。非番や。夜勤明け」

「じゃ、眠ってなくていいの?」

「アホか。センセのことやからこの世の終わりみたいになっとるの目に見えるからな。
 ほいで嫁はんと連れもって慰めに来てやったってわけや」

 あ、なるほど。

「何言ってんのよ。あなただって阪急の身売りが発表された時は、
 家の中をぶつぶつ言いながら歩き回ってたじゃない。
 コーヒーに醤油入れたり、たこ焼きを手づかみで食べたり…」

「そ、そんな昔のこと持ち出すなや」

「それって10・19の時だよね」

「せや、あん時はそっちは近鉄の試合で夢中やったからなぁ。
 わしのことなんか何も考えてくれへんかったやろ?
 せやけど、わしは友情に厚い男やからなぁ。センセのことを見捨ててはおけんさかいに」

「あら、あの時碇君たちはちゃんとお見舞いの電話して来てくれたわよ。
 でもあなたったら生返事で。覚えてないんだ」

 トウジは真っ赤になった。
 そうだった。ニュースを聞いてすぐにトウジの家に電話したっけ。
 トウジは「ふんふん」って生返事しかしてくれなかったけどね。
 そうか、全然覚えてなかったんだ。

「し、しゃあないやないか。あんときはこの世の終わりかと思ったんやからな」

 なるほど、自分の体験に基づいているわけだ。
 どっちにしてもありがたいものだ。友情ってヤツは。

「シンジ、アンタ、鈴原のこと笑ってられないわよ」

「え、どうして?」

「相田からの電話覚えてないでしょ」

「は?ケンスケから?本当?そんな電話あったの?」

 わっ!全然覚えてない。
 こりゃトウジのことは笑えないよ。
 そう恐縮していると、アスカがニンマリと笑った。

「嘘よ。相田は今北極かアイスランドかグリーンランドか、どっか北の方の寒ぅいとこに行ってるはずよ。
 そんなに早く電話なんかかかってくるわけないでしょ」

 僕は怒った。
 傷心の男で遊ばないで欲しい。
 まあ、からかってくれたおかげで少し元気が出てくれたけどね。

 その後は碇家大ショック慰労宴会が始まった。
 アスカと鈴原さんの料理の腕は素晴らしい。
 洋物のアスカに日本料理の鈴原さん。
 1時間くらいでテーブルの上は料理で一杯になった。

「でや、あん時のわしの気持ちようわかったやろ、ん?」

「うるさいなぁ。トウジの方は身売りだろ。身売り。
 近鉄は球団自体消滅してしまうんだぞ。合併なんだからな」

「まあ、まだわからないじゃない、どうなるか。ね、アスカ」

 鈴原さんはアスカに話を振った。
 ところがアスカはもう出来上がっていた。
 さっきから日本酒をぐびぐび一人で飲んでたような気がする。

「何よ。そんな呑気な顔してさ。
 うちは合併されちゃうのよ。
 ふんだ。しかも相手が青波だってさぁ。
 考えてみたら、ヒカリんとこにうちの家族がまるごと呑みこまれるってことじゃない」

「はい?」

「シンジぃ、アンタもう働かなくてもいいわよぉ。
 鈴原が面倒見てくれるんだから。合併吸収なんだからさ」

「おい、センセ。お前んとこのって酔っ払うとこうなんのか?」

「はは、見たことないよね。悪酔いしたときのアスカを」

「悪酔いって何よ!私は酔ってなんかいませんよぉ〜だ」

 明らかに酔ってる。
 何て早いんだ。アスカは僕より強いのに。
 きっとアスカもショックだったんだな。顔に出さなかっただけで。
 僕が落ち込んでたから黙ってたんだ。

「くそぉ!西宮球場はなくなっちゃうし、駅だって新しくなっちゃったし、
 ブレーブスだってあの時の面影なんか全然ないし!
 近鉄だってなくなっちゃうんだぁっ!」

 アスカの目からボロボロと涙がこぼれてきた。

「酷いわよぉ。どうしてこんなことになっちゃうの?なんでよぉ〜」

 号泣。
 トウジたちは呆然としている。
 そりゃあそうだろうと思う。
 アスカがこんな姿を見せることなんかなかったもん。
 彼女はプライドの塊だから。
 泣き顔でも結婚式とかそういうときに少しだけ見せただけなのに。
 この惨状を見てびっくりするのは当然かもしれない。

「ごめんよ。ちょっと宥めてくるから」

 僕はそう言い残してアスカをだっこした。
 お姫さま抱きってヤツ。
 そうしないと運べないからね。
 とりあえず寝室に運んで、その後はいつものように。
 数分たってアスカがひくひくは言いながらも落ち着いてくれた。
 そして恥ずかしそうに僕の後にくっついてリビングに登場。
 でもいきなりの鈴原さんの攻撃にアスカは真っ赤になってしまった。
 あ、当然僕も。
 だって、ずばっとこんなことを言ってきたんだから。

「ねぇねぇ、いつもあんなことしてるの?貴方たち。
 もう私たち40越えてるのよ。いつまで新婚カップルしてるのよ。
 うちなんかあんなに優しくよしよしなんかしてくれないわよ。
 よくもまぁ次の子供ができないものね」

 隣でトウジはニヤニヤ笑ってる。
 別にいやらしいことは何もしていないつもりなんだけど。
 鈴原さんの目にはそう見えたんだろうか。
 よく見ると鈴原さんの顔はまっかっか。
 興奮してって感じじゃなく、目が据わっているから呑みすぎかもしれない。
 あとでアスカが聞いてみると、寝室でアスカが宥められてるのを見た後トウジに言ったらしい。
 羨ましいと。
 返事はただ一言。

「アホか」

 鈴原さんが自棄飲みするのも仕方がない。
 まあ、硬派のトウジにできっこないかもしれないけどね。

 さて、碇家大ショック慰労宴会は出だしこそこんな感じだったけど、
 1時間も経つとすっかり落ち着いた。
 で、どうなったかというと、近鉄の試合を見ながらトウジとああだこうだとやりあったわけ。
 まず、二画面にしてブルーウェーブの試合も見せろとトウジが主張。
 CSのチューナーは1台だから持ち主である僕たちは即座に却下。
 トウジはうちに吸収されるくせに生意気やと禁句をズバリ。
 アスカが止める間もなくトウジにデコピン。
 鈴原さんが暴力反対とご主人に味方する。
 もちろん僕はアスカの側に立ち、ノリや岩隈のようなスターがそっちにいるのかと逆禁句。
 碇家のリビングは一気に70年代の米ソのごとき冷たい空気が漂った。
 そして、勝負で決着をつけることになったんだ。
 クローゼットからアレを引っ張り出し、リビングの床に置く。

「ええな、消える魔球は1回に1球やぞ」

「はん!シンジ、ジャンケン負けるんじゃないわよ。近鉄は後攻とるんだから」

「うっさいなぁ、外野はだまっとれや」

「何が外野よっ!先発はパウエル!豪華リレーで青波なんて完封よ!」

「アスカ、私は野球盤なら上手いの忘れた?1番村松!」

「お、おい。まだジャンケンしてへんぞ」

 さすがはアスカ。
 ジャンケンなしで見事に勢いで後攻を奪い取った。
 かくして40を過ぎた中年男女が小さな野球盤に頭を寄せ合って勝負と相成ったんだ。
 結果は乱打戦の上、延長戦に突入。
 9回裏から登板の抑えの切り札山口に、トウジは勝手に下の名前を変えた。

「へっ!山口高志の剛速球を打てるかいっ!」

「ああ!汚いわねっ!過去の選手を使う?こうなったら、シンジ!」

 打つのは僕の順番だった。
 よし、マニエルでもブライアントでもオグリビーでもローズでもいいぞ!

「ピンチヒッター、ラングレー。背番号4!」

「げっ!」

「アンタ、三振したらコロスわよ。アウトになっても許さないからね。
 パパに恥じかかさないでよ」

「そ、そんな、プレッシャーかけないでよ」

「うっさい!打ったらいいのよ、打ったら」

「行くで、へなちょこ助っ人!」

 トウジはせこい。
 山口高志は剛速球投手なのに、変幻自在の変化球を駆使する。
 当然、応援団(アスカ)からはブーイング。
 カウントは2−2。
 まさかここで消える魔球?まだ早いだろ。いやもしかしたら。
 そんな葛藤をみすかましたのか、トウジは速球を放った。
 慌てて打ったのが逆によかった。
 三塁の頭を抜けて2Bの穴に入る。

「やった!」

「はん!さすがはパパね!山口なんかちょろいもんよ!」

 あの…打ったのは僕なんですけど。
 僕は褒めてくれないんだね。ぐすん。
 続いて出てきたのは、ブライアント。
 だけど、アスカは気負いすぎて三球三振。
 僕はピンチヒッターに新井を指名。
 職人技が大好きだったんだ。三振も少ないしね。
 でも、ここはあっさりと三振。ごめんなさい、新井さん。
 2アウト二塁。
 ここでアスカはピンチヒッターに取って置きのバッターを出した。

「ピンチヒッター、鈴木貴久。背番号44」

「うっ!鈴木で来たか。せやけど打たさへんで。悪いけどな」

「同情無用よ。さあ来なさいよ!」

 トウジはボールを大きめの球に替えた。
 これならスピードは出ないけど、変化球が冴える。
 それに消える魔球も使いやすい。

「行くで!」

「来なさいよ!」

 バットにボールが当たらない。
 アスカも何とかボールを選んで、カウントは2−2。
 絶好の消える魔球のタイミングだ。
 そして、案の定トウジはレバーを引いた。
 アスカはここしかないというタイミングで魔球の穴に落ち際の球を打った。
 そのボールはあっという間にライトのフェンスを越える。
 みんな声をなくしてしまった。
 だって、あの重い球で消える魔球のパターンで流してのホームランだなんて初めてだったから。
 この野球盤でもう30年遊んでいるけど、こんなの見たことない。

「ずっこいぞ」

 トウジがぼそっと口を開いた。

「天国から助っ人連れてきおってからに。そんなん勝たれへんやないか」

 とにかく試合は15対13で近鉄がサヨナラ勝ち。
 本当に天国の鈴木貴久さんが助けてくれたのかも。
 そう思ってしまったのは、多分僕だけじゃないと思う。
 そして、こんな野球盤の試合じゃなく、本物の試合も彼の想いが通じたのかもしれない。
 二軍コーチの彼が鍛えた大西が第1打席でホームラン。
 その後も、一度は勝ち越しの二塁打を打った。
 得点は日ハムが粘って、7−7のまま9回の裏。
 先頭の北川がフォアボールを選んで代走は森谷。

「何だかいつもより森谷の表情が鋭いわね」

「仕方あらへんわ。首がかかってるんやからな。これからの試合は」

「それだけじゃないと思うよ。今日の試合は負けたくないんだ、きっと」

 森谷は2球目に見事なスタートで悠々セーフ。

「まるで藤瀬みたいやなぁ。
 走るってわかっとって盗塁成功させるんやから」

 まったくトウジの言うとおりだ。
 高校生のときに西宮球場で始めて藤瀬を見たときはびっくりした。
 凄い盗塁は福本で見慣れている。
 でも、藤瀬は代走で出てきて盗塁を決めるんだ。
 代走で出てきて盗塁を成功させるって凄いプレッシャーだと思う。
 森谷も藤瀬みたいになってくれたらなぁ。
 一芸だけで優れている選手を一軍で使うのが近鉄の面白いところなんだけど。
 来年はどうなるんだろ…。
 そして、彼は続いて魅せてくれた。
 左中間を抜けようというバーンズのライナーをSHINJOが好捕したとき、
 判断よく二塁に戻っていて三塁へタッチアップしたんだ。
 いつもなら打球の勢いでハーフウェーまで飛び出してるのに。
 そしてバッターボックスに大西。
 固唾を呑んで見ていると、彼は抑えのエース横山の速球をライトへ引っ叩いた。
 行け!飛べ!森谷の脚なら少々浅くても外野フライでサヨナラだ。

 

 シンイチとレイが帰ってきたのは8時前だった。
 レイは「新撰組っ!」と叫びテレビの前に。
 そんな妹の背中を見て図体の大きな兄は苦笑した。

「まったくもう、あの華奢な身体のどこにあんなパワーがあるんだ?」

「また赤いタオル持って踊り狂ってたの?」

「ああ、それはもう…」

 レイには仇名がある。
 ライトスタンドの応援団仲間から付けられた仇名が。
 その名は「ライトスタンドの舞姫」。
 大声を出して応援はしないけど、赤いタオルでの応援はものすごい熱気だ。
 毎週早朝練習しているだけのことはある。
 この話はいずれ語ることがあると思うけど。

「おい、レイ。父さんたちに見せるものがあるんやないか?」

「何?お土産?」

 アスカが浅ましくも表情を崩す。
 兄に言われてレイが「あ…」と立ち上がってポーチを開ける。
 そして…。

「はい、お土産」

 レイの掌に乗っかっているのは、真っ白なボール。

「ボール?」

「うん。大西さんに貰ったの」

「へぇ、そうなんだ」

 軽く頷いて、それから僕とアスカはびっくりして顔を見合わせた。
 大西さんって、あの大西さん?
 今日のヒーローの大西選手?

「最後にボールを投げ込むやろ。客席に。あれや」

「兄貴が取らせてくれたの」

「何言ってんねん。あれはお前の真正面に飛んできたんじゃないか。
 あのガキがお前を押しのけようとしたから手で押しのけただけや」

 押しのけたなんて言っても、シンイチは僕よりも背が高い。
 父方も母方もお祖父さんの背は190近くある。
 隔世遺伝ってヤツかもしれない。
 しかもうちの父さんに似ずに、アスカの父さんに似てがっしり系だ。
 そのシンイチが“押しのけた”んだから、かなりの迫力があったと思う。
 少しだけその“ガキ”とやらに同情もする。
 ボールが飛んできたら一生懸命に取りに行くのが人情ってもんだ。
 その子に何か言ったのかってシンイチに訊くと「そんなん知らん」だそうだ。
 即座にアスカの拳がシンイチの頭上に。
 正座をさせて夫婦で説教だ。
 その間にレイはTVに夢中。
 記念のサインボールはTVの上にちょこんと乗っかっている。
 しばらく餅つき説教(レイ命名:僕が捏ねてアスカが木槌でごつん、だそうだ)をしていたが、レイの背中がぼそぼそと喋った。

「大丈夫だよ。その子にごめんねって言ったら、顔真っ赤にして、いいです、こっちこそごめんなさいって言ってたわよ」

「ほら見ろ。な。ちゃんとレイがフォローしたんやし、あとで二人に責められたんやからもう勘弁してぇな」

「二人ってレイとリッちゃん?」

「ああ、ドームから梅田までずっと怒られてたんやで」

 何となく目に浮かぶ。
 地下鉄で二人に挟まれて小さくなってるシンイチの姿が。
 ま、このくらいにしてやるか。
 僕はアスカと微笑みあった。

 この日。
 近鉄が完全になくなってしまうかもしれないことがわかった日。
 それでも、それなりに幸せな僕たちだった。
 いい友達は飛んできてくれたし、子供たちはいい試合を楽しむことができた。

 でも、よく考えてみれば、これもそれも近鉄バファローズが現在まで存在してくれていたからこそかもしれない。
 あの時、西本監督が強い近鉄を作り上げてくれなかったら…。
 とっくの昔に。阪急や南海より先に球団を売却していたはずだ。
 その強い近鉄の芽が綻びかけたのが、1975年だった。

 

 

 

 話はその前年、1974年の12月に遡る。
 12月13日、早朝。13日の金曜日だった。
 牛乳を飲みながら新聞をめくっていた僕は…。

 ぷうぅっ!

「ああっ!汚いわねぇ、何すんのよ」

 アスカが拭きなさいと台布巾を投げてくる。
 そして、自分の牛乳を口に含んで僕が見ていた新聞を横から覗き込む。

 ぷうっぅっ〜!

「うわぁっ!僕に吹くなっ」

「な、何、これっ!」

 そこには近鉄の主砲にして四番打者。土井正博がトレードされることが載っていたんだ。

 

 

 

「幸せは球音とともに」

1975編 序 

おわり 
 


 

<あとがき>
 なんてことだ。
 まだ売却の方がよかった。合併なんて!
 どうせ戦力が偏るという名目で、主力級が他球団にどんどん譲渡されるに決まってる。
 ハイエナのようにむしりとっていくんだろうな…。
 で、慌てて、これを書きました。記憶の鮮明なうちに書いたほうがいいと思って。
 ただ、大西選手の投げたボールを受け止めることのできた観客さん。ごめんなさい。レイに取らせてしまいました。
 それからそのボールにサインが書かれているのかどうかいくら調べてもわかりませんでした。
 判明しましたら、そのあたりだけ加筆修正いたします。

 識者にお尋ねしたところ、確実ではありませんがサインボールだろうと。一箇所だけ、白球をサインボールに変えました。(6/17)

 さて、恒例の注釈コーナーです。

微かに聴こえるCD………当然、大阪近鉄バファローズ選手別応援歌ライトスタンドスペシャル、です。これもなくなるんですね。ぐすん。

よかった………子供に現場を押さえられるのはまずいですよね。かと言って寝室に鍵をつけるわけにも。よかったね、お二人さん。

10・19………1988年10月19日のこと。近鉄の一番長い日とも呼ばれてます。この日に阪急も身売りも発表されたのですが、この一日のことはかなりのウェートで書くことになるでしょう。

山口高志………とんでもない剛速球投手。太く短くを地で行った人。

マニエルでもブライアントでもオグリビーでもローズでも………歴代の優良助っ人たちです。個人的にはここにジョーンズ、デービス、クラークもいれたいところです。

新井………新井宏昌。天下一の二番打者。現ダイエー打撃コーチ。まあもともとは南海に入団したのですから、いいんですけど。

鈴木貴久………北海道出身。電電北海道よりドラフト5位で入団。“北海の荒熊”という異名で1980年代後半から1990年代半ばまでのいてまえ打線を支えました。一軍通算成績 1501試合 4777打数 1226安打 192本塁打 打率.257。何よりもあの“10・19”の立役者の一人です。第一試合の怒涛の勝ち越しホームイン。あの姿を忘れることはできません。2004年5月17日、永眠。まだ40歳でした。(1974編中より)

森谷………森谷昭仁。背番号00。足の速さは球界屈指。打撃に問題がありレギュラーになれない。私としては藤瀬ができなかった代走のみで盗塁王になってほしいのですが。

藤瀬………藤瀬史朗。1976年ドラフト外入団。最初の3年は背番号76。続いて背番号40となり守備は(一応)外野。代走専門の選手として有名。通算117盗塁。'79年には29盗塁を記録しています。“江夏の21球”のときも代走で出て二盗に成功している。現在は年俸の交渉相手として選手の嫌われ役。

大西………大西宏明。入団2年目の期待の外野手。松坂世代です。彼に将来背番号2を背負って欲しかったのですが…。もう無理みたい。

 

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