無名の人 2013.12.04 |
《ねえ、シンジ。ワルプルギスの夜よ。あんた行かないの?》
満月の夜空から流れる川面の紅葉のように舞い降りてきた真っ赤な蝙蝠が、影のようにそそり立つ古城の窓から黒い森を見下ろしていた少年に声をかけた。
「父さんからはチェロの課題、母さんからは留守番。行けっこないよ」
そのチェロは壁に立てかけられたままであり、少年のまなざしは宙を舞う聞き慣れた声の主を追わず、眼下の森林を縫う松明の列に落ちている。
《あ〜あ。アンタ、いい子ちゃんも、大概にしなさいよ。ワルプルギスの夜は無礼講、親の言いつけを破ってもお咎めなしってのが、昔からの決まりじゃない、バカシンジ》
鎧戸の桟にかぎづめをかけて逆さにぶら下がり、シンジと呼ばれた少年にイーッと舌を突きだしてバカにした後、その下で蝙蝠は毛づくろいを始める。
「そりゃ、そうだけど……」
シンジは、出ていくときの父ゲンドウ、母ユイとの会話を思い出していた。
『お前は普通の体じゃないんだから、来るな』
『でも、父さん。僕だってもう14だよ』
『魔力を持っている私でも、狼になれるお父さんでも危ないのよ。おとなしく留守番してなさい』
『血筋で言えば、僕だってそのどっちかのはずだ』
『だが、そのどちらの力も発揮できているわけではない。どうしても祭りに出たければ、せめて楽器の演奏をマスターすることだ。ハメルンの大叔父のフルート曲のチェロ版、まだマスターしていなかったろう。練習しておけ』
そう言うと父親は、今シンジが森を見下ろしている窓を開け放ち、満月を見上げた。そして、古城から野獣の遠吠えが夜の冷気を貫いて、すでに木々の下のけもの道を歩み始めていた行進の面々の耳にまで達した。そして、窓からシンジの母親が狼とともに箒に乗って飛び出した。1人と1頭を乗せた箒は月明かりの空を飛翔し、やがて影絵となって松明の蛇の頭まで滑空していった。
「普通の体じゃない、か」
シンジは、自分の両手をじっと見つめ、手のひらを握り、また開いた。
「確かに僕は、魔力を持っているわけじゃない。狼になれるわけでもない。アスカみたいに蝙蝠になって血を吸えるわけでもない……まるで怪物だよ」
その言葉に、昔から知っている悪い癖が出てきたのを察した赤い蝙蝠、アスカは両耳を振りながらシンジを見やった。
《ちょっと、よしなさいよ、怪物だなんて》
「面と向かっては言わないだけで、みんなそう思ってるよ、伝説の怪物、ニンゲンみたいだって」
根暗モードに入ってしまったことを察したアスカは正面から否定するのはやめた。そして、鎧戸の桟から離れると、シンジの背後に回り、蝙蝠への変身を解いた。背中に蝙蝠の羽を生やした、赤い髪の少女がそこにいた。
「ふーん、じゃあ、アンタ、ニンゲンみたいに『物語の力』とやらに守られて、アタシたちヴァンパイヤには絶対負けないんだ」
そう言って、アスカはシンジの肩をつかむとそのまま窓の外に放り投げた。
「えわああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
古城が建つ岸壁を、シンジはまっさかさまに落下していく。そして、地面まであと少しというところで、落ちていくシンジに数倍するスピードで赤い閃光が、シンジの体をさらい、きりもみしながら急上昇した。
「ぎゃわわわわわわわわわわわわわわわわわあああああああああああああああああああああ」
シンジはいつそれが終わったのか、憶えていない。我に返った時は、背中の羽で静かに滑空しているアスカに抱きかえられていた。頬を撫でる涼風が心地よい。
「ね。お菓子の家を建てて暮らしていたアンタのママのひいひいおばあさんは、小さな子ども2人に自分の家のかまどで焼き殺されて家を乗っ取られた。
それを聞いていたアンタのパパのひいおじいさんは、森で赤い頭巾をかぶったニンゲンの子どもを見た時、こりゃあいかんと思ったそうよ。そして、その子どもから、その森にはすでにその子どもの祖母が暮らしていると聴いて、年よりの方から始末にかかったけど、結局失敗。なんと、食い殺したはずの子どもが生きていて、他のニンゲンを呼び寄せたのよ。あわれひいひいおじいさんは、そのニンゲンにお腹を裂かれて一巻の終わり。
アタシの一族は寿命がないから、自然死はない。じゃ、死因は何かというとみんなニンゲンに殺されてるの。力じゃ圧倒的にこっちが勝ってるのに、ニンゲンが『物語の力』に守られているばっかりに」
ぴちんと、アスカは心なしかまだ呆然としているシンジにデコピンをした。
「アンタが、ニンゲンなら、ヴァンパイヤのあたしにこんな風にいいように扱われるわけ、ないじゃない」
それに対し、シンジが何を答えようとしていたのかは永遠の謎となった。そこでシンジが開いた口からあふれ出てきたのは言葉ではなく、吐瀉物であったのだ。
「えれえれえれえれえれえれえれえれえれえれえれえれえれえれえれえれえれえれえれ」
アスカは墓場に降り立ってからも、まだプンプン怒っていた。別に体にかかったわけではないが、やはり気になるらしい。
「もう! あの程度で酔うなんて!」
「む、むちゃ言うなよ。羽が付いている生き物とそうでない生き物じゃ、飛ぶってことの意味が違うんだって。母さんが僕を箒の後ろに乗せるときだって、あんな無茶はしないよ」
「そりゃ、アンタ乗せてるからよ。うちのママの話じゃ、大学生の時はママと、キョウコ&ユイってコンビ組んで夜空をかっ飛ばしてたらしいわよ。蝙蝠姿のママより、アンタのママのほうがよっぽど過激だったみたいにも聞くわ」
「そ、そうだったんだ」
シンジは、ユイと箒に乗って外種下ゲンドウが時々息も絶え絶えで帰ってきて、そのまま倒れてしまうことがあるのを思い出した。家族の謎が解けた瞬間の意識の拡大を感じ入っている最中のシンジを放置し、アスカは墓石の1つ、綾波レイと彫られているものに近づいた。
「こら! レイ! 引きこもってんでしょ! 出てきなさい!」
そう言って無理やり墓石を横にスライドさせた。
ガラリ
「引きこもってる割に、鍵もかけてないんだから。ほら、起きなさい!」
そして、墓穴の暗がりに手を突っ込むと、青白い手首を、そして腕、肩、頭、全身と引っ張り出した。
「んん〜、眠いわ。もう少し寝かせてよ」
レイと呼ばれたゾンビ少女は、青いぼさぼさ髪の下で目をこする。
「アンタ、今日はこっちの人格? じゃ、ワルプルギスの夜、行くでしょ」
どうやら二重人格らしい彼女の今日の人格は目をしばたたかせた。夜のように黒い瞳。
「え? 今日?」
「今日よ。まったく、いっつも思うけど、こんな狭っ苦しいところでよく寝られるわね」
「別に狭いところが好きなわけじゃないわ。ただ、私たちゾンビにとっては自分が生まれた墓穴って、アンタたちにとっての母親の胎内みたいなもんなのよ。だから私たちにとってここで眠ることは胎内回帰と同じなのね、きっと。よく眠れるわよ、死んだみたいに」
「何言ってんのよ。生まれた時から死んでるのに」
「そうは言いつつも、シンちゃんに会うと、私、胸がドキドキ」
「打たないんでしょ」
「息が止まりそう」
「止まっているじゃない」
「緊張で体がガチガチに」
「死後硬直よ」
「あなたが眩しすぎて何も見えない」
「瞳孔が散大してるからね」
「アスカはどうなの? アタシと同じ?」
「な、何言ってんのよ! アタシはコイツのことなんて」
「顔が赤いわよ」
「もともと赤いのよ!」
「ああ〜、うらやましいわね。生きているって」
レイは、うーんと伸びをすると、シンジに絡み付いた。
「だから、シンちゃんは譲って」
ぎりぎりと万力のような力でシンジを締め付けるレイ。シンジの顔がどんどんレイと同じく白くなっていく。
「やめなさいって!」
アスカの背中の羽がひゅんと風を切る音を立てたかと思うと、レイの両腕と首が地面に落ちた。
「相変わらずひどいわねえ」
地面に落ちた首がケラケラ笑う。両腕も頭もない胴体が膝をかがめると、地面でもがいていた両腕の切断面からしゅるしゅると繊維が伸び、両肩の切断面と接合した。そして、繊維が両腕を地面から引き上げると、ぐちゃりと紫色の体液を飛ばして両腕は両肩に再びくっついた。
「うまく拾いなさいよ、胴体」
しかし、わざとなのか、頭と胴体との仲が良くないのか、首がないまま胴体はシンジのそばに寄ろうとする。
「こらこら、胴体。シンちゃんは体が目当てじゃないのよ」
シンジは、頭のない胴体が、切断面からごぼごぼ音を立てながら自分の首筋に首をこすりつけようとするの必死でかわしている。
「ほら、頭もついてないとダメでしょ」
しかし胴体は頭をほっておいて、手足をシンジに絡み付かせる。シンジの顔が紫色になり、先ほど嘔吐したばかりだというのに、再び口の中に胃液の味が広がる。あわやというところでレイの胴体が吹き飛ばされた。
「バカやってんじゃないわよ!」
今度はアスカの回し蹴りが炸裂したらしい。
木の枝に引っかかれ、樹の幹にぶつかり、べきばきぼきごきんと、嫌な音をさせて胴体が遠くの茂みの中に落ち込むのをシンジが聞いている暇はなかったかもしれない。アスカがシンジを横抱きにし、飛び立ったからである。
「アンタを誘いに来たのが間違いだったわよ、レイ! 来たかったら、勝手についてらっしゃい!」
それに応えるように、茂みから紫色の液体をまき散らしながらレイの体がまろび出てきた。手足が変な方向に曲がっている。
「逃がすか〜!」
怒っているのか、笑っているのか分からない声音で雄叫びを上げると、ごきごきと音を立てて全身の骨が正しい位置に戻る。そして、首を拾い上げると
「どおりゃああああああああああああああああああああああ!」
と、機械のように正確かつ力強く投擲した。レイの首は弾丸のように空気を貫き、一直線にシンジの襟にかみついた。
「ごめんね。碇くん」
その声にアスカがはっとして振り返る。血のように赤い瞳。
「アンタ、ファーストね。騒がしいのは嫌いだから出てこないと思ったのに」
「レイは体の操縦に廻らせたわ。あの子にまかせていたら話がややこしくなるばかり」
「でも、当面は黙ってることね。しゃべり過ぎると落ちるわよ」
「承知よ。でもこれだけは言わせて」
「何よ」
「誕生日おめでとう、アスカ」
「誕生日、って……そう言や、今年はワルプルギスの夜とぶつかってたんだっけ」
「そ、そうだったんだ。おめでとう、アスカ」
ようやく再び我に帰れたらしいシンジも、アスカに祝いの言葉を述べる。
「あ、ありがとう。アンタにそう言ってもらったの初めてね」
「ごめん。でも、知らなかったんだよ」
「うーん、確かに最近は誕生日なんてどうでもよくなってたから、アンタには言ってなかったわね」
「本人は良くてもさ、周りは知っておきたいじゃない」
急に気さくな声が響いた。
「レイ。戻ってきたの?」
「体がワルプルギスの行列に向かう馬車に行き会ったの。霊柩車だったから便乗させてもらったわ。ファーストにはそこで休んでもらったの」
瞳は黒く戻っている。
「にしても、誕生日を忘れるなんて考えられないわね」
「アンタは忘れないの?」
「私たちの場合は、この世界に生まれる時にお墓ごと一緒に現れるから、誕生日が命日としてお墓に刻まれているわ。名前と一緒に」
だから忘れようがないのよ、とレイは襟を加えたまま器用に笑う。
「生まれてくる時からアイデンティティが確定しているって便利ね」
「でもないわよ。皆みたいに成長する楽しみってないから」
「良し悪しね」
「で、いくつになったの」
「1400歳くらいかな」
「せ、1400歳!?」
シンジが驚きの声を上げた。
「同い年ぐらいだと思っていた…」
「アタシたちの一族の場合は成長が遅いからね。アンタのタイプにとっての14歳くらいよ、1400歳だと」
しかし、シンジの耳には届いていない。何か大いに悩んでいるらしい。そこにレイが爆弾を落とした。
「シンちゃん、姉さん女房は嫌?」
その瞬間真っ赤になるシンジ。
「な、何言ってんのよ! アンタ、バカア!?」
「だって、照れてるシンちゃんとアスカって可愛いんだもん」
「黙ってなさいよ、もう! さっきだって、アタシたちをからかうためだけにシンジにちょっかい出す振りして」
「え? そ、そうだったの」
その言葉がさらに地雷になった。
「な、何よ! アンタ、レイに絡み付かれたのが嬉しかったの!?」
そのまま地面にたたき落としかねない剣幕でシンジに詰め寄るアスカ。
「そ、そんなことないけど」
「あー、ひどーい。シンちゃん、私のこと、嫌いなんだー。ううう。襟咥えてるの止めて、飛び下りて死んじゃいそう」
「い、いや、そういうわけじゃ」
「何よ、やっぱりレイの方がいいのね。バカー!」
そのままシンジを地面めがけて放り投げるアスカ。
「わああああああああああああああああああっ!?」
「ちょっと、シンちゃん、ダメじゃない。アスカが大好きだって言わなきゃ」
どんどん地面が近づいてくる。
「あーあ。しょうがない。大丈夫よ、シンちゃん。地面に着く直前に、噛み殺してあげるから。そうしたら、私の隣にお墓ができて、ゾンビとして第二の人生スタートよ。そうしたら」
そこでレイは言葉を呑み込んだ。
(能力がない引け目をアスカに感じなくても済むようになれるわよ、きっと)
「も、もうダメだ〜〜〜!!」
そう思ったところで、シンジはゾンビになり損ねた。
「もう。アスカったら。お友達を不老不死にするにしてもやり方ってもんがあるでしょ」
死なずに自分と同じ時間を生きられるよう、一度殺すなんて。そう言って、アスカの母親、キョウコはプリプリ怒っていた。
「ご、ごめんなさい。アスカのお母さん。私がアスカをけしかけちゃったんです」
「だとしても、やったのは自分よ。自分で責任を取らなきゃね」
逃げていく赤い蝙蝠を、真紅の蝙蝠が、襟に生首をぶらさげた1人の少年を足でぶらさげながら追尾している。先ほどから、真紅の蝙蝠に取り成しているのは、少年の襟を咥えている首である。
「ごめんなさい、ママー!」
「いいえ、ゆるしません。当分動けなくなるまで血を吸ってあげます」
「蝙蝠さん、助けてー」
「古いアニメを真似するんじゃありません! 自分も蝙蝠の癖に」
「ああ、すごい。どんどん追いついていく。年季の違いかしら。お母さん、おいくつ?」
「女性の年は聞くもんじゃないわ。せいぜい3700歳くらいよ」
「ママ、300歳もサバ読んでるー」
「こら! アスカ! ママの秘密を!」
ヒートアップすることでさらにスピードアップするキョウコ。カッと開いた口、その中の牙が背後からアスカの首筋、頸動脈に迫る。
「綾波、なんとかして」
シンジは憶えている。まだ小さかったあの日、今日と同じように何かでかんしゃくを起こしたアスカが、シンジを空中から落とした時のこと。激怒したキョウコに昏睡寸前まで血を吸われたアスカは、その後も同族に血を吸われたヴァンパイヤ特有の免疫反応を示し、一か月苦しんだ。あのような苦しみをアスカには二度と味わわせたくない。
「……碇くん」
「!? その声音は」
「大事な人のために、誰かを犠牲にする覚悟はある?」
「! そ、そうか! ごめん、綾波!」
シンジは、レイの首をつかむと、キョウコの口元めがけて放り投げた!
(いいのよ、これで。私が死んでも代わりは……何言ってるのかしら、死ぬわけないでしょ私が)
ガブリとキョウコがアスカの首と思ってかみついたのは、シンジとレイの作戦通り、レイの首。血と思って吸い取ったのは例の紫色の体液。喉と胃に食らった予期せぬ衝撃に、キョウコは空中でのけぞり急停止した。
「きゃああああああああああああああ、まっ、まずい〜! 口が曲がる。口が腐る〜!」
空中で飛ばないことは落下を意味する。シンジとレイを放り出して、キョウコはきりもみ落下していった。
空中に放り出されたシンジは「またか」と9割がたあきらめの境地だった。しかし、落下はしなかった。シンジはレイと共にアスカの腕の中にいた。
「アタシをないがしろにしたり、手を汚しても庇ったり、アンタ一体どっちなのよ」
抱きかかえられたシンジの胸の上にはレイが転がっていた。すでに額の傷は癒えかけている。
「いいじゃないの、いまはどっちでも」
レイは思う。1400年経っても少女のアスカと碇くんは時間の経ち方が違う。もっともそれだけ待つのが苦手なようじゃ、2人とも大して変わらないわね。どちらも結論を出すのは先延ばしにするくせに、人の結論は急がせたがるんだから。まあ、この場を収めるのが上手な方に交替しましょう。
「今日が、ゾンビシンちゃんの誕生日にならなくてよかった」
「レイね。ママに追っかけられたのはアンタのせいよ。それにアンタの体液飲んじゃって、ママ大丈夫かしら」
「平気よ、ヴァンパイヤの耐性なら。イソジンでうがいすれば今頃は回復している頃ね」
「え!? その程度の効き目しかないの!? シンジ! 急ぐわよ」
そう言ってアスカは再び飛翔を開始した。
「待ってよ、アスカ。僕、父さんと母さんのゆるしを得てないんだよ」
「そんな心配、2人に出くわしてからしなさい。今度はアタシが助けてあげるから」
そう、ただでさえ特別な日にするつもりだったのが、自分の誕生日と思い出した今は余計に。
月明かりが照らす先、目指すワルプルギスの夜はもうすぐだ。
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