by  rinker

 

「静止軌道上ラプソディ」目次へ

 

 

 

 

 

 

 

6.雨に打たれてスイングバイ


 日曜は朝から雨だった。私はヨシノちゃんにまっすぐ家に帰るよう釘を刺され、マリコさんとお母さんにも見送られて午前九時すぎに五十嵐邸をあとにした。ヨシノちゃんたちはこれから色々と用事があるらしい。それはもちろんあのマリコさんの許婚も一緒で、すぐにとは行かないかもしれないけどヨシノちゃんと彼とはきっと上手くやっていけると私は思い、心の中でエールを送った。ともかくこれでいよいよ私は一人になって、この一週間私を悩ませてきた問題と対峙しなければならないというわけだ。
 ヨシノちゃんから借りた真っ赤な傘を差して降りしきる雨の中を私はとぼとぼと歩く。ここから私の家まで歩いておよそ十五分ほど。それが私に残された時間だ。この一週間、私は毎朝お父さんにその日の外泊先をメールで知らせていたのだけど、今日はまだ連絡を取っていない。きっと家に帰れば怖い顔をしたお父さんにこっぴどく怒られるのだろう。どんなに私がそれを一方的だと感じたとしても。あるいはもう怒りもしないだろうか。勝手に家を飛び出して一週間も戻らないような娘はもう知らないと。
 雨脚が強くなっていく。かすかに遠雷が耳に届き、足元で撥ねる水が段々と靴や靴下を浸食する。このまま、と私は思う。嫌なことも何もかも洗い流されてしまえばいいのに。いっそこの一週間がまったくなかったことになり、母の顔を知らない私に戻れたらいいのに。けれどもちろん雨はただの雨でしかない。だから私は真っ赤な傘を広げて自らの身を守る。すでに道路は川のようになりつつあった。大気に立ちこめていた雨の匂いすら掻き消すほどの勢いで無数の雨粒が叩きつけ、それが川を成して流れていく。周囲はけぶり、真っ赤な傘に覆われた私の空間だけが世界から切り取られる。船首は正しい方向を向いている。私のちっぽけなボートは帰港する。
 マンションのすぐそばまでやって来て、エントランスの前に真っ黒い車が停まっていることに気づく。瞬間的な予感。立ち止まった私の視線の先で灰色にくすんだ周囲にひときわ映える金髪が揺らめき、私が息を止めると同時に相手がこちらに顔を向けた。そして私に気付いた。考える間もなく私は傘を投げ捨て、背中を向けて駆け出した。容赦のない雨にあっという間に全身がずぶ濡れになる。でもたとえ溺れたって構わない。あの女と顔を合わせるのだけは嫌だ。それにしてもあの女はなぜあそこにいたんだろう。お父さんと会っていた? もしかして私がいないこの一週間ずっと?
 息が苦しい。胸が押し潰されそうで頭がくらくらする。私はヨシノちゃんの飼い犬のケプラーがするように荒く息を喘がせて、それでも立ち止まることなく一心不乱にひたすら走る。どこへ向かっているかなんて初めから頭にない。どこかへ、どこかへ、どこかへ! それでも私には永遠に走り続けられる力がないので、やがては足取りを緩め、歩き出し、ついには立ち止まった。手ごろな腰掛けを見つけて私は身体を預ける。心臓が私の胸を打ち壊そうとし、きりきりと痛む肺には上手く息を吸い込めない。耳元ではものすごい速さで押し流される血液の立てる轟音が響き、身体中が焼けた石を飲み込んだように急に熱を持ち始める。雨は相変わらず無表情で、頭で何かを考えられるようになるまで一体どれくらい時間が必要だったのだろう、気が付いたら雨音も派手な土砂降りの中で私一人、まるで馬鹿みたいだった。改めて辺りを見回すとどうやら私がいるのは公園の入り口で、腰掛けているのは車両の進入を禁止するために地面に埋め込まれたコの字型の金属のパイプだった。
 逃げ出してしまったけど、このあとどうしよう。私は回転数の上がりすぎたエンジンみたいな身体を持て余したまま途方に暮れた。もう一度家まで戻る? きっとあの女は私が家の前で回れ右して逃げ出したことをお父さんに伝えただろう。その状況でのこのこと戻るなんてあまりにも間が抜けている。まして奴がまだいたとしたら、それこそ目も当てられない。私の悪いくせだ。考える前に身体を動かすせいで気付いたら足元に地面がないって状況に自分から飛び込んでしまう。私は馬鹿だ、自分で一番よく知っている通りに。

「……ほんと嫌になるなぁ」

 どうせこの雨で周囲に人影はないし誰にも聞こえやしない。私は独り言を呟き、濡れて水を滴らせる鬱陶しい髪の毛を両手で全部後ろに流す。こうなったら泣いていいのやら笑っていいのやら、ちーぽんやヨシノちゃんだったらなんて言うだろう。思い切り呆れられるような気もする。

「そういやヨシノちゃんの傘、マンションの前に投げてきちゃった」

 壊れてやしないだろうか。でも傘を持ったままではあんな風に走り出せなかった。もちろん考えての行動ではないけど。もし壊れていたらどうやってヨシノちゃんに謝ろうかと考えていたらくしゃみが出て、その拍子にデイバッグのベルトが肩に食い込んで痛んだ。

「いたたた。肩痛い」

 デイバッグに詰めた着替えは制服と下着の替えだけなんだけど(今回のことで初めてコインランドリーを利用した)学校の教材の類はどうしてもある程度持ち歩かなければならなかったので、そこそこの重さがある。それをさっきみたいにがむしゃらに走ったりするものだから痛むのも当然だ。痣になっているかもしれないと思いながらデイバッグを降ろして身体の前に抱え、少しはましな気分になってほっとため息をついた。と、一時より少し勢いを弱めた雨音に紛れて、まるで両手に持った濡れた布を交互に叩きつけるような音が近づいてくるのが聞こえてきた。
 まさか、まさか。そう思いながらも私は首を巡らせてやって来たほうに視線をやる。足音は(間違いなくこれは人の走る足音だ)近づいてくる。店先の看板や街路樹や垣根の影でちらちらと私の目に映るものが段々と大きくなり、やがて全身が現れる。顔や首に濡れた長い髪をべったりと張りつかせ、ずり上がったタイトスカートから伸びる脚を振って走っているのは、あの嫌味女だ。隠れるとか逃げるとか考える前にまず呆気に取られてしまった私は、ぽかんと口を開けて彼女がこちらへ近づいてくるのをただ見守っていた。多分私を探しているのだろう、彼女は走りながらきょろきょろ辺りを見回し、時に立ち止まって細い路地を覗き込むけど、またすぐに走り出す。けれどじきに私を見つけるだろう。彼女は確実にこちらへ向かってきている。あと数メートルも進めば、ああ、こちらに気付いた。
 あとはもう、一目散に駆けつけてきた。私はまだ開いた口が塞がらない。

「はーッ、はーッ、ざっけんじゃないわよクソガキ。ゲホッゲホッ!」

 ゴールした直後のマラソン選手みたいに私の目の前で立ち止まってよろめく、威勢がいいのだか死にそうなんだかはっきりしない彼女の姿は、はっきりいってひどい有様だった。まるでハリケーンに巻き込まれた上に一週間遭難して生き延びたみたいな、そんな感じ。濡れて栗色になった髪の毛は何かの呪いみたいに彼女の顔や首にぐるぐると巻きついているし、身体に張り付いたブラウスはちょっと猥褻な感じに中の身体を透かし出しているし、本来は膝くらいのタイトスカートはほとんどミニになってしまって、黒いストッキングは破れてしまいかろうじて足の裏に引っ掛かっているという状態、パンプスは彼女の両手の指に片方ずつ引っ掛けてある。顔色は爆竹を飲み込んだみたいだ。両膝に手を突いて深刻な息の吸い方をし、ひどく咳き込んで、もう一生動きたくないという顔をしている。ついさっきまでの私はこんなだったのか、と私はひどく納得し、他人に見られなくてつくづくよかったと胸を撫で下ろした。まあ、若い分だけ目の前で苦しんでいる女よりはましだったかもしれない。

「探したわよ。まったく」

 息も絶え絶えで恨めしそうに彼女が言う。苦しいなら喋れなければいいのに。

「馬鹿みたい。何必死になってんの」

 これがおそらく初めて彼女に向かってまともに私の言葉をぶつけた瞬間だ。先週の日曜会わせられた時には適当な返事くらいしかしていない。それにしても我ながら品のない言葉だったけど、相手もいい歳して負けてはいなかった。

「やっぱり生意気なガキ。あれほどシンジに心配をかけておいて、挙句この私に骨折りさせて。やっと見つけたと思ったらこれ? あーあ、脚は痛いし。最悪だわ」

 化粧の崩れた悪魔みたいな顔を歪ませてこいつは悪態を吐いた。確かこの女は一応私の母親だったと思うんだけど、私の体を流れる血の半分が目の前の女から与えられたと思うとめまいがしてくる。

「で、なんか用? 用がないなら早く消えて。鬱陶しい」

「やれやれ。それくらいしか言葉が見つからないのかしら」

「どっか行ってよ」

「行くわよ。あんたと一緒にね。なんのためにずぶ濡れになってまで走ったと思ってんのよ。ガキの使いじゃないのよ。縄で括って引き摺ってでも連れ帰ってやるわ」

 いまだに肩を上下させているくせに、と思ったものの、彼女の表情は本当に縄を探し出しかねない危険なものだった。疑問その一、お父さんはこの野蛮な女のどこがよかったのだろう? その二、雨ざらしで走らずとも車を使えばよかったのでは?
 とはいえ、このままおめおめと連れ帰られる気はない。もはやあとに引けなくなっている感があるけど、それでも意地くらいは張らせてもらう。

「嫌よ。私に触ったら大声で叫ぶから」

「下らないこと言ってこれ以上手間かけさせるんじゃないわよ」

「そっちが勝手にやってるだけでしょ。私には関係ない」

「……一応警告しとくけど、これが最後よ。さあ、一緒に帰るのよ。シンジが待ってるわ」

 腰に両手を当て、私をまっすぐに見て彼女は言った。私は答えた。

「あんたの言うことなんて聞く気はないんだよ。クソババア」

 すると私の言葉を聞いた彼女は顔を俯け、ふーッと息を吐いた。そして目にも留まらぬ速さで手を繰り出すと私の胸倉を掴み、力任せに持ち上げられた私は首が絞まって目を白黒させながら彼女の腕を外そうとしたのだけど、万力で締め上げたみたいにまるでびくともしない。

「放せ! 放してよ!」

「アキラっていったかしら。悪いわねぇ。いくつか誤解してるようだから教えてあげるけど、私はシンジほど優しくもお人好しでもないの。あいつったら優しけりゃいいってもんじゃないことがまだ分かってないんだから。優しくされるだけじゃ女は駄目になるのに、しょうがないわね。それからあんたが私の言うことを聞くかどうかは本当は関係ないのよ。私はシンジのためにこうして雨ン中ずぶ濡れになって走ったんだし、あんたの意向とかそういうのはどうでもいいの。言うことを聞こうが聞くまいが私はあんたをシンジのもとへ連れ帰るし、あんたが色々言い訳しなけりゃならない相手はシンジなのよ」

「うるさい、誰が――!」

「静かにしないと口に手ェ突っ込むわよ。いいことクソガキ、あえて言っておいてやるけど、あんたが何を考えて何を思っていようとシンジに心配をかけていい理由にはまったくなりゃしないのよ。家を飛び出して一週間どこにいて何をしてたのか知らないけど、あんた自分の行動は悪くないとか思ってんならケツを三つに叩き割るわよ。シンジがどれだけ心配して、それでもあんたを信じると言って無いも同然の連絡だけ受けて一週間過ごした気持ちがどんなものだったか、想像できないようならその肩の上に乗ってる無駄にでかいだけのメロンを私が吹き飛ばしてやるわ。私はやると言ったらやるわよ。たとえシンジが止めたってね」

 自分でいうのもなんだけど、私は向こう気の強いほうだ。度胸もあるといっていいと思う。下手な脅しなんかてんでへっちゃらだ。と、この時までは思っていた。でも駄目だ。白状すれば、私はこれまでの人生で一番怯えていた。私の胸倉を掴んでいる女が怖い。脅し文句に怯えているんじゃなく、相手が本当に本気だというのが目を見て分かったからだ。この人はいつも本気なんだ。大きくて真っ青な瞳がまっすぐに私を貫いている。顔中に雨粒が跳ね返り、時折目に入るのか大きな瞬きをし、また私を射る。唾を飲み込むと、胸倉を掴む腕が放しはしないもののふっと緩んだ。

「私の言うことが理解できたようね。それじゃとっとと帰るわよ。あんたと違って若くないんだから私はもう疲れたのよ。それに雨も降りやまないし、こんななりのまま突っ立ってたら風邪引いちゃうわ」

 私を心配しての言葉じゃないんだろう。空を見上げて忌々しげに目を細める彼女を見て私はそう思うが、あえて反駁はしない。これ以上反抗するとこの怪力女に本当に何をされるか分かったものじゃないからだ。それに、結局は私も家に帰るきっかけを探していたのだから、過程には目を瞑ることも時には必要だろう。そういうことにしておく。

「そういやジャケットをどこかに投げてきちゃったわ。どこで脱ぎ捨てたんだったかしら。あんた、帰る途中で見つけたら教えて」

「あの」

「ん?」

「手、放してください」

 いまだに胸倉を掴まれたままの私は息が苦しいし居心地が悪いことこの上ない。この女も言われて気付いたのか、ああ、と呟いて手を放し、いくつかボタンの千切れたブラウスの胸元を整える私の姿をしげしげ眺めて言った。

「あんたまるで台風に強姦されたみたいだわよ」

 確かにその通りなのだろうから言い返しはしない。けれど一体ほかに言葉はないのかと思わず私がため息を吐き出すと、口の悪い私の母は初めておかしそうに笑った。
 そのあとようやく家まで帰ってきて一週間ぶりの玄関を潜り、そこで待っていたお父さんの顔を見たら私はなんだかたまらない気持ちになって「ただいま」と小声で言えば「おかえり」と何かと一緒に吐き出すような声で返され、思わず何も考えられずに沓脱から上がろうとし、すぐ後ろにいた母にブラウスの背中を思い切り引っ張られてつんのめった。

「何するのよ!」

 ボタンの千切れていた胸元が引っ張られたせいで丸出しになってしまう。この制服のブラウスはもう使えないかも。そういえばネクタイも走っているときか公園でか分からないけどなくしてしまった。ヨシノちゃんの傘はマンションのエントランスの中に立てかけてあったけど、母のジャケットは結局見つからなかった。

「足くらいは拭きなさいよ。家中が泥だらけになるわよ。シンジ、タオルちょうだい」

 言われなくても山のようなタオルを抱えていたお父さんはその山を二つに分けて私と母に手渡した。それにしても、と私はお父さんの表情を窺いながら思う。開口一番に怒鳴られるかそれとも無視されるかと思っていたのに、この妙なムードは何なのだろう。いくらなんでもこのままチャラってことにはなりはしないと思うけど。

「お風呂用意しておいたから、二人ともそのまま入ってきなさい。よく温まらないと風邪を引くよ」

 デイバッグは沓脱にそのまま置き(中身は無事だろうか?)、身体を一通り拭いてよれよれのブラウスとスカートも脱いでタオルにくるまった私は、お父さんの言葉に思わず大きな声で言い返してしまった。

「嫌だよ、一緒なんて!」

「だって一人ずつだとあとの人が待つのつらいだろ」

「別に私はどっちでもいいわ。あ、シンジ、これ捨てといて」

 母はそう言って破れたストッキングをお父さんに手渡して勝手に家の奥に入っていく。

「勝手な人! 信じられない!」

「まあまあ」

 汚いストッキングを律儀に持ち、憤慨する私を宥めようとするお父さんに、本当にあんな女のどこがよくて選んだのかと私は理解に苦しむ。いや、それともあんな女だから別れたのだろうか。

「いいじゃないか。別に恥ずかしいわけじゃないんだろ」

「そういう問題じゃ――」

「ちょっとお二人さん」

 なおも私がお父さんに食ってかかろうとすると、ドア枠の陰からひょいと顔を出した母があだっぽく濡れた髪をかき上げていやらしい表情で言った。

「どっちでもいいから早くしてくれない? 私は別にあとでも構わないわよ。シンジが温めてくれるんなら」

 もはや言葉も出ない。私は頭に巻いていたタオルを掴んで思い切り投げつけると脱衣所に駆け込んで戸を閉めた。でもすぐに戸が開いて母が入ってきて、勝手に服を脱ぎ出す。

「ちょっと。入ってこないで下さい」

「もういいじゃないのよ。面倒くさい。お互い寒いんだからさっさと温まりましょうよ」

「だから私はあなたなんかと――」

「うるさい。ほら、とっとと入って。ほらほらほら」

 と浴室の扉を開いて私を無理矢理その中に押し込み、自分は脱衣所の扉越しにお父さんと会話している。なんなんだこの女は、とむしゃくしゃしながら私はまだ穿いていたパンツを脱いで隅に投げ捨てた。

「ね、シンジィ。このまま私も入っていいんでしょ」

 母がお父さんに向かって馴れ馴れしく呼びかける。馬鹿みたいにシンジシンジって本当にうざい女!

「もぉー、お父さぁーん! この人お風呂から追い出してよぅ!」

 私が大声で口を挟むと、お父さんは期待はずれの答えを返してきた。

「いいだろ。裸の付き合いって日本語、知ってるか。まさかお前も風呂で取っ組み合いを始めようとは思わないよな」

「あら、女ってのは怖いのよ、シンジ」

 お父さんの言葉を母が混ぜっ返す。取っ組み合いなんてするわけない(だって間違いなく私が負けるから)けど、少しは気まずく感じる私の気持ちを察してくれたっていいのに。
 湯船に指先を浸けて温度を確かめる。少し熱過ぎるみたいだ。掻き混ぜるために肘まで腕を湯船に入れると、びりびりと熱が私の肌を刺す。

「車は帰った?」

 母はまだお父さんと話しているようだ。擦りガラス状のアクリル板の入った浴室の扉越しに肌色の人影が映っている。寒くはないのだろうか。

「ああ。荷物は引き取っておいた」

「ありがと。頼んどいた電話は? カーチャはなんて言ってた?」

「電話はしたよ。久し振りの英語だったから怪しかったけどね。カーチャ・ミハイロヴナとやらが言うには、君の分だけ航空券をキャンセルしたらしい。先にタラワで待ってるから用が済んだら一人で来いってさ。感じのいい人だけどひどい英語だったな」

「それ、カーチャが聞いたら怒るわよ。自分はわざと英語の訓練をしなかったんだってのが彼女の言い分なの。英語の発音はひどく訛ってるけど仕事は超一流よ。女帝エカテリーナってね、結構恐れられてるんだから」

「ふぅん。ロシアの人だっけ」

「ウクライナの人。まあ飛行機のチケットはしょうがないわね。あとで手配しなきゃ」

「すぐに行くのか」

「できれば今日、それか明日の便かしらね。私たちの作ったメリーゴーランドの件で忙しいのよ」

 扉の向こうに立っている母は、公にはツェッペリン博士と呼ばれていて、先日完成した宇宙ステーションの設計と建造に携わった偉い人らしい。どう見てもそんな偉い人には見えないのだけど、反面それくらいのことはやらかしそうだ、とも思える。私には口汚くて野蛮な怪力女以外の何ものでもないけど。
 湯船をぐるぐると掻き混ぜながらそんなことを考えていると、ようやくお父さんとの会話をやめたのか、勢いよく浴室の扉が開いてどかどかと母が入ってきて言った。というより叫んだ。

「まだそんなとこにいるの? さっさとお湯に浸かりなさいよ。二人で洗い場に突っ立ってたら狭くってしょうがないわ」

 突然現れた母の裸の、なんというか図々しい存在感に私は目線を泳がせながら答えた。

「あ、でも身体洗わなきゃ」

「あんた馬鹿? 温まるのが目的でしょうが。こうしてる間に身体冷やしちゃどうしようもないじゃない。ほら、足とアソコとお尻だけ綺麗にしたら早く入って。私はひとまずシャワーを浴びてるから」

「でも――」

「今度『でも』って言ったらジュウドーで頭からバスタブに叩き込むわよ」

 もちろん私は従った。こんなところで溺死したくはないからだ。湯船に浸かると身体中を刺す刺激のあとにじんわりと心地よい熱さが染み込んで、朝の九時から最低だった今日という日にあってようやくわたしは一息つくことができた。
 これで隣に誰もいなかったらもっとよかったのだけど。その母はシャワーをしばらく浴びてから石鹸を身体に擦りつけ始めた。大人の女性の裸というのを私は初めて見る。これで本当に親子だというなら、私もいつかはこんな風になるんだろうか。年齢なりのたるみなのか、それとも女性的な丸みなのかよく分からないけど、細っこい今の私とはまったく違う作りの母はなんだかとても堂々として大きく見える。今日で会うのは二度目だというのにまったく恥ずかしがる気配もなく、自分の裸を晒していることにひどく心細いような気がしている私とは大違いだ。石鹸を持つ母の手がなだらかな腹を撫で、たわなな乳房を持ち上げる。あの腹の中にかつて私がいた? あの股の間から顔を出して? あの乳首に吸い付いたりしたこともあったのだろうか?

「あんた、レズビアン?」

 突然何を言われたのか理解できなくて、裏返った声が私の口から飛び出した。

「は?」

「さっきからすごく視線を感じるんだけど。別にあんたがレズでも構やしないけど、私はやめてよ。あんたの母親だってのは本当なんだから」

「なッ、そんなわけないでしょ!」

 頭に血が上って勢いよく湯船から立ち上がると、母は思い切り迷惑そうな顔をして両手で庇う仕草をしながら言った。

「お湯が飛び散るでしょ。いいから座りなさいよ。身体冷やすから」

「そっちが変なこと言うから」

「はいはいはい。分かった分かった。やれやれ、シンジもまた随分とお上品に育てたもんね」

 上品なんて言われたのは生まれて初めてだ。私の脳裏にヨシノちゃんのお母さんとマリコさんが浮かび上がる。まず間違いなく私が上品なんじゃなくて今この浴室を共有している目の前の女が下品すぎるだけだろう。まったくお父さんはこんなののどこが、というのももう言い飽きたか。
 本当に、どうして二人は一緒になったんだろう。どうしてそのあとで別れてしまったのだろう。そのふたつの間にこぶのように生じた私という存在は、一体何なのだろう。
 身体を綺麗にしながら母は気持ち良さそうに歌を歌い始める。感情が乱高下するタイプの人なんだろう、あの大雨の公園で私を罵り倒したのと同じ人だとはにわかに信じがたい。

「オーゥ、ソーレ、ミーヨォ、ランラーラ、ラーラー」

 何故イタリア民謡なのかはよく分からない。ついでに歌詞も分からないらしい。威勢のいい大声だったのがすぐに鼻歌に切り替わって尻すぼみになり、いつの間にかクイーンの「伝説のチャンピオン」に摩り替わっている。
 多分母に質問するとすれば今この時を措いて他にないような予感がしていたけど、何故だか私は一向にそうする気になれなかった。若かった両親の間に何が起こったのかについては、当事者だけが知っていればいい。私は自分が捨てられたとは考えていないし、実際に会ってみても母のことは好きになれそうもなかったけど恨みに思っているわけでもない。お父さんとの二人暮らしはまずまず悪くないから、母がいないからといって不満はない。むしろ今後も引き続きいないほうが望ましいくらいで、そこだけ確認できればそれでいいのだ。これからはちょくちょく顔を見せるとか日本に定住することにしたとか、そんな答えが返ってきたらそれこそ問題というものだ。

「ねえ、あんた」

「……アキラです」

「分かったわよ。じゃあアキラ。あんた夢はある?」

 いきなり柄でもないことを訊ね始める母に面食らって私は今度は何を企んでいるんだと顔をしかめる。

「ありますけど。一応」

 だからどうだっていうの、と私が窺っていると、母は石鹸をもてあそぶ手を見つめながら言った。

「そう。ま、何にしても夢があるというのはいいことだわ。まだたったの十四歳だものね」

「あなたの場合はあの宇宙ステーションだったんですか?」

 自動小銃や対人地雷やミサイルを買うはずのお金で造られた天上にある鉄のゆりかご。これから再び(今度こそ)宇宙へ飛び出していこうとする新しい人類のために用意された。目の前のこの裸の女が用意した人工の星。

「あれは夢というか……まあ間違いではないか。ずっと完成を目指してきたもんだし。でも本当の夢は別にあったんだけどね」

「本当の?」

「あー。実はオペラ歌手になりたかったの」

 熱い湯船に浸かっていると肩から上は汗が噴き出してきて、私は何度か手のひらでお湯を掬い上げて顔を洗い髪の毛を後ろに撫でつけた。雨に打たれて芯まで冷え切っていた身体は柔らかく溶かされて、私はどうしようもなく気に入らない女と一緒にいることすら忘れてしまうくらい気持ちのいい気分だった。そうして私が和んでいると、母がタイミングを計ったように言った。

「そろそろ代わってよ」

 半分のぼせた私はのろのろと湯船から出ると、先ほど母が腰掛けていた座椅子に腰を下ろし、身体を洗い始めた。やはりシャワーでは充分に温まることができなかったのだろう、ようやく湯船にありついた母は安心したように目を閉じて静かになった。一人で先に長々と温まって悪かっただろうか、と私は気を揉み、そんな自分に嫌気が差す。相手は私以上に自分勝手な奴じゃないか。何を気を遣うことがある? 時折母が気持ち良さそうに吐き出すため息や湯を掻き混ぜたりして立てる水音を耳にしながら私は丁寧に時間をかけて身体と髪を洗った。

「今回のことはあんたには災難だったわね」

 シャンプーの泡を洗い流している最中におもむろに母が言った。目にかかるお湯を拭って横を向けば、いつの間にか母は浴槽のへりに腕を置いてこちらをまっすぐに見ていた。けれど私と視線がぶつかると、不思議な笑みを浮かべて身体を向きをもとに戻した。

「まあ遅くても明日にはまた日本から消えるから。これで安心できるでしょ?」

「私、あなたのこと嫌いです」

「そうでしょうね」

 こともなげに受け流して母は湯船から上がり、再び私と交代する。
 明日には日本から母が消える。私のそばからいなくなる。でも母を知らなかった頃の私に戻れるわけじゃない。今までと同じ私とお父さんに戻れるわけじゃない。これからはいつも頭の片隅にこの女のことを記憶して暮らしていかなければならない。意識的に、無意識的に。手のひらで湯を掬い上げ、それが零れ落ちてゆっくりと再びもとの場所に戻っていく様子を私は見つめる。長い金髪を丁寧に母は洗い始める。
 最後にもう一度温まっている母を置いて一足先に風呂から上がった私を待っていたのは、どこか生真面目な顔をしたお父さんだった。まだ濡れた髪をタオルで押さえつけながら横を通り抜けようとしたら呼び止められ、私は振り返って真正面からその顔を見上げた。

「お母さんは」

「まだ入ってる」

「そうか。今日な、五十嵐さんから電話あったよ。九時ごろに向こうを出たけどひどい雨になってしまって、アキラは無事に帰ってるかって。それからお前をあまり責めないでやって欲しいとも言ってたな」

 ヨシノちゃんがそんなことを。

「しっかりした子だな。そういえばおとといだったか、森さんからも電話が来た。あの小さい子だろ、森さんって。いい友達を持ってるみたいでお父さんは安心したよ」

 食卓の椅子に座るとお父さんが湯気を立てる煎茶を注いだ湯飲みを渡してくれて、私はそれを受け取って口をつける。

「だけどけじめはつけないとな。そうだろ、ん?」

「ごめんなさい……」

「何がごめんなさいなんだ?」

「黙って家を出て一週間も帰らなくて、ごめんなさい」

「そうだな。これでもしお前から泊まり先を報せるメールも来なかったら警察に行ってたところだ。それにあまりこういうことは言いたくないけどな、やっぱりお前は女の子だから。お前に何かあったりしたらお父さんは嫌だ。そんなこと耐えられないし、何よりお前が一番傷つくことになる。今回だって何度泊まり先に出向いて連れ戻そうと思ったか分からないが。それでアキラ、正直に言ってみなさい。何にそんなに怒ってたんだ」

 この期に及んでお父さんが本当に私が怒っていた理由が分からないということはないだろう。ないのだろうが、改めて言ってみろといわれるとどうにも拗ねた気分になって、私は口を開くのが嫌になった。謝ったからもういいじゃない、と。

「いいよ。それはもう」

「よくはないよ。アキラ、親だって口で言われなきゃお前が何を考えているかなんて分からない。心が読めるわけじゃないんだ。なあ、アキラ。心配をかけたって別にいいんだ。親なんだから。子どもを心配するのは当然なんだ。でもお前が何を考えてるのか教えてくれなきゃ、その心配だって的外れのものかもしれない。教えてくれよ。何が気に入らなくて、どうしたかったんだ」

 こうやってしばらくの間押し問答が続き、ついに根負けした私は今回の家出に至った心理的経緯をぽつぽつと説明し始めた。私が何を思い、どう感じていたのか。母親になど会いたくはなかったということ。実際に会ってみた印象がどうであれ、何よりお父さんのやり方に腹が立ったこと。その時になるまで私に秘密にしてあんな風に驚かせたこと。せめて事前に話してくれていれば、その上で私の気持ちを確かめてくれていれば、私だってこんなに意固地にはならなかったこと。私はかなりの本音をお父さんに打ち明けた。それはむしろ言葉少ななせいで正確な私の思いとは別の意図で伝わってしまったかもしれないけど、それでもお父さんはどこか納得したような寂しそうな顔で、先週の日曜に私に何の相談もしなかったことを詫び、母のことを無理に好きになれとはいわないけど顔を合わせている間だけは我慢してくれと私に頼んだ。私もまた家出について謝罪し、その点については再度お父さんから苦言を呈された。もう二度とやるな、やる前に言いたいことはお父さんに言え、と。私たちはおおむね仲のいい親子だけれど、何でもかんでも父親に話す娘とは私は違うし、そんなものは気持ちが悪い。だけど今回の件に限ってはそうすべきだったと考え、私はお父さんの言葉に頷いた。
 煎茶はぬるくなり始めていた。残りを一息で飲み干して息を吐き出し、ようやく私たち親子の実に一週間ぶりとなる懐かしく心地いい空気に身を委ねていると、その脇を髪と身体にタオルを巻いた母が裸足でぺたぺたと横切って、勝手に冷蔵庫の中身を覗き込んでから世界の終わりみたいな声を上げた。

「あ! 牛乳がない!」


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

7.ハロー、ハロー、ハロー へ

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