右腕をなぞってみる。
前ほどの痛みはもうない。
時々、節々が痛むが、私の身体に刻まれた傷は、この場所を残すのみとなった。
今では、専属の看護婦というのはいない。
相変わらず閉じ込められているのは隔離病棟だが、
以前のように一時間おきに私の様子を見に来るということはない。
私はそれが気に入らず、それとなく医師に文句を言ってみた。
彼は、私がよくなってきたから、そういう必要もなくなった。よかったね、と、
油の浮いた顔で私におざなりの答えを返した。
Colors
-final episode-
rego 2003.12.13 |
私は王に相応しくないのかもしれない。
毎日、ステージ上で私は懸命に踊る。
赤い人たちを前に、踊る。
その瞬間が最高に幸福を感じられる時だ。
人々が巻き起こす熱狂の渦の中、私はそれを背に踊る。
彼らの声は、私の脳を刺激し、充足感を得ることが出来る。
彼らは彼らで私を見てくれて、それで満足してくれていた。
だが、最近はそうじゃない。
彼らがそれに飽きてきてしまうのだ。
私はみんなの視線を集めようと、より高度な、過激なステップを踏む。
負荷に耐えられず、靴が壊れるというのは、珍しいことじゃない。
でも、私にもいい加減、限界というものがある。
それすら超えてしまったら、誰が私のステージを見てくれるだろう?
今日も空席が目立っていた。
昔はこぞってステージを見たいという人がいたが、今ではそれもまばらだ。
赤く染まりたいという人間は、もうほとんど残っていないのだ。
このまま、私はいつか食べたトマトスープに残った筋のように、
誰もいないステージで一人踊らなければならない日が来るのだろうか。
その日のことを考えると、私は身震いを禁じえなかった。
それを、頭から振り払うように私は自問する。
大丈夫。私は大丈夫だ。
なぜなら、私は天才だから。
その気になってもっと努力すれば、きっとみんな戻ってきてくれる。
だって、目を閉じれば、想像することができるのだ。
再度、私に酔っている観客たちを。
私を見つめてくれる赤い瞳を。
世界を打ち消す電子音が鳴った。
足音が近づいてくる。
看護婦のヒールの音でも、医師の革靴の音でもない。
スニーカーが床にこすれる音だ。
私のものになりに来たのか。それともこの世界を破壊するために来たのか。
足音が私の病室の前で止まる。
緊張感はない。
ドアが控えめにノックされる。
これから、あいつはいつもの言葉を述べ、私もいつも言葉を返すのだろう。
「…入っていい?」
「入ってこないで。」
「…入るね。」
あいつはドアの開けると、重そうな足取りでこちらへ近づいてくる。
慣れた感じでベッドの横にある腰掛に座り、私のほうに目を向ける。
既に暗くなった部屋の中で、あいつの視線が私を刺すように見つめる。
窓から差し込む月の光が、私とあいつを照らし、暗闇の中でお互いの輪郭を露にする。
闇の中にポツリと浮かぶあいつの顔は、言いようがないほど綺麗で、
私はそこから視線をはずすことが出来なかった。
1メートル弱の距離で私たちは無言で見つめあう。
あいつは私の言葉を待っているのだろう。
細く、引き締まった顔。ひげはまったくといって良いほど見当たらない。
鼻は小さく上品に尖り、薄いピンク色をした唇は少しパサついている。
滑らかなまつげは綺麗なへの字型を描き、その下には大き目の瞳が見える。
瞳の色は漆黒で、中に私の姿が浮かんでいた。
私はあいつの瞳の中の自分を見る。
よく見えない。色彩がはっきりせず、私の姿がぼやけている。
確認したい。どうしてもあの中に私の姿を見たい。
私は焦燥感に襲われる。
ベッドから身を乗り出し、腰掛に近づく。
あいつはそんな私の様子に驚いたのか、どうしたの?と問う。
私は答えない。答えることが出来ない。
身体を引きずり、なおも近づく。
あいつの手を掴み、ベッドの方に引っ張る。
いきなりのことにあいつはバランスを崩し、ベッドの中に上半身を突っ込む体勢になった。
あいつの顔を両手で持ち上げ、私はあいつの瞳を食い入るように見る。
月光が私の身体で遮断され、光を失ったあいつの瞳は何も映さない。
それは闇であり、絶対的な無だった。
瞬間、私は激しい動悸に襲われる。
ああ、こいつは黒い存在だったのだ。
私を捉える漆黒の瞳は、私を飲み込むあの穴だ。
私を赤い世界から引き摺り下ろし、私を孤独にするあの穴だ。
私を壊すあの黒く、暗い穴だ。
恐怖で身体を動かすことが出来ない。
このままでは、私という存在はこの男に殺されてしまうだろう。
死ぬのは嫌。絶対に認めてはならない。
あいつは私の様子を怪訝に思ったのか、再度私に問いかける。
その瞳で私を見ながら。
怖い!怖い!怖い!
私の半身は既に闇の中に落ちている。
ゆっくり、そして確実に私は闇の中におぼれてゆくのだ。
まぶたの裏に焼きついた赤い世界とともに。
その町に人はもはや誰もいない。
劇場に駆け込むが、私を助けてくれる観客もどこにもいない。
見渡す限りの闇。
駄目だ!赤くならなければならない。
私は王座を降りる気はまだないのだ。
混乱の根源を断ち切らなければならない。
私は闇に崩れ落ちる劇場を抜け、それと相対するべく戦場にたった。
赤く。真紅に。闇の世界を染め上げなければ。
唇の裏側を噛み切った。
鋭い痛覚が私の身体を走りぬけ、同時に口の中に鈍い鉄の味が充満する。
掴まえたままだったあいつの顔を思いっきりこちらに寄せ、口付ける。
驚いたあいつは抵抗しようと試みるが、私はそれを許さない。
あいつの身体を両腕を抱え込むようにして抱き、そのまま背を反らせる。
私の血と舌があいつの口内を蹂躙する。
唇同士が唾液と血で濡れ、舌がくちゃくちゃと嫌らしさのかけらもない音を立てる。
反逆者は抵抗を諦めた。
私はそれに満足し、さらに罰を与えるべく行動を再開する。
顔中を嘗め回す。頬も、顎も、額も。
うめき声を上げながら、私にされるがままになる。
いつも闇に浮かんでいたあいつの顔は私の唾液と血で染まった。
赤い世界を脅かす冷たい闇は、たった今私に屈した。
簡単なことだった。
初めから、こうしておけばよかった。
そうすれば、あんなに苦しめられることはなかっただろうに。
そう考えると、おかしくてたまらなかった。
あいつの身体を離し、私は声を出して笑った。
嗚咽が聞こえてきた。
あいつが泣いている。
何故、泣いているのだろう。
たった今、こいつは私のものになったのだ。
何を悲しむことがあろうか。
これからは、私のステージを心置きなく見れるし、
そんなところにただ座っている必要もない。
私に近づく事だって、何の気兼ねもなくできるのだ。
これ以上、何を望むというのだこの男は。
「…それじゃ、駄目なんだよ。」
絞り出すといった表現が見事に当てはまるようにいう。
駄目なわけがない。私はこれまでそうしてきたし、これからだってそうだ。
馬鹿な男だ。そんなことも分からないらしい。
「あんたはもうアタシのもの。」
「なれるものなら、そうなってあげたい。でもそれじゃ駄目なんだ。」
「今更遅いわよ。もうなってるもの。」
「違うんだよ、それじゃ駄目なんだよ…。」
それだけいうと、あいつはまた泣き出してしまった。
暗闇の中で、私のものが泣いている。
血で真っ赤に染まった顔を私のほうに向けながら。
これが私のものになった証だというのに。
それは疑いない事実のはずだ。
なら、どうして?私のものになるのが嫌だったのだろうか?
でももう遅い。全ては手遅れだ。
私は、もう一度赤く染まったあいつの顔を見つめた。
月の光に照らされ、先ほどより鮮明に視認することが出来る。
ぱさついた唇も、ほっそりした頬も、形のいい鼻も私の体液でてらてらと光り輝いている。
そして、漆黒の瞳も。
それは赤く染まっていなかった。
光を取り戻した瞳は、透き通るまでの黒さで私の姿を映し出していた。
さっき私が見たかったような鮮明さで。
「…僕じゃ、君を助けられないんだよ…。」
まぶたを閉じてみる。
かつての赤い世界はもう存在しなかった。
私の中で何かがはじけた。
「どうして駄目なのよ!私を助けてよ!
あんた、前に言ってたじゃない!自分を大切にしろって!
大切にしたいわよ!してるわよ!あんたがアタシを助けてよ!
アタシにはもうあんたしかいないのよ!」
「僕だって、そうしたいよ!出来るもんなら!
でも、それは出来ないんだよ!君は君にしか助けられないから!」
あいつも叫ぶ。腹の、そして心のそこから。
「どうしてよ!何でなのよ!
あんた昔から、そうじゃない!
アタシの大切なものを奪って!壊して!
そのくせ、アタシには何も与えてくれない!優しくしてくれない!
今になって、アタシのところにきて、何がしたいのよ!
あんたは何がしたいのよ!同情?そんな安っぽいものいらない!
アタシはあんたの全てが欲しいのよ!くれないなら、あんたなんか全部要らないわ!」
最後のほうは、涙声になった。
私は今叫んでいる。そして、会話をしている。
「…だから、それじゃあ、駄目なんだよ。
君には僕しかない?違うんだよ、そんなことはないんだ。
僕しか、君を見てないなんて、そんなことはないんだよ。
だから、そんなに怖がる必要はないんだよ…。」
「怖いわよ!一人は嫌なのよ!
だから、欲しい!確たる何かが!
あんただってそうじゃない!
アタシが怖かったから!アタシが欲しかったから、あんなことしたんでしょ!?
あんたなら分かるでしょ!?分からないとは言わせないわ!
あんたがアタシのものになれば、アタシはアタシでいられる!」
私は本心を吐露した。
いや、本心というには語弊があるかもしれない。
今、この瞬間まで知らなかったのだ。知ろうとしなかったのだ。自分の心を。
「そうさ、僕は君が怖かったんだ…。
ううん、今でも君のことが怖くて仕方ないよ。」
「見なさい!だから!」
「待ってよ!お願いだから、僕の話を聞いて。
…君の事は、たしかに、今でも、怖い。でも!」
あいつは淡々と語りだした。
「でも、今はこうも思う。君に、近づきたい。
君ともっと、触れ合いたい。君と、もっと、理解しあいたい。そう…、思うんだ。
だから、…だから、僕はここに来るんだ。
虫のいい話だってことは、分かってる。
君にはたくさん酷いことしたし、僕なんかと話をしてくれないかもしれない。そうも思った。
だけど、それで君から逃げちゃダメなんだって、思うんだ。
僕は君に許してもらうことを、どこかで、期待してる…。それは否定しないよ。
もし君が僕と話もしてくれなかったとしても、もし君が僕を許してくれたとしても、
そういう結果は関係なかったんだ。
ただ、僕は僕という人間を見つめて、君という人間との決着をつけなくちゃならない。
それで、もし僕たちに、…昔のようにしがらみのない感覚が戻れば、
…今度こそ、依存じゃなくて、本当の関係が築けると思ったんだ。
それが、僕の第一歩だと思ったんだ。
…僕が僕でいるための…。
…それに、この気持ちが、」
あいつは丁寧に言葉を綴る。
私を不安にさせないようにそうしたのかもしれない。
今、私を視姦し果てた男が、私の首を絞めたこの男が。
再び、私の心を乱している。だが、不思議と不安はない。
あいつは息を吸い込むと、最後の一言を私に告げた。
「僕からの、君へのまごころだから…。」
私は闇に包まれた。
何も見えず、手を伸ばしても何も掴むことはできない。
ただ、圧倒的な闇。再び私はその場に放り込まれた。
私は考える。私は何がしたかったのか。
私は、赤い世界の王に、もっとも認められる存在になりたかった。
人々を赤く染めたかった。実際、ほとんどの人間を染めることが出来た。
あれは愉快だった。みんなが私に夢中なのだから。
でも、あいつは染まらなかった。
私がどんなに頑張っても染めることが出来なかった。
いつも自分の色で、劇場の外でただ佇んでいた。
私は一度、あいつを無理やり染めようと試みた。
染まった。外側だけは。中は黒いままだった。
赤に染まりきらないあいつを恐怖した。
私を壊すものだと思ったからだ。
…?何故そう思ったのだろう?
そうだ、観客になってくれないからだ。私を見ることを拒否するからだ。
私のものになってくれないものを見せられたからだ。
私はあの時気づかされてしまったのだ。赤く染めたところで、私のものにはならないことに。
劇場の観客は徐々に離れていった。
私はそれを食い止めようと、血のにじむ努力をした。
私が頑張れば頑張れるほど、彼らの望みは高くなり、私は必死になって踊った。
にも関わらず、私に限界が近づくと、彼らはあっさり私から離れていった。
思えば、当たり前だ。私と彼らの関係は観客とエンターティナーそのものなのだから。
見られることは快感だった。
だが、それ以上に何があっただろう。
私を見てくれるのは、私が必死で踊っているときだけだ。
それが過ぎれば、彼らは私の元から去ってしまう。私が次に踊りだすときまで。
たまらなくそれが嫌だった。いつでも私を見て欲しかったのに。
だから、私はどんな時にも踊らなければならなかった。
そう思った。私を一瞬でも見てくれる人のために。
赤い笑顔の下が、たとえ黒だと知っていても。
私はそんなものを求め、靴が壊れるまで、
身体を八つ裂きにされるまでステージ上で踊ったのか。
私の劇場は彼らの生活のアクセントでしかなかったのに。
赤い巨人が身を翻し戦う様すら、彼らにとっては道端の石ころに過ぎなかったのだ。
現に、彼らは劇に熱狂している間は赤く染まるが、帰るころには黒い集団へと戻っていく。
私は、その異様な黒さが恐ろしかった。
その色は他人の顔を見えなくする。
私の色と他人の色とを隔てる壁を作る。
だから私は人を赤く染めることに熱中したのだ。
その壁の存在を消すため。見えないふりをするため。
ありもしなかった幸福に妄執するために。
道化だ。私は道化ではないか。
涙が溢れた。
私という人間は何をしてきたのだろう。
孤独な自分を認めたくなかっただけではないか。
そのために他人を利用し、自分の心まで利用したのか。
私が今利用しているのは、あの医師と看護婦たちだ。
怪我をした自分にかまってくれるのが嬉しかった。そう、嬉しかったのだ。
誰でもよかったのだ。
ああ、なんて私は浅ましいのだろう。
胸が締め付けられる。苦しい。
暗闇はどんどんその濃さを増し、もう自分の身体すら視認出来ないほどだ。
私は、永遠にこの空間を彷徨うのだろうか?
人の温もり、いや、自分の姿すら見えないこの場所で。
恐ろしかった。今までで一番恐ろしかった。
耐え切れず、私は救いを求め、虚空に向かって手を伸ばす。
私に偽りの幸せをくれるものはもうないのに。
私の手はやはり空を切る。
かわりに身体が温もりに包まれた。
この温もりを私は知っている。
いつか、私を助けてくれたあの球体のそれだ。
だが、それは球体ではなかった。
「ごめん。ごめんね。」
いつの間にか、私は抱きしめられていた。
あいつから感じる温もりと鼓動は、私の恐怖を霧散させ、
私に絶大な安心感を与えた。
「やっぱり、まだ言っちゃいけなかったんだ。
辛かっただろ?ごめん、本当にごめんね。」
あいつが喋るたびに吐息が、私の耳にかかる。
それごとに私の身体は快感に痺れる。
よく見ると、私とあいつの身体は針一本通さないほどに密着していた。
鼓動を心臓にじかに感じる。
気持ちいい。ああ、あの時と同じだ。
「いいのよ。あんたは何も悪くないわ。
アタシが馬鹿だっただけなんだから…。」
私は自嘲気味に言う。
「君のせいじゃないよ。
仕方なかったんじゃないか。」
「優しいのね。」
「優しくなんかないよ。」
「優しいわよ。」
「君の事を考えてるようで、僕は本当はちっとも考えてなかったんだ。
自分のことを言うだけで、満足しようとしてたんだ。
やっぱり僕はずるくて…、臆病で…。」
嗚咽を耐えながら、そう言う。
そう思えることは立派な優しさなのに。
それにすら気づかない振りをして、他人の弱さで自分を正当化する人間はいくらでもいる。
あいつの心が私の中に濁流のような勢いとなって、流れ込んでくる。
辛いのだ。こいつも。
そんな苦虫を潰すような顔をしなくてもいい人なのに。
あいつを抱きしめ、私は言う。
私の気持ちがあいつに伝わるように。
私のまごころがあいつのこころに届くように。
「そんなに怖がらなくていいのよ。」
「アスカ、僕は…」
「…シンジ、みんな同じなのよ。」
私たちは生涯最初のキスをした。
私たちがいるのは、穏やかな闇の中。
自分すら見えない暗黒の世界で、私たちは二人きり。
だけど、あいつの顔ははっきりと見える。
観客たちはどんなに目を凝らしても見ることが出来なかったのに。
私はあいつの目を見る。
あいつは私の目を見る。
全身でお互いの存在を感じとり、私たちはただ抱き合う。
共有しているのだ。温もりを。恐怖を。そして本心を。
なんて心地良いのだろう。今まで生きてきて、こんな感覚は知らなかった。
私たちは今ひとつになろうとしている。
自分の存在を目の前の相手に刻み込むように。
私の色と、あいつの色、私たちから生まれたそれは、闇を突き抜け、
螺旋模様となって、私たちを包む。
交わらない二色のコントラストは一見不恰好なように見える。
でも、それは疑いようがないほど見事に調和していた。
その中で私たちは、飾りのない心を相手に見せるのだ。
私はあいつが欲しかった。
あいつは私が欲しかった。
それは今でも変わらない。
私はやっぱりあいつが欲しいし、あいつもやっぱり私が欲しい。
でも、それは前とは違うもの。
一方通行の欲望とは明らかに違うもの。
慈しもうとするこころ。分かり合おうとするこころ。
私が恐れ、恋焦がれたもの。
それは他人という名の希望。
End.
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