気がつくと 無名の人 2010.12.04 |
「ねえ、今日が何の日か、忘れてんじゃないでしょうね」
原稿用紙の奥から君が言う。
「いや忘れてないよ」
どう聞いても言い訳としか聞こえない言葉。しかも目は泳ぎ、手はうろうろとペン先を玩んでいるとあれば、言っていることを信じる者はまあいないだろう。
「忘れてたでしょ」
「いや、忘れていたわけでもない。ただ、忙しかっただけだ」
前頭葉の裏あたりでこっちをにらみつける君の青い瞳。だが、今度は言い訳でも言い逃れでもない事実。堂々と言い放つ。
「はん」
くいっと顔をそらせ、はっと口を開いて目を閉じたしかめっ面。おやどこかの絵師さんがCGにしたことがありそうな構図で、右視野の視覚像に重なり眼よりは脳に近い位置で停止。
「それが、忘れてるって言うことよ。この日の価値を」
表情筋の裏に入り込んで、僕のイメージ上の身体の顔面の鼻先に、自分の鼻先をこすりつけそうになるまで顔を突きつけて君は怒鳴る。
「アンタ馬鹿ァ!?」
「ご、ごめん」
「ああ〜、もう内罰的過ぎる!」
「ごめん」
「ごめん、ごめん、って本当に悪いと思ってんの!」
ああ、懐かしいやり取り。これを最初に聞いたのは10何年前だっけ。正確なリピートじゃないと思うがそれをなぞって応酬する。
「って、こんなことやってもアンタを喜ばせるだけよね」
その通り。そして、君にそれが分かるのも当然。
「だって、アタシはアンタの心の中の存在なんだから」
そんなこと知ってらあ。
「だいたい、よく続けられるわよね。こういうことが」
原稿用紙の上をぴょんぴょん飛び跳ね、やがて升目の1つにつま先からズズズと沈みこんでいく。僕はペン先をその升目にかける。ペンが走り出す。
だいたい、よく続けられるわよね。こういうことが。最初に会った時はそんな気持ちはなかったくせに。それが何年か経ってから、別の作家の作品の中で出会ったときにはすっかりメロメロになって。そりゃ、歳月が経てばその分魅力的にはなるだろうけどさ。最初はアンタまるで、正気をなくしたみたいだったわよ。アタシを追っかけるのに一日の半分を使ったり。そのうち、休日には一日の全部を使うようになったり。そして、とうとうアタシと一緒にいるために自分でもペンを取り始めてさ、まさか、ものになるとは思わなかったし、最初はぜんぜん駄目で、ごく一部にマニアックなファンができるだけだったけど、継続は力なり、ね。少し見直したわ。って、これもなぞってるんじゃないの。
ニュッと、原稿用紙から顔を出す君。
「しつこい。そんなに繰り返しが好きで、よく文章がかけるわね」
いやいや
「有名な監督も、模倣以外の何ができるか、って趣旨のこと言ってたんじゃないかな。現代のクリエーターは何を作っても何かの引用になるよ」
「だったら、せめて印象やあいまいな記憶に頼らずに書きなさいよ」
いつの間にやら後ろから耳元にささやく。声が鼓膜を通さずウェルニッケ野に響く。
「モチーフやオマージュってんならさ」
「いや、僕が今書こうとしているのはファンフィクションだから」
「だからって、言うなれば原作に敬意を払わないでいいもんじゃないでしょう」
身体イメージがハイウェイを疾走するオープンカーのハンドルを切る。右隣の座席には金髪を風になびかせる君。
「連想さえ刺激できればいいなんて、考えが甘いわよ」
脱輪、車道から飛び出し、オープンカーは谷底へ。落ちていく自分たちにさようなら。ハイウェイから見下ろす僕たちがくるりと振り返れば、そこは街中。早送りされて幻のように通り抜けてく雑踏を、自分たち二人だけが実体であるようゆるゆると歩く。
「これにしたって、前衛映画みたいな手法ね。今、気がついたけど、これもオマージュ?」
「いや、僕も今気がついた」
ペンを原稿に走らせている自分の体の中から、原稿上から存在しない遠近法の消失点より無限の手前、こちらからは主観距離で50メートルかな、100メートルかな、並んだ赤い升目の隣で、君は言う。
「思いつくまま書いているからそうなるのよ」
「行き当たりばったりが、そのままオマージュになるのかもね」
「無計画なのをごまかしているだけでしょ」
真っ暗闇の空を、マントをたなびかせて飛んでいく君。箒にはまたがっていない。
「最近読んだものとか、話題になっているものとか」
夜闇に染まった雲が、白銀の月明かりに照らされていよいよ黒い。不定形のもりあがりの脈打つ輪郭だけが、稲光を放つ瞬間の雷雲を凍りつかせたように輝いている。
「イメージがごちゃごちゃに入り込んでいるじゃない」
「時間が無いんだ」
本音が出た。再び肉体の中に閉じ込められる。
「ああ、首がこる。左側が」
左肩をもみつつ、脳内に君を探す。
「おっといかん」
よりにもよって脳を作っているグリアと神経細胞からなる迷宮を連想してしまった。肉の光る鈍色の証明に照らされる通路を、奥へ奥へと君は駆ける。
「そんなところをうろついて」
即座に、脳内に自分を大量に投入する。通路を埋め尽くす1000万人の自分。
「さあ、つかまえ」
「いつ、鬼ごっこになったのよ」
その通りだ。自分でも気づいたら、何もかも消えた。ああ、やっぱり首がこった。
「いつまでかかってんのよ、馬鹿シンジ」
「ごめん、でも終わらないんだ」
「ああ、もう。今日は12月4日だってのに」
「今、頑張ってるんだから、もうちょっと待って。もうじき終わるから」
「まったく、脚本家を恋人になんかするんじゃなかったわ」
「でも、こうでもしなきゃ、僕は君のそばにいられなかったよ」
惣流アスカ=ラングレーと、碇シンジが最初に出会ったのは、あるテレビ番組で、子役として軍艦の上で初めて出会う外国人の女の子と日本人の男の子を演じた時である。それ以来、その番組が終わるまで共演が続いたが、その時には、特に関係が深まらなかった。ただ番組自体は2人の印象に残っていて、今でもセリフが、多少曖昧ではあるがよみがえってくることはある。その番組は何度か映画化されたが、その時はかなりお互いひどい関係になってしまい、あまりいい思い出ではない。
ところが、別の作家の作品に出ているアスカに再開した時、シンジはぞっこん惚れた。子役から女優に脱皮できたアスカと違い、子役のまま終わりつつシンジだったが、なんとかアスカのそばにいたい、そう思い、脚本家に転身。どうもそこそこの素質はあったのか、鳴かず飛ばずに近い時期もあったものの、まったく見捨てられるということもなく、そのうち、書いた脚本の中に人気を博すものも出始め、今では一人前のシナリオライターとなっている。
そして、ついにアスカが出演するドラマの脚本家に抜擢され、そして交際が始まった。最初は、シンジのほうがアスカを追っかけているように見えたが、アスカの側もシンジをよく覚えていた。
「だって、テレビだからって、映画だからって、あんな目にあわされたらねえ。そりゃあ、覚えてるわよ」
多感な時期にああいうテレビ番組、ああいう映画に共に出演したというのは、やはり大きかったのだろう。
「だから今必死にやってるんだって」
「12月に入ったら4日目は全国的に12月4日だってことぐらい、分かってたはずよ。それなのに仕事が終わってないってのは、単なるアンタの怠慢」
「原稿書きが、そんな予定通りにいくもんじゃないくらい、分かるだろう」
「ワタシは原稿を演じる側だから分かりません。ワタシが分かるのは「ここでこの登場人物がこんなセリフ言うはずがないのに、どうやってこれを演じろっていうのよ!」っていう脚本どおりに演じる難しさだけです」
「あ、ひどい。書いている側は、それなりに必然性があって書いてるんだよ」
「だったら、分かるように書いてください。演じるのは役者です」
「なら、集中させてよ」
アスカを部屋から叩き出し、気を取り直して原稿用紙に向かう。
「あと、2時間待って、ダメだったら、先行ってるからね!」
怒声がドアの向こうから後頭部にぶつかってきた。いや、集中。
碇アスカ=ダロウェイ夫人はそれでも人生にイエスと言った。
「違う!」
碇アスカ=ダロウェイ夫人? 一体誰ウェイ? どうも想念が乱れているな。
「調子が悪いわね」
ああ、僕の脳内の君、君はいつまでも14歳だね。あの番組の後、2年ほどしてから14歳の子どもが立て続けに社会を震撼させる事件を起こしてしまったが、偶然もあったもんだ。
「大人は誰でも一度は14歳だったのに、それを忘れているのよ」
「大人は昔みんな子どもだったのにね」
「子どもがみんな大人になるのにそれを忘れているのも似てるわ」
窓の外から君がこちらを見る。ここは4階なのに。
「いつかは、自分でものを決められる時が来るのにね」
雲海を貫いて棒のように突き立った壱千本の峰の頂点に片足で立って下界を見下ろす。わずか二三歩ほど横にそびえる隣の峰の頂点には、君が器用に両足で立っている。わずかな間隔だが、その間は千尋の谷だ。
「決められるようになった時は、選択肢がずいぶんと少なくなっているよ」
二人で微動だにせず、雲が晴れていき、はるか下方の緑の平原が徐々に見えてくるのを見晴るかす。
「大人が取り上げていくんだ。子どもの意見も聞かずに。そのくせ、自分では子どもの選択肢を増やしているつもりでいる」
「親に選択肢を増やす力が無かったために、自分の選択肢が増えなかった、そういう体験をしている世代はそうなのかしらね」
「昔は環境がしていたことを、今は親がしているだけだ。環境をうらむことでは子どもは傷つかなくても、親を恨まなければならないことでは子どもは傷つく」
「アンタ、何でも親のせいなのね」
平原に立っていた。
「地面のほうが安全だよ」
左肩を揉みながら、振り返ったところには君ではなくライオンがいた。
平原をライオンに追いかけながら疾走する。
「ご苦労さんだわね」
脳内に浮かぶ半透明の君の顔。
「噛まれても死なない。痛みも無い」
自由連想をしていることぐらい自覚している。白昼夢や幻覚ではないのだ。
「だから、ほら」
ライオンはペン先がつづる文字に変わった。
「どうだい、この早業」
脳内でまだ走っているライオンに語りかける。
「それより、原稿どうするのよ」
ライオンにまたがったアスカが突っ込む
「君、勘違いしている」
「振りしてるだけよ」
「そう。君は僕の脳内のアスカだから本当は知っている」
赤い液体で全身を染めて転がっているアスカに向かって僕は言う
「原稿が脚本だなんて一言も言ってない」
「純文学って楽ね」
立ち上がりながらアスカは言う。
「どうして?」
「何書いても純文学になるから。大衆文学は読者に面白さが理解できるように書かないと大衆文学じゃないの」
赤インキと食紅をふき取りながら化粧台に向かうアスカ。
「作中の存在である脚本に思わせて、実は作品そのものかもしれないファンフィクションか。ひどい落ちね」
鏡の奥からアスカが振り返る。
「演じる側からしたら同じなんじゃないかい」
観音開きの鏡の奥にはアスカと原稿に向かっている僕。
「ファンフィクションでも、脚本でも」
「だーかーらー、できたの!」
「完成したわけじゃないけどね、出かけられるよ」
「ちょ、ちょっと待ってよ。途中で放り出して・・・・・・」
「途中じゃないんだ」
コートを取りながら、アスカに振り返る。大人になったら僕のほうが背が高い設定の作品が多いからね、僕もそれに準拠してアスカを見下ろす姿勢になる。
「仕上げるためには僕らが行動を起こす必要があるんだよ」
今度は、脚本化設定の僕が、執筆時に行なう自由連想ではなしにドアを開けた。
「それでも、一度、僕がペンペンの真似してクエクエ言っているうちに、バサバサはばたいてベランダから飛んでいくファンフィクション読んだ時は驚いたなあ。本当に手ではばたいて空を飛ぶ僕の姿が脳裏に浮かんで」
「それ、アタシが見た夢だったやつでしょ」
「そう、この対話がネタばらしになってなきゃいいけど・・・・・・あれは文章のマジックだったなあ。すごかったよ、あの衝撃は」
「ネタばらし云々以前にあの作品のよさを皆が知ってくれるきっかけになったらいいわね」
軽自動車一歩手前くらいの小さな自動車の助手席にアスカを乗せていざ出発。
「レストランの予約時間には間に合った、と言うより、今行ったんじゃ少し早すぎるんじゃない?」
「寄り道するからね。その分を入れたら丁度いいよ」
「あら。どこへ?」
「去年、どこへ行った?」
「去年? えーと」
アスカは少し放心したような顔になる。抜群の記憶力を誇る彼女だが、なにせ職業が女優であり、名前を売るためにバラエティなどにも出演している。一年前となるとその間に一時的にせよ頭の中に留め置いた台本やトークの相手の話などが膨大な量になり、思い出すのに時間がかかる。自由連想ではないが、少し意識を遊ばせるのが思い出すコツなのだ。
「ああ、アンタが、この街で最初に夕日を見たロケ地」
「うん。今年もそこに行こうかと思って」
腕時計をちらりと見る
「去年もそうだったけど、今の時期だと日没が早いから、夕日を見てからでも大丈夫なはずだよ」
「アンタがここに立ってたんだ・・・・・・去年も同じこと聞いた?」
「うん」
「繰り返しね」
「そうだね」
夕日を浴びて伸びていく影。
「ビルは伸びないし、生えてこないけどね」
「そりゃ、無理よ。あれ、合成でしょ?」
アスカが夕日の中、誰かが消し忘れたまま地面に残っていた円の列を、ケンケンパしながら応じる。
「だけど、僕の頭の中では、まるであの風景を現実に見たようなそんな記憶になっているんだよ」
シンジはビルの1つを指差した。
「あれが伸びてきたんだ。はっきり覚えてる・・・・・・本当は覚えているんじゃなくて、そういう風に頭の中で処理されているだけなんだけど」
「当たり前よね。でも、アンタがそういうなら」
アスカは、ケンケンパッと、最後の円から飛び出してシンジのそばに着地した。
「アタシはそれが本当だと思うわ」
そして、並んで夕日を見つめた。
「あの時、アタシもアンタも、自分たちの人生と同じく、あの作品の中で生きていたんだもの」
そのまましゃべれなくなった。
夕日があまりに美しすぎて。世界があまりに美しすぎて。時の流れがあまりに愛おしすぎて。
「ねえ・・・・・・」
息を吐くようにしてアスカが、それでも言葉をつなぐ。
「アタシたち、アタシも、アンタも、ここにいて、それって、永遠よね」
「うん」
いつまでもいられないから、この瞬間を、アスカの言葉通り永遠にするために、夕日に背を向ける。レストランの予約時間が迫っていた。こういうしょうもないことにしばられるのが人生だ。だからこそ瞬間を切り取ってしまおう。普通の時間の色に染まらないように。それにアスカとの食事だもの。それだってすばらしいに違いない。
「さあ、行こう」
「うん」
ようやく自由にしゃべれるようになったのは車に乗ってからだった。
「レストランでは席だけ取って、コースは決めてないんだ。何にする?」
「ハンバーグがあればなんでもいいわ」
テンプレどおりだなあ。これでファンフィクションいっちょ上がり。そう思いながらキーを回すと、バックミラーの向こうで、14歳のアスカが1人の少年と一緒に、まだ夕日の街を見つめていた。ビルの影が伸びてきていた。
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