百年の孤独 無名の人 2009.12.04 |
アスカ婆さん百寿の祝い
「おばあちゃん! おばあちゃん!」
「ん……なんだい? レイちゃんや」
「もう。おどかさないで下さいよ」
「おや、また、アタシがうたたねしてるのを、お迎えが来たのと勘違いしたかい?」
「そんなとこで寝ていらしたら、勘違いもするし、第一風邪ひきますよ」
「悪かったねえ、あんまり日向が気持ちよかったから……おや、もう日があんなに傾いて。この頃は一日が経つのがすっかり早くなったものねえ」
「いくら日差しが暖かでも、縁だなに直接横になっちゃ体が冷えてよくないですよ、まったく。お誕生日を命日にさせないで下さいよ」
「ああ、そういや今日はアタシの誕生日だっけ。99歳になるんだねえ」
「それは去年ですよ。去年、白寿のお祝いをしたでしょう。今年は一本足して百寿。100歳ですよ」
「おやまあ。そうだっけ。1年経つのもずいぶん早くなったから、すっかり忘れてたよ」
「しっかりして下さいよ。おばあちゃんがそれだと私たちも心配になりますからね」
「いや、いや。こんな年よりいつまでも当てになるもんじゃないよ。さっきだって紫の雲が漂うどこかのきれいな野原で、ハスの花がいっぱい咲いている中を歩いてたんだから。本当にあのままあっちにいてもいいくらいの心持だったんだよ」
「ちょっと。困りますよ」
「やれやれ、いつまで長生きさせるつもりなんだい」
「いつまでもです」
「冗談はよしとくれ。アタシはもう大分この世には飽きているんだから」
「世の中はまだアスカ様には飽きていません」
「こんな婆にすがらなきゃいけないなんて、何が補完されたんだか分からない世の中だねえ」
「今日はオフですが、明日は大統領夫妻が、アスカ様の下に来ます。世界政府大統領として、女神の信任を得ていることを世界市民にアピールしたいのでしょう。また、次はかつてアスカ様の暗殺を謀った「自由を求める偶像破壊者」のメンバーがアスカ様に謝罪に訪れます。刑務所でアスカ様の世の中への貢献を具に知り、回心してアスカ様に許しを請い、アスカ様がそれを快く許されるというシナリオです。また、次には「自由を求める偶像破壊者」の残党の実効支配地域と戦闘状態にある数カ国からの大使の謁見です。テロリストとの戦いに犠牲を払っている各国を激励してあげてください。次に……」
「もうやめて。うんざりよ」
「やめてとおっしゃいましても」
「もういや。こんなことをするためにこの世に戻ってきたわけじゃない」
「そうかもしれないけど、今あなたがここにいるのはこういうことをするためなのよ、アスカ」
「いや、いや」
「駄々こねないで」
「女神になんてなりたくなかった。アイツが神話になりたくなかったみたいに。アイツが、神話になれと強要された揚句姿を消した時、アタシも逃げればよかった」
「無理に姿を消したから、あのお方は封じられた神になられたのですよ。ウラノスのように。クロノスのように。ロキのように。タケミナカタのように。そしてアザトースのように」
「アイツが盲目と錯乱の神だっていうの」
「無知、盲目、錯乱、だからこそ一度世界を破滅させかかったのでは?」
「黙れ!」
そういった瞬間、目の前の侍女、あの女と同じ名前のレイの体が消滅した。
「………う」
そしてアスカはものすごく寝ざめの悪い覚醒を迎えた。
「あああああ、もう! えらい夢見ちゃったわよ。レイ! レイ!」
百年の孤独
「はーい。ただいま!」
ぱたぱた駆け込んでくる侍女は夢の中の同名の侍女と同じ姿の全き人間。
「着替えるわ。それと今日のスケジュールの確認。あと朝食の時間を早めといて」
「了解です、アスカ様」
レイはドレッサーに駆け寄ると、中から下着を取り出す。タイミングを同じくしてアスカは素肌の上にそれだけ身につけていた寝間着を床に脱ぎ捨てた。その下から現れた姿は、夢の中の年老いた言葉づかいにふさわしかった老婆のものではなく、14歳の少女そのもの。しかし、実は夢での会話にあったように彼女の実年齢は今日で100歳なのである。
「本日は、アスカ様のお誕生日会です。12月4日をいち早く迎えるキリバスから順繰りにアスカ様に祝電が届いております。ここギリシアでももちろんアスカ様の誕生祭は例年通り本日0時、日付変更の瞬間から神殿の祝祭場で始まっておりますが、アスカ様のご来臨をギリシア政府が仰いでのパーティーは午前10時から午後2時までとなっておりますのでそれまでにご準備ください。きりのいい100歳の誕生日ですので、特に盛大に催される予定です。そして明日から一か月各国歴訪の予定ですが、それに先立って、本日のパーティーにて全世界からアスカ様にプレゼントがあるとのことです」
「あら、何かしら」
「オリンポスの神々の中でももっとも人間に近しいお方に喜んでいただきたい。もっともアスカ様が喜ばれるものを用意させていただいた、とのことです」
「本当に心からそう思ってくれているといいんだけどな」
「無論でございます」
「ありがとう。でも、アンタだから言うけど、アタシも、レイも、カヲルも、アンタ達の言う神々はみんな、素直にそれを信じるには力を持ち過ぎちゃってんのよ」
「………なんと申し上げればいいのでしょう」
「ごめんね。アンタのせいじゃないのに」
レイの手を借りて完全に着替え終えた彼女は、ギリシアの神々がもし21世紀に生きていたらかくあろうかと思えるように完全な美を体現していた。
「女神になんてなりたくなかった。本当は、人間にない力があって死なないだけ。アンタたちが崇めてくれるからそうふるまっているけど、本当は怪物なのかもしれないわよ」
「めっそうもございません!」
レイはかなり本気になって叫ぶように答えた。
「怪物に、この100年の平和が築けますか! あなた様方は神々です! 特にアスカ様は、サードインパクト後の世界を励まして回られた。自分の命を危険にさらして使徒たちを倒した後、ほとんどすべての時間を費やして人々を勇気づけ一度崩壊した世界を再建された。餓えている地域には食料を、相争う国々には和平をもたらされた。それを100年続けられたのです。このようなことをされた方が女神でなくてなんですか!」
「それは偶像崇拝よ。アタシ達はS2機関のおかげで、食事の必要も休息の必要もなく半永久的に生きることができるというだけのただの生物よ」
「だとしても、この平和が偶像のおかげで得られたものなら、ヒトという種には偶像が必要なんです。どうか人類のアイドルでいてください。それほど偉大な偶像なら神という名前は決して大げさとは思いません」
「いくら言っても認めてもらえないのね」
「だってあなた様は神様じゃないですか。私はお仕えできるのを心から誇りにしております」
「いいわ。食事にして」
「ごちそうさま。今日もおいしかったわ」
「ありがとうございます」
朝から食卓には山海珍味が並ぶ、というわけではない。かつてはそうだったがあまりにもったいないということでアスカがやめさせたのだ。しかし、供給源が人々の神々に対する供物であるため、すぐに冷蔵庫がいっぱいになってしまう。レイ、カヲル、そして他の神々と呼ばれる少年少女は、世界と関わりを持つよりも自分たちの趣味関心に生きているため、そして大人たちはアスカ以上に崇められる役回りを嫌い恥じているため、オリンポスにはあまり帰ってこない。アスカ独りで食べなければならない上に、本来アスカたちは食事の必要がない。もちろん味覚を失っているわけではないので、食事を楽しむことはできるが空腹感そのものは100年間まったく経験していない。大いなる無駄を感じ、あまった食料は食糧不足の地域に回すようにすることにしたのだが、匿名で寄付しろという命令はことごとく無視され、食料が回された地域では、貧民の慈母たるアスカへの歓呼の声で山もどよめいただの、感涙で池ができただのという伝説ができあがり、御歳100歳のアスカは100年前のどこぞの独裁国家の個人崇拝を連想してこれまたいやな気分になるのであった。
「アスカ様、いつもの「お客様」が」
「時間どおりね。お通しして」
レイは、神たるものが一介の人間をお客様と呼び、敬語を使うことに割り切れないものを感じながら、いつも彼女をその存在によって不快にさせる客人をアスカの下にいつものように案内した。アスカがその男をそのように扱うことだけでも不快であるのに、彼は異教徒、サードインパクトの神々に対する信仰が人類をまとめる中心思想になった後も独自の地歩を保つまつろわぬ民なのである。
「今日もありがとうございます。神父様」
「あなたこそ、今日もお元気そうでなによりです、アスカさん」
アスカを様付けで呼ばないことも、レイの神経に触った。レイの神名を生みの親を通していただいた時からオリンポスの神々の信徒である彼女は、古代ギリシアのバッコスの神女にも見られる狂信の血が流れていた。それはバッコスそのものと同じく、人間が神を侮辱することに対し寛容では決してあり得ない血なのだ。この時代、レイのような少女は大勢いた。この男の宗教を始め、世界の諸宗教が信者の数を大幅に減らしつつもなんとか命脈を保っているのは、他ならぬアスカその人が、それらの諸宗教の信者を根絶やしにすることをゆるさなかったからだった。
「レイ、さがっていいわ」
「はい、失礼いたします」
黒衣の聖職者を、目で殺せるものなら殺したいという目つきで睨みつけて、レイは出て行った。
「神父様、教皇様はどうなさってますか」
「ヴァチカンはなんとか平穏です」
「おゆるし下さい」
「あなたのせいではありません」
「告解をお願いします」
アスカはこの部屋のすべての扉が閉ざされているのを確かめるとATフィールドを張り、外部に対して結界を張った。アスカの私室に警護用にせよ監視カメラを設置するなどということは、この時代の人間にはおよそ考えられないことだったが、結局のところこの時代の人間の自分に対するファナティズムを理解できないアスカはいつもそうするのだった。そしてアスカは神父の前に跪いた。
「父と子と聖霊の御名によって、アーメン」
「改心を呼び掛けておられる神に心を開いてください」
「おゆるしください。毎日のようにあなたに来ていただき、告解を聞いていただいていますが、そのわずか一日の間に多くの罪を犯しております。思いつく限りの罪を告白しますが、忘れている罪もおゆるしください」
「神の慈しみに信頼して、あなたの罪を告白してください」
アスカは自分を神と崇める者たちをどうしても愛せない時があること、また自分が生きた偶像となり、全世界に対する巨大なウソになっていること、そのことをはねのける勇気のないこと、そのことを否定した上で世界を守ろうという強い心のないこと、なにより神と崇められることに慣れつつあること、それを嘘だと自覚しつつ立場を正当化し楽しんでいる部分があることを告白した。
「あなたは、特別な存在になってしまったことで、人類の歴史の中で誰も果たしたことのない役目、それも虚像としての役目を負わされています。しかし、それはおそらく、あなただけしか犯したことのない罪ではありません。聖なる普遍の教会にある人たちもまた、無知の時代におのれ自身も無知のまま、地上的な権威を組織の武器として教会を守りました。地上の皇帝もまた神にキリスト教世界の守護者として選ばれた地位とし、教会の下に属する教会が振るうべき剣と考えていました。今はそれが事実において誤りであったであろうことを私たちは知っていますが、あの頃のヨーロッパにおいては教会がそのように考えなかったら、世俗の権力に力の善用を呼び掛けることもなかったかも知れません。あやまちを含んでいても、人々を守らなければならないこともあるのです。もちろんあやまちはあやまちであり、あなたが虚像であり続けることは人々にとって大きな躓きとなっています。それは罪でしょう。しかし、あなたが平和のために働いていること全体が罪であるわけではありません。あなたが犯した罪にのみ課されるべき償いとして、主の祈りと天使祝詞を一回ずつ唱えてください。それでは神のゆるしを求め、心から神に悔い改めの祈りを唱えてください」
「Mea culpa, mea culpa, mea maxima culpa(我が過ちなり、我が過ちなり、我が最大の過ちなり)」
アスカは三度胸を打って叫んだ。
「神の子、主イエス・キリスト、罪びとの私を憐れんで下さい」
「全能の神、憐み深い父は御子イエス・キリストの死と復活をとおして世をご自分に立ち帰らせ、罪のゆるしのために聖霊を注がれました。神が教会の奉仕の務めを通してあなたにゆるしと平和を与えてくださいますように。私は、父と子と聖霊との御名によって、あなたをゆるします。ご安心なさい」
Es lebe Asuka, Asuka soll leben!(アスカ、万歳! 万歳、アスカ!)
Sie ist es, dem wir uns mit Freude ergeben!(この女(ひと)にこそ我らは喜びもて従わん!)
Stets moeg' sie des Lebens als Weise sich freu'n,(いつも賢者として喜びの生を生きられるべし)
Sie ist unser Abgoettin, der alle sich weihn.(この女(ひと)こそ崇拝の的、すべての人の崇める方)
アスカの母語によるアスカ賛歌が高らかに合唱される中、まさに世界中の賛美の的である女性が、月桂冠をかぶりトーガをまとってオリンポスの玉座に着いた。着いたと言っても、それはすぐに立ち上がるためである。いくら古式ゆかしく見えるように作られた儀式とは言え、さすがに2101年ともなれば、地球の女王の権威をあらわすには座ったままであるよりも立っている方が良い。
「ありがとう、皆さん。ここにいる方たちだけでなく、私の誕生日を祝ってくれている世界中の人々に私の喜びを伝えたいと思います」
そういうとアスカは威儀を正して目を閉じた。本当はそのようにする必要もないのだが、それらしく見せた方がいい。
(微弱ATフィールド、地球規模で展開……まずは上空に)
オリンポスからオゾン層に一条のATフィールドが立ち上がる。微弱と言ってもタイトなそれはオゾン層に達するや、まるで三対六枚の翼のように六方に分かれ、地球の全上空に広がっていった。
(ああ、見えてきた)
肉眼で見るのとは別の像で世界が見えてくる。ATフィールドの表面すべてが網膜になったよう。超高度を行く鷲の視点、大気の層の表面を這う蛇の視点、そしてその表層に張り巡らせた蔓の視点。世界を覆う蔓は、やがて星が流れるように、羽毛が降るようにしてATフィールドの糸を引いて大気の中に溶け込んでいく。雲にものを見ることができたらそのように見えるだろう世界をアスカは見る。そのはるか下の地上で、神々の世界に思いをはせ、祝意と感謝を捧げ愛を求める人類の心の声を、もはや視覚と聴覚の区別を失った意識で目の当たりにする。幾十億の民の一人ひとりと顔と顔を合わせて向き合う。あの赤い海でかつて経験したように。
(Mannaを降らせるわ。あなたたちの心に……本物には遠く及ばないけど、私にできるやり方で……)
オリンポスの戦乙女なる女神を通して、すべての人類はまた、皆の心が一つであることを思い起こした。再び、今度は神殿だけではなく全世界でアスカ賛歌が響き渡る。
Wenn Tugend und Gerechtigkeit(徳と正義が)
Der Grossen Pfad mit Ruhm bestreut,(偉大な人の歩む道を栄誉で飾る時)
Dann ist die Erd' ein Himmelreich,(地上は天の国であり)
Und Sterbliche den Goettern gleich.(死すべきものは神々に等しくなる)
「Gott erhalte Kaiserin Asuka」(神よ、女帝アスカを守りたまえ)
この世界の片隅でアスカの聴罪司祭は、アスカではなく神に祈っていた。
Asuka, schoener Goetterfunken, Tochter aus Elysium, (アスカよ、麗しき神々の火花よ、エリュシオン生まれの娘よ)
Wir betreten feuertrunken, Himmlische, dein Heiligtum!(我らは燃えるように酔いしれて踏み入らん、天なる乙女よ、なんじの聖所へと)
Deine Zauber binden wieder was die Mode streng geteilt:(なんじの魔術は再び結びつける、この世の生ではバラバラにされているものを)
Alle Menschen werden Geschwister, wo dein sanfter Fruegel weilt.(すべての人は同胞(はらから)となるのだ、なんじの柔らかな翼の下に)
Seid umschlungen, Millionen! Diesen Kuss der ganzen Welt!(抱き会わん、億兆の民よ。世界全土に口付けを)
Geschwister! Ueberm Sternenzelt ist die liebe Mutter ewig.(同胞(どうほう)よ。星空の向こうには、かの愛しき母が永遠にましますのだ)
Ihr stuerzt nieder, Millionen? Ahnest du die Retterin, Welt?(跪かないのか、億兆の民よ。かの救い主を感じるか、世界よ)
Such' sie ueberm Sternenzelt. Ueber Sternen ist sie ewig.(星空を超えてかの女(ひと)を求めよ。星の彼方にかの女(ひと)はとわにまします)
Es lebe Asuka, Asuka soll leben!(アスカ、万歳! 万歳、アスカ!)
Sie ist es, dem wir uns mit Freude ergeben!(この女(ひと)にこそ我らは喜びもて従わん!)
Stets moeg' sie des Lebens als Weise sich freu'n,(いつも賢者として喜びの生を生きられるべし)
Sie ist unser Abgoettin, der alle sich weihn.(この女(ひと)こそ崇拝の的、すべての人の崇める方)
賛歌の締めくくりにアスカへの賛唱を神殿の全員が二手に分かれてアスカに対し叫ぶ。それはアスカを毎年の式典のうちで最も苦しめるものでもあった。
Vive Asuka aeterniter!(アスカよ、永遠なれ)
Vivit Asuka aeterniter!(アスカは、永遠なり)
Vive Aurea sacra ultima certa amanda aeterniter!(黄金の、浄められた、究極の、確かなる、愛すべき女(ひと)よ、永遠なれ)
Vivit Aurea sacra ultima certa amanda aeterniter!(黄金の、浄められた、究極の、確かなる、愛すべき女(ひと)は、永遠なり)
Vive Asuka aeterniter!(アスカよ、永遠なれ)
Vivit Asuka aeterniter!(アスカは、永遠なり)
アスカの苦しみを知る者たちは、アスカに代わり、アスカだけではなく世のために祈った。
「Qui tollis peccata mundi, Misere nobis」(世の罪を除きたもう主よ、我らを憐れみたまえ)
アスカを賛美する儀式は終わり(あるいは始まり)、アスカを招いての祝宴が始まった。
何度か述べていることだが、アスカは食事する必要がない。だが、大勢の人間との食事はアスカにとってそれほど嫌なものではない。独りの食事よりはずっと好んでいるとさえ言えた。死なない生を送るもの同士で過ごすことが、各人の性格上できにくいこともあって、特別な機会以外独りでの食事を余儀なくされている現状では余計そうであった。だが、それが数百人相手であり、しかも全員が自分に話しかける時には「女神よ」と呼びかけるマナーが支配するパーティーとあっては。
食事に専念する振りも女神となっては難しい。信奉者は呼びかけには一応答えてくれる者と確信に近い期待を持っているのである。切り分けられたステーキをほおばりながらも、微笑みを浮かべることと耳を澄ませておくことは忘れない。ちなみにその意味では一番苦手な食べ物はカニであった。食べ始めると無口になってしまうからである。
「レイ」
自分の傍らに直立不動で控えているメイドにアスカは呼びかけた。役割は相変わらず侍女だが、式典の参加者からは一種の巫女と見られている。
「はい、アスカ様」
「ちょっとゴメン、ワインのお代わり頼める?」
「かしこまりました、アスカ様」
レイは様付けを絶対忘れないものの、それ以上のことはあまりしないので、このような場面ではアスカにとって一種のオアシスになる。
(酔えないけど、酔いたい気分)
女神たる立場では決して口に出して言えない愚痴をアスカは心の中でこぼした。
「O Freundin, nicht diese Toene! (おお、友よ。このような音ではない)
Sondern lass uns angenehmere anstimmen und freudenvollere」(もっと心地よい、喜びに満ちた音を共に歌おう)
耳元でささやかれた皮肉っぽい響きに、最近ではすっかり珍しくなった新鮮な驚きを感じ、この状況では不敬な無礼につながりかねないセリフにむしろ喜びを覚えながらアスカは振り返った。
「「カヲル」様!?」
アスカがその名を呼ぶのと、アスカの気まぐれな友神(ゆうじん)にレイが気付くのは同時だった。ざわめきが会場に広がる。この式典そのもの主催者ではないが、現在行われている祝宴の責任者であるギリシアの高官がおずおずとアスカの傍らのカヲルの前に進み出た。
「O aristoi theoi,(おお、至高の神々よ)人間である私から呼びかけることをお許しください。カヲル様、オリンポスへのご帰還を心よりお喜び申し上げます」
ほほえみを以て、あくまでも微笑みでもって、人類に言わせれば憐み深さを感じさせる笑みでもってカヲルは答えた。その姿はアスカとよく似ているが、頭に巻きつけてあるのが葡萄の蔓であるところだけが違う。
(君の誕生日だからね。リリンたち向けの演出だよ)
(ごくろうさま)
「愛するリリン、君たちに出会えることは僕にとっても喜びだよ。僕の妻ももうすぐ来るだろう」
「身に余る光栄でございます」
おお……というどよめきが雲海に面するバルコニーから聞こえてきた。
「おや、おや、今年はああいうやり方かい? 自分に自信があるのは知ってるけどねえ」
雲海の中から島のような青い半球が浮上してくる。その草原のように見えた薄墨色の髪の毛の下から雲と紛らわしい白い顔が続いて浮かび、二つの真紅の大鋼玉が瞬いた。
(まるで巨大フジ隊員だね)
というカヲルの心の声は聞こえなかったことにした。雲海をかき分けるようにしてその巨体の肩から上を神殿の前にあらわした巨大レイ。
(何やってんのよ。下から見られたら丸見えよ)
(巨大さは崇高美の表現の一つであり、驚異と畏敬の感情を最も容易に起こさせる方法の一つでもあるわ)
(せめて鎖骨を隠したら)
(これほどの芸術品を隠すのは罪だわ)
さらに雲を裂いてレイの両手が付き出した。
「Hendecatheon!」(11神だ!)
「Theoi!」(神々だ!)
人々の歓呼が神殿中に広がった。そしてみなレイの両手のひらに立っている8柱の神々にひれ伏した。
(ミサト、リツコ、マヤ、日向さん、青葉さん、ヒカリ、鈴原、相田……)
自分と同じく、望んで神と呼ばれる立場になったのではない仲間たちと十数年ぶりに対面した。以前会った時とまったく変わっていない。向こうも同じ感想であろう。
その時、ギリシアの高官がアスカに振り返った。
「O thea,(おお、女神よ)人間から話しかけることをお許しください。他の神々から、今この時まで黙っているように言われていたのですが、今から神々が儀式をされるとのことです。もったいなくも我々人類も協力するようご下命がありました」
「ありがとう。何かしら」
「神々の至高の儀式に無粋ですが、人間にはATフィールドを使うことができませんので……あちらでございます」
アスカが目をやるとVTOL戦闘機が数機で見覚えのある赤い槍を運んでいた。アスカの表情がこわばる。
「ロンギヌスの槍……」
アンタたち何を!と叫び声をあげそうになったアスカの筋肉をカヲルが内側から抑える。
(君が怒鳴ったらここにいるリリンの何人かは心臓麻痺を起こすよ。僕たちを信頼して)
それを聴き、とにかく落ち着くためにアスカは深呼吸する。
(落ち着いたわ……で、あれは何?)
(君から奪われていたものを返してあげようと思ってね)
VTOLから槍を受け取るとミサトはATフィールドで宙に浮き上がった。
他の7柱の神々も各々の方向に飛び、かつてエヴァンゲリオン量産機が描いた陣を形作る。そのまま槍を掲げるミサトを中心に生命の木が蒼穹に現出した。
(さあ、あの生命の樹の根っこを見てごらん)
天に向かう根の浮かび出る空間から、かつて見たことのある光景、ディラックの海が開かれた。そして、中からあの時よりはずっと小さな黒い月が現れる。そして、その中に薄く磨かれた水魚石中の魚のように朧に見える人影。
(あれは……)
忘れていた、思い出すのが辛いから封印していた遠い昔の記憶。
「シンジ?」
「ええ」
「そうだよ」
高官とカヲルが同時に答えた。
「O theos,(おお、神よ)やっとお目にかかれました」
(アスカ、最後はあなたの力が必要よ)
(何をすればいいの)
(こっちに来て、あなたの本当の気持ちをシンちゃんに伝えるの。あなたにしかできないことよ)
(……そんな簡単なことで)
(そう。そんな簡単なことに100年もかかったの)
「馬鹿、シンジ……」
アスカはその場にいた人間では、カヲルにしか分からない言語でつぶやいた。
空を飛ぶことよりもオリンポスで下界を見守ることを好むということが知れわたっていたアスカが空を飛ぶ姿は新たな神話を生んだ。しかしアスカが、心を閉ざし自ら周囲に張り巡らした闇に眠る少年に何を語り、彼を覆う虚無が砕け散ったかを伝える神話はない。
(野暮は無様よ)と金髪の女神が心で言い
(王子様はお姫様のキスで目覚めるものよン)と100年経っても赤いジャケットを羽織る女神が、役割を終えた槍を手の中で消滅させながら、心で述べたことも神話には伝わっていない。
「……アスカ?」
「ごめんなさい、シンジ。今度は何があってもアタシが守ってあげる」
「いいよ。僕も今度こそ、いつまでも君とともに生きる」
「レプリカのロンギヌスの槍が100年かけてやっと本物に追いつきましたので。長らくお待たせしました。これでやっと先祖の罪の償いができた」
「先祖の罪?」
ギリシアの高官の女神に対する独り言を耳に留めた他の客が尋ねた。
「私の名前はゲオルギオス・ラウレンティオス、ドイツ系でして先祖はローレンツと名乗っておりました」
高官ゲオルギオス・ラウレンティオスは、空中で抱擁しあう男神と女神に一礼した。
「アスカ様、おめでとうございます」
侍女レイもまたアスカに一礼する。
((((((((((おめでとう!))))))))))
他の10柱の神々、そして神々を崇める世界中の人々がこの少年神と少女神を祝福した。
Triumph! Triumph! Du edles Paar!(勝ったのだ! 勝ったのだ! 高貴なるお二人!)
Besieget hast du die Gefahr!(お二人は危険に打ち勝った!)
Die ewige Liebe ist nun dein!(永遠の愛はお二人のもの!)
Kommt, tretet in den Tempel ein!(神殿に入られよ)
アスカがシンジを助けてバルコニーに飛び、そこから神殿に入る。そのまま歓呼の声が賛歌に変わる。
Es lebe Asuka und Shinji soll leben!(アスカ、万歳! シンジも万歳!)
Sie sind sie, der wir uns mit Freude ergeben!(この方たちにこそ我らは喜びもて従わん!)
Stets moeg'n sie denen Lebens als Weise sich freu'n,(いつも賢者として喜びの生を生きられるべし)
Sie sind unsere Abgoetter, denen alle sich weihn.(この方たちこそ崇拝の的、すべての人の崇める方)
世界のどこかで、唯一の神に仕える者たちが唱えた。
Kyrie eleison(主よ、憐れみたまえ)
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