リンカ 2005.6.19(発表) |
今、キッチンでおふくろと姉貴が何やら御馳走を作ってる最中だ。
親父の為の御馳走を。
それをリビングのソファーに座った―正確には座らされてそこを動くなと言い渡されていた―親父が
そわそわと落ち着かなげに首を巡らせて覗き見ようとしている。
年中行事だろうがよ、親父。
今更照れ臭そうな顔をしてるんじゃねえよ、いい年してみっともないな。
リビングの壁に嵌め込まれているでかくて平べったい液晶画面から
馬鹿馬鹿しくて何の役にも立ちやしない騒音が垂れ流しになっている。
いつの間にやらニュースは終わってバラエティ番組が始まっていたようだ。
こういう騒がしいのは好みじゃない。
俺は僅かに鼻を鳴らして―おふくろは俺のこの仕草を目にすると必ず不快そうな顔をする―テレビの
リモコンを手に取って、かちゃかちゃとチャンネルを変え始めた。
今日のこの時間は何か面白そうな番組はなかっただろうか。
何十とあるチャンネルを次々に変えながら、ちかちかと目が眩むようなまぶしい色彩と
寸切りにされて送られていく間抜けな音声に身を浸していく。
しかしそうしていると、横からひょいと手の中のリモコンを奪われた。
俺がその不届き者に文句を言おうと横を見ると、
まだ10歳にもならない妹がはっきりとした目的をもってリモコンのボタンを操作した。
途端この部屋を満たすファンシーノイズ。
テレビ画面では顔のほとんどが目玉になっているヒラヒラきらきらマジカル少女が、恋をしていた。
何で髪の毛がピンク色なのか、誰か俺に教えてくれよ。
妹を見れば既にテレビの中のお伽世界に夢中になっていて、
隣に座っているこの兄からチャンネル権を奪ったことなど1ミリグラムも気にしていないのは明々白々。
だがここで喧嘩をする―勿論俺から仕掛けはしないが、俺がリモコンを奪い返せば
こいつがわめいて抵抗するのは目に見えている―のは大人げない。
というより、そんなことをすればキッチンから飛んできたおふくろと姉貴によって
理不尽極まりない制裁を受けた上で、夕食前に騒ぎを起こした罰として
今日この日の御馳走がカップラーメンになる可能性がナキニシモアラズだ。
育ち盛りにそんな事態は拷問に等しい。14歳健全男子の食欲は結構切実だ。
だから俺はやんわりと訊ねることにした。
お前はキッチンでおふくろ達の手伝いをしていたんじゃなかったのか、と。
返ってきた答えは単純至極。もう手伝った、だと。
余計な声を掛けてくるなと言わんばかりのぞんざいな妹の横顔。振り向きもしやがらない。
何て生意気なんだ、可愛い我が妹。感動のあまり頭の血管が切れそうになった。
親父は相変わらず落ち着かない様子で新聞を見たりキッチンを振り返ったり、時計を見たり。
そこでふと気が付いて俺も時計を見てみた。
いつもならとうに夕食を食べている時間だ。いくら手間暇掛けてるったって遅過ぎる。
テレビも妹に取られたしはっきり言ってここではすることがない。
ぎゅるる、と唸った腹の音に物悲しいひもじさを覚えて俺は溜息を吐いた。
部屋に戻ろう。
親父に一声掛けてリビングを去ることにした。
見送りは鼻と眉間の間から抜け出たような鳥肌を催す奇天烈な女の声だ。
妹よ。お兄ちゃんにはお前の少女趣味が理解出来ない。それとテレビの音、でか過ぎだぞ。
部屋へ戻ってホッと一息。
が、またしても腹が鳴った。俺を飢え死にさせる気なのかよ、おふくろさん。と、姉貴。
ささやかな静けさを取り戻しても腹は満たされないんだな。空腹ってミジメだ。
6月は、我が家にとって12月と並んでイベントシーズンだ。
まず親父の誕生日が6月の始めにある。加えて姉貴の誕生日も6月の終わりだ。
そして、今日。つまりこの月の第3日曜日はいわゆる父の日だ。
我が家ではイベントにはディナーと相場が決まっているので、
この父の日にも親父の誕生日を祝った余韻を引き摺りながらも
再び親父の為という名目で豪華な食事―親父は調理には手出し禁止―がテーブルに並ぶ。
ついでに言えば前の月の第2日曜日が母の日で当然これもお祝い事とされ、
さらに7月の後半に俺の誕生日があるから、
呆れたことにこの短期間で5回も贈り物付きの大袈裟な食事をしなくてはならず、
結果として毎年この時期は我が家の構成員はにわかに清貧を重んじるようになる。
飽きるからだ。贈り物もいらない。食事も軽いやつで十分。
こうなるわけだ。
ああ、忘れていた。
6月にはもうひとつ。親父とおふくろの結婚記念日があった。
これは決まって夫婦ふたりでディナーに出掛けるので、
俺達子どもは両親へのプレゼントの出費があるだけで旨いものは食えない。
しかし毎年毎年よくも飽きず嬉しげに出掛けるもんだ。
息子としてはあまり触れたくないが、ディナーだけにしちゃ遅過ぎる時間に帰ってくる年も
今までに何度もあった。というかその日の内に帰って来ないことも結構あった。
勿論俺達が小さい頃にはベビーシッターを誰か知り合いに―大概は俺達の婆ちゃんだった―頼んでから
出掛けていた訳だが、両親が食事だけで帰って来ないのが、昔の俺には何でだか分からなかった。
そして今は当然分かる。
まあ、親だから別にいいけど。何つうか頭の中でそういうことと親とが具体的に結びつかないんだよな。
だから理解した後でも何も変わらなかった。
でもよ、親父。わざわざヘラの月に結婚するまでもなかったと思うぜ。
何故っておふくろはヘラみたいっていうか、多分ヘラよりうわてだ。ヘラRだ。
ああ、それにしても腹が減った。
俺は本棚から読みかけだった文庫を抜き取り、机の上に置いてあったコンポのリモコンも手に取って
ベッドへと身を投げ出した。
音楽をつけてうつ伏せになり、枕の上に顎を乗せて本を顔の前に広げた。
そして2行読んでそれを閉じた。
ついでに目も閉じて、スピーカーから流れる歌にただ耳を傾けた。
ナイーブで孤独で、どこか冷めたような男の声音。
英語の歌だが、おふくろが国産の人間でない関係上、
カバーオール着てベビーベッドの上で足指を口に咥えようと奮闘していた頃から
日本語、ドイツ語、英語の3ヶ国語で育てられていた俺にはその歌詞が自然に理解できる。
おかげでドイツの爺ちゃんと婆ちゃんとも会話が通じるが、もっとずっとガキの頃は3つの言語を
ごちゃまぜにして喋っていたらしく、何を言っているのか両親以外にはチンプンカンプンだったそうだ。
で、今俺が聴いてる歌の歌詞の内容はというと、愛の意味に戸惑う思春期の少年の歌だ。
要約すれば、「愛なんて分かんないよ。女なんて、僕、分かんないね」と歌っている。
フザけたヤローだ。でも、分かるんだよな、チクショー。
女なんてな、ちっとも理解出来ねえよ。あんな不可解で厄介な生きモンが何でいるんだ。
スキだけど。
そこが男の馬鹿なところだよなあ、ホントに。
だって気になるんだ、どうしても。
気が付けば先ほどの曲が終わって次の曲が流れ始めていた。
例によって男女の愛を歌ったものだが、何故に人はこうも恋愛を題材にしたがるのか。
たかが3、4分に全てを詰め込む歌い手は何を思っているんだろうか。
顔を横に向けて息を吐いた。
俺の初恋は叔母が相手だった。
ただし叔母といっても俺と年は六つしか違わないので、別段対象としてはおかしいことはないだろう。
今年ハタチになった叔母―俺は昔から姉ちゃんと呼んでいるが、彼女は親父の腹違いの妹だ。
親父の本当の母親はずっと昔に死んだらしく、その後で婆ちゃん―つまりその叔母の母親で、
親父にとっては義理の母親になる―が爺ちゃんと結婚したんだそうだ。
爺ちゃんと婆ちゃんは年が結構離れていて、当時まだ若い女だったであろう婆ちゃんが
一体こんな厳つくて無愛想な中年男のどこに惹かれたのかと
以前にアルバムを捲りながら訊いたことがあるが、ただ笑うだけで何だかはぐらかされてしまった。
今50過ぎの婆ちゃんだが、まだまだその顔には往年の美貌を留めていて、
あの無愛想で不器用な爺ちゃんも日々内心惚れ直しているのではと思わされる。
結局ふたりの馴れ初めについてはよく分からないのだが、
いつも仲がいい爺ちゃん達は、正直羨ましい。
はたから見てベタベタしているようには見えないけど、ただ静かに満ち足りている空気に包まれていて、
こんなジジイになりたいと実は密かに俺は思っている。
それで、叔母―姉ちゃんのことはというと、俺ははっきり言って姉ちゃんが世界で一番綺麗だと
小さい頃からずっと思ってきた。まあ、少なくとも姉ちゃんが今の俺の年齢くらいの頃からだ。
姉ちゃんは背が高い。爺ちゃんの遺伝かも知れないが、大抵の女の人よりも背が高く、
男と並んでも遜色ない。一筋、芯が通ったように立つ姿は見惚れるほどだ。
表情はいつもきりっと引き締まっていて、長い髪は漆黒に輝いている。
その立ち姿、表情と流れる黒髪が、姉ちゃんの凛とした静謐さを際立たせていた。
俺はそこに大和の女を見る。
それも繊細で優美なだけのたおやめなんかじゃない。
いざとなれば薙刀を振りかざし馬を駆り弓を射るような、そんな激しさを持っている。
笑うとまた華があった。
姉ちゃんも家族の前でまでいつもいつも厳めしい顔をしている訳じゃない。
ずっと幼い頃には優しく顔を撫でてくれたり抱き締めてくれた覚えもある。
俺は姉ちゃんの凛々しい顔も柔らかく笑った顔も、心底好きだった。
けれど、この想いが叶う訳もないことは分かりきっている。何といっても叔母なのだ。
それでも想うことを止められないのがどうしようもなく胸を焦がした。
初恋は叶わないと言うが、初めから叶わないことが明白な相手を初恋の人に選ぶ所が
何とも不器用だった。
この不器用さは果たして親父に似たのか、おふくろに似たのか。
親父とおふくろといえば、ふたりが出会ったのは今の俺の年齢の頃だったらしい。
雰囲気たっぷりの船の上で出会ったとおふくろが言っていたが、本当かどうか怪しいものだ。
お互いへの第一印象はと訊ねると、俺の知っているおしどり夫婦からは意外な答えが返ってきた。
おふくろは親父のことを何だか気弱そうで女の子みたいな少年だと思ったらしい。
頼りなさそうだし、背も自分と変わらないし、と。今の親父とは大違いだが、
だからといって親父が変わったから惚れたというのではないというから訳が分からない。
一方の親父はというと、おふくろを見て綺麗だけど何て高慢で我侭そうな女の子だろうと思ったそうだ。
そして、出来ればその気の強そうな少女とあまり関わり合いになりたくないとまで思ったというから、
そこからどうやっておふくろに惹かれたのか不可解極まりない。
俺はてっきりお互いに一目惚れでもしてすぐにベタベタとくっついちまったのかと思い込んでいたが、
どうもそうではないようなのだ。
親父達の話した相手の印象は確かに納得できる部分もあるが、
まさかこの万年新婚夫婦の初対面の印象が決していいものではなかったとは思いも寄らなかったし、
それを何の躊躇いもなく白状して笑ってのける親父達のことがよく分からなかった。
このふたりは見た目よりもずっと複雑な関係なのかも知れないと俺は子供心に少しショックを受けたが、
姉貴に言わせるとそれを聞いた時の俺は何にも分かっちゃいないガキだったんだそうだ。
正直女みたいに恋愛の機微がどうこうと興味があるわけじゃなく、好きなら好き、嫌いなら嫌いで、
俺にとってはそれ以上でも以下でもないし、ごちゃごちゃとややこしいことは御免だ。
一体、鼻にも掛けようとしていなかった男―実は意に反してすぐに気に掛けるようになったとは
言っていたが、それでも恋だとはしばらく思っていなかったんだそうだ―におふくろがどうして惚れたのか、
苦手意識が先立つような我侭女―多分おふくろは親父に対して本当に我侭だったんだろうと思う。
今でこそおふくろもいっぱしの落ち着いた大人だが、時折親父にとんでもない駄々を捏ねる―と
何を血迷って親父は一生を共にしようと思い決めたのか。
俺にはまったく検討もつかない。
というより、俺の知る両親の姿からはそんな過去など窺い知ることは出来ない。
昔の話も皆してくれないし。昔というのは、親父達が出会った14、5歳の頃のことだが。
やっぱりすぐにくっついちまってそのままわき目も振らずに突っ走ったんじゃねえのか?
だって姉貴が産まれたのは親父が20歳、おふくろが19歳の頃だ。常識から言って、少々早い。
おふくろはもう働いていたらしいけど、親父はまだ大学生だったはずだ。
爺ちゃん達もいるし、金銭や子育ての環境に特別不都合がなかったことは確かだろうけど。
今の親父達は30半ばだけど、息子の俺の目から見てもふたりは初々しさを失っていない。
その癖、お互いのことを腹の底から信じ切っているという感じの、揺るぎない落ち着きがある。
ほとんど老成していると言ってもいい。
確かに我が親ながらよく分からん人達だし、ただの色ボケ夫婦に見えないこともないんだが、
きっとガキの俺なんかには及びもつかないくらいスゴイ人達なのかも知れない。
ゆるゆると飢餓感を覚えながらも、梅雨の合間の五月晴れで日光を一杯に浴びた
いい匂いのするふかふかした枕の感触を頬に楽しみながら、俺はつらつらと物思いに耽っていた。
親父はネルフとかいう組織の長官をやっている。
そう言うと大層な御身分のようだが、実際は爺ちゃんの後釜として担ぎ上げられたのではと
俺は睨んでいる。俺の知る限りの上層部の面々の中で、親父は特に若いからだ。
言わば若社長とかそんな呼び名で通るような状況に似ている。
まあ、とはいえ俺もネルフのことは科学技術関連の国連機関だということしか知らないのだが。
だから実際のところは親父はその白眉を買われて長に就いたのかも知れない。
あれで結構切れる人物らしいという世間の評価、というか、親父の部下で、元々昔からの
知り合いらしい、件の上層部の面々―俺にとっては気のいいおじさん達おばさん達だ―が
言っていたのを聞いたことがある。
確かにな、親父は息子の目から見ても結構頼れる父親っつうか、何でも出来るんだよな。
父さんに任せとけ、って感じで。
人が相手だろうが物が相手だろうが、はたまた学問だろうが、何でも魔法みたいに片付けちまう。
少なくとも、子どもの目からはそう見えるんだ。いや、見えていた、と言うべきか。
それに加えて、やっぱり親父は恐い。
普段よく子どもを叱るのはおふくろの方で、親父なんかは穏やかで優しいんだが、
そういう親父がいざ怒りを見せると、これは効く。ガツンと来るんだ。
親父の想いみたいなものが、ずしりと肩に載せられたような気分になる。
別に声を荒げるわけじゃない。暴力を振るうわけでもない。ただ、静かに叱るだけだ。
でも親父の怒りは見たくないと、心底思う。
そういうところが父親の威厳ってヤツなのかな。
けど、俺は小学校の運動会の、保護者参加の徒競走でこけた親父の姿も憶えてるぜ。
恥ずかしかったけどさ、今にして思えば何でも出来る凄い親父もやっぱりただの人間なんだなって
そう気付くことが出来るよ。
そういうの、大事だと思うんだ。親の欠点が見えてくるってのはさ。
転んだのが欠点だとは言わないが、
要するに俺も親父とおふくろに守られるだけのガキじゃなくなってきたってことだよな。
親を親としてだけでなくて人間として見ることが出来るようになるってのは。
姉貴などは俺よりもずっとその辺のことが分かっているんだろう。
そういえばネルフのことも姉貴は俺よりも詳しく知っているらしい。
そもそも俺達は長官の家族とはいえ、当然ネルフへの立ち入りは許されていないし、
割に特殊な機関らしいのでその内実も世間にはなかなか聞こえて来ない。
だから姉貴がそれを知っているのは、恐らく親父達から話を聞いたのだろう。
親父は家ではあまり仕事の話をしない。少なくとも子どもの前では。
それなのに何故姉貴にはそんな話をしたのか気にはなるが、
ひょっとすると将来のことを考えて、ということかも知れない。
親父も婆ちゃんもネルフの人間で、爺ちゃんも親父の前任の長官だし、
その上おふくろも俺達が産まれるまでは婆ちゃんの下で研究員をやっていたらしいから。
他の上層部の人達とも家族ぐるみで親しいし、だから姉貴も将来その一員になることを見越して
そういう話をしたのかな。
あれ?でも姉貴は天文学関係やりたいって言っていたような気が。
よく分からないな。
でもある時期から姉貴の親父達に対する態度が少し変わったのは事実だ。
くそ、やっぱり気になるな。
俺に教えてくれないのは、粋がってもまだまだガキだからなのか。2歳しか違わないのにな。
太陽がさんさんと照りつけている。抜けるように青い空、ぽっかりと浮かぶ白い雲。
打ち寄せては引いていく優しい波の音が耳に心地いい。
懐に雄大な秘密を抱え込んだ海へと俺は足を踏み入れていく。
腰まで海に浸かったところで白く眩しい砂浜を振り返った。
黒髪をなびかせた少女がこちらを見ている。
水着に覆われた成熟し切っていない肢体が小鹿のようにしなやかに躍り、こちらへと駆けてくる。
明け透けな笑い声を上げて、俺は砂を踏みしめていた足を蹴り、海原へ滑り出した。
広い広い海と空の間にたったふたり、俺達は戯れる。
不意に俺の傍に近づいてきた少女が頬を寄せ、そして悪戯っぽい笑みを浮かべて
一瞬だけ俺の瞳の奥を見た後、身を翻し、くすくすと笑いながら水を掻いて俺から離れていった。
逃げる少女の後姿に俺は愉快な気持ちになって、彼女の後を追おうとする。
だが少女の姿はいつの間にか消え、広漠たる波の間にただひとり、俺はいた。
それでも俺を包む愉快な気持ちは消えず、果てのない空に向かって笑い声を放り投げた俺は
満足し切って仰向けにぷかりと浮かんだ。
天空で火球がじわじわと白熱していた。
穏やかな波間を悠々と漂っていた俺は、突如として大振りなうねりを感じて体勢を崩した。
何事かと見上げた目の前に青い壁が圧倒するように迫ってきた。
あっと思った瞬間には家ほどの高さがある巨大な波に襲われていた。
抵抗しようともがくが、しかしただひとりの人間の力などたかが知れている。
為す術もなく飲みこまれた俺は深い深い青の深層へと沈み込んで・・・・・・。
いかなかった。
何故なら俺の体はしっかりとベッドの上に繋ぎ止められていたし、
そもそもあの深い海も遠い空も全ては夢の世界だったからだ。
どうやら夕食を待っている間に眠り込んでしまったようだ。
どれくらい時間が経ったのか、時計を確認しようと顔をずらしながら目蓋を持ち上げると、
時計の代わりに、俺が夢で大波に飲み込まれた元凶を発見した。
妹が俺の顔を覗き込んでいる。
その距離僅かに2センチメートル。
ベッドの隅、俺の体の脇にこいつは入り込んでいた。
体の小さい妹はその分、身振りが大仰だ。
俺のベッドの上を何の頓着もなく、むしろ嬉々として揺るがしながら跳ねまわったに違いない。
うつ伏せになっていた体を横にして、俺は隣で寝転んでいる妹の方を向いた。
そして、眠りを邪魔された者特有の目付きの悪さで、精々恐い声を出しながらこいつに訊ねた。
勿論今の時間と、豪勢な夕飯は出来上がったのかを。
返ってきた答えは餓えた俺を少しは満足させた。
幸い寝入ってから10分と経っていなかった。そして料理ももうじき出来上がるようだ。
「起きてよ」と妹が精一杯しかつめらしく顔を顰めさせながら俺の体を押したり引いたりしている。
だがしかしだ、妹よ。自分も寝転んだままで俺の体を起こすなんて出来やしないぞ。
幾ら押しても自分に比べれば大き過ぎる俺の図体はびくともしないと悟ったのか、
こいつは今度は引っ張る方に精力を傾け始めた。
上半身を起こして、「うーん、うーん」と唸りながら俺の腕を抱え込んで引っ張っている。
だがそれでも俺はびくともしない。
少し悪戯心を出して、体を妹の方に向けて急に倒してみた。
抵抗を失った妹はころりと引っ繰り返り、俺はそのままこいつの上にのしかかった。
「ぎゃー」と悲鳴を上げる妹。怪獣みたいだな、おい。
俺の下でじたばたもがく妹に無意味に勝ち誇って、「ふっふっふ、どうだ、動かしてみろ」
しばらく俺の体を押し上げようとしたり、何とか這い出ようとしたりと
わたわたともがいていた妹は、「重い!お兄ちゃんのデブ!」とくぐもった叫びを上げた。
デブとは失礼な。俺は痩せ型だぞ。
妹を下に敷いて、「ふいー」と太平楽な長い息を吐く俺。
だが次の瞬間、僅かだが刺すような痛みに縮み上がった。
噛んだな、こいつ!?
どうやら何としても退いてくれない兄に業を煮やして、俺の胸の辺りに歯を立てたらしい。
ところが急な痛みに強張った俺の体は余計にこいつに体重を掛けてしまった。
いよいよ押し潰されたような変な声を出した妹に、遊び過ぎたかなと反省しかけたところ、
その殊勝な反省の心掛けは、とんでもない妹の反撃によって千里の彼方に吹き飛んだ。
脇腹を絶妙なタッチで繊細な指先が撫でていく。その技巧に堪らず俺は息を荒げて身を捩った。
というかくすぐったい!
「うわっぎゃはははっはっ!ばっ、やめっ、いっ、やめっ!」と、我ながら何を言っているのか
よく分からないが、とにかく必死の叫びとも喘ぎともつかぬ声を張り上げた。
これ以上は辛抱ならんと慌てて妹の上から逃れてベッドを転がった俺だが、
テキもさるもの、追撃にはぬかりはない。
「こちょこちょこちょこちょっ!」と妙に口をすぼめて甲高い声で繰り返す妹。小鳥みたいだ。
その楽しくて堪らないといった風に輝きを放っている愛妹の憎たらしい顔を見て、俺も覚悟を決めた。
食うか食われるか。弱肉強食は非情の掟にドゥ・オア・ダイ。
意味不明の念仏を頭の中で振り回して、鼻息荒く―実際、息が切れていた―俺はがばりと
小さなテキに襲いかかった。お前なんか俺に掛かればイチコロだぞ!
「このこのこのっ」「きゃーっ、きゃーっ!」「うっひゃひゃっ、ひうっ!馬鹿お前抓っただろ!?」
「抓ってなんかないもーん!」「どうだどうだコウサンしろーっ!」「いやーんっ、きゃははははっ!」
こんな調子で死闘激闘3日間、と言いたいところだが、実際は3分にもならなかっただろう。
妹はベッドの上で仰向けに引っ繰り返ってゼイゼイと酷使した横隔膜を宥めていた。
そしてその横で俺は脇腹を押さえて、「ゲホッゲホッ!」と馬鹿みたいに咳き込みながら
調子に乗ったことを後悔していた。強くなったな、妹よ。次からは手加減してくれ。もう年なんだ、俺。
しばらく脇腹を撫でているとようやく呼吸が落ち着いてきた。
そのまま俺が相変わらずふかふかのベッド―少し埃っぽくなった気がするが―の上に
ぼさりと身を投げ出すと、先に寝転んでいた妹が「寝ちゃ駄目よう」と足で軽く蹴飛ばしてきた。
お前だって寝てるじゃないか。
そういうの矛盾って言うんだぞ。
何でも貫く矛と何も通さない盾がな、と俺が故事の知識を披露しようとすると、
妹は跳ねるようにぴょこりと起き上がってベッドの下に飛び降りた。
そして腰に手を当てて俺を見下ろし、「お兄ちゃん、起きなさい」
そうしていると、お前はおふくろによく似ているな。
でも実際は顔立ちは親父の方により似ている。こいつは兄弟の中で一番親父に似ていて、
一番東洋的な容貌をしている。まあ、俺も姉貴も似たり寄ったりかも知れないが。
おふくろには悪いが、実は俺は東洋的な顔立ちの方が好きなんだ。こいつはきっと美人になる。
顎を少し反らして澄ましている小さな妹の姿にふと微笑が漏れた。
今日は親父に何をプレゼントするんだと訊ねると、腰揉み券、との返答。
安上がりだな。でもそれってこの前の誕生日にも似たようなことやらなかったか?
肩叩き券に頬へキスのおまけつきで。
今度は苦笑。
だが金もないし、案外こういうものが嬉しいのだろう。気持ちの問題ってヤツだ。
「お兄ちゃんは何あげるの」と訊いてきた妹に、「花」と一言答えて俺は部屋の隅の一画を指差した。
花屋での買物は少し恥ずかしかった。
それに花に覆い尽くされた店内は凄い匂いが充満していて、
いい匂いなどというものではない、ほとんど息が詰まって窒息しかけた。
そんな苦労をして買ってきたのが、俺の指差した先にある、
白バラをメインにしたプリザーブドフラワーだ。
親父が花に興味があるとは思っちゃいないが、メッセージカードが中に添えられている。
要はそちらのカードが親父宛で、花の方はおふくろが好きな場所に飾るだろう。
これも気持ちを贈るってヤツだ。照れ臭いけどな。
教えるなりさっそく花に飛びついてしげしげ観察している妹。
俺はベッドから降りて、妹の後ろに立ち、感心したように溜息をついている
こいつの小さな尻をぺしんと叩いた。
飛び上がって尻を押さえながら、「何するのっ」と息巻いた妹を部屋から追いたてる。
「えっち」とか「ばか」とか喚いているが、構わず俺は背を押して部屋から追い出し、
掛けっぱなしになっていた音楽を切ってから、自分も妹についていって、
出入り口のところにある照明のスイッチに手を伸ばした。
大体エッチも何もあるもんか。こないだまで風呂上りにすっぽんぽんでぺたぺた歩き回っていた癖に。
一丁前に色気づき始めたのかな。
ふと先ほど見た短い夢を思い出した。
あの少女は俺の好きな姉ちゃんではなかった。勿論、妹でもないし姉貴でもない。
そういえばあいつに似ていた気がする。いつも学校で俺に突っかかってくる生意気なあいつ。
はっきり言って俺は苦手だ。
ガミガミと煩いし、やたらと喧嘩腰だし。
あいつのことが好きだっていう男も知っているけど、どこがいいのか正直首を捻らざるを得ない。
どうしてそんな奴が俺の夢に出てくるんだ。勝手に他人の夢に入ってくるなよ。
理不尽だと自分でも分かっている憤りを感じながら、改めて夢の中のあいつの姿を思い出してみた。
結んであるのを解けば腰まで届きそうな長く艶やかな黒髪。
こじんまりとした顔。意思の強さを示すくっきりとした眉に悪戯っぽい光をたたえた瞳。
小さくてすっきりした鼻に少しぽってりとした唇。
感情を隠さない表情。媚びのない笑い声。
新雪のように白い肌―けれど怒ると鮮やかに朱を注す。
しなやかに伸びる手足。細い指先。少しひんやりとした、時々俺を抓る指先。
ほっそりとした少年のような身体に、ほとんど衝撃的ですらある、
思いがけないくらいにたわわに実った女性的な乳房。その豊かさ、柔らかみ。
段々と夢の中の姿を思い浮かべているのか、現実のあいつの姿を思い浮かべているのか
判然としなくなってきたが、その中で俺は一種息苦しいまでの眩暈を覚えていた。
あいつ、結構可愛かったんだな。知らなかった。
小うるさくて厄介なあいつの姿と仕草を自分がこれほど鮮明に思い出せることにも驚愕していた。
頬が熱くなってきたのを感じた。だが構うもんか。
俺が好きなのは姉ちゃんなんだ。あいつじゃない。
「早く行こうよ」と廊下の先で振り返った妹が声を掛けてきた。
その呼び掛けに我に帰った俺は、妹に手を振って見せて、灯りを消した。
扉を閉じる寸前、無人の部屋のしんとした薄暗闇に白く浮き上がった花の姿が網膜に焼きついた。
親父はおふくろを好きになる前、何を感じていたのかな。
他に好きな女の子でもいたんだろうか。それとも無意識の内にずっとおふくろを目で追っていたのか。
やがて好きになって、恋に落ちて想いを通わせて・・・・・・。
ひとりの女と一生を共に過ごすというのは、果たしてどんな気持ちがするものなのだろう。
親父なんかはもう、これまでの人生の半分以上をおふくろと一緒にいる訳だけど。
あんな気が強いおふくろと一緒でよくも少年時代から辛抱が出来たものだと思うが、
これも愛の力なのか、それとも性質上凹凸がぴったり合わさって釣り合いが取れていたのか。
いつも仲睦まじい両親の姿が思い浮かぶ。
ああも綿々と愛し合い続けるふたりの想いは底が知れない。
やっぱ愛・・・なのかなぁ。
よく分からん。
教えて欲しいけど、そんな話は親父とはちょっとしにくい。
俺もケッコンしたら分かるのかな。それとも姉ちゃん以外の誰かを好きになったら・・・・・・。
くそ、またあいつが頭の中に出てきやがった。俺の思索の邪魔をするなよ。
何だかもういいや。
腹が減った。
俺が扉を閉めたのを確認したのか、妹がパタパタと軽やかに先を歩いていった。
後に続いて数歩踏み出した俺はもう一度、振り返って部屋の方をじっと見つめた。
親父へ宛てたカードの文句はあれでよかったかな。
一応は日本人だしな、やっぱり照れ臭いし、何となくそういうセリフはそぐわない気がするだろう?
いつも生意気な息子だけど、これでも結構本気なんだ。でも、「愛してる」なんて照れ臭いよ。
だからさ、親父。
いつもありがとう。好きだぜ。
それでいいだろ。
fin
リンカ様から短編を頂戴しました。
父の日に合わせた作品です。
この世界の二人の間には二女一男の子供たち。
名前も何もわかりませんが、三人とも幸せに育っているようです。
息子の口の悪さはアスカ譲りでしょうか?
いや、そんなことを言うとどこに“アスカ”って書いてあるのよっなどと抗議が来そうですが、
そこはじゃこの素晴らしい男性の奥さんの名前は別の人でもいいんですか?と切り返せば
顔を真っ赤にして黙ると思いますのでまあ大丈夫でしょう。
しかし管理人的には彼の愛する“姉ちゃん”が気になって仕方ありません(笑)。ビジュアル的にツボなので(おい)。
ともあれ、父の日おめでとうございます。
きっと子供たちが巣立って行ってもプレゼントとカードだけは送られてくるでしょうね。
この家族なら。
本当にありがとうございます、リンカ様。
続きをお待ち申し上げます。
(文責:ジュン)
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