碇シンジは目を覚ます。

そっとベッドから降りようとして、注意を払わなくていいいことに気づいた。

なぜなら昨晩、彼女はベッドに潜り込んできてはいなかったから。

珍しく自分の部屋で寝たのだろう。

ほとんど反射的に先日のことを思い出し、赤面する。そりゃあアスカも一人になりたいのかも知れないな…。

カーテンを開ければいつもより明るいのに違和感を覚えた。

時計を見て納得。寝過ごした。なるほど、僕も昨日の緊張が残っていたのかも知れない。

寝過ごしたとはいえ、まだまだ朝食には間に合う時分。

パジャマを着替え、シンジは自室を出る。




 


You have a choice?

 


 

三只        2005.09.26

 

 















火の気のないダイニングキッチン。

カーテンを引いて明かりを入れて、ついでにTVのスイッチをオン。

エプロンを着けながら眺める僅かの間。

『今日の運勢のコーナー♪』

いやに甲高い声がスピーカーを震わせた。

束の間、エプロンのヒモを結ぶ手を止めて、シンジは画面に見入る。

32インチのモニターを四分割する映像。

左上から『植物』『お金』『料理』『ペット』

この中からどれかを一つ印象で選んでね、と声が響く。

なにげなく『料理』を選んでみる。今から作ろうとしていたのだから当然なのかも知れない。

蓋を開ければ、料理は中吉だった。

ペットが大吉。

ペットを選んだ貴方は絶好調。金運、健康運、勉強運が最高です。

どこへ出かけても、ラッキーなことが続きますよ…。

そしてお金が大凶だった。

お金を選んだ貴方は絶不調。出歩かず、部屋で本を読んでいたほうがいいかも?

…このようなTV番組の占いに、根拠などないことは重々承知している。

なのに、少々深く考えすぎてしまったのは、まだ頭が覚醒しきっていなかったからだろう。

シンジが思いを馳せたのは、占いそのものではない。

その前段階。すなわち『選択』である。

つまり、TVの声に促され、四つのアイテムを選択する自分。

たった1/4の確率で、その日の運勢が定まってしまう。実際にはそのような効果はないにせよ。

少し時間を巻き戻してみよう。

その占いに至るまでも、実は幾つもの選択をしているのだ。

まず、TVを点けるか否か。

その前に、朝食を作るかどうか。

突き詰めてしまえば、ベッドから起きず惰眠を貪るという選択もあった。

そうこの世の中は、全て選び選ばれ成り立っている。

極端な話だとは思う。

でも、真実の一端ではある。

ふと、シンジは今の生活を顧みる。

窓から差し込む柔らかな光。

安らぎのある生活。

世は全て事もなし。

同時に、シンジは思い出も顧みる。

あまりにも密度が濃く、余人の共感を得られない記憶。

しかし、その記憶を貫く現在が、幾つもの選択の果てにあると思えば、恐ろしく感慨深いものがあった。

そう、僕は選択した。

シンジは回想する。

エプロンを付け、フライパンを火にかざしながら。















『来い』

たった一言。

それが数年ぶりに父から送られてきた手紙に記してあった言葉。

実にこの時点で、一つの選択が当時の少年には与えられていた。

手紙に記されたように赴く。

もしくは拒否、その土地へと留まる。

公平で等質な選択など、滅多に存在しない。最初からウエイトは前者に傾いていた。

父を恐れ、避け、それでも縋りたかった自分。関わって欲しかった自分。

だからきっと、養い親代わりの先生が行くなといったところで、自分は間違いなくあの街へ来ていたことだろう。

青い外車に乗って来た女性。

わけの分からない巨大な化け物を前に、促されるまま車に飛び乗る以外、何が出来たというのか。

一応、乗らないという選択もあることにはあった。

しかし、その結果はあまりにもはっきりしている。

死んでしまったら、さすがにそれ以上選択のしようがない。

その時は自殺願望はなかったから、生存本能の赴くままに従った。

だとすると、選択という言葉は相応しくないような気もする。

そのまま地下都市まで直行。

秘密基地での父との再会。

巨大人型兵器に乗り込むよう促され、拒否したのも、実のところ『乗らない』を選択したとは言い難い。

おそらくあの時の自分は、あまりに突拍子もないことが重なりすぎて選択することをすら拒否したような気がする。

そもそも、どうなるか想像もつかない道、あからさまに危険な道を選ぶのは、自殺するのと同義ではないのか?

青い髪の少女が血を流すのを見て、搭乗するのを選んだのも、結局は逃避の一環と見えなくもない。

…なんのことはない。端から自分の確固たる意思なんか、無いに等しかったのだ。

14歳の脆弱な精神に、そこまでの芯あるものを期待する方がおかしい。















――――――へヴィな内容にもかかわらず、シンジの表情に翳りはない。

片手で難なく卵を割り、それを菜箸でかき回す作業にも淀みがない。

事実、スクランブルエッグを作る程度の気安さで、シンジは過去の記憶と向かい合っている。















半ば強引に始まった年上の上司との同居生活。

エヴァに乗るのが辛くて逃げ出した自分。

先生の所に逃げ帰ることも出来たのに、なぜか街を彷徨い続けた一昼夜。

逃避という名の甘え。甘えという名の逃避。

でも、ミサトさんは僕を迎え入れてくれた。

おかえりなさい。

疑似でもいい。家族だった。

やがて参入した、金髪の少女。

彼女とも一緒に暮らす羽目になるなんて、想像の範疇外。

まるっきり自分と正反対で。

自信に溢れて、プライドが高くて。

気が強くて、ワガママで、最も苦手なタイプ。

というか、女の子全般が苦手だった。

でも、あの日の夜。

寝ぼけて布団へ転がりこんできた彼女。

艶やかな唇に生唾を飲み込んだ。

でも、つくづく、キスをしなくて良かったと思う。

彼女の唇からこぼれた言葉は、自分の中のある部分に重なっていた。

それからしばらく後の二人で留守番の夜。

彼女からの提案でキスをしたことに関しては幸運なのか何なのか。

確かにあの時、断りはしなかったけどさ。むしろ、断ってたって無理矢理されただろうけど。

直後にうがいされて、僕もそれなりに傷ついたんだよ…?

どちらにしろ、同年代の異性をこれほどはっきり意識したことはない。

なにしろ、初めてのキスだったし。

考えてみれば、初めてキスしたいと思った相手でもあるわけで。

据え膳とかいうシチュエーションだったのは、まあ否定できないけどね。















クスリと微笑みながら、シンジは半熟のフライパンの中身を大皿に移す。

そういえば、あの日のキスのことを話題にするたび、アスカも頭を抱えていたっけ。

考えてみれば、あたしもファーストキスだったのよー! って。

悔しがっているのか何なのか分からなかったけど。

さらにどういう流れか詰問されたこともある。

『アンタ、本当に初めてのキスだったワケ?』

『え? う、うん、そうだよ、もちろん。…なんで、そんなこと訊くのさ?』

『だって、アンタ、あたしが来る前からファーストと親しかったみたいじゃない!』

『はあ? …えーと、誓っていいますけど、綾波とキスなんかしてないってば』

『…本当?』

…アスカが来日する少し前に、青い髪の少女の全裸を見た挙げ句、胸を触ったことは、彼女へは永遠の秘密だ。















ヒビが入っていく生活。

壊れていく関係。

仕方ないと言えるかも知れない。

本当の家族だったわけではない。それ以上の強い絆を醸成する時間もなかった。

なにより、日々の環境と過酷な現状。

それが、互いの心を壊し、居場所すら奪っていったのだから。

傷ついて行くアスカを、見守るしかできなかった。

慰めるのも優しくされるのも、彼女は全力で拒否していたから。

三人目の綾波に、優しくしてやることもできなかった。

今までの思い出をなくした彼女は、別人に見えたから。

笑顔をなくしていく、ミサトさんが怖かった。

ただ戦うことだけを強要し、他の何ものも省みない行動が理解できなかったから。

だから、僕は流されるしかなかった。

何をしても、誰かを傷つける気がして。

…いや、言い訳だ。

自分は何か出来たハズだ。

行動しなかったのは、結局自分が傷つくのを恐れていただけ。

自分が行動して、状況を悪化させるのを恐れていただけ。

成長したように見えて、やはりひたすら流されていた自分。

立ち向かうことも出来たはずなのに、主体性を放棄して誰かに責任を負ってもらう方を選択した自分。















この頃の記憶が、一番苦い。

苛立ったアスカの顔。

知らないものを見るような綾波の目。

余裕をなくしたミサトさんの表情。

頭の奥から染みだしてくる苦みを中和するように、コーヒーを淹れたマグカップに冷たいミルクを注ぐ。














憔悴したアスカ。

ベッドに横たわるアスカ。

目を覚ましてよ僕をバカにしてよ一人じゃいやなんだよ!

嫌みなくらい規則正しい機械音。はだける検査着。














…手に冷たい感触。

それがシンジを回想から立ち戻らせた。

いつのまにかマグカップから溢れだした牛乳。

紙パックを握り潰していた。

頭を振り、紙パックごと手を水でゆすぐ。

流しにあった濡れタオルで、流し台にこぼれた牛乳を拭った。

拭っても拭ってもステンレス製の台上の液体はなかなか拭いきれない。

でも、絞って、水洗いして、何度も吹けば、綺麗にすることが出来る。

彼女が教えてくれた。

しばらく雑巾を絞るのも嫌だった自分。

なぜなら、彼女の痩せた細い喉を思い起こさせるから。














戦おうと思えば、戦えた。

助けようとも思えば、助けられた。

彼も。

彼女だって。

『シンジくん。僕にとって生と死は等価値なんだ』

だったら生きていても良いはずなのに。

『気持ちワルイ』

それは、とても寂しいことなのに。

僕は、最悪な方しか選べなかったんだ…。

















ほとんど無意識で、シンジは食卓に出来たての朝食を運び終えていたことに気づく。

暗い思い出は、心までも強く引き込む。

途端に、頭の奥から声が木霊した。

『それ以上、あのことを思い出しちゃダメ。思い出したら殺すわよ!?』

思わず頬が苦笑を浮かべる。

苦笑できることが嬉しい。

彼女がそういってくれたことが何より嬉しい。

全てを語り終えた僕の傍らで。

傷だらけで膝を抱えながら。

そんな彼女は眩しくて。

もう、これ以上彼女を傷つけないことを決意した。

彼女を守ろうと固く誓った。

その決意は果たせているとも思う。

でも、まだまだかかるだろう。

だから。















シンジはエプロンを外しながら、彼女の部屋のドアをノックする。

「アスカ、ご飯できたよ?」

「あ、う、うん、ちょっと待って、いまいく…」

ごゆっくり、と声を掛けかけて、止める。

なんか嫌みくさいな、と自嘲しながらキッチンへ舞い戻り、卓上のトースターのスイッチを入れた。

パンが焼き上がるまでの静かな時間。

ジリジリというアナログなタイマーの廻る音が唯一のBGM。

頬杖をつきながら、コーヒーの香りを纏い、シンジは軽く目蓋を閉じる。

鼻歌を刻みながら思い出すのは、昔の記憶。

昨日の記憶でも、昔には違いない。

そう昨日は、きっと特別な日で。















いつのまにか延々と過ぎていた二人一緒の生活。

彼女を守ろうとする誓い。

彼女の傍にいることを決めた自分。

彼女に相応しくなるための努力を科した自分。

そして全てを許容してくれた彼女自身。

だから、暖かく、素敵な日々だった。

小春日和の陽光に炙られるように、心の傷が癒えていく。

過去が薄れていく。

決して完全に消えはしないのだろうけど、もうそれで十分だ。

そんな日々の中。

僕がアスカを好きになったのは、きっと当然のことなのだろう。

いや、僕は選んだんだ。

アスカを好きになることを。

あの赤い海のほとりで? ううん、ほんとはもっともっと前から?

…だから、僕は変わらない。

美味しい店で夕食を摂った、なにげない帰り道。

ふらりと立ち寄った夜の公園で。

『僕はアスカのことが好きだよ』

そう告げたとき。彼女が僕を拒否したとしても。

僕の気持ちは変わらない。

告白することを選択しても、変わらないものがある。

今までの努力が無駄になったって構わない。

たとえ手厳しく拒絶されたとしても、たぶんずっと好きでいると思う。

『…そんなこと、知ってるわよ、もう』

さも小馬鹿にしたような彼女の態度。なのに、青い瞳がゆるゆる震えている。

本当に分かり易いなあ、君の反応は。

そう冷静に考えていたハズなんだけど、ポケットに入れた手が引っかかる。

思えば喉もカラカラで、次の言葉を出すのに、えらく苦労した。

『だから……、ずっと一緒にいよう?』

そんなの当たり前でしょ? 今だって一緒にいるのに。

無言でそう訴える青い瞳は、僕の手の上のものを見て三倍くらい大きくなる。

不意に彼女に抱きつかれた。

顔を上げないのは彼女の意地で、必死で身体の震えを堪えているのがいじらしい。

やがて、小さな声。

『シンジは…あたしでいいの?』

押し殺した声。感情を滲ませないよう、最大限努力した声。

『僕は、アスカじゃないと嫌なんだ。ダメなんだよ』

正直に、さらっというつもりだったのに。

なぜか僕も鼻が詰まる。

上を向いて、水っぽいものがこぼれないように堪えた。

気づけば、彼女が見上げて来ていた。

いつもの笑顔。なのに決壊寸前の笑顔。

ぎこちなく動く唇が、必死で平静さを装う。

『じゃあ、仕方ないわね』

…ずっとダメじゃ、カワイソだもん。

小さく呟いて、アスカは僕の手の小箱を開けた。

ちょっとだけ驚いたような素振りを見せたけど、胸をはって、小さな指輪を通す姿。

毅然として、極力弱みを見せようとしない彼女のプライド。

僕くらいには見せてくれてもいいのに、と少しは残念に思いながら、その彼女の誇り高い姿が例えようもなく愛しい。

薬指に通す指が震えて、五回くらい失敗して、結局僕にはめさせたとしても。















トーストの焼けた音が、現実へと戻るチャイム。

軽く閉じていた目蓋をゆっくりと開け、シンジは目の前の光景を受け入れた。

途端に、津波のように先ほどの回想が押し寄せて来る。

鮮やかなまでに引いていく余韻に指を這わせながら、彼の心はなお温かく、満たされていた。

そこにいた。

今までの選択の果てに得たものが。

あるいは、奇跡そのものの形を取った彼女の姿が。

「…おはよう、シンジ」

いつもと違うしおらしい挨拶。

目が腫れぼったい上に頬まで赤いのは、きっと昨日の名残だろう。

とても微笑ましい。

「何笑ってんのよ?」

途端に不機嫌な声が飛んでくることさえ嬉しかった。

答えず、シンジは黙って焼けたトーストに、ジャムとバター、一瞬迷って、結局バターを塗ってやる。

幸いにも、アスカは文句を言わず受け取ってくれた。

自分のトーストにも塗りながら、シンジは考える。

そう、僕は選択した。

選び選んで、とても最良の選択をしてきたとはいえないけれど。

その果てに至ったこの宝石のような日々に、全力で感謝しよう。

自分で選んだ道とはいえ、決して思い通りにならないこともあるだろう。

不本意な選択でも、報われる時はきっとある。

その逆もあるかも知れないけれど、そこにはきっとまだ違う選択が用意されているはず。

1枚目のトーストを咀嚼し終えたアスカが、ぎこちなく微笑んでくる。

そんな彼女の小声の問い掛け。

ちょっとだけ驚いて微笑み返しながら、シンジは、どう選んでも結果の変わらない選択もあることを知る。

























「ねえ、シンジ。神前と教会、どっちにする………?」











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きたぁっ!
 三只様より7ヶ月ぶりのご投稿よ!
 しかもプローポーズの翌朝もの。
 さすがにシンジというか、やっぱり色々と悩んでくれたみたいよね。
 ま、悩めるアイツにはこのアタシが傍にいないとねぇ。
 ずっと一緒にいたアタシたちだけど、やはりいざ結婚するとなると
 それなりに思うところはあるわよね。
 結局、アタシは眠れなかったじゃないのよ。
 それなのに、きっと馬鹿シンジは満足感一杯でぐっすり眠ったんだと思うわ。
 だってアイツはあの後いっつも…って、何言わすのよ!
 ここから先は今後戸籍上もれっきとした夫婦のヒミツ!
 さて、シンジはどっちを選んでくれるかなぁ?
 アタシはどっちでもOK。
 ここはアンタの選択に身を任せるわ。
 ホントに素晴らしい作品をありがとうございました、三只様。

 

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