僕は結局、どうされたいんだろう。
かまって欲しいのかな?認めて欲しいのかな?
どっちも正しいと思う。そうしてもらえれば、僕はきっと嬉しいだろうから。
でも、それは別に父さんじゃなくてもいいんだ。
現に、トウジやケンスケは僕にそう接してくれるし、僕もそうしてる。
それはとても楽しいことで、今の僕にとっては欠かせないものの一つだと思う。
そう、今更、父さんのことが気になる理由なんて、どこにもないんだ。
なのに、どうして僕はこんなに落ち着かないんだろう?
たしかに、父さんに褒められると嬉しかった。
あの時の気持ちは忘れられない。
ここにいてもいい理由、そんなところまで僕の気持ちを飛躍させてしまったから。
でも、今考えるとそれもよく分からない。
どうしてそこまでのことに思えたのか。
今日、何度目か分からないため息をつき、自室を見渡す。
新築のマンションに見た目にも不似合いと分かるそれ。
思わず笑みが漏れる。
板張りの天井、光沢を失った机、湿気を吸い込んだベッド。
越してきて数年、その間、何も変わらず僕を受け入れ続けてくれたものは、
僕に数時間ぶりの安らぎを与えてくれた。
しばらくそうして部屋を眺めていたら、
玄関の方から、プシュとエアが抜ける音がした。
ドアが開く音だ。
これは第三新東京市にきて、僕が驚いたものの一つ。
エアロックのドアなんて、知識だけで見たことはなかったから。
これはおのぼりさんたる僕だけの秘密だ。
こんなこと言ったら、ミサトさんはきっと僕をからかうだろうし、
アスカなんかは、これ以上ないくらいの邪笑を浮かべて僕を馬鹿にするんだ。
そうに違いない。・・・いや、絶対そうだ。
僕がそんな他愛もないことを考えていると、
わずかに開いた襖の隙間から、聞き慣れた声が漏れた。
『シンちゃんは?』
『部屋よ、部屋。』
ミサトさんのはっきりした声と、アスカの抑揚のない声が聞こえる。
帰ってすぐに僕のことを気にしてくれることが嬉しい。
今日はつまみを奮発してあげよう。
『シンちゃん、やっぱりちょっち元気ないわよね・・・。』
『嫌なら、嫌ってはっきり言えばいいのよ。これだから日本人ってのはねー。』
『嫌ってわけでもないのよ。それが問題なのよね・・・。』
『お墓参りくらい、パパッと行ってくりゃーいいじゃない。
一日中、うじうじ、うじうじ、何やってんだか。』
アスカが呆れ気味に言う。
その言葉には、少しばかりの怒気が含まれてる気がした。
『それが出来ない子なのよ。』
ミサトさんはアスカとは対照的に、諭すようにささやく。
こんなときの彼女の声は本当に綺麗だと思う。
いつもの明るい声とは違って、とても穏やかな声。
『知ってるわ。だから馬鹿なのよ…。』
アスカのその言葉はエアコンの音に消え入ってしまった。
それを最後に彼女たちは押し黙る。
ミサトさんとアスカは明日のことを言ってるんだろう。
本人に聞こえるくらいのボリュームで喋るのはどうかと思うけど、
僕が今、「考える人」となってる原因はたしかにそれだ。
明日は母さんの命日だ。
そして、僕が父さんと私的な会話を交わせる唯一の日。
ありがたいことに、彼女たちは僕を心配してくれてるんだ。
「シンちゃ〜ん、ただいま〜。」>
呼び声ととも、部屋に近寄ってきたラベンダーの香りに誘われて、
僕はリビングへ向かった。
Family complex
- 前編 -
written by rego |
女二人寄ればかしましいって言葉があるけど、僕はそれをしみじみ感じる。
さっきまで心痛な感じで僕を心配する素振りを見せていた二人は、
今ではそれを忘れたかのごとくファッション談義に花を咲かせている。
今日は香水の話をしてるらしい。
アスカの方は、うつ伏せの態勢で頬杖をついて、
すらりとした足を所在無さげにぶらぶら揺らしながら。
ミサトさんは左手に持ったビールを喉に勢いよく流し込み、
時々、僕が作ったタコ酢を箸でつまみながら。
二人はTシャツにホットパンツといった、いつもの格好だ。
見た目にも派手と分かるそれは、健全な青少年たる僕の官能を刺激して止まない。
…女性は身体を見せたがらない生き物じゃなかったんだろうか?
もし、僕が欲情して暴走したら、どうするつもりなんだろう?
…いや、今のは愚問だった。
どうするも何も、どっちを襲ったって僕が返り討ちに遭うに決まってる。
蓑巻きにされて、ベランダにつるされるのがオチだ。
思わず、ため息が出る。
僕はその原因となる人たちを恨めしそうに見つめてやった。
アスカはそんな僕の視線に気づいたみたいで、
剣呑な表情をこちらに向けながら、「何よ?」と問う。
『親の心、子知らず』、いや、『男の心、女知らず』だ。
君たちに少しくらい、男心をわかってもらったってバチは当たらないと思う。
造語とも呼べない奇妙なそれに満足し、僕はアスカに答えを返す。
「いや、僕、お風呂入りたいんだけど、先に入りたいなーって。」
我ながらベターな言い訳だと思う。
この人外魔境で2年間培った僕の危機回避能力は、伊達じゃない。
こういう場合のコツは下手に出すぎず、笑顔でお願いすることだ。
そうじゃないと、彼女が怒るから。まったくもって気難しい人だ。
「そんなのいちいち断んなくても良いわよ。
あ、でも入る前にちゃんと身体洗いなさいよ。
男は体質的に汚れやすいんだから。湯船の毛も出る前にちゃんとすくうのよ。
後にレディが入るんだからね。」
「分かってるよ。」
レディは男の前じゃそんな格好しないし、
そんなことも言わないよ、という言葉をあわてて飲み込み、
僕は努めて冷静に言う。
そんな返事に満足したのか、アスカは<大雑把>な笑みをこぼし、
ミサトさんとの会話に戻っていった。
二人でジバンシーがどうのこうのと議論している。
ジバンシーっていうのは香水のメーカーらしい。
毎日、こんなことばかり喋ってて、正直、よく飽きないもんだと思う。
僕も服装にはそれなりに気を使うけど、さすがに香水までは手が回らない。
ついこの間まで、ジバンシーどころか、アランドロンすら知らなかった僕には、
到底、理解出来ない世界だ。
この前の誕生日に、アスカに「サムライ」って香水をもらったけど、
その日に一度つけて以来、僕はそれを使ってない。
平日は学校があるから、僕もアスカも香水をつける機会なんてあまりないし、
大体、僕に「サムライ」なんて名前の香水を送りつけること自体、
彼女流のジョーク、あるいは皮肉なんだ。
アスカもそれは、やっぱり意図したところだったみたいで、
一度、僕に難癖をつけたけど、それ以上は何も言わない。
ただ、不満そうではあるけれど。
「シンジ!アタシの洗濯物、まだ洗濯機に入れっぱなしだから!
変な気起こして、盗るんじゃないわよ!」
「わ、分かってるよそんなこと!」
アスカが、突然、とんでもないことを言い出したので、
思わずムキになって言い返してしまった。
後ろを振り返ると、ミサトさんまで一緒になって笑っている。
また、からかわれてしまった…。
逃げるように洗面所に駆け込む。
僕は乱暴に服を脱ぎ、洗濯機にそれを突っ込むべく蓋を開ける。
断じて、中に入っていたものを見たかったからじゃない。
からかわれたことで、腹を立てていた僕が、
目の前の洗濯籠に気づかなかったのは仕方のないことだと思う。
開かれた蓋の内部に僕は吸い寄せられるように、目をやる。
白いものが一枚。
『アンタ、バカァ!?』と特徴のある字で書かれたそれは、ノートの切り抜き。
僕は思いきりずっこけてしまった。
これに引っかかったのは何度目だろう。
彼女らしく、手の込んだどうしようもない冗談だ。
未だに慣れない僕も僕だけど。
実際問題、美女2人に挟まれて暮らす生活は、いろんな意味で大変だ。
下着を干しっぱなしにすることなんてしょっちゅうだし、
さっきみたいなきわどいな格好で、家中うろついてるんだから。
でも、あれでまだ、ましな方だっていうんだから、僕の気苦労は一向に絶えない。
お風呂上りにバスタオル一枚という扇情的な格好でいられる方の身にもなってほしい。
ここじゃ、僕の男としての本能なんてものは、完全にないがしろにされてるんだ。
彼女たちの体臭と香水が入り混じって、家の中はピンクの匂いで充満してる。
僕としては本当に困るところだよ。
その上、美少女の方はロデオ騎手すら簡単に振り落とすじゃじゃ馬だし、
美女の方は美女の方で、気立ては良いけど、まったく家事をしない困ったさんだから。
…いや、しないじゃなくて、出来ないのかも…。
夕方のニュースで「片付けられない女たち!」って特集をよく見かけるけど、
あの人の場合はどうなんだろう…?
…いや、考えるのはよそう…。
彼女の家長としての名誉のために。
いや。やっぱり待った。
名誉で飯は食えるかもしれないけど、
それで家が綺麗になると思ったら、とんだ大間違いだ。
ミサトさんの行動を一週間放っておいたら、家中が間違いなく不快な腐海になる。
こんなことだから、加持さんの舵もろくに取れないんだと思う。
・・・今、2回くらいうまいこと言ったかも・・・。
これは後で使ってみよう。
ふいに手元に見えた紙の「アンタ、バカァ!?」と書かれた言葉が頭に半濁したけど、
あえてそれをゴミ箱に突っ込み、僕はふらふらとバスルームに入った。
常夏の日本に風呂は欠かせない。
汗ばみ、汚れた身体をシャワーがたたく感覚は万国共通のもの。
でも、浴槽に毎日のように浸かる習慣を持つのは、どこを探しても日本だけだ。
垢すりタオルとボディーシャンプーのおかげで、必要以上にひりつく肌を我慢しながら、
湯船に全身を沈める。
…ああ、最高。
何て気持ち良いんだ。
この時をかみしめながら、僕は日本人に生まれたことを心底感謝する。
全日本国民がきっとそう感じるに違いない。
僕らが国という大きなコミュニティで共有する感情。
日本人だけは風呂さえあれば、一つになれるような気がする。
LCLなんかにならなくても。
みんなで箱根湯本あたりの湯に溶ければ、楽しいんじゃないかな?
こんなこと言ったら、アスカは怒るだろうけど。
『温泉の素でも買ってくればいいじゃない!』ってね。
僕はククっと笑って、今度こそ湯船に身を任せた。
三畳ほどもある広い浴室に、湯気が立ち昇る。
それは音もなく生まれ、そのまま一定の高さまで上昇すると、
抵抗することもなく、スッと換気扇に消えていく。
僕は換気扇を止めた。
行き場を失った白い湯気は、バスルームをあっという間に包み込む。
煙っていうのは、すこぶる不思議なものだと思う。
ある物質が特定の条件下で化学反応を起こすとき、必ず発生するそれ。
今みたいに水が蒸発するとき、リツコさんがタバコを吸うとき、
そして、生き物が燃えるとき。
生き物が燃えるときは、差異はあるけど、みんな匂いがする。
その匂いっていうのは、生き物の最後のきらめきなんだと思う。
風に乗る煙は、僕たちにその匂いを共有させる。
嗅覚的に、視覚的に、あるいは観念的に。
煙はゆったりと移動する。
匂いを他に染込ませるように。自分の匂いを他人に刻み込むように。
きっと、覚えておいて欲しいんだ。
そうすれば、寂しくないだろうから。
焼ける匂いが物にこびりつくのは、そういうことなんじゃないかと思う。
だから人は香水なんかつけるのかな。
アスカも、ミサトさんも寂しがり屋だから。
生きてるときから、自分の匂いを忘れないで欲しいんだ。
他人の中にいる自分、それを強いものにしたくて。
死の恐怖。
それが根源にあるものだと思う。
何も見えない、何も感じられなくなることが怖いんだ。
絶対的な無。
結局、それは孤独ってことなんだと思う。
みんな、このことには気づいてない。
気づかないふりをしてるだけなのかもしれないけど。
それはとても辛いことだから。認めたくないことだから。
でも、それは仕方ないんだ。
孤独で自分を壊さないために。
だけど、彼女たちは自分を見つめているから。
だから、怖がる。
だから、匂いにこだわるのかもしれない。
でも、それすら許されなかったら?
母さんはそうだった。
母さんは寂しくなかったのかな?
他人に母さんを刻み込む間さえ与えられないことを。
母さんは嫌じゃなかったのかな?
他人が母さんを省みる間さえ与えなかったことを。
きちんとしたお別れが出来なかったことを。
僕はそんなの嫌だ。
自分がそうなるのも、そうされるのも。
…父さんは。
父さんはどうなんだろう?
ミサトさんの悲鳴で、のぼせていた自分に気がついたのは、
それからきっちり10分後のことだった。
To be continued.
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