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息が切れて倒れこんだ場所に僅かな湧き水が流れていた。落ち葉に口を押し付けるようにして飲む。
甘い。水をこんなにうまいと思ったのは初めてだった。後方からライトが幾筋も追ってくる。
追跡者達はまだ諦めていない。風が強くなって来た。森ごと揺れているような葉の擦れ合うざわめき。
呼び掛け合う男達の声。散発的に繁みに打ち込まれる銃声。身をすくめ、できるだけ低く接地面積を広く取る。
水を飲んだ周囲の落ち葉の下には水がたっぷり含まれていて、腹這いになっていると身体中に水が上がってくる。
じっとそのまま身体を浸し、プラグスーツが水を含んで行くに任せる。
バッテリーが切れたプラグスーツはゴム引きの長靴にも劣るってことね。
いくらかでも気化熱で体表温度が下がれば 対人センサーをごまかせるかもしれない。
15分、20分。体の感覚がなくなるほど冷え切っていく。
だがまだ動くわけには行かない。見つかった瞬間には銃口をアゴに当てて引き金を絞ってやる。
そのままつかまったらどんな目に会わされるか、分かりきっている。
シンジはなぶり殺しか実験材料。あたしは興奮した兵士に陵辱された上で殺されるだろう。考えたくない。
この山を無事に越えさえすれば、ネルフのみんなと合流できる可能性は高い。そこまで頑張らなくちゃ。
ふと気がつけばかなりの時が過ぎていた。夜空の星が大分動いている。いつの間にかまどろんでたらしい。
まどろむと言うより疲労と寒さで気を失っていたに近いわね。
かさ、かさという音に、驚いて目を凝らすと大きなカブト虫が木を上っていくところだった。
溜息をついて、その場所からゆっくりと這い出した。
追跡者たちは既に山を下っていったのか、漆黒の闇だ。うまくやり過ごせたのか。冷え切って身体の感覚がない。
ブランデーを飲めば温まると言うのは 俗説だと言うことは知っていたが意識が朦朧としている。気付けが欲しいところだ。
この場合、プラグスーツの上にはおったジャケットにチョコレートかキャンデーでも入っていないものかどうか。
だがそれを望むのは無理というものだ。火を使えばたちまち赤外線センサーにひっかかる。
背のナップサックに押し込んであるビーフジャーキーとチョコレート、僅かな非常用水と濾過ストロー。
塩の錠剤とアスピリン。保温用アルミケットが手持ちの全てだ。
谷間から、ススキの草むらに隠れ、ひっそりとした砂浜に出た。 波以外の音がしないか耳を凝らす。
暗い中に浮かび上がる浜の上にも足跡はない。何かを引きずった跡もない。振り返って下ってきた山肌を見上げる。
熊笹の繁みが続いているそこも、風に揺れる以外の不自然な動きはない。
十分確認した後で、体を屈めてぎりぎりまで目的の場所に接近する。
大きな岩と岩の隙間。僅かに顔だけを出して埋めてあるシンジのところへ駆け寄った。
「シンジッ、生きてるっ?」
岩の間に滑り込んで、揺さぶっても反応は無かった。首筋に手をやると拍動に触れた。ほっと息をつく。
非常用水のパックにストローを差込み、指で押さえ、僅かな量を少しだけ唇に垂らした。
ひび割れた唇から水滴が浸み込むように口の中に消えていく。
それを幾度も繰り返すと、のどがごくりと動いた。はっとして顔を寄せると目が開いた。
「ここは…アスカ?」
「そうよ。やっと気がついた。あんたずっと眠り続けてたのよ。」
「眠り続けていたって?それじゃあ海の中であったことは全部、夢の中のこと?」
「どんな夢を見てもいいけど、起きた以上は現実に抗わないとね。」
「今、どういう状況なの。」
「ネルフは壊滅状態。あたしと弐号機が暴れたから自衛隊の方にも大きな損害が出て主力の機械化部隊は引いたわ。
今は散りじりに本部外に逃げたネルフの人々を自衛隊の歩兵部隊が掃討している状態よ。」
「初号機は?」
「どこで何がどうなったのか知らないのよ。」
記憶が途切れる直前に初号機を見たような気がするけどその後は何をしてたのか分からない。記憶がないのだ。
とにかくシンジを砂から引き出し、僅かな水でジャーキーを戻した。 味は最低だが、シンジの体力を考えると噛む力が惜しい。
それを細かく歯でちぎって、シンジの口の中に押し込む。そのまま飲み込んでもいいからとにかく食べて欲しい。
「いいよ、いらない。」
「馬鹿ッ、なに言ってんのよ。食べなきゃ死ぬわよっ。」
吐いてしまったら元も子もない。少しづつ根気良く続けるのだがそのまま口から零れてしまうのだ。噛む力がないの?
最後はあたし自身が咀嚼したものを舌でのどの奥に押し込んだ。シンジはそれに気付くこともなく、やっと飲み込んでくれた。
あたしがシンジに対してこんなに気長に何かするなんて初めてだったろう。 死なせないわよ、このデコ助。
シンジは時々気がついてかすかな声でしゃべり、また眠ってしまう。
こんなことは男が女にすることよ。いや、看病するのは女の方でいいのか。あたしもやっと下らない事を考えるゆとりが出来た。
山の中でしつこく追われたあと、敵は姿を見せていない。
どういう状況になっているのかもさっぱり分からない。 だけど、この状態でもう一度シンジから離れることはできないと思った。
「シンジ、そろそろ移動しないと危険なような気がする。」
「そうだね。でも僕はまだ動けない。アスカ、先に行ってもらえない?」
あたしが拒絶するのをシンジは予想していたらしく、どの道アスカが僕を担いでいくなんてことはできないんだから、
助けを求めにいって欲しい事、じっと隠れていればそうそう見つからないからと言い張った。
「そんなこと言うだけ無駄だって思わないわけ? 馬鹿、あんたの考えなんて底が割れてるって言うの!」
断固として拒絶した。あたしには少なくともいくらか抵抗できるだけの拳銃と弾丸8発がある。
さっきまでは見つかったら死んでやると思っていたけど、こいつの顔を見てたら2人で生きられるだけ生きてやろうという気になった。
完全に口にするものが尽きるまで、ここにとどまった方がシンジの体力は回復する。それならじっと隠れていよう。
敵影がない以上、それが一番助かる可能性が高い。潮が引けば、貝くらい採ってこれるだろう。
夜風が寒い。 砂山で入り口を出来るだけ塞ぐ。
さらに乾いた海草や枯れ草を集め風を防ぐ。シンジの頭を抱くような格好で丸くなって眠る。
この格好が一番体温を失わない。枯れ草と海草は思った以上に風を防いでくれた。
まるで海燕かなんかの巣ね。 スープの高級食材を思い出してにやけてしまった。さしずめシンジの頭は卵ってところ?
早く元気になりなさいよね。いつでもあんたは行動が鈍いのよ。
数日が過ぎ、シンジの意識は大分しっかりしたが、身体のほうがさっぱり回復しない。
骨が折れているわけでも、打撲があるわけでもないのに。 必死で起き上がろうとしているシンジに肩を貸すが、力が入らないようなのだ。
「こんなことを続けてたら、アスカだって危なくなるのに!」
唇を噛んで悔しがるシンジ。だが力の入らないその手足。外傷はないのにどこかの神経に傷を負っているのだろうか。
「いいかい、アスカ。とにかく君は一人で山を越えるんだ。このままじゃいずれ2人ともつかまるのは目に見えてる。
幸いここ何日か敵の姿はない。引き上げるか、索敵範囲を別に定めているんだとおもう、だから今のうちに。」
さすがにもう選択肢はない。シンジに言われるまま、残った食料と浄水ストローで作った水を残してあたしは山を登っていった。
数時間で森の木々の間から朝日が差し込んで来た。頂上にたどり着いたのだ。
少し向こうに頂上展望台がある。壊れたレーダーサイトもある。散策小路に水の蛇口があり、ひねると水が勢い良く出た。
浴びるほど水を飲み、水筒に注ぎいれながら目を上げると峰線から見渡した海は一面真っ赤に変わっていた。
そして向こう側に見える都市は半壊し、何箇所も煙を燻らせていた。車の出入り一台無かった。
敵どころではない。何もかもが崩壊しているように見えた。なくなっていた。一面、人の気配がない荒野のようだ。
私たちが逃れていたこの4日程の間に何が起こったんだろう。
思わず水筒を取り落としていた。激しい水しぶきをあげて空っぽの音を上げる水筒。
「なによ。なによこれ… 一体何が起こったのよ。」
はっとして水筒を取り上げて音を止めた。敵がいなくなったのかどうかはまだ分からないじゃいの。
拳銃を手に握ると、小路沿いに展望台に駆け寄った。敵が進行して来た方向の窓や壁面は、銃弾の後が残り、半分崩れている。
その床に、異様なものを見つけた。
戦略自衛隊の制服。
それも装備はボタンもはずさずベルトもそのままに、自動小銃も、ヘルメットも人がつけているような形のまま、床に転がっていた。
それが、少なくとも床に20人分ほど、不自然に存在しているのだ。
壁に寄りかかったような姿勢のもの、ベランダの手すりに、歩哨の姿勢のまま引っかかったようなものもある。
なに、これって一体何が起こったのよ。人を溶かしちゃう爆弾でも落ちたというの?
展望台のさらに向こう側の駐車場にあった軍関係の車両にも人はいない。ただ服だけが散らばっていた。
出入り口の石柱にぶつかって止まっている兵員輸送車。ドアを開けると、勢い良く水が流れ出た。
一体何人がいたのか服を数えると12枚。人一人の体積よりずっと多い量のオレンジ色の水。
馬鹿な。まさかみんな本当に溶けてしまったとでも言うのだろうか。 車両のラジオをつける。無線もくるくると周波数を変えてみた。
タウンFM局が音楽を流し続けているがこれはおそらく深夜の放送休止の音楽がそのままになっているんだろう。
まともな放送は全くとらえられない。短波も、極超短波でも軍用周波数でも何も捕まえられない。
世界中が、この状態だというの?
とにかくそこにあった武器、食料と水を後部座席に放り込んだ。
トラックにあった軍服に適当に着替え、軍用ジープでシンジのいる浜辺に向かって道を走り降りた。
シンジを抱き起こすと、とにかくたっぷりと水を飲ませた。そして服を着替えさせた。
こいつ、無闇に恥ずかしがるんじゃないわよっ!って叫んで。そうよ。あたしが恥ずかしくないなんて思ってるんじゃないでしょうね。
エヴァのプラグスーツは機能的だ。
だけどそれはコックピットにいればこそであって、電源もない外部においては下着と変わらない。
携帯電源なんて30分も持たないし、やたらと薄手なので防寒機能も枝や石くれからの保護機能も無いのと同じ。
ジャケットを羽織っていなかったらとっくに凍えている。夏でよかったわ。
シンジを砂の中に埋めたのも少しでも保温のたしになるかと思ったからよ。
まして年頃の娘にとっては身体の形なんかはっきり出てしまう、とんでもない代物よ。
知ってるんだからね、あたしたちを見るたびにシンジが(表面的には)恥ずかしそうにしてたの。
恥ずかしそうにしてた裏で、どんな目であたしを見てたか。
とにかくあたし自身もだぶだぶとは言え服を着れた。敵の脅威もひとまず去ったようだし。
現実世界の把握をするためにもどこか安全で人目につかないところに潜む必要がある。
まずはシンジのために医者を探せないものだろうか。
大体、常夏と化していたこの世界でこの寒さは一体なんなのよ。今の気温、15度かそのくらいじゃないの?
稜線を越えるところの道路沿いの展望所。
朝にあたしが上った展望台よりは低い位置だが見晴らしはいい。
強い風に白波で海が埋まっている。その合間の海が赤い。
改めて目を剥いた。あたし達の小さな入り江だけが赤く色づいていたわけではなかったのだ。
遥か彼方までが茜色の海。水平線近くまでいってやっと青くなっていた。
でもそれはスペクトラムのせいで、実際にはどこまでも赤いのだろう。
「ラジオも何も入らないなんて。」
「とてつもない事が起こったとしか今は考えられないわね。」
「ネルフの秘密回線は?」
「100回線以上もあるネルフ本部の通常回線が全て駄目な上に、リツコやミサトの個人回線にも応答なし。秘密回線も、レイにも。」
「僕が最後に射出された時に、本部は既に自衛隊によって殆ど壊滅状態だった。
アスカもだめだって、そう言われた。」
「あたしが…だめって?」
シンジがゆっくりと辛そうに振り返った。
「僕が見た弐号機は、エヴァシリーズの白い機体に蹂躙されて、食い殺されて、形も無かった。」
「何よ。そんな記憶、あたしには…」
コロシテヤル、コロシテヤル、コロシテヤル…
これは何の記憶?爆発しそうな憎しみと恐怖が突然膨らんだ。ねじ切れそうな程心臓が拍動した。
「ハッ、アハッヒゥッ!」
息が詰まって、激痛に呼吸が出来ない。反射的に、死ぬと思った。
「そんな記憶は、無いわ…よ。あたしは、あんたが来るのを待って。」
コロシテヤル、コロシテヤル、コロシテヤルッ! これは・・・紛れもなく私の声。
太陽から落下してきたような槍が、自分を貫いた、あの場面が出し抜けに蘇った。
激痛と恐怖、怒りに血が沸騰した瞬間。あたしの身体が、ああ、あたしの身体が崩壊していく。
それと一緒に、あたしの記憶が、抱え込んでいた優しい日常の風景が真っ赤に塗りつぶされていった。
ミサトが、加持さんが、レイが、シンジが、ママの記憶が、誰かの呼ぶ声が、全て、全て、全て真っ赤に染まっていく。
その向こうにあったのは大きく口を開けた、冷たく深い真の暗黒の淵。あたしはその中に落ちていく。
その底に蛆のように蠢いているものが、あたしの方に一斉に手を伸ばしている。あれは…あれは。
「きゃあああああああっ、ああああああっ!」
「アスカっ!大丈夫っ。落ち着いて。」
腕や頭に爪をたてかきむしるあたしをシンジが不自由な体でやっと抑えてくれた。
そうだ、確かにあった、そんな目にあたしは会って、そして、そして、死んだ?
その後の記憶が、全くない。
気がついたとき、あたしはシンジを引きずるようにして、森の中を逃げていた。時の断裂の中で何が起こったのか。
記憶がない以上、探る余地もなかった。とにかくあたしはシンジをどこかに隠して守ろうと必死だった。
あの浜辺にまろび出して、あそこの大岩に陰にシンジを埋めて、乾いた海草で覆ったんだ。
あの槍に貫かれた激痛の後、弐号機を捨てて、シンジと合流したということ? 何があったと言うのだろう。
「もう、大丈夫。訳の分からないことはあるけど、とにかく今はあんたが病気であたしは元気ってことよ。
病人はあたしに従って大人しくしてること。いいわねっ。」
「わかった、何事も現状優先でいくよ。」
「うん、馬鹿シンジはそれでよしっ。」