無名の人 2011.12.04 |
音
音 音 音
嗚呼 音響
第3新東京市でその音を最初に耳にしたのは子どもたちだった。
大人には聞こえない歌を子どもたちは聞いていた。
次に耳にしたのは老人たちだった。
それまでの人生で聞いたことのない音楽を老人たちは聞いていた。
最後に耳にしたのは大人たちだった。
世の中を自分たちで動かしているつもりの大人たちが一番後回しになったことに、誰も腹を立てなかった。
「なんでアンタが一番最後に聞いて、アタシが一番最初なのよ」
「誕生日のせいじゃないかな。僕のほうが半年早く生まれてるんだし」
そんなことに腹を立てるあたりが子ども、軽くいなせるあたりが大人なのだろう。ついでにシンジは、そう言えば、誕生日おめでとう、と言おうとしたが、プレゼントをねだられそうだと思い、別の話題につなぐことにした。都合よく、忘れているみたいだし。
「それに生物の時間で習ったろ、ネオテニー進化論。高等な生物ほど、成熟しても幼形の特徴を保っているって説」
機嫌を取るつもりで彼、碇シンジは続ける。しかし、逆効果だったらしい。
「ふーん。アンタはアタシが、生物としても未熟だ、って言いたいんだ」
「ち、違うよ。僕より進化しているんじゃないか、って」
「はあ!? アンタ、馬鹿ぁ!? 同じホモ・サピエンスで、進化しているも、遅れているもないでしょう!? それとも何!? アタシがホモ・サピエンスで、アンタはネアンデルターレンシスか、シナントロプス・ペキネンシスだとでも言うの!?」
「ご、ごめん」
首をすくめるシンジを見て彼女、惣流アスカ=ラングレーは肩をすくめる。
「アタシに対するその遠慮っぷり。本当に犬と人間くらいには差があんのかもね」
そう言いながら、アスカは振り返り、音源を見上げた。
「はあ……進化か……あの人たち、本当にホモ・サピエンスじゃなくなっちゃうのよね」
見上げた先には、半透明の組織が幾層にも重なり、束となって出来上がった巨大なつぼみ。その萼の真ん中に赤い球体が鈍い光を脈打つように明滅させ、命が息づいていることを示している。
「10年前、アンタの場合は11年前か、覚えてる?」
「あんまり、よく覚えてないんだ。はっきり覚えているのは、父さんと駅で別れた時から」
「アタシもおんなじ」
二人の記憶でさかのぼれるのは壊れた後の家庭だけ。
「父さんも辛かったんだよ」
母が消えた後、少年の父は少年を捨てた。
「アタシはパパのこと、ゆるせないわね」
母が抜け殻になった後、少女の父は新しい人生を選んだ。
二人とも、華をしばらく見上げていた。ビルが林立する中、そのビルよりもさらに高くそびえるつぼみ。華が開いたら、ビルより高いだけでなく、ビルより大きくなるに違いない。
「でも、何のための音なのかしら」
「テレビの特番でも、たいしたことは言ってなかったしね」
「当り前よ。だってマイクに入らないんだもの」
みなが華の発している音に気づいてから、音の正体をしるための様々な試みがなされてきたが、科学的調査はことごとく失敗していた。誰もが聞いている、すなわち音として捉えているにもかかわらず、この音は、空気の振動ではないのである。
「なのに、みんな聞いているんだ」
不可解な音、というのは初めてではなかった。
少年と少女、シンジとアスカとが汎用人型決戦兵器エヴァンゲリオンに乗って使徒と戦っていた時、第5使徒は出現時に音を発し、第15使徒と第17使徒は戦闘時に音楽を奏でていた。
すべてが終わった後、人類補完計画が発動されたのち、世界のすべての人類が12体のエヴァの発する音楽に巻き込まれた時も、人々はそれほど意外と思ったわけではなかった。
「人類補完計画の最終プロジェクト、 E 計画か」
「ほんとに、必要だったのかな」
用意できた進化の憑代は12体、一体につき一人の搭乗者がいる。その中には彼らの知り合いが何人もいた。
「キール・ローレンツ議長、委員会のおじいちゃんたち……」
「すまなかった、ですか」
『ああ。君たちには苦労をかけた。だが、ほかに方法がなかったのだ』
「方法って、何の方法ですか」
『人類を補完する方法だ』
『黒き月より生まれしアダムの子、人類が、白き月より生まれし使徒を兵器化したエヴァによって生まれ変わる。そのためには14歳の子どもとその母親たちの犠牲が必要だった』
『今のままの人類では、生き残ることはできず、生き残る資格もない。争い。汚染。自らを傷つける愚行。自己統治の拙さ。善意にすら忍び込むエゴイズム。これらを浄化したかったのだ。たとえ、人の形を捨てることになっても』
「そんなこと、誰も望んでない」
『だから、今はそうは考えていない』
「考えていない?」
『そうだ。人類すべてが人の形を捨てる必要はない』
というそんな壮大かつ、人類史、地球史的な作戦の進行中でも学校はあり、登下校の必要もある。アスカとシンジは、今下校途中である。
「今の形を捨てる、か。そう言や、アスカ、保護プログラムの利用、考えた?」
「ああ、転居して、個人情報を書き換えて、名前も変えて、政府の保護下で生活するって話?」
「ネルフの職員さんたちには、家族ぐるみで保護下に入った人たちもいるって聞いたよ」
「うーん。ずっと訓練ばかりの人生だったからねえ。ここらで何もかも変えて、普通の子ども時代やりなおそうか、なんて考えないでもなかったけど、いい名前思いつかないのよねえ。惣流って名字が目立つから、別の名前にしようかと思っても、自分で書けない漢字じゃ意味ないから、式波とか、同じくらい目立つ名字しか思いつけないのよ。無意味だからやめたわ」
その巨大さから目の前にあるかのような錯覚を起こすが、実はかなり遠くにあるため、歩いても歩いても、華の位置は変わらない。そして、華からの音も。
そうは言っても、手前にあるビルの位置が変わることで、見えてなかった華が見えてくることもある。坂道の上まで来た時、シンジにとって大事な華が姿を見せた。
「カヲルくん……」
『未来を与えられる生命体は一つしか選ばれない。そして、君は死すべき存在ではない。君たちには未来が必要だ。ありがとう。君に会えてうれしかったよ』
「カヲルくんが言っていることの理屈は分かった。だけど、なんでカヲルくんじゃなきゃいけないんだ。それにどうして」
シンジはくやしそうにカヲルの華に寄り添うもう一輪の華をにらむ。
「綾波じゃなきゃいけないんだ」
『絆、だから……わたしはこの時のために生まれてきたようなものだもの。もし、これをしないなら、わたしはいないのと同じ。絆をすべて失ってしまう。それは、死ぬより恐ろしいことだわ』
「あ〜、シンジ、妬いてんでしょ」
ニヤ〜ッと笑いながら、シンジの背後から迫るアスカ。
「どっちに妬いてんのかな〜。レイに? それともあのバカに?」
「妬くって何さ」
「お子ちゃまのシンジには、まだ自分の気持ちが分かんないのかな〜? 背伸びにせよ、本当の恋じゃないにせよ、恋愛に関して少しは経験がある立場から言うわ。アンタ、やっぱり好きだったのよ……そうね。たぶん、両方とも」
アスカは背中からシンジに抱き着いた。
「そうなると、やっぱり、妬けるな。アンタ、まだ、アタシのことでそんな声、聞かせてくれたことないもん」
背に押し付けた顔の下から漏れる暗い声。
「ごめん」
振り返らないままの暗い答え。
「アスカは、たぶん、僕にとって特別なんだと思う。だけど、さっき綾波とカヲルくんをどう思っているかについて言ってくれたように、分かんないんだよ。未熟すぎて」
シンジの左手が開き、また握られる。
「だから、もう少し待って。みんなに対する自分の気持ちがよくわかるまで……さっき、保護プログラムに入らないって言われた時、うれしかった……今、こうされているのは嫌じゃないから」
「……そ」
アスカはしばらくの沈黙ののち、パッと顔を離して、シンジの前に飛び出すと、シンジの手を握って走り出した。
「ちょ、アスカ、どこ行くんだよ」
「あいつへのリベンジ」
アスカは、シンジの手を握ったまま公園への階段を駆け上がる。
「ここは」
「そ。アンタの思い出の場所。そして、あいつにとっても」
ピンクがかった半透明の、あたかもラフレシアのつぼみのような華がビル群の中にそびえたっていた。
「ミサト〜。加持さんめぐっての勝負は負けたの認めてあげるわ〜。アタシ、次の恋、見つけたから〜」
エヴァのエントリープラグに乗り込む前のミサトと、スクリーン越しに最後の対面を果たした時、ミサトもまた、それまでのことを謝った。
『あなたたちと家族になりたかった。だけど、ごめんなさい。無理だった。失った家族の代わりにあなたたちを求めるだけだったの。あなたたちのために痛みに耐えるつもりもなしに、姉だなんて、母だなんて、できないわよね。そんな顔されても迷惑だよね。だから』
ミサトはエヴァを振り仰いだ。
『これに乗るの。あなたたちと同じように。今度はわたしが耐えてみせる番。それができる程度には大人のつもり。そうすることで、わたし、今度こそ、本当に人を愛せるようになると思う』
「覚悟はいいのね」
リツコは発令所から問うた。
『いいわ。何か残ってたら、後始末お願い。いつもすまないわね』
「いつものことよ。慣れてるわ」
『じゃ、シンちゃん、アスカ、またね』
ミサトはエントリープラグに乗り込み、搭乗した。眼鏡を外して眉間をもむと、リツコは顔を上げ、発令所スタッフを見まわす。
「さあ、人工進化研究所以来の研究成果を見せる時よ。試運転、試験なしの一発勝負。3万回繰り返したマギのシミュレーションだけが頼り」
リツコは、少し息を吸った。
「進化用エヴァンゲリオン1号から12号、発進!」
12体の白いエヴァンゲリオンが地上に飛び出し、それぞれ、定められた位置について、ロンギヌスの槍でコアを刺し貫いた。そして、羽化、としか言いようがない様子で、エヴァが化けた。と言っても蝶の羽化なら、翅は開いていくが、この場合は翅のよう出てきたものが、そのまま蕾になった。エヴァの本体は中身が抜けて皮だけになり、そしてそのまま砂が風に散るようにして消滅した。
その様はすべて録画され、ネルフの機密資料になっている、と思いきや
「まさか、Me Tubeに上がるとは思わなかったな」
「相田かと思ったら、ネルフが、情報公開の一環でしているとも聞くわね」
「ニヨニヨ動画にアップされた時は、さすがに削除申し立てをしたみたいだけど」
「あれはコメントがつくからよ。アップされている間にアタシもコメ書いたわよ」
「え? なんて?」
「『これ、アタシのママよ! すごいでしょ!』って」
ぶっ、と吹き出すシンジ。
「ちょ、ちょっとアスカ、それは」
「そんなの信じるやつ、いるわけないでしょ」
「ネットや、ニヨニヨって、どんな人が見るか分かんないんだから」
「矢印つきで『はいはい、乙、乙』ってのが何個も書き込まれてたわ」
あの日、メタモルフォーゼが終わった後、ネルフ職員たちは、最後の式典のために地上に出た。犠牲となった者たちに敬意を表するために。記念されたのは、計画の主導者たち、元第17使徒渚カヲル、元零号機搭乗員綾波レイ、そして
「そして、アタシたちのママか」
12体のエヴァのうち、2体は搭乗員がおらずダミープラグで動いていた。10体は魂なきエヴァをダミーと搭乗者で動かし、2体は魂とダミーで動かしていた。その2体は、元初号機と元弐号機。
「禁断の果実、S2機関、あれが成熟する時、あの人たちは、人間を超えた種に進化する」
「そして、人類がほかの生物を支配し、地球を統治しているように、人類を統治する上位種になる、か……」
感慨
そして沈黙
無音
いや音はある
華の音
華の声
華の歌
「あ」
「なに?」
「音が変わった……嘘……今?」
同時刻、音の変調を捉えたネルフのオペレーターたちは、緊急避難命令の発令を上司に具申しようとしてためらった。予想外の事態を警戒すべき状況であるのに、とても危険とは思えない音楽だったからである。
上司もまた同じように感じていたが、それでも事態が事態なので、まったく不要だと実感していながら、その実感に逆らい「万一のことがあったらどうする」という理屈に従って、緊急避難命令発令を命じた。同時に、総員第一種戦闘配置に移行した。
だが、館内に警報音は鳴り響かなかった。本当は鳴っているのかもしれない。しかし、すべての人の心に、華が響かせている音に吸い取られているようだった。
「アスカ……逃げなきゃ」
「シンジ……逃げたら?」
「……いや、たぶん」
「そうよ。大丈夫」
音の波を顔に浴びて、眩しそうに目を細めつつ、アスカは微笑んだ。
「ママ、ここにいたのね」
それは歌だった。歌いながら、12のつぼみがほころんでいった。熟した生命の実が弾けていく。そこから生まれてくる、何か。
「そうか、これ、産声だったんだ。喜びの歌だったんだ」
「ええ。ママが、ママたちが話しかけてきている」
「僕は聞こえないよ」
「聞こえ始めたのが遅かったからよ。そのうちアンタにも聞こえるようになるわ」
「ほんと?」
「ええ。説明できないけど、分かるの。今から、人類は、アタシのママとアンタのママ、レイにあのバカ、いろいろあったけど、もうゆるしてあげる、あのじい様たちに守られて生きていくの。ママたちの歌の中で生きていくの」
「今、なんて歌ってるの?」
「アンタのママが『シンジ、大人になったわね。お父さんを頼むわよ』だって」
「……分かったよ、母さん」
「そしてママがアタシに『お誕生日おめでとう』だって、10年ぶりよ、ママ……」
花弁が開き切ろうとしている。その中から漏れ出てくる、音でできた波。生まれてくるのは、その波に持ち上げられるようにして宇宙へ舞い上がっていくに違いない新しい万物の霊長たち。たった12体だけの地球最高の種。第18使徒であるヒトの上位種たる第19使徒。
「……シンジ」
「……アスカ」
二人は12体の新たな仲間を見上げたまま言い交す。
「大好き」
「僕も自分の気持ちが分かったと思う……アスカ、これからも、ずっと、一緒にいて」
「うん…………シンジ」
「何?」
「プレゼント、よろしくね」
「…………」
音
音 音 音
嗚呼 音響
第19使徒が華開く
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