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碇シンジは運命の悪戯か、アスカと同じクラスになった。 転校生だと紹介され廊下から入ってきた彼が教室にアスカの金髪を見つけぱっと破顔し た時、彼女は迂闊にも微笑み返してしまった。ただし、彼の笑みが誰に向けられたのかは クラスの誰にもわからずじまいに終わった。その後、アスカは二度と彼の顔を見ようとせ ずに、窓の外を一生懸命に見ていたからだ。 結局、彼女はその日一言も彼と言葉を交わさなかった。 最近、窓が叩かれなくなった。 ほぼ毎日、ごつんごつんという音がカヲルの部屋の窓ガラスから鳴っていたのに、3日 に一度くらいの回数に減ってきた。しかもその時に話す時間も明らかに減っている。 体調が悪いのか、それとも…? もちろん、彼が黙って見ているわけがない。 カヲルは窓越しに訊いてみた。何か気になることがあるのかと。しかしアスカはきっぱ りと何もないと言い切った。話をしていると何てことはない。いつもの調子でいつものア スカだ。 だからカヲルもいくばくかの不安は感じながらもそのままで放っておいたのだ。 その不安は毎日でなくなったことが元だと彼は誤解していた。 それは音だったのである。 彼女の部屋で鳴っているのは確かに今までと同じビートルズ。しかし、いつもより曲調 がおとなしい。「イエスタディ」と「ミッシェル」、「アンド・アイ・ラブ・ハー」に、 それから今度は「イン・マイ・ライフ」が加わった。 先日、レイの家でシンジが約束通りに追加の一曲を披露してくれたのだ。 その日のうちにアスカはカセットテープを編集してその曲を録音したのであった。 カヲルはしばらくの間、その事実に気がつかなかった。 アスカは自分が変わってきているのに気づいていた。 バラード系の曲を好きになってきたのは興味が出てきたからだと思っていたのだが、制 服から私服に着替える時、無意識にジーパンを外すようになってきたのだ。 しかも外出する時に限って。 滅多に着ないスカートやワンピースを選ぶ娘に、母親は何も言わずに温かい微笑を向け るだけだ。20年ほど前の自分を見るようで。 アスカのその格好をカヲルは町中で見かけた。 レイと並んで歩くその姿は彼の目に新鮮で、彼は嬉しくなってしまった。何しろアスカ といえばジーパンが定番で、スカートなど制服以外ではお目にかかることなどなかったの である。 すらりと伸びた白い脚に彼は相好を崩したものだ。 彼は迂闊だった。 アスカの服装が変わってきたことに男の影響を考えなかったのだ。 そこは恋愛に初心者のカヲルだ。 しかも彼の場合、アスカへの恋心を認識しても何一つ変わることがなかったのだから、 余計にアスカの変化に気がつかなかったのだろう。 気がついたのはアスカ本人の方が先だった。 体育大会でフォークダンスを踊る時、シンジとパートナーになった時身体中の血が沸騰 した。…ような気になった。それは練習の時からの傾向で、カヲルやトウジを相手にした ときはいつものように軽口を叩き手も適当に繋ぐだけ。 しかし相手がシンジの時にはそうもいかなかった。押し黙ってしまい、彼の顔も見られ ず、手もつかず離れずといった具合。 そんな変化を自分でさすがに気がついた。 碇シンジのことをいつの間にか意識している自分のことを。 そうなれば、現在の自分の変化もすべて了解できた。 ビートルズで好きな曲が変わってきたこと。 私服の選び方。 授業中に無意識にシンジの横顔を見てしまっていることもそうだ。 アスカは慌ててしまった。 この自分が男子に好意を持ってしまっている。 しかも、これといってカッコよくもない男の子に。 彼女はううむとばかりに腕を組んだ。 女の子には似合わない大型ラジカセからちょうど流れてきているのは「ミッシェル」だ った。シンジがチェロで弾いていたその曲を聴き、机に頬杖をついた彼女は眉間に皺を寄 せる。 そして、彼女は大きな溜息を吐いた。しかしその溜息には少しも落胆の色はなく、寧ろ 幸福感さえ漂うものだった。 アスカはせいのっとばかりにベッドにダイブした。うつぶせになり、足をバタバタさせ るたかと思うと、枕元の猿のぬいぐるみを抱きしめてごろんごろんとベッドで転がる。 しばらくしてから、彼女は思いついた。 「ねぇ、カヲル。アンタ、レコード持ってない?」 「持ってるよ。レコードなら山ほどね」 「この意地悪。えっとね…」 カヲル呼び出し棒を片手に、アスカはメモを読んだ。 『バッハの無伴奏チェロ組曲』。あの日。彼と初めて逢ったときに聴かせてもらった曲 だ。やっとのことでレイから題名を聞きだしたのだが、惣流家にはクラシックのレコード が有名どころの数枚しかない。 そこで隣家の豊富なライブラリーを思い出したのだ。 「ああ、多分あるよ。でもマイナーな曲をどうしてだい?しかもチェロかい?」 「いい曲だからよっ。貸してくれる?」 「ああ、かまわないさ。そっちに持っていこうか?」 「ううん、いい。カヲルんとこの玄関まで行くからそこで貰うわ。じゃっ」 言うが早いか、アスカは身を翻した。手にしていた棒ががらんと畳に転がる。 カヲルは吹き出してしまった。 今すぐ探せというのかい? 本当に我儘なお嬢さんだねぇ、君は。 カヲルは嬉しげにステレオの横の棚に蹲った。 作曲家で分類していてよかったと思いながら。 数分後に階下に降りると、もうアスカは玄関に立っていて、カヲルの手のレコードを見 るとその表情が明るく輝いた。 「あったの?さすが、アタシのカヲルよね。アリガトっ!」 「いえいえ、どういたしまして。上がってく?うちで聴いていくかい?」 「ううんっ。いいわ。録音もしたいし」 「こっちの方が音がいいよ。聴いてからにすれば?」 純粋にクラシックファンとしての発言と、一緒にいたいという気持ちと。 しかし、アスカは一人で聴きたかった。あの時の彼のことを思い出して聴きたかったか らだ。だから「ごめん、アリガトねっ」と明るく玄関から去っていった。 その弾むような背中を見送って、なぜバッハかと首を軽く傾げるカヲルである。 帰宅し、応接間のステレオに借りてきたレコードをセットする。針を落とすと同時に、 急いでソファーに戻って姿勢を正して音が流れるのを待った。 そして静かにチェロの音色が。 アスカは眼を閉じた。 彼女程度の耳の持ち主でもレコードとシンジとでは演奏者としての腕が大きく違うこと くらいはわかる。しかし、レコードはアスカにとって水先案内人に過ぎなかった。 曲が始まりしばらくすると、彼女が聴いているのはあの時のチェロの音だった。 レコードはアスカを記憶へと誘う。それはあの日の彼の姿だけでなく、教室や体育大会 やいろいろの記憶に繋がっていく。 胸がドキドキして、頬が熱い。 恋心は不思議だ。何故彼を好きなのかなどという問いかけなど自分ではしない。 とにかく好きなのだ。 その気持ちだけが尊いのであって、それを疑うような好意は冒涜なのだ。 しかし、好きであるというだけでは心は安らがない。 自分の気持ちを相手に受け入れて欲しい。 だが、拒否されることを考えると恐ろしくて何もできない。 そして毎日がそのまま過ぎていく。 会話するだけで心が躍り、予期せぬ場所で出くわすとその幸運に歓ぶ。 他の異性と彼が喋っていると心が曇り、彼が風邪で休んだりすると一日が憂鬱になる。 自分がこんな風になってしまうとはアスカにとって意外だった。 意外すぎて、誰にも言えない。カヲルにもレイにも。言えば、笑われてしまいそうで恥 ずかしいのだ。 そうして考えてみると、自分にカヲルのことが好きだと告げたレイを凄いと思う。自分 の気持ちに胸を張っているからこそだと。 もちろん、レイがアスカに告げたのは彼女とカヲルとの仲が進展しないようにという配 慮だったとは思いもよらない。思わなかったからこそ、アスカはレイの望まぬ方向へ歩み だそうと考えてしまったのだ。 カヲルとレイの間を仲立ちする。 彼女はその思いつきにわくわくした。 これはアスカにとっての代償行為だったのだろう。 自分はとてもじゃないがシンジに告白など絶対にできない。 誰にも言えない。 その代わりに親友の想いを遂げさせる。もしそれが叶えられれば自分の恋もうまくいく かもしれない。そんな恋の辻占をも込めて、アスカはレイの気持ちをカヲルに届けようと した。もちろん、レイに意向など訊きはしない。そんなことを訊いても、恥ずかしがって やめてくれというに決まっているからだ。 それに彼女の気持ちもわかる。もしカヲルに拒否されればという恐れも。 しかし、アスカには確信があった。 レイは可愛いし、自分の願いだし、カヲルは受け入れてくれると。 思いたったが吉日。 但しもう夜だ。 アスカは明日にカヲルへ話をしようと決めた。 その翌日は11月3日、文化の日。 朝から雨が降っていた。 アスカはたいしたシナリオも組み立てず、傘も差さずに小走りで4秒足らずの隣家に向 った。雨降りだから窓越しも何だし、こういう話はやはり面と向ってするものだ。 インターフォンを鳴らすとカヲルの「は〜い」という高い声が聞こえてきた。 扉が開くまでの間、アスカはわくわくしてきた。 彼女には明るい未来しか見えていない。カヲルが彼女の提案を断るとは思ってもみてい なかった。だから彼女は顔を覗かせたカヲルに明るい笑顔を向けたのだ。 「はい、カヲル。今日はね、とってもいい話を持ってきたのよ」 「へぇ、何だい。いい話って」 こういう場合、自分にとって都合のいい想像をしてしまうのはどうしてだろうか。 その想像は一瞬で崩されてしまうのだが。 「レイがね、アンタのこと好きなの。ねぇ、つきあってあげてよ。いいでしょ」 アスカも想像していた。「困ったなぁ」と照れてしまう幼馴染の顔を。 だが、カヲルは笑顔を引っ込めてしまった。滅多に見られない真顔で彼は即座に口を開 いた。 「悪いけど、駄目だ」 「ど、どうしてよっ。レイはいい子じゃない。あの子のどこが気に入らな…」 「帰ってくれ」 断られると思ってもいなかった上に、追い出されるとはアスカはその眼を疑った。しか し現実に目の前にはぴしゃりと閉ざされた玄関扉がある。 彼女は拳でどんどんと叩いた。 「ちょっとっ。カヲル!アタシの話聞きなさいよ!」 「聞きたくないね。とにかく帰ってくれ」 素っ気無いその言葉を残して、彼の足音は奥の方へ消えていった。アスカは予期せぬ展 開に困り果て、再度インターフォンを鳴らすが何も返らない。彼女は唇を噛み、自分の家 に走った。窓越しに話をしようと思ったのだ。 しかし、彼の部屋はいつものレースだけでなく、分厚いカーテンまでしっかりと閉めら れている。彼が部屋にいることは確実だ。照明が点いているし、何より大きな音でクラシ ック音楽が聞こえてくるのだから。 アスカはいつもの棒でごんごんと窓ガラスを叩く。 だが、返事は当然ない。 逆にレコードの音が大きくなっただけだ。 「どうしてよ…」 アスカはわけがわからなかった。同じ断るにしてもこんな態度をどうしてとられないと いけないのだ。その原因が自分だとは思いもよらない。 彼女は困り果て、そしてレイにはこの事を黙っておこうと決めたのである。 だが、レイは知ってしまった。 カヲル本人の口から聞かされたのだ。 彼としてはレイがアスカに頼んだと思い込んでしまったのである。自分の恋に浮かれた アスカがいい気になって仕出かしたことだとは考えもしなかった。 レイが憎い。自分とアスカを引き裂こうとする張本人が彼女だ。何が仏だ、観音だ、菩 薩だ。悪魔のような女じゃないか。 カヲルは哀しみのあまり完全に自分を見失った。 こうなれば、レイからアスカを遠ざけないといけない。 彼は1年の連絡網を探し出し、綾波レイの家の電話番号を回した。 「アスカ。レイちゃんから電話よ!」 一階からの母の呼び声にアスカは溜息を吐いた。 今日はできることならレイとは話したくない。 親友の知らないうちに彼女の恋を終わらせてしまったのだから、アスカの気が重くなる のは当然だろう。しかし居留守など使えるわけもなく、ひとまず普通に喋ればいいのだと 自分に言い聞かせ階段を降りたのだ。 だが、電話の向こうからは冷たい言葉しか聞こえてこなかった。 「何てことをしてくれたの?私が頼んだ?いつ?私、そんなこと頼んでない。 今のままでいいって言ったはず。どうして、そんなことを言ったの。 もう、私…。あの人に嫌われた。二度と近づくなって言われた……」 ところどころで鼻を啜る音が混じっている。 アスカは身体中が震えた。 カヲルがレイに話したのだ。どうしてそこまでする必要がある。 言葉が出てこない。何か言わないと、謝らないといけない。しかしいったい何を言えば いいのか。 「れ、レイ…、あ、アタシ、ね…」 「アスカなんか大嫌い!絶交っ!」 痛切な叫びとともに電話は切れる。 アスカは受話器を握り締めたまま虚空を見つめていた。 ごんごんごんごんっ! 窓がまた大きく叩かれた。 ふん、叩くならガラスまで割ってしまえばいいじゃないか。 僕の心をずたずたにしたんだから。 「カヲルの馬鹿ぁぁぁっ!」 その叫びの後、何かが下に落ちる音がした。 あの棒を投げ捨てたのだろう。続いて窓がぴしゃりと閉まる音。それを最後にカヲルの 耳に聞こえるのは雨音だけになった。レコードはもう最後まで演奏されて針は元に戻って いる。 彼は部屋の真ん中で仰向けになり、じっと天井を見つめていた。 綾波レイが悪いんだ。全てあの女が。 「ねぇ!レイっ?お願いっ、出てきてっ。レイぃっ!」 インターフォンを鳴らし、扉を叩き続けてもレイは姿を見せない。レイの部屋の明かり が点いているのだから、彼女がいることは間違いない。傘も差さずに突っ走ってきたアス カはびしょ濡れのまま綾波家の玄関に立ち尽くしていた。 とにかくレイに謝りたい。勝手にカヲルにレイの気持ちを伝えてしまったことを。自分 が馬鹿だったのだ。浮かれた自分が。 アスカは門のところで為す術もなくただじっと待った。 許してくれるわけがないと思ってはいるが、とにかく謝りたかった。 部屋のカーテンの隅からそっと外を窺ったレイは、そんな親友の姿を見て心が痛んだ。 あのプライドの高いアスカがああまでして許しを請おうとしている。きっとカヲルが誇張 して自分に伝えてきたのだ。 しかし、レイはもう言ってしまったのだ。大嫌いだと、絶交だと。 言いようもない哀しみが彼女を突き動かしてしまった。 もう、二度と元には戻れない。親友をあんな目に合わせているのだから。 レイは涙に濡れた眼を拭おうともせず、人気のない家を歩いていった。アスカのいる玄 関の方でなく、電話のある居間へと。両親が法事のために泊りがけで出かけている今、頼 れる人は彼しかいなかったから。 もう6時を過ぎていた。 雨の所為ですっかりと暗くなっている。 アスカはあのままの姿勢で佇んでいた。このまま肺炎になって死んでもいいとまで彼女 は思いつめていた。元々は自分の差し出口が原因ではないか。 そんなところにぴちゃぴちゃと足音が近づいてくる。アスカは道路から見えないところ へ身体を移す。しかし足音は自分の方へ一層近寄ってきた。 「あれ?惣流さん、だよね。ど、どうしたんだいっ。傘も差さないで!」 アスカはその声の主を見ることができなかった。うな垂れたまま地面を見ていると、す ぐ近くに運動靴が見え、雨の雫が身体にかからなくなった。 「レイ、いないの?おかしいな、あいつに電話で…あっ、ま、待ってよ……」 レイに会うことができそうなのに、アスカはこの状態に耐えられなかった。彼のことを 好きだという気持ちだけで有頂天になってしまい、結果的にレイと喧嘩になってしまった のだ。 その彼が目の前にいる。 とうとうアスカは何も言わずに、そこから逃げ出してしまった。 残されたシンジは狐につままれたような表情をしていたが、さすがに二人の間に何かあ ったということくらいの察しはつく。 彼は真剣な表情で扉を叩いた。 「レイ、開けてっ。開けるんだっ」 11月の雨は冷たく、しとしととこの町に降り続けていた。
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