全国に何人かはいる筈の近鉄ファン兼LASの人に捧ぐ。
 
 そして、執筆を応援していただいている皆様にも。

来年になったら近鉄ファンという存在そのものが消滅……。

せめてバファローズという名とペットマークだけは遺してほしいもの。


 

 

 

 

幸せは球音とともに

ー 1975編 

〜 上 〜


 

2004.7.14        ジュン

描:神有月葵

 
 


 1974年の12月13日、早朝。折りしも13日の金曜日だった。
 牛乳を飲みながら新聞をめくっていた僕は…。

 ぷうぅっ!

「ああっ!汚いわねぇ、何すんのよ」

 アスカが拭きなさいと台布巾を投げてくる。
 そして、自分の牛乳を口に含んで僕が見ていた新聞を横から覗き込む。

 ぷうっぅっ〜!

「うわぁっ!僕に吹くなっ」

「な、何、これっ!」

 そこには近鉄の主砲にして四番打者。土井正博がトレードされることが載っていたんだ。
 しかもトレードの交換相手は、ライオンズの柳田と芝池。
 こんなの絶対につりあわないよ。
 二人とも投手でそんなに凄いって感じじゃないもん。
 僕とアスカがあきれてしまったのは当然だと思う。
 何てことするんだと僕はぶつくさ言いながら洗面台に向かった。
 あ、何てことって言うのはトレードと僕の顔に吹かれた牛乳の両方だ。
 髪の毛にかかってなくてよかったよ。
 この当時には洗面台で髪の毛を洗うなんて気の利いた設備はなかったしね。
 石鹸の泡を顔に塗りたくってばしゃばしゃと顔を洗う。
 くんくんくん。
 まだ何か牛乳臭い…。

「シンジ、ちょっと離れてよ。すっごく牛乳臭いわよ」

「あ、何てこと言うんだよ。アスカが吹いたんじゃないか!」

「うっさいわね。臭いものは仕方がないでしょ!」

 二人ともご機嫌斜めだ。
 そりゃあ朝一番につりあわないトレードの記事を見たんだから、むかむかするのは当然だと思う。

「ああっ、臭い臭い。シンジはお子ちゃまだから、身体中からミルクの臭いが漂ってるのよ」

「いい加減にしないと怒るぞ」

「ふん!怒ってみなさいよ、ほらほらほら」

 で、僕は怒った。
 実はアスカと出逢ってから、本気で怒鳴ってしまったのはこれが最初だったんだ。

「うるさいっ!黙れっ!この馬鹿アスカっ!」

 叫んでしまってから、僕はとんでもないことをしたことを知ったんだ。
 何しろここは通学路。
 周りには同級生はまだしも集団登校中の小学生がわんさかいたんだ。
 その上、間の悪いことにその小学生の中に知り合いがいた。

「あっ!アスカお姉ちゃんが夫婦喧嘩してるっ!」

 しかもその知り合いはアスカ側だった。
 洞木さんの妹のノゾミちゃんだったんだ。
 あのアスカが彼女の存在を利用しないわけがない。

「ノゾミちゃんっ!聞いてよ。シンジったら私のことを大声で怒鳴るのよっ!」

 何故怒鳴ったかということは完全に無視してくれた。
 相手はさすがに小学生。
 表面上で物事を判断してくれる。
 実際に大声を出したのは僕だし、ご丁寧にアスカは嘘泣きまでしていた。

「うわぁ、いけないんだ。いっけないんだ。女の子を泣っかしたっ!」
 
 あの小学生特有のリズムをつけての糾弾。
 これで僕も小学生だったら、きっとお馴染みの「先生に言ってやろ」が続くんだろうなとその時僕は思った。
 そして、これも小学生特有の集団行動が始まった。

「わぁわわわわわっ!いっけないんだ、いっけないんだっ!」

 二人が三人、五人、十人…。
 この大合唱にはアスカでさえ圧倒されてしまった。
 
「あ、あのね、ノゾミちゃん…」

「わ、わわわわわっ!」

「ぼ、僕は…」

「ちっ!逃げるわよ、シンジ!」

「で、でも」

 解けるものなら誤解を解きたい。
 顔色真っ青の僕の手を引っ張ってアスカは駆け出した。
 その僕たちの背中に向かってさらに声は投げ掛けられる。

「わぁっ!駆け落ちやっ!駆け落ちカップルやっ!」

 一人の男の子が叫ぶと同時に、みんなが口々に叫ぶ。

「駆け落ちカップルっ!」

 僕たちはその声が聞えなくなるまで走り続けた。
 中学生の制服を着た連中は何事かと走りすぎる僕たちを見送る。
 何しろ全力疾走だったからね。

 噂が伝わるのは早いもので、3時間目の伊吹先生に早速僕は笑われてしまった。

「碇君、駆け落ちしたんですって?もう職員室では話題の的よ」

 笑いの的なんでしょ。
 僕は机に突っ伏してしまった。
 それはアスカも同様だったようで。
 恒例のお昼休みのお誘いの時はアスカの姿が見えた途端に、
 わがクラスからわっと歓声が上がった。
 慌てて僕は教室を飛び出してアスカの手を引いて廊下を走ったんだけど、
 目的地に到達するまでに、10人以上の生徒に「駆け落ちカップルや」とからかわれてしまった。
 そのたびにアスカが立ち止まって言い返そうとするから、もう大変だったんだ。
 ぷんぷん怒ってるアスカを強引に引っ張っていき、屋上行きの階段へ。
 すっかりお弁当の定位置になってるこの場所で並んで腰掛ける。
 何か宥める言葉を喋ろうと口を開きかけた時、アスカがぼそりと言った。

「あ〜あ、怒んなきゃよかった…」

「え…」

「牛乳噴射したの私なんだしさ。ど〜してシンジにがんがん当たっちゃったんだろ…?」

「えっと、多分あの日じゃないの?」

 きっと横目で睨まれる。
 うわっ、しまった。
 5秒、10秒……。
 真っ向から目を合わす訳にも行かず、かと言って目を逸らす訳にも行かず。
 アスカの方向へ斜め45度。微妙な角度で僕は階段の天井を見つめていた。
 あ、蜘蛛の巣が…。
 そして、アスカはがっくりと首を落とした。

「どうしてわかんのよ。ひょっとしてトイレの戸棚とか洗濯物とかチェックしてる?」

 ぶるぶるぶる!
 僕は急いで首を振る。
 してもいないことで怒られるのはかなわないもん。

「雰囲気…かな?よくわからないけど、痛いんでしょ?」

「痛いわよっ!すっごく痛いんだからっ。下っ腹がじくじくじくじく。ずきずきずきずき。
 ホントに不公平よねっ!ど〜して男には生理がないんだろっ!」

 アスカは箸箱を握りしめながら力説する。
 聞くからに思う。
 男に生理がなくてよかったと。
 でも、そんなことを思ったなんてアスカには絶対に知られてはいけない。
 火に油を注いだ上に、ダイナマイトを放り込むようなもんだ。
 ここは一言だけ。

「ごめんね」

 大きく溜息をつくアスカ。
 
「いいのよ、仕方ないもん。シンジにそう思ってもらえるだけで、気が治まるわ」

 罪悪感。
 こんなにすっきり僕の言葉を受け入れられると、物凄い罪悪感にとらわれてしまう。

「本当にごめんよ」

「うっ、何か二回目のは嘘っぽい」

 違うってば。
 1回目の方が心がこもってなかったんだよ!

「あ〜あ、土井がトレードかぁ。4番は誰が打つんだろ」
 
「ジョーンズじゃないの?やっぱり」

「そっかなぁ、ま、それっきゃないか。
 でもさぁ、今度のトレードといいドラフトといい、近鉄やる気あんのかなぁ?」

 アスカの疑問ももっともだ。
 11月のドラフトで近鉄は1番のくじを引いた。
 この時のドラフトはくじを引いてその順番に指名するスタイルだったんだ。
 で、当然近鉄は今回のドラフトの超目玉を指名するものと誰もが思った。
 松下電器の超高速右腕、山口高志だ。
 他の11球団は近鉄の運の良さを羨んだ。
 ところが…。
 近鉄が指名したのは同じ松下電器でも山口ではなかったんだ。
 彼の同僚の投手だった。
 ちなみに結果を先に言ってしまうと、その投手はまったく活躍できずに引退している。
 近鉄に7年在籍してわずか2勝。
 片や山口は2番くじの阪急に入団して50勝。
 活躍したのはわずか4年と太く短い選手生活だったけど、あの速球は本当に凄かった。
 そして、その裏舞台を最近になって知ったんだけど、
 その時近鉄は例によって経営難。
 契約金その他でとんでもない費用がかかる山口を回避したというのが真相らしい。
 
「それに他の入団したのも全然しらないのばっかじゃない」

「う、うん。そうだね」

「4番目は何て読むんだっけ?ふく…いし?」

「吹石(ふきいし)だよ。確か」

「名前も知らないのばかりだし、その上入団拒否が2人もいたじゃない。
 何だかお先真っ暗っ」

 アスカは近鉄に対する愚痴を連発しながらも、お弁当の準備は怠りない。
 この日のメインおかずは肉じゃが。
 昨日の残り物だけど充分美味しい。
 アスカも大分母さんの味に近づいてきたよね。
 と偉そうに思ってみる。

 

「どう、シンジ。今日の肉じゃがは?」

「ん?いつもと同じだけど?美味しいよ」

 今日は教職員の集まりがあったから、僕だけ晩御飯が遅い。
 新婚の時は僕の帰りを待っていてくれたけど、子供ができてからはアスカの食事は子供と一緒。
 寂しいかって?
 とんでもない。
 いつだって、アスカは僕の真ん前に陣取ってるからね。
 ああだこうだと今日の出来事を話したり、僕のその日の行動を逐一チェックしたり。
 この日もメインディッシュの肉じゃがの品評を求めてきた。
 とは言うものの、結婚した時には完全に母さんの味をコピーしてたんだから、何を今頃?って感じで。
 でも、美味しいのは間違いないから、僕の申告に嘘はない。
 すると。

「やったぁっ!」

 アスカとは違う方向から歓声が上がる。

「え?」

 背中を見せているレイが右手を突き上げている。
 アスカは娘と僕とを交互に眺めながらニコニコ。
 僕はお箸でおじゃがを突き刺し、少し持ち上げる。
 いい色で形も崩れずに仕上がってる。

「これ、レイ?」

「そう、レイ」

「へぇ…上手になったね、レイ」

 いいことはすぐ褒める。
 これは学校でも家庭でも同じことだ。
 ま、実はこれはアスカと付き合っていく上で学んだんだけどね。
 おっと、こいつは秘密。変に勘ぐられそうだから。

 ところが、いつもなら嬉しそうにすっ飛んでくるはずのレイが来ない。
 アリガトって感じで右手を肩の辺りでひらひらさせてるだけ。
 あれ?
 怪訝な顔の僕にアスカは笑いかけた。

「いくらお父さんっ子のレイでもダメよ。今は新選組の時間だから」

 なるほど。今日は日曜日。
 大河ドラマか。
 僕はレイの肩越しにモニターを覗き見た。
 画面では月代の青年と娘が話をしている。

「あれ?あれって吹石の娘?」

「うん、吹石一恵よ」

 僕たちも年を取るはずだ。
 彼女が生まれたのが1982年。
 その父親の吹石徳一選手のルーキーイヤーが1975年だった。
 大選手にはなれなかったけど、内野の控えとして絶大の信頼を受けていた。
 和歌山県出身らしく、浅黒く少しごつい顔をしている。
 まったく無名の新人選手の引退試合となったのが、その14年後。
 あの伝説の10・19と呼ばれる大試合。
 その試合で、彼は…吹石選手はプロ野球生活最後のホームランを打った。
 その年に生まれたのがレイだ。
 別に因縁というわけではないけど、どことなく不思議だ。
 


 さて、レイも吹石選手の娘さんも影も形も存在していない、1974年の年末。
 世間では長嶋茂雄引退の衝撃から少し治まって…あ、僕らの周りではね。
 トウジは山口高志入団に狂喜し、ケンスケは新人歌手の浅野ゆう子に入れあげていた。
 レコード大賞は「襟裳岬」なんだろうな、きっと。

 その時は来年の近鉄が新しい時代の第一歩をしるす事など予想もしてなかった。
 何しろ四番バッターをトレードに出して、大型新人をみすみす逃したんだから。

 1975年、近鉄バファローズパリーグ後期優勝。
 プレーオフで破れ、パリーグ制覇は逃す。

 だけど、近鉄優勝の日、僕とアスカはその現場に居合わせたんだ。

 

 

 

「幸せは球音とともに」

1975編 上 

おわり 
 


 

<あとがき>
 合併の問題は止めておきます。書き出すと長くなりますので。
 私にできることは祈ることのみ。バファローズという名と選手たちが残ってパリーグも存在してくれればそれでいいです。

 因みにこの都市の話でアスカとシンジが近鉄の初優勝の試合に居合わせますが、実は私はあの日西宮球場にいました。
 もちろん色気のある相手と一緒ではなく、親父さんと観に行きました。
 40余年の生涯で優勝決定試合を実際に見たのはこの一試合だけです。

 さて、恒例の注釈コーナーです。

柳田と芝池………柳田豊はその後近鉄投手陣の重要なメンバーとなります。ひょうひょうとした風貌でアンダーハンド。投げ終えた彼がマウンド上でぴょんと跳ねると調子のいいしるしでしたね。芝池博明は元近鉄ですから出戻りでした。

ジョーンズ………南海ホークスからトレードで来た外人選手。1974年に外人初の本塁打王に。けっこう南海さんは近鉄にいい選手を融通してくれていました。

近鉄のドラフト一位………Fさんです。可哀相で実名は書けません。これで少しでも活躍していればよかったんですけどね。

月代の青年と娘………「新撰組!」の沖田総司と八木ひでさんですね。吹石さんの娘さんはいい味出してます。

吹石一恵………現代ではアイドルという通称では言いにくいんですよねぇ。女優と言えばいいのでしょうか。

吹石徳一………一恵の父。梨田監督だけが10・19を引退試合にしたと思われてますが、彼も同じです。しかもその試合に彼はホームランを打っているのです。14年間で52本しか打っていない彼が。

伝説の10・19………前回も書きましたが、1988年10月19日のこと。近鉄の一番長い日とも呼ばれてます。この試合で初めて近鉄バファローズという名の球団が存在することを認識した野球ファンも多かったと思います。

長嶋茂雄引退………1974年10月14日、後楽園球場で行われたドラゴンズとのダブルヘッダーが引退試合。最終打席はショートゴロ。セレモニーで「わが巨人軍は永久に不滅です」という言葉を残した。野球少年には凄い事件でしたね。

浅野ゆう子………トレンディドラマの女王…になるなんて、このデビュー当時には想像もできません。「てるてる家族」の照子さん、大好きでした。実は全話録画してたりして…。いや、別に浅野ゆう子が好きなのではなく、あの時代の関西店しかも隣町の池田を舞台にしてるんですから、のめりこむのは当然です。

襟裳岬………森進一の大ヒット曲です。1974年のレコード大賞を受賞しました。

 

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