長い急勾配の坂を一気に駆け下る。ターンした瞬間に、目の前一杯にまだ茜色のままの海が広がった。 
海沿いの2車線の道を80kmほどで走り抜けていく。ディーゼルの大きな音が頼もしく感じられる。 
関東平野には海面が深く入り込んでいるが、伊豆半島は隆起したため古い道を舗装しなおしただけでそのまま使われていた。 
しかしそれも重戦車が配置された熱海以北では掘り返された様な状態になっていた。 
海沿いで進むのはもう限界に近かった。 


「シンジ、道もひどいし、海沿いに進むのはもう無理みたいね。」


地図は縄文海進の頃の様に海岸線がさらに食い込んでいることを示している。
この辺は戦闘危険地区だったせいか、民間人の服が散らばっていない。
元々急な避難だったために戸締りもしていないところが多い。土産物屋さんの商品も真っ白に埃を被っている。


「いや、助かるよ。もうお尻の感覚がなくなりそうだったんだ。アスカはお尻大丈夫かい?」 

「ひ、人のお尻の心配なんてしなくていいのよっ、Hなんだからっ。」 

「え、エッチで言ってるんじゃないよ。」 


ガソリンスタンドが目に入ったので滑り込んだ。 
こまめに補充しておかないと次のスタンドまでどのくらいあるか分からない。軽油缶をさらにいくつか積み込んだ。 
ここでトイレも済まし、座席用ソファーをいくつかもらっていくことにした。これであたしのお尻も少しは持つでしょうよ。 
シンジは強がっているけれどあたしより体位変換ができないので辛いに決まっていた。 
後ろの座席には横に倒れられるようにソファーを並べた。 
スタンドをでた後、山を越えて西伊豆の土肥に向かう。そこから御殿場に出て高速を使えたら大分行程を圧縮できるだろう。 


「富士山が見える。」 

「ほんとね。」

「噴火があったんだな。また少し形が変わってるよ。」 


あたしの知っている富士は今の形だけれど、シンジの知っている富士はもっと左右対称に近かったそうだ。
写真でみるととても美しい山だったことが分かる。 セカンドインパクト以降噴火を繰り返し、高さは海抜5000mを越えた。
当時は4000mなかったというから、もっと女性的な雰囲気の山だったんだろう。女神が祭られている山だったらしい。
山の半分は大きく口を開け、その後も小さな噴火を繰り替えしている。噴火から暫くの間は噴煙を上げ続ける。
水没した旧東京の上に火山灰が降り続き、一時は東京湾は死の海になっていたそうだが、今の海は大分復活している。 
だが、いまの若々しく荒々しい富士もあたしは好きだ。死んだように眠っていた火山が大きく伸びをしたその姿。 
人が前に向かって進んでいく姿そのもののように感じられるから。女神様も凛々しい戦姿でもしてるのかしらね。 

高速道路は高架が所々落ちていて、そのたびに迂回した道路も所々寸断されていた。本格的な4WDで来てよかった。
野宿もして、さらに迂回を繰り返した為、旅程は思ったより随分時間が掛かっていた。 
この先も山脈が続く上、人々が消えて半年も経つというのに未だに黒煙を上げている都市もあった。

暗くなると危険なので今日も早めに宿泊施設に入った。
幹線道路をはずれ、わき道の奥にある大きな和風旅館を見つけ、その庭の奥に車を停めた。 
一見したところ外からは全くあたし達の車は見えない。人はこの10日あまり全く見かけないがやはり警戒するに越したことはない。 


「ああー、ほっとする。やっぱり日本人は畳が好きなんだなぁ。」 


縁側がある広い和室に入ると、シンジは畳に寝転がって大きく伸びをした。


「ストローマットにそんなに愛着があるなんて、やっぱり日本人って変わってるわよね。」 

「ストローマットって言われるとなんか違う感じだなあ。畳は藁だけで出来てるわけじゃないんだよ。」 

「藁じゃないの?」 

「イグサって言う、藁とは全然別の植物の織物で藁のマットを覆っているんだよ。」 

「へえ、知らなかったな。全部藁なんだと思ってた。」 

「アスカって知ってることと知らない事が極端なんだよね。」 

「なによ。あんたのドイツの知識よりずっとマシよ。どうせあんたなんかドイツにはビールとバームクーヘンしかないとか思ってんじゃないの?」 

「そ、ソーセージだって良く食べるってことも知ってるよ。あとポテトとかハンバーグとか。」 

「何よ、そんなのあたしの好物並べただけじゃん。」 


ほら、ぐっと詰まった。ほんっとシンジって単純。 
厨房を調べたら缶詰のソーセージとか冷凍になったままの挽肉や乾燥たまねぎがあった。 
これは今夜はハンバーグステーキにするしかないわね。 店の水槽には鯉が悠々と泳いでいる。
これをお刺し身、ええと『洗い』って言ったっけ?あれに出来たらいいのにな。シンジは和食結構好きだから。
野菜も裏庭の湧き水近くに見事なクレソンやセリが茂っていた。これも使わせてもらおう。


「ああ、お腹一杯。」 

「お風呂に行こうか。」 

「いいわね、ここ岩風呂しかないからまた混浴になっちゃうわよ。」 

「う、うん。アスカが嫌じゃなかったら。」 

「ここ、もう病院じゃないからいろいろな器具はないわよ。シンジの方こそ恥ずかしがって逃げたりしない?」 

「だ、大丈夫さっ!」 


あら、ほんとに? あたしは苦笑して、ちょっとどきどきしながら応えていた。 


畳の部屋がシンジの気に入ったのはまずよかった。 
ミサトと3人で暮らしていた頃は床に直接厚めのカーペットを敷いて暮らしていたのよね。 
だから畳の部屋で二人で寝るのは初めてなわけ。 
そのこと自体はいいんだけど、シンジを畳の部屋に寝かせると大変なことがあったの。 
それは、シンジを立たせたり寝かせたりすること。 
ベッドは脚を下ろせばそのまま立ち上がって車椅子に腰掛けられるんだけど畳ではそうはいかないでしょう? 
寝ている位置から起き上がるのはいい。そこから立ち上がるのはちょっと技術がいるんだけど、それが問題なのよ。 


「じゃ、御飯も終わったし、そろそろお風呂行きましょうか。」 

「う、うん。」 

「何よ、早速照れちゃったの?」 

「照れてなんか。」 

「じゃ、ほら。行くわよ。」 


後ろ側に立ってシンジの腕の脇から手を入れ、しゃがみこんでおへその辺りで両手を交差させしっかり腕同士をつかむ。 
そして、ぴったりと背中に身体の正面をあわせてゆっくり立ち上がって下がりながらシンジの体をずるずるっと抱き起こすの。 
背筋と自分の体重を使うので、無駄な力も要らないし、とっても楽に起こせるのよね。 
でも、こうするとシンジの背中にあたしの胸がさ、ぴったりくっつくでしょ。 
ちょっとでもシンジが抵抗すると揺らいで危ないのよね。 


「う、うんっ。」 

「行くわよ、身体の無駄な力抜いて、逆らわないでね。そーら。」 


ぴったり合わさった背中と胸。あたしだって結構恥ずかしい。でもシンジのためだもん。 
しょうがないって覚悟して平気を装ってるのよね。 


「ほーら、巧く立てた。」 

「あ、ありがとう。アスカ。」 

「いいってことよ、シンジ。」 


笑ったまま立ち上がったシンジに柱に手を掛けさせる。
シャツやズボンを脱がせ、パンツ一枚になったところで浴衣を着せる。それからパンツを取り替える。(もちろん後ろから) 
いつになってもシンジは照れくさそうにするから一連の流れでやんなきゃね。
どこかで途切れるとその先に行くのが恥ずかしくなっちゃうでしょ。
だいたい馬鹿シンジがいつまでも照れくさそうにするから、あたしまでいつまでも恥ずかしいんじゃないの。 
それから腕と肩を貸すようにしてゆっくりと浴場に向かった。 

あたしとシンジはまだ身体の大きさがあまり変わらないから肩を組むには楽だ。
つるつるの廊下は足を滑らせるようにして進めるのでいつもよりいくらか安全。 
浴場で、シンジの浴衣を脱がし、次にあたしが自分の浴衣を落す。湯舟から溢れる温泉の音がせせらぎの様だ。
シンジは頬を染めてあたしの方を見ないようにしていたけど、多分あたしが浴衣を脱ぐ音だけでどきどきしていたに違いない。
もう、コッチだって同じなんだから、あまり恥ずかしがらないでよ。


「さ、あたしにつかまるのよ。肩に手回して。下、濡れてるんだからしっかりつかまらないと危ないわよ。」 


ああもう、顔から火が出そうだけど、ここで恥ずかしがっててシンジが転んだりしたら取り返しつかないじゃん。 


「なにしてんのよ、しっかりやらないと本当に危険なのよ。デレデレしてないでしっかりつかまって!」 


声を励まして、シンジにつかまらせる。シンジの肌の感触が生々しくてどきどきするけど、こらえた。 
シンジの手に力が入って、しっかり右肩をつかまれた。お腹の前にある左腕に左手が重なる。 
背中に背中がかぶさる。ゆっくりゆっくり湯舟に歩を進めて真ん中に立った。 
ここからしゃがむのが問題。シンジの後ろに回ってお腹に両脇から腕を回し密着した。 
そしてゆっくりと腰を下ろしながら後ろへ下がる。シンジのお尻が湯槽の底につくまでそっと引いていく。 
本当は心臓が爆発しそうだった。今までは治療用の水着と白衣越しだったけど、そんなものまで持って歩けないでしょ。 
覚悟を決めて、こういうことだって出来なきゃいけないと思ったのよ。もし、見えてるとしても、平気。 
そう、シンジは病気なんだから。 
でも、息がつまりそうだった。正直言うと足が震えてたし、自分の乳房が自分の目に入った時はしゃがみ込みそうだった。
それをこらえ、温泉に手足を伸ばして浸かったとき、あたし達は並んでいたけれど暫く何も言えなかった。 

何も言葉を交わさないままお湯の中を見ていた。あたしの健康的な足とシンジの青白い脚が並んでいる。
この足は自分でも気に入っている身体のパーツの一つ。真っ直ぐでいい形をしていると自慢に思っている。
あれだけ色々訓練をしてきたのに運よく傷一つ残らなかった。それに比べるとシンジの足はあちこちに傷がある。
戦闘だけじゃなくて訓練中に何かにぶつかったり切ったりして幾度か縫った事があるのを知っている。
へへっ、運動神経の差よね。
足先から腿の方へと目線を移して行って、はっとして目をそらせた。
やだ、変なとこに目が行っちゃうところだった。あたしは照れ隠しもあって大きな声で言った。
くらくらして、眩暈がしそう。


「さぁ、もう大分ゆだったから出ましょ。」


そう言いながらざっと立ち上がりかけた途端、シンジがつられる様にあたしの方をふっと見上げた。
「こらっ、見るんじゃないっ。」と、胸を押さえ飛沫を上げて湯の中に戻った。
シンジは慌てて後ろを向いた。見られた、見られた、見られた。


「このっ、すけべっ!」

「わっ、ごめ・・」


謝る間も与えず頭をお湯の中につけてやった。
両手をばちゃばちゃさせながらシンジがもがいたけど、あたしは完全に頭にきてた。
シンジの筋肉に力がないなんて忘れきってた。はっと気がついた時はシンジの抵抗がなくなってたのよっ。


「あっ、シンジッ!」


さっすがに慌てた。髪をつかんで顔を持ち上げると、凄い勢いでシンジは咳き込んで、苦しそうに涙や涎を垂らした。
ああっ、何てことしちゃったのっ!
そのままシンジを抱えて立ち上がり、横抱きにして浴槽から洗い場に引きずり上げた。
咳をする力も弱くなっているんだっけ。背中をさすって押すと、ゲホゲホいいながらお湯を勢い良く吐き出した。
はぁはぁと息遣いが落ち着いて来たので、やっと安心して、あたしはヘタヘタと床にしゃがみこんでしまった。
うつ伏せにして、膝をあわせた上に胸が来るようにし、さすりながら気管からの自然排出を待つ。
ごめんとか何とか言わなきゃいけないのに、気が動転して言葉が出てこない。


「あ、アスカ…」


やっとシンジが声を出した。体位を変えて仰向けにする。この方が声を出しやすいから。


「わざとじゃ、ないから。つい振り返っちゃったんだ。ごめん。」

「何言ってんのよ、あたしが悪いんじゃん。」

「そんなこと。ない。でも」

「なに。」

「あの、この姿勢だと、胸、見えちゃう…よ。」

「え?何が。」


シンジはそう言うが早いか、ぎゅっと堅く目を瞑った。え、なんで?
一瞬あと、あたしは悲鳴を上げて思い切り飛び退っていた。当然シンジの頭は。
ゴンッて凄い音がした。

く、何ていう不覚だろう。こっちに弱みがあったとは言え、いきなりシンジなんかに、あ、む、おっぱい見られちゃうなんて。 
そりゃあ、汚いものを見せたわけじゃないし、むしろあいつには一生待ってたって見れないものを見せたんだからねっ。 
くそ〜、ほんとに悔しい。う〜う〜と暫く唸っていた。
介護上仕方がないのはやむをえないけれどさっ、そうじゃない事はシンジにサービスするつもりはないんだからねっ。 
浴衣だけ羽織らせ、ずるずると怒りに任せて廊下を引きずって部屋に戻ったわよ。 
布団を敷いて寝かせてやった。もう後は貸し借り無し! もう知らないったら知らないっ!


「もう怒った。2度と面倒見てやんないっ!」 


何回シンジの方を振り返ってそう叫んだろう。 
冷蔵庫から出した2本目のコーラがなくなった頃には怒りよりも、しんとしたままのシンジがだんだん心配になって来た。 
大体、元々相当覚悟を決めて一緒に裸になったんだから。
少しくらい裸とかなにかが見えたからってきゃあきゃあ騒ぐつもりはなかったのよね。 
それを、急にシンジの視線が凄くいやらしい目に感じて、手が出てたの。 
覚悟を決めたとかいって、恥ずかしくて仕方なかった。シンジなんか男として認めてないから恥ずかしくない、筈だったのに。 
布団ににじり寄った。枕もなしで引きずってきたまま布団にうつ伏せで放り出されてるシンジ。
そっと後頭部に触れると膨れて熱を持ってた。 


「シンジ、大丈夫?」 


返事はない。思わず脈を取ったけどそれは正常だった。
多分のぼせたのと頭を打った事のダブルパンチで気を失っているだけだ。 
しょうがないな。もう一度廊下に出て洗面器を探してきた。調理場で氷を調達。 部屋に戻ってタオルを絞ると後頭部に乗せた。 


「ありがとう。」 

「なによ、気がついてたの。」 

「たった今ね。」


なんだ…心配することなかったんだ。また少し、だまされたとか、そんな言葉が遠くで響いて消えた。


「………」 

「え?なに?」 

「悪かったわねって言ったのよ。」 

「いや、別にいいけど。見ちゃったの、僕のほうだし。」 

「ううん。それはもういいや。」


あたしが、恥ずかしかっただけなのよね。
あたしの中のシンジは、もう情けなくて俯いてばかりの、頼りない「男の子」じゃなくなってたんだ。


「アスカ。」 

「なに。」 

「二人きりなんだね。」 

「だからって、あ、あたしがあんたを選ぶとは限らないわよッ。」 


またとんでもない事を口走ってる、あたしの口ってどうにかならないの?


「あ、当たり前じゃないか。何で僕がアスカをっ。」


そう言われるとカチンと来る。あたしのどこが不足よっ、とかなんとか叫んでいた。
ああ、あたしまた自分で自分の首締めてるぅっ。


「あんたはとにかくあたしの言う通りにして、大人しく身体を元通りにすることだけ考えてりゃいいのよっ!」


いつもならしんみりした空気なんかいっぺんに吹き飛んでしまうとこだったんだけど、その夜はちょっと違った。
シンジは両手を突いて上半身を起こし、真っ赤になって怒った様な声を出した。


「そうだよな。僕なんかアスカの足手まといになるだけだ。アスカだけならもうとっくに新東京なり長野に着いて保護されてた。
僕がいるばかりに、半年も足止め食って、今日だってこんなとこに泊るはめになって、食料の調達から看護まで、くたくたになって。」


そう言いながら声が小さくなって、震えた小さな声が届いた。鼻の先からひっきりなしに涙が垂れてた。


「朝も昼も夜も、僕を背負ったり肩貸したり、休む暇もない。僕は、僕は情けなくて。」

「やめてよっ!」


叫んだ。


「あたしがいつあんたのことを足手まといだなんて言った?疲れたなんて言った?」


あいつの両肩をつかんで揺さぶってた。


「仲間でしょっ、一緒に戦ってきた友達でしょっ!」

「仲間?友達?」

「そんなこと一度も言ってなかったかも知れないけど、あたしとシンジは他人じゃないでしょ、分かってくれてると思ってたのにっ。」

「ア、アスカ。」

「あんたのこと、シンジのこと大事に思ってるから、苦痛でもなんでもないんじゃないっ!」


あたし、シンジの左右の髪をわしづかみにして自分の頭をゴリゴリと押し付けてた。


「何で、何でそんな情けないこと言うのよ。馬鹿っ。」


いつの間にか腰まで起き上がってるシンジにあたしは泣き声で訴えてた。情けなくて、悲しくて、シンジが哀れで。自分が可哀想で。


「どうして、あたしがあんたの面倒見るのは当たり前だとか、当然だとかって思えないのよっ。
家族でしょっ。2人ともミサトの弟と妹でしょっ!ミサトがいつも言ってたじゃないっ。馬鹿、馬鹿よシンジは。」

「アスカ、ごめんよ。ごめん…ごめん。」


それから暫く二人。肩にしがみつき、頭を押し付けあって、泣いた。おせっかいなミサトのことも思い出して泣いた。
ネルフのみんな。マヤも、リツコも、男の人たちのことも思い出して泣いた。
なんか、身体の中に溜まっていた毒が、全部流れ出て行ったみたいに、いっぱいいっぱい涙が出た。
生まれて初めてだった、こんなに泣いたの。シンジが、おずおずとあたしの背中に手を回した。そっと、抱きしめてくれた。

その感触は、何の照れくささも恥ずかしさも感じさせなかった。あたしは、シンジの腕の中で溜息をついた。
何でこんなに安らぐのか、不思議だった。もう一度、温かい涙が溢れていった。


「はぁ、あたしどうかしちゃったのかな。」


こんなことで、どうしてあんなに泣いちゃったんだろう。鼻の先もまぶたも、きっとピンク色に染まってる。
縁側に座り込んで、足をぶらぶら。月を見上げた。部屋の隅にあった蚊取り線香をともすといい香りだった。
友達のうちに遊びに行ったときこれを知った。面白い意匠だと思ったし、少々煙たいがいい香りだとおもった。
おまけに防虫効果があるという。日本の夏には欠かせないものよって教えられた。
夏がずっと続くようになって、季節限定商品が年中売れるようになった。これを作っていた会社は大もうけしたんだろうな。
本部を出て山の中を逃げている時、蚊には随分悩まされた。本部には蚊なんかいなかったし、家にだって。
もしいたとしても火気厳禁だからと許可されなかったろう。精密機械があるからヤニが出ると困るだろうし。
10月の日本家屋の庭からはいろいろな音がする。日本人はそれをいい声だとか哀れだとか言う。
草や樹の葉の陰や軒先に掛かる月の景色などと合わせて、風流だとか言うんだ。
その感覚は、あたしにはよく分からない。分からないけど、わかっていたいとは思うようになった。
あたしの中にある日本人の血が、いつかはそれを理解させてくれるかな。それとも一生分からないかな。
この先、日本人になって生きていけば可能性はあるでしょうね。ずっと、このまま日本にいて。
ええいっ、これはあくまで月とか虫の音の話なんだからねっ。
嘘じゃないわよっ。
自分で苦笑した。でも誓って言うけどついこの前まではそんなこと思ってもいなかったんだからね。
この感情を誰かに気がつかれてからかわれたり、恥ずかしい思いをする心配がなくなったから言うんじゃないわよ。
隠してたわけでもないし、実際あいつのことなんかなんとも思ってなかったんだから。
じゃあ、今は?
今だって同じよ。この感覚はスキとかキライとかいう気持ちとは違う。違うと思う。同情?哀れみ?
そして、全部のもやもやした気持ち。これは、恋愛とかそういう気持ちとは違うと思う、…そう思うんだけどな。


「あ〜あ。なんなのよ一体。」


そのまま後ろにひっくり返った。浴衣の裾が乱れて足もパンツも丸出しになった。
お月様はあたしのお尻を見てびっくりしてるわね。そのまま、起き上がる。にょっきり出たあたしの白いかっこいい足。
お行儀悪いなーと思いながら、そのままの格好で、エイッと胡坐をかいてみた。
お風呂の中で並んでたあいつの足とはぜーんぜん価値が違うわよね。先のことは先のことよ!

庭には話に聞いていた日本の秋の気配が濃厚だったわけだけど、あたしがやっていることってぶち壊しよね。
そう、不思議なことに季節が戻ってきていた。
それに気づいたのは伊豆の温泉病院にいた時だったんだけどね。
朝でも25℃を下回るのが珍しいこの地域で昼間の気温が30℃を上回らなくなった時に、おかしいと気づいたわけ。
青々としていた木の葉が元気がなくなり明らかに落葉が増え始めていたのよ。

このまま行けば紅葉もたぶん始まるわね。
ドイツには長い冬の合間に、春と夏と秋がどっと一緒になってやって来てまたすぐ冬になる。
急激に移り変わる季節の合間に、紅葉も慌しく赤や黄になる前に茶色く縮れてしまう。ほとんどは針葉樹林だし。
ここと同じように、少しだけ向こうも「間の季節」が長くなっているんだろうか。

この日本では、朝の気温も下がり、山の上の方に行くと肌寒いくらいだった。
人が消えただけじゃない。気候も変わっていたのね。植物はそのままだったけれど動物はどうなんだろう。
鳥は良く見かける。スズメやカラスは日常的に目にするけど、獣はどうなんだろう。
犬や猫は時々見かけたが、ペットは餌をやる者がいなくなったから街から離れるか、運がわるいと餓死するかもしれない。
自分の力で生きられなければ他の選択肢はない。
牛や羊や馬はどうだろうか。牧場で飼われていたものはある程度生き残るかもしれないけれど、冬を越えられるだろうか。
これは、興味があるってだけのことじゃない。
これから冬がやってくるってこと。私たちだって越えられるんだろうか。
今はまだ電気やガスは不自由なく使える。だけどこの先は?電気が止まれば冷蔵されていた食品は全て朽ち果てるだけ。
今からくよくよしても仕方ないけど、ずっと先のこととしても、考えておく必要はあるわね。

部屋に戻るとさっき二人でしがみつきあって泣いた事が嘘みたいに思えた。
シンジはぐっすり眠っていて、相変わらず子どもみたいな、あどけない表情してたからなおさら。
2つ並んだ布団。あたしが敷いたんだけどなんか当たり前みたいに敷いた自分が大胆に思えた。
でも、温泉病院でずっと同じ部屋で寝起きしてたわけだし、あれからいろいろなところで一緒に寝たから今更うろたえない。
冷蔵庫からもう一本、今度はサイダーを出して飲んだ。
大人から見たら、シンジもあたしもまるきり子どもに見えるんだろうな。あたしから見るとシンジだけが子どもに見えるけど。
この世界の中であたし達二人の子どもが遭難していて、助けを求めて東京を目指している。
そんな映画を想像した。男の子は動けず、女の子はその子をかばいながら旅を続けている。
敵がいるかもしてない、天変地異が襲ってくるかもしれない。
それでも二人は大都市を目指す。そこにいるかもしれない大人達や仲間を求めて。


「ちょっと格好いいかもねー。」


明日はどこまで行けるかしら、と思いながら布団にもぐりこんだ。





 

−THE LAST CHAPTER−へ続く