幸せは球音とともに

年末年始特別

ー 1975〜76 

〜 末 〜


 

2005.01.02        ジュン

描:神有月葵

 
 




「シンジっ!こっち持ってよぉ!」

「ご、ごめん!無理!」

「そ、そんなこと言わないでよ!落としちゃうっ!」

 アスカが来てから年末の大掃除はいつも大変だった。
 いや、彼女の名誉のために言っておくと別にアスカがどんくさいわけではない。
 口と手が一緒に動いているからなんだ。
 今だって庭で干していた客用の布団を2階へ運ぶのに大騒ぎ。
 毛布を持って上がっていた僕が帰ってくるのを待っていればいいのに、
 ふかふかになった敷布団を抱えて階段を二三段上がったところで立ち往生してるんだ。
 僕だっていいところを見せようとキャパオーバーなんだ。
 しかもまだ階段の途中。
 足元でアスカがわあわあ騒いでいるのはよくわかっているけどどうにもできない。

「ちょっと我慢しててよ。すぐ戻るから」

「無理よ、無理!絶対に無理!最愛の彼女が困ってるのにアンタは自分だけ助かろうとしてるのねっ!」

「すぐだってば!ほんの5秒」

 言ってから後悔した。
 アスカの性格を忘れていたよ。
 だって瞬時にカウントダウンが始まっちゃうんだもん。

「5,4,3…」

 間に合うわけない。
 階段の上の廊下に毛布類を置いた瞬間に「ゼロ」って低い声が聞こえた。
 慌てて下を見下ろすとアスカの恨めしげな目。
 どたばたと数段降りてアスカの持っていた布団を引っ張る。
 まあ、この時点で手を離さないのがアスカのいいところだ。
 あくまでこの時点では、ね。
 僕がよっこらしょっと布団を引っ張りアスカが下から押す。
 かさばるけど、陽の光をしっかりと吸い込んだ布団は案外軽い。
 二人で協力すれば簡単に2階まで持って上がれる。
 そして、僕の足が廊下にたどり着いたときだ。

「アスカ、ちょっと待って。毛布が置いてあるから…」

 アスカは無言。
 いやな予感。
 僕はぐいぐいと下から突き上げられてくる布団に押し倒されるような格好になった。
 足元の毛布に脚を取られて僕は廊下に仰向けに。

「わぁっ!」

 眼前に迫ってくる布団の壁。
 まずはふわっと被さってくる布団が心地良く。
 そして、その2秒後その布団が急激に重みを増した。

「ぐえっ!」

「わぁっ、きっもちいいっ!」

 誰かさんが布団の上に乗っかっている。
 
「ふっかふかのお布団っていいわねぇっ!」

 そりゃあいいだろうよ。
 干したての布団の素晴らしさは僕だってよく知ってるさ。
 そのうち、布団の上のアスカの動きが止まった。
 へ?まさか居眠り?
 あり得るよなぁ。ふかふかの布団はこの冬の寒さでも目茶苦茶気持いいもん。
 僕だって被さってきている布団がほかほかして…。
 でも、背中は廊下に押し付けられているから、背筋の筋肉が強張ってくるように冷たい。
 いい加減にしてもらわないと、風邪引いちゃうよ。
 窓からは隣の家で鳴らしているステレオが微かに聞こえてくる。
 「アンタ、あの娘のなんなのさ」
 港のヨ−コ、ヨコハマ、ヨコスカだ。

「ねぇ、シンジ…」

 よかった。起きてた。

「アンタ、私の何なのさ」

 僕は閉ざされた視界の中で考えた。
 僕とアスカの姻戚関係は他人。
 肉体関係はキスどまり。あれから何回かキスをしていたけど、いわゆる子供のキス。
 それでも僕は満ち足りていたけどね。
 さて、むずかしい。
 僕の気まぐれな姫君は何と言えばお気に召すのだろう?
 時間がかかると怒り出しちゃうしね。

「えっと、婚約者」

 反応なし。
 僕としては究極の答をしたつもりだったけど、狙いを外してしまったのか?
 背中はどんどん冷えてくるし、これは困った。
 
「アスカ?」

「シンジ、私、すっごく幸せだよ」

 あ…。
 
「お布団はふかふかだしさ。その下に誰かさんが下敷きになってるし…。
 これが幸せってヤツなのよね」

 おい。
 僕が下敷きになってるのがアスカの幸せなのかい?
 背中が冷たいよぉ。

「あのね、幸せを感じてるのはいいけど、せっかく干したお布団が意味なくなっちゃうんですけど?」

 神様だ。
 神様がやってきてくれた。
 みしみしと階段をあがってきたのは母さんだ。

「だってぇ、ホントに気持いいのよ」

「キョウコに怒られるわよ。久しぶりの畳の上のお布団なのに」

「あ、こっちパパの方。パパはどうせあの身体だからすぐペチャンコになっちゃうし」

 可哀相なハインツさん。
 愛する娘にこんなことを言われているのを知ったらきっと涙を浮かべると思う。
 しかし、母さんも母さんだ。

「あ、なるほど。じゃ、ちょっと私も」

 って、ちょっとっ、母さん!
 
「ぐぇっ」

 勢いよくダイブしてきた母さんに僕は潰された。

「えっ、今の何?下に誰かいるの?」

「うん、シンジがいるの」

「まっ、シンジ、生きてる?」

 そういう言葉は身体をどけてから言ってもらいたいものだ。
 僕はそういう思いを言葉に乗せて返事する。

「何とか、ね」

「あ、そう。それはよかった。ああ…気持ちいいわねぇ」

「でしょっ。ね、ママ。このままお昼寝しよっか」

「いいわね、それ」

 あのね、普通苛めるのは嫁の方でしょうに。
 まだ結婚してないけどさ。
 
「ちょっと、いい加減にしてよ、二人とも!背中が寒くて風邪引いちゃうよ!」



 お布団を全部客間に持って上がったら、一度休憩を取ることになった。
 母さんが美味しいココアを作ってくれたんだ。
 身体を動かした後だから、いつもなら甘すぎるココアがちょうど美味しい。
 
「レキシントンって時差何時間だっけ?」

「いい加減覚えなさいよ。14時間。えっと、今は真夜中の1時ね」

 はは、実感ないんだよね。
 日本から出たことないし、時差っていうのがぴんとこない。
 だって、毎年日本に来ているラングレー夫妻は時差ぼけなんて全然ないんだもの。
 30日のお昼頃に日本に到着すると、その足で即うちの両親と行動をはじめるんだもんね。
 大阪空港からそのまま梅田へ。
 ラングレーさんは父さんとキタの新地で飲み歩き。
 キョウコさんは母さんと梅田のデパートで買い歩き。
 母親二人は8時ごろには帰ってくるけど、父親二人は午前様だ。
 へべれけになってタクシーでご帰還するんだ。
 あの二人を乗せて運転してくるタクシーの運転手さんは大変だと思うよ。
 で、放ったらかしにされる子供二人はその日は軍資金を強奪してデートなんだ。
 大抵映画を見に行って、夕方には帰宅する。
 母さんたちがおかずを買って帰ってくるけど、ご飯の準備とかしないといけないからね。
 去年は『007/黄金銃を持った男』を見に行った。
 今年は『ピンクパンサー2』を主張した僕はアスカにあっさり敗北した。
 
「『ジョーズ』に決まってんでしょ!どうやってアレを倒すのか知りたいじゃない」

「僕は怖いのより笑える方がいいなぁ」

 と一応自己主張。
 でも行くのは『ジョーズ』になるのはわかってること。
 ところが何も言わずにアスカに唯々諾々と従うだけじゃ、彼女の機嫌が悪くなる。
 ここのところは僕も成長したかな?
 まあ、もう2年近く同居してるんだし、婚約者なんだからね。
 ともかく30日のデートは『ジョーズ』に決定している。
 人食い鮫にびびらないようにしないとね。
 アスカに笑われないように。
 明日がその30日。
 映画館の後はどこに行こうかな。
 なんだかんだと言いながらも両親に会うのをアスカは物凄く楽しみにしてるからね。
 キョウコさんはともかく、ラングレーさんが帰ってくるまで起きたまま待っているもの。
 僕もそれに付き合っているけど。
 今年ももちろんそうするつもりだ。
 

 
「シンジ。汗かいてたね。冷汗?」

 僕はこくりと頷いた。
 見栄を張っても仕方がない。
 ロバート・ショーが演じた漁師がジョーズにやられた時はもうどきどきもので。
 でも、アスカだってあの時は繋いでいた手をびくんと震わせていたけどね。
 もちろん、そのことは追求なんかしない。

「ケンタッキーって海ないよね」

「あははっ、確かに鮫はいないわよね」

「そ、そうか、よかった」

 アスカの実家に遊びに行っても海まで遠出はしないようにしよう。
 あんなの見た直後だもん。
 僕は水泳は得意じゃないけど、ジョーズなら波打ち際まで来るかもしれないよ。

「ねぇ、シンジ。海が怖いなら川にする?
 我が家に行ったらミシシッピーまで水遊びしに行こうよ。パパに連れて行ってもらってさ」

「あ、うん。いいね」

 川なら大丈夫。
 鮫は淡水にはいないもの。

「じゃ、指きり」

 どうしてこれくらいのことで指きりかわからないけど、
 何の気なしに僕はアスカと小指を絡めた。
 指きりの後、アスカはニヤリと笑った。

「シンジ、知ってる?」

 何だか嫌な予感。

「ミシシッピーにはワニがいるのよ」

「わ、ワニぃっ!」

 声が裏返ってしまった。
 映画を見てから、紀伊国屋書店に向っていた途中だった。
 いつものように見た映画のレコードを買おうと思ったんだ。
 本屋さんの一番北側にレコードコーナーがあるからね。
 地下街の川のある町で小さな噴水のある広場で話してたんだ。
 まるでその広場の水場にワニが出たかのように叫んでしまった。
 まわりの人間がびっくりして僕を注目する。
 こいつは恥ずかしかった。
 顔から火が出そうってヤツだ。
 手に『ジョーズ』のパンフレットを持っているから余計におかしかったのだと思う。
 僕はにやにやしてるアスカの手を引っ掴んで駆け出した。
 さっさと逃げ出さないと。
 くすくすという笑い声を背に僕は駆け出した。
 だけどくすくすって笑いだけは僕から離れない。
 アスカが笑ってるんだもんね。
 どうしてこう見事にやられちゃうんだろう。

 本屋に行くとアスカは動物図鑑でアリゲーターのページを僕に見せた。
 うへっ、こんな馬鹿でかいワニがアメリカにはいるんだ。
 ワニってアフリカだけだと思ってた。
 写真を見てるだけで背筋がぞくぞくしてきたよ。
 僕は単純なんだからあんな映画を見た後じゃ効果ありすぎだ。

「じゃ、川遊びもやめておく?」

 うんうんと大きく頷く。
 僕は正直者なんだ。

「ああ、そうだ。ケンタッキーには人喰い牛がいてね」

「嘘っ!」

「嘘よ」

「もう…遊ばないでよ」

 僕が溜息混じりに言うと、アスカはにっこりと微笑んだ。

「いやよ。一生アンタで遊び続けるんだからね。覚悟しなさいよ」

 苦笑するしかない。
 遊ばれ続けるのもなんだけど、一生アスカと暮らすのは大賛成なのだから。



 家に帰ったのは午後6時前。
 当然、母親チームはまだご帰還じゃない。
 今晩はカレーで昨日のうちに作ってある。
 だからご飯を炊けばいいだけ。
 僕がお米をといでいる間、アスカは鼻歌交じりでサラダをこしらえている。
 ただ、その鼻歌には色気もムードも何もあったものじゃない。
 『ジョーズ』のメインテーマなんだもん。

「あ、シンジ。炊飯器のスイッチ入れたらお風呂よろしくっ」

「うん、わかった」

「お風呂には鮫は出ないから大丈夫よ」

 ニヤリと笑うその顔は邪悪そのもの。
 僕はわざとらしく膨れっ面でお風呂に向った。
 お風呂の栓をしてまず水を出す。
 水を張ってしまわないと沸かすことが出来ないからね。
 このお風呂は結構大きめの浴槽だけど、それでも父さんが入るとお湯が溢れたりする。
 だから水の量が難しいんだ。
 去年なんかラングレーさんが出た後、お湯が1/4くらいになっちゃって大騒ぎしたことがある。
 だって風呂釜が空焚き起こしちゃうからね。
 そんな仕組みを知らないラングレーさんはキョウコさんにこっぴどく叱られていたっけ。
 寒い中でお風呂の前にバスタオル一丁で立たされてね。
 あんなに大きな身体してるのにキョウコさんには頭が上がらないんだ。
 その時はアスカまでお母さんの隣でガミガミ言ってた。
 僕の家を火事にする気?ってね。
 可哀相に派手なくしゃみを連発するまで許してもらえなかったんだ。
 僕も気をつけよう。
 アスカと結婚したら頭が上がらなくなると思うもん…って、今でもそうか。
 
 さて、僕もただじっとアスカの言いなりになっているわけじゃない。
 僕にだって悪戯心があるんだ。
 すぅぅぅ…。
 息を大きく吸い込んで、僕は悲鳴をあげた。

「ぎゃっ!人喰い熊だぁっ!」

 こんなのにアスカが引っかかるわけないけど、どういう反応をするのか楽しみだ。
 反応は早かった。
 どたばたとアスカが廊下を駆けてきた。
 血相は完全に変わっていて、「シンジ、大丈夫っ!」と叫びながら。
 手に包丁を持って。

 数十秒後、僕は廊下に正座させられていた。
 寒い。痛い。お腹空いた。
 台所からカレーのいい匂いが漂ってくる。
 何だよ、もう。熊がこんな街中にいるわけないじゃないか。
 きっと彼女も『ジョーズ』を見た影響が残ってたんだ。
 そうじゃなかったらこんな嘘に引っかかるわけないもんね。
 でもさ…アスカのあんな顔。
 本気で心配したんだ。包丁で熊と戦おうってまで。
 僕は何て素晴らしい人を恋人にしているんだろうか。
 だけど…やっぱり…。
 寒い。痛い。お腹空いた。
 もう許してよ、アスカぁ。

 アスカは一人で食べたりはしていなかった。
 10分くらい我慢していたら台所の扉のところにアスカの顔が少しだけ覗いた。
 僕と視線が合うとその顔が慌てて引っ込む。
 まだダメなのかなって思っていたら、白い手がにょっきり出てきて僕においでおいでをした。
 そうして無罪…かどうかはっきりしないけど、とにかく許された。
 何しろ相手がアスカだからいつどんなことで蒸し返してくるかわからないもんね。
 食堂では二人分の食事が待っていた。
 美味しそうな匂いと湯気があがっているカレーと、フルーツ入りのサラダ。
 アスカは一口食べるたびにブツブツ文句を言っている。

「まったく馬鹿シンジの癖に」「仕返しするなんて100万年早いわよ」「心配したんだから」「馬鹿馬鹿」

 返す言葉なし。
 食べにくいったらありゃしないよ。
 心配してくれたのは物凄く嬉しいんだけどね。
 罰として食後の洗い物は僕の仕事。
 アスカはその間テーブルで僕を監視中。
 今度はじっと見ているだけ。
 無言なだけにかえってプレッシャーが強い。

「あ、あのさ、何か喋ってよ」

「どうして?」

「えっと…」

 背中が不気味とは言えやしない。
 話をややこしくするだけだからね。

「寂しいかなって…」

「嘘つき」

 わっ、取って置きのセリフをあっさりスルーされちゃった。
 でも、そこから会話が始まってくれた。

「怖いって言えば?怖いってさ」

「怖くないよ。あ、でも、やっぱり怖いのかな?」

「何よ、やっぱり怖いんじゃない」

「そっちの怖いじゃないよ。アスカに嫌われるのが怖いんだよ」

 返事はない。
 こっそりと振り返って見ると、アスカは頬を膨らませていた。
 怒ったのかな?

 その時、玄関のインターホンが鳴った。

「あ、帰ってきたっ!」

 がたんっとイスの音をさせてアスカが玄関へ飛んでいった。
 母さんたちが帰ってきたんだ。
 そうか、久しぶりにキョウコさんに会えるから少し興奮してたのかな?
 僕もタオルで手を拭いてから玄関へ歩く。
 さすがにアスカは母親の胸に飛びつくなんて行動は取らなかったようだ。
 玄関先に山のような荷物を広げている二人にアスカが仁王立ちして文句らしきものを言っている。

「ばっかじゃないの?こんなに荷物があるんならタクシーで帰ってくればいいのに」

「もったいないでしょ、アスカは相変わらず馬鹿ね」

「馬鹿って何よ。1年振りに会った娘に対して」

「アナタの方が先に言ったんでしょう?1年振りに顔を合わせた母親に向って馬鹿みたいと」

「もう、ああ言えばこう言う。それじゃ、シンジを駅まで呼んだらいいでしょうに」

「何言ってるのよ。心にもないことを。ねぇ、ユイ」

 キョウコさんが傍らの母さんに同意を求める。
 母さんは僕の方を横目で見ながら相槌を打ったんだ。

「ええ、そりゃあそうよ。せっかく二人きりにさせてあげてるのに。
 まあ、キスより先のことはまだ許してあげないけど」

「な、な、な、何をっ!」

「あら、うちはいいんですよ。アメリカでは別にこの歳ならおかしい話じゃないし」

 キョウコさんっ!
 な、何てことを!
 
「ママっ!ここは日本なの!来た早々変なこと言わないでよっ!」

 わぁ、アスカの耳が真っ赤っかになってる。
 僕だって頭がぽっとしてきたよ。
 そ、そりゃあ、いつかは…って、母さんがこっちを見てニヤニヤ笑ってる!
 勘弁してよぉっ!
 そして、母さんの視線を追ってアスカが僕を見た。
 絡み合う僕たちの視線。
 アスカの顔が急激に真っ赤に染まっていく。
 僕だってそうだ。
 でも、目が離せない。
 どれくらい見つめあっていただろうか。
 その時間は僕の頭に落ちてきた拳骨で唐突に幕が下りた。

「いつまでも世界は二人のためにってしてるんじゃないわ。お腹空いてるの、こっちは」

 いつの間にか母さんが僕の横に立っていた。
 アスカの頭にもキョウコさんがごつんと一発くらわしたみたいだ。
 お母さんに向って膨れっ面で文句を言ってる。

「カレーは温まってる?」

「あ、え、えっと、もう一度火にかけた方が」

「じゃ、早くして。本当にお腹ペコペコなの」

「う、うん」

 僕は台所に遁走。
 カレー鍋をもう一度温めなおして、テーブルの上を片付ける。
 アスカに手伝ってもらおうなんて思うわけない。
 1年ぶりのお母さんなんだもんね。
 まだ玄関で言い合っている声が聞こえるけど、あれも喜びの表現なんだろうな。

 さて、時間は午前2時。
 もうそろそろ父親チームが帰ってくる頃だ。
 僕の部屋で深夜放送を聴きながら、アスカはそれを待ち望んでいる。
 車の音が聞こえてくる度にアスカの身体がぴくっと動く。
 そのことをからかったりはしない。
 アスカにとってお父さんは何よりも誇りなのだから。
 そして、静かに坂を登ってきた車の音が家の前で止まった。
 すぐに玄関が開き足音が聞こえてくる。
 母さんとキョウコさんだ。
 毎度のことながらタクシー代を払わないといけないからだ。
 最後の100円玉まで飲んだに決まってるからね、あの二人は。
 ああ、いつものように解読不能な歌声が玄関の方に向っていく。

「あ〜あ、もうパパったら最低」

 ちっとも最低じゃない口ぶりでアスカが言う。
 そして「とっちめてやるわ」と階段を駆け下りていく。
 その動きは実に楽しげだ。
 僕もその背中を追いかける。
 だって、このやりとりはもう年末の風物詩で僕も楽しみにしてるんだもの。
 アスカがミニキョウコさんみたいでさ。
 ああ、もう始まっているよ。

「×◎△■○!」

 玄関先で直立不動になっているラングレーさんの前で、
 アスカは腰に手をやって仁王立ちしている。
 英語で説教しているから僕には意味がわからないけど、
 去年アスカに聞いたら、深夜に大声で歌うなとかそこまで飲むなとかそういうことを言っているらしい。
 アスカが説教している間、ラングレーさんは大きな身体をピシッと伸ばして、
 ところどころで大きく頷いて短く返事をしている。
 まるで軍隊で兵隊さんが叱られているみたいだ。
 その間、父さんは母さんにリビングに強制連行されて、そこでやっぱり怒られてる。
 財布が空になるまで飲むなってね。
 その母さんに「問題ない」なんて返事をするから余計に怒られるんだよ、父さんは。
 でも、二人ともそれが嬉しいみたいだ。
 何となくその気持ちはわかるような気がする。
 愛情たっぷりで怒られているんだから。
 そんな光景を微笑みながら階段のところで座って見ていると、
 玄関の戸締りをしたキョウコさんがリビングへ向いざまに僕の頭をぽんぽんと叩いていった。
 凄く嬉しげに。
 うん、これでアスカの一家が一年振りに揃うことになるんだもんね。
 遠い日本に娘を託しているんだから、それが二人にとってどんなに寂しいことか。
 僕が想像できるよりももっともっと辛いことなんじゃないかと思う。
 アスカの叱責はまだ続いていた。



 翌日。
 12月31日。
 父さんたちはお昼前まで爆睡。
 母さんとキョウコさんは台所でおせち料理の準備中。
 僕とアスカはとりあえず受験勉強。
 先生には太鼓判を押されているけど、やっぱり怠けるわけにはいかない。
 それとアスカ先生による英会話のレッスン。
 レッスンというより特訓という方が当たってるんだけどね、本当は。
 
 お昼はカレーうどん。
 夜には年越し蕎麦で麺類が続くけど、美味しければそれでいいのだ。
 その時には父さんたちも平気な顔でうどんをずるずると啜っていた。
 この二人には二日酔いとかないのだろうか。
 昨日は身体中からお酒の匂いをさせていたのにね。
 食事が終わると、アスカはその頭に野球帽を被る。
 そしてラングレーさんは嬉しそうに旅行鞄からグローブを取り出す。
 僕もグローブと帽子を手にした。
 これから大晦日恒例のキャッチボールなんだ。
 アスカとは時々キャッチボールをしているけど、今日の相手はラングレーさんだ。
 元プロ野球の選手とキャッチボールするなんて光栄だし、そして怖い。
 だって、軟球じゃないんだもの。
 硬球はやっぱり怖い。
 受けどころを間違うと手が腫れてしまうもんね。
 僕に比べてアスカは凄い。
 きちんとキャッチボールになってるから。
 
 場所は僕たちの通っている中学校。
 公園じゃ硬球はあぶないからね。
 学校のグラウンドはさすがに大晦日は人がいない。
 本当は入っちゃいけないんだけど、そこは洞木さんがうまく計らってくれてるんだ。
 僕たちがキャッチボールを楽しんだ後に、ラングレーさんが野球部に指導するということになってるんだ。
 指導といっても順番にキャッチボールをするだけなんだけどね。
 それでもみんな大喜びなんだ。
 何しろ元大リーグ選手で元近鉄の選手(たった一年だけどね)なんだから。
 
 まずアスカがキャッチボール。
 僕としている時と違っていつになく真剣な表情だ。
 ラングレーさんも無言でボールのやりとりをしている。
 ただ、アスカの投げた球がいい感じでグラブにおさまった時は、
 短く「Nice ball!」って頷いてそれからアスカにボールを返す。
 そういうのを見ているとアメリカの親子がキャッチボールに愛着を持っているのがわかるような気がする。
 しばらくして僕がアスカと交代。
 大きく深呼吸してラングレーさんの胸に目がけて投げる。
 とほほ。情けないことにボールは失速しておへその辺りで捕られた。
 さて、問題のラングレーさんからの返球。
 びゅっ!
 音が聞こえるほどの速さでボールが飛んでくる。
 ばちんっ!
 グラブの真ん中でボールを押さえたけど、グラブ越しに掌に物凄い衝撃だった。
 思わずグラブから手を抜いて、びりびりする手を何度か振る。
 
「こらっ、シンジ。情けないわよ!」

 ニコニコ笑いながらアスカが野次る。

「仕方ないだろ。アスカと違って運動神経は抜群じゃないもん!」

 僕の返事にアスカは腹を抱えて笑い、そしてラングレーさんに向って英語で叫ぶ。
 ラングレーさんは娘の言葉にニヤリと笑った。
 今度は何とか高さは胸元に。でも右側に少し外れた僕の投球。
 こともなげに捕ったラングレーさんはゆっくりとしたボールを僕に返す。
 ボールは重いけどこのスピードなら何とか僕でも捕ることができる。
 20球ほどボールを往復させて僕はリタイア。
 楽しいんだけど、やっぱり硬球は肩がすぐに重くなってしまう。
 そして、アスカと交代。
 その途端ラングレーさんの球のスピードが上がる。
 やっぱりアスカは凄いや。
 男に生まれていたらプロ野球を目指していたんじゃないかと真剣に思うときがある。
 ただ、アスカに言わすと自分の球は軽いから通用しないそうだ。
 それでも野球部の連中と遜色ないように見えるんだけどな。
 その後、ラングレーさんに休んでもらって僕とアスカが軟球でキャッチボール。
 いつもよりアスカの球が速い。
 コントロールがいいから僕でも捕れるんだけどね。
 僕の方の投球はばらついているからアスカに悪くて悪くて。
 そんな二人のキャッチボールをラングレーさんはキョウコさんと笑いながら見ている。
 水筒に入れてきたコーヒーを飲みながら、僕たちの動きを楽しんでいる。
 アスカはお父さんとキャッチボールをしているときと違って口が軽い。
 「いっくわよぉっ!」とか「ちゃんと捕りなさいよ」とか喧しい。
 そのいつもより喧しいアスカの言動そのものが、彼女の心が弾んでいることを示している。
 ボールもいつもより胸元でびゅっと伸びている感じ。
 それにひきかえ僕の方はだんだんボールの放物線が高くなっていく。
 そうしないとアスカの胸にまで届かないんだ。恥ずかしながら。
 やがて、見物人が少しずつ増えてきた。
 野球部の連中だ。
 その中に混じっているトウジが先頭にたって僕たちを野次る。

「何や、そのへなちょこ球は!」「惣流の方がええ球投げとるで」
「おい田中、お前も惣流に負けてるぞ」「先輩、やめてくださいよ」
「碇っ!代わろか?」「何や、お前そんなこと言うて、惣流とキャッチボールしたいんとちゃうか」

 笑い声が上がる。
 するとアスカが投球をやめて、その笑い声に向って仁王立ちする。
 
「アンタたち、うっさいわよっ!がたがた言うんじゃないわよ!
 だいたいアンタたちとキャッチボールしてもぜんぜ〜ん楽しくなんかならないもんねっ!」

「お、おい、アスカ。そんなこと言わない方が」

「シンジは黙ってなさいよ。
 私とキャッチボールしていいのは、シンジとパパと…そうそう未来の私とシンジの子供たちだけなんですからねっ!」

 周囲沈黙。
 野球部の連中は固まってしまった。
 そりゃそうだろう。
 僕でさえここまで言われてしまうと、言葉を失ってしまう。
 アスカは得意げに仁王立ちしたまま。
 そんな時、ラングレーさんが叫んだ。
 アスカの言葉をキョウコさんに訳してもらっていたんだ。

「Hey Asuka!」

 アスカが父親に対して顎を向ける。
 反対するなら許さないわよって感じだ。
 僕は逆にはらはらどきどき。
 もうアメリカに帰れって言われるんじゃないかってね。

「●×□▼◎!」

 何て言ったんだろう。
 アスカはラングレーさんに向かって、にかっと笑うと親指を立てて見せた。
 
「アスカ?」

 僕が恐る恐る声をかけると、アスカは叫んだ。
 
「パパがねっ、それなら早く孫をつくれって。孫とキャッチボールがしたいんだってさ」

 アスカの大声がグラウンドに響き渡る。
 そして、そこにはアスカ一家三人の明るく楽しげな笑い声が木霊した。
 僕たち?
 野球部の連中も洞木さんも、そして僕も呆然。
 あまりに開けっぴろげなアメリカンにただもう圧倒されていただけ。

 これが1975年の最後の思い出。
 
 僕のこの思い出は、その後我が母校の野球部に永く語り継がれたという。
 元大リーガーに指導されたという話とともに。

 

 

「幸せは球音とともに」

年末年始特別編 −1975〜76−  末 

始編へ続く 
 


 

<あとがき>
 

 今回の話は山場はまったくありません。
 ただ、日常が進むだけ。
 後編も同様です。

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