AzusaYumi
「さよなら…」
これは私が嫌いだったファーストや、シンジを初号機に乗せる為に死んだミサト…、
そして最後はどうなったのか検討もつかないリツコさんに、他の還って来なかった人への言葉。
でも、それ以上に、かけなくてはいけない言葉。
そう、ママへのお別れの言葉。
今日は、ママと私が本当の意味でお別れした日。
本当の意味でママと"さよなら"した日だ。
あの後、
崖の上から海風に乗せて白いバラを散らした私は、シンジと共に黙って浜辺を歩いていた。
別に気まずい雰囲気というわけではなかったけど、何も言わずに歩く私の後をシンジはた
だ黙ってついてきていた。
私たちは何をするというわけでなく、時折、砂浜の岩に二人して腰掛けて、
海の向こう側
で横たわっているファーストの顔をただ呆然と眺めたりしていた。
しばらくしてから、ふと、時間が気になって時計を見たら大分時刻が過ぎていた。
そろそろ帰らないと夕方までに街の方に帰れなくなるのに気がついて、私はシンジに呼び
かけてバス停の方に向かった。
バス停までやってきた私たちは、ちょうどバスがやってきたのを見て、止まったのを見計
らって即座に乗り込んだ。
私とシンジはちょうど空いていた二人がけの席に座った。
窓際が私でシンジは座席側。
私がしばらく右手で頬をつきながら窓の外を眺めていたら、膝の上に乗せていた私の左手
に、何かが触れてくるのを感じた。
何かと思って、私はシンジの方を振り返った。
するとシンジは驚いた様子で手を引っ込めた。
シンジが私の手を握ろうとしたんだ…。
シンジはバツの悪そうな顔をして私と逆の方へ顔を背けてしまった。
私は嬉しいような、少し寂しいような気持ちになったけど、そのまま黙って過ぎ去っ
てく窓の外の景色を眺め続けた。
かなり経ってから、バスは私たちの住む場所の近くの停留所に止まった。
私とシンジはそのまま黙ってバスから降りた。
周りを見渡すと、すっかり日が暮れて、もう暗くなりかけていた。
私はなんとなく空を仰いで見た。
…月が出ている。
私とシンジは俯き気味に押し黙ったまま、それぞれが住んでいる場所までの同じ道の
りを歩いていた。
私はふと、思い立って足を止めてシンジに話しかけた。
「ねぇ、シンジ。
お夕飯作ってあげようか?」
突然の私の言葉にシンジは少し驚いたような顔をしたけど、すぐにいつもの穏やかな
笑みを浮かべて言った。
「うん…作って欲しいな。
アスカの作ったものが食べたいよ。」
その言葉に私は少し嬉しくなった。そして、ちょっぴりはしゃぐようにシンジに言っ
た。
「よし。じゃ、アンタの家で作ってあげるわ。
冷蔵庫の中に何かあるでしょ? それ、使ってさ。」
「え…? 僕の家? …いい…けど?」
シンジは少しとまどったような様子でそう言ったけど、私はそんなシンジの手を構わ
ずに引っ張って、シンジの部屋に向かって急ぎ足で歩いていった。
部屋まで来た私たちはそのまま台所で夕食の支度をした。
お米を洗って、それを炊飯器にセットして、それから冷蔵庫の中を漁って、そこにあ
る材料を使って適当に…。
途中で野菜を取り出そうとして冷蔵庫の中を覗いたのだけど、冷蔵庫の奥に水が溜ま
っているようだったので、仕方なしに掃除をしようと思ってその水に触れてみたらド
ロリとしていたので、よくよく見てみた。
…レタスが腐って溶けてる…。
私はベッドの上でくつろいでいたシンジを引っ張ってきて叱り飛ばした。
そうこうしているうちに夕飯は出来上がった。
野菜の炒め物とほうれん草のお浸しと、冷奴という組み合わせ。
わりと簡単に出来上がった夕飯のおかずだったのだけど、シンジはなんだか驚いたよ
うな様子で、出来上がった夕飯を見ていた。
「…だって洋食だと思ったんだ。」
シンジの案の定の答えに私はほんの少し笑いがこみ上げてきた。
「バカね。日本にある食材って、あんまりドイツ風の料理を作るのに向いてないのよ。
…なんてね。郷に入れば郷に従えってね。こんなのも悪くないでしょ?」
それを聞いたシンジが感心したような、妙な表情をしたので私はクスっと笑った。
私とシンジは手を合わせて「いただきます」をしてから食べ始めた。
シンジは私の作った料理を口にしながら穏やかな顔をして言った。
「でも、驚いた。アスカがこんなに出来るなんて…。
どうして一緒に暮らしていた時に作らなかったのか、不思議だよ。」
シンジが本音とも取れる言葉を漏らした。
…たしかにあの頃、私はこういう事は一切やらなかった。
啖呵を切って偉そうな口調でシンジによく命令していたような気がする。
…あれで「自分は大人」と言い切っていたから、今思うとちょっと懐かしいような気
もする。
もちろん、私はまだまだ子供だと思うし、一人で色々やり始めてまだ一年しか経って
いないからそんなに成長したとは思えないのだけど。
「…甘えてたのよ、アンタに。一番どうこう言える相手だったし。
それに一年も一人暮らししてれば作れるようにもなるわよ。
ほら? 絶対フォークだった私が箸だってちゃんと使えるようになってるでしょ?」
私はそう言って、シンジに使っている様子を見せるように手にしていた箸を持ち直し
て自分のおかずをつまんだ。
シンジはそんな私の様子を、箸を咥えながらじっと見ていた。
「…何? 私の顔に何かついてる?」
「あ…、いや。なんだか今日のアスカって…」
シンジはそう言いかけて、視線を下に落としてしばらく考えて、そして改めて私の顔を見
ながら言った。
「あのさ…今朝…、何で僕の部屋に来たの?」
私はシンジのこの問いに少し困った。
特に深い意味なんてなかった。ただ、コイツの顔が見てみたかっただけ…。
でも、それを言うのはなんとなく気が引けるというか、少し恥ずかしいと思ったから、私
はなるべくさりげない口調で言った。
「…別に、今朝も言ったじゃない?
朝ごはんを作りに来ただけって?」
「…そう…。」
シンジはそれ以上は尋ねず、結局、私たちの会話はそこで途切れた。
そして二人して黙ったまま夕食を食べた。
食事の後、私はシンジと一緒に食器の片付けをした。
朝もそうだったけど、こうしてシンジと肩を並べて何かをするのって、ずっと無かっ
たような気がする。
いや、ユニゾンの時に一緒に色々やった気もするけど…。
でも、あの頃よりも今の方が、息が合ってるような気がする。
後片付けが終った後、私はシンジの部屋のテレビをなんとなく眺めていた。シンジの
方はというと、自分のベッドの上に寝転がって暇を持て余していた。
しばらくそうしていたのだけど、シンジが急に私の方に声をかけてきた。
「…ねぇ、アスカ。そろそろ帰った方がいいんじゃない?」
一応気を使ってくれたのかな?
気を使ってくれたのはいいけど…、でも私は、その言葉になんとなく寂しい気持ちを
抱いた。
私はシンジの方を振り向いて、「…そうね。」と、生返事のような声を出してゆっく
りと立ち上がった。
そしてそのまま部屋の電気のスイッチがある場所まで歩いて行った。
シンジはそのまま私が帰ると思ったのか、立ち上がろうとベッドから半身を起こした。
私はそのまま電気のスイッチを切った。
そして…玄関の方ではなく、シンジの側までやってきた。
シンジは一瞬なんの事なのか分からないといった感じでキョトンとした顔をして、ベ
ッドの上から私を見上げた。
電気の消えた部屋に窓から月明かりが差して、私とシンジの顔を映している。
私はそのままゆっくりと、ベッドの上に腰をかけて、ベッドの上で半身を起こしただ
けのシンジの懐にゆっくりと抱きついた。
「あ…アスカ?」
シンジは抱きついた私の背中の後ろで手を泳がせながらそう言った。
私は構わずにシンジの背中に回している手に力を入れた。
「おかしい? 私がこうしてるの?」
「え…、うん…。
あの…、アスカが僕に…その、こんな風にしてくるなんて思えなかったから…さ。」
シンジはどもりながらも、そう素直に答えた。
「そうね、そうかもしれない。」
私は抱きついたまま、抑揚の無い声で答えた。
シンジの方は黙ったまま何かを考えているような感じだったけど、
私の顔を見て、そして言った。
「…今日はサードインパクトが起こった日で…、
アスカは…その、誰かを…弔いに行ったんだと思ったけど…さ、
でも…どうして? 本当は…どうしたの?」
シンジは心配そうな表情で私の方をじっと見つめた。
私はしばらく黙っていたけどそのまま、小さな声で言った。
「…今日は、ママの居なくなった日なの。」
「お母さんの…死んじゃった日…なの?」
「…違う…」
「じゃあ、なんで…」
私はシンジの背中に回した手にさらに力を込めてから言った。
「ママは私が四つの時に死んだわ。
でも、あの時私はママが死んだってことがピンと来なかった。
生きてるとも思えなかったけど、死んだとも思えなかったの。
でもそれは、ママが死ぬ前に私のことがほとんど分からなくなっていたからだと
思ってた。
でも、違ってた…。」
私はここで言葉を詰まらせた。
私がエヴァに乗ってる時に、なんとなく気が付いてて、認めなかったこと。
それでエヴァが動かせなくなったこと。
そして、最後にママがいたことに気がついたこと…。
そう、そういった色々なことを思い出したから。
「…ママは、ママは、弐号機の中に居たわ…。」
私はシンジの胸元に顔を埋めて言った。
「サードインパクトが起こって…弐号機がいつのまにか無くなってて…
ママは、ママは、本当に居なくなったの…。」
最後の方は消え入りそうな声になった。
私はシンジの胸元に顔を埋めながら、込み上げてくる想いにじっと耐えた。
そんな私をシンジは何も言わずに強く抱きしめてくれた。
私はシンジに抱かれたまま、小さく言った。
「…今までピンと来なかった…ママが居なくなったの…。
…だけど…今日、ようやくママが居ないんだって…。」
そこで私の言葉は途切れてしまった。
私はそのまましばらくシンジの胸元に顔を埋めながら涙が出るのを堪えた。
シンジはそのまま何も言わずに私を抱きしめていてくれたけど、しばらくしてから
私は顔を上げて、シンジに言った。
「ごめん、シンジ。ありがとう…。」
「いいよ。それに、こうして頼られるのって、ちょっと嬉しいんだ。」
シンジは、はにかんだような笑みを浮かべて言った。
私はそんなシンジの様子に少し恥ずかしい事をしてしまったかなと、急に照れくさ
くなってしまったけど、被りを振ってからシンジの顔を改めて見た。
そしてしばらく考えてから、決意を込めてシンジに言った。
「これで、私にとっての全ては終ったわ。
……もう、始めなくちゃ…。」
「え? 始めるって…何を?」
急に表情を変えた私に少し驚いたのか、シンジはそう言って目を瞬かせた。
でも、私はそんなシンジに構わずに言った。
「ねぇ、シンジ。
…私のこと、好き?」
「えっ?」
「同情とか、そんなんじゃなくて、アンタは私のこと、どう思ってるの?」
私はそう言ってじっとシンジの目を見た。
シンジは一瞬、少し迷っているような表情をした。
でも、次の瞬間、決意を込めたような真剣な眼差しで言った。
「…うん、好きだよ。アスカの事。」
「…本当?」
「本当だよ。
ずっと気にかけてたんだ、あの日からずっと元気のないアスカのこと。
ただ…そんなアスカに変な言葉をかけて、
同情してるだけと思われたり、傷つけたりするのが怖かったんだ。
…前に、それで失敗してるし。」
シンジは自嘲的な笑みを浮かべて言った。
そう、確かにシンジは私が一番傷ついた時にバカな事を言った。
「よかったね」
使徒に、ずっと記憶の底に眠らせておいた過去を引っ張り出されて、見せつけられ
て、散々覗かされて。
だけどシンジはそんな私に「よかったね」って言った。
…何もよくなかった。
私が戦いの後で特に怪我もなく無事だったからそんな事を言ったのかもしれないけ
ど、あの頃の私は、私の事に気づきもしないで何も考えずに笑っていたシンジが許
せなかった。
もう自分の価値を表すものがエヴァ以外に無くて、例え死ぬことになっても構わな
い、エヴァで自分を認めさせる事以外にないって…そう思ってた。
だけど、そうなってしまった自分を、もっとも惨めな形で私自身に見せ付けてくれ
た戦いの後だったのに。
その後に、八つ当たりする私にダメ押ししたのもシンジ。
戦いが激しくて、大人達がみんな、私たちをひどい扱いにして、私も…そしてシン
ジも余裕が無かったのは確かだったけど、シンジの「加持さんはもういない」って
言葉、ひどいと思った。
今は、加持さんの事は単なる思い出で、なんとも思ってないけど、でも、あの頃は
シンジか、加持さん、どちらかに何かをして欲しかった。
シンジが言葉をかけたあの後、私は何も出来なくなった。
戦う事も、生きる事も。
…辛かったな、あの頃。
「…自覚してたんだ。」
「…うん…。
あの時は…ごめん。」
「いい。時効にしてあげる。今、優しいからそれで。」
「うん…。ごめん、ありがとう。」
そう言って、シンジは改めて私を抱きしめなおして、そのまま私の髪を優しく撫で
てくれた。
気持ちいい…。
私は少しの間、目を瞑って、撫でられるままにじっとしていた。
シンジはしばらくそうしてくれてたけど、不意に手を止めて言った。
「…それで…その、アスカは…何を始めなくちゃいけないの?」
それを聞いた私はシンジの背中を回した手でほんの少し撫でながら、自分でも甘え
てるような声だなと分かるような感じで言った。
「好きだって証拠を見せてくれたら、教えてあげる…。」
そう言って私は顔を上げて目を瞑った。
シンジは少しの間、何もしないでじっとしていたけど、しばらくしてからゆっくり
と自分の唇を私の唇にそっと触れさせた。
私とシンジはそのままじっとしていたけど、しばらくして、どちらからというわけ
でなく、唇を離した。
目を開けてみたらシンジが真っ赤な顔をして言った。
「…これで…いいのかな?」
「うん、ありがとう。」
私はそう答えて、シンジの胸元に再び顔を埋めた。
そして、シンジに言った。
「私の中で終らなかった事が全て終ったの。
だけど私の時間は止まったままだった。
…でも、もう始めなきゃ…。」
私は顔を上げて、シンジを見上げた。シンジの顔はまだ赤いままだった。
「ずっと始めなかった時間。シンジとの時間。
……いいよね?」
私は笑顔でシンジにそう言った。
シンジはその言葉に頷くと、私をそれまでより強く抱きしめた。
Fin
2005.6.15 掲載