−序−

あの頃のいつかある日、
雲ひとつない夏空の下にて




 少年がその幼馴染に恋をしたのはいったい何時の頃からだったのだろう。
 それは彼にはわからなかった。
 だが自覚した日はよく覚えている。
 あの、暑い夏の日。
 夏の日差しが容赦なく照りつけている、夏休みに入る2日前のことだった。
 少年はD校舎の裏に呼び出されていた。
 相手は一年上の3年生の女子。
 ハンドボール部のキャプテンで学年の中でも指折りの容姿だと人気があり、放課後や休
みの日に男子と二人でいるところを何度か目撃されている。噂によると先頃付き合ってい
た相手と別れたとのことだ。
 その彼女が少年に目をつけたのだ。
 蝉の音、吹奏楽部の練習する音、どこかで噂話に興じている女生徒の笑い声、ここから
は見えないがグラウンドで汗びっしょりになっている運動部の連中の声。
 そんな音が混ざり合っている校舎の裏で、彼女はうっすらと額に汗を滲ませていた。
 男子から人気の笑顔は既に彼女の顔から消えてしまっている。
 絶対に大丈夫という自信があったわけではないが、少しは考えてくれるのではないかと
は思っていたのだ。
 しかし交際を申し込んだ少年はいともあっさり無理だと断った。
 微笑を浮かべながら謝罪する少年に彼女は理由を問う。
 彼は悪いけど好きじゃないからだと告げた。
 そして、付け加える。
「きっと僕なんかよりもっといい男性が…」
「やめてよっ」
 無理矢理の笑顔が引っ込んだ。
 咄嗟に叫んでしまった彼女の顔が強張っている。
「よぉく、わかった。そういうことって言っちゃいけなかったのよ」
 少し怒ったような、少し哀しいような、そして毅然とした表情を浮かべた彼女の顔を少
年は見直した。
 ああ、綺麗だ、と。
 だが、それはあくまで表面的な美しさだけであって、精神的な部分は皆無だった。
 
「私、同じ言葉を随分言ってきたのよね。これって逆にきついわ」
 彼女は言葉が止められなかった。
 不思議だと感じた。
 どうしてこんなに饒舌になるのか。
 そう言えば、これまで彼女に告白し断られた男子は大きくふたつに分かれていたことを
思い出す。哀しげに黙りこむか、照れ隠しのように喋りだすか。
 間違いだった。
 これは照れ隠しなんかじゃない。喋っていないと、心の中がどうにかなってしまいそう
なのだ。こういうことだったのかと、乱れる頭の中のごく一部で至極冷静な自分が納得し
ていた。
 その上、彼女は内心忸怩たるものとなっている。
 もっと軽い気持ちで声をかけたって言うのに、なんだか断られてからの方が余計に好意
を持ってしまっている。まったく何てことなの、と彼女は自分にあきれた。
 だが、少年の方はそんな彼女の内面のことなどわかりはしない。
 一歳年上の先輩が喋る姿を見て、心の中で大きな溜息を吐いていたのだ。
 もうしばらく我慢すればいい。
 そうすれば、この嵐も収まる。
 彼は微笑みを溜めたまま、じっと待っていた。
 
「おぉ〜い!」「どこにおるんやぁ?」
 助かった。
 少年は思わず笑みを深くした。
 昇降口に残してきた友人二人が痺れを切らして探しに来た様だ。
 先輩は苦笑した。
 少年の様子を察したのである。
 彼女は短い髪を指で弾いて微笑む。
「私、髪伸ばそうかしら。まあ、金髪にはしないけどね」
 その意味深な笑顔に少年は苦笑した。
「アイツとは関係ないですよ。これは…」
「嘘言わないでよ。好きな人がいるからって本当のことを言われる方がすっきりする」
「だから、いませんよ。好きな人なんて」
 彼は心底からそう思っていた。
 この時までは。
「アイツは友達。ただの幼馴染ですよ」
 くだらないことを言うなとばかりの彼の顔をじっと彼女は見つめた。
「じゃ、あの子が誰かと付き合ったら?キスとかしたらどうなの?そうやって笑っていら
れる?」
「それは…」
 少年がはじめて口ごもった。
 何事も立て板に水が如くに喋る彼が。
「おった!こっちや、ケンスケ」
「おい!探したぞ、渚……えっ」
 声高にやってきた二人が友人の傍に立つ先輩の姿を見て口をつぐんでしまう。
 こういう場の空気などは敏感に察知できるものだ。
 彼女は背筋を伸ばし、精一杯の笑顔を作った。
 そして、立ちすくんでいる二人の真ん中をゆっくりと歩いていく。
「あ〜あ、振られちゃった。ショックぅっ!」
 努めて明るい声を張り上げた。何と自分は見栄っ張りなんだろうか、と彼女は自嘲しな
がらも同じペースで歩き続けた。
 ゆっくりと退場してやる。
 少なくとも、彼らの視界にいる間は。
 彼女は唇をきつく噛んだ。
 その後姿を呆然と見送って、相田ケンスケは大きく首を振った。
「おい、渚。お前、ミサト先輩を振ったのか」
「なにぃっ。ミサト先輩につきおぅてって言われたんかっ、ほんまかっ」
「まあね」
 詰め寄る鈴原トウジをいなす様に、渚カヲルは己の背中を校舎の壁に預けた。
 
「お、お前!なんちゅうもったいないことをぉっ〜!」
「ああ、羨ましい。俺だったら、間髪をおかずにOK!だぞ」
「わしもや!一生大事にしますって言うでっ」
「それじゃ、俺はお墓に一緒に入ってくださいって頼む!」
「アホか、それやったら、心中に誘うとるみたいやんけ」
「馬鹿か、心中なんかするかっ。先輩と付き合えるんなら死ぬまで付き合うぞ」
「で、どこを突き合うんや?え?ぐふふ、先輩のおっぱいホンマにごっついからのぉ」
「ああ、一度でいいから触ってみたいぜ」
「アホっ。一度やのうてずっと触りたいわい」
 馬鹿らしいことを言い合っているが、彼らも性に目覚めたお年頃だ。
 臆面もなくこういう話ができるのは周りに女子がいない所為でもあっただろう。
 それにこうした話題に食いついてこないカヲルをからかうという意味もほんの少しだけ
あった。映画雑誌などでヌード写真に鼻息を荒くする友人にひきかえ、彼は純粋に美的観
点からの感想しか漏らさないのだから。「まだ子供やねん、こいつは」と認定されても、
カヲルは「そういうことにしておこうか」と澄ました笑顔しかしない。
 だからこそか親友二人が声高に騒ぎ続けるのを尻目に、カヲルはそっと溜息を吐いた。
 確かにこれまで考えたことがなかったのは確かだ。
 葛城ミサトが言い残した言葉。
 これまで、同級生たちにからかわれたことは何度もある。
 幼馴染との親しい関係はみんなの目から見ると恋人同士にしか見えないという。
 だが、彼も幼馴染の方も笑って否定していた。
 自分たちはただの友人だ、と。
 そう主張すればするほど、疑惑はつのっていたのだが彼ら二人からするとそれ以上に言
うことはなかったのだ。
 本当に二人はただの仲のいい幼馴染に過ぎない。
 しかし、傍目から見るとそれが異性の友人としてはあまりに仲がよすぎる。
 だから、渚カヲルと惣流・アスカ・ラングレーは交際していると一般認識されていたわけ
だ。
 少なくともこの第壱中学校では。
 二人の共通の友人であるトウジやケンスケでさえ、現状では交際していないことは知っ
てはいるのだが、そのうちにそういう関係になるものと思っていたほどだ。
 彼は再び溜息を吐くと、頭を壁につけてそのまま空を見上げた。
 雲ひとつない青空。
 真上の教室から合唱部の歌声が聴こえてくる。
 自分の好きなシューベルトの『菩提樹』だったからか、わが意を得たりと彼はにやりと
笑った。
「歌はいいねぇ」








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