不適合者


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ふじさん        2004.11.22

 

                                










トクン…トクン…。

一定のリズムで聞こえてくる心地の良い音。

不思議な暖かさに包まれている。

火のはぜる音が心地よいリズムを乱した。

「ん…」

うっすらと目を開けると、水中から空を見るような。

滲んだ景色のなか、鮮やかな炎がゆらゆらと揺れているのが見えた。

ぼんやりと、はっきりとしない意識の中、数秒ほど炎の美しさに目を奪われてしまう。

気付けば、寝ている間に横に倒れていたのか、赤子のように丸まって寝ていた。

両手で体を抱きしめるようにして、さらに体を小さくしていく。

先ほどまで感じていた、不思議な暖かさは、この炎のせい?

などと、とりとめも無く考える。

けれど、今も感じる包み込まれるような暖かさは、この炎とは違う気がしてならない。

それに、今もはっきりと聞こえるトクン…トクン…という音。

初夏の頃、ベランダで日に当たっているような――。

そこにあって初めて愛しさに気付く。

いつまでも、このぬくもりに包まれていたい。

そんな気分の中、視線は美しい赤い炎へと惹きつけられていた。

その色は、とても気高いアカ。

暖かさに、再び眠りにつこうと瞼を閉じようとしたときアタシの意識は一気に覚醒した。

目の前に広がる、赤い色。

「色が見える!」

自分でも気付かないうちに叫びながら、アタシは勢い良く体を起こした。

しかし、不意に炎はその色を失った。

何度目を閉じても、失われた色は戻ることは無い。

夢だったのだろうか。

自分では、大して気にしていなかったが。

色が見えないという精神的なストレスが見せた幻覚だったのだろうか。

失望と落胆。

さっきまで感じていた暖かさは、もう無い。

チラリと横を見れば、膝を丸め顔をうずめるようにしてシンジが寝ている。

「呑気なもんね」

幽霊でも寝るのか――。

と下らないことを思って、少しだけ気分がよくなった。

けれど、さっきまで自分が横になっていた位置とシンジが座っている

位置との関係に気付いたとき、アタシは自覚して顔を赤くした。

(シンジと重なるような位置で、アタシは寝ていた!)

壁をすり抜けることができるのだから、人だって通り抜ける。

実際、蹴ろうとして失敗したじゃないか。

なら、アタシが聞いていた、心地よいトクン…トクン…という音。

あれはシンジの…心臓のおと?

感じていた暖かさは?

いてもたってもいられなくなったアタシは座ってみたり、立ってみたりを繰り返す。

けれど、視線だけはシンジからそらすことができないでいる。

「もう!なんなのよ!」

わざとらしく、声に出してみるが、シンジが起きるそぶりは無い。

相手は、自分が10歳だと名乗る記憶そーしつだ。

ちょっと笑顔がかわいいかな、とは思ったが。

ほとんど会話らしい会話もしていない。

ユイさんの息子だっていうし無下にはできないが―。

感じたことの無い感情に、頭がうまく回転しない。

意味の成さないことばかり浮かんでは消えていく。

何度目かの上下運動ののち、アタシは意を決して、シンジの横に座り

そっと手を体の中に入れた。

「暖かい…」

不思議な感覚だった。自分の手が人の体の中に入っている。

ホラーの世界だが、不思議と怖さは無かった。

シンジが寝ているのを確認してから、アタシは服が汚れるのもかまわず

先ほどまで、自分が寝ていたようにシンジと重なっていく。

中は、思わず、うっとりとしてしまいそうなほど、心地よかった。

トクン…トクン…。

確かに聞こえる、心臓の音。

シンジの中から見える世界は、夢ではなく。赤い炎が揺れていた。

景色はぼんやりと、水中から見ているかのよう。

自分が見えている世界を他人も見ているとは限らない。

自分が感じる色彩を他人が感じているとは限らない。

どこかの本で読んだ一説が思い出された。

アタシの目に色が見えていたとき、アタシにはこんなに美しく赤い色は見たことが無かった。

シンジはこんな色の世界に生きていたのだろうか。

色の無い世界に取り残され、幽霊が見えるようになってしまった。

その幽霊の中からだけは、アタシは色を見ることができる。

シンジと同じ世界を感じることができる。

けれど、シンジは死んでいるのだ。

湧き上がる気持ちを、だからアタシは決して認めることはできない。

シンジのためにも、ユイさんのためにも。

アタシは生まれて始めて。

他人のために、何かをなさなければならないと感じていた。

それはきっと、アタシにしかできないこと。

これは偶然ではなくて必然。夜が明けたら、会いに行こう。

シンジをつれて――。










心地よい、羊水の中。揺らめいている炎を見て目を閉じる。

軽く息を吸い込んで、アタシは行動に出た。

体に溜まっていた疲れは、数時間の眠りで嘘のように消えていた。

窓からは見える景色は、もうすぐ夜明けが近いことをうかがわせる。

軽く伸びをすると、頭がすっきりした。

余っていた紙を火の中に入れ、当面の暖を確保する。

炎に色は無い。白と黒の濃淡で構成された『それ』さえ、今のアタシには愛しい。

アタシは一生、あの美しい色彩を忘れることは無いだろうと思う。

「シンジ」

初めて名前を呼ぶような、気恥ずかしさを感じながら、アタシは少年の名を呼ぶ。

揺すって起こすことも、叩いて起こすこともできないが声をかけることはできる。

声を聞くことができる。

「シンジ!」

今度は、少し力を込めて、名前を呼ぶ。

初めて呼ぶ名前なのに、どこか親しみを持って。

「シン…」

さらに大きな声を出そうとしたとき、シンジはゆっくりと頭を上げた。

まだ眠いのか、しきりに目をこすりながら、大きなあくびをして

アタシに目を向ける。

ぼんやりとした表情、どこか抜けているようで、でも愛嬌のあるそんな顔。

軽くあくびをしようとして、何が恥ずかしかったのか、慌ててかみ殺していた。

アタシと目が合ってから、部屋の中を見わたして、再びアタシに顔を向ける。

その表情は、困惑にいろどられていた。

「君は…」

そうつぶやいてから、慌てて立ち上がり、自分の体を見回した。

そこには、寝ぼけていただけのせいではない、困惑がある。

そのことを多少疑問に思ったが、取りあえづは、シンジが次に何を言うかを待った。

「君は…」

再び、同じ質問を繰り返し――。

「君は…?」

一瞬、何を言われたのか、理解ができなかった。

確かに、知り合ってから数時間しかたっていないし、ろくに会話もしていないが

これでは、まるで――。

そういえば、自分の名前さえ、まだアタシは言っていないことに気付いて

恥ずかしさに、顔が赤くなった。

「アタシは、アスカ」

一拍の間をおいて、胸をはり、腰に手を当て。

「惣流アスカ!」

その名前を誇るように、はっきりと言った。

「そうりゅう・・・あすか?」

オウム返しのように、アタシの名前を数度つぶやく。

その姿は、自分がなぜここにいるのか、アタシが誰なのかもわかっていない

そんな態度だった。

視線をさまよわせ、何かを思い出そうとする姿に、アタシは自分でもわからない焦りを感じた。

「アンタは、アタシから逃げて、それに雨に濡れるからってここに入って」

焦りからか、うまく説明できないでいる。

そもそも、アタシ達の関係は何なのだ?と聞かれても、説明もできない。

会ってから、数時間一緒にいたに過ぎないのだし――。

「ちょっと、大丈夫?」

苦しそうにしているシンジにアタシは駆け寄る。

だが、手を差し伸べることも、介抱することもアタシにはできない。

「うぁ…」

突然、シンジは頭を押さえうずくまる。

膝をつき、頭を抱えるようにして、うめき声だけを上げる。

手で、髪の毛をかきむしり、引きちぎるように乱暴に動かす。

肩で激しく息をし、喘ぐように、何かをつぶやいている。

「僕は…!」「ぼくは…!!」「ボクハ…!!!」

その後に続く言葉は、叫び声との区別もつかづ、聞き取ることもできない。

動揺するアタシを横に、一際大きな声をあげたあと、嘘のようにシンジは黙り込んだ。

大きく肩で息をしているが、発作のような症状はみられない。

どれくらいの時間、そうしていたのかはわからない。

気付いたときには、窓からは、うっすらと光が差し込み、朝の到来を告げていた。

なすすべも無く、アタシは膝をつき俯いているシンジの横で落ち着くのを待つしかなかった。

「大…丈夫…?」

途切れ途切れに聞こえてくる、息遣いを気にしながら、アタシは恐る恐るシンジに声をかけた。

一瞬、ビクッと体を硬くした様子をみせたシンジだがゆっくりと、顔だけアタシに向けてくる。

その顔は、真っ青になり、唇が小刻みに震えていた。

「君は…」

再び繰り返される質問に、不安を覚えながらも

「アタシはアスカ、昨日会ったでしょ?」

意識して、やさしく声をかける。

シンジは、考えるように瞼をぎゅっとつぶり、大きく息を吐いた。

「昨日…。そう、昨日、会ったね」

そう言うシンジの態度は、昨日までの子供らしさがどこか抜け落ちていた。

いや、十分子供っぽいのだけれど、昨日までの無邪気さ、年齢につりあっていない

子供っぽさが抜け、急に年齢どおりの雰囲気をもった――。

そのギャップのせいで、逆に年齢以上の雰囲気もどこか持っていさえする。

ゆっくりとした動きで、シンジはアタシと向き合うように腰を下ろした。

気付かぬうちに、アタシは自分の唇をなめていた。

優しげな雰囲気はかわらず、シンジは優しい目でアタシをみつめてくる。

「僕は、シンジ。碇シンジ」

昨日聞いたわよ。アタシは、そう言おうとした。しかしそれをさえぎるようにして――。

「13歳、だと思う」

どこか自虐めいた苦笑いをしながら、そう付け足した。






「あ、、え?」

突然のことに、言葉が出ない。

昨日は確かに自分のことを10歳だと言っていた。

たしかに、子供っぽい雰囲気だったし、ユイさんが言っていた

ことと関連して、記憶が飛んでいるんだろうと、推測していた。

おそらく、それは正しかったのだろう。

アタシが眉を顰めるのを見て、シンジはさらに付け加えるように言った。

「自分でも、自信が無いんだけど」

そういうと、照れたように頭をかいた。

「取りあえず13歳までの記憶はあるんだ」

ぜんぜん緊張感が感じられない雰囲気だけは変わらず。

「昨日、君は…惣流さんだっけ。惣流さんは僕と会ったのは
昨日なんだろうけど、僕にとっては十歳の頃」

シンジのいっている言葉がうまく理解できずにいる。

アタシの表情を読んだのか、自分でもうまくいえていないことを自覚しているのか

さらにシンジは説明をくわえていく。

「僕には十歳くらいの頃の、惣流さんと会ったっていう記憶があるんだ
前後のことは、何にも覚えてないし、きっと、記憶がごちゃ混ぜになってるんだとおもう」

シンジの説明を、アタシはどこか釈然としない気持ちのまま聞いていた。

「でも、不思議と覚えてるんだ。実際には昨日会ったんだから
当たり前なのかもしれないけど」

記憶の混乱や、自分の境遇で、何でコイツはこんなに落ち着いていられるんだろうかとアタシは頭の隅で考えた。

(13歳。ユイさんが言っていた。事件が起こる1歳前――)

しかし、シンジ自身が言うとおり、まだ14歳の誕生日に何があったかまでは思い出してはいないのだろう。

思わず、心の中で嘆息する。

「惣流さんの髪の色が、すごく綺麗だったから」

思考の渦にはまっていたとき、不意をつかれた言葉にアタシは体がカッと熱くなった。

無意識のうちに、自分の髪に指をはわせ、色を確かめるように毛先を目の前にかざす。

ママに褒められた髪の色は、今は白黒にしかみえない。

シンジの中から見た炎の美しさを思い出し、シンジには自分の赤みがかった髪の色は

いったいどう見えるのだろうか。と思う。

昨日からの汚れを思い出して、急に恥ずかしくなった。

「アスカでいいわよ…」

「え?」

「だから、アタシはアンタのこと、シンジって呼んでるわけだから
アンタも特別に、アタシのことをアスカって呼んで良いって言ってるのよ!」

誤魔化すように、少し口調を強めて、早口に言う。

「で、、でも」

それでも戸惑うシンジに。

「アタシが良いって言ってるんだから、良いのよ!」

「わ、、わかったよ」

顔を引きつらせていたのは、テレのせいだろう。

「…」

「…」

なんとも気まずい沈黙。

「…」

「…」

アタシの眉毛は、おそらく限界まで上がっていただろう。

凍りつくように引きつった顔のシンジをみれば、想像できる。

「あ、、あすか」

いまのところは、これで許すことにした。

「で、シンジは何で自分が13歳だと思うの?」

アタシが話を変えたことに、あからさまにほっとして

シンジは話をあわせてくる。

「中学に入ったときの記憶はあるし、13歳の誕生日が
あったことも覚えてるんだ。でも、昨日、えっとア、アスカと会った昨日じゃなくて
僕にとっての『昨日』なんだけど――」

自分の名前を呼ばれた気恥ずかしさよりも

『13歳の誕生日』というキーワードにアタシは体を硬くした。

幸い、シンジはアタシの名前を呼んだことが恥ずかしかったのか

目線をそらしていたので、そのことに気づいた様子は無い。

「自分が昨日なにをしていたのか、思い出せないんだ。
その、アスカと会ったのが昨日なら、辻褄はあうんだけど…」

そういうと、今度は覗き込むようにアタシを見る。

その姿は、昨日のシンジのようで、可笑しかった。

結局は、シンジも自分の現状はまったく理解できてはいない。

胸が痛くなるのを、意識的に無視して、考えをまとめていく。

何がキッカケで、シンジの記憶が10歳から13歳まで進んだのか

それは、わからない。

昨日と今日。

アタシの目に色が見えなくなったこと、ユイさんと出会ったこと。

そして、シンジと出会ったこと。

すべてが昨日あった。日常と非日常。その境が、どこかにあったはず。

教室で暴れたとき?たしかに、あんな事をしたのは初めてだが、あれに特別な意味があったとは思えない。

知らぬ間に乾いていた、唇を今度は意識してなめる。

何かが動き出した…。そのキッカケがわかれば…。

頭の悪い馬鹿に追いかけられ、つかまらぬことだけを考え

町の中を逃げた。気付けば、そこは見知らぬ町。

汗に張り付いた腕時計は、それ以外のせいで、アタシに不快感だけをあたえた。

すべてが馬鹿らしくなって、アタシは橋の上で…。

アタシはママの時計を、捨てた。

その考えにいたったとき、ふいに手首の傷を思い出した。

見れば、未だに包帯が巻かれている。しかし、昨日の夜の雨で

滲んでいた血は、見当たらない。

どろの汚れも無く、清潔そうな白い色。それが一層、違和感を与える。

昨日は感じた、痛みも嘘のようにない。

包帯が巻かれた、むず痒くなるような圧迫感だけがある。

アタシは震える手で、包帯をとっていく。

はたして、現れた手首には、傷ひとつ無かった――。

目が回るような錯覚に陥る。

動悸が早くなり、喘ぐように体は空気を要求している。

視界が狭くなっていく。声にならぬ叫び声をあげる。

「―――――――!!」

涙いている。

自分は今、涙を流している。

視界がぼやけていることで、それだけはわかった。

「アスカ!!」

再び、声にならない叫びをあげそうになったとき、シンジの声だけは、はっきりと聞こえた。

嘘のように動悸が治まっていく、何度も深く深呼吸をし体に必要な酸素をとっていく。

カラカラになった口に、僅かな湿り気をもたそうと、つばを飲み込む。

「…大丈夫」

不安げに見るシンジに、それだけ言うと、アタシは立ち上がった。

(シンジの記憶が戻ったとき、何かがおこる)

それは、すぐそこまで来ている。

(鍵はユイさんと時計――。ユイさんは何かを知っていた?)

窓からは、光が差し込んでいる。夜はもう明けた。








「シンジ」

未だ、たち膝のような格好で固まっていたシンジに声をかける。

朝日を背にしているアタシを見ると、眩しそうに目を細めた。

「アタシとアンタ」

一拍の間をおいて、話し出す。

「なんで出会ったのか、それに意味があったのか、アタシにはわからない。
ただの偶然だったのかもしれない」

シンジは只黙って、アタシの話を聞いている。

「アタシ達があって、まだほとんど時間がたってない。話だって、ほとんどしてない」

視線をそらすことも無く、アタシは只シンジを見る。

どこで生まれ、どんな友達がいて、何を考えて生きていたのか。アタシはまったく知らない。

アタシにとっての昨日が、シンジにとっての三年前だということの意味もアタシにはわからない。

全部がモノクロの世界で、シンジだけが色鮮やかに見える。その現象も説明できない。

だけど…。

「アタシ達が出会ったこと。それは只の偶然で、何の意味も無いのかもしれない。
でも、それに意味を持たせることができるとしたら、それは、アタシ達にしか出来ない」

シンジに感じる親近感。

その正体は、お互いが世界から捨てられた。不適合者同士だからかもしれない。

「アスカ…」

不思議と、まるでずっとそう呼び合っていたかのように、自然と声が出る。

「シンジ…」

「僕は、何で自分がココにいるのか。ぜんぜんわからない。
アスカのいったみたいに、僕達、話もほとんどしてない」
すごく不安だし、アスカと出会った意味もわからない。
でも、なんとなく思うんだ。最初に会ったのが10歳の僕じゃなければ
こんなふうに、女の子と話は出来なかったかなって」

そう言うと、恥ずかしそうに視線をそらした。

こんなときに、そんなことを言うシンジが可笑しかった。

確かに、シンジはおくてっぽい。

女の子に積極的に話しかけられないタイプだと思う。

それに今のシンジに話しかけれたとしても、昨日までのアタシが

ここまで相手にしていたかと聞かれれば、それは怪しいだろう。

無邪気さで、アタシの中に入り込んできたって言うことか。

「なに?アタシを口説いてるわけ?」

おもしろくて、からかうように言う。シンジの反応は、手に取るようにわかった。

「そ、、そんなんじゃないってば!」

「そんなんじゃない!?」

わざと、怒ってみせる。

「いや、そうじゃなくて、アスカはすごく可愛いと思うけど…いや、だから、そうじゃなくて」

手を握ったり閉じたりしながら、真っ赤になって説明するシンジが

可笑しくて、アタシは大きな声で笑った。

こんなに笑ったのは、いつ以来だろう。

可笑しくて、悲しくて、涙が出た。

「あー、お腹痛い」

アタシは、お腹を抱えるようにして座り込んで、涙を拭いた。

「もう、そんなに笑わなくたって良いじゃないか!」

からかわれていた事に気付いて、シンジが文句を言ってくる。

「アンタが、馬鹿だからいけないのよ。馬鹿シンジ!」

「ま、また、、ばかしんじ…」

それだけ言うと、観念したようにガックリと肩を落とした。

気を取り直して、アタシは再び立ち上がる。

「さて、当面できることは…」

ひとつは、原因になった可能性のある、ママの時計を探すこと。

もうひとつは、シンジをつれて、もう一度ユイさんに会いに行くこと。

「外に出ましょ」

そう言って、シンジがついてくるのも見ずに、アタシは部屋を出て行く。

非常口を開け、昨日シンジと鬼ごっこをした細い路地を抜けていく。

外は、昨日の雨が嘘のように、さわやかな風に包まれている。

大通りに出る。

「だれも、いないわね…」

通りには、人が誰もいなかった。朝早いからだろうか。

と一瞬思ったが、それにしても、この静けさは異様だ。

だけど、どこかで、誰もいなくて当たり前だ。とも思う。

拗ねた様についてきていたシンジも誰もいない様子に気付いて

しきりに辺りを見回している。

「変だね」

真剣な表情。

本人は真面目なつもりなんだろうが、その顔を見るとアタシはどこか安心した。

「とりあえず、駅のほうに行ってみるわよ」

「アスカ、道知ってるの?」

その質問に、アタシの方がびっくりした。

「あんた、知らないの?」

つい、責めるように聞いてしまった。

「知らないけど…」

どこかすまなそうに、そういう。

さらに、質問を続ける。

「この町で生活してたんじゃないの?」

「…知らない町だよ」

何かをあきらめたように、素直に返事をしてくる。

何をあきらめたのか、時間があればじっくりと聞いてみたいところではある。

「アスカは知ってるの?」

この町のことだろうか。

それとも、駅への行き方だろうか。

アタシは勝手に前者ととる。

「知らないわよ、こんな町」

「…へー」

なにが、へーなんだろうかと、一瞬本気で考えてしまった。

おそらく、何にも言うことが無かったからなんだろうと思って、ガックリときた。

そんなアタシを見て、慌てて付け加える。

「じゃ駅までどうやって行くの?」

ちらりと横を見れば、不安な瞳が目に入る。

こういう場合、男と女の立場は逆なんじゃないか。そんなことも思う。

「昨日、ユイさんに地図かいてもらったのよ」

そう言うと、あーそうなんだ。とだけ言って、またあたりを見渡した。

「とりあえず、駅まで行くわよ」

この町がどこかを確認して、ママの時計を捨てた場所を探す。

橋があった場所は、知らないところだったが、学校帰りだったことを考えて

川の位置を地図で確認すれば、場所はわりと簡単にわかるだろう。

問題は、川の中に落とした時計が見つかるかどうか――。

難しいかもしれないが、取りあえずは、ついてから考えることにする。

そうきめて、ユイさんにもらった紙を探すが、ポケットのどこにも見当たらなかった。

シンジと馬鹿なことをしていたときに、落としてしまったのだろうか?

とりあえず、昨日見た地図を思い出して、町を歩いていく。

「ねぇアスカ…」

いまだ、キョロキョロと周りを見渡しながら歩くシンジ。

「なによ」

横目だけで、その姿を確認する。

「変だよ」

「何がよ」

あまりにも早いアタシの返事に、少し驚いたように、こちらを見て。

「人がいないし、何より動物もいない」

鳥とか…。

つぶやくようにそう言うと、再びあたりを見渡している。

「寝てんじゃない?」

適当に、そう言うと、アタシは歩くスピードを速めた。

「ちょ、ちょっとまってよ」

慌ててついてくるシンジの気配を感じながら後ろを見ることもせずに言う。

「ほら、さっさと行くわよ」

これ以降は、お互い無言で駅へと歩いていった。


「駅…だよね?」

シンジの声もどこか遠くで聞こえる。

「見りゃわかるでしょ」

そういうアタシにも不安が襲ってくる。

「でも、誰もいないね」

今度の質問には答えず、視線だけをシンジに向ける。

「ご、、ごめん」

ふんっと鼻息だけ荒くして、アタシは辺りを見回した。

(シンジの言うとおり、誰もいないわね)

「駅まで来れば、誰かいるかと思ったんだけど」

誰にも向けず一人、口の中でつぶやく。

(それでも、汚れた服やボサボサの髪を不躾な視線を浴びなくても良いことが
唯一の救いか。シンジは、まぁ今更しょうがない)

ただ、さっきも感じた感覚。

誰もいなくて『当然』なんだ――。という思い。

アタシは軽く頭を振り、恐ろしい妄想を振り払う。

改札はしまっている。電気がきているのかどうかは、外側からでは判断がつかない。

来る途中にあった信号は、確かについていた気がするが…。

思わず後ろを振り返るが、見える範囲に信号は無い。

(いまさら、信号を探しにいくっていうのも…ね)

昨日の夜には、嫌というほどついていた町のネオンも

朝もやの中では、静かに哀れな姿を晒しているに過ぎない。

取りあえずは、ある考えを持って切符売り場へと歩いていくことにした。

横で、自分なりに何か思うところがあったのか

考え込んでいたシンジは、アタシが歩いていくのに気付いて慌てて駆け寄ってくる。

横に追いついてくるのを確認しながら、しっかりと前を向いて

歩みを進めていく。残り数歩の距離が、嫌に長く感じられた。

「路線図を見てみましょ」

自分達が今どこにいるのか、まずはそれをはっきりとさせたい。

路線図の中にいくつもある、四角いプレート達。

複雑な線と線の間に、当駅と言う文字だけが異様に浮かび上がっていた。

嬉しくも、悲しくも無く、静かな気持ちでアタシはそれを見た。



「えーっと…」

数瞬の間。

今度は学習したのか、アタシに質問してくることは無く

唸る様に考え込んだシンジ。

そのシンジの態度について、くだらないことを考えながら、アタシはさっさと駅から背を向けた。

何も言うことなく、シンジもついてくる。

無言で歩くアタシに、何か話題を探そうとしているのは気をつかってるのかもしれない。

「…ホント、馬鹿なんだから」

デートもしたことも無ければ、女の子と二人で歩いたことも無かったのだろう。

こんなときにさえ、自分のことよりアタシのことを気にかけているシンジに

むず痒くなるような思いがわいてくる。

自分にさえ聞こえないように、アタシはそっと呟いた。

「やるわよ。アスカ」

駅の路線図には、すべてに名前がついていなかった。

それは、見る前から想像がついていたことだった。

残る場所は、後一つ。

ユイさんのいた、病院だけ――。








「シンジ」

気持ち、歩く速度を緩めながら隣にいるシンジに声をかける。

「なに?」

「アンタ…」

ほんのすこしだけ、言いよどんでから。

「アンタ、生きてて楽しかった?」

あんまりといえば、あんまりの質問に、それでもシンジは笑いながら答えてくる。

「楽しかったかどうかわかんないや」

「わかんないって、アンタ…」

その答えに、幾分肩を落として。

「アタシは生きてても楽しくないわ。ママが生きていた頃は楽しかったけど」

シンジはなんと答えて良いのか迷っている様子だった。

「シンジと最初にあったときのこと覚えてる?」

突然、話題が変わったことにほっとしながら、はっきりと答えてくる。

「覚えてるよ。橋の上でしょ?赤い夕日の中で、髪のキラキラ光って凄くきれいだったから…」

そこまで言うと、恥ずかしそうに笑った。

「あの時、アタシ時計を捨てたの…」

「うん」

「あの時計、ママの遺品だった。アタシ小さな頃ママがしてる時計が欲しくてたまらなかった
パパから貰ったのよって、嬉しそうにいってた、あの時計が」

「そんな大切なもの…なんで?」

シンジの疑問は当たり前のことだと思う。

確かに、最近までは大切にしていたんだから――。

「パパがね…」

あの男。それをパパと呼ばねばシンジには伝わらないとはいえ嫌な気分しか沸いてこなかった。

「この間、再婚したのよ」

アタシの答えを真剣な、今までのようなどこかぼけぼけっとした雰囲気ではなくシンジが聞いている。

「…再婚」

シンジの態度が今までと違うことに、気付きながらアタシは話を続ける。

「そっ再婚。今までは、パパがママにあげた時計は家族の証だと思ってた。だけど、アイツ――」

忘れかけていた怒りが、ほんの少し身体の中を満たした。

「アイツ、再婚したとたん、あの時計を処分しろっていうのよ!!最初は許せなかった。
ママへの思いも、すべてが嘘だったように思えて、アタシは気持ち悪くなって」

それで

「アタシは時計を捨てた――」

アイツの思惑とは違うやり方で。

誰もいない通りに、アタシの声だけが響いた。

どれくらい、歩いたときだろう。

あれきり、言葉も無く二人で歩いていたとき

ふいに、シンジは立ち止まった。

数歩あるいてから、アタシも立ち止まり、シンジと向き直る。

ユイさんがいた病院までは、あとひとつ角を曲がればつく。

「アスカが捨てちゃった時計さ」

シンジの言葉に、アタシは只黙って先を促す。

「あとで、探しに行こうよ」

透き通るような笑顔で。

「なんで…?」

アタシの話を聞いていなかったの?

「アスカのパパが、どんな気持ちでアスカに時計のことを言ったのか
僕には想像しかできない。だけど、アスカのママが――」

シンジは自分の声が、大きくなっていたことに気付いて。

少し恥ずかしそうにしてから、声のボリュームを幾分落として先を続ける。

「アスカのママが、パパから貰って大切にしていた思いは、消えたりしないでしょ?」

だからさ――。

「だから、後で探しに行こうよ」

シンジの声は、確かに聞こえていた。シンジの笑顔も想像はできた。

でも、シンジを見ることはできなかった。

「僕、ほら、幽霊だからさ。川の中に入っても濡れないし」

アタシはただ、口に手を当てて、自分の泣き声がもれないように

うずくまることしかできなかった。

『こんど』なんて、ない。

あの角を曲がれば、もうそこは病院だ。

シンジも、うすうす何かに感ずいている様子だった。

なにかを思い出しているのかもしれない。

呻くような声の中。

「アンタ、やっぱ馬鹿よ…」

それだけ言うのが精一杯だった。

涙は、当分とまりそうも無かった。





うずくまって、こらえているアタシの傍に。

シンジが膝をつくように寄ってきたことは足元を見れば、わかった。

シンジの手が、フラフラと揺れていることは、なぜかある、その影からわかった。

アタシがシンジに触れることも、シンジがあたしに触れることもできない。

ただ下を向いて、揺れる影を追いかける。

その影が、引っ込もうとした瞬間。

アタシは泣いている顔を見られることもかまわず、顔を上げた。

「まって!」

手を引っ込めようとしていシンジの手に。

アタシはそっと、ほお擦りするように顔を寄せた。

暖かい。朝日の暖かさよりも、その手は暖かかった。

このまま、シンジと一緒に引き返してしまおうかという、甘い誘惑。

ママの葬儀のときでさえ、アタシは泣かなかった。

その涙を、止めることもできずに、ただシンジのぬくもりを感じている。

「そうね。馬鹿シンジが一緒に捜しに行こうって言うんだったら…。それも良いかもね」

かすれる声で、それだけ言う。

シンジに聞こえているかどうか、それは怪しいほど小さな声だったけれど

確かに伝わったという確信だけはあった。

制服の袖で、涙をぐっと拭う。

立ち上がると、できる限りの笑顔でシンジに言う。

「さぁ行くわよ!馬鹿シンジ!」

アタシの声に、シンジも続いていう。

「うん。行こう。アスカ」

シンジも笑顔だ。

一緒に歩き出し、角を曲がる。

もう引き返そうという。誘惑は無い。







キィ―。

不思議なほど静かに、病院の入り口のドアは開いた。

中は、電気もついておらず、朝日が差し込むだけで、うっすらとした暗闇に覆われていた。

受付の窓にもカーテンが引かれ、中に人がいる様子は無い。

待合室にある長椅子は、いつから人を待っているのだろうか。

ゴクッと、つばを飲み込む。

軽く息を吐くと、隣のシンジの顔が見えた。

シンジが頷くのを確認してから、アタシ達はゆっくりと病院の中へと入っていく。

ゴミひとつ無い、清潔に保たれた病院。

独特のアルコールの匂いが鼻をついた。

「僕、この匂い嫌いなんだなぁ」

一人ごちるようにつぶやくシンジに、アタシは匂いはわかるのか、不思議な気分だった。

しかし、昨日から動き回って汗だくのままの自分を思い出し、顔が赤くなる。

微妙に、シンジから距離をとろうとするが、不思議そうに寄り添ってくる。

「ちょっと、離れなさい!」

小声のつもりだったが、人のいない病院では、その声は驚くほどよく響いた。

慌てて口に手をあてる。恥ずかしさで、顔から火がでそうだった。

今だに、不思議そうな顔をしているシンジが憎たらしかったが。

「別に、泥棒に入るわけじゃないんだから、堂々と入ればいいのよ」

というと、アタシは幾分足音をたてながら、進んでいった。





前に、といっても昨日だが――。

来た時にも思ったことだが、住宅地にある病院ということもあって

こじんまりとしていて、それほど広さは無い。

待合室を抜ければ、細い廊下があり、両端と突き当たりにひとつずつ、ドアがある。

どのドアか迷う必要は無かった。

ひとつだけ、昨日アタシが寝かされていた部屋のドアの小窓からだけ、光が漏れていたから。

心臓の音が、不思議なほど耳についた。

ドクッ。ドクッ。という鼓動。

おさまれ。と思う反面、アタシは生きているんだ。という実感ももてた。

(そういえば、シンジの心臓の音も聞こえたわよね)

その事を、多少疑問に思ったが、シンジの顔を見ると吹き飛んでしまった。

ドアまで歩いていくと、シンジの顔を見てからゆっくりと、ドアを開けた。

光の帯が伸びていくように、廊下にも光が漏れていく。

最初にアタシが入っていく。続いてシンジがためらいがちについてきた。

「母さん…」

シンジの口から、決して本人には聞こえることの無い呟きがもれる。

明るい光に包まれた中に、椅子に背を預けたまま。

ゆっくりとこちらを向いた、ユイさんがいた。

「あら、アスカちゃんいらっしゃい」

その様子は、まるで親戚の子が遊びに来たように、自然としていた。

チラッとシンジを見てから、慎重に言葉を選ぶ。

「…おはようございます。ユイさん」

アタシのとぼけた答えに、それでもユイさんは可笑しそうに笑っていった。

「うふふ、そうね。おはよう、アスカちゃん。目の調子はどう?」

手の傷について、聞いてこないことを不思議だとは思わなかった。

「まだ、白黒にしか見えません…」

アタシの答えに、ユイさんは少しだけ寂しそうな表情をみせたように思えた。

「ほら、そんな所にたってないで、こっちにいらっしゃい」

今だ、入り口から一歩ほど入った場所にいたアタシにユイさんはそういって椅子をすすめた。

少しも躊躇わなかったかといえば、嘘になる。

けれど、それに気付かれる前に、アタシは歩き出した。

ユイさんと向かい合うように、アタシは椅子に座る。

「お茶を入れるわね」

アタシが断る隙を与えず、ユイさんは立ち上がって、近くにあるポットへと歩いていった。

シンジは、その様子をただ黙ってみている。

何か言いたそうで、でも、何もいえない。

部屋に、ほんのりと甘い紅茶の香りが広がっていく。

危なっかしく、ティーカップを二つ持って、ユイさんは歩いてきた。

「はい。どうぞ」

「…ありがとうございます」

視線を、紅茶の中へとむける。

口元にもってくると、さらに良い香りがした。

そっと口をつける。

「…おいしい」

ほんのりとした甘さをもった紅茶は、とてもおいしかった。

「よろこんでもらえて、よかったわ」

本当に嬉しそうに、微笑むとユイさんもゆっくりと口をつけていく。

(シンジの笑った顔にそっくり…)

そう思いながら、隣に立つシンジへと、そっと視線を投げかける。

シンジは、アタシの視線に気付くと、何も言わず寂しそうに笑った。





だれも話しをすることも無く、時間が過ぎていく。

減っていく紅茶。やわらかな時間。

きっと、アタシ達三人にとって、最後の時間。

最後の一口を飲み干すと、アタシはティーカップを机においた。

「ご馳走様でした」

「おそまつさま。おいしかった?」

「はい。とても」

お互いに、先に進めなければいけないことを知っている会話。

けれど、進めたくない会話。

「あの…外に誰もいないんです」

その質問だけで、ユイさんにはわかった様子だった。

「そう…」

と、一言だけ言うと、朝日の入ってくる窓を眩しそうに見た。

「シンジも、いるんでしょ?」

ユイさんの言葉に、一瞬アタシ達は固まった。

「シンジが見えるんですか?」

母さん!というシンジの声とともに、アタシは聞いた。

しかし、ユイさんは寂しそうに首を振る。

「いいえ。残念だけれど。見ることも話すこともできないの」

その言葉の意味が、アタシにはわからなかった。

慌ててシンジをみると、ガックリと肩を落としうなだれていた。

「シンジはいます。アタシの横に!」

そう言うと、ユイさんはアタシの横に視線をもっていく。

けれど、それだけで何も言わなかった。

「何か言うことは無いんですか!?」

会いたかったはずだ。話したかったはずだ。

アタシの問いに、ユイさんはゆっくりと言った。

「アスカちゃん。本当に貴方にあえてよかったわ。シンジも私も、ね」

それだけ言うと、ユイさんはまた、シンジのいるであろう場所を見た。

それはまるで、本当に見えているかのように。

「シンジ、ごめんなさいね。ちゃんと伝えてあげることができなくて
あなたの事を、本当に愛していたのよ。私もゲンドウさんも
あなたは悪くないわ。あれは事故だったのよ。自分を責めないで?」

その言葉に、シンジは顔を上げ、叫んだ。

「ごめんなさい!ごめんなさい!ごめんなさい!僕のせいで!」

と何度も何度も。

シンジの態度と、ユイさんの言葉。アタシは意味がわからなかった。

「どういうことですか?シンジは死んだんですよね?襲われて!」

アタシの叫びに、しかし答えたのはユイさんではなかった。

「違うんだ!死んだのは僕じゃない!!」

すべてが、スローモーションのようにアタシには感じられた。

「シンジは、死んでない?」

再び、アタシの鼓動は痛いほど早くなっていく。

「…どういうこと?」

誰に聞くわけではなく、つぶやく。

シンジの姿は、まるで幽霊のようだった。

そのシンジが、死んでいない?

ユイさんは、ただ寂しそうに微笑んでいる。

「あの日、母さんは帰ってきてくれたんだ!
でも、父さんが帰ってこないことで僕は母さんを責めた!
今まで、家族が揃って誕生日を祝ってもらったことが無かったから
たったそれだけのことで、僕は母さんと喧嘩をしたんだ!」

血を吐くような、シンジの告白。

「母さんが、ご飯を作ってくれても、僕は部屋に閉じこもっていて
出て行こうとしなかった!チャイムがなったことに気付いて
僕は父さんが帰ってきたのかと思った。でも、恥ずかしくてでられなかった。
そしたら、母さんの叫び声が聞こえて!」

シンジの叫びを何とか聞いていく。

ユイさんを見れば、胸に黒いシミが広がっていくのが見えた。

「慌てて飛び出していったら、母さんは倒れていて、包丁をもった
男が血だらけになって僕を見てたんだ!僕は怖くて、部屋に逃げて
鍵をかけた。そのままずっと部屋にいたんだ!!すぐに母さんを助けていれば
母さんは死なずにすんだかもしれなかったのに!!」

涙をながして、叫ぶほど大きな声で、シンジは土下座をするように

頭を下げながら独白していた。

「うぅ…ごめんなさい!ごめんなさい!」

もう、言葉にもできず、シンジはただ謝り続けている。

アタシは、呆然とシンジの横に膝をついた。

ユイさんを見ると、美しい顔は涙に濡れている。

「シンジ…貴方は悪くないわ」

それだけ言うと、ゆっくりとアタシとシンジの隣に膝をつく。

「ゲンドウさんは、貴方のパパは不器用な人だから。
シンジとどう話したらいいのか、わからなかったのよ。許してあげてね」

泣きじゃくるシンジに、ユイさんは優しく言った。

シンジとシンジのパパとの間に、何があったかは知らない。

けれど、アタシとパパのように、シンジ達にも溝があったんだと思う。

ユイさんは、今度はアタシを見つめて言う。

「アスカちゃん。貴方は時計を捨てた後、倒れたときに頭を
ぶつけたの。ここは貴方がいるべき世界じゃない。
だから、この世界の色が見えてしまう前に、お帰りなさい」

急激にうすまる意識の中で、ユイさんはアタシの頬に手を添えて最後に言った。

「私に、シンジが見えないように。貴方の大切な人も傍で貴方を見守っているわ」

すべてが真っ白になるなかで、アタシはママとの約束を思い出していた。


『アスカちゃん貴方を幸せにしてくれる誰かが見つかったときに、この時計をあげるわね』


ママ…。

そう、確かにアタシは愛されていた。

アタシ達は、愛されていた。

ねぇシンジ――。












揺らめくような、美しい光――。

誰かに優しくつつまれているような、穏やかな気持ちの中をアタシは漂っている。

赤い色。

アタシは、シンジの中から眺めた鮮やかな赤色を思い出していた。

四方に広がる、色鮮やかな赤。

自分が目を閉じていることに気付いたのは、しばらくたってからだった。

ゆっくりと目を開く。

一瞬、ユイさんのいた病院かとも思ったが天井が違うこと。

なによりあたりに漂う雰囲気が違うことで、ここが違う場所であることがわかった。

蛍光灯の眩しさに、僅かに目を細める。

「アスカ…気がついたか?」

不思議と落ち着いた気持ちで、よく知ったその声を聞くことができた。

(なんだか、声を久しぶりに声を聞いた気がする…)

体を起こそうとすると、慌てた様子で――。

「ま、まちなさい。頭を打ったんだ。今先生を呼んでくるから、横になってなさい」

そう言うと、乱れた足取りでドアを開け外に駆けていった。

その様子を、首だけ軽く曲げて見送る。

思えば、ママが死んでしまって以来きちんと声を聞いたことなんか無かったのかもしれない。

話しはしただろう。会話もしたんだと思う。

けれど、何も聞いてはいなかった。

気付けば、昔と変わらぬ声。

今度は、ゆっくりと目を閉じ複数になった足音と。

『急いでください』という声を聞きながら、アタシは再び扉が開くのを待った。








医師の話では、意識を失った原因は頭部への衝撃とは関係なく。

この年代の少女にはありがちの軽い貧血によるもので。

念のため、頭部の精密検査をし今日一日入院をして様子を見て

問題が無ければ明日には退院できるだろう。とのことだった。

「頭は痛くないか?」

さっきまで、さんざん同じ質問を医者からされていたのに飽きることなく聞いてくる。

(もしかして、他に何を言っていいのか思いつかないだけ?)

そう思うと、その不器用さがおかしかった。

「大丈夫よ。パパ…」

ずいぶんと、久しぶりに言った気がした。

「もう、大丈夫…」

言葉にはできなかった。

「…そうか」

その声が震えていることに気付き、アタシは軽い驚きを胸にパパの顔を見た。

「…よかった」

涙が流れていた。とても美しい涙が――。

そのときになって、アタシは自分の目に色彩が戻っていることに気がついた。

ユイさんの美しく流れる涙を見ることはできなかった。

しかし、今アタシはパパの瞳から流れる美しい涙を見ることができる。

「本当によかった…」

かすれる声でそれだけ言うと、パパはアタシの手をそっと握り締めた。

それからは、お互いに何も喋ることも無く。

けれど、とても穏やかな空気ですごした。

時計の針が動く音だけが、部屋を支配している。

手にパパのぬくもりを感じながら、いったいどれくらいたったころだろう。

見回りに来た看護師に急かされて、ようやくパパは帰ることを承諾した。

帰る間際に鞄の中から、そっとハンカチに包まれた腕時計を出した。

「それ…」

「ママの時計だ。少し壊れてしまっているけどな」

微笑みながら、やさしく言う。

なぜ、捨ててしまったはずの時計があるのかわからない。

けれど、不思議とは思わなかった。

「ごめんなさい…」

「良いんだ。パパも悪かった。直してアスカに――」

そう言うパパをさえぎって。

「良いの。それはパパがママにプレゼントしたものだから――。だから、パパがもっていて」

少しの間、アタシを見てからパパは微笑んで時計を鞄にしまった。

「ねぇパパ。アタシ愛されてたよね?」

(ママに――)

「あぁ…とても愛していたよ」

またアタシの手を握り。

「負けないくらい、パパも今のママだって――」

最後まで言う前に、アタシは大きな手を強く強く握り返した。

パパはそれ以上言葉を続けることなく、アタシの手を握り返して。

「それじゃパパは帰るぞ」

そっと、それだけ言うと。鞄を取り、ドアを開けて出て行こうとする。

その後姿に――。

「パパ、今度みんなで一緒に食事に――」

言葉にはうまくならなかったけれど。

振り返ったパパは、とても嬉しそうに「そうだな」と言って出て行った。

静まり返る病室の中で、気付けばアタシは泣いていた。

腕時計のあった場所に、僅かに残るキズを眺めながら。

「ありがとう。ママ」

泣き疲れるまで泣いて、アタシは深い眠りについた。









翌日―。

会社を休んで、パパと義母が一緒に迎えに来た。

その事を聞くと、恥ずかしそうに「良いんだ」とだけ言った。

義母には「ごめんなさい」と言う事ができた。

急に家族全員のわだかまりがなくなることは無いかもしれない。

でも、もうアタシ達は大丈夫だと思う。

ゆっくりと、みんなで話をしようと思う。

いつの日にか、『ママ』と呼ぶことができる日が来るだろう。

病院独特の匂いを感じながら、アタシはパパ達が退院の手続きをしているのを廊下で待っている。

嬉しさの中、心をよぎるのはシンジのことだった。

(いつか会えるわよね)

シンジは死んでいないと言っていた。

だから、必ずこの世界にシンジはいる。

アタシのママとシンジのママが起こしてくれた奇跡だもの。

そう、たとえ何年かかろうとも――。

(必ず、探し出してやるわ)

密かな決意を胸にしているとき、通り過ぎる看護師達の会話が不思議なほどハッキリと聞こえた。

「302号室の患者さん。昨日目を覚ましたんですって」

鼓動が跳ね上がる。

「あの男の子?よかったわね。でも、なんで――」

会話を最後まで聞くこともなく。アタシは駆け出していた。

飛ぶように。

歌うように息を切り、嬉しさに悲鳴を上げる。

後ろで、手続きの終わったパパ達が驚きの声をあげていた。

「ごめんさい!ちょっと待ってて!」

振り返り、それだけ言う。

確信を持って、アタシは走る――。

エレベーターが来るのがもどかしく、飛ぶように階段をのぼっていく。

302号室をめざして。

すれ違う人たちは、驚きながらよけていく。心の中で謝罪をし、隙間を縫うように走る。

(あの角を曲がれば!)

スピードを緩め、それでも駆け足で曲がろうとしたとき。

廊下を曲がって、一人の男性が出てきた。

思わずぶつかりそうになり「ごめんなさい」と慌てて言う。

その人は「あぁ…こちらこそすまなかった」とだけ言うと歩いていった。

なぜか、その顔はとても嬉しそうに見えた。

後姿を見送りながら、アタシはこの先にある部屋を思い胸が高鳴った。

部屋までは、もうあと少しだ。乱れた髪と服を直して、アタシは歩き出す。

何も迷うことは無い。

ドアを開けアタシは呼ぶのだ。

嬉しさと、ほんの少しの恥ずかしさをもって。


「馬鹿シンジ!」と――。

 








− 
おわり −


 

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 ああ、よかったぁ。
 うんうん、すっごくよかった。
 作品も良かったし、当事者である私としても大満足なわけよ。
 ぐふふふ、これからはじまるのよね。
 この世界での私とシンジの物語が。
 大丈夫よ、ママにユイさん。
 運命の二人が出逢ったからにはもう怖いものなしよっ!
 二人で一杯幸せになって、パパたちも幸せになってもらわなきゃ。
 あ、と〜ぜんシンジと同じ学校に通わないとダメよね。
 シンジの学校に押しかけ転校しちゃおうかな?
 なぁんて、明るい未来を描いちゃうわ。
 ああっ、そういうバラ色の明日をイメージできる素晴らしい終わり方よね!
 
 ホントに素晴らしい作品をありがとうございました、ふじさん様。

 

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