遊 園 地 ・ 外伝
 

鬼謀の娘

ー 1959 秋〜年末 

 


 2008.12.27        ジュン

 
 


「ちょっと待ちなさいよ、ユイ。どうして私がデートなんかしないといけないの」

「いいじゃない。減るもんじゃないし」

 にこやかに笑う親友から顔をそむけ、惣流キョウコは特大の溜息を吐いた。
 また何かよからぬことを企んだに違いない。
 そしてそれは傍目にはいいことをしている様に見えるに決まっている。

 中等部3年の時の映画鑑賞会の時もそうだ。
 何だかんだと理由をつけ、校外での映画鑑賞会を開催することに持ち込み、その映画の内容の選択がよかったなどと
日頃映画館に行けない生徒たち(金銭面ではなく躾上の意味で)から大いに感謝された碇ユイであった。
 しかしキョウコは知っている。
 あれはユイが見たい映画だったというだけの事だ。
 ロードショー上映の時は見逃してしまい、何とか見たいと名門学校を利用したのである。
 それを彼女が知っているのは自白させたのでも懺悔されたわけでもない。
 その映画をまだ小さかったキョウコが祖母に見に連れて行ってもらっていたことをユイが知り歯軋りせんばかりに悔しがったのだ。
 そういうやり取りがあったほんの3ヵ月後に聖ネルフ学園の貸切で『聖衣』が上映されたのだ。
 キョウコがユイの仕業だと確信したのは当然だろう。
 彼女を問いただすとそれは誤解だと微笑まれた。
 彼女としては生徒会として活動提案を学校に提出しそれが許可されただけだというのだ。
 カトリックの学校だから宗教映画を提案するのはごく自然なことではないかと開き直る始末だった。
 しかも生徒会の特別実行委員として(要は今回の映画鑑賞会のみの役職)、その映画館を経営するオーナーの孫娘が名前を連ねていた。
 孫娘が学校行事を動かすという大役に抜擢されたということで
孫を溺愛する祖父が映画館を廉価で貸し出すような経緯も読んでいたに違いない。
 あれよあれよという間に外堀が埋まり、そういうことならばと学校側も乗り気になった。
 その結果、誰もユイを悪く言う者はいない。
 映画館のオーナーに無料鑑賞券までちゃっかり頂戴したことまでうまく利用したユイなのだ。
 それを着服せずに球技大会の賞品にしましょうと申し出、かの孫娘共々生徒たちからやんやの喝采を浴びた。
 おかげでさらに喜んだオーナーから株主招待券を公式に贈られてしまい散々断った上で結局自分のものにしたのである。
 もっとも、その招待券で一緒に映画を見に行ったキョウコにあまり強いことは言う資格はないのだが。
 ともあれ、ユイの策謀力と行動力は凄まじい。
 転んでもただでは起きないとは彼女のことだと日頃から確信しているキョウコだった。

 そのユイがにこやかに奇妙な提案を持ち出してきている。
 キョウコにデートをしないかと持ちかけてきたのだ。
 その相手はユイではない。
 ユイならば一緒に遊びに行ってもよい。
 もちろんそれは日常茶飯事のことであり、しかもデートとは称さないのであるが。
 ユイとキョウコは最強のワンペアと呼ばれるほどに一緒にいることが多い。
 碇ユイは何かしらの委員会などに所属することが多く、その学生生活は非常に忙しい方だ。
 逆に惣流キョウコは言わばアウトローだ。
 ただでさえ彼女はその体格で目立っている。
 170cmを超える背の高さは学内の女生徒すべてを含んでも数人もいない。
 その上金髪で碧眼、そして白い肌。
 生徒の中に埋没したくても絶対に不可能なのである。
 さらに勉学優秀で、英語のみならず、ドイツ語も日常会話なら充分にこなせることも知られている。
 それだけでなく運動神経までいい。
 あまりに周りから突出しすぎ、その存在が浮いてしまっているのがキョウコだった。
 中学1年の時にユイの尽力によってキョウコと周囲の融和はなされたのだが、それでも彼女の特定の友達はユイひとりである。
 いかにキョウコがフレンドリーでフランクな性格だとわかっていえも、近寄りがたい、ということには変化ができなかったのだ。
 それについてはユイも責任を感じていた。
 学内のすべてが認める優等生のユイがキョウコの親友なのだ。
 ユイに匹敵するような生徒でないとキョウコと親しくできないのではないか、という風に見られてしまったのである。
 ということで、ユイとキョウコの二人は学園内で抜きん出た存在となっている。
 片や、優等生。もう一方は、アウトロー。
 ただし、名門女学校のアウトローだからその高は知れているのだが。

 話を元に戻そう。
 そんな二人が話しているのは、高等部1年1組の教室の一角。
 期末試験が終わり、開放感に溢れた乙女たちは既に下校している。
 委員会があるユイに頼まれてキョウコは教室で彼女を待っていたのであった。
 文庫本を読んでいたキョウコは親友が戻ってきたのでこれで帰宅するものだと思った。
 しかし、ユイはニコニコと笑いながら椅子に座ったのだ。
 ちょっとお話しましょうと。
 その話がデートの誘いだったのである。
 しかもその相手がどこの誰かをユイは言わないのだ。
 だからキョウコは彼女としては当然の反応を示すことにした。

「いやよ。どうして男なんかと私が」

「だいじょうぶ。男じゃないわよ。可愛い女の子。それだったらいいでしょ」

「ちょっと待って。私には同性愛の趣味なんてまったくないわよ」

「わかってますって。私にもないから」

「はいはい、あなたはあの髭面が大好きなんでしょ。それこそわかってます」

「はずれ。大好きなのではなく、愛している、が正しいの」

「愛…って、ユイったら、もうっ」

 16歳にしてそこまで言い切られてしまうと始末に困る。
 愛って何なのよ!と初恋の味も知らないキョウコは叫びたかった。
 キョウコは呆れ顔のままで、話を元に戻した。

「で、ユイ?あなたのことだからとっくに外堀を埋めちゃってるんでしょう?私に何をさせるつもり?」

「ふふん、やってくれると思った」

「やるとはまだ一言も言ってない!」

 言ってはいないが結局する羽目になってしまうのだろうと、キョウコは内心既にあきらめている。
 何だかんだと抵抗しても絶対に思い通りにされてしまう。
 過去4年の付き合いでそれは重々承知なのだ。
 しかしただ言われるがままに動くなど真っ平ごめんである。
 自分は鉄人28号ではないのだから、ユイの思い通りにリモコン操縦などされてはたまらない。
 だからキョウコはできる限り情報を引き出そうとしたのである。
 もっともこの親友が馬鹿な真似はしないと確信しているからそう不安ではない。
 ただ策謀の駒として使われることが腹立たしいだけのことなのだ。

 ユイの企てはこうだった。
 同じ1年生に佐藤カナコという名前の生徒がいる。
 その子がキョウコに熱を上げているらしい。
 彼女の想いを汲んでキョウコとのデートを企画してあげた、というわけだ。
 臭い、非常に臭い。
 ただの友情でこんなことを企てたとは到底思えない。
 
「まさかとはおもうけど、キョウコに初恋の君が現れたってっことないわよね?」

「さあ。もしかすると現れたかもよ」

 惚けるキョウコにユイはないないと笑って手を振る。

「ファザコンのキョウコには無理ね。うちの学校の教師の中におじさまに敵う人なんていないし」

「私、ファザコンなんかじゃないもの」

「またまたぁ、いい加減に認めなさいよ。男らしくないわよ」

「私は女。それともうひとつ、おじさまは止めてもらえない?いつも言ってるけど」

「いや。素敵な中年男性のことはおじさまっていうのが普通でしょう?聖ネルフ的には」

「じゃ、自分のおじさんもおじさまって呼びなさいよ」

「ははは、却下。平田昭彦と加東大介じゃ大違い。うちのはおじさんが精一杯ね」

「いいおじさんじゃない。太っ腹で」

「それは認める。確かに太い」

 ユイの唯一の身寄りである碇ダイキチはやや太めの体格をしている。
 しかしキョウコの言う太っ腹は見かけの問題ではない。
 両親を亡くしたユイを引き取っただけではなく、戦災孤児の六分儀ゲンドウまでも面倒を見たのだから。
 あの時代に男手ひとつで二人の子供を育てたのだから、並大抵の義侠心ではできないことである。
 つるんとした丸い顔に人の良さそうな笑顔がトレードマークの彼をキョウコは大好きだった。
 ただし、異性として、では決してない。

「デートって何するの?どうせユイの事だからタイムスケジュールまで考えているんでしょ」

「正解!キョウコは私の作った脚本通りに動いてくれたらいいだけ」

「見せて。持ってきてるんでしょう、その脚本とやら」

 へへへと笑ったユイは鞄からノートを取り出した。
 ノートを開くと1ページ目に「ある秋の逢びき」と書かれている。
 そのタイトルを見て、キョウコは眼がくらくらした。
 ああ、本格的だ。もう逃げ場はない。
 蜘蛛の巣にかかった、私は哀れな蝶。
 この蜘蛛女!と上目遣いで睨みつけるが、蜘蛛女はニコニコと笑い次のページも見ろと促す。
 ざざっとノートを読んだキョウコは呆れ顔でまず漏らした。
 
「あなたね、これ書くのに何日かかったの?」

「3日!ちょうど試験だったからね。時間はたっぷりあったもの」

「試験勉強もしないでこんなの書いて。あなたってまったく」

 そうは言いながらもキョウコ自身試験勉強などしない。
 だから彼女も試験期間中は暇をもてあまして読書に勤しんでいたのだが。
 そんなキョウコは自分の鞄を開くと筆箱を取り出した。
 その白い手が持ったのは赤鉛筆。
 もう何代目になるのかわからないが、ステッドラー社製の赤鉛筆である。
 父親に銀座で買ってもらって以来、彼女は赤鉛筆はこれに決めていた。

「あっ、添削なんてしないでよ」

「うるさい。だいたい私がこんなこと喋ると思う?ごきげんようカナコさん、ですって?
こんにちは、で充分じゃない。それにこの英語の多さは何よ、まったく。私は日本人だっていうの」

 キョウコはあれやこれやと赤鉛筆で訂正を入れていく。
 そしてそのうちに気がついた。
 最初のうちは文句を言っていたユイが何も言葉を挟まなくなっているのだ。
 手を止めて、ユイの方を窺うと彼女はニヤニヤと笑っていた。
 その瞬間、キョウコは自分の馬鹿さ加減にようやく思い当たったのである。
 自分はどうして積極的に計画に参加をしているのだ?
 畜生、性格をとことん見抜かれている。
 舌打ちしようかとも思ったのだが、聖ネルフの生徒にそんなはしたない真似はできっこない。
 仕方がないので、彼女は超特大の溜息を吐くに留めた。

「で、どこで?ここにはとある公園ってなってるけど?まさかそのあたりの児童公園じゃないでしょ」

「うん、目星はつけてるの。ただ不公平がないように、同じ場所の方がいいからね」

 ユイはにこやかに微笑む。
 その発言に不穏なものがふたつばかり含まれていることを探偵小説好きのキョウコはすかさず見抜いた。

「ちょっと待った、ユイ。不公平とか同じ場所ってどういう意味よ」

 キョウコは大いに嫌な予感がした。
 まさかとは思うが、そのまさかと思うようなことをこの親友はあっさりとしてくれるのである。

「カナコさんは麻布。シノブさんは本郷。ミスズさんは田園調布。3人に平等な場所を選ばないといけないのよね、これが」

「3人…!」

 キョウコは絶句した。
 そして彼女は一縷の望みをかけてユイに問いかけた。
 絶対に違うと確信していたのだが。

「はは、私は一度に3人とデートするわけなのね。大変なこと」

「違うよ。別々に一人ずつで3回」

 ぶん殴ってやる。
 キョウコは心の中で親友の頬を3回ほど往復びんたをしたが、ユイのイメージはそれでもにこやかに笑っているので脱力した。
 コイツはこういう女なのだ。
 興奮した方が損をする。
 
「ということはこの私は日曜日を3回もつぶさないといけないわけだ」

「うん、そういうこと。大変だけどよろしくね」

「あんたは何を得るわけ?」

 キョウコはずばりと訊いた。
 しかし、ユイは瞬時にいつもの言葉を返すだけだった。

「何も」

「ああ、そう。何も、なのね。いつもの通りに」

「ええ、何も。ああ、違った。ひとつだけあるわ」

 空惚けた表情でユイは人差し指を一本立てる。
 おや、珍しい。
 いつもと違う彼女の反応にキョウコはわくわくしながら何かと尋ねてみた。
 しかしその返答は再び彼女を脱力させるだけだった。

「私とゲンちゃんがデートできるのよね。あなたたちの警護役で付き添いするから」

「付き添い!あの髭面を従えてデートするわけぇ?」

「従えるなんて言葉が悪いわよ。20mほど離れた場所に私たちがいるだけのこと」

 微笑むユイはその後愚痴をこぼす。
 最近執筆が忙しいからデートをしてくれないのだ、と。
 そして、わざとらしい笑顔で付け加えたのである。

「ああ、誤解しないでね。自分がゲンちゃんとデートしたいからこんなことを請け負ったんじゃないからね」

 嘘だ。
 キョウコはユイの言葉を全否定した。
 彼女は暗にそれが目的でこんな馬鹿げた企画をしたとキョウコに伝えたいのだ。
 そんなわけがない。
 もっと違う、想像もできないような目的が彼女にはあるに違いない。
 まだ4年目の付き合いだが、親友であるキョウコにはそれがよくわかった。
 しかし、現時点では目的については何もわからない。
 キョウコは溜息交じりに別の質問をした。

「で、この私には何の利益があるわけ?」

「可愛い女の子とデートできる!」

「私は同性愛じゃないってば!」

「それじゃ、おいしいお弁当を食べられる、かな?きっとみなさん、おうちの料理人に豪勢なお弁当を作ってもらうでしょうから」

 私が食い物につられると思っているのか。
 キョウコは憤りを感じながらも、大金持ちの息女の弁当というのはどんなものかしらんと少しだけ思った。
 日頃学校に持ってくるものとは絶対に違うのだろうと。
 
「食べ物のほかは?それだけの報酬でせっかくの日曜日を3日もつぶせって?」

「ま、報酬だなんて」

 ユイは怒った顔をしてみせる。
 その表情はいかにもミッション系の女学生に相応しく、友情を物欲で秤にかけることに対する憤懣を表している。
 このエセ聖女がっ。
 この顔にみんな騙されるのよ、とキョウコは大きな溜息を吐く。

「報酬ではありませんが、シノブさんのおうちの別荘にご招待されてますね、そういえば」

 笑みを浮かべず、ユイはくだらないことだという表情で言う。

「キョウコさんとお散歩できるのならお仲間の皆様とご一緒にどうぞ、と。私はいいって言ったんですけどね、どうしてもと」

「どこ?」

「鎌倉ですって。別荘のプライベートなんとかがあるそうで、他の人は入れない海岸があるそうです」

「それはまた豪勢な。私は浜茶屋とか海の家がある庶民の海水浴場の方がいいわ」

「そんなところではシノブさんたち卒倒してしまうでしょうね。でも、そのなんとかビーチには…」

 アンタ、プライベートビーチだって知ってんじゃないか。
 絶対に突っ込んでやらないぞとキョウコは無視を決め込んだ。
 するとユイは少し悲しそうな顔をして、シノブさんの別荘のことをあれこれと説明した。
 その中で映写室があることを聞いてしまうとキョウコは白旗を揚げることにした。
 映画会社からフィルムを借りることができるので…。

「キョウコさんがよろしければ、リストをお渡ししてご覧になりたい映画を3本ほど選んでいただきたく思いますの」

 シノブさんのおっとりとした口調を真似てユイはキョウコを誘惑した。
 ユイと同様にキョウコもまた映画は大好きなのだ。

「ゴジラはないわよね」

「ないでしょうね、きっと。洋画が多いと聞きましたけど」

「ちぇっ」

 ああ、もう駄目だ。
 1本だけでなく3本も選んでいいだなど…。
 そのリストにはどんな映画があるのかしら。
 キョウコは完全に篭絡されてしまった自分を心の中であざ笑っていた。

「できれば、そのうちの1本くらいは私に…」

「だめ!」

 キョウコは虫のいい言い草を即行で拒否した。

「でしょうね。ではデート1回につき映画を1本選べるということで手を打ちましょうか」

 この野郎、ではない、この尼、だ。
 この尼、すでにそれで手を打ってきているのだろう?
 まあ、いい。男とデートなら絶対に拒否するが、同級生とデートごっこをするだけだ。
 アルバイトと考えて手を打とう。
 観念したキョウコだったが、ユイに対する何かしらの抵抗を忘れてはいなかった。 
 彼女はいかにも今思いついたかのように手をぽんと叩いた。

「そうだ!いいことを思いついたわ。あの髭面はさすがに招待されてないんでしょう?」

 キョウコの質問を聞くとユイは哀しげな表情を浮かべた。
 その時はシノブさんのご両親もいるので用心棒は不要だとの事らしい。

「だからね、ユイ?あなた、乗りたいって言ってたでしょう?うちのサイドカー」

「乗せてくれるのっ?」

 この時ばかりはユイも子供に戻ったようだ。
 それはそうだろう。
 家に遊びに来た時はサイドカーをきらきらした眼で見、キョウコの乗車談を羨ましげに聞いている彼女なのだから。
 
「お父さんに頼んでみる。鎌倉までならいいドライブになるから、きっとお父さんも喜ぶと思うわ」

「本当?嬉しいっ」

 にっこりと子供のように笑うユイを見て、わずかだったがキョウコの良心がちくりと痛んだ。
 もっともユイが乗り物酔いなどせず、またサイドカーの“舟”に乗る適性があるのなら何の問題もない。
 だがキョウコは知っている。
 あれは長時間乗るものではない、と。
 まあ、もし駄目だったら謝ればいいわ。
 多分謝ることになるだろうと思いながら、キョウコは親友の笑顔を眺めた。

 その翌日である。
 放課後になり、二人は中庭のベンチに腰掛けて話をしていたが、ユイはキョウコの提案に渋面を作った。
 キョウコはデートの行き先に昨年末に完成したばかりの東京タワーはどうかと申し出たのだ。

「東京タワーなんて、そんなのあの子たちは喜ばないでしょう?」

「ん?喜んだよ、みんな」

「えっ、キョウコったら、もう話をしてきたの?」

 キョウコはにんまりと笑った。
 どうせデートをしないといけないなら楽しまないと損だ。
 そしてそれならば相手も楽しんで欲しい。
 公園を散歩するだけなど愛し合う二人が手を繋いで歩くならともかく、10代の娘が二人ですることではない。
 そもそも公園という計画が出てきた理由はわかっている。
 護衛という名目で自分たちもデートをしようという魂胆なのだ。
 しかも公園ならば費用はほとんどかからない。

「みんな、見たことはあるけど上った事がないってさ。連れて行ってくださるんですか?なんて感じですっごく喜んだ」

「で、でも、キョウコが大変でしょう?3回も同じところにいくなんて」

「私は大丈夫。私、馬鹿だから高いところ好きだしね。お父さんの遺伝かしら」

 惣流トモロヲは元海軍中尉でゼロ戦に乗っていた。
 キョウコは飛行機に乗ったことはないが、機会があれば自分も空の上まで行ってみたいと思っている。

「け、経費は自分持ちなのよ。向こうの奢りじゃないのよ」

「うん、わかってる」

 ユイはあからさまに困っていた。
 1度だけでも東京タワー遠征など経費がかかって仕方がないではないか。
 展望台に上がるのは無料ではないのだ。
 好奇心旺盛で博学が自慢のユイは東京タワーの展望台入場料金も諳んじている。
 大人が120円で高校生は70円、中学生以下は50円だ。
 彼女たちは70円だが護衛且つデート相手は大人になるので120円、1回ごとに190円だから3回で570円。
 映画に4回も行けるではないか。
 ユイのような普通の財政状況である女子高生にとっては大いなる物入りだ。
 デート相手に割り勘を望めば間違いなくあの男は下で待っているというだろう。
 代金向こう持ち食事つきという事でようやく本屋の店番から引っ張り出せたのだ。
 
「勝手に決めないでよ、本当に…。どうしよう…」

 日頃困った顔などしない友人を見て、キョウコは優しく微笑んだ。
 こういう顔だってできるのに優等生の仮面を人前では脱ごうとしないユイなのだ。
 ユイの本音を見ることをできるのはキョウコの特権だった。
 キョウコは鞄から封筒を取り出した。

「全部で20枚あったのよ。おばあさまはあんなところに上がる気はありませんって梃子でも動かないからさ。
使ったのは4枚だけ。お父さんと2回行ったからね。残りが16枚だから3回分のデートには充分おつりが来る」

 まるで札束を見せびらかすようにキョウコはユイの目前で特別招待券をひらひらと動かせる。

「な、何?それ!福引で当たったの?」

「まさか。うちのお父さん、テレビのメーカーでしょう。しかもほら、仕事が外国の人との応対だからね。
東京タワーにはかなり行ってるらしいの。で、何とか財団とかいうところからただ券貰って」

「私聞いてない」

「あら、言ってなかった?ごめん。でも、ああいうのってあなた好きだっけ?」

 どちらかと言うと、東京タワーは美観を損ねると文句を言っていたユイだった。
 ゴジラかアンギラスにでも壊されればいいとまで毒づいていたほどだ。
 だから、キョウコはただ券を貰っても彼女を誘わなかったのである。

「じゃ、6枚渡しておくわね。あの子たちは代金は払うってみんな言ったけど断った。
そのかわりお弁当を奮発してねって頼んでおいた」

 キョウコはウィンクして見せた。

「当然、そのお弁当に私とゲンちゃんは数に入ってないんでしょう?いいわよ、私たちはおにぎり持って行くから」

 ぶぅっと頬を膨らませるユイの頭をキョウコはがしがしと乱暴に撫でた。
 止めてよと逃げる親友はキョウコにだけは年相応の表情を見せる。
 だからこそキョウコはユイが可愛くて仕方がない。

「拗ねないでよ。護衛の分も頼んでおいたから。その代わり食べる場所は別々だって」

 その言葉を聞いて、ユイはやった!と喜ぶ。
 しかしその二人はお金持ちが奮発したお弁当というものが自分たちの想像をはるかに超えるということを知らなかった。
 芝公園のベンチでまるでおせち料理のような5段重ねのお重を目の前にし目を白黒させた二人である。

 3週連続のデートは概ね良好に進行した。
 いささか肩は凝ったが真正のお嬢様を相手にしたキョウコもそれなりに楽しめた。
 彼女の好むピンポンのような会話は不可能な相手だったが、それでも学生生活の最大の思い出になると言われると悪い気はしない。
 どうやらこの計画中で一番割を食ったのはユイの婚約者だったようだ。
 ユイは同じ場所であっても彼と一緒ならまったく問題がないのだが、彼の方はそうもいかない。
 ただでさえ仏頂面なのが2回目3回目と続くにつれてどんどん酷くなっていったのだ。
 そんな彼もユイの願いを断ることはできなかったようで、結局3回とも護衛役を果たしたのだったが。

 その後、実はキョウコにとって4度目のデートも発生した。
 3回だけの約束だったからと依頼してきた3年生をユイが断っているところをキョウコがたまたま目撃したのだ。
 そしてその依頼を彼女があっさりと受諾したのである。
 その理由は不公平だからということだったのだが、これにはユイが不満だった。
 それではきりがない、ずっと受け続けるつもりかと強い口調で問われると、
キョウコは大丈夫だからと笑って取り合わなかった。
 今回のデートで完全に終わりにするからと断言するので何か考えがあるのかと思っていると、その翌日に事件は起きた。
 聖ネルフ学園高等部には昇降口の右手に大きな掲示板がある。
 そこには主に行事の連絡などの文書が秩序正しく並んでいるのだが、
その真ん中にそして貼られた公文書のさらに上へ大きなわら半紙が堂々と貼られていたのだ。
 普通のわら半紙を糊で貼り合わせ四倍の大きさにしたもので、油性のマジックで文字が黒々と書かれている。
 


 宣言文

 ご好評いただいておりました秋の芝公園お散歩会は終了いたします。
 今後、いかなる理由がございましても、
 私、惣流キョウコは参加いたしませんので悪しからずご了承ください。
 以上、よろしくお願いいたします。

 昭和34年10月29日
 1年1組出席番号18番 惣流キョウコ

  

 その手製の貼り紙を見て、碇ユイはあんぐりと(場所柄を考えささやかにだが)口を開けてしまった。
 なるほどこれなら効果はあるだろうと思うものの、方法が拙いのではないか。
 彼女は掲示板の周囲に群がる制服の乙女たちを見てすぐ先の未来に待ち受けている運命に溜息を吐いた。
 教室に到着するとキョウコは自分の席で腕組みをしたまま目を閉じて座っていた。
 明らかに私眠ってますと言わんばかりの態度だったが、ユイはそんなデモンストレーションに頓着しない。
 
「ちょっと、キョウコ」

「おはよう。ユイにすれば珍しいわね、挨拶抜きなんて」

「ああ、そうね。おはよう、キョウコさん」

 改めて挨拶をしたユイだったが、その目はこの尼!と言わんばかりの眼差しだった。
 目を開けたキョウコは親友の反応を見てにやりと笑った。

「見た?」

「見た」

「どう?あれならばっちりでしょう。もう誰も申し込んでこないわよ」

「生徒はね。職員室からの出頭の申し込みはあるわよ、絶対」

「でしょうね。だから、私は待機中。今すぐか、お昼休みか、放課後か。
まあ、あれくらいなら説教だけで済むでしょう」

 不敵に笑うキョウコは再び目を閉じた。
 その格好を見て、ユイは苦笑した。
 そして思うのだ。
 明治維新の時に活躍したという、惣流イチノジョウ、
後の海軍中将・惣流ヤスアキもこのように悠然と構えていたのではないか。
 歴史の専門書などで写真を見ることのできるキョウコの曽祖父は
もちろん白人の容姿の彼女とは性別は当然としてもまるで見た目が違う。
 それでもやはり血の繋がりがあるのだろう。
 全体的な雰囲気が似通っているのだ。
 因みに彼女の父・トモロヲは髭を書き加えるとその写真にそっくりだ。
 政治には興味を示さず軍閥にも寄らなかった惣流中将は華族となることも強硬に辞退したのだが、
所謂上流階級の方々には好意を持って受け止められていたらしい。
 その証拠に今回のデートにしても相手が惣流中将の曾孫だと知るとどの家も反対はされなかったそうだ。
 そんな有名人の親友をしているユイはごく普通の一般人。
 聖ネルフ学園にいると時代を錯誤してしまう時もあるが、
例え民主主義の時代でなくともキョウコは自分と接するのに何の拘りも持たないだろう。
 彼女はそういう人間だ。
 だから好きになった。友達になりたいと思った。頑なだった彼女の気持ちに強引に入り込んだ。
 今回のように突拍子もないことを平然とする彼女もまた好ましい。

 さて、職員室への呼び出しは放課後だった。
 担任教師を隣に教頭先生に説教されるキョウコは一見神妙な表情をしているが反省など何もしていないことなど誰にもわかる。
 その上彼女は170cmを超える長身だから、背の低い教頭は見上げるしかない。
 だから教頭も余計に腹立ちがおさまらなかったのだが、やがて助けの主が現れた。
 一枚の紙片を手にしたユイはこの掲示申請書を提出しご了承をいただいてから隅の方に掲示する予定でしたと神妙に申し出たのだ。
 惣流さんとは連絡が行き違いこの様な事態になりました、本当に申しわけございません。
 ここまできちんと謝罪されると、教頭としても適当なところで説諭を切り上げるしかない。
 しかし、しばらくして釈放されたキョウコはユイに不平を漏らした。
 
「1時間も叱られれば済んだのに」

「仕方ないでしょう。あの子たちにも何とかしてあげてと頼まれたしね」

 あの子たちというのはデート相手のことだ。
 私たちも一緒に職員室まで伺いますと申しだされたのだが、そうなると逆に事が面倒になる。
 策略家のユイは既に一計を案じていたのだから、彼女たちは邪魔なのだ。
 彼女たちは普通のお嬢様だから情に訴え自分たちが悪いのだと謝るだけで、
もしかすると秋のお散布会という実質デートにまで教師たちが目くじらを立てかねないではないか。
 ということで、ユイは彼女たちの申し出を丁重にお断りし、自分の計略を単独で実行したわけである、

 職員室から開放されたキョウコは教室に戻ると拍手を持って迎えられた。
 デート相手の3人には泣かれてしまい、救出したユイはさらに評価を上げた。
 例の4人目のデート相手となる3年生は昇降口のところで頭を下げられ、
キョウコはここまで大事になるとは思わなかったと校門を出た後でユイにこぼした。

「そんなの少し考えたらわかるじゃない。キョウコって頭はいいのにちょっと抜けてるのよね」

「悪かったわね。私だけ先生から叱られたら終わりだと思ってたのに」

「あのね、人気があるからデートしたいって申し出があったんでしょう。
勇気を出して申し込んできた人たちは氷山の一角よ。現実にあなたが職員室に入っている間に、
5人以上の子がもう終わりなんですかって名残惜しそうに言ってきたのよ」

 へぇ、とキョウコは満更でもなさそうににんまりと笑った。

「あなたがその気になったら聖ネルフ学園に一大ハーレムを作れるわよ」

「馬鹿らしい。興味なし」

「でしょうね。私もあなたがそんなヤツなら興味ないし」

「ありがと」

「いえいえ、私は男はゲンの字以外に興味はないもの」

「こら、私は男じゃないわよ」

「金髪美人の皮を被った男…じゃないわね、女に興味ないんだから。
じゃ、その男に見せかけたただのファザコン、ねっ」

「お父ちゃんは関係ないってば」

「出た出た、お父ちゃん。動揺した時に出るのよね。キョウコの“お父ちゃん”は」

「うるさいわねぇ。あんたって…」

 そこでキョウコは大きな溜息を吐いた。
 自覚はしていないがどうやら本当のことをつかれてカッとなった自分をヒートダウンしたのだ。
 下町育ちではないのだが、うっかりすると男の子たちと遣り合っていた小学校の頃の自分が出てしまう。
 彼女は口調だけは聖ネルフ調に抑えてゆっくりと言葉を発した。

「まったくあなたって本当にどうしようもないワルね」

「世間ではあなたの方がワルだと思われてるはずよ」

 ここでの世間というのは聖ネルフ学園を指す。
 本当の世間ではキョウコ程度をワルとはお世辞にも言えるわけがない。

 さて、その数日後に4度目の、そして最後のデートが執り行われた。
 それで今回の目的がはっきりとしないデート企画は終わった。
 キョウコは既に本当の目的が何かということを突き止める気が失せていたので、
今回のことはそのまま記憶の中に納まっていくだけの筈であったのである。
 中等部入学以来、初めて見るユイの泣き顔に出くわすまでは。





 それはもう真冬といってもいい、年の瀬も押し迫った12月28日の出来事だった。
 暖房器具のないキョウコの部屋は寒い。
 だから彼女は掘り炬燵のある居間に避難するのが常となっている。
 既に冬休みに入った彼女は午前中を祖母主導の大掃除にこき使われ、午後からは小休止を取っていたのだ。
 掘り炬燵の台の上には蜜柑が盆の上に盛られ、3個分の皮がその横に転がっている。
 キョウコは掘り炬燵が好きなのだが、ただ一つ文句があった。
 掘り炬燵では横になることができないからだ。
 もっとも寝そべったりすれば間違いなく祖母に叱られてしまうのだが。
 彼女は台の上に読んでいた『エーミールと探偵たち』を丁寧に置いた。
 それは母の形見の本なのだ
 もし汚したりなどすれば父に成敗されてしまうかもしれない。
 ドイツ語だから時折辞書の助けが必要なのだが、それでももう何回目かの読み返しなのでそれほど辞書を開くことはない。
 ユイの家…ではない、店で購入した日本語訳のものも読むのだが、時に原書の方を手にしたくなる。
 それはドイツ語が上達したいという意思ではなく、母の香りをかぎたい時、なのだろうと自分でも思う。
 写真でしか知らない母。
 自分に生を与えるためにまるで身代わりのように命を失った母。
 未だに父に深く愛されている母。
 父からは聞いたことはないが、会社絡みで見合いの話が時々来るようだがすべて断っているらしい。
 そんな父が好きだ。
 ファザコンの何が悪い。私はファザコンじゃないけど。
 自分で認めたくはない、ファザコンのキョウコは再び母のことを思った。
 あの父にこれほど愛されているのだから、母は素晴らしい女性だったに違いない、と。
 さて、自分はそういう相手にめぐり逢えるのだろうか?
 いや、そもそも初恋というものはいったいいつ訪れてくれるのだ?
 そのためには男性と接触する機会が必要なのだが、名門女子高に通う彼女には出逢いのチャンスがほとんどない。
 学校にいる男性といえば教師か事務員。大抵はいいお年を召された方々だ。
 となれば、通学中となるが、キョウコは付文をしてきたり声をかけてくる連中が大嫌いだった。
 ということは…。
 もしかすると、自分は見合い結婚する羽目になるのか?
 ぶるるる!勘弁して欲しい。
 彼女も惣流家の人間だった。
 燃えるような恋をしたいのだ。
 ああ、その人は今何処?どんな人なんだろうか。
 キョウコは夢を馳せた。
 願わくば、ユイの相手みたいなのは勘弁してください。
 六分儀ゲンドウというユイの婚約者は彼女の美的感覚からすると完全に枠外である。
 せめて髭を剃れ!黒眼鏡など外せ!もっと愛想良くしろ!ぼそぼそ喋るな!
 言いたいことはいっぱいあるが、ユイに言っても相手にされない。
 あなた如きにはあの人の良さがわからないの。
 ファザコンのキョウコはまだまだネンネの子供だからね。
 馬鹿らしい、とキョウコは4個目の蜜柑に手を伸ばした。
 その時である。
 玄関の鈴が鳴ったのは。
 出ようとするといつものように祖母に先を越された。
 どこにいてもあっという間に玄関に現れる祖母はどんな特殊能力を持っているのだろう。
 掘り炬燵から出たキョウコは再び炬燵布団に足を入れようとした。
 自分への客などあるはずがないからだ。
 どうせ歳暮か何かだろう、と。
 しかし、来客はキョウコに会いに来たのだ。

「どうしたのよ。今朝は凄いスモッグだったわねぇ、もう晴れたみたいだけど。まあ、入ったら?」

 襖の所に立つユイにキョウコは声をかけた。
 しかし、ユイは微笑を浮かべたまま首を横に振った。

「キョウコの部屋に行きたい」

「えっ、寒いわよ。あそこ」

「いいの。あそこがいい」

「ふぅん、まっ、いいわ。先に行ってて。私、蜜柑とか持ってくから」

 うん、と小さく頷いたユイは勝手知ったる親友の家ですいすいと廊下を進んでいく。
 蜜柑の皮を塵芥箱に入れ、本を小脇に抱えたキョウコは蜜柑の盛られた盆を手にする。
 その時、祖母がすっと現れた。

「ユイさん、何かあったようですよ」

「えっ、そうなの?」

「笑顔がいつもと違います。無理をして笑っているよう。気をつけてお話なさい」

 それだけ言うと、祖母は後は知らぬとばかりに台所の方に歩いていった。

「お茶は後から取りに来なさい。こちらからは行きませんから」

「うん」

 それはキョウコの部屋に祖母は顔を出さないという意味だ。
 何があったのだろうかと胸騒ぎの中、キョウコは自分の部屋に向かった。

 ユイは座布団もしないで部屋の真ん中でちょこんと正座していた。
 襖を閉めたキョウコは机の上に母の本を置き、畳に蜜柑の盆を置く。
 血色が悪い。顔面蒼白とはこのことか。
 寒かったのだろう、耳だけは赤くして、ユイは笑顔のままじっと黙っている。
 その微笑を見ると、確かに祖母の言うとおりいつもの笑顔ではなかった。
 目が笑っていないのだ。
 頬の筋肉に命令をして笑顔を作っているだけ。
 何があったのだろうか。
 こういう時、キョウコは憶測はしない。
 とにかく相手に話を聞く。
 それが彼女のやり方だった。

「どうしたの、ユイ?何があったのよ」

 彼女の目の前に正座したキョウコがそう尋ねると、突然ユイが飛びついてきた。
 実際には縋りついてきたのだが、正座している首っ玉に抱き疲れてしまうとバランスを崩すしかない。
 キョウコはユイごと仰向けに倒れ、盆から畳にこぼれた蜜柑がころころと思い思いの場所に転がっていく。
 
「ちょっと、ユイっ。あんた…」

 驚いたキョウコは友を叱責しようとするが、その言葉は途中で止まった。
 何故ならば、抱きついてきたユイの身体は大きく震え、嗚咽がキョウコの耳に届いたからだ。
 ユイが泣いている。
 慰めるより前に驚きの方が先に立った。
 球技大会で転倒し膝が血まみれになり見ている同級生たちの方が涙ぐんだような時も、
怪我をしたユイ本人は大丈夫だからと笑っていたほどである。
 二人で映画を見に行った時も、ちょっぴり涙ぐんだキョウコが
泣いたという事実を隠さないと気が済まないくらいにけろりとしていたユイなのだ。
 そのユイがまるで子供のように声を上げて泣いている。
 キョウコはどうすればいいのかと戸惑ってしまった。
 とりあえず自由になっている手で彼女の背中と頭をよしよしと撫でる。
 しかし、この後どうすればいいのだろう。
 子供が母の胸で泣きじゃくる時は…。
 わかんないよ、私には。
 よく考えるとキョウコにもこういう実経験がなかったのだ。
 赤ん坊の頃の記憶はない。
 物心がついてからは厳格な祖母に育てられていた上に、泣くことが嫌いだったのである。
 私、声に出して泣いたことあったっけ…?
 せいぜい涙ぐんだことしかないキョウコはほとほと困り果ててしまった。
 その挙句、どうでもいいことばかりが頭に浮かぶ。
 これだけ泣かれたら私のカーディガンはユイの涙や鼻水でぐちゃぐちゃになっているんだろうなぁ…。
 ちょっと、ユイ、今ブラジャーしてないんだからあまり顔をこすり付けないでよ。
 そんなことを考えてしまう自分を叱責し、まず親友は何故泣いているかということを考えることにした。
 もちろん考えている間はずっとユイをよしよしと撫で続ける。
 まずユイの格好だ。
 入ってきた時、コートは着ていたかどうか。
 いや、着ていない。手にも持っていなかった。
 背中を撫でていた手を少しずらすとユイのセーターはしっとりと冷たい。
 着の身着のままで来たという事か、つまり。
 ということは何かがあって、私に泣きつきに来たわけだ。
 その何かとは何か。
 あのユイが泣くようなこと。
 加東大介そっくりのおじさんか髭面黒眼鏡のあの婚約者がが死んだとか大怪我をしたとか?
 どうやらそういう類の問題ではないような気がする。
 それならば泣くのを耐えることはないだろうから。
 わざわざここまで我慢してきたのだ。
 それではその二人よりもランクを下げて、親友の身に何かがあった…って、私はすこぶる元気。
 私以外に親友がいるかどうかは不明。99%いないと思うけど。
 ああ、わかんない。
 仕方がないので、キョウコは鎌をかけてみることにした。
 ユイが泣くなど、やはり同居しているおじさんか婚約者のどちらかにまつわることに違いない。
 さて、どっち?やはり乙女としては婚約者の方ではないかと思ってしまう。
 ではどういう鎌にするか。
 婚約者が浮気をした…と言いたいところだが、それは止めておいた。
 実にポピュラーな鎌ではあるが、その場合ユイは黙って婚約者を刺し殺しそうだ。
 そして返す刃で己の胸を一突き…。
 ぶるるる!とんでもない想像はやめよう。
 キョウコは小さな鎌にすることにした。

「彼に酷いことを言われたの?」

 一瞬、ユイの動きが止まった。
 おお、これは!とキョウコが思ったのも束の間、ユイの泣き声はさらに高くなった。
 それだけではない。彼女は顔を思い切りキョウコの胸に擦りつけてくる。
 気持ちがいいとか悪いとかというレベルではない。
 その上、判読不能な言葉、おそらく日本語で叫びだしたのだ。
 
「こ、こら、ユイっ。何言ってんのか、わからないわよっ」

 結局、ユイが落ち着くまで30分近くかかってしまった。
 慰めることができたのではなく、ユイの体力の限界が来ただけの事だ。
 涙も喉も枯れてしまい、ひぃひぃとしか音が出なくなり、最後にユイはずるずると鼻を啜った。
 キョウコの胸から顔を上げた時の彼女の顔はおそらく一生忘れることはできないだろう。
 限界まで泣くとこういう顔になるのかとキョウコは思った。
 そして恐る恐る自分の胸元を見て、彼女は自分が泣きたくなった。
 涙か涎か鼻水か、正体を知りたくもない液体がとっぷりとカーディガンとシャツに付着している。
 すぐに洗濯をしないといけないだろうが、ユイを放っておくわけにはいかない。
 祖母に怒られることは承知でキョウコはまず親友をどうにかしようとした。
 その時である。
 閉められた襖の向こうで祖母の落ち着いた声がした。
 
「いつまでも取りに来ないから持ってきましたよ、キョウコさん。
ここに置いておきますから、熱いタオルで顔をお拭きなさい。
それから、着替えて廊下にシャツを出しておきなさい。洗いますからね」

 伝えたいことだけ言うと、微かな足音が去っていく。
 おばあさまは凄いなぁとキョウコは感心し、襖を少し開け廊下に置かれた大きな盆を部屋の中に入れた。
 お茶が入った湯飲みは机の上に乗せ、湯気が立っているタオルを盆ごとユイの膝元に滑らせる。
 
「私が拭いてあげようか?」

「いい。自分で拭く」

「それは助かる。私は着替えたいからね。もうぐちゃぐちゃ」

「ごめん」

「いいって。それよりさっぱりしなさいよ」

 その後、キョウコはユイを見なかった。
 さっさとカーディガンとシャツを脱ぎ、上半身裸になると寒さにぶるると身体を震わせる。
 急いで整理ダンスから長袖のシャツを出し、セーターを着込んだ。
 それからユイを見ると、彼女は濡れタオルを畳んで盆に戻しキョウコの方を見ていた。
 熱いタオルの所為か血色がよくなった顔に浮かんだ、ユイの表情に苦笑らしきものが浮かんでいるのでキョウコは少し安心する。

「何よ。何か私に言いたいの?」

「うん。キョウコのおっぱい綺麗」

「馬鹿っ!」

 怒鳴ったもののキョウコはほっとした。
 少しは落ち着いてくれたようだ。
 キョウコはユイにあっかんべぇと顔を歪めて見せ、濡れた衣服を廊下に出した。
 おばあさまごめんなさいと小さな声で言い、襖を閉めた。
 さて、これからどうしようか…。
 焦るなよ、キョウコ、と彼女は自分を戒めた。
 相手はあのユイなのだ。
 おそらく家の外では自分以外の人間には仮面をつけたままで過ごしているのだから。
 キョウコは机の上から湯飲みを持ち上げ、その一つをユイに渡す。
 その時、廊下で足音がした。
 先ほどよりも少し大きな足音はキョウコの置いた衣服を持ち上げそのまま何も声をかけずに戻っていった。
 明らかに立ち聞きなどしないということを示す行動だった。
 それをユイは察し、その場にはいない老女に頭を下げる。
 
「いいなぁ、あすかおばあちゃん」

「まあね。かなり厳しい人だけど」

「それでも羨ましい。うちには女っ気ないもの」

 空襲で母親を亡くしたユイはその後唯一の身寄りであるおじさんに育てられている。
 
「なるほどね」

「でも、さっき思い出した」

「何を?」

「お母さんの感覚」

 その言葉の意味はすぐにわかった。
 無意識に手で胸を覆い、キョウコは顔を真っ赤に染める。

「わ、私だって近所のおばさんにもらい乳してもらってた…らしいから、きっと…もうっ、ユイの馬鹿」

 キョウコもユイもその生い立ちを互いに知っている。
 出生とともに母を失ったキョウコはお金を出してもらい乳をされていた。
 だからその相手とはその後交渉も何もない。
 乳を分けていたその母親は自分たちが食べるために、異国人の風貌をした赤ん坊に乳を含まさせていたに過ぎない。
 戦後風に言うとあくまでビジネスだったというわけだ。
 したがって祖母はキョウコにはそのことをはっきりと言わなかったが、小学生の頃に彼女はそれを知ったのだ。

「キョウコに比べて幸せかな、私は。それだけでもお母さんの感覚が残っているんだもの」

「私の…で思い出さないでもらいたいわ」

「ごめんね」

 そのごめんは何に対してのものだったのか。
 おそらくいろいろなものについてユイは謝罪したに違いない。

「さてと、で、喋る?喋らない?どっちにする?」

「酷いなぁ。普通はしつこく詮索する場合じゃない?親友がぼろ泣きしたんだから」

「話したくないことまで話せなんて言えないじゃない。だいたいあなたが詮索して喋る?
気に入らなきゃ拷問されても口を割らないでしょう、あなたって人は」

「でもね、喋りやすい雰囲気作りっていうものがあるでしょう?」

「水分ならお茶があるし、タオルもあるわ。泣きたければ好きなだけ泣けばいいのよ」

「うわぁ」

 ユイは非難の叫びを上げた。
 一緒になって泣いてくれると思ったのに、と彼女は恨めしげな眼差しを向けてきた。

「馬鹿ね。内容もわからないのに泣けますかって」

「内容ね。確か溶岩に落ちたラドンが可哀相だって涙ぐんでたわね、キョウコは」

 げっ、やっぱり見られてた。
 キョウコは不愉快そうに眉間に皺を寄せた。

「まあ、こういう対応された方が喋りやすいか。あのね…」

 ユイは淡々と話し始めた。
 その内容を聞き、キョウコは呆れ果ててしまった。
 なるほど、あのデートにはそういう意味があったのか。
 
 ユイの目的は3人のデート相手の中の一人にあったのだ。
 丸山ミスズの父親はとある出版会社のオーナーだった。
 その娘に恩を売り、それとなく婚約者の書いたものが載っている同人誌を渡す。
 そして会話の中でこういうものはなかなかプロの目には届かないと嘆いてみせる。
 すると心優しきお嬢様は父親に口ぞえしてくれる、かもしれないと。

「かもって、そのかものために私は3人とデートしたわけ?」

「私の読みでは九割方そうなると踏んでたの。3人にしたのはキョウコに感づかれないため。
ばれたら怒るに決まってるからね」

 確かにそうだろう。
 キョウコの感覚ではコネを使うなどとんでもないことだ。
 芸能文化やスポーツの分野ならば己の力で勝負すべきだと思う。

「だから4人目が現れたときはまずいなぁって思ったの。
キョウコを道具のように使っていたから凄く引け目を感じていたのよね」

「その上、自分のデートにも利用していたものね。東京タワーの入場料返せ」

「ただ券でしょ。問題ないわ」

「髭面の口癖真似ないでよ」

 キョウコがそう言うと、ユイは表情を曇らせた。
 視線が畳に落ち、唇が僅かに尖る。
 おやおやまた?
 キョウコは警戒し、泣かれる前にと話を先に促した。

「で、彼に何か言われたの?」

 ユイはこくんと頷く。
 彼女の計画は見事に当たり、ゲンドウはその出版社から呼び出されたのだ。
 もちろんオーナー直接ではなく、文芸誌担当の編集者が相手だったが、
彼はまだまだ稚拙だと思うが社長のお声がかりなので掲載はすると冷たく言った。
 それに対してゲンドウは載せてなどいらないとはっきりと告げた。
 プライドかと訊かれ、彼は内容に問題があると客観的に答えた。
 稚拙どころか愚にもつかないものにすぎないと苦々しげにゲンドウは言ったそうだ。
 そしてもちろん掲載は見送りとなり、出版社から帰ってきた彼はユイに苦言を呈したのだ。
 お祝いの料理を用意していたユイをゲンドウはじっと睨みつけた。
 さすがの彼も事ここに至れば彼女の企みは推測できた。
 しかし彼には明智小五郎やシャーロック・ホームズのように明朗解析に事件を紐解くことなどできっこない。
 そこで彼はたった一言だけユイに投げつけ、憤懣たる背中を見せて碇家の台所から退場したのだ。

「で、ユイは泣きながら私ん家(わたしんち)まで来たと」

「泣いてないもん」

「心の中ではおいおい泣いてたんでしょうが。気を許すと涙が出てくるから一生懸命で笑顔を作ってたわけね」

「解説するな。酷いヤツ」

「ところで、ユイ?あなた、どうして泣いたの?」

 キョウコはニヤリとして言った。
 事件はすべて解けた。
 なぁに簡単な事件でしたよ、すべては勘違いだったのです。
 彼女はそうも言いたくてうずうずしていた。
 この当時の活発な文系少女の例に違わず、キョウコは探偵小説が大好きだったのだ。
 ある時は闇夜を駆ける大盗賊に心躍らせ、またある時は名探偵に憧れた。
 今キョウコの心は名探偵である。
 ところがユイの方はそれどころではない。
 今まで一生懸命に語ってきたことを親友は何一つ理解してくれていないのだ。
 惣流キョウコとは鉄の心を持った女だったのか!
 阿蘇山に死せるラドンに涙を流せても、失恋した親友のことは笑うというのか。
 おお、何たる非情な氷の女!

「あのね、キョウコ。だから、私は婚約者に嫌われたの。もう私の人生は終わりなのよ」

「そうかなぁ」

 ユイはむっとした表情を浮かべる。
 こんなに真剣に人生を嘆いているというのに何という態度だろう。
 キョウコはニヤニヤ笑いながら、転がった蜜柑を集めて盆の上に盛っている。

「私、帰る」

「どこに?家にいたくないからここに来たんじゃないの?」

「う、うっ…、じゃ、町を彷徨うわ。マッチ売りの少女みたいに」

「寒いからやめときなさいよ。コートも着て来てないんでしょ。ま、コートなら私の貸してあげるから、それ着てちょうだい。
で、帰るなら、そうね、あの髭面の好物でも買って家に帰れば?
確かあの顔でたい焼きが好きなんだっけ?」

「あの顔で、とか言うなっ。たい焼きが好物なんて可愛いじゃない!
それに、嫌われたから帰れないんじゃない、私は」

「あなたの家じゃない、あそこ。居候は髭面の方でしょうが。出て行くならあっちでしょ」

「こ、こ、こらっ。勝手に出て行かさないでよぉっ!」

「じゃ、出て行ってないんだ、髭面。ユイが出て行った時、何してた?」

「お店に…、いつものところに座ってた」

「ほらね。どうして髭面は出て行かずに本屋の店番をして居座ってるの?」

「えっと…、で、でも…」

 キョウコは楽しかった。
 彼女の悲劇を楽しんではいけないと思うものの、こんな見ものは他にない。
 何故なら仮面の女、鬼のような策謀家のユイが色々な表情を見せてくれているのだ。
 泣いたり、怒ったり、戸惑ったり…。
 彼女の表情がこんなに変化するとは思いも寄らなかった。
 この時、キョウコはユイの完全な親友になったのだと実感していた。
 だからこそ、嬉しく楽しい。
 絶対に人には見せない顔をどんどん見せてくれるのだから。
 明日になれば元通りの彼女になってしまうだろうから、余計に今のうちに楽しんでおこうと思ったのかもしれない。
 
「さぁて、ユイ君。もう一度、私に教えてくれないかな?
彼…髭面は、君にただ一言だけ何と言ったのかい?」

「だから…、二度とするな!って、私を睨みつけて。あんなに怒ったの見たことなくて…」

「二度とするな、ね」

 キョウコはにんまりと笑った。

「二度としなければいいってことじゃない。あんた馬鹿ぁ?」

「へ…?」

 ユイはきょとんとしてキョウコの顔を見つめた。
 そして小さな声で呟いた。

「にどとするな…って、にどとって二度ってこと?2回目ってこと?」

「私の日本語能力が正しければそうだけどね。辞書で調べてもそれ以外って載ってそうにないと思うけど?」

 ユイの顔がパッと輝いた。
 彼女を覆っていた暗雲が晴れたことを知ったキョウコは湯飲みのお茶をごくりと飲む。
 ああ、もう冷めちゃってる。

「たい焼き買って帰って、ごめんなさいって謝っちゃいなさい。
どうせあなたの思い通りに行かなかったからびっくりして謝るどころじゃなかったんでしょ」

「思い通りに行かなかったからじゃなくて、嫌われたって思ったからでしょ。キョウコの馬鹿」

「今は?嫌われたと思ってる?」

 ユイはにっこり笑って首を横に振った。



 その翌日のことだ。
 前日午前中のスモッグとはまるで違う冬晴れの陽の下、満面の笑みを浮かべた碇ユイは惣流家を訪れた。
 借りたコートを包んだ風呂敷を片手に、そしてたい焼きがたんまりと入った紙袋を抱きしめた彼女は、
昨日の御礼だと袋ごとキョウコに手渡し、部屋に上がりこんだ後ちゃっかり自分も2個食べた。
 もちろん彼女とあの居候の関係には何の変化もありはせず、婚約はまだまだ続行中のようだ。
 キョウコから見ると、あんな男のどこがいい、なのだが、人の恋路をとやかく言うものではないということは16歳の彼女でも承知している。
 まあ、いいや。
 キョウコはたい焼きを頬張る親友を見て心から思った。
 もうあんな酷い顔は私に見せないでよ、ユイ。
 だって、やっぱりあんたは笑ってる顔の方がいいんだから…。
 
 
  
 ところで、この女同士のデートはその後の彼女たちの人生に様々な影響を与えることになる。 
 例えば結局この時の縁でゲンドウはあの出版社から小説を発表することになるのだが、それはまだまだ先の話である。
 ただユイに振り回されただけのように思えたキョウコも30年近く経過してからデートの恩恵を受けることになった。
 さしもの策謀家であるユイもそんな未来まで算段していたわけではない。
 彼女はただ恋する男のために何かできないかと人騒がせにも考えただけのことで、
ユイ自身年末の騒動ですべて終わったと思っていたのだ。

 しかし、人と人との繋がりには終わりはない。
 目に見えぬ糸のようなもので延々と繋がっているのだ。
 人生というものはそういうものであろう。
 ともあれ、昭和34年の年の瀬はこうして暮れようとしていた。


(おわり)


 

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