私には母がいない。
もちろん木の股から産まれてきたわけではないので、遺伝学上の母は存在する。けれど、十四年に渡る私の記憶の中に母という温もりはない。これは喪失ではなく、あらかじめの不所持。それだけのことだ。
とはいえ、事情にまったくの興味がないというのでもない。何しろこれは私のバックボーンの相当に根深いところへ関係しており、近年とみに発達してきた自意識の作用というだけでなく、私にとってこの問題を知ることは自己理解への助けとなるはずだからだ。単なる好奇心というのもある。
むろん私は訊いた。誰に? お父さんに決まっている。それこそ幼い頃から訊き続けている。結果分かったことには、どうやら死別ではない、らしい。お父さんは詳しいことを話してはくれない。水を向けても、母がまだ生きていることは認めるものの、あとはそうだなぁ、どうしてるかなぁと誤魔化し笑いをする。こういうとき、私はお父さんのことがとても嫌いになり、同時にとても悲しくなる。なぜなら誤魔化し笑いを浮かべるお父さんはひどく寂しそうだから。この私の主観によって成り立つ世界で誰より大きな存在がどうしようもなく心細そうにしているのを見るというのは、苦痛だ。その姿はまるで、身体に負わされた一生消えない傷痕を指先でなぞりながら、それを受け入れざるを得ない寂しさに耐えているかのようだ。私に対して甘えてくれたら、とも思うけれど、しかし私はまだそこまで大人ではない。いや、仮に私が今すぐ大人になったとしてもやはりお父さんは私に対して甘えてはくれないだろう。私はそれを知っている。だからどうしようもなくなって、秘密を作るお父さんに対して生意気な文句を一言二言吐き、これで勘弁してやるというポーズを取りながら、この件を終わりにする。そうする他に一体私に何ができる? 母はまだ生きていて、ここにはいない。ザッツイット。
「ふぇぇ、アキラちゃぁん」
砂糖菓子みたいな甘ったるい声で呼びかけてきた友人が、教室で自分の席に座っていた私に、どういう了見だかタックルをしかけてきた。可愛らしい脳天がぺたんこの腹に突き刺さり、そのままドリル的運動を繰り返しながら胸元までせり上がって来る。私は椅子に座っているのだから、当然タックルを仕掛けてきた彼女は膝を床に突く中腰の姿勢なわけだが、胸元まで頭をよじ登らせる過程で私の膝と膝の間に強引に身体を割り込ませてきており、いくら気の置けない友人同士のじゃれあい(だと周囲は捉えてくれるだろう、かろうじて)にしても、少々居心地が悪い。昼の休憩時間で教室内に人も疎らだとはいえ、視線がないわけではない。というか本当にどういう了見なんだ。
「ちーぽん、落ち着いて。というかまず離れて」
というか私のおっぱい(を持っているわたくしは女である)に顔をこすり付けないで。
「アキラちゃんまであたしを見捨てるのぉ?」
何の話よ一体。
「だからアキラちゃんまで――」
それはもう聞いた。
どうやら何らかの事情によって思考能力がハムスター並みに減衰しているらしいちーぽんへの対処に困っていると、彼女の後ろからひょいと首根っこを引っ掴んで持ち上げた者がいた。私から引き剥がされたちーぽんは、手をばたばた振り回しながら素っ頓狂な声を上げる。
「ひょわわっ、なになにっ?」
「何はそっちだ、チナツ。一体何をしてんのあんたは」
ちーぽんことチナツを母猫よろしく摘まみ上げたのは背の高い女の子で、私たちの友人の一人だ。彼女は聞き分けのない子猫を手にぶら提げたまま、こちらに物問いたげな視線を向けてくる。でもそんな視線を向けられたってこちらにもわけが分からない。何よそのご苦労様ねって感じの生温かい目は。
「よしのん、放してよう」
「だったらアキラにセクハラするのをやめな」
クラスの女子の中で一番背の高いヨシノちゃん(ちーぽんはよしのんと呼ぶ)が、クラスで二番目に背が低いちーぽんを叱り付けている様子はまるで歳の離れた姉妹を見るようでどこか微笑ましい。微笑ましいのだけれど、タックルを受けた当人である私が和んでいても仕方がない。揉みしだかれた(誇張表現)胸の仇のためにも理由ぐらいは訊ねるべきだろう。
「それでちーぽん、どうしたの」
ヨシノちゃんに首根っこを掴まれてぶら提げられたままのちーぽんは、私の問いかけで大変なことを思い出したかのように、みるみると涙を浮かべて顔を歪め、ぐずぐずと泣き始めてしまった。これには私も驚く。ヨシノちゃんの顔を見れば、彼女も驚いているらしく目を丸くしながら、どうしようと視線で問いかけてきている。どうしようと訊かれても私にも何がなにやら。で、とりあえず顔がひどいことになっているちーぽんにハンカチを差し出した。でもこの子は涙で目の前が見えておらず、受け取ろうとしない。差し出した手をそのまま収めるのも格好がつかないので、直接私がちーぽんの涙を拭いてやることにした。まあ、友人のこういった小動物的な姿を見せられると男だろうが女だろうが世話のひとつも焼きたくなるものだ。でももし勘違いして自分がちーぽんをどうにかできるんじゃないかなんて考える馬鹿男がいたら前に出て来い、この私がぶん殴ってやる。
「ほらほら、泣かないの」
私に顔を拭かれるがままのちーぽんは鼻水をずびずば言わせながらしゃくり上げている。ぎゃっ、手に鼻水ついた! 汚ねっ。
「あのね、さっきね、委員の用事で職員室に行ってたの」
ふんふん。
「それでね、その帰りに中庭でね、加納さんを見かけたの」
ほお、それで?
「でね、あたし、失恋しちゃったの……」
失恋?
対面のヨシノちゃんの顔にまるでぶつけられたパンケーキみたくいっそ見事なまでに間の抜けた表情が張りつく。そして私のほうもそれを鏡で映したようになっているに違いない。失恋したというその一言だけでもう充分に私たちは驚いていたのだけど、この子の言葉だけではあまりにも事情が掴めない。隣のクラスの女子生徒で生徒会長でもある加納さんが、どう関係があるっていうの? 話を端折りすぎのちーぽんに、始まりから終わりまでに存在するポイントをひとつずつ順々に押さえながら進んでいく各駅停車精神の尊さを説いて聞かせたかったのだけど、私よりもヨシノちゃんのほうが行動が早かった。
「チナツ、悪いけどそれじゃ何がなんだか分からないよ。加納を見かけたのとチナツが失恋したのと何の関係があるの」
問いかけられたちーぽんはいまだに首から吊り下げられたまま、首をねじってヨシノちゃんの顔を見上げる。唇をぎゅっと結んでこらえてはいても零れてしまう涙がりんごみたいに染まった頬を伝っていく。こんな時になんだけど、とても私たちと同い年には見えない。鼻水垂れてて不細工だけど、可愛い。こんなふわふわした綿菓子みたいなちーぽんを泣かせる馬鹿なんて、どこの誰だか知らないけど死んじゃえばいいのに。
「だからあたしね、あたし……」
それきり言葉が続かなくなったのか、口をパクパクさせるちーぽん。それを見たヨシノちゃんは片方の眉を吊り上げ(どうしても私には同じ真似ができない)、それから眉間に薄く皺を寄せてから、私に視線を送ってきた。何よ。
「……分かったよ、チナツ」
へっ、分かったの? マジで?
あなたは一体どんなエスパー少女ですかと私がこれまでとは異なる眼差しで見つめると、ヨシノちゃんは私の背後、教室の前方の壁へすっと視線を向けて言った。
「とりあえず」
壁に面白いものでもあるのかしらと私も振り向いてみても、黒板とスピーカーと時計があるだけだ。
あ、そうか。
「保健室で休んでな」
ずっとちーぽんの首根っこを掴みっぱなしだった手をヨシノちゃんがひょいと私のほうに差し出すと同時に予鈴が鳴った。もうじき昼休みが終わって五時間目が始まる。クラスメイトたちも戻ってくる。今からじゃ話がしにくいし、こんな泣き虫が教室にいたんじゃ先生も私たちも授業がやりにくいだろう。じゃなくて、こんな状態ではちーぽんも勉強にならないだろう。で、私に差し出してるこの手の意味は?
「任せたよ、保健委員」
ん、という感じでヨシノちゃんがまるで風呂敷包みか何かのように私にちーぽんを突き出してきて、そのたびにちーぽんはあっちへふらふらこっちへふらふらとたたらを踏んでいる。同級生の友達をここまでぞんざいに扱える根性は見上げたものだ。ついでに言えば、同い年でしかも同性の腕力にここまで翻弄されてしまうちーぽんのことが私は心配でならない。というわけで、頼りなくて仕方がないちーぽんを丁重に受け取ると、保健室まで連れて行くことにした。手を繋ごうか、と私が言うと、ちーぽんはすぐ子ども扱いすると頬を膨らませながらも私の手を取った。小さくて温かい手だった。
結局、事情を聞くことができたのは学校の帰りに立ち寄ったファーストフード店の中でだった。ヨシノちゃんと私が騒がしい店内で知ったことは、中庭に植えられた木陰に人目を忍ぶような風情で立つ隣のクラスの女子生徒で生徒会長の加納さんをちーぽんが見かけたとき、そこにはもう一人の人間がいたということ。もう一人の人間とは男子であり、正体を明かせばそれは書道部に所属している私たちと同学年の樋口くんだったということ(ちーぽんも書道部所属)、私とヨシノちゃんはその樋口くんなる男子のことをよくは知らないのだが、どういうわけだか樋口くんとはクラスも部活も委員会も、ついでに言えば出身小学校も違うはずで、まったく接点のないはずの加納さんが何やら彼と額をつき合わせて真面目な顔で話し込んでいたということ。それだけならまだちーぽんとしては不思議に思うだけで終わったのだけど、何と驚くべきことにしかつめらしく話し込んでいた加納さんと樋口くんが口を噤んで見詰め合ったかと思うと突然握手を交わし、あろうことかさらにキスまで交わしてしまったということ。
さて、件の二人に関してちーぽんが知っているのはここまでだ。何故なら二人の顔が今まさに重ならんというその時、ちーぽんは脱兎の如く駆け出し、驚いて道を譲る周囲の視線も何のその、二段飛ばしで階段を駆け上がって(私の想像だけど)、教室の自分の席でヨシノちゃんとダベっていた私のお腹にうりぼうのように突進した上「アキラちゃぁん」と腑抜けた泣き声を発したというわけだ。そういえばお弁当を食べたばかりであのタックルは少々こたえた。もちろんそんなことはおくびにも出さなかったけど。ところでおくびってどういう意味なのかな。
もちろん、ここまでの話ではまだ謎は半分だけしか解明されていない。いや、回りくどいことはやめよう。ようするに登場人物の片割れ樋口くんのことを実は三年も前から恋焦がれていた(完全に初耳だそんなことは)ちーぽんは、彼の加納さんとの密会現場をそれ以上見るに忍びず、廊下を駆け出さずにはおれなかったということのようだ。ま、そりゃそうだよね。キスなんてもう決定的だもの。疑う余地なし。かくしてちーぽんはその小さな胸に育んできた恋心を儚く散らせてしまいましたとさ。ちゃんちゃん。
友達なのに冷たいって? とんでもない。私とヨシノちゃんは当然ちーぽんの話に大いに共感し、沢山の励ましと慰めと生徒会長のくせに男子をたぶらかす加納さんへの止め処もなく湧き出す悪口に首まで浸かってあっぷあっぷと溺れかけ、そのままカラオケに雪崩れ込んで歌っているのだか叫んでいるのだか分からないような有様で喉を酷使し、午後九時過ぎにようやく帰宅して、こちらからは一言メールを入れたきりになっていて、仕事が終わって帰宅するなりご飯を作ってじっと待っていたらしいお父さんにはきつぅいお叱りを押し頂いて、それから冷めてしまったご飯をレンジで温めてお父さんと二人向かい合ってがつがつと平らげた。お腹がぱんぱんに膨らんで、私は風船になって宙に浮かび出してしまいそうだった。せっせと自分のお腹をトノサマガエルのように膨らませている最中、お父さんの問いかけ(夜遅くまで何をしていたのかという)に応じて、チナツちゃんを慰める会を開いていたのだという甚だいい加減な答えを返した。慰めってなんだ、女の子には色々あるの、そうか色々か、そう色々だよお父さんには分からないだろうけど、あの、なあアキラ、ケーキ買ってきたんだけどあとで食べるか、うんケーキ、やったぁ、じゃ私お風呂入ってくるからそれまで食べちゃわないでよあ待って待ってやっぱ先に選ぶどんなの買ってきたのかなぁ〜っと。
やっぱり私って冷たいのかも。ケーキはとても美味しかった。ついでだけどお父さんの作ったご飯もまあまあだった。甘ぁい甘ぁいケーキにふわふわ溶かされて、屋根よりも高くふわふわ、ふわふわ。ちーぽんから貰ったほろ苦さは甘い幸せに太った私のポケットからころんと転がり落ちましたとさ。
2.三万六千キロメートルの憂鬱
中学二年生の私たちにとっては勉強も大事だけれどそれと同じくらいに遊ぶことも大事で、つまり何が言いたいのかといえば、一緒に宿題をするという名目で日曜の昼にうちへやって来たヨシノちゃんとかれこれ二時間ゲームで遊んで過ごしているという事実は、まったくもって問題ないはずだ。
ヨシノちゃんは背が高くて髪が長くて、まあ一言で言ってしまえば大人っぽい女の子で、その点では学校の同級生たちなんて背伸びをしたって太刀打ちできないだろう。特にその長い黒髪は私もとても好きだ。私自身は髪を短くしているけど、見ている分には綺麗だと素直に思う。もっとも私のくせのある茶髪では伸ばしてもヨシノちゃんのようにはならないだろうけど、これは生まれつきなので仕方がない。ヨシノちゃんは寡黙というわけではないけど表情に乏しいところがあって、大人っぽい外見も含めて近寄りがたいと感じている人も多いようだ。実際に付き合ってみれば案外くだけたところがあって面白い子なんだけど、女子はクラスですぐにそれぞれ気の合うグループを作っちゃうし、男子はもう端っからヨシノちゃんにビビってて話にならないので、彼女のこんな一面を知る人は多くない。私はどうして親しくなったのかといえば、中学に入ってほとんど知らない子だらけの教室で出席番号順に座らされた私の目の前にいたのがヨシノちゃんだったのだ。五十嵐と碇で、ヨシノちゃんが二番で私が三番。初めの席替えが行われるまでの間に私たちは仲良くなっていた。
さてと、私とヨシノちゃんの馴れ初めはどうでもいいのでこのくらいにしよう。たった今ゲーム画面の中で私の操作するキャラクターが派手に吹き飛ばされたところだ。あーあ。また負けた。
「さすがにちょっと飽きた。違うのやろうよ」
ヨシノちゃんがほっと息を吐き出しながら言った。この私に十六連勝もしておいてその台詞はないと思う。どうせ私はゲームが下手ですよ。いつもいつもヨシノちゃんに負けてますよ。
「いじけないでよ。いいじゃない、下手でも」
「それ、何の慰めにもなってないよ」
「今日も暑いからなぁ」
私がじろりと睨むと、ヨシノちゃんはまるで関係ないことを言った。しかも言葉とは裏腹に本人はいたって涼しげな顔をしてポッキーなど齧っている。本当、ちーぽんが天使ならこっちは悪魔だね。まあ天使にも悪魔にもそれぞれ味があって、平凡な人間でしかない私にとってはどちらと付き合うのも面白いのだけど。どうでもいいか、そんなことは。
日曜の昼下がり(っていつ頃の時間をいうのだろう。昼メロやってる時間?)だというのに、今家にはお父さんはいない。平日は仕事仕事で合間に家事も挟んで忙しくしていて、休みの日ともなると日干しにされたトドみたいにごろごろしてるのに、今日に限っては急な仕事が入ったとかぶつぶつ言いながら朝早くから会社に出かけてしまった。まあそのおかげで気兼ねなく家に友達を呼んで遊べるというもので、むしろ私としては好都合なんだけど。ちょっとお父さん気の毒だよね。帰ってきたら肩をもみもみしてやろうかしら。
「アキラは――」
「ん?」
さっぱり勝てない忌々しいゲームはとっくの昔に放り出して、私たちは今流行りのドラマについて議論を交わしていたんだけど、その最中に唐突にヨシノちゃんが私の名前を呼んで言葉を切った。ぼんやりと真正面を向いて黙っている。こういう意味深な仕草をさせると似合うなぁ。手にはポテトチップス、脚は胡坐座りだけど。ていうかふともも白いなぁ。
「いや、やっぱりいいや」
「えーっ、何よそれ」
たちの悪いことをするヨシノちゃんに私は突っかかる。そういう風に言いかけてやめるとか、子どもじゃないんだからやめようよ。何が子どもじゃないんだからなのかよく分からないけど、とにかくやめようよ。寸止めは身体に悪いんだから。
私が促すと、初めはしらばっくれていたヨシノちゃんは渋々という感じで言った。
「アキラは今好きな人とかいるの?」
「はぁ?」
私がどんな顔をしていたのか分からないけど、ヨシノちゃんはしっかり見ていたのだろう、苦々しそうに顔を歪めると不貞腐れたように零した。
「だから言いたくなかったんだ」
「いや、ごめん。ちょっと意外だったから。これまでそんな話したことなかったし」
でもなんでいきなりこんなことを訊くんだろう。まさかヨシノちゃんまでちーぽんみたいなこと言い出すつもり?
「違うよ。そうじゃないけど、こないだのチナツのことがあったじゃん。もう二週間くらい経ったしチナツも大丈夫そうだけどさ、なんかアキラはどうなのかなって。好きな人とかいるの?」
私の好きな人ねぇ。本当はもっと別に言いたいことがあるんじゃないの、と思ったのだけど、元々ヨシノちゃんは口が堅くて、自分で喋らないと決めたことに関しては滅多なことでは口を割らないのを知っていたから、追求の言葉の代わりにため息を吐き出すと、私は正直にこう答えた。
「別に好きな人なんていないよ。そういうのってあんま興味ないし。クラスの男子も大したのいないし」
ヨシノちゃんは私の目をじっと見て考え込むような表情を浮かべている。何よ、疑ってるの? でもいないものは仕方がないじゃない。私にだってどうしようもないことだ。だからそういうシリアスな反応はやめてよ。
「意外といえば意外だけど、ある意味納得かな。アキラに釣り合いそうなのはクラスにはいない?」
「釣り合いとかそういうことを言ってるんじゃなくて単純に好きになるとかそういうのがないだけよ。大体意外ってなによ。この私が好きだ恋だって目の色変えるように見える?」
「それは……その時になれば目の色どころか顔かたちだって変わるんだよきっと。でもアキラはまだお子さまだね。それこそチナツよりも」
妙に達観したような表情でヨシノちゃんは私を見るのだけど、同い年なのにこんな態度取られても何だかな。大体ちーぽんよりもって言い方も失礼だ、この私とちーぽんと両方にとって。恋をすりゃ偉いって法でもあるのか。
「しないよりはしたほうがいいかもね」
「へーえ、じゃあヨシノちゃんも誰か好きになったことあるんでしょ。そんなこと言うくらいだから。誰よ、私は正直に答えたんだからそっちも教えてよ」
私が詰め寄るとヨシノちゃんは何だか難しい顔を一瞬して、それからにっこりと笑うと言った。
「いないよ」
「嘘」
「嘘じゃない。私は恋をしないの」
ゆっくりとまばたきをひとつして、ヨシノちゃんは何故か楽しそうに続けた。
「一生しない。しわくちゃのおばあちゃんになっても」
「じゃあ一生お子さまなんだ」
「別の方法で大人になるからいいの」
私の揶揄に不思議な答えを返すヨシノちゃん。
「別の方法って?」
友人が何を考えているのか想像もつかず訊ねると、彼女は唇の前に人差し指を添えてそっと笑った。
「秘密」
そのあと秘密とやらを暴き出そうとする私とそれを死守しようとするヨシノちゃんとの間で大レスリング大会がバーリトゥードな感じで開催されたのだけど、開始四秒でヨシノちゃんにがっちり組み敷かれてしまった。別に私が弱すぎるんじゃない。なんせヨシノちゃんはこう見えて女子剣道部副部長だ。とてもじゃないけど腕力じゃ敵わない。それにそもそも体格からして負けている。せめてもの抵抗に胸を揉んでやったら仕返しに関節を極められたけど、本気で痛かったのでそう伝えるとやめてくれた。お堅いヨシノちゃんはセクハラが嫌いなのだ。おっぱいは柔らかいくせに。とまあ、そうやってしばらくの間私たちはぎゃあぎゃあとはしたない奇声を上げながら暴れ回り、ようやく二人とも疲れて大の字に床に寝転がるとノックの音とともにドアが開いてお父さんの顔が覗いた。
「あ、お父さん、おかえり」
「ただいまアキラ。そちらはお友達かな。いらっしゃい」
そういえばお父さんがヨシノちゃんと直接会うのはこれが初めてだったか、と寝転がったまま暢気に考えていると、私と同様に息を切らして寝転がっていたヨシノちゃんがものすごい勢いで身体を起こして慌てた風に言った。
「すいません、お邪魔してますっ」
「はい、ゆっくりしていってね。えーと?」
「あ、五十嵐ヨシノといいます、おじさん」
にこにこと朗らかな笑みを浮かべたお父さんと正座して妙にかしこまったヨシノちゃんを交互に眺めながら、私は急にむず痒くなったうなじを撫でた。
「シュークリーム買ってきたからあとで飲み物と一緒に取りに来なさい、アキラ。沢山あるから五十嵐さんも食べてね」
「わ、ありがとうございます」
にこにこと害のないお父さんの顔がドアの隙間から引っ込むと、私はヨシノちゃんのほうを向いて目を細めた。するときょとんとした顔で相手もこちらを見つめ返すので、私は言ってやった。
「うちのお父さん相手に何かしこまっちゃってんの」
「だって私、あんな格好でみっともない」
決まり悪そうに短いスカートの裾を引っ張って皺を直すヨシノちゃんの仕草を目で追いながら、私は教え諭すように彼女に言った。
「大丈夫よ、お父さんは女の子のみっともないとこなんていつも慣れっこなんだから。いまさらそんな」
「それ自分のこと言ってる?」
分かってるんならわざわざ口に出して指摘するんじゃないの。どうせ私は礼儀のなっているヨシノちゃんよりはるかに野蛮でみっともない女の子だ。
「大体あんないい歳したオヤジに向かってかっこつけたってしょうがないでしょ」
「そういう問題じゃないと思うけど」
その日の夜、私はお父さんの夕飯の用意を手伝っていた。私たちは昔から親一人子一人で生活をしているので、お互いにもう家事はお手のものだ。とはいえお父さんの場合は勤め人なわけで、並行して家事を滞りなく行うというのはなかなかに難しい。今日だって仕事が昼過ぎまでだったからまたよかったけど、本当なら休みのはずだったのだ。平日でもなるべく早めに帰ってくるようにしてくれているみたいだけど、かなり無理しているのではないかと思う。お父さんが勤めているのはロボット関連の開発をしている会社で、結構名前は有名なところだ。実際にお父さんが会社で何をしているのかまでは知らないけど、忙しいのは確かだろう。休日にグデンとしていたって私に文句なんて言えないのかもしれない。従って私にとって家の仕事は手伝うというよりは課せられた義務のようなものだ。私がさぼればその分だけ我が家の生活環境が悪化する。幼い頃はともかく私も小学校の高学年くらいからは大概何でもできるようになって、昔に比べればお父さんの負担も減っているだろうと思う。
「お父さん、こっちは終わったよ」
「ああ、それじゃ皿出しといて。うん、いや違う。平皿の大きいの」
母親がいてくれたらきっと私やお父さんがこんなことせずにもっと楽ができるのに、とため息をついたことは正直あるけど、そんなことを言うなら家政婦でも同じわけで、ようするに母親とはただ家事をする存在というだけではないのだろう。けれどいないものは仕方がないし、お父さんは今のところ(それともこの十数年ずっと?)家族を増やす気はないらしいので、結局私には分からないことだ。お父さんに言われた皿を出したら今度はご飯をよそうために茶碗二つとしゃもじを食器棚から出しながら私は考える。母親がいたらきっと今よりも楽なんだろう。けど、それでもつらいとは思ってないし、母親が現れたから今よりも幸せになるなんてのはきっと嘘だ。少なくとも私にとって。
「そういえばアキラ。今日来てたお前の友達、可愛い子だったなぁ」
「うわっ、やだ、変態っぽい」
炊飯器からご飯をよそいながら私は顔をくちゃくちゃにする。別に深い意味はないことは分かっているんだけど、お父さんのこういう発言を聞くと何だかショックだ。説明するのは難しいけど、女の子が可愛いとかどうとかお父さんに言って欲しくないって感じ。
「四十手前のオッサンがそういうこと言うとタイホされちゃうよ」
「何が逮捕だ。大体お父さんは四十手前じゃない。三十七だ」
「同じじゃん。同じ中年だよ」
「全然違うし、三十七歳は中年でもない」
「はいはい。可哀想だからそういことにしといてあげる」
「お前、最近口悪いぞ」
「ふん、放っといてよ。お父さん、ビール飲むの?」
「お、出しといて」
テーブルに料理やらコップやら並べながら他愛ない会話をする。私とお父さんは軽口は叩き合ってもおおむね仲がいいのであまり喧嘩したりはしない。実に平和的な親子関係だ。きっと祖先に鳩がいるんだ。
ところが世界は私たち親子ほど穏やかではいられないらしく、今もテレビのニュースチャンネルから華南動乱を伝えるアナウンサーの声が聞こえている。セカンドインパクトと呼ばれる南極消失事件後に始まる二十一世紀は紛争と動乱の時代だ。現在も大規模な紛争があらゆる地域で起きていて、今ニュースで伝えられている中国華南地方もそのひとつだ。もちろんそれを黙って見ている人たちばかりではなくて、様々な努力によって世界中で炎上した紛争の火種は徐々に収束に向かい始めてはいるけど、今後百年はこの状況から抜け出せないだろうという悲観的な意見を言う人もいる。こんな時代に生まれた私たちは不幸だと。まあ不幸と評される私たちからしてみれば、私たちが不幸かどうかを手前の尻も拭かない奴が上から勝手に決めつけるなという感じだ。
配膳が終わると私とお父さんは律儀にいただきますを唱和してから食事を始める。まずはお父さんが作った茄子のチリソース炒めをいただく。ネットからレシピを落として今日初めて作ったわりにはなかなか美味しいけど、ちょっと味が濃いみたい。私が作ったのはサツマイモのきんぴら。ずっと以前に作って気に入って以来何度か作っているので味に失敗はない。でもお父さんの好みからすれば甘すぎるらしくて、唐辛子がすでに入っているところに七味を振りかけてしまっている。その姿を見て、将来は人の味付けに手を加えない相手と結婚しようと心に誓う。今は興味がなくてもいずれは私も結婚するかもしれないから、その時のための決意だ。
「アキちゃん、ビールいるか?」
「なに、飲ませたいの?」
娘を構いたがる父親丸出しの姿はみっともなくてちょっと余所様には見せられないけど、口を尖らせながらも言葉と裏腹にいそいそコップを差し出す私も私だ。まあ仕方がない。お父さんは私のことが大好きなのだ。そしてそれに付き合っている私は見上げた孝行娘なのである。えっへん。
現代は紛争の世紀だと言ったけど私たちみたいなお気楽な人も世の中にはいて、ちょうどニュースもそういう人たちの話題に移っていた。国際宇宙開発財団がどうたらとかリポーターが喋っている。最近ようやく世界中の紛争が収まる兆しを見せ始めてきて、それなら皆で力を合わせてもう一度宇宙に乗り出しましょうと主張する建設的な人たちの集まりらしい。何しろセカンドインパクトからこちら、宇宙開発をする余力のある国など皆無で、二十世紀の人たちが夢見てきた真空世界は関心の外に追いやられて久しかった。二十一世紀は始まりから皆忙しかった。紛争に、食べるのに、建て直すのに、また紛争に。お尻に火をつけられて右往左往している人々に宇宙でふわふわ浮いている暇なんてなかったのだ。でもこの財団の人たちが紛争やめて皆で宇宙に行こうよと言い出した。紛争に使うよりも宇宙開発に使ったほうがお金も資源も有効的だよ。まあ最初は相手にされていなかったけど、何しろ粘り強かったし皆も頻発する紛争にうんざりしていた。それでとうとう地球の周りをぐるぐる回るどでかいステーションを建造してしまったのだ。今リポーターが伝えているのはそのニュースだ。ご飯を食べながら広い会場の長机にずらっと並んだ頭良さそうな人たちを眺める。誰も彼も誇らしげにフラッシュを浴びている。一番左に座った変なツナギみたいなのを着たおじいさんをカメラが大写しにしてリポーターの声がそれに重なる。一人ずつ紹介をするらしい。クレマン博士、チャン博士、ミハイロヴナ、ツェッペリン、チャウドリー……。ずらずらと並べ立てていく。博士だのスペシャリストだの、そんなのばかり。並みいる顔ぶれがひしめいて、真空に浮かぶぴかぴかのステーションには一般人の入り込む隙間はなさそうだ。宇宙開発が進むことで色んな国が手を取り合えるのなら結構なことなのかもしれないが結局は私個人が宇宙に行ける日はまだまだ遠そうだなと世界情勢と個人的な将来について考えていると、お父さんが突然チャンネルを変えてしまった。
「ニュース見ないの?」
いつもはニュース終わるまでチャンネル変えちゃ駄目って言うくせに。
「うん、ニュースはもういい。今日なんか面白いのやってたか?」
「いや、今日は確かなかった気がするなぁ」
「なんだ、スポーツもやってないなぁ。じゃあ映画でも見るか。DVD適当に取っておいで」
番組表を一通り見てからやはり面白そうな番組がないと判断したのか、私にそう言いつけてお父さんは悠々とグラスにビールを注いでいる。今日は長期戦に入る気らしい。ま、私もしばらく付き合いますか、というわけで映画選びに席を立ったのでありました。
「アキラちゃんってさ、よく食べるよね」
ちーぽんのこの何気ない一言によって私は口に含んだストロベリータルトを危うく喉に詰まらせて人生に幕を下ろしそうになった。慌てて流し込んだ紅茶とともに必死の思いで飲み下すと、私にこんな仕打ちをしたにもかかわらずぽわぽわした顔でクリームソーダに載せられたアイスをスプーンでつついている天使のような友人を睨みつけ、抗議を行った。
「私のどこを見てそんなでまかせを言ってんの?」
「えぇ、でまかせじゃないよう。だってあたしの倍は食べてるよ?」
んなわけないじゃない。いくらちーぽんと体格差があるとはいっても、食事量が倍も違うはずがない。
「だってそのタルト二個目だよ」
「今日は体育で特別お腹が空いたの!」
やれやれ、とんだ言いがかりである。たまたまこの日体育があって、しかもその体育で行われたマラソンで何故か血が騒いで一着ゴールを成し遂げた私が、学校帰りに立ち寄ったケーキ屋さんで消費したエネルギーを補充するためにケーキを二個頼んだって、別に食べ過ぎということはないはずだ。
「でも体育はお昼の前だったじゃん。お弁当足りなかったの?」
大体アキラちゃんのお弁当箱ってあたしのより大きいじゃん、と可愛いふりしてこしゃくなことを言うちーぽんが憎い。私も薄々勘付いてはいたのだ、最近食事量が増してきているということに。そして多分その分だけ背が伸びてきている。以前に比べたらヨシノちゃんとの視点の高低差が縮んだような気がするからだ。でもあまりのっぽの女にはなりたくない私は(別にヨシノちゃんに対しての含みはない)面白くないので適当にはぐらかすことにした。
「成長期なの。どんどん食べておっぱい大きくすんの」
「へぇぇ、いいなぁ」
素直なちーぽんは私の言葉に納得して自分のない胸を触っている。ブラジャーもしてないし、まさか生理もまだってことはないと思うけどどうなんだろうか。
「ねえねえ、ちょこっと触らせてっ」
テーブル越しに手を伸ばしてくるちーぽんが邪気のない顔で目を輝かせているので、正直私は嫌だったのだけど、渋々胸を張ってみせた。ますます嬉しそうな顔をして私のささやかな膨らみに羽根のように手を載せたちーぽんは感心した様子でほわぁ、とか言っている。
「あたしもアキラちゃんとかよしのんみたいになりたいなぁ」
「ヨシノちゃんはともかく私のどこがいいっての」
「かっこいいもん」
「んなことないって」
「あるの」
ちんまりとした作りのふわふわしたクリームみたいな顔を精一杯引き締めてちーぽんは自己完結してしまう。その姿を見て私もなんだかこれ以上自分を卑下するのも馬鹿らしくなってしまい、大きく息を吸って吐くと、残りのストロベリータルトに取り掛かることにした。腹ぺこなのである。
それから数日後、朝起きた私は洗面所の鏡に映し出されたみっともない寝起き姿と向かい合いながらちーぽんの言葉を思い出すとため息をついた。この私が格好いいだって! 冗談にしてもたちが悪いし、おそらくちーぽんは冗談で言っているのではないというところがさらにたちが悪い。もちろん友人にこのように褒められて嬉しくないはずはないのだけど、あまり買い被られると複雑な気分がする。鏡の中にいる色白で茶色い髪と瞳の女の子に私は言う。うぬぼれは禁物だよ。すべての人間がちーぽんと同じ意見を持つわけじゃない。すると鏡の中の女の子はそんなこと分かってると不貞腐れて私に言い返した。ちなみに私はいわゆる混血という奴で、ちーぽんより鼻はでかいし彫りは深いし、幼い頃ほとんど金髪だった色素の薄い髪は茶色の猫毛で、瞳も薄い茶色をしている。お父さんはどう見ても普通の日本人だから私を産んだ母がそうではなかったのだろう。まあ母が白人だろうがなんだろうがどうでもいいことだ。私にはこの容姿が最初から当たり前のものなのだから。
「アキちゃん、洗面所早く空けて欲しいんだけど」
横から掛けられた声に私が顔を上げると、寝ぐせのついた頭を撫でつけながら大あくびをしているお父さんが立っていた。いけない、つい考えに没頭してしまっていた。
「ごめんごめん。すぐに済ませるからちょっと待ってて」
「なんか悩みか?」
洗面所に入ってきてシェーバーを手に取ったお父さんが訊ねてくる。
「悩みってどうして?」
「だってお前、洗面台にデコくっつけてうなだれてたぞ」
「うっそ、気のせいでしょ」
「気のせいねぇ。さようでござんすか。んじゃ空いたら教えて。早くしろよ」
じょりりりり、と髭剃り音をうるさく立てながらお父さんが廊下を去っていくと、私はもう一度鏡の中の不細工な女の子を睨みつけて、勢いよく水を流してばしゃばしゃと顔を洗った。
途中にヨシノちゃんと合流して一緒に学校へ向かうのは、女子剣道部の朝練がある日以外の日課だ。ヨシノちゃんと私だけでちーぽんがいないのには理由があって、残念ながらちーぽんは私の家から見ると学校を挟んだ向こう側に住んでいるので、待ち合わせというのはできないのだ。この日も待ち合わせの場所に立っていたヨシノちゃんに手を振って駆け寄ると、私たちはお喋りをしながら学校へ向かう。ちーぽんは私やヨシノちゃんのようになりたいと言っていたけど、私とヨシノちゃんとではだいぶ印象が違う。共通点といえばちーぽんよりも背が高いということくらいだし、ぱっと見の印象からしてくだけている私と違ってヨシノちゃんはいつもきりっとしている。横を窺えば今日も我が友は完璧な女子中学生姿で、まるで制服の販促ポスターのモデルみたいだ。ところが私はといえば、
「アキラ、襟曲がってる」
こうなんだな。だらしなくしているつもりはないんだけどね。指摘されて襟を直すと、品定めするような目で私を見ていたヨシノちゃんが付け加えて言った。
「ネクタイも」
「はいはいっ」
ま、こんな感じで傍目から見てもヨシノちゃんと私のどちらがいいのかなんて火を見るより明らかだと思う。ところがそれが分からない困った輩も中にはいるみたいで、ヨシノちゃんと並んで歩く私に声を掛けたのもその一人らしい。
「おす、碇。今日も五十嵐さんと一緒なんだ。仲いいなぁ」
「幸村には関係ないでしょ」
私が横目で睨みつけてやるとそいつは苦笑いする。名前は幸村といって同じクラスの男子で、気がよくて優しい奴だけど私は苦手だ。いつもいつもおっとりしていて他人とは争わないのを身上にしているような八方美人なところが特に嫌だ。こういう奴は他人のことを本当はどう思っているのか見えてこない。だから、誰にでも似たような態度を取るのならこちらだってただのクラスメイトの一人という立場を崩さなくていいのだと私は考える。まあ、こんな捻くれたことを思っているのはクラスでも私くらいかもしれないけど。現にちーぽんなどはわりに幸村と気が合うみたい。おっとり者同士で波長が重なるのかしらん。
「そういう言い方をされると困っちゃうな。五十嵐さんもおはよう」
ついでのように声を掛けられたヨシノちゃんが頷きながら挨拶を返すと、幸村はまた私のほうに顔を向けて話を振ってきた。最近こいつはやたらと私に話しかけてくるのだ。正直苦手な奴だから対処に困っている。
「社会科の宿題やった? 今日は僕の班が発表当てられるんだよね」
「あー、あれ。遺棄された市街地をどうやってリサイクルするかっての」
「そうそう。旧第3東京跡地公園の話。僕、あそこ行ったことあるけど、何もなかったよ」
「別に放っときゃ森になるんじゃないのって思うけどね。どうせ街の半分は吹き飛んだって場所なんだから」
さすがに話しかけられて無視するほど私も意地悪ではない。だから仕方がなく学校の授業の話などに適当に付き合ってやっていたのだけど、しばらくすると突然幸村はまるで関係ないことを言い出した。
「碇さ、こないだ観たい映画あるって言ってたでしょ」
確かに前々から私が観たいと思っていた映画の題を挙げて幸村がこちらを見る。こいつの前でそんな話をしたっけか。ひょっとしたら訊ねられて答えたこともあったかもしれない。
「僕もちょっと観たいと思ってたんだ」
「ふーん」
足元に転がっていた邪魔っけな石ころを蹴飛ばす。こーんころころ。石ころは勢いよく車道に飛び出していって、気付くと少し咎めるような目でヨシノちゃんが見ていた。
「観たらいいでしょ、観たいんなら」
「明日の土曜日、予定ある?」
いやいや、空気読んでよ。気のないこちらの様子などまるでお構いなしに予定を訊ねてくる幸村に私は苛立つ。そんなもんこいつに答える義理はないけど、少なくともこいつと映画を観に行くという予定がないことだけは百パーセント確実だ。
「もしよかったら一緒に観に行こうよ。なんだったら五十嵐さんとか森とかも一緒でもいいよ」
私の様子が見えていないのだろうか、それとも分かってやっているのだとしたら幸村は思っていたよりずっと図太い奴だ。でもとにかくこいつと一緒に映画に行く気なんてさらさらないってことは変わらない。クラスメイトにばれてからかわれると恥ずかしいからとか、そういうのもないわけじゃないんだけど、それよりなによりこいつのことが好きじゃないんだからしょうがない。もっと仲のいい奴だったらまた話は別だったのかもしれないけどね。ちなみに幸村の言う森とはちーぽんの苗字だ。それこそ仲がいいんだからちーぽんを誘えばいいのに。
というわけで、私は誘いを断った。私の拒絶に動揺したらしくちょっと落ち込んでいた幸村の姿を見て、こちらのほうも心苦しさを覚えてしまった。振るとか振られるとかって、本当に面倒くさい。だってどちらの立場にいるにしても疲れちゃうんだもの。私は今回のことが初めてだったけど、これから先もこんなことがあるのは勘弁して欲しい。
昼休みに屋上で弁当を食べているときにこの顛末を知ったちーぽんは、可愛い柄の箸をぎゅっと握り締めて、ほぇーと言った。もともと私は話すつもりはなかったのだけど、ヨシノちゃんが水を向けてきたので仕方なく話したのだ。ちーぽんもしばらく前に似たようなことをやっているからこの話に何か思うところでもあるだろうかとも考えていたけど、どうもこの件に関しては私よりも幸村の肩を持ちたいらしい。薄情な友達だ。
「だって幸村くん、いい人だよ」
ちーぽんは納得いかないという感じで私に訊いた。けれど人の印象なんて個々人それぞれで、好きじゃないものは好きじゃないのだ。ちーぽんは幸村と仲がいいから肩のひとつも持ちたくなるのは無理ないのかもしれないけど、私は違うし、仲よくなる気もない。それだけのことだ。
「アキラちゃんって案外冷たい」
ちーぽんがぷっと膨れて私を非難する。
「どうとでも」
ちーぽんにこんな顔をされると私としても胸が苦しいけど、どうにもならないことだってある。だからこんな体験談より今は弁当を平らげるほうが大事。
「それに頑固」
炒めものの汁が他に移っちゃってるなぁ。今日はあまり時間に余裕がなかったから雑になってしまった。自分で作ったものだから仕方がないけど。
ちーぽんは生返事をする私を無視してごちゃごちゃと言い続けている。
「せっかく好きって言ってくれてる人がいるのに」
「ああーっ! もう、うるさいなぁっ!」
食べ終えた弁当箱の蓋を壊さんばかりの勢いで叩きつけるように閉めて私は叫んだ。
「いいじゃん、振ろうがどうしようが私の勝手でしょ!? 言ってくれてる? じゃあ何、私は感謝しなくちゃいけないの? 大体そんなに言うんならちーぽんがあいつと付き合えばいい!」
我ながらみっともなくて嫌になるけど、自分でもどうにもならない。カッとなるとわけ分かんなくなっちゃうんだ。それでも大声を出して多少なりとも溜め込んだいらいらを発散した私は、すぐに冷静さを取り戻して周りが見えた。ショックを受けて硬直したちーぽんの顔。
違う、こんなことがしたいんじゃない。
「ゴメン」
気まずくてちーぽんの顔を見られず、弁当箱を巾着にしまう手元に視線を落とす。
「ううん。あたしもなんか口出し過ぎた」
私も幸村もちーぽんも、誰が悪いわけでもないのにどうしてこんな気分にならなければいけないんだろう。男とか女とか、恋とかどうとか考えなければ楽なのに。最近は皆そわそわして、人が変わったみたいだ。
「まあ正確には」
と、しばらくの間私とちーぽんとの応酬に参加せず無言の聴衆となっていたヨシノちゃんが突然口を開いた。
「好きと告白されたわけじゃない。ただ映画に誘われただけで。だから幸村が諦めるかどうかはまだ分からないと思うな」
またヨシノちゃんは余計なことを。じろりと睨んでやったけどヨシノちゃんはどこ吹く風とばかりに卵焼きを口に放り込み、ちーぽんと目配せをし合っていた。
まったくどいつもこいつも。
次の日の土曜日、私は当然幸村と映画を観に行くはずもなく、休日の惰眠を貪るお父さんを尻目に午前中から掃除に洗濯にと精を出し、こんな健気なおさんどん少女なんて今時なかなかいないわ、と自分で自分を褒めてやりたい気持ちになりながら過ごしていた。本当ならどこかに遊びに行きたいところだけどあいにくとヨシノちゃんは剣道部の練習試合、ちーぽんは家族でお出かけ、他の友達も皆掴まらなかったので、意外と寂しがりやの私としては一人で出かけるというのも侘しいものがあるし今日は家でのんびりしていようかなと考えていた。
洗濯物を干すためにベランダに出るとよく晴れた朝の陽射しが気持ちよく射し込んでいて、こういう一日で一番清々しい時間帯にぐずぐずと寝ているお父さんをしょうがないオヤジだなどと陽射しを一杯に浴びながら考えつつ、今日も暑くなりそうだと嘘みたいに真っ青な空を見上げる。私は寒い冬というものを知らない世代だけど、毎日暑いのだってそれなりに悪くはないと思う。大体が大人ってのは後ろ向きなんだ。
ちょうど私の小さくて可憐なパンツの隣にお父さんの変な柄のでっかいトランクスを干している時だった。家の中からピリリリリッ! と携帯電話が鳴るのが聞こえてきた。これはお父さんの仕事用の携帯電話の音だ。しばらく鳴り続けて音はやむ。おそらくお父さんが電話に出たのだろう。けれど私が洗濯物を干し終えてリビングでテレビを見始めてもまだお父さんが部屋から出てくる気配はなかった。
これはひょっとして今日も休日出勤かしらと、嫌味なくらいにハイテンションなテレビ司会者の声を聞き流しながら考えていると、ようやくお父さんが部屋から出てきた。声をかけてくる気配がないので仕方なくこちらから振り返ると、お父さんはなんだかすごくこんがらがった顔をしてパジャマのままぼんやり立っていた。できれば一生顔を合わせたくないと思っていた大嫌いな奴が実は長年探し続けていた生き別れの兄弟だったことを発見したみたいな顔だ。
「何かあったの? 今日仕事?」
私が呼びかけると、
「ああ、いや、仕事じゃないよ、大丈夫。おはよう」
まるきりうわの空でお父さんは答えた。
「朝ご飯食べる? 食パン焼こうか」
「いや、いらない」
「そ。じゃあコーヒー淹れようか」
「うん、頼む」
受け答えは一応しているけれど、どうも見たところ全然大丈夫じゃないみたいだ。心ここにあらずといった様子で突っ立っているお父さんを不気味に感じながら、私はやかんに水を入れて火にかける。コーヒーを用意している間、お父さんは背後で冷蔵庫を開けたりごそごそしていて、二人分を淹れ終えて私が振り返ると、お父さんはいつもは私しか飲まない牛乳を注いだグラスを手にこちらをじっと見つめていた。
「なに?」
「いや、別に」
「ふぅん。それよりコーヒー飲むんじゃないの?」
湯気を立てるコーヒーカップを持ち上げてみせると、お父さんは自分の手の中のグラスとコーヒーカップとを交互に見て、たった今夢から目覚めたという風にぱちぱちとまばたきをしてから言った。
「飲むよ。コーヒーだろ」
挙動不審なお父さんに眉根を寄せてみせてコーヒーを手渡す。
「それどうするの」
「どれ?」
「牛乳」
なみなみと注がれた牛乳のグラスを指差して私は言った。
「ああ、えっと、そうだな、アキラ飲むか?」
「いらない」
右手に牛乳のグラス、左手にコーヒーカップを持ったお父さんと両手を腰に当てた私との間に沈黙が落ちる。たっぷり十秒は経ってからお父さんはうう、とかなんとかうなると、牛乳のグラスを持ち上げて一気に飲み干してげっぷをした。いつも飲まないものを無理にそんな一気飲みしなくてもいいのに。
「これ、流しに」
差し出されたグラスを受け取り、ふらふらした足取りでソファのほうへ向かうお父さんの背中に私は言った。
「パジャマ、脱いだら洗濯かごに入れといてね」
こんな風になんだかとっても変な様子のお父さんをいぶかしみつつ、かといって私はカウンセラーでもテレパシストでもないのでどうにもできないまま昼まで時間が過ぎていった。ひょっとして夜寝ている間にエイリアンがお父さんに成り代わってしまったんじゃないかしらと疑ってじろじろと観察してみたけれど、どうやらそれはなさそうだった。昨日の夜寝る前におかしな行動を取っていたということもなさそうだし、やはり朝の電話が原因なのだろうが、本当にどうしたのやら。心配だ。
大きなお腹の音が鳴って空腹感に気付いた私は読んでいたマンガから顔を上げた。時計を確かめると十二時半を回っている。お昼ごはんを食べなきゃとリビングに顔を出すと、ちゃんと着替えて身繕いをしたお父さんがクラシック専門の音楽雑誌のページを捲っていた。やっと落ち着きを取り戻していつものお父さんに戻ったかしらと正面へ回ってみて、思わず私は足を止めて両手を腰に当て、大きなため息を吐き出した。一定のリズムでページを捲るお父さん。ただし、まったく読んではいない。だって雑誌から俯角三十度ほど外れた絨毯の上をじっと見つめてるんだもの。何してるんだよもう。
「お父さん、ホントに大丈夫?」
「アキラか。どうした?」
顔を上げたお父さんは声をかけられて驚いているみたいに目を丸くして私を見た。いい加減この人をこっちの世界に引き摺り戻さなきゃ、私の忍耐もそろそろ限界だ。
「どうした、じゃなくて。お父さん朝から変だよ。やっぱり何かあったんじゃないの。ドッキリはやめてよ。うちが破産した? それとも悪性の腫瘍が見つかった? 何か犯罪に巻き込まれでもしてる? お願いだから大事なことは隠さないで。私はもうわけ分かんない状態なんだからね!」
ひとしきり叫び終わると私はぎろっとお父さんを睨みつけた。やべ、ちょっと涙出てきた。
そのあと三十分くらい経ってようやく私たちはお昼ごはんのことを思い出した。結局お父さんはあの電話が何だったのか口を割らなかったけど、私が言うような悪いことは一切何もないから安心しろと言うので、仕方なくではあったけど引き下がることにした。基本的に私はお父さんを信じているので、大丈夫というなら大丈夫なのだろう。たかだか父親の様子がおかしかったくらいで騒ぎすぎだと思われるだろうが、何しろ親一人子一人で親戚縁者もいない身の上ではしつこくもなろうというものだ。自立の道にいまだ届かない私にはさしあたって頼る相手が一人きりしかいないのだから。子どもだって必死なんだ。だからもしこれで大丈夫じゃなかったら、見ていろ親父め、私にだって考えがあるぞ。
お昼ごはんのインスタントラーメンを(だって手軽なんだもの。野菜くらいは入れるし、お父さんも文句言わないし)食べていると、じっとこちらを見つめているお父さんに気付いた。
「今度はなに?」
ふーふーしてから麺を啜る。猫舌なんだよね。にゃあ。
「いや……」
お父さんはかぶりを振り、野菜も麺も一緒くたにしてずぞぞぞぞっ! と啜って盛んにあごを動かして咀嚼しながら、また私のことをじっと見つめる。心なしか目元が笑っているようだ。なんだろ、気色悪いな。
「人の顔見て何ニタニタしてんの」
「お前、今度いくつになるんだっけ」
「十四」
花も恥らうお年頃だ。四十手前のおっさんとは違う。
「十四か。大きくなったな。ついこないだまでオムツしてよちよち歩いてたのに。いつの間にかこんなだもんなぁ」
こんなってなによ、こんなって。
「いっちょまえにブラなんか着けて」
「ぎゃーっ! スケベ親父、ブラとか言うな!」
胸を隠して悲鳴を上げる私。わっはっは、と笑うお父さん。朝から変だった我が家の空気はこうして組み直されていく。あ、別にいつもお父さんがセクハラっぽいこと言うってわけじゃないけど。とにかく、それを実感して私は安心していた。
ところが波乱が起こったのは翌日だった。やはりお父さんは嘘をついていたのだ。私は激怒した。そりゃあもう、生まれてこのかたこんなに怒ったことはないってくらいの大激怒だ。正直いってお父さんにはかなり失望させられた。裏切られたといってもいい。
何が起こったのかって?
思い出すだに忌々しい。この私の人生で絶対に絶対にあって欲しくないと思っていたこと、同時にきっと起こり得ないだろうと予感していたこと。けれど予感は私を裏切り、そしてやはりお父さんが私を裏切った。
母が現れたのだ。
「アキラちゃぁん。うちに帰んなくていいのぉ?」
心配しているのか寝ぼけているのだか分からない間延びした喋り方はちーぽんのものだ。現在の時刻は午後九時半。場所は森家、そう、我が友ちーぽんこと森チナツの居室である。さきほど風呂を先に頂いてきて、今度はちーぽんが替えの下着やらを手に向かうところだ。小柄な友人のちんまりした顔からは彼女がもどかしさを感じていることが伝わってくる。
「いいのいいの。あ、もちろんちーぽんの家が迷惑だったら」
「うちは迷惑なんてことはないけど。あたしもアキラちゃんが泊まりに来てくれて嬉しいし。でもアキラちゃんは」
「私のことなら百パーセント問題なし。もうっ、いいから早く入ってきなよ」
半ば強引にちーぽんを部屋から追い立て、一人になった私はため息を吐き出した。両手を腰に当てドアのところに立つ私は主のいなくなった部屋を見渡す。他人の部屋で独りきりになるというのはやはり手持ち無沙汰なものだ。しかしだからといって友人のプライバシーをあれこれと勝手に漁る趣味もないので、ベッドを背もたれに床に腰掛けた。しんとした部屋。壁の向こうからテレビの音と人の話し声がかすかに聞こえてくる。
ところで友人宅に泊まりに来ただけの私がどうして当の友人から帰ったほうがいいのではなどと心配されているのだろうか。実は私が嫌われているからだとしたらとても悲しいけど、それはないはずだと私は信じている。信じたいと思っている。
では答えはどこに? 真相は単純明快。私が外泊に利用している友人宅はこの森家で四軒目であり、同時に私が家に帰らなくなって四日目の夜なのだ。つまり家出中なのである。
とはいえ、どこに泊まっているかは一応お父さんに伝えてあるので家出といっても大したものではない。一言メールでも連絡は連絡だし、この四日間お父さんと一切口を利いていないけど無事にしていることくらいは報せておこうと考えたのは、私がこの家出に求めているものがスリルでも冒険でも、また娯楽でもないからだ。学校にもちゃんと行っている。
人間というものはやることがないと余計なことを考えたり、あるいは思い出したりする。今も私は思い出していた。ちーぽんの部屋の静けさの中で、もう四日前になる日曜の出来事を。
派手な女。
それが第一印象だった。その時点の私には目の前の派手な女が実は自分を産んだ母親だとは思いも寄らない。ただ嫌な予感だけはあった。第六感というやつだ。この女は私にとって望まざる相手だ。そういう予感。
状況を説明すると、今から四日前の日曜の午前中、私はお父さんから一緒に出かけるから用意をするよう言われた。目的を問えば、ちょっとしたドライブだという。特に予定もなく退屈していた私はたまにはそれも悪くないかと考えて了承の意を伝え、ボーダータンクトップにカットオフジーンズという至ってラフな格好に着替えた。けれどお父さんは私の格好を見て何が気に入らないのかしきりと首を捻るのだ。
「どうかした?」
私は訊いた。
「なあ、アキ。別の着ないか。あれあっただろ」
とお父さんが差し出してきたのは、白の半そでのフリルブラウスに黒い膝丈のタックスカート。どちらもすっごく女の子っぽくて可愛らしくて、だから滅多に着たいとは思えないようなやつだった。お父さんが買ってくれた高級でお上品なお洋服。はっきりいってあまり私の趣味じゃないし、ドライブごときで袖を通すものでもない。
「ドライブに行くんだよね」
「……そうだよ? いいじゃないかこれで。このほうが可愛いし」
とりあえず気持ち悪いので可愛いとかやめてほしいのだけど、それはともかくとして大人しくお父さんの希望を受け入れてやるべきか、自分の主張を通すべきか、私は考えた。また何か隠し事をしていることは分かっていた。けれど結局、私を伴って誰かに会う用事でもあるのかもしれないとその程度に考え、折れることにした。この時の私の予想は決して間違ってはいなかったが、まさかその誰かが母だとは夢にも思っていなかった。ただピアノの発表会みたいな自分の格好が滑稽で居心地悪く、顔をしかめてスカートについているリボンを引っ張ったりなどしていたら、調子に乗ったお父さんがカチューシャを差し出してきたので投げ捨ててやった。
こうして私はどこか釈然としないながらも地元から車で一時間半の距離にある風光明媚な避暑地(ていうか山の中)まで揺られ続け、展望ラウンジのある小奇麗で結構大きな建物に到着すると、そこのレストランで金髪の派手な中年女と対面させられたのだった。
軽くウェーブした長い金髪に真っ青な瞳。白人の顔立ち。スタイルのいいスーツ姿で、ヒールの分だけ高くなっている目線はお父さんのそれと同じくらいだ。年齢もおそらくお父さんと同じくらいだろうという印象を受ける。華やかな雰囲気を発散していて、それが化粧が濃いからなのかもとから派手な造作なのかは知らないけど、若くはない。まあでも公平にいえば充分美人というべきなのだろう。
どこかで見たような顔だ、と思いながら、この白人のおばさんはお父さんの何なのだろうと私はいぶかしむ。彼女と正面から向かい合うと、お父さんは隣に立った私の肩に手を置いた。
「えーと」
と長い息を吐き出してから白人女が日本語で言った。
「いつまでもこうしてられないわね。久し振り、シンジ」
ぎょっとした。多分目を剥いて彼女を凝視していたと思う。お父さんが名前を呼び捨てにされるところなんて初めて聞いたし、目の前の女の気安さは気持ちの悪いものだった。だけど、どうやらお父さん本人にとってはなんら不自然なことではないらしくまったく気にも留めていなかった。
「そうだね」
お父さんが頷いて答える。
「六年ぶりくらいだったかしら?」
「それくらいだ。六年か、七年」
謎の女とお父さんとの間で言葉がやり取りされる。それから言葉以外の何かも。
混乱する私の肩の上でお父さんが手を動かし言った。
「アキラ、この人はアスカ・ツェッペリン。アスカ、この子がアキラだ」
挨拶するよう促されてそれに従う。お父さんもこの女のことを呼び捨てにしている、ということに引っ掛かるより先に、ある映像が私の脳裏に浮かんでいた。ずらりと並んでフラッシュを浴びる人たち。ぴかぴかの宇宙ステーション。ツェッペリンという聞き覚えのある名前。見覚えのある顔。
「あなたのこと、テレビで……」
何を言っていいか分からないまま口をついて出た私の言葉に『ツェッペリン博士』は目を細めてこちらを見、しかし私には答えずお父さんに向かって言った。
「この子がそうなの?」
口紅で彩られた口元が皮肉げに歪んでいた。この子、とは私のことだろう。お父さんが頷く。でも私には分からない。何が「そう」なの?
「ということは今年で十四歳?」
「そうだ」
今度は口に出してお父さんが答えた。ふぅん、とツェッペリン博士は相槌ともため息ともつかない反応を返し、私のことをじっと見つめた。ひるむような青い眼だ。
私の名をお父さんが呼んだ。肩をぐいと引かれて向き直らされ、私はお父さんのひどく真剣な顔を見上げた。お父さんが何か打ち明けようとしている。それは悪いことだ。予感のようなものが閃いた。いつもは余り当てにならない予感だけど、この時ばかりは違っていた。
唇を湿らせて、ゆっくりとお父さんは言った。
「アキラ、よく聞いてくれ。この人は、アスカは、お前のお母さんだ」
あとになって考えてみてもどうしても分からないのは、この瞬間私はどんな顔をすればよかったのかということだ。誰か教えて欲しい。誰でもいいから。神様とか悪魔とか、そんな連中でも構わないから。お願いよ。
私はどうすればよかったの?
「ごめん、お父さん。言ってることがよく分かんない」
これはもちろん私の台詞。お父さんはすっと眉をひそめ、それから取り繕ったような笑みを浮かべて言った。
「突然のことでお前も驚いたかもしれない。でもお母さんが生きていることは前から知っていただろう。お前がさっき言ったようにアスカは宇宙ステーションの開発の仕事をしててな、その関係でこの度来日することになって、それでたまたま連絡が取れたんでお前にも一度会わせたいと思って今日ここで待ち合わせることにしたんだ」
大体このようなことを言っていたけれど私はお父さんの言葉をほとんど聞き流し、ツェッペリン博士を見つめていた。睨んでいた、といってもいいかもしれない。
彼女は目を細めにやりと笑って言った。
「久し振りね、アキラ」
「会うのは初めてだと思いますけど」
私の記憶に間違いはない。しかし彼女は忌々しいにやにや笑いを収めず。こう答えた。
「そんなことないわよ。あんたが産まれた時に『初めまして』は済ませたでしょ。……憶えてない?」
初見から嫌な感じはしていたが、けれどこれで確信に変わった。
こいつは嫌な女だ。
産まれたときに会ったのを憶えていないかなどとぬけぬけと訊ねて首を傾ける態度に私がむっとしたのは察しただろうが、彼女はお構いなしに私の頭の先からつま先までを眺め回し、言うに事欠いて次にようにほざいた。
「可愛い服ね」
最悪だ。
あまりに回想に没入していたせいで、しばらくの間私はそれに気付かなかった。かたんという物音がしてそちらに顔を向けてみると、少しだけ開かれたドアの隙間から小さな身体と好奇心に溢れた小さな顔が覗いていた。ちーぽんの弟だ。
「どうしたの?」
一体いつから覗いていたのだろうと思いながら訊ねたけど、彼は答えず、そのふっくらとした顔に照れ笑いのようなものを浮かべた。小学校の一年生だと聞いているが、まだまだあどけなくて可愛いものだ。アジア系らしくない私の顔が面白いのだろうか、じっと見つめてくる様子もなんとなくいじらしい。もっとも実の姉であるちーぽんなどは、弟はうるさくて生意気だと言ってはばからず、今は小さくてもいずれクラスの男子たちのようにバカでエッチでむさ苦しいニキビ面になるのかと早くも嘆いている。お姉ちゃんって大変なのよう、と。
その見かけによらず苦労人のお姉ちゃんはというと現在入浴中で、きっと弟くんはお姉ちゃん目当てで部屋を訪れたものの、客人である私しかいなかったものだから面食らってしまったに違いない。
「お姉ちゃんなら今お風呂に入ってるよ」
今日が初対面ではないのだけど、一緒に遊んであげたことがあるというわけではないし、私は年下の子どもの扱いに慣れていないのでどうしたらいいか困ってしまう。こういうのが地域内の交流を持たない現代社会の弊害なのかと社会科の教師が喋っていたことを思い出しつつ、自分でもぎこちないと分かる笑みを顔に貼り付けて努めて優しく問いかけた。
「たっくん、お姉ちゃんが帰ってくるまでこの部屋にいる?」
しかしたっくんは(本当の名前は知らない。ちーぽんの家族が皆たっくんと呼んでいたので私もそれに倣っただけだ)またしても何も答えず、ふるふると首を振ってみせた。
「あ、そうなの……」
さて、どうすればいい。私が誘い、たっくんが断った。普通はそこで終わりだけど、何しろ相手は六歳児だ。私には行動の予測がつかない。今もまだ扉の隙間にはまり込むようにしてこちらをじっと見ている彼をさらに構ってやったほうがいいのだろうか。それとも無視していてもいいのかしら。というかちーぽん早く帰ってきて。
ところが私が気まずさを感じながら態度を決めかねているうちに、どうやらたっくんのほうがどうするか決めてしまったようだ。彼はその幼い顔に不可思議なはにかみを浮かべたままそろりそろりと後ずさりし、静かに扉を閉めて去ってしまった。
ちーぽんが戻ってきてからまず私が口にしたのは、もちろんたっくんのことだった。彼が部屋に来て何も言うことなくまた立ち去ったと話したら、ちーぽんはなんだか変な顔をした。訳知り顔でやれやれとばかりに笑ったのだ。
「あの子、アキラちゃんのことが好きなんだよ」
「え、そうなの?」
わお、と私はなんだかよく分からない驚き方をしてちーぽんと顔を見合わせた。
「かーわいい」
「えー、あいつうるさいだけだよぅ」
「私もっと構ってあげたほうがよかったかな」
「いーよいーよ。どうせ邪魔なだけなんだから」
ひらひらと手を振っているちーぽんの、こういう遠慮のなさはきっと兄弟ならではのもので、一人っ子の私にはよく分からない感覚だ。余所の格好いいお兄さんや優しいお姉さん、可愛い弟妹を羨ましいと思ったことはあるけど、母がおらずお父さんと二人で暮らしていた私は、兄弟というものがどうやってできるのか理解する以前から、うちの家に兄や妹が増えることはないのだと感覚的に知っていた。そして兄弟ができる仕組みを理解して以降は、そのことを考えるのを極力避けるようになった。何故ならその頃すでに母がどこかで生きていることを知っていた私は、自分に兄弟がいないという確信を失ってしまったからだ。世界のどこかに私の異父兄弟、私と血の繋がった子どもたちがいるかもしれないと考えた時の気持ち悪さ。だからそういう可能性を私は頭の中から締め出したのだ。もちろん母もお呼びじゃない。バイバイ・ブラザー。バイバイ・マザー。
そのあとちーぽんと私は取り留めのないお喋りをして夜を過ごし、十二時ごろにちーぽんのお母さんがもう寝なさいと注意に来て、私たちはちーぽんのベッドに枕を並べて潜り込んだ。まるで姉妹のように。
豆電球だけがつけられた部屋のオレンジ色がかった暗闇の中で、ちーぽんと私の息遣いがやけに大きく聞こえていた。
「アキラちゃん、起きてる?」
友人の呼びかけに私は閉じていた目を開き、のっぺりとしたくらいオレンジ色の天井をじっと見上げた。そして答えた。
「うん」
暗闇によく響く分、私たちはまるで内緒話をするように声を潜めて囁きあった。
「アキラちゃん、本当に大丈夫?」
私と反対側の壁を向いたまま(目は閉じているのだろうか?)ちーぽんが静かに私に問いかけた。
家を飛び出して四日目にして私は初めて他人に日曜の出来事を(簡略ではあるが)打ち明けた。つまりちーぽんに初めて話したのだ、私の母のことを。それ以前の三人には申し訳ないけど、お父さんと喧嘩したとしか説明していない。それでも彼女たちは大いに同情してくれたのだけど。
ちーぽんが私の話を聞いて正確にはどう思ったのかは定かでない。ただ仲のよい友人として変わらず接してくれたことがありがたかった。日曜からずっと自らの神経を張り詰めさせていた手にそっと触れられたような気がした。少し休んでいいよ、と。
だから私は正直に答えられた。
「分からない」
突然現れた母を私は嫌な女だと思ったけど、しかしそれはどちらかといえば些細なことで、むしろお父さんの裏切りによほど衝撃を受けていた。つまりお父さんの私に対する無理解に。もちろん親子とはいえ何もかも理解し合えるわけではないということが分からない歳ではないし、所詮口に出さないことは伝わらないものだ。口に出してさえしばしば誤解があるのだから。だけど、それでも私はお父さんの勘違いに腹が立ったのだ。私が母に会いたがっている、あるいは母に会えば喜ぶだろうという、はなはだしい勘違いに。私には分かっていた。母に会いたかったのは、あの女に会って喜んでいたのは、他でもないお父さんだ。その気持ちを勝手に娘の私に押し付けて勝手なことをしたのに腹が立ってしょうがなかった。
「ただ、会いたくなかった」
「うん」
「どんな形でも、私の前に現れないで欲しかった。死ぬまで放っておいて欲しかった」
「うん」
話していると知らないうちに涙が溢れてきて、私は止めようと頑張ったんだけどどうしても止まらなくて、ぼろぼろと泣きながら天井を見上げて途方に暮れていた。きっと独りだったら大声を上げてみっともなく取り乱していたんじゃないかと思う。隣で私に背を向けて寝ているちーぽんの存在がとても心強くて、まるで小さな女の子になったような頼りない気分に陥ってしまっていた。
「私……わたし……」
「うん」
ぐずぐずとしゃくりあげる私とそれに相槌を打つちーぽんがいつ眠ったのか分からなかったけど、この分では明日の朝は顔がひどいことになっているなと泣きながら思ったのは覚えていた。そして翌日、その通りになった。赤白のパンダみたいになった私はちーぽんに心配されつつ笑われ、たっくんには怖がられた。私のこと好きなくせに、男ってのは現金だと思う。
金曜にはヨシノちゃんのところへ泊めてもらうことになっていた。ひとまず月曜から始まった私の家出生活もこれで平日はすべてクリアできることになるのだけど、問題は続く土日だ。泊めてくれそうな友達もとりあえずこれで打ち止めだし、お金もそれほど持っているわけではない。仮に一泊分のホテル代はなんとかなったとしても、それ以前に中学生の女の子一人にすんなり部屋を貸してくれるものかどうか疑問だ。かといってお金を掛けずにどこかで夜明かししようと思うほど私は(女の子として)勇敢でも愚かでもないし、それに結局は一夜明ければ、まさしく太陽が昇るように問題は私の元に戻ってくる。でもこのまま家に帰るのもしゃくだ。
さてどうすべきかと私が悩んでいると、助け舟を寄越してくれたのはヨシノちゃんだった。
「土曜も私のうちに泊まればいい」
理科の移動教室のために教材を手に廊下を並んで歩いていると、こともなげにヨシノちゃんは提案した。
「でも二日も連続でおうちの人に迷惑じゃない?」
いまさらこの私が恐縮してみせるのもかえっておこがましいような気がするけど、ヨシノちゃんはなんでもないという風に肩を竦めて答えた。
「うちの家族ならむしろ喜ぶと思うね。根が善人で単純だから」
「もしそうしてもいいんなら私は本当に助かるんだけど」
「いいよ」
「ありがと」
「うん。私としてもそのほうが助かる」
一瞬ヨシノちゃんが何を言ったのか理解できなくて、思わず私は隣を歩く友人の横顔を見つめた。そこには学生服の広告モデルのような模範的な顔でも、剣道部副部長の凛々しい顔でも、また私やちーぽんに見せる可愛くてちょっととぼけた顔でもなく、これまでに見たこともないような表情があった。
問いかけの言葉を探そうと思った。どうしたの、何かあったの、どうしてそんな顔をするの。でも口を開こうとした途端に私は前を歩く人の背中に思い切りぶつかって尻餅をついて転んでしまった。
「いったーい」
後ろから突然ぶつかられたのにびっくりして「大丈夫か」とか言いながら振り返ったのは同じクラスの男子だった。でもぶつかった張本人がクラスメイトの私だと確認すると、気遣いの表情が消えて代わりに呆れのようなものが浮かび、それは続く彼の言葉にも如実に表れていた。
「鈍くさいなぁ、お前」
「悪かったね。あんたがでかい図体してるから」
「大丈夫か」
「うん。ぶつかってごめん」
やれやれ、これだから女は、みたいなちょっとむかつく顔で廊下に散らばった教材や筆箱を拾って渡してくれる。私はすごく失礼な態度だわ、と思いながらもぶつかったのはこちらなので殊勝にも礼を述べつつそれを受け取り、ついでに離れたところからこちらを見ている幸村が視界の端に留まったので睨みつけてやった。自分の好きな女子の転ぶ姿がそんなに面白いもんかしらね。やれやれ、これだから男は。
「気をつけなよ。アキラはそそっかしいんだから。余所見でもしてたの?」
私にぶつかられた男子が再び歩き出すと、まるで保護者みたいな口振りでヨシノちゃんに声を掛けられた。あんたのことを見てたんだよ、と毒づいてやりたくなりながらもその衝動をこらえて、いまだ廊下に尻餅をついたままの私は澄ました顔をして高飛車に手を差し出した。
「立たせて」
「偉そうに。君はどこのお大尽の令嬢だ一体」
よく分からないツッコミを入れつつ、ヨシノちゃんは私の手を掴むと力強く引っ張って立ち上がらせてくれた。さすがに剣道で鍛えられているだけのことはある。下手をするとそこらの男子よりも逞しいんじゃなかろうか。礼を言い再び歩き出してから私はさきほど訊き損ねた疑問を口にした。
「土曜日、私がいたほうがいいの?」
「別に……ちょっと土曜は暇だっただけ。だからアキラがいればいいなと思って」
それはきっと嘘だ、と思ったけれどそこでチャイムが鳴り出して駆け出したために、結局それ以上のことは分からなかった。もちろん、土曜日には自然と判明することなのだろうけど。
自分でも意外だったことに、ヨシノちゃんの家にお邪魔するのはこれが初めてのことだった。今時珍しい門構えも立派な堂々たる日本家屋で、どう少なく見積もっても我が碇家の城より三、四倍は敷地面積がありそうだ。当然、庭は別として。ちなみに我が家の入っているマンションの名称が「○○キャッスル」だというのが笑えない冗談なのだけど。それにしても果たして前世でどんな功徳を積めば生まれながらにこんな家に住めるのだろうか。後学のために是非とも知りたい。
「ヨシノちゃんってお嬢さまだったんだね」
思わず私がそう感想を漏らすと、ヨシノちゃんは目を剥いて反論した。
「人をそんな天然記念物みたいな呼び方しないでよ」
「だって私、ちょっと驚いちゃって」
門の内側に入ると外からはよく見えなかった家の様子がよく分かる。先ほどのヨシノちゃんとの掛け合いではないけど、重要文化財に指定したっていいくらいの文句なしの日本家屋だ。仮に教科書に史跡として写真が載っていてもまったく不思議じゃない。門扉から玄関まで石をはめ込んだ道がつけられていて、左右にはよく手入れされた庭がある。ねじくれた松とかちょっと登ってみたい岩とか餌に飢えた鯉が群れる池とかがあるようなやつだ。私の家はマンションで庭なんてないので、これだけで物珍しい。馬鹿みたいに口を開けてきょろきょろしているとわんわんと犬の吠える声が聞こえて、犬を飼っているのかと思っている間に中くらいのなんだかすごく可愛いのがヨシノちゃんに飛びついてスカートにじゃれつき始め、
「一応うちの番犬」
というヨシノちゃんのちょっと情けなさそうな言葉を聞いて、確かにどうもこいつは番犬として役に立ちそうにないなと私は思った。なにしろこの動く毛玉(残念ながら私には犬種は分からない。聞いてもきっと覚えられないような種名だろう)ときたら、おりゃーって感じに尻尾をぶるんぶるん振りまくり、ヨシノちゃんの脚の間に顔を通すのに夢中になっていて、私という新参の侵入者にまったく注意を払っていない。
「いつもこんなの?」
「大体」
まあ犬はともかくとしても、間近で見てみたらますますヨシノちゃんの家はすごい。まるで玄関を開けたら使用人が三つ指突いて出迎えてきそうな気配すら漂う五十嵐邸の佇まいだ。私でなくとも大概の人間は感心するだろう。
「そんなものいないよ。旧いだけが取り柄の家なんだから。物も旧ければ人も旧い」
などと自らの家と家族に対して結構なことをのたまいながらヨシノちゃんはようやくのことで飼い犬を引き剥がして玄関を開けて私を招き入れてくれた。期待に反してというべきか、残念ながら使用人の出迎えはなかった。
家にいたのはヨシノちゃんのお母さんだけだった。ヨシノちゃんとお母さんは少し似ている。親と子が似るというのは当たり前といえば当たり前なのだけど、考えてみればすごいことだ。上品で綺麗なヨシノちゃんのお母さんは私の持っていた派手でケバケバしくて宝飾品をじゃらじゃら纏っているという金持ちマダムのイメージを見事に打ち砕いてくれた。まあ私の偏見についてはどうでもいい。ヨシノちゃんのお母さんは娘の友達が泊まりに来るなんて初めてだと顔を綻ばせて私に言い、私がヨシノちゃんにそうなのかと問い質せば、そうだけど悪いかと素っ気なく返され、するとあらあらこの子ったらごめんなさいね碇さんへそ曲がりな子で、などと一体ここはいつの間にどこのメルヘン世界なのよ。めまいがしてくる。ちーぽんのお母さんはきっぷがよくて肝っ玉で(ちょっぴり太ってて)典型的日本のお母さんって感じなのだけど、こちらはどう表現していいものやら、目下のところもっとも私が疎いジャンルのことだから言葉がどうにも見当たらない。ヨシノちゃんの少しぶっきらぼうな性格はこの環境の反動かもしれない。そうだとしたらもしもヨシノちゃんのお母さんがちーぽんのお母さんみたいな感じだったら、きっと今いるヨシノちゃんとは少し違った女の子になったに違いない。するとつまり、もしも私の身近にずっと母親がいたとしたら(あの嫌味女がそれというのは大いに不満だけど)、今の私はいなかったということだ。仮定の話をしても仕方のないことなのは分かってはいても、私は考えずにはいられない。もしあの女がいなかったら(あるいはお父さんと結婚しなかったら)私という一切はあらかじめ存在していなかった。オーケー、じゃあ産んでくれたことを感謝しろとでも? 答えは、とても難しいよ。とても難しい。
夕飯の準備のできる少し前にヨシノちゃんのお姉さんが一人の男性を伴って帰宅した。この私以外の二番目の客人の存在はヨシノちゃんたちにとってどうやら既知の事柄だったらしく、どうも私がいたら助かるとはこのことだろうかなどと勘繰ってみたりなどする。お姉さんの彼氏が家にいる状況が落ち着かないのだろうか。本人に直接問い質すことはしなかったけど。
ヨシノちゃんのお姉さんはびっくりするくらいの美人で、まるで精巧な人形が生命を吹き込まれて動き出すのを見守るような、畏怖さえ感じさせる容貌をしていた。あとで二人になった時にあんなに綺麗な人は生まれて初めて見たとヨシノちゃんに感嘆を込めて告げると、ただ一言「分かってる」と返された。なるほど規格外の美女の妹をやるというのも並大抵ではないのかもしれない。だから反動でヨシノちゃんはひねくれて、というのは冗談だけど。半分は。
それで、そのとんでもない美人のお姉さんが連れ帰ってきた男性についてだけど、こちらのほうは釣り合いという側面から見れば凡庸そのもの、際立って容姿に優れているわけではなかったけど、見るからに好青年という印象だ。眼鏡をかけた頭の良さそうなお兄さん。清潔で、誠実で、物柔らかで礼儀正しい。そして何よりヨシノちゃんのお姉さんを見る時の、レンズの奥から向けられる眼差しの優しそうなことといったら! 正直に白状しよう。私は少し(いやかなり)ときめいていた。ほとんど恋に落ちようとしていた、といってもいい。しかしもちろん私は落ちなかったし、正確には憧れと表現したほうがよさそうだ。そりゃあ、憧れもする。女の子はいつだって年上の男に憧れる準備ができているのだ。そして与えられる機会は一瞬で構わない。しかも勝算ははなっから計算外だから、これ以上手軽なものもない。
まあそれはともかく、聞けばこの男性はヨシノちゃんのお姉さんであるマリコさんの許婚なのだそうだ。今時そんなものが、と完全無欠の一般庶民である私からすれば呆れ返るほかないけれど、事実そうなんですと言われれば、はあそうなんですか、としか返しようがない。ようするにこれもヨシノちゃんの零す「旧い」ところなのだろう。つまりは私の(あるいは誰であろうと)抱いた憧れなり恋心なりは吹けば飛ぶような他愛ないもので、いくら素敵だと小さな胸を焦がしてはみても、もうずっと以前から外堀も内堀も隙間なく埋められてしまっている状況は今日が初対面の私にだって分かりすぎるくらいに分かることで、初めから勝負が成立していないのだ。とりわけマリコさんの世に二人といないだろう空前絶後の美女ぶりには完全に白旗を揚げるしかない。しかも(そう、しかもだ)夕食の席でいくらか言葉を交わし、また観察した結果分かったことには、どうもマリコさんはいい人らしい。好きか嫌いかと問われれば、私はマリコさんのことが好きだと答えるだろう。あるいは好きになれそうな人だと。だから、恋のようなものをしずしずと引っ込めて憧憬の眼差しで年上のカップルを眺めるということはとても簡単なことで、むしろそれがほとんど最善にして唯一の採るべき道に違いない。
でも、私はこうも思う。私たちは一度本気になってしまうと、かくも容易く自らの想いを殺すことなどできはしないんだ、と。私たちは時として望みのない道を、可能性すら見出せない選択肢を、誰に指摘されるまでもなく自らが一番深く理解していながらもなお選ばずにはいられない。ヨシノちゃんを見ていて私はそう思ったのだ。
「秘密のひとつも打ち明けなきゃ『腹心の友』とは言えないから」
ヨシノちゃんはそのように切り出した。
初めて彼に会ったのはヨシノちゃんが六歳の頃だったそうだ。ちょうどヨシノちゃんが小学校に上がり、そして現在二十二歳の彼が十四歳の頃。今の私たちと同じ年齢だ。もともと旧い一族同士付き合いはあったのだという。でも急接近したのはヨシノちゃんたちの父親の代だった。この辺りの詳しい経緯はヨシノちゃんいわく「耳タコの話」として披露されたけど、省くことにする。とにかく彼は十四歳の時、両親とともに初めて五十嵐邸を訪問し、そこで二人の姉妹と出会った。すなわち十三歳のマリコさんと六歳のヨシノちゃんに。
それから年に数回お互いの家を行き来するということがしばらく続いたらしい。一年に数回のこのイベントはヨシノちゃんにとって(このくだりで、それまで淡々と語るのみだったヨシノちゃんは過去の幸福に目を潤ませ劇的に表情を変えた)何よりの楽しみだった。これ以外の三百数十日はおまけのようなものだ、とは言い過ぎだけど、実際にそう思うことすらあった。理由はむろん彼にある。ヨシノちゃんはそれと気付く以前から彼に恋をしていた。彼を想うだけで胸は温まったし、実際に会えば天にも昇る心地だった。付け加えれば、現実的な意味で彼は優れた遊び相手としてヨシノちゃんを楽しませる天才だった。マリコさんがいるから独り占めはできないけれど、それでも幼いヨシノちゃんにとってはひとまずは充分だった。
しかしささやかな幸福の時代は過ぎ去り、ヨシノちゃんが十二歳の時に彼女の与り知らないところで勝手に審判は下された。当時二十歳の彼と十九歳のマリコさんが以後許婚として付き合うことに決まったという。そこにはヨシノちゃんの意思が割り込む余地など髪の毛一筋ほども残されてはいなかった。初めからそんなものは用意されていなかった。
ことの次第はこうだ(とお母さんから語り聞かされた時のヨシノちゃんの屈辱を、私は想像する。あるいは今私たちがいるヨシノちゃんの居室でお姉さんと彼との関係を推し量る彼女の孤独を)。マリコさんと彼とは許婚と定められる以前から密かにお互いに惹かれ合っていた。一年に数回顔を合わせるたびにヨシノちゃんがその小さな胸を躍らせたように、マリコさんもまた無邪気な妹よりもずっと自覚的な恋心をいつの頃からか育んでいたのだろう。そしてそれは彼もまた同様。やがて二人はお互いの家族の目を盗んで二人だけの時間を持つようになり(ヨシノちゃんはその事実にまったく気付かない)、一年に数度の逢瀬では到底足りなくなった彼らはこっそりと連絡を取り合い、電車で二時間という両者の間に立ち塞がる壁も乗り越えて会うようになった。これがお互いの両親の知るところとなるのはもちろん時間の問題で、すぐに親たちは話し合い、ひとつの結論を出した。いずれにせよ好ましからぬ事態とは必ずしもいえなかった。もしそうなら初めから会わせたりはしないからだ。だからいっそのこと両家公認ということにしてしまおうと結論したのだ。そのほうが色々と面倒がないのだろう。子どもの恋愛に親が揃って首を突っ込むのも野暮の極みだけど、ようするに両家ともそういう家だった。マリコさんと彼にとっても悪い話ではなかったので、プライドを見せるために飛びつきはしないものの内心嬉々としてこの提案(または命令)を受け入れたのは言うまでもない。
かくして、これら諸々の事情が推移したあとになってようやく、まるで夕飯の献立を伝えられるようにヨシノちゃんは何が起きたのかを知った。あるいは終わったのかを知った。じゃ、そういうことだから、という風に。
十二歳だ。こうしてヨシノちゃんの恋は終わった。けれど本当はまだそれは始まってさえいなかったのだ。だから終わることもない。終わらない恋なんてほとんど最悪といっていい。
以上がヨシノちゃんの秘密。私は思い出す。「私は恋をしない」というヨシノちゃんの言葉を。もしもヨシノちゃんが慰めを求めているのだとしたら、明け方までずっとそれを与えられただろう。でもヨシノちゃんはそんなもの求めていなかった。ただ打ち明けてくれた。だから私もただ受け取ることにした。言葉をどう尽くそうとも、きっとこの想いを支えきれないから。
さて、もちろん次は私の番だった。ちーぽんに対してしたのと大方同じ説明をする。
ここでひとつ断っておかなければならないのが、所詮私たちはいい加減な具合に脱力した現代っ子で人生を通してシリアスになれる場面というのはそう多くはなく、今この場での私たちはかなりそれに近かったけど、深刻さや真剣さを本当に味わうにはまだ足りなかった。私たちはまだ気が散り過ぎている、といってもいい。顔の右側で泣きながら左側で笑うことができる年頃なのだ。
閑話休題。そういうわけで、私たちはそれなりに真剣にそれぞれの秘密を打ち明けあったわけだ。私の番になると、ヨシノちゃんもまたちーぽんと同様に多くの反応を返さなくなった。多分迂闊なことは言えないとでも考えているのだろう。こういう家庭の問題という奴はちょっとヘビーだから。私だって友達から似たような話を突然打ち明けられたら困ってしまう。振り返ってみれば私はこの一週間で色んな人に迷惑を掛けているような気がするけど、まあそれはいい。基本的にちーぽんと同じく黙って聞くというスタイルだったヨシノちゃんなわけだけど、ひとつだけ違ったのは私の話が一通り終わったあとで、はっきりとこう言い切ったことだ。
「アキラ。明後日は家に帰りな」
できればずっと忘れていたかったというのが本音だけど、実際問題としてこれ以上家出を続けることが難しいというのも事実ではあった。というより物理的不可能という障害はほとんど私の気持ちなんてお構いなしに目の前に横たわっていた。
「アキラのお父さんが心配してるよ」
「どうだか。あの女がいりゃそれで満足なんじゃないの」
こういうのは自分で言って傷つく言葉だ。
「心配してるよ」
ヨシノちゃんはそう繰り返した。まるでそれが一番重要なことだとでもいうように。でもそんなの知ったことじゃない。心配するなら勝手にすればいいんだ。私は私で好きにやらせてもらう。お父さんのように。そうするだけの権利が私にはある。
「それはわがままだ」
「違う」
ヨシノちゃんの言葉に反射的に私は言い返す。
「アキラはお父さんに仕返ししてるんだ。お母さんとのことが気に入らなかったから。その仕返し」
「違う」
「違わない」
「違うッ!」
ヨシノちゃんはひどい。友達なのに。
「違うもん……。何よ、ヨシノちゃんなんて私のこと全然分かってくれない」
悲しくて悔しくて涙が出る。
「分かってる。少なくとも今のアキラが逃げてるってことは分かってる」
「私、逃げてなんか」
逃げてなんかいない。ただ今はお父さんの顔を見たくないだけ。だからこれは違う。逃げてなんかいない。かぶりを振るけど言葉は続かなかった。酸欠の魚みたいに口を開け閉めする。
「私は」
ヨシノちゃんが言った。まるで自らに言い聞かせるように。宣言するように。
「逃げないことにした。もう逃げるのはやめた」
「ヨシノちゃん……?」
「だってこのままじゃあまりにも惨めだ。私は惨めなのは嫌だ」
翌日、ヨシノちゃんは自らの言葉をまさしく実行した。昨晩から五十嵐邸に宿泊している例の彼を人目を忍んで離れまで連れて行って二人きりになり、告白してしまったのだ。おお、なんてこと!
――小さな頃からあなたといられるだけで嬉しかった。子どもだからって馬鹿になんてされたくない。私は本気だった。でもあなたは鈍感な人で、その目には姉さんしか映っていなかった。あなたに夢中になっている女の子がここにもいるってことを、これっぽっちも気付いてはいなかった。平気な顔して姉さんと肩を寄せ合って笑っているあなたのことが恨めしかった。でもそれはもういい。あなたと姉さんはいずれ結婚する予定で、そこには私が入り込む余地なんてまったくなかったというのは本当なんだから。ただ、私のこの気持ちまでこのまま消えてしまって初めからなかったのと同じことになってしまうのは我慢できない。それだけはどうしても我慢できない。
だから私は言う。あなたのことが好きだった。好きだった。本当に好きだった。
そしてあなたはこう言う。君の気持ちには応えられない。僕が好きなのはマリコなんだ。応えられない。
はっきりと言葉に出してこの私を拒絶して。それだけが今の私には必要だから。
――僕はマリコを愛してる。だから君の気持ちには応えられない。
――そう。
――ごめん。ありがとう。
この直後に頬を引っぱたくものすごい音がして、私が離れの脇ではらはらとしていると、せいせいしたという表情のヨシノちゃんが足取り確かに現れて、
「おまたせ」
と見張り役(兼盗み聞き)を果たし終えた私に向かってさばさばと言った。
ヨシノちゃんはすごい。私は圧倒されていた。感動していた。叫びだしたいくらいだ。私の友達を見てよ。最高にいい女でしょう?
この瞬間、私のヨシノちゃんに対する友情はほとんど崇拝の域に達していた。だから、告白の行われた離れから庭伝いに母屋へと戻る途中、突然に立ち止まったヨシノちゃんが泣いていることを発見した私はハルマゲドン級の衝撃に見舞われた。かける言葉を考える暇もなく私まで何故だか泣けてくる。なんでアキラまで泣いてんの、とヨシノちゃんがつっかえつっかえに言えば、うるさいな私だって知らないよ、と私が言い返して咳き込む。なんだってこんなことに、あーあもう本当にしょうがないなぁ、と。私たちは不細工な泣き顔をお互いに見せ合いながら、とにかく泣いた。泣いて泣いて、もう一生分の涙を使い果たすくらいに泣いた。少なくともそう思わせるくらいにこの涙は大事な涙だったのだと思う。不思議なことに庭の真ん中にいるというのに誰にも見咎められることなく私たちは泣き続けた。まるで私たちのためにこの場所と時間が特別な計らいで与えられたかのように。誰も私たちの邪魔をしない。唯一そばへ寄ってきたヨシノちゃんの番犬以外は。しばらくの間彼は私たちの周りをぐるぐる回りながらへっへっへ、とか言っていたのだけど、そのうちに痺れを切らして散歩へ連れて行ってくれ、と訴え始めた。もちろん私たちはそれどころじゃない。でも彼が自分でリードまで咥えてきて早くしてくれとヨシノちゃんを急かすので、とうとう私たちは涙を引っ込め、準備をして二人と一匹で散歩に出かけることになった。
「じゃあ行くぞ、ケプラー」
ヨシノちゃんが声をかけると五十嵐ケプラーくんはわわんと鳴いた。この馬鹿犬め、私たちのことなんて本当にお構いなし。待ちに待ったお散歩に一気にトップギアに切り替わったケプラーに引っ張られて私たちの頬に残る涙の痕跡は速やかに消し去られ、代わりに散歩が終わって家に帰りつく頃には汗をかいてくたくたになって、出迎えてくれたヨシノちゃんのお母さんからは優雅に驚かれ、その後ろから顔を出したマリコさんによって強制的にシャワーを浴びさせられて、そのあと着せ替え人形にされた。ヨシノちゃんは迷惑顔だったけどマリコさんは楽しそうにしていたので、こういうのもいいんじゃないの、と私は誰にも聞こえないように呟いて笑う。でもメルヘンは勘弁。ちょっと私の柄じゃない。
そういえば、愛してるなんて言葉を生で聞いたのは初めてだった。
日曜は朝から雨だった。私はヨシノちゃんにまっすぐ家に帰るよう釘を刺され、マリコさんとお母さんにも見送られて午前九時すぎに五十嵐邸をあとにした。ヨシノちゃんたちはこれから色々と用事があるらしい。それはもちろんあのマリコさんの許婚も一緒で、すぐにとは行かないかもしれないけどヨシノちゃんと彼とはきっと上手くやっていけると私は思い、心の中でエールを送った。ともかくこれでいよいよ私は一人になって、この一週間私を悩ませてきた問題と対峙しなければならないというわけだ。
ヨシノちゃんから借りた真っ赤な傘を差して降りしきる雨の中を私はとぼとぼと歩く。ここから私の家まで歩いておよそ十五分ほど。それが私に残された時間だ。この一週間、私は毎朝お父さんにその日の外泊先をメールで知らせていたのだけど、今日はまだ連絡を取っていない。きっと家に帰れば怖い顔をしたお父さんにこっぴどく怒られるのだろう。どんなに私がそれを一方的だと感じたとしても。あるいはもう怒りもしないだろうか。勝手に家を飛び出して一週間も戻らないような娘はもう知らないと。
雨脚が強くなっていく。かすかに遠雷が耳に届き、足元で撥ねる水が段々と靴や靴下を浸食する。このまま、と私は思う。嫌なことも何もかも洗い流されてしまえばいいのに。いっそこの一週間がまったくなかったことになり、母の顔を知らない私に戻れたらいいのに。けれどもちろん雨はただの雨でしかない。だから私は真っ赤な傘を広げて自らの身を守る。すでに道路は川のようになりつつあった。大気に立ちこめていた雨の匂いすら掻き消すほどの勢いで無数の雨粒が叩きつけ、それが川を成して流れていく。周囲はけぶり、真っ赤な傘に覆われた私の空間だけが世界から切り取られる。船首は正しい方向を向いている。私のちっぽけなボートは帰港する。
マンションのすぐそばまでやって来て、エントランスの前に真っ黒い車が停まっていることに気づく。瞬間的な予感。立ち止まった私の視線の先で灰色にくすんだ周囲にひときわ映える金髪が揺らめき、私が息を止めると同時に相手がこちらに顔を向けた。そして私に気付いた。考える間もなく私は傘を投げ捨て、背中を向けて駆け出した。容赦のない雨にあっという間に全身がずぶ濡れになる。でもたとえ溺れたって構わない。あの女と顔を合わせるのだけは嫌だ。それにしてもあの女はなぜあそこにいたんだろう。お父さんと会っていた? もしかして私がいないこの一週間ずっと?
息が苦しい。胸が押し潰されそうで頭がくらくらする。私はヨシノちゃんの飼い犬のケプラーがするように荒く息を喘がせて、それでも立ち止まることなく一心不乱にひたすら走る。どこへ向かっているかなんて初めから頭にない。どこかへ、どこかへ、どこかへ! それでも私には永遠に走り続けられる力がないので、やがては足取りを緩め、歩き出し、ついには立ち止まった。手ごろな腰掛けを見つけて私は身体を預ける。心臓が私の胸を打ち壊そうとし、きりきりと痛む肺には上手く息を吸い込めない。耳元ではものすごい速さで押し流される血液の立てる轟音が響き、身体中が焼けた石を飲み込んだように急に熱を持ち始める。雨は相変わらず無表情で、頭で何かを考えられるようになるまで一体どれくらい時間が必要だったのだろう、気が付いたら雨音も派手な土砂降りの中で私一人、まるで馬鹿みたいだった。改めて辺りを見回すとどうやら私がいるのは公園の入り口で、腰掛けているのは車両の進入を禁止するために地面に埋め込まれたコの字型の金属のパイプだった。
逃げ出してしまったけど、このあとどうしよう。私は回転数の上がりすぎたエンジンみたいな身体を持て余したまま途方に暮れた。もう一度家まで戻る? きっとあの女は私が家の前で回れ右して逃げ出したことをお父さんに伝えただろう。その状況でのこのこと戻るなんてあまりにも間が抜けている。まして奴がまだいたとしたら、それこそ目も当てられない。私の悪いくせだ。考える前に身体を動かすせいで気付いたら足元に地面がないって状況に自分から飛び込んでしまう。私は馬鹿だ、自分で一番よく知っている通りに。
「……ほんと嫌になるなぁ」
どうせこの雨で周囲に人影はないし誰にも聞こえやしない。私は独り言を呟き、濡れて水を滴らせる鬱陶しい髪の毛を両手で全部後ろに流す。こうなったら泣いていいのやら笑っていいのやら、ちーぽんやヨシノちゃんだったらなんて言うだろう。思い切り呆れられるような気もする。
「そういやヨシノちゃんの傘、マンションの前に投げてきちゃった」
壊れてやしないだろうか。でも傘を持ったままではあんな風に走り出せなかった。もちろん考えての行動ではないけど。もし壊れていたらどうやってヨシノちゃんに謝ろうかと考えていたらくしゃみが出て、その拍子にデイバッグのベルトが肩に食い込んで痛んだ。
「いたたた。肩痛い」
デイバッグに詰めた着替えは制服と下着の替えだけなんだけど(今回のことで初めてコインランドリーを利用した)学校の教材の類はどうしてもある程度持ち歩かなければならなかったので、そこそこの重さがある。それをさっきみたいにがむしゃらに走ったりするものだから痛むのも当然だ。痣になっているかもしれないと思いながらデイバッグを降ろして身体の前に抱え、少しはましな気分になってほっとため息をついた。と、一時より少し勢いを弱めた雨音に紛れて、まるで両手に持った濡れた布を交互に叩きつけるような音が近づいてくるのが聞こえてきた。
まさか、まさか。そう思いながらも私は首を巡らせてやって来たほうに視線をやる。足音は(間違いなくこれは人の走る足音だ)近づいてくる。店先の看板や街路樹や垣根の影でちらちらと私の目に映るものが段々と大きくなり、やがて全身が現れる。顔や首に濡れた長い髪をべったりと張りつかせ、ずり上がったタイトスカートから伸びる脚を振って走っているのは、あの嫌味女だ。隠れるとか逃げるとか考える前にまず呆気に取られてしまった私は、ぽかんと口を開けて彼女がこちらへ近づいてくるのをただ見守っていた。多分私を探しているのだろう、彼女は走りながらきょろきょろ辺りを見回し、時に立ち止まって細い路地を覗き込むけど、またすぐに走り出す。けれどじきに私を見つけるだろう。彼女は確実にこちらへ向かってきている。あと数メートルも進めば、ああ、こちらに気付いた。
あとはもう、一目散に駆けつけてきた。私はまだ開いた口が塞がらない。
「はーッ、はーッ、ざっけんじゃないわよクソガキ。ゲホッゲホッ!」
ゴールした直後のマラソン選手みたいに私の目の前で立ち止まってよろめく、威勢がいいのだか死にそうなんだかはっきりしない彼女の姿は、はっきりいってひどい有様だった。まるでハリケーンに巻き込まれた上に一週間遭難して生き延びたみたいな、そんな感じ。濡れて栗色になった髪の毛は何かの呪いみたいに彼女の顔や首にぐるぐると巻きついているし、身体に張り付いたブラウスはちょっと猥褻な感じに中の身体を透かし出しているし、本来は膝くらいのタイトスカートはほとんどミニになってしまって、黒いストッキングは破れてしまいかろうじて足の裏に引っ掛かっているという状態、パンプスは彼女の両手の指に片方ずつ引っ掛けてある。顔色は爆竹を飲み込んだみたいだ。両膝に手を突いて深刻な息の吸い方をし、ひどく咳き込んで、もう一生動きたくないという顔をしている。ついさっきまでの私はこんなだったのか、と私はひどく納得し、他人に見られなくてつくづくよかったと胸を撫で下ろした。まあ、若い分だけ目の前で苦しんでいる女よりはましだったかもしれない。
「探したわよ。まったく」
息も絶え絶えで恨めしそうに彼女が言う。苦しいなら喋れなければいいのに。
「馬鹿みたい。何必死になってんの」
これがおそらく初めて彼女に向かってまともに私の言葉をぶつけた瞬間だ。先週の日曜会わせられた時には適当な返事くらいしかしていない。それにしても我ながら品のない言葉だったけど、相手もいい歳して負けてはいなかった。
「やっぱり生意気なガキ。あれほどシンジに心配をかけておいて、挙句この私に骨折りさせて。やっと見つけたと思ったらこれ? あーあ、脚は痛いし。最悪だわ」
化粧の崩れた悪魔みたいな顔を歪ませてこいつは悪態を吐いた。確かこの女は一応私の母親だったと思うんだけど、私の体を流れる血の半分が目の前の女から与えられたと思うとめまいがしてくる。
「で、なんか用? 用がないなら早く消えて。鬱陶しい」
「やれやれ。それくらいしか言葉が見つからないのかしら」
「どっか行ってよ」
「行くわよ。あんたと一緒にね。なんのためにずぶ濡れになってまで走ったと思ってんのよ。ガキの使いじゃないのよ。縄で括って引き摺ってでも連れ帰ってやるわ」
いまだに肩を上下させているくせに、と思ったものの、彼女の表情は本当に縄を探し出しかねない危険なものだった。疑問その一、お父さんはこの野蛮な女のどこがよかったのだろう? その二、雨ざらしで走らずとも車を使えばよかったのでは?
とはいえ、このままおめおめと連れ帰られる気はない。もはやあとに引けなくなっている感があるけど、それでも意地くらいは張らせてもらう。
「嫌よ。私に触ったら大声で叫ぶから」
「下らないこと言ってこれ以上手間かけさせるんじゃないわよ」
「そっちが勝手にやってるだけでしょ。私には関係ない」
「……一応警告しとくけど、これが最後よ。さあ、一緒に帰るのよ。シンジが待ってるわ」
腰に両手を当て、私をまっすぐに見て彼女は言った。私は答えた。
「あんたの言うことなんて聞く気はないんだよ。クソババア」
すると私の言葉を聞いた彼女は顔を俯け、ふーッと息を吐いた。そして目にも留まらぬ速さで手を繰り出すと私の胸倉を掴み、力任せに持ち上げられた私は首が絞まって目を白黒させながら彼女の腕を外そうとしたのだけど、万力で締め上げたみたいにまるでびくともしない。
「放せ! 放してよ!」
「アキラっていったかしら。悪いわねぇ。いくつか誤解してるようだから教えてあげるけど、私はシンジほど優しくもお人好しでもないの。あいつったら優しけりゃいいってもんじゃないことがまだ分かってないんだから。優しくされるだけじゃ女は駄目になるのに、しょうがないわね。それからあんたが私の言うことを聞くかどうかは本当は関係ないのよ。私はシンジのためにこうして雨ン中ずぶ濡れになって走ったんだし、あんたの意向とかそういうのはどうでもいいの。言うことを聞こうが聞くまいが私はあんたをシンジのもとへ連れ帰るし、あんたが色々言い訳しなけりゃならない相手はシンジなのよ」
「うるさい、誰が――!」
「静かにしないと口に手ェ突っ込むわよ。いいことクソガキ、あえて言っておいてやるけど、あんたが何を考えて何を思っていようとシンジに心配をかけていい理由にはまったくなりゃしないのよ。家を飛び出して一週間どこにいて何をしてたのか知らないけど、あんた自分の行動は悪くないとか思ってんならケツを三つに叩き割るわよ。シンジがどれだけ心配して、それでもあんたを信じると言って無いも同然の連絡だけ受けて一週間過ごした気持ちがどんなものだったか、想像できないようならその肩の上に乗ってる無駄にでかいだけのメロンを私が吹き飛ばしてやるわ。私はやると言ったらやるわよ。たとえシンジが止めたってね」
自分でいうのもなんだけど、私は向こう気の強いほうだ。度胸もあるといっていいと思う。下手な脅しなんかてんでへっちゃらだ。と、この時までは思っていた。でも駄目だ。白状すれば、私はこれまでの人生で一番怯えていた。私の胸倉を掴んでいる女が怖い。脅し文句に怯えているんじゃなく、相手が本当に本気だというのが目を見て分かったからだ。この人はいつも本気なんだ。大きくて真っ青な瞳がまっすぐに私を貫いている。顔中に雨粒が跳ね返り、時折目に入るのか大きな瞬きをし、また私を射る。唾を飲み込むと、胸倉を掴む腕が放しはしないもののふっと緩んだ。
「私の言うことが理解できたようね。それじゃとっとと帰るわよ。あんたと違って若くないんだから私はもう疲れたのよ。それに雨も降りやまないし、こんななりのまま突っ立ってたら風邪引いちゃうわ」
私を心配しての言葉じゃないんだろう。空を見上げて忌々しげに目を細める彼女を見て私はそう思うが、あえて反駁はしない。これ以上反抗するとこの怪力女に本当に何をされるか分かったものじゃないからだ。それに、結局は私も家に帰るきっかけを探していたのだから、過程には目を瞑ることも時には必要だろう。そういうことにしておく。
「そういやジャケットをどこかに投げてきちゃったわ。どこで脱ぎ捨てたんだったかしら。あんた、帰る途中で見つけたら教えて」
「あの」
「ん?」
「手、放してください」
いまだに胸倉を掴まれたままの私は息が苦しいし居心地が悪いことこの上ない。この女も言われて気付いたのか、ああ、と呟いて手を放し、いくつかボタンの千切れたブラウスの胸元を整える私の姿をしげしげ眺めて言った。
「あんたまるで台風に強姦されたみたいだわよ」
確かにその通りなのだろうから言い返しはしない。けれど一体ほかに言葉はないのかと思わず私がため息を吐き出すと、口の悪い私の母は初めておかしそうに笑った。
そのあとようやく家まで帰ってきて一週間ぶりの玄関を潜り、そこで待っていたお父さんの顔を見たら私はなんだかたまらない気持ちになって「ただいま」と小声で言えば「おかえり」と何かと一緒に吐き出すような声で返され、思わず何も考えられずに沓脱から上がろうとし、すぐ後ろにいた母にブラウスの背中を思い切り引っ張られてつんのめった。
「何するのよ!」
ボタンの千切れていた胸元が引っ張られたせいで丸出しになってしまう。この制服のブラウスはもう使えないかも。そういえばネクタイも走っているときか公園でか分からないけどなくしてしまった。ヨシノちゃんの傘はマンションのエントランスの中に立てかけてあったけど、母のジャケットは結局見つからなかった。
「足くらいは拭きなさいよ。家中が泥だらけになるわよ。シンジ、タオルちょうだい」
言われなくても山のようなタオルを抱えていたお父さんはその山を二つに分けて私と母に手渡した。それにしても、と私はお父さんの表情を窺いながら思う。開口一番に怒鳴られるかそれとも無視されるかと思っていたのに、この妙なムードは何なのだろう。いくらなんでもこのままチャラってことにはなりはしないと思うけど。
「お風呂用意しておいたから、二人ともそのまま入ってきなさい。よく温まらないと風邪を引くよ」
デイバッグは沓脱にそのまま置き(中身は無事だろうか?)、身体を一通り拭いてよれよれのブラウスとスカートも脱いでタオルにくるまった私は、お父さんの言葉に思わず大きな声で言い返してしまった。
「嫌だよ、一緒なんて!」
「だって一人ずつだとあとの人が待つのつらいだろ」
「別に私はどっちでもいいわ。あ、シンジ、これ捨てといて」
母はそう言って破れたストッキングをお父さんに手渡して勝手に家の奥に入っていく。
「勝手な人! 信じられない!」
「まあまあ」
汚いストッキングを律儀に持ち、憤慨する私を宥めようとするお父さんに、本当にあんな女のどこがよくて選んだのかと私は理解に苦しむ。いや、それともあんな女だから別れたのだろうか。
「いいじゃないか。別に恥ずかしいわけじゃないんだろ」
「そういう問題じゃ――」
「ちょっとお二人さん」
なおも私がお父さんに食ってかかろうとすると、ドア枠の陰からひょいと顔を出した母があだっぽく濡れた髪をかき上げていやらしい表情で言った。
「どっちでもいいから早くしてくれない? 私は別にあとでも構わないわよ。シンジが温めてくれるんなら」
もはや言葉も出ない。私は頭に巻いていたタオルを掴んで思い切り投げつけると脱衣所に駆け込んで戸を閉めた。でもすぐに戸が開いて母が入ってきて、勝手に服を脱ぎ出す。
「ちょっと。入ってこないで下さい」
「もういいじゃないのよ。面倒くさい。お互い寒いんだからさっさと温まりましょうよ」
「だから私はあなたなんかと――」
「うるさい。ほら、とっとと入って。ほらほらほら」
と浴室の扉を開いて私を無理矢理その中に押し込み、自分は脱衣所の扉越しにお父さんと会話している。なんなんだこの女は、とむしゃくしゃしながら私はまだ穿いていたパンツを脱いで隅に投げ捨てた。
「ね、シンジィ。このまま私も入っていいんでしょ」
母がお父さんに向かって馴れ馴れしく呼びかける。馬鹿みたいにシンジシンジって本当にうざい女!
「もぉー、お父さぁーん! この人お風呂から追い出してよぅ!」
私が大声で口を挟むと、お父さんは期待はずれの答えを返してきた。
「いいだろ。裸の付き合いって日本語、知ってるか。まさかお前も風呂で取っ組み合いを始めようとは思わないよな」
「あら、女ってのは怖いのよ、シンジ」
お父さんの言葉を母が混ぜっ返す。取っ組み合いなんてするわけない(だって間違いなく私が負けるから)けど、少しは気まずく感じる私の気持ちを察してくれたっていいのに。
湯船に指先を浸けて温度を確かめる。少し熱過ぎるみたいだ。掻き混ぜるために肘まで腕を湯船に入れると、びりびりと熱が私の肌を刺す。
「車は帰った?」
母はまだお父さんと話しているようだ。擦りガラス状のアクリル板の入った浴室の扉越しに肌色の人影が映っている。寒くはないのだろうか。
「ああ。荷物は引き取っておいた」
「ありがと。頼んどいた電話は? カーチャはなんて言ってた?」
「電話はしたよ。久し振りの英語だったから怪しかったけどね。カーチャ・ミハイロヴナとやらが言うには、君の分だけ航空券をキャンセルしたらしい。先にタラワで待ってるから用が済んだら一人で来いってさ。感じのいい人だけどひどい英語だったな」
「それ、カーチャが聞いたら怒るわよ。自分はわざと英語の訓練をしなかったんだってのが彼女の言い分なの。英語の発音はひどく訛ってるけど仕事は超一流よ。女帝エカテリーナってね、結構恐れられてるんだから」
「ふぅん。ロシアの人だっけ」
「ウクライナの人。まあ飛行機のチケットはしょうがないわね。あとで手配しなきゃ」
「すぐに行くのか」
「できれば今日、それか明日の便かしらね。私たちの作ったメリーゴーランドの件で忙しいのよ」
扉の向こうに立っている母は、公にはツェッペリン博士と呼ばれていて、先日完成した宇宙ステーションの設計と建造に携わった偉い人らしい。どう見てもそんな偉い人には見えないのだけど、反面それくらいのことはやらかしそうだ、とも思える。私には口汚くて野蛮な怪力女以外の何ものでもないけど。
湯船をぐるぐると掻き混ぜながらそんなことを考えていると、ようやくお父さんとの会話をやめたのか、勢いよく浴室の扉が開いてどかどかと母が入ってきて言った。というより叫んだ。
「まだそんなとこにいるの? さっさとお湯に浸かりなさいよ。二人で洗い場に突っ立ってたら狭くってしょうがないわ」
突然現れた母の裸の、なんというか図々しい存在感に私は目線を泳がせながら答えた。
「あ、でも身体洗わなきゃ」
「あんた馬鹿? 温まるのが目的でしょうが。こうしてる間に身体冷やしちゃどうしようもないじゃない。ほら、足とアソコとお尻だけ綺麗にしたら早く入って。私はひとまずシャワーを浴びてるから」
「でも――」
「今度『でも』って言ったらジュウドーで頭からバスタブに叩き込むわよ」
もちろん私は従った。こんなところで溺死したくはないからだ。湯船に浸かると身体中を刺す刺激のあとにじんわりと心地よい熱さが染み込んで、朝の九時から最低だった今日という日にあってようやくわたしは一息つくことができた。
これで隣に誰もいなかったらもっとよかったのだけど。その母はシャワーをしばらく浴びてから石鹸を身体に擦りつけ始めた。大人の女性の裸というのを私は初めて見る。これで本当に親子だというなら、私もいつかはこんな風になるんだろうか。年齢なりのたるみなのか、それとも女性的な丸みなのかよく分からないけど、細っこい今の私とはまったく違う作りの母はなんだかとても堂々として大きく見える。今日で会うのは二度目だというのにまったく恥ずかしがる気配もなく、自分の裸を晒していることにひどく心細いような気がしている私とは大違いだ。石鹸を持つ母の手がなだらかな腹を撫で、たわなな乳房を持ち上げる。あの腹の中にかつて私がいた? あの股の間から顔を出して? あの乳首に吸い付いたりしたこともあったのだろうか?
「あんた、レズビアン?」
突然何を言われたのか理解できなくて、裏返った声が私の口から飛び出した。
「は?」
「さっきからすごく視線を感じるんだけど。別にあんたがレズでも構やしないけど、私はやめてよ。あんたの母親だってのは本当なんだから」
「なッ、そんなわけないでしょ!」
頭に血が上って勢いよく湯船から立ち上がると、母は思い切り迷惑そうな顔をして両手で庇う仕草をしながら言った。
「お湯が飛び散るでしょ。いいから座りなさいよ。身体冷やすから」
「そっちが変なこと言うから」
「はいはいはい。分かった分かった。やれやれ、シンジもまた随分とお上品に育てたもんね」
上品なんて言われたのは生まれて初めてだ。私の脳裏にヨシノちゃんのお母さんとマリコさんが浮かび上がる。まず間違いなく私が上品なんじゃなくて今この浴室を共有している目の前の女が下品すぎるだけだろう。まったくお父さんはこんなののどこが、というのももう言い飽きたか。
本当に、どうして二人は一緒になったんだろう。どうしてそのあとで別れてしまったのだろう。そのふたつの間にこぶのように生じた私という存在は、一体何なのだろう。
身体を綺麗にしながら母は気持ち良さそうに歌を歌い始める。感情が乱高下するタイプの人なんだろう、あの大雨の公園で私を罵り倒したのと同じ人だとはにわかに信じがたい。
「オーゥ、ソーレ、ミーヨォ、ランラーラ、ラーラー」
何故イタリア民謡なのかはよく分からない。ついでに歌詞も分からないらしい。威勢のいい大声だったのがすぐに鼻歌に切り替わって尻すぼみになり、いつの間にかクイーンの「伝説のチャンピオン」に摩り替わっている。
多分母に質問するとすれば今この時を措いて他にないような予感がしていたけど、何故だか私は一向にそうする気になれなかった。若かった両親の間に何が起こったのかについては、当事者だけが知っていればいい。私は自分が捨てられたとは考えていないし、実際に会ってみても母のことは好きになれそうもなかったけど恨みに思っているわけでもない。お父さんとの二人暮らしはまずまず悪くないから、母がいないからといって不満はない。むしろ今後も引き続きいないほうが望ましいくらいで、そこだけ確認できればそれでいいのだ。これからはちょくちょく顔を見せるとか日本に定住することにしたとか、そんな答えが返ってきたらそれこそ問題というものだ。
「ねえ、あんた」
「……アキラです」
「分かったわよ。じゃあアキラ。あんた夢はある?」
いきなり柄でもないことを訊ね始める母に面食らって私は今度は何を企んでいるんだと顔をしかめる。
「ありますけど。一応」
だからどうだっていうの、と私が窺っていると、母は石鹸をもてあそぶ手を見つめながら言った。
「そう。ま、何にしても夢があるというのはいいことだわ。まだたったの十四歳だものね」
「あなたの場合はあの宇宙ステーションだったんですか?」
自動小銃や対人地雷やミサイルを買うはずのお金で造られた天上にある鉄のゆりかご。これから再び(今度こそ)宇宙へ飛び出していこうとする新しい人類のために用意された。目の前のこの裸の女が用意した人工の星。
「あれは夢というか……まあ間違いではないか。ずっと完成を目指してきたもんだし。でも本当の夢は別にあったんだけどね」
「本当の?」
「あー。実はオペラ歌手になりたかったの」
熱い湯船に浸かっていると肩から上は汗が噴き出してきて、私は何度か手のひらでお湯を掬い上げて顔を洗い髪の毛を後ろに撫でつけた。雨に打たれて芯まで冷え切っていた身体は柔らかく溶かされて、私はどうしようもなく気に入らない女と一緒にいることすら忘れてしまうくらい気持ちのいい気分だった。そうして私が和んでいると、母がタイミングを計ったように言った。
「そろそろ代わってよ」
半分のぼせた私はのろのろと湯船から出ると、先ほど母が腰掛けていた座椅子に腰を下ろし、身体を洗い始めた。やはりシャワーでは充分に温まることができなかったのだろう、ようやく湯船にありついた母は安心したように目を閉じて静かになった。一人で先に長々と温まって悪かっただろうか、と私は気を揉み、そんな自分に嫌気が差す。相手は私以上に自分勝手な奴じゃないか。何を気を遣うことがある? 時折母が気持ち良さそうに吐き出すため息や湯を掻き混ぜたりして立てる水音を耳にしながら私は丁寧に時間をかけて身体と髪を洗った。
「今回のことはあんたには災難だったわね」
シャンプーの泡を洗い流している最中におもむろに母が言った。目にかかるお湯を拭って横を向けば、いつの間にか母は浴槽のへりに腕を置いてこちらをまっすぐに見ていた。けれど私と視線がぶつかると、不思議な笑みを浮かべて身体を向きをもとに戻した。
「まあ遅くても明日にはまた日本から消えるから。これで安心できるでしょ?」
「私、あなたのこと嫌いです」
「そうでしょうね」
こともなげに受け流して母は湯船から上がり、再び私と交代する。
明日には日本から母が消える。私のそばからいなくなる。でも母を知らなかった頃の私に戻れるわけじゃない。今までと同じ私とお父さんに戻れるわけじゃない。これからはいつも頭の片隅にこの女のことを記憶して暮らしていかなければならない。意識的に、無意識的に。手のひらで湯を掬い上げ、それが零れ落ちてゆっくりと再びもとの場所に戻っていく様子を私は見つめる。長い金髪を丁寧に母は洗い始める。
最後にもう一度温まっている母を置いて一足先に風呂から上がった私を待っていたのは、どこか生真面目な顔をしたお父さんだった。まだ濡れた髪をタオルで押さえつけながら横を通り抜けようとしたら呼び止められ、私は振り返って真正面からその顔を見上げた。
「お母さんは」
「まだ入ってる」
「そうか。今日な、五十嵐さんから電話あったよ。九時ごろに向こうを出たけどひどい雨になってしまって、アキラは無事に帰ってるかって。それからお前をあまり責めないでやって欲しいとも言ってたな」
ヨシノちゃんがそんなことを。
「しっかりした子だな。そういえばおとといだったか、森さんからも電話が来た。あの小さい子だろ、森さんって。いい友達を持ってるみたいでお父さんは安心したよ」
食卓の椅子に座るとお父さんが湯気を立てる煎茶を注いだ湯飲みを渡してくれて、私はそれを受け取って口をつける。
「だけどけじめはつけないとな。そうだろ、ん?」
「ごめんなさい……」
「何がごめんなさいなんだ?」
「黙って家を出て一週間も帰らなくて、ごめんなさい」
「そうだな。これでもしお前から泊まり先を報せるメールも来なかったら警察に行ってたところだ。それにあまりこういうことは言いたくないけどな、やっぱりお前は女の子だから。お前に何かあったりしたらお父さんは嫌だ。そんなこと耐えられないし、何よりお前が一番傷つくことになる。今回だって何度泊まり先に出向いて連れ戻そうと思ったか分からないが。それでアキラ、正直に言ってみなさい。何にそんなに怒ってたんだ」
この期に及んでお父さんが本当に私が怒っていた理由が分からないということはないだろう。ないのだろうが、改めて言ってみろといわれるとどうにも拗ねた気分になって、私は口を開くのが嫌になった。謝ったからもういいじゃない、と。
「いいよ。それはもう」
「よくはないよ。アキラ、親だって口で言われなきゃお前が何を考えているかなんて分からない。心が読めるわけじゃないんだ。なあ、アキラ。心配をかけたって別にいいんだ。親なんだから。子どもを心配するのは当然なんだ。でもお前が何を考えてるのか教えてくれなきゃ、その心配だって的外れのものかもしれない。教えてくれよ。何が気に入らなくて、どうしたかったんだ」
こうやってしばらくの間押し問答が続き、ついに根負けした私は今回の家出に至った心理的経緯をぽつぽつと説明し始めた。私が何を思い、どう感じていたのか。母親になど会いたくはなかったということ。実際に会ってみた印象がどうであれ、何よりお父さんのやり方に腹が立ったこと。その時になるまで私に秘密にしてあんな風に驚かせたこと。せめて事前に話してくれていれば、その上で私の気持ちを確かめてくれていれば、私だってこんなに意固地にはならなかったこと。私はかなりの本音をお父さんに打ち明けた。それはむしろ言葉少ななせいで正確な私の思いとは別の意図で伝わってしまったかもしれないけど、それでもお父さんはどこか納得したような寂しそうな顔で、先週の日曜に私に何の相談もしなかったことを詫び、母のことを無理に好きになれとはいわないけど顔を合わせている間だけは我慢してくれと私に頼んだ。私もまた家出について謝罪し、その点については再度お父さんから苦言を呈された。もう二度とやるな、やる前に言いたいことはお父さんに言え、と。私たちはおおむね仲のいい親子だけれど、何でもかんでも父親に話す娘とは私は違うし、そんなものは気持ちが悪い。だけど今回の件に限ってはそうすべきだったと考え、私はお父さんの言葉に頷いた。
煎茶はぬるくなり始めていた。残りを一息で飲み干して息を吐き出し、ようやく私たち親子の実に一週間ぶりとなる懐かしく心地いい空気に身を委ねていると、その脇を髪と身体にタオルを巻いた母が裸足でぺたぺたと横切って、勝手に冷蔵庫の中身を覗き込んでから世界の終わりみたいな声を上げた。
「あ! 牛乳がない!」
疲れ切っていて朝までぐっすりと眠っているだろうと思ったのに、どういうわけか私は目を覚まして薄暗い自室の天井を見上げていた。枕元に置かれた目覚まし時計の蛍光盤が午前一時を示している。泥の塊のように布団に潜り込んだのが午後十一時頃だったから、それからわずか二時間しか経っていない。重たく湿った眠気の感触。額に手を当てて私はそれをじっくりと味わう。
母が一晩泊まることになったのに私が同意したのは、別段母を受け入れたからというわけじゃなかった。結局今日の便はチケットが取れないことになり、新しい宿を探すからと出て行こうとしていた母に対してお父さんが一日くらい泊まっていけと言い、荷物を抱えた母が遠慮するような似合わない顔をするものだから、思わず私が好きにすればと口を挟んでしまったのだ。娘のお墨付きを得てますます勢いを増したお父さんに押し切られるようにして母はそれなら一晩だけ世話になると言って荷物を降ろした。私は早くも自分の言葉を後悔していたけど、口の悪い母にそれを見透かされることはしゃくだったので平静を保つのに必死だった。
周囲が静まり返っている夜は小さな音でも伝わりやすい。目を閉じて再び眠ろうとしている私の耳に入ってきたのは、そういう夜にしか聞くことのできない種類の内緒話だった。初めのうちは気にせずにいようと頑張っていたけど、すぐに私は誘惑に負けた。かすかにしか聞こえないけどこの話し声の主は確かにお父さんと母だ。あの二人が私のいないところでどんな会話を繰り広げるのか、正直なところ興味があった。下世話だろうが悪趣味だろうが、聞いてみたかったのだ。だけど耳を澄ませてもぼそぼそとかすかにいうだけで会話の内容まではとてもじゃないけど分からない。身体を動かさないように硬くして息を止めてみても駄目。すぐに私は布団から抜け出し扉の近くまで忍足で向かったけど、若干聞こえてくる話し声は大きくなったような気がしたものの、それでも内容が分かるほど明瞭ではなかった。私は部屋の扉を開け、廊下にお父さんや母が出てくる気配がないことを充分に確かめてから、大胆にも部屋から抜け出して声のする方向へそっと近づいていった。明かりの漏れているのはリビングだ。足音を立てないよう慎重に、息を殺して私は真っ暗な廊下を進んでいく。
――君のヒンデンブルクがまたテレビに出てる。
お父さんの声だ。音量の絞られたテレビの音も聞こえる。
――もう、この馬鹿。下世話なマスコミと同じこと言うのね。あれにはラクシュミって名前があるんだから。それに別に私だけが作ったわけじゃないわ。むしろ私の設計なんて一部分だけだし、クレマンのハゲジジイの陰謀がなけりゃ私なんて表には出てこなかったのよ。
――ラクシュミ。変な名前だ。
――インドの女神よ。海の泡から産まれたっていう美と豊饒と幸運を司る女神。うちはインド系が多いし、名前を決める時に惑星や衛星と同じ名前の付け方をしようってことになって。それでインド神話ってわけ。まあギリシアや北欧からはネタ切れだったしね。
――で、その女神の腹の中にアスカも入るの?
――ううん。私は地上勤務。運用が始まれば私ができることなんてほとんどないもの。次は月よ。その計画ではかなり大きなことをやらせてもらえそう。実際に月に行くこともそのうちあるでしょうね。さ、こんな話はどうでもいいでしょ。テレビも消してよ。
テレビを消す気配。不思議なことに私と話している時よりも母の声もお父さんの声も若々しく聞こえる。
――ねえ、シンジ。
――どうした?
――久し振りなんだからさ……ね。
母の声が尻すぼみになって途切れる。
――いや、それはまた今度にしよう。
――今度っていっても……もうっ。次はいつ会えるかわからないっていうのに。
――君が仕事を辞めたらいい。
――意地の悪いことばかり言うのね。昔のあんたはもっと可愛かったわ。
――そうだね。
――ねえ、シンジ。あんたと会えなかった間のこと、訊かないの?
――訊かないさ。君も訊かないだろ。
――そうね。
私はどきどきして苦しい胸をぎゅっと押さえた。二人の話している内容が「そういう」ことだというのはさすがにすぐ察せられた。もちろん二人はかつて夫婦だったのだし、つまりはかつて「そういう」関係だったわけで。私だって別にうぶを気取るつもりはなく、それなりに知識もあれば興味も持ち合わせている。お父さんだって男だ。オーケー、それは認めよう。でもそれは私の知らないところでしてもらわなければ困ってしまう。今この場で差し迫った状況になった時のために逃げ出す準備に身体を緊張させて、唾を飲み込んだ。
ところが実際には私の危惧に反して二人とも次の話題に取り掛かっていた。
――あの子はどう?
――どうって?
――家出だなんて。私のとこに連絡してきた時のあんたの声ったらなかったわ。
――もう大丈夫そうだよ。どうやら僕も悪かったようだし。君に会うことを黙っていたのに怒っててね、そういうことは前もって自分の意思を確認しろって。まあいきなり感動の再会とは行かないか。
――馬鹿。説明するのが怖かったんでしょ。
――どうかな。でも家出に関してはどうもきつく言えなくてね。何しろ僕も昔家出したことがあるから。アキラに話したら詳しく聞きたがって困ったよ。
――ああ。ミサトのところから。
――そう。そういえば同じ年頃だったな。
――夢はあるかって訊いたら、あるですって。どんな夢かしら。シンジは知ってる?
――ん……分からないな。夢かぁ。昔はお父さんのお嫁さんなんて言ってくれたけどな。
――それで喜んでたんでしょ。もうほんと馬鹿なんだから。
――なんにしても夢があるってことは胸を張れることだよ。あの子にはまだ分からないかな。
――どうかしらね。私は宇宙ステーションがそうなのかって訊かれたけど、なんか誤魔化しちゃったわ。私の夢なんてほんのささやかなものだと自分では思ってたのにね。あんたと一緒にさ。まあそれを言ってもしょうがないか。それで、あの子ってどういう子? 頭はいい? 病気とかしてない?
――ああ……、大きな病気はしてないよ。でもちょっと風邪を引きやすいかな。熱を出すと真っ赤になってね、見ていてはらはらしてしまう。今日雨に打たれたせいで明日熱を出さなきゃいいんだけどな。それから、そうだな。成績はいいほうだけど。学校の勉強は別にしても賢い子だよ。要領がいいし。その辺はアスカに似たんだな、きっと。運動神経もそうだし。ああ、君と違うのは家事が得意なところ。毎日じゃないけど弁当作ってくれたりするよ。それ持って行くと会社で結構ちやほやされたりする。なんだか親馬鹿かな、僕。
――相当ね。続けて。
――料理だけじゃなくていつも家事を手伝ってくれるし、助かってる。あの子なりに責任感とかあるのかな。優しくて親思いのいい子で。でも寂しがりやで泣き虫で。そのくせ強がりでプライドが高くて。あとはそうだな、意外と神経質で理屈っぽい。でもたまに信じられないようなことを考えなしにやるんだ。あれは何なんだろうな。どっちに似たんだろう?
――それは絶対シンジだわ。ねえ、他には。
――うーん。歌は下手だな。幼稚園のお遊戯会で僕はそれを確信した。絵も下手。似顔絵をもらった時は下手でも嬉しかったけどね。丸まっこくて小さな字をすごく屈んで書く。目が悪くなるからっていうのにそのくせが直らないんだ。直らないといえば食べ物の好き嫌いがあったな。どうしても嫌がるのがきのこ類と、あと海老。まだあったっけ。好き嫌いが多いのは駄目なところ。
――友達はいる?
――多いみたいだよ。特によく名前を聞くのが二人いたな。女の子で、そういえばこないだうちに遊びに来てた。それから、そう。幸いボーイフレンドを紹介されたことはまだ一度もない。
――そう。
――小さい頃のあの子が夢中だったのは幼児向けアニメの主人公が持ってる魔法のステッキだった。なんだか音が出たり光ったり伸びたりしてね、ハートマークやら翼やら色々ついてるすごい奴をねだられて買った覚えがあるよ。多分今でも押入れかどこかに仕舞われてあるんじゃないかな。海の底には魚と人魚たちの国があると信じてて、その海底の国の絵をよく描いて見せられたな。ピーターラビットも信じてたし、ネコバスも信じてた。人形やぬいぐるみには全部名前とエピソードがあって、間違って僕がぬいぐるみのひとつを台無しにした時は一日泣いて許してくれなかった。僕がホラー映画を観る時は必ず背中に張り付いてたな。自分は見ないくせに音だけで怖がって。で、絶対に寝るまで僕から離れようとしなかった。髪を洗う時は必ずお気に入りのシャンプーハットを使ってて、湯船でタオルを使ってぶくぶくやると面白がって何度でも繰り返した。
――可愛い。
――まあ、ね。最近はあの子も成長して、見ていて時々はっとするよ。君にとても似ているから。仕草や表情や、そういうものがね。繋がってるんだなって思う瞬間だ。君と、あの子と、そして僕と。
――大事なのね。
――何ものにも代えられないって奴さ。妙な気分だよ、父親って。でも悪くない。悪くないよ。
お父さんの変な語りを真っ暗な廊下で息を詰めて聞いていたらなんだかすごく妙な気分になってきた。やべー、泣きそう。でもここで泣いたら絶対変な声とか出る。それで盗み聞きがばれちゃう。こらえろ、私。
――ところでアスカ。どうしてわざと嫌われるような態度を取ったりするんだい?
――何のことだかよく分からないわ。
――ほら、いい子だから。こっちを見て。本当は会いたかったんだろ?
――私が会いたかったのはシンジだけよ。
――アスカ。
――……別にわざとってわけじゃないのよ。ただどうしてもそうなっちゃうだけで。あの子もがっかりよね、母親が現れたと思ったらこんなのなんだから。そりゃあ嫌うのも無理はないか。
――素直じゃないんだね。昔から。
――そうよ。そんなこと、あんたが一番よく知ってることじゃない。
――ねえ、アスカ。僕はあの子のことがとても大事だよ。君も本当はそう思ってるんだろ?
――私だってあの子は大切よ。あの子を産んだ時の、あの感動は一生忘れやしない。私のお腹から新しい命が産まれてきた奇蹟みたいな瞬間。あんなに小さくて、でも力強くて、必死で。私は生きている! ってあの子は全身使って叫んでた。でも……いまさらどう接したらいいか分からないじゃない。私があの子と一緒にいられたのはほんのわずかの間でしかなかったんだし。先週顔を合わせた時だって戸惑ってた。あんたから時々聞かされてはいたけど、実際に会ってみると本当にこの子があの赤ちゃんなのかって。
――接し方なんて僕だって分からなかったさ。この十四年間、ずっと試行錯誤してるんだよ。
――あんたはいい父親やってるわ。あの子を見てみなさい。身体も大きくなって、一人前の口を利くわ。もう私なんて必要としてないの。そうでしょ? 嫌われてよかったのよ。だから私は母親らしくなんてしない。しようと思ったってできないけどね。
――でもまだ、たったの十四歳なんだよ。色々なことを割り切れる年頃じゃない。憶えてるだろ、アスカ。あの頃の僕らだってひどいもんだったじゃないか。言葉だけが全てだった? そんなことはなかったよ。時間が必要なんだ。もっと一緒にいてお互いに知り合う時間が。
――昔の私たちのことはどうでもいいわよ。問題はいまさら私がしゃしゃり出てきてもあの子にとっては迷惑でしかないってことなのよ。記憶にも残ってないような母親なんてものが目の前にいてもあの子の心をいたずらにかき乱すだけなの。あの子は間違っちゃいないわ。本当なら今回だって会うべきじゃなかった。
――でも寂しいだろ。
――それは……。
――僕も寂しいよ。
――……あんたのこういうところが嫌いよ。こんな……卑怯だわ。やめてよ、そんな目で見ても私の態度は変わらないからね。とにかくあの子の話はこれでお終い。どうせ一緒に暮らすわけじゃないんだし、いつまでも子どもってわけじゃない。あの子だってすぐに気にしなくなるわ。
――そして君はまたいなくなるってわけか。君には僕は必要ないからね。
――ちょっと! またそれを蒸し返すつもり? 大体あんただって追って来もしないで!
――どうやってだよ! あの時の状況でどうやって? 僕が何もしなかったと思うのか?
――私だって同じよ。こっちばかり責めるなんてひどいわ。
――じゃあ、そのあとのことはどうなんだ。結局アスカが――
――だからそれは違うんだって言ったじゃない! ……ああもう、喧嘩になるからその話はやめましょ。久し振りに会えたっていうのにこんなの悲しくなるわ。それともこの夜中に気が晴れるまで怒鳴りあうの?
――ああ、いや。そうだね。アキラが目を覚ましてしまう。
――そうよ。せっかく二人きりなんだから。
――まったく……なんだか疲れた。
――バカシンジ。結局あんたは何も分かっちゃいないのね。でもま、いいわ。これが私たちのやり方よね。
――なんだよ、それ。
――ぷっ。今の、子どもの頃のあんたそのまま。私たち、喧嘩ばっかりしてたもんね。
――喧嘩なんて可愛いものじゃなかった気がするけどな。
――可愛かったわよ。必死になっちゃってさぁ、私たち。今もああいうところ残ってるのかな。信じられる? 私たちもう三十七なのよ。三十七! お互いすっかりおばさんとおじさんになっちゃった。出会ったのなんてすごく昔のことよね。でも……今でもあんたの前ではまるで小さな女の子みたいな気分になるわ。
――必死だよ、今だって。
――ふん。あんたのそういうところは好きよ。
私が盗み聞きしていたのはこの辺りまでだ。ずっと廊下に身を屈めて物音を立てないよう息を殺していたせいかひどく疲れてしまって、部屋に戻ると私はすぐに布団の中に潜り込んだ。そうして色々と考えごとをしていたのだけど、いつの間に寝入ったのか、気が付いたら朝日の射し込む部屋にやかましく鳴り響く目覚ましをなかば無意識に止めている自分がいた。
台所に顔を出すとすでに身支度を整えたお父さんと母がいて、朝食の用意をしているところだった。夜中まで話し込んでいたのに随分と早起きのようだ。二人は私に気が付くとどこか機嫌の良さそうなわざとらしい笑顔を揃って見せ、私を気味悪がらせた。
「おはよう」
とお父さんが言い、
「うん。おはよ」
と私が欠伸交じりに返しながら、冷蔵庫を開けて毎朝の日課である朝の牛乳を飲もうと目をさ迷わせ、そういえば牛乳は今ないんだったと気付く。冷蔵庫を閉じて、先ほどから漂っているコーヒーの香りに顔を巡らせると、湯気を立てるコーヒーカップを持った母と目が合い、その隙に
「おはよう、アキラ」
と言われてしまった。多分母もタイミングを捜していたのだろう。
「おはようございます……」
ぼそぼそと挨拶を返してから私がこっそり窺うと、何かを反芻するようなすごく変な顔をした母がカップの中身をじっと見つめていて、そのあとお父さんから行儀が悪いからテーブルに着いて飲めと追い立てられていた。
今日の朝食は珍しくご飯で、いつもはパンのくせにどうして今日に限ってと訝しく思ったのだけど、意外なことに日本で暮らしているわけでもない白人の容姿をした母が平気な顔をして箸を使って食べているところを見ると、昔は朝はご飯を食べる習慣だったのかもしれない。お父さんたちは食事の最中に母のこれからの仕事の予定を喋っていた。タラワの近くの島にある宇宙港から今月中にシャトルで宇宙ステーションまで飛んで、そのままひと月くらい滞在するらしい。最終的には数千人規模の人間を収容するコロニーとして機能するというのだから、まあ大したものなのだろう。このような内容の話を聞き流しながら私はずっと黙っていた。そんな私の様子をお父さんは気にかけているようだったけど私は努めて素っ気ない態度を取り続け、機嫌が悪いのかと訊かれてもそんなことはないと答えた。事実私は機嫌が悪いわけではなかった。不機嫌を持続するのも大変な作業で、私はそれほど暇じゃないのだ。やることは他にも沢山ある。
私たち三人はいつも私が登校するよりも少し早い時間に一緒に家を出た。今日日本を発つという母の車はすでに呼んである。お父さんが鍵を閉めている間に私がエレベータを呼び、母がごろごろとキャリーケースを引っ張ってきて私と一緒に扉を開けたエレベータに乗り込む。お父さんもやってくると私が閉ボタンを押し、鉄のかごが私たち三人を乗せて一階に向かって降りていく。示し合わせたように階層表示を見上げる無言の私たち。こらえるような咳払いをしたのは母だったろうか。ピーン、という軽快な音とともに開いた口から私は真っ先に飛び出し、エントランスを抜けて外に出た。
マンションの前に黒くて頑丈そうな車が律儀に停まっている。そのそばに私が立っていると遅れて他の二人もゆっくりと外に出てきて、お父さんは私の隣に、母は後部座席のドアの前に立ってこちらを向いた。すぐさま運転席から慇懃な仕草で運転手が出てきて母のために後部座席のドアを開けようとしたのだけど、少し待つよう母に言われ、彼はキャリーケースだけトランクに詰めると再び運転席に戻っていった。
さあ、いよいよ感動の別れのシーンという奴だ。そんなものは私がいない時にやってよ、というテレパシーを二人に送ってはみたけど一向に届く気配もなく、二人は少しでも時間を引き延ばそうとするように飽きるほどお互いを見つめ合っていた。やがてどちらともなくさっと抱き合って、多分母がお父さんの耳元で何ごとか囁き、それに応じて母の背中をぐっと押さえてお父さんも何か言い返すと、二人はすぐに離れた。
「じゃあ」
と母は言い、
「うん」
とお父さんが答える。
これでようやく母が消えてくれてせいせいする、と思っているのは事実だ。でも反面、これだけでいいの? と思ってしまうくらいあっさりとした別れの言葉に私は拍子抜けしていた。
最後に私のほうに顔を向けて五秒間ほどじっと見つめてから無言のまま母は自分で後部座席のドアを開けた。車に乗り込むために身を屈める母の背中を、手を握ったり開いたりしながら見つめていた私は、
「あのっ!」
と母が消えてしまう前に呼びかけた。私が口を開いたことにお父さんも母も意表を突かれたようだった。でもそんなこと構わない。身体を起こし振り返って開いたドアに手を掛ける母に向かって私は先を続けた。
「ツ、ツェッペリン博士」
舌を噛みそうになって私は顔をぎゅっと歪める。よほど驚いたのか珍しく呆気に取られた表情をしていた母は、それでもすぐに立ち直るとあのいやらしいにやにや笑いを浮かべて言った。
「堅苦しいわね。いいわよ、もっと気楽に、アスカとか名前で呼んでも」
「えっと、でもそれはちょっと」
「はいはい、あんたの好きに呼べばいいわ。で、どうしたの」
「あ、えっと、じゃあ、さよなら。ママ……」
またしてもにやにや笑いは吹き飛び、今度は目の前に隕石が墜落したのを目撃したみたいな顔になって母は震え出した。ようやく言い切ることができた私はといえば早くも自分の言葉を後悔し始め、これはひょっとして馬鹿にされて笑われるんじゃないだろうかと母の様子に唇を噛んでいた。しばらくしてまだ立ち直っているようには見えない母は馬鹿にする風でもなく笑みらしきものを顔に浮かべて伸ばした手で軽く私の頬に触れ、けれどそれをすぐに引っ込めて、
「ええ」
と言った。
「ええ、アキラも元気で」
排気ガスを吐き出しながら遠ざかっていく車をお父さんと私が並んで見送る光景は傍からどう見えていたのだろう。
「行ったな」
と独り言のように呟いたお父さんを見上げると寂しそうな顔をしていて、そんな顔をするくらいならどうして引き止めないのかと私は疑問に思ってしまう。もちろん私にとってこれでようやく平穏な日常を取り戻せるのだから母が去ってくれて大いに結構だ。せいせいした。あー、よかった。
「ね、お父さん」
「なんだ?」
「お父さんたち、さっき愛してるって言ってたでしょ」
私が言っているのはさっきお父さんたちが抱き合ってお互いに囁いていた時だ。聞こえていたわけじゃないけど、私に問いかけられたお父さんの反応で分かった。どうやら図星らしい。やっぱりそうだったのか。正直にいって、こういうのは作り話の中だけの魔法の言葉だと思っていた。多少の憧れも込めつつ心の中で唱える呪文だと。でもマリコさんの許婚のお兄さんも私の両親も、いい年して大真面目な顔でこの魔法の言葉を現実に口にする。馬鹿なの? 夢見がちなの? それとも大人ってみんなこう? 私には分からない。でもそういう囁きの果実としての私であるのならば、出会いと別れの狭間のこぶみたいなものよりかは、はるかに救いがある。たとえそれが慰めではあっても。
「やーらしい」
私はへへっと笑うと駆け出す。
「じゃ、行ってくる!」
少し離れてから、気をつけて行けよというお父さんの声が背中にぶつかる。まあ仕返しはこれくらいでいいだろう。母が家にいない理由とか、お父さんがそれを引き止めない理由とか、他にも色々と私には理解できないことがあって決して納得をしたわけではないけれど、二人がそのように決めたことならば別にいいかと私は思う。少なくともお父さんたちがいがみ合い憎み合っているよりは、今のように互いに好きでいるほうがよほどいいはずだ。二人の感情にまで私が口出しするつもりはない。私はまだ十四歳で、だけどいつまでも十四歳というわけじゃない。割り切れないことにもそのうち自分なりの解答を見つけるだろうし、それこそもっと重要な問題に忙しくなって母のことも忘れてしまうかもしれない。
好きにすればいいじゃない。会いたければ会えばいい。初めからそう言ってあげればよかった。次はきっと言えるだろう。三人で会うのだってそれはそれで構いはしない。
私には母がいない。まだ生きているけど、ここにはいない。
仮にあり得たとして初めから母と暮らしている私と比べれば、初めから母を知らなかった私は少しだけ寂しいけど、きっと母のことを一生知ることのなかった私よりはましなはず。知っているから毒づくこともできる。ささやかな違いだ。
ここにいない母に私はあかんべえをする。きっと彼女も海の向こうで口汚く罵ってくれることだろう。このクソガキ! と。
学校の近くまで来るとちーぽんと幸村が話しながら歩いているのが目に留まった。二人は同じ方角から通学しているらしい。たまたま途中で顔を合わせたというのが一緒に歩いている理由だろう、多分。私が横断歩道の手前で止まると、道の向こう側にいたちーぽんがこちらに気付いて立ち止まり、幸村だけちーぽんに手を振って歩いて行った。
「おはよーう、アキラちゃん」
今日も朝からちーぽんは元気だ。
「おはよ。さっきの幸村?」
「そうだよ。すぐそこで会ったの。でもアキラちゃんがいるよって教えたら行っちゃった」
「ふぅん。何の話してたの?」
「んん? えっと、まあ、あれだ、恋の悩みとか?」
あごを指で押さえて中空にある何かを小難しい顔で睨みながらちーぽんが答えた言葉を聞いて、私は少し驚いていた。恋の悩みを幸村に? そんなに仲がいいのか?
「小学校の時から一緒だし」
「へえ、そうなんだ。あ、それよりあいつに何か変なこと言ってないでしょうね。私のこととか」
「ええっ。言ってないよぅ」
こんな風に私たちは他愛ないことを喋りながら校門を潜り、下駄箱で靴を脱いで上履きに履き替えて、二階にある自分たちの教室へと向かう。階段を登っていると私たちと同じくお喋りしながら降りてくる数人の女の子のグループとすれ違い、私はその中にちーぽんの恋敵である加納さんの姿を見つける。地味な顔して生徒会活動なんかやってる真面目ちゃんかと思ったら加納さんも食わせ者だ。一年の時に同じクラスだったけど、彼氏とか絶対に作るようには見えなかったのに。人は見かけによらないというか、先入観は怖いというか。つまり、私は加納さんのことを何も知らないんだろう。でも樋口くんは加納さんのどこがいいのかな。ちーぽんとの違いは何なの?
朝の教室はいつも独特の期待感に溢れた空気で満ちている。毎日が違う一日で始まるという私たちの未来への期待。たとえマラソン大会の日だってこれは例外じゃない。と思う。教室を見回せば、友人同士で思い思いに固まっているのもいれば、必死に今日の宿題をやっていたり、カバンだけ置いてどこかへ行っていたり、もちろんまだ学校に来ていないクラスメイトもいる。私が自分の席に荷物を置いていると、教室の後ろの扉が開いて剣道部の朝練から引き上げてきたヨシノちゃんが入ってきた。ヨシノちゃんはそばにいたちーぽんと挨拶し合うとそのまま彼女を従者のように引き連れて私の席までやって来て、言った。
「おはよう、アキラ。結局あれは解決した?」
「あれ? どれ?」
とちーぽんが目の上に手のひらをかざしてきょろきょろとやるとヨシノちゃんに頭をぽこっと叩かれた。
「バカ。チナツも知ってるでしょ」
「いたーい。アキラちゃぁん、よしのんがいじめるぅ」
「あー、はいはい。よしよし」
胸に飛びついてきた小柄な友人を抱きとめて頭を撫で回してやりながら、私は考える。あれ、とはもちろん母の件だ。でも解決といってもいいのかしら。
「うーん」
「どうなったの? ていうか雨大丈夫だった?」
「あー。それは全然。平気平気。あ、そういや借りてた傘、持ってくるの忘れちゃった。明日持ってくるね」
本当は借り物の傘投げ捨てた上に県道沿い爆走でずぶ濡れになったけど。
「ああ。傘はいつでも。大丈夫だったんならよかった」
「うん。まあ、あれは解決というか、とりあえずまたいなくなったよ。今朝見送ってきたとこ。タラワとかいうところに行くんだって」
「タワー?」
とちーぽん。
「タラワ。なんかポリネシアとかミクロネシアとかそこら辺」
「ああー、ネシア」
「何がネシアよ。チナツ分かってんの?」
ヨシノちゃんが突っ込むとちーぽんは心外だと頬を膨らませてから舌足らずに言った。
「分かってるよぅ。だから、あったかい南の島なんでしょ。アロハー、みたいな」
敬礼の形に右手をかざし身体を傾けておどけるちーぽんのアバウトさに私は笑いながら頷く。ちなみにハワイとタラワは間に日本列島を挟めるくらいに離れているけど、そこはスルーだ。
「大体そんなとこ。お父さんとも一応仲直りしたし、まあ解決といえばそうかなぁ。というわけで、どうもお世話をかけました」
ぺこりとお辞儀をする。
「いいよいいよ。別にお世話なんかしてないよねぇ、よしのん」
とちーぽんがヨシノちゃんに笑いかけると、
「いや、した」
「えっ!?」
「したけど気にしてない。家に帰れてよかったね、アキラ」
時々ヨシノちゃんは予想の斜め上を行くから怖い、と思いながら私は二人に改めて礼を言う。本当は泊めてくれた他の三人にも言わなくてはならないのだけど、ひとまずあとにしよう。
「お父さんに怒られなかった?」
「別に大丈夫だったよ。お父さん、私にめちゃ甘いから」
「またそんなこと言って」
呆れ顔のヨシノちゃん。
「アキラちゃんのお母さんってどんな人だったの?」
「どんなって言われてもなぁ」
思い浮かぶのは口汚くて野蛮で怪力の嫌味女だ。これ以上の表現はない。もちろん、これが全てでもないけれど。
「白人で金髪だった」
「そりゃアキラを見たら分かる」
「へ、そお?」
「そうそう」
ちーぽんが合いの手を入れる。
「何してる人なの? そんな南の島に行っちゃうなんて」
「ああ。えっと、宇宙方面でちょっと」
と私は窓の外の空を見上げる。昨日とは打って変わりよく晴れた青い空にうっすらと白い月が浮かび上がっている。宇宙ステーションは見えないのだろうか。母も乗るシャトル打ち上げが今月中に宇宙港から中継されるらしいけど。
「宇宙? 宇宙ってあの宇宙?」
「そう。タラワの近くの島に宇宙港があるんだって。ほら、国際宇宙開発財団」
「ああ。そこに勤めてる人なんだ、アキラのお母さんは。すごいね」
ヨシノちゃんが納得したような声を出す。あまり詳しいことを言うのはこの場では控えておこう。あれでも母は一応世界的にマスメディアに名前が出ているような人だし。陰謀がどうとかお父さんに話していたけど。
「実感はあった? これが自分のお母さんなんだっていう」
「実感? うーん。難しいなぁ」
私とは全然似てないし。私はあんなに口汚くも乱暴でも、気分屋でもない。もちろんまったく似ていないとも。お父さんが似てると言っていたのはきっと感傷のせいで勘違いをしてるんだ。だからといって私の母親だってことを認めていないわけじゃないけど。十四年前にあの人は私を産んだ。初めまして、さようなら。赤ん坊の私は喋れません。言葉を覚えた頃にはあなたはいませんでした。
けれど再会できたこと自体はよかったのではないかと私は思い始めていた。再会の仕方はお父さんのせいで最悪だったけど。長い間行き場のなかった私の感情のぶつけどころを母は与えてくれたのだ。母はどんな人かと訊ねるたびにそらとぼけるお父さんの態度に溜まりに溜まっていた投げ遣りなフラストレーション。どんな形であってもそれを解消できたのはきっと悪いことではなかった。もんもんとした感情を引き摺ったままでいるよりはずっといい。そういった色々なことを伝える暇はなかったし、伝えるにはあまりに私たちは素直じゃなかったけれど。次があればきっと今回よりもいくらかましになっているはず。そうだよね?
「お父さんとはなんか仲がよかったよ」
「そうなんだ?」
「うん。なんかもういちゃいちゃ? 見てるこっちが恥ずかしいっつうの。ていうかちょっと……お父さんがキモかった」
「あれ。じゃあなんで別々に暮らしてるの?」
だからそれは私にも分からないんだ。
「さあ。そういう夫婦なんでしょ。いや、夫婦とは違うか。恋人? よく分かんないや」
「ふぅん。変なの」
ちーぽんが小首を傾げてアヒル口でそう締めくくった。
所詮、先週まるまる私を悩ませていた問題なんて、ちーぽんのこの一言で片付けられてしまうくらいちっぽけなものだったんだ。当人にとってはもちろん大問題だったけど、宇宙的には些細なものに過ぎない。ぴかぴかの宇宙ステーションだって何の問題もなく地球の周りを回っている。
私はもう一度空を見上げた。白い月の浮かぶ青い空。母の宇宙ステーションも青空に紛れてどこかに浮かんでいることだろう。あれは宇宙だ。私の目ははるか彼方まで見渡している。
「じゃあ今度はチナツと二人でアキラの家に泊まりに行こうか」
「あ、行く行く。行きます。お邪魔しまーす!」
ヨシノちゃんの提案に俄然乗り気だったのはちーぽんだ。ヨシノちゃんと私の手を取って興奮して飛び跳ね、いやっほーと歓声を上げる彼女に苦笑しながら私も答えた。
「わ、ほんと? いいよ。来て来て」
その日の昼休憩の終わり頃、トイレの帰りに廊下で幸村に声を掛けられた。幸村はまるで世界の命運を背負う孤独なヒーローのように悲壮な決意を漂わせ、ごく自然な風を装ってにっこりと微笑みさえした。ここまで必死になられると私も立ち止まらないわけにはいかなくなる。でないとまるで私が悪役か、高慢で意地の悪いお嬢さまみたいだ。それにしてもてっきり幸村はもう私のことを諦めてしまったかと勝手に想像していたのだけど、案外とガッツがあるのか、それともねちこい性格なのかしら。まあ、あっさり他の子に目移りされたらそれはそれでむかつくけど。一緒にいたちーぽんとヨシノちゃんが遠慮がちに(だと思いたい)後ろから見守る中、若干緊張に強張った幸村は私に向かって訊ねた。
「今度の日曜、予定はある?」
「……あんたはそういう誘い方しかできないの?」
思わず言い返した私の言葉が幸村の肩に重石のように圧し掛かるのが見えた。あ、ちょっと俯いた。でも前回と同じ誘い方なんだもの。芸がないでしょ?
「遊園地にね、誘いたかったんだ。今度遊びに行かないかなって」
と近場のわりと大きな遊園地の名前を挙げる。わ、そこ最近新しい絶叫系ができたところだ。行けるものなら正直行きたい。
それにしてもなんで幸村は私を誘うのだろう。他にいくらでも可愛い女の子はいるだろうに。例えばヨシノちゃんなんか額に入れて飾っていいくらい完璧な女の子だし、ちーぽんだって随分仲がいいらしいし。他にもうちのクラスだけでも何人も相手はいるだろう。なのに、その中からどうして私なんだ? じゃあ他のってあっさり言われるとむかつくのは別の話として。ホワイミー?
「幸村って私が好きなの?」
うわ、というちーぽんかヨシノちゃんの漏らした声が後ろから聞こえてきた。自分でも直截的だとは思う。問いかけられた幸村は百面相した挙句、ため息を吐き出して(この場面で失礼じゃない?)答えた。
「うん。そうだ、と思う」
「思う?」
「いや、そうだよ。だから、つまり、碇が好き」
なんだ、と尻すぼみに言い終えて幸村は私を窺う。
「ふぅん。どこが好きなの?」
「えっ? どこがっていうか……」
白状すれば、幸村の態度に若干いらいらさせられながらも、私は少し楽しくなってきていた。この私の言葉ひとつに哀れにも翻弄されている幸村の姿はちょっと面白い。腰に手を当てて私は問い詰める。
「どこ? 教えて」
「うーん。どこがどうっていうんじゃないけど」
けど、何よ。それなりの理由はあるんじゃないの?
「碇だから。僕がこんなに気になるの、碇しかいないから」
「ふぅん」
「ねえ、行こうよ。楽しいと思うよ。あ、いや絶対。間違いなく」
「……いいよ。あんたが全部奢ってくれるんだったら。日曜に行っても」
「本当? やった! 分かった。あとで! 連絡するよ! 予定を!」
手を振り回して私のほうをたびたび振り返りつつ走るという器用な芸当をしながら気炎を上げる幸村が周囲の視線を集めながら去っていき、あとに残された私たち三人はなんだか妙な空気に包まれた。後ろに控えていたヨシノちゃんとちーぽんが両脇を固めるように前に出てきて、二人して同時に私に向かって話しかけてくる。別に幸村の誘いを受けたのには深い理由はない。ただの気まぐれだ。どうってことはない。
「このまま付き合っちゃえばぁ?」
ちーぽんがほくそ笑みを浮かべて擦り寄ってくる。
「チョーップ!」
「いたぁい。なんで叩くの」
「なんかむかついたからやった」
成仏しろちーぽん。嘘泣きの涙に暮れるちーぽんを抱きとめたヨシノちゃんは、小柄な友人よりはずっと冷静だった。
「全部奢らせるの? ちょっと可哀想じゃない」
「向こうはそうは思っちゃいないみたいだけど? あー、ただで遊べるなんてラッキー」
「気の毒に。アキラが付き合うと言ったわけじゃないってこと、多分まだ幸村は気付いてないよ」
「明日には気付くんじゃない。何ならヨシノちゃんが付き合ってみる?」
「まさか。私はもっと趣味がいい」
「ヨシノちゃんて毒舌よね」
私に頭をかち割られて死んだ(ふりをした)ちーぽんを抱きかかえたままずるずる引き摺るヨシノちゃんと一緒に教室に戻る。今日家に帰ったら、お父さんにヨシノちゃんたちがお泊りに来ることを伝えよう。日にちもいつにするか決めて、掃除もしないと。一応、お父さんの恥ずかしいものがはみ出したりしてたらいけないから。変な柄のトランクスとか、いぼいぼのついたつぼ押し器とか。でも遊園地のことを言うのはやめよう。いや、誰と行くかだけ言わなければいいか。余計な心配をかけてもあれだし、正直痛くもない腹を探られたら鬱陶しいし。デートくらい勝手にさせてもらおう。いや、今度の日曜のはデートじゃないけどさ。
教室に戻るとそこはクラスメートたちの喧騒に溢れていて、それを眺めて私は思う。ここにいるみんなは今日と明日が違うことを疑いようもなく信じている。ルーチンワークに疲れた顔なんてどこにもない。未来への期待に満ちている。十四歳はまだまだ子どもだ。でも私たちの明日の延長線上に大人になった私たちがいる。今という子ども時代を振り切って、私たちは明日へ向かってすごい速度で飛んでいく。いつか母の作った宇宙ステーションで暮らす人もこの中から出るかもしれない。そこさえも越えていくかもしれない。秒速11.2kmの速さで未来を目指して越えていくのかもしれない。けれど私たちは旅立ったあとも故郷のことを決して忘れたりはしないのだ。この教室のことだって。
そういうことよ。私はいつまでも子どもじゃない。あなたが気に入らないのだって本当だ。でも多分、やっぱり、忙しくなったってあなたのことを忘れたりはしないと思うよ。あなたのいる場所は遠い。でも手が届かないわけじゃない。どんなに離れていても、長い間会うことがなくても。いつかこちらから連絡を取ることもあるかもしれない。一年後か、十年後か。その時には罵倒でもいいからちゃんと応えてよね。
ハロー、ハロー、ハロー。
娘からママへ。私の声が届いていますか?
ここまでお読み下さってありがとうございます。
私にとって自分のお話がこうして掲載されることはしばらくぶりとなります。お久し振りと申し上げるべきか、それともすでに忘れ去られたものとして改めて初めましてと申し上げるべきか迷います。
私のことはさておき、このお話はひとまずここまでです。続編外伝その他は書きませんし、書けません。
もともとひとつの短編だったものを分割して掲載して頂いたのですが、すべてに目を通すには長いお話だったと思います。モニタに向かうその時間が少しでも楽しいものであったなら幸いです。しかし想像していた展開と違った、期待していた内容ではなかったと仰る方々おられましたら、申し訳ありません。このジュン様のサイト上だけでもたくさんの良作がございます。そちらでぜひ喉を潤して頂けたらと思います。
久々の掲載だとは先に述べましたが、以前から掲載途中となっているものがあることも承知しております。管理人様からも朗らかな裏に隠されたプレッシャーをひしひしと感じておりますので、善処したいところではあります。身体が四つくらいあればすぐにでもやり遂げるというやる気にだけは自信があります。
さて話が逸れ始めたのでこれくらいに致します。
改めて、このお話をお読み下さった読者の方々、掲載して下さったジュン様に感謝申し上げます。ありがとうございました。
rinker/リンカ
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