何でもない日


リンカ       2008.12.06
















 碇シンジが喋り出す前にためらいがちな挙動を見せるのは、いつものことだった。
 カーテンに染みを見つけた時のような批判的な眼差しで彼を一瞥すると、惣流・アスカ・ラングレーは手元に広げた雑誌へと意識を戻した。三歳児ではないのだ。訊ねられねば言いたいことも言えないということもないだろう。ページをひとつ捲り、彼女は同居人について批判的にそう考えた。
 北半球の十一月に入ったというのに、一年中暑い日本の気候のおかげでアスカはタンクトップにショートパンツという至って身軽な格好をしている。そんな格好でリビングのカーペットに腹ばいになり、ポテトチップスを食べながら雑誌を読んでいるアスカはお世辞にも行儀がいいとはいえなかったが、こんな姿を知っているのは先ほどから口ごもっているシンジともう一人だけだ。だが彼女は一向に気にしない。長い赤毛は一対のインターフェイスヘッドセットでいつもの髪型に纏められている。彼女はエヴァンゲリオンパイロットである証明として、入浴や就寝時を除いてほぼ必ずこの赤いヘッドセットを髪につけていた。
 シンジからようやく言葉が投げかけられたのは、随分あとになってからだった。

「ア、アスカ、ちょっといいかな」

 いいとか悪いとか訊いている暇があるなら、とっとと喋ればいい。でも、アスカはそれを口に出す代わりに、ポテトチップスを一枚くわえ、歯で割った。

「あの……」

「何よ。用でもあるの。ないんだったら、あんた、ジュース持ってきてよ」

「あ、うん」

 命令された犬みたいに馬鹿正直にキッチンに向かうシンジの気配を意識の端で追いながら、アスカはまた一枚口にくわえた。
 グラスに注いだオレンジジュースを持って戻り、それをアスカの手元に置いたシンジは、再びためらいがちに口を開いた。

「それで、さっきのことなんだけど」

「ああ。で?」

「えっとさ」

 ご丁寧に差してあったストローを唇で挟んでオレンジジュースを吸い込みながら、今度「あの」とか「えっと」とか言ったらこの愚図を蹴っ飛ばしてやる、と考え、アスカは辛抱強く相槌を繰り返した。

「ええ、それで?」

「今度の十二月八日のことなんだけど」

 十二月八日?
 それが何だというのだろう。一ヶ月後のその日は、アスカの記憶では特別な日ではなかったはずだ。シンジの遠回しな言い方ではまったく要領を得ない。

「それが何なのよ」

 アスカは苛立った口調で促したが、シンジは持ち前の身勝手な鈍感さを発揮したのか、それには気付いた様子もなく言葉を続けた。

「ミサトさんの誕生日、どうしようか?」

「……は?」

 ティーン向け雑誌の最後のほうに掲載されている星座占いを読んでいたアスカの思考は、その一瞬硬直した。

「は、って誕生日だよ」

「誰の?」

「だからミサトさん。知らなかったの?」

 ミサトというのは、もう一人の同居人で彼らの保護者のことだ。もっとも、アスカ自身は保護者だなどと思ったことは一度もない。何年も前からの知り合いであることは事実だったが、個人的な情報などほとんど知らなかった。当然、誕生日のことも初耳だ。
 むしろお前はどうしてそんなことを知っているんだとか、そういうことはどうでもいい。アスカは眉間を激しく痙攣させながら、首をひねって肩越しにシンジを見た。彼は予想外のアスカの形相に顔を引きつらせながらも、どうにか言葉を継いだ。

「えっと、それでプレゼントとかどうしようかなって。ほら、お世話にもなってるし。アスカはお小遣い、まだ残ってる?」

「あぁ?」

「いや、だからお小遣い……」

「何で」

「だからプレゼントを」

「誰が」

「ぼ、僕とアスカかな……、一応」

 びくびくと怯えて答えるシンジのほうを向くのをやめ、アスカは乱暴な仕草で腹ばいになっていた身体を起こした。腰に手を当てると、カーペットに膝をついているシンジを睨みつけ、彼女は喚いた。

「何であたしが、あんたなんかと、あのミサトの奴にプレゼントなんか買わなくちゃいけないわけ。あたしはお断りよ。あんた、一人で勝手にすれば?」

「そんなッ」

「ふんっ! 邪魔よ、部屋に戻るからどいて!」

 しゃがんで雑誌とポテトチップスの袋をひったくると、アスカはなかばシンジを足蹴にするようにしてその場から立ち去ろうとした。

「あッ」

 アスカにぶつかられて膝立ちの姿勢だったシンジは体勢を崩し、その拍子にカーペットに置かれたままになっていたグラスに足をぶつけたらしかった。彼の発した短い声に振り返ってアスカが見ると、まだ半分くらい残っていたオレンジジュースが横倒しになったグラスから零れ、カーペットに広がり染み込み始めていた。
 しまった、とアスカは思った。でも、足は止められなかった。

「アスカっ!」

 非難するように呼びかけるシンジの声をできるだけ頭から締め出し、彼女は理不尽な怒りを身体中に充満させて、足取りも荒くそこから立ち去った。





「もういいわ。上がってちょうだい」

 失望がありありと表れたリツコの言葉を聞き、アスカはエントリープラグの中で唇を噛む他なかった。技術者たちはすでにリツコの指示に従い次の作業へ移っており、誰もアスカを気にかけることなどしない。定められた手順によって淡々とエントリープラグが抜き出され、充満したLCLが排出され、ハッチが開かれる。血の匂いがする液体を滴らせてデッキに降りたアスカは一直線にケージの出口へ向かう。誰も彼女の歩みを止めるものはいない。
 更衣室でプラグスーツを脱ぎ捨て、血の匂いがするLCLをシャワーで洗い流す。足元の排水溝へ渦を巻いて吸い込まれていく様子をアスカは無言で見つめる。
 血の匂いはもうしない。
 しかし、屈辱は洗い流せない。
 世界で三人しかいない決戦兵器エヴァンゲリオンのパイロットの一人。そのうちのもっとも優れたエースパイロットとして、鳴り物入りで来日したはずだった。ドイツにいたために参戦は出遅れたが、すぐに名実ともにナンバーワンになれる。アスカはそう考えていた。しかし、目の前の現実はあまりに違った。
 アスカの信奉する華麗な戦術など使徒が相手では何の役にも立たない。戦いはいつも行き当たりばったりの力任せなもので、成果を上げるのはほぼ決まってアスカではなく三番目の少年だった。見下ろすべき人間を仰ぎ見なくてはならない屈辱をアスカは舐め続けていた。
 シンジは強い。それがなぜなのか分からない。
 初の搭乗から驚異的数値だったシンクロ率はぐんぐんと向上していき、アスカが何年もかけて到達した高みをものの数ヶ月で易々と追い抜いてしまった。深く接合するほどにより力を引き出すことができるエヴァンゲリオンの特性は、戦闘技術などなきに等しい少年を一躍エースに仕立て上げた。その前にあって、アスカの積んだ十年の訓練など塵と同義だった。
 しかし一方で、アスカはシンジほど弱い人間に出会ったことがなかった。彼は弱く、愚かで、臆病だ。彼は周りの人間を皆恐れ、物事に直面するたびに怯んだ。逃げ道があればそこへ逃げ込み、なければうずくまって自らの殻にこもった。自らの力で道を切り開こうとする意思も意欲もなく、ただ漫然と周囲の顔色を窺い、その時々で都合のいい居場所を探していた。
 なのに、エヴァに乗ったシンジに敵はいなかった。
 その矛盾がどうしようもなくアスカを苛立たせた。彼女を傷つけ、糾弾した。
 アスカにはエヴァしかない。母は発狂して人形を娘と思い込んだまま自殺した。発狂した母と離婚した父が新しい妻と人生を再出発する上で、娘は一番に愛を注ぐ存在ではなくなった。自分のことを一番に愛してくれる存在がいなくなった時、それを取り戻すためにアスカは誰よりも優秀であろうと決めた。誰よりも抜きん出れば、父は自分のことを見直し、愛するようになるだろう。亡き母だってきっと、人形と間違うことなく正しく自分を見てくれただろう。
 一体何をすれば世界の誰よりも優れていると証明できるかを考えた時、アスカの目の前にあったのは、自分だけが動かすことのできるエヴァンゲリオン弐号機だった。世界でたった三機しかないうちの一機。将来において世界を救うと言われている巨大兵器。そのパイロットに選ばれた時点ですでに世界中でたった三人という特別な位置にいる。では、その中でさらに一番になればいい。そうすれば、正真正銘彼女は世界で一番の存在になれる。
 また、反面でこれは復讐でもあった。何故ならエヴァこそが彼女の家族を奪ったのだから。母を狂わせ、それによって父の心を彼女から引き離した。すべてエヴァが原因だ。だからこそ、彼女はエヴァに立ち向かい、屈服させることを望んだ。自らの幸せをぶち壊したエヴァを乗りこなして、今度はそれを道具として自らの力によって望むものを手に入れるのだ。
 だから、アスカは絶対にエヴァによって、一番にならなければいけないのだ。
 しかし、それをシンジが阻んでいた。目の上のたんこぶという以上に、彼は圧倒的な壁となり彼女の前に立ち塞がりつつあった。彼がいる限りアスカは一番にはなれない。誰からも認められない。愛されない。
 エヴァで一番になれないお前には価値などないのだ、とシンジの背が嘲笑っているような気さえした。いや、本当に嘲笑ってくれたらいっそよかった。けれどシンジはいつでも自信なさげに顔色を窺うのだ。敗者の顔色を。
 この屈辱。
 許せなかった。





 シンジが計画しているミサトの誕生日のお祝いとやらにアスカは関知しなかった。あのような大人面して都合のいいことばかり言う女によくもそんな真似をする気になるものだと彼女はシンジの気が知れなかったが、だからといって止める義理があるわけでもない。そもそもミサトとシンジはアスカが来日する以前から二人で暮らしていたので、何かしら特別な事情でもあるのかもしれない。そう考えればミサトがシンジにだけ甘いのも納得行くような気がした。
 いずれにせよアスカはおままごとに参加する気はなく、そして二週間が過ぎた。その間にシンジが何をしていたかアスカは知らない。最近では日常的な最低限の会話さえ危ぶまれるようになってきた。同じ家に住み、同じ学校へ通い、同じエヴァのパイロットをしているというのに、彼女は彼のことを緩やかに無視していた。
 当初感じた理不尽な怒りはいまだにアスカの胸の中に巣食っていた。いくらシンジがミサトと馴れ合おうと彼女にとってはどうでもいいことだ。ではこの怒りは何なのか。
 本当はミサトとわずか四日違いの自らの誕生日を無視されたのが気に食わなかったのだろうか。実は十二月四日が彼女の誕生日なのだ。しかし、この日本で誰にもそのことを話したことはない。だから、そもそもシンジはアスカの誕生日など知らない。 知らないものを祝うことなどできるはずもないというのは当たり前のことだ。自問するアスカはそう結論付けてかぶりを振る。
 結局はシンジという存在自体が気に入らないだけだ。だから彼のやることなすことすべてが癇に障る。
 それにこの十年、十二月四日はただの日付以上の意味を持たなかった。いまさら自分の誕生日を無視されたことに腹を立てるなどあるはずがない。エヴァを使って頂点に立つという目的を前にして、そのような瑣末なことにかかずらっている必要はないのだ。
 一番になれないなら生まれてきた意味もないのだから。
 それからさらに一週間が過ぎた。
 十一月の終わりの日、夕焼けに染まる空の下に第十三使徒は現れた。
 稜線から姿を現した使徒のシルエットはエヴァそのままの形をかたどっていた。使徒は3号機に寄生し融合していた。エヴァ起動のために搭乗していたパイロットは鈴原トウジ。数少ないシンジの友人だ。
 アスカは搭乗者についての事実を偶然知っていたが、シンジの性格を思うとつらかった。彼はきっと友人の乗るエヴァを敵とみなすことに耐えられないだろう。

「やっぱり人が乗っているのかな。同い年の子どもが」

 シンジが呟くのが無線を通じて聞こえてきた。
 アスカは息を呑んだ。それでは彼は知らないのだ、何ひとつ。彼女は自分に問いかける。今ここで真実を教えるべきだろうか。しかし確実に戦力の一角を殺ぐ結果になると分かっていて?
 逡巡は一瞬だった。彼女の口は滑らかに動いてその名を告げた。

「鈴原よ」

「え?」

 戸惑ったような声が初号機から送られてくる。飲み込みの悪い少年にアスカは怒気を込めてほとんど叫んだ。

「あれに乗ってるのは鈴原なのよ!」

 同時に3号機が跳躍した。
 一直線に舞い降りてきた3号機の攻撃を辛うじてかわし、アスカはトリガーを絞った。弐号機の構えるパレットガンの銃口から火を噴いて弾丸が撃ち出される。しかし、それらはすべて3号機の身体に到達する前に赤い障壁に阻まれて、朦々たる煙を発生させる。舌打ちとともに射撃をやめたのと、視界を塞ぐ煙の中からプログナイフを握り込んだ腕が飛んできたのは同時だった。虚を突かれたアスカは咄嗟に銃身で身体を庇う。薄く発光するナイフの切っ先が硬い銃身に突き刺さって火花を散らす。銃を捨てて後方へ跳んだ弐号機はスマッシュホークを構えて身体を低く落とした。
 発令所から指示を伝える声がエントリープラグ内にやかましく響いている。零号機には後方からの援護、そして初号機へは弐号機のもとへ駆けつけるよう発令所の声は伝えている。だが無駄なことだ、とアスカは思う。あの臆病者は来たりしないだろう。
 しばらくにらみ合いが続いた。ナイフを握る3号機の腕はまるで蛇のように長く伸び、だらりと地面へ垂らされていた。足元には使い物にならなくなったパレットガンが転がっている。

「そんな、嘘だ。嘘だといってよ、アスカ。あれにトウジが乗ってるなんて」

 聞き分けのない声でシンジが言った。
 アスカは答えない。

「本当なの、父さん。本当にトウジが……。できない。僕にはできないよっ! トウジと戦うなんてできるわけないよっ!」

 そうだ、できるわけがない、とアスカは心の中で答える。だから、彼が頂点に立っていてはいけないのだ。

「アスカ、やめてよっ! トウジが乗ってるんだよ!」

「だったらどうすると言うの。そこで喚いてれば鈴原が救われるの?」

 3号機が動いた。突進とともに伸ばした腕で掴みかかりに来る。弐号機はそれをかわし、踏み込んでスマッシュホークを打ち下ろす。が、鞭のようにしなる腕の先に握られたプログナイフが火花を散らしてスマッシュホークの刃を受け止めた。

「使徒を倒すためにトウジを殺すのかっ! 世界のために一人殺しても仕方がないっていうのかっ!」

「じゃあ無抵抗でやられろって言うの」

「友達を殺すくらいなら僕が死んだほうがましだ!」

「だからそれじゃ誰も助けられないのよ! どうして分からないの!」

 アスカは歯を食い縛って押し切ろうとしたが、スマッシュホークの刃は3号機のナイフに止められて動かない。睨み合う3号機の口からは透明な粘液が滴っている。
 もちろんアスカに鈴原トウジを助ける気がないわけではない。いくら彼女でも人の生命をあっさり見捨てるほど酷薄ではないし、鈴原トウジに対して友人の少女が寄せる想いを知っているだけに今の状況は一層つらい。しかし、救出にはエントリープラグを引き抜かなければならず、綾波レイの零号機はともかく初号機に期待できない以上、弐号機一機でそれをするにはまず戦って相手の戦闘能力を殺がなければならなかった。
 だが、喚き散らすシンジにそんなことを説明している余裕などあるはずもない。
 膠着を破ったのは3号機の長い腕だった。装甲と硬い筋肉に覆われた太い腕が空気を切り裂き、両機の足元を打ち据えたのだ。衝撃で地面が砕け、足場を崩された弐号機は体制を崩した。
 必死に体勢を整えようとしながら、アスカは目の前の3号機を見失ったことに気付いた。
 一瞬の不覚。焦りはさらに隙を生んだ。
 手首を力強く掴まれた時にはすでに遅かった。一体どこから? しかし解答を見つける暇もなく、しなる鞭の先に結わえ付けられた虫のように軽々と弐号機の巨体は宙を舞い、眩暈がするほどの速度で地面に叩きつけられた。凄まじい力で弐号機の身体が半ば以上地面に埋まる。
 アスカは一瞬呼吸が止まり、それとともに強引に意識を引き千切られた。意識を失っていた時間はわずかであったが、3号機にとってはそれで充分だった。弐号機を掴まえたその手は汚らしい粘液に覆われていた。
 すぐに目を覚ましたアスカが最初に考えたのはこの状況から逃れる方法だった。見上げた先には粘液を滴らせる3号機の醜悪な姿があり、その手は弐号機の左手首をいまだ掴んでいる。まだ霞む視界にそれらを認めたアスカが操縦レバーを握る手に力を込めようとした時、突然3号機の手が離された。同時に赤いものが飛び散る。
 とっさに立ち上がって逃れると、視界の端にライフルを構える零号機の姿があった。どうやら綾波レイに助けられたらしい。しかし、第二射は障壁に阻まれて3号機に届かなかった。3号機はうるさそうに零号機のほうへ顔を向けたが、すぐに弐号機へ視線を戻した。だらりと身体の横に垂らした手の先から血が流れ落ちている。
 今のところ弐号機の他は相手にするつもりがないということだろうか。いぶかしむアスカだったが、すぐに考えるのをやめた。綾波レイに助けられたことはしゃくだが、手柄を横取りされることがないならそれに越したことはない。
 深呼吸した彼女はゆっくりと心の中で言葉をなぞった。使徒を倒し、鈴原も救う。それはこの惣流・アスカ・ラングレーによってなされるべきなのだ。
 しかし発令所から上がった悲鳴が攻撃に移ろうとした弐号機の動きを止めた。

「弐号機左腕に使徒が侵入しています! 神経節を侵食して……このままでは乗っ取られます!」

 アスカも違和感を感じて慌てて自分の左腕を見た。外見には変化はない。しかし腕の中を無数の虫が這い回り食い荒らすような感触とそれに伴う激痛に彼女は悲鳴を上げた。
 オペレーターの伊吹マヤの報告に答えた碇ゲンドウの声はひどく冷静だった。

「弐号機左腕を切断しろ」

「しかし神経接続を解除しないと」

「切断だ」

 やり取りをエントリープラグ内で聞いていたアスカは命令より早く動いた。
 弐号機が自らの左腕を根元から刎ね飛ばすのを、加勢しようと走っていた零号機のレイと、最初の場所に立ち尽くしていた初号機のシンジが言葉もなく見つめていた。巨大な腕が地面に転がり、噴き出した血が地面もそこに生える木々も建物も、何もかもを赤く染める。

「さあ、続きよ」

 もはや悲鳴すら上げず、青白い顔に浮かべられた笑みはいっそ壮絶だった。





 病室で白い天井を見上げていることに気付いた時、アスカは自分が死んでいないことを知った。使徒の侵食を防いで戦い続けるため自ら左腕を切断したものの、結局はすぐにやられてしまった。意識を失ったのでそのあとのことは知らないが、こうして病院で寝ているということは使徒は片付いたのだろう。
 倒したのはおそらくはシンジに違いない。またひとつ、屈辱の上塗りがされたわけだ。
 これだからあの男のことが気に入らないのだ、とアスカは奥歯を固く噛んだ。あれほど嫌だできないと駄々を捏ねた挙句、いざ動いたとなればたやすく使徒を倒してしまう。それでは先頭に立って使徒に立ち向かった自分は一体なんだというのだ。斥候か? かませ犬か? こちらが無様にやられたあとになって出てくるあの卑怯者の後塵を拝せとでもいうのか。
 涙が込み上げてくる気配がするのをアスカは唇を噛んで必死にこらえた。母の葬式があったあの日、もう泣かないと心に誓った。その誓いを破るわけにはいかない。涙を流してもアスカには頼る人間などいないのだから。また自分を哀れんで泣くのなら、それは敗北を受け入れたのと同じことだ。死と同じことだ。もう二度と現実に立ち向かうことはできなくなる。だから、まだ泣くわけにはいかない。
 病室のドアが控えめに鳴った。アスカはあえて返事をしなかったが、訪問者は開かれたドアから勝手に入ってきた。枕元に立った訪問者の姿を認めたアスカの瞳が暗い憎悪にかげった。訪れたのは碇シンジだった。
 アスカが目蓋を閉じたのは彼の姿を見たくないからだった。身体が満足に動けば飛びかかって八つ裂きにしてやりたいほどだが、あいにくとベッドから身体を起こすことさえ容易ではない。左腕にはいまだに感覚が戻っておらず、ただ肩から下に薄ぼんやりとした痛みと痺れがあるだけだ。

「アスカ、起きてるの」

 意味のない問いかけをする、とアスカは思う。近づくまで彼女が目を開いていたことにはシンジも気付いていたはずだ。何しろ実際に目が合ったのだから。なのにこんなことをわざわざ口にするということは、彼に話すべきことがあって、できればそれを先延ばしにしたいと思っているということだというのがアスカには分かった。

「使徒は倒したよ。初号機と零号機で。トウジは一応無事だった。エントリープラグを抜き出して助けることができたんだ。トウジは……怪我をしたけれど、リハビリをすればよくなるって先生が言ってた」

 アスカにとってシンジの言葉はいらぬ念押しだ。どうしてこの男はこうも他人の心が分からないのか。一番聞きたくないことをよりによって一番嫌な相手から伝えられるこの腹立たしさ。
 彼女は思わず口を開いていた。

「で? スタンドプレーをして無様にやられたあたしを嘲笑いに来たわけ? それとも自分とあの人形女の手柄を自慢したいの? 悪いけどあんたの言葉なんて一言だって聞きたくはないのよ。さっさと出て行って。ミサトのところでも人形女のところでもいいから帰ってちょうだい」

「そう……。ただ一言アスカに言いたかったんだ。あの時アスカの言葉がなければ、僕はトウジを見殺しにするところだった。戦っているアスカの姿を見なければ、本当にそうするところだった。手遅れになる前に気付かせてくれたのはアスカのおかげなんだ。だから、ありがとう」

「ありがとう? ありがとうですって?」

 シーツをはね飛ばして身体を起こしたアスカが叫んだ。全身が痛む。中でも左腕はもう一度肩から切り落とされたのかと思うほどの激痛だ。しかし、アスカは一切の痛みを忘れ、恐ろしい形相でただシンジを睨んでいた。あまりのその剣幕に彼は完全に肝を潰していた。

「ありがとうって何よっ! あんたふざけてんの! このあたしに向かってよくもそんなこと……! どこまで人を虚仮にしたら気が済むっていうの!」

「そんな、僕はただ……」

「ただ何よ。負けたあたしを憐れんだだけ? ふざけんじゃないわよ!」

「僕は本当にアスカに……」

「うるさい! それ以上言ってみなさい。殺してやる! 殺してやるわ!」

 今にもシンジに殴りかからんばかりの剣幕でベッドを降りようとしたアスカだったが、衰弱した身体を支えきれず、よろめいて前のめりに倒れそうになった。そこをシンジが咄嗟に支えた。少女にしては筋肉質だが充分に華奢な身体がしっかりと抱き止められる。瞬間的にアスカは爆発した。

「離して! 触らないで!」

 金切り声を上げて自由に動く右手でシンジの胸を突き飛ばし、アスカはベッド脇に尻餅をついた。シンジのほうも不意に突き飛ばされて彼女と向かい合うように尻餅をついている。その顔は信じられないという表情をしたのち、傷ついたように歪んで俯いた。
 アスカは胸の前を右腕で庇い、肩で息をしていたが、やがて喘ぐように呟いた。

「出て行って。お願い。一人にさせて。あたしのことを放っておいて」

 立ち上がったシンジは俯いたまま消え入るような言葉を落として去って行った。

「ごめん」





 鳴り響く警戒警報をベッドに横たわったアスカは無感動に聞いていた。
 次の使徒が襲来したのだ。第十三使徒を倒してからまだ数日しか経っていない。
 あたしはどうなるのだろう、と天井を見上げながらアスカは静かに思った。まだ自分の活躍する余地は残されているのか。いや、そもそも弐号機は稼動できる状態なのだろうか。切断した左腕もまだ修復されてはいないだろう。合理的に考えれば戦力になる初号機と零号機の補修を優先するはずだ。とすると、このまま出番も与えられず寝ているしかないということだろうか。
 シンジは何をしているのだろう。今頃初号機のもとへ駆けつけているのだろうか。エースとしての期待と責任を一身に背負い、勇敢に戦う? あの臆病者が?
 綾波レイがものも言わずシンジをサポートする姿が目に浮かぶ。もはや臆病者ではなくなったシンジと、彼を慕う人形のように美しく物静かな女。
 そこにアスカの居場所などない。彼女は舞台の外へ退場させられ、ただ失意を抱えて見ている他ない。
 この十年の結末がこれなのか? 本当にこれで終わりなのか?
 ノックの音もなく、突然病室の扉が開かれた。中へ一歩足を踏み入れた黒ずくめの男が表情もなくアスカに顔を向け、無感動に言った。

「セカンドチルドレン、惣流・アスカ・ラングレー。司令のご命令だ。エヴァのケージまで案内する」

 生気を失っていたアスカの瞳がその言葉を聞いて再び意思の力に燃え上がった。
 十二月三日はよく晴れた日だった。だが、街に人影はなく閑散としている。ほとんどの人々は避難用シェルターに隠れていた。異質そのものを象った巨大な生命体が無人の街を悠然と進んでいた。
 パイロットたち三人の搭乗が終わるのと前後して、使徒の放った攻撃によって地上から第十八番装甲まで破壊された。状況から作戦を取り仕切る葛城ミサトは地上迎撃を諦めてジオフロント内での迎撃に切り替え、エヴァ三機を配置した。

「初号機、零号機で使徒がジオフロント内に侵入した瞬間を狙い撃ちにして。それで倒せなかった場合、弐号機は二機の援護に回ること」

 予想はしていたが、指揮官であるミサトから割り振られた役割はアスカにとって屈辱だった。しかし、左腕がなくては満足な働きができないのも事実である。

「特にアスカ、決して無理はしないで」

「ふん。いまさらね、ミサト。無理でも無茶でもあたしたちは使徒を倒さなきゃいけないんでしょ。やってやるわよ」

 何度目かの爆音が響いた。同時にジオフロントの天井の一画が爆発して吹き飛ぶ。森の中で初号機と零号機はライフルを構え、さらに後方に弐号機は待機していた。片腕ではライフルが扱えないからだ。
 天井に開けられた穴から使徒が悠然と降りてきた。初号機と零号機による射撃が始まる。しかし、アスカの目から見ても弾丸はすべて弾かれているのが分かった。まったく何ごともないかのように、使徒はジオフロントの地面に降り立った。扁平な身体に顔と短い脚と、途中で途切れてしまったような板状の腕がついている。

「ミサトさん! ライフルが効きません!」

 シンジが悲鳴を上げた。

「初号機、零号機は近接戦闘に備えて。弐号機はパレットガンで援護。近づきすぎないようにね」

 弐号機は片手にパレットガンを構えて森を走り、使徒の側面から銃撃を加えた。ライフル同様に効いている気配はないが、使徒が身体の向きを変えて弐号機のほうを向く。その隙を突いて、初号機がナイフを振り上げて突進した。
 ATフィールドを張る気配さえなく、使徒はただ弐号機を見ていた。舐められている、とアスカが歯軋りした時だった。突如使徒の板状の腕が伸び、一直線に弐号機目掛けて飛んできた。距離を開けていたことが幸いし地面に転がって間一髪で攻撃をかわした弐号機だったが、パレットガンは綺麗に両断されていた。冷や汗がどっと噴き出して来る。
 第二の攻撃が弐号機を襲う前に、初号機が使徒に向かって脳天からプログナイフを振り下ろしていた。しかし、切っ先が届く前に剃刀のような使徒の腕が初号機の腕を通過した。鮮血が噴き出し、肘の下から切断された初号機の右腕は地面に落下した。
 エントリープラグ内のシンジは腕を押さえて悲鳴を上げた。激痛に耐え、モニター一杯の使徒を睨む。使徒は伸びた腕を戻し、悠然と初号機のほうへ身体を向けた。

「何してるの、逃げなさい!」

 アスカは思わず叫んでいた。あの恐ろしく鋭利な腕は次で確実に初号機を仕留めるだろう。
 だが、まさに使徒が攻撃に移ったその瞬間、初号機の身体と使徒の腕の間に巨大な槍の刃が割り込んでいた。使徒の腕は軌道を逸らされて森の木々を薙ぎ払う。割り込んだのは零号機だった。ソニックグレイブを構え直し、零号機はまっすぐ使徒のコアを貫こうとした。しかし、コアを覆った皮膜によって攻撃を遮り、使徒は零号機の持つソニックグレイブを一瞬で細切れにした。
 綾波レイはなおも冷静だった。すぐさま使い物にならなくなった槍を捨て、使徒の身体に蹴りを叩き込む。使徒が地面に倒れた隙に彼女はシンジに向かって話しかけた。

「碇くん、大丈夫」

「う、うん。何とか」

 シンジとレイのやり取りを通信で聞き、二機の姿を離れたところから眺めながら、アスカは考えていた。この場で一体自分に何ができるのかを、考えていた。想像以上に使徒は手強い。一機のみで倒すのはおそらく初号機でも不可能だろう。片腕の弐号機にできることは少ない。しかし、このまま何の役にも立たず終わることだけは何としても避けなければならない。
 無表情で使徒が立ち上がる。いまだにダメージはまったく与えられていない。
 右腕の傷口を押さえた初号機と零号機はじりじりと後退して使徒を窺っていた。打つ手なし、というのが現状だ。しかし、だからといって手をこまねいているばかりというわけにもいかない。彼らの他にはもう使徒を止められる者などいないのだ。
 使徒がゆっくりと前進を始めた。初号機と零号機はともにプログナイフを構える。彼らの背後には本部施設がそびえていた。

「どうする、綾波」

「止める」

 しかしどうやって、とシンジはさらに問おうとしたが、それより先に零号機は走り出した。無謀だが他に方法があるわけでもない。悪態をついてシンジもそのあとを追った。使徒は何もせずただ彼らの接近を待っていた。あと五十メートルというところまで両者の距離が狭まった時、使徒の眼窩から閃光が走った。
 避ける間もなかった。爆発に吹き飛ばされて零号機は地面に転がる。続いて第二撃は初号機を襲った。その強力な閃光を胸部に食らい、初号機は後ろへ弾き飛ばされて本部施設へ突っ込んだ。胸部を覆っていた装甲版が剥がれ、赤いコアがむき出しになっている。
 使徒は初号機に向かってゆっくりと動き出した。レイがそれを阻止するために零号機を起き上がらせようとしたが、ナイフを握っていた右腕がなくなっていることに気付いてその痛みにうめき声を漏らした。しかし、損害に構っている余裕はない。徒手空拳で零号機は突進した。
 わずかにそちらへ向かって身体を開いた使徒の狙いに発令所から状況を見守るミサトがいち早く気付いたのは幸運だった。

「接続解除! 早く!」

 神経接続の強制解除とほぼ同時に零号機の首が刎ね飛ばされた。巨大な青い頭が血を撒き散らしながら大きく宙を舞い、地底湖に落下する。灯りの落ちたエントリープラグの中で、レイは自らの首筋を確かめるように押さえていた。
 シンジが目を覚ました時にはもう使徒は目の前まで迫っていた。起き上がろうとするより早く、使徒の腕が帯のように伸びて初号機の脚に巻きつき、軽々と宙に放り出されて地面に叩きつけられる。それが二度三度と繰り返されたのち、仰向けに地面に転がった初号機の胸部にむき出しになった赤いコアへ使徒は攻撃を加え始めた。朦朧としたシンジは全身を包む痛みと戦いながら、守らなくてはならない人たちのことを考えていた。

「僕がやらなきゃ駄目なんだ。そうしなきゃみんな死んでしまうんだ。立って戦わなくちゃ。戦って勝たなくちゃ」

 うわ言のようにぶつぶつと口の中で繰り返すシンジが初号機を起き上がらせようと操作レバーを握る手に力を込めた瞬間、使徒に後ろから襲い掛かった弐号機が振り下ろしたプログナイフを伸びる腕の付け根に深々と突き立てた。
 出した結論は特攻することだった。綾波レイがどうなろうがシンジが死のうがどうでもいい。ただアスカは、自分自身のために必死だった。
 襲いかかって来る使徒の腕を掻い潜り、根元にナイフを突き刺した腕を引き千切って、弐号機は使徒に体当たりして地面に押し倒した。弐号機のアンビリカルケーブルが攻撃を避けた際に切断されて地面に落ちる。しかし構わず弐号機は馬乗りになって骸骨のような使徒の顔面を繰り返し殴打し、突き刺さったままになっていたナイフを抜き取るとまっすぐにコアを狙った。だが、またしても硬い皮膜がコアを守り、薄く発光するプログナイフの切っ先と接触して派手に火花を散らした。

「うわあああアアアッ!」

 全身全霊を込めてアスカはコアを貫こうとしていた。しかし、ナイフの切っ先が保護皮膜を突き破るより早く、使徒の眼窩が弐号機を捉えて光った。鋭い閃光は弐号機の右腕を通り過ぎ、仰け反って倒れたその身体から右腕は切り離されて地面に落ちた。痛みに耐えながらアスカは自らを見下ろす使徒を睨む。
 また勝てなかった。その認識が彼女を硬直させた。
 使徒の暗い眼窩がじわじわと集光するのを彼女はなすすべもなく見守っていた。

「アスカッ!」

 閃光が目を塞ぐのと同時に必死な叫び声が彼女の耳に届いた。続いて爆発。だが痛みはない。目蓋を上げると、こちらを向いた初号機が視界一杯に覆っていた。機体は激しく傷ついている。アスカは言葉を失って馬鹿みたいにモニター上のその姿を見つめていた。
 一体こいつは何をしているんだ? 両腕を失ってもはや戦えなくなった弐号機を守る意味がどこにある? この絶体絶命の状況をさらに悪化させるだけと分からないのか?

「馬鹿……あんた馬鹿じゃないの? 一体何をして……」

 アスカの震える言葉は途中で途切れた。こちらを向いている初号機の腹から突然使徒の腕が生えたのだ。初号機の背中に繋がるアンビリカルケーブルが一緒に切断されて地面に落ちる。
 悲鳴が彼女の頭の中を満たした。シンジの悲鳴だ。彼女はといえば、息を吸い込んだきり絶句していた。
 使徒は突き刺した腕を抜き取ると、腹に巻きつけて無造作に放り投げた。力なく森の中に倒れた初号機を追い、使徒は弐号機から離れていく。
 もはや敵とみなされていない。使徒の背中を見てその事実に激昂したアスカが弐号機を立ち上がらせようとした時、突然甲高い警告音が響いて灯りが落ち、弐号機との接続を切り離された。内部電源が切れたのだ。

「そんなっ! 動け! 動け! 動いてよ!」

 繰り返し叫びながらアスカは狂ったように操作レバーを動かしたが、動力の落ちた弐号機は応えようとはしない。

「どうして言うこと聞かないのよ! あんた、あたしの道具でしょ! 動きなさいよ! あたしは戦わなくちゃいけないのよ!」

 アスカが叫んでいた頃、初号機は一機で使徒と戦っていたが、やがては動きを封じられ、再びコアに執拗な攻撃を受け始めた。もはやなぶり殺しの様相だ。硬いものを打ち据える音が何度も何度も響き渡る。
 その音はエントリープラグ内のアスカの耳にも届いていた。おそらく内部電源はすでに切れている頃合だろう。彼女はついに弐号機を再起動させるのを諦め、プラグを排出して外へ出た。思った通り初号機は動きを止めており、それに対して使徒が飽くこともなく攻撃を繰り返していた。なぜ初号機に対してあそこまで執拗になるのか彼女には分からなかったが、いずれにせよこれで人類最後の砦は崩されたわけだ。残す手段は本部自爆くらいのものだろう。
 弐号機の肩に立つアスカは、満たされない思いを静かに受け入れていく自分を感じていた。
 負けたままあたしはここで死ぬのか。
 彼女が諦めようとしたその時だった。
 使徒の動きが突然止まった。コアを打ち据えていた腕を動かないはずの初号機が掴んでいる。無造作に脚を繰り出すと、使徒の身体は千切れた腕を残して軽々と後ろへ飛ばされる。立ち上がった初号機は初めに切断された右腕を使徒から奪った腕で再生し、身を屈めてけだもののように吠えた。
 アスカは弐号機の肩からすべてを目撃していた。





 誰もいない家に帰って、アスカは一直線に自室のベッドへ身体を投げ出した。保護者役のミサトは今日も帰っては来ない。夜も、そして明日の朝も。こんなことがもう二週間も続いていた。第十四使徒を倒した日からだ。
 シンジはいなくなった。エヴァとの接合を深め過ぎ、形を失ってLCLに溶け込んでしまったのだという。にわかには信じられない話だったが、確かに見せてもらった初号機のエントリープラグ内の映像は、満たされたLCLとそこに漂うプラグスーツのみを映し出していた。リツコたちの話していたところによるとシンクロ率は四百パーセントを超えていたらしい。アスカには一体それがどのような境地なのか、想像してみることもできなかった。
 実のところ、シンジがいなくなったこと自体はさほど問題ではない。このような任務についている以上、死はやむを得ないリスクだ。邪魔者がいなくなって好都合ともいえる。もともと気に入らない相手だったのだ。
 それよりも問題は、結局アスカは彼に負けたということだ。あの最後の圧倒的な初号機の力がシンジのものではないということは、見ているだけだったアスカにもおぼろげに分かった。あれほど強かった使徒を易々と蹂躙し食い漁った驚異の力。あとからリツコたちが話しているのを小耳に挟んだところ、彼女たちはあれを暴走と呼んでいた。搭乗者が意図して引き出した力ではないということだ。けれども、シンジがアスカを上回るシンクロ率で使徒に最後まで立ち向かい、結果制御不能な力ではあっても、初号機によって使徒が倒されたという事実は変わらない。彼女の弐号機がさらに前の戦闘と合わせて両腕を失い、戦闘不能に陥った事実が変わらないように。
 アスカは負けた。使徒に対してまったく歯が立たなかった。
 そしてこの屈辱、この憤りをぶつける相手はすでにいない。
 彼女はどうしていいのか分からなかった。ただ暗い怒りだけが身体の中でくすぶっていた。
 学校へは義務から足を向けているだけだった。授業など耳に入ってはこないし、はなから聞く気もない。クラスメートたちは随分減っていた。疎開がかなり進んでいるのだろう。世の中はすでに十二月の半ばに差しかかっていたが、この要塞都市はいまいち賑わいが振るわなかったし、それは学校でも同じだった。クラスメートの中にまだ友人の洞木ヒカリは残っていたが、アスカは友人の優しさに対してどう振舞っていいか分からなかった。アスカ自身が抱える非日常の血生臭さと、ヒカリが持つ陽に干した布団のような日常の匂いとをどうやってすり合わせればいいのか方法が見つからないからだ。シンジのことを問われても鈴原トウジのことを訊ねられても、曖昧な答えしか返せない。
 正直にシンジは死んだと答えてみればどうだろう? 鈴原もいつ回復するか分からないと。その時、ヒカリは離れていくのだろうか。彼らの犠牲の上に立って平然とここにいるアスカを軽蔑する? 怒り出すのか? それとも泣く? アスカは試してみる気にはなれなかった。だから友人の優しさをやんわりと退け、ただ学校で息をして時間が過ぎるのを待ち、終われば家へ帰った。
 ネルフへはほとんど顔を出さなかった。行く必要がないからだ。弐号機はいまだに修復が進んでおらず、パイロットの訓練や実験も行われていない。乗る機体のないパイロットなど無用ということだ。たとえ大学を出ているとはいっても経験のないただの子ども。エヴァを動かす以外には何の役にも立たないと誰もが無言で主張しているようだった。いや、エヴァを動かすことさえ満足にできない、と思われているのかもしれない。遠巻きな彼らの視線が言葉によらずとも声高に彼女を糾弾しているような気がするのだ。これもネルフへ足を向けたくない理由のひとつだった。ただし、先日まで入院していた綾波レイは、退院後から用もないはずなのに頻繁にネルフ本部に通っているようだった。機体が修復されていないのはアスカと同様だというのに。直接話をしないので何をしているのかアスカは知らないが、所詮ただのパイロットとお気に入りでは扱いが違うということだろうかと想像するほかなかった。
 家はいつも静まり返っていた。じっと黙っていると、きーん、と耳鳴りがする。それが嫌でわざと大きな物音を立て、独り言を喋った。料理などする気はないので、コンビニやスーパーで買ってきた弁当の箱やパンの袋が次々に溜まっていく。ごみ捨ての日を知りもしなければ捨てる気もない。食器はほとんど使わなかったが、使っても洗わないのでシンクが徐々に埋まっていく。自分の部屋だけは数日に一度簡単な掃除をしたが、それ以外は放置していたので埃や抜けた髪の毛などが部屋や廊下の隅に溜まり始めていた。生理の一番最悪な気分の時にはかんしゃくを起こして手当たり次第に物を投げ散らかしたりした。そのせいでさらに家は荒れた。
 かりそめの家庭はこうやって崩されていった。本来ならば、保護者役のミサトがもっと気にかけているべきだった。本人は無理でも誰か他の人間に任せるなり、少なくともアスカを一人にするべきではなかった。だが、ミサトにも余裕はなく、アスカを丸ごと受け止めるだけの心構えもなかった。
 日にちだけがただ確実に過ぎていった。





 学校が休みの日曜日にアスカがネルフ本部へ行ってみる気になったのは、本当に魔が差したとしか言いようがない。自分の弐号機の様子を確かめるのが一番の理由らしい理由ではあったが、確かめるまでもなく修復があまり進んでいないことは知っていたし、実際に弐号機を前にしてみても結果は変わらなかった。目下のところ最優先事項は初号機へ溶け込んだ碇シンジの救出らしい。人命を優先するといえば聞こえはいいが、果たして実際のところはどうだか怪しいものだとアスカは思う。つまるところ、常勝エースパイロットの不在が何よりの痛手で、それを回復するのが目的だということだろう。零号機と弐号機の二機を修復するよりも、初号機一機が動かないことのほうがよほどの大問題なのだ。
 まったく、シンジ様々とはこのことだ。死んでまでこのあたしを虚仮にしてくれる。これで都合よく生き返られでもしたら、いよいよ立場がなくなるのは目に見えているではないか。アスカの心境はこんなものだった。
 初号機が格納されたケージは慌しく人が行き来していた。みな忙しそうに動き回り、私服姿のアスカを目に留めると虚を突かれたように一度動きを止め、それから何ごともなかったように彼女から目を逸らした。
 アスカは顔を上げ、針のむしろのようなこのケージ内の空気を努めて無視するようにしながら、まっすぐに初号機の正面まで歩いていった。使徒に剥がされた装甲版はそのままに生々しい有機質の胸が露出し、その中央に大きな赤い球が埋まっていた。使徒と同じ赤いコアだ。それが何を意味するのかアスカには分からない。
 このエヴァに今シンジが溶け込んでいる。死んだのだろうか、とアスカは垂直にそびえる初号機の顔を見上げて思った。リツコたちは形を失っているだけで死んだのではないと説明するが、人間に限らず生物が自らの形を失うというのは、死ぬということではないのだろうか。魂などというものが本当にあるのかは知らないが、肉体がなければ生きているとは言いがたい。
 バカシンジめ、とアスカは口の中で小さく呟いた。あの時、両腕を失った弐号機を使徒の攻撃から庇ったりしなければ、ひょっとするとこんな結果にはならなかったかもしれないというのに。使徒を倒しても自分が消えたのではまったく笑えもしない。そんなにまでしてあいつが守りたかったものはあたしなんかではなかっただろうに。
 けれど、小さな呟きに、心の中の言葉に答えは返ってこない。
 これが死でなくて何だというのか。
 それほど時間を経ずアスカはケージを立ち去った。ミサトがどこにいるのかは知らないが、会って話すことがあるわけでもなく、他に目的もない。彼女は地上へ戻るモノレールの搭乗口へ向かって歩き始めた。
 しばらくしてから立ち止まったのは、目の前を塞ぐものがあったからだ。学校もないのにいつもの制服を着た綾波レイが行く手を塞ぐように立っていた。アスカは自分の表情がゆっくりと歪むのが分かった。
 人形のような綾波レイ。表情もなく、言葉も持たず、意思もないかのように唯々諾々と命令を聞き続ける機械のような女。アスカはレイのことが嫌いだ。自分よりも先に選ばれた適格者ということも気に入らないが、何より許せないのは彼女のその人形らしさだった。
 発狂した母が娘と間違えて粗末な人形を抱き呼びかけていた情景が今でも甦ってくる。その人形はあたしじゃない、といくら訴えても無駄だった。それでは自ら人形になってしまえば母はちゃんと見てくれる? 身動きせず、ものも言わずに母のベッドに転がっていれば、母は自分へ「アスカ」と呼びかけてくれるのか? いや、人形になることも受け入れられなかった。自然な感情のままに笑ったり泣いたりしたかったから。人形を愛する母。精神に障害を負って判断能力が失われた母に悪意があったわけではないことは理性では分かっている。しかし、幸せそうな表情をした母に抱かれる人形を見て、彼女が深く傷ついたことは否定できない。人形に負けた、と。
 十年後の今、ここでもまた同じことが起こっていた。人形のような綾波レイを司令である碇ゲンドウは慈しみ、その息子のシンジも心惹かれている素振りを見せていた。あの人形よりも優れているこのあたしがいるのにどうして? アスカは声を大にして問い質したかった。どうして優れているあたしがパイロットとしてないがしろにされるのだ。どうして同居すらしているあたしの目の前を素通りしてあの人形へ心奪われるのだ。
 どうして?
 アスカの顔は、その問いの重みによって歪んでいた。
 その醜悪な顔を綾波レイは赤い瞳で静かに覗き込んでいた。本当はアスカは彼女と会話する気などなかった。無視して通り過ぎるつもりだった。けれど、気づいた時にはアスカの足は止まり、口が勝手に動いていた。

「<何よ>」

 挑戦的なアスカの口振りをレイはやや戸惑った表情で受け止めていた。しばらくしてアスカは自分が日本語ではなく思わずドイツ語で喋ってしまったことに気付いた。日本に来て以来、意図せずにこんなミスをしたことはない。適格者に選ばれた十年前から、いつか日本本部に転属する日が来ることを見越して日本語の修練を怠らず、限りなく自然に操れるはずだったのに、彼女は思わずドイツ語を話した。それほどに冷静さを失っていた。 

「何見てるのよ」

 アスカは今度は正しく日本語で言い直した。綾波レイの表情にさしたる変化が表れたわけではなかったが、彼女は返事をした。

「見てきたの?」

 ただし、レイの言葉は答えではなく質問だった。しかし当然これだけではアスカには何のことか分からない。

「はぁん? 見たって何が。あんた、もう少しまともに喋ったらどうなの」

 棘のあるアスカの言葉を気にした素振りもなく、淡々とレイは言った。

「碇くんのこと、心配?」

 激昂するには充分な言葉だった。髪を振り乱し、忌々しげにレイを睨んでアスカは吐き捨てた。

「ふざけんじゃないわよ。どうしてあたしが、あの馬鹿の心配をしなくちゃいけないわけ。ああ、そりゃあ、あんたは心配でしょうけどね。大好きな大好きな碇くんですものね。でもおあいにく様、死んじゃったらもう、どうしようもないわよね?」

 今度はレイが睨む番だった。この鉄面皮にこんな表情を浮かべさせるなんて、シンジは一体どんな魔法を使ったのだろう、とアスカは思いながら、レイの鋭い眼差しを受け止めていた。

「碇くんは死んでない」

 常に抑揚に乏しいレイの話し方がわずかに変化していた。

「ふん。まさかサルベージが成功するとでも思ってんの? おめでたいったらないわね」

「あなたは信じないのね」

「誰を。シンジを? それともリツコ? 碇司令?」

「碇くんが心を開いて初号機の魂とひとつになっただけだということを」

 わけの分からないことを言う、とアスカは眉をひそめた。エヴァは所詮道具に過ぎない。魂などないし、心を開いても何も起こったりはしない。これまでもまともに会話が通じたためしがないが、相変わらずレイの言うことはアスカには理解不能だった。
 馬鹿馬鹿しくなって、アスカは会話を切り上げてこの場を立ち去ろうとした。しかし、それを遮るように告げられたレイの言葉が彼女を引き止めた。

「怖いのね」

「あたしが何を怖がってるですって?」

 鼻先が触れ合うほどに近づいてアスカは威圧的な口調で言った。けれど、レイの口調はあくまで静かで、そして冷たかった。

「あなたが怖がっているのは弐号機、それとも碇くん?」

 正確に狙いもせず反射的に振り抜いた平手は半ばあごにぶち当たってやや鈍い音を立てた。興奮して息が乱れる。殴られたレイは傾いた顔を戻して挑戦的にアスカを睨んだ。色のない頬が痛々しい赤色に染まっていく。アスカの手もずきずきと痛んだ。

「おいおいおい! 待った待った! 何ごとだ一体!」

 その時、彼女たちのやり取りを偶然通りかかって見つけたらしいオペレータの日向マコトが走ってきて二人の間に強引に割り込んだ。レイを背で庇い、アスカに対して両手を挙げて押し留めながら、彼は言った。

「二人とも何をしてるんだ。こんなところで穏やかじゃないぞ」

「何でもないわ。楽しく会話してただけ。もう終わったけどね!」

 ふん、と顔を背けてアスカは答える気なんかないということを態度で示した。日向が気遣わしげにレイを見ると、彼女もまた何ごともないようにぼそりと答えた。

「話していただけです、日向二尉」

「しかしな……」

 日向はアスカがレイを平手打ちしたところを目撃したし、それでなくても剣呑な雰囲気に包まれていることは傍から見てすぐに分かる。それに、日向はレイが怒っている姿を初めて見て仰天していた。とても信じられなかったが、明らかに異常事態だった。だが、アスカには他人を割り込ませる気など一切なかったし、どうやらレイもそうであるらしかった。
 痛々しく染まった頬を見る日向の視線に気付いてレイは言った。

「別に問題はありません」

 その言葉にアスカがわざとらしく続ける。

「あらぁ。ぶつけたのかしら。気をつけたほうがいいわよ。ファースト」

「アスカちゃん、君は」

「それじゃあたしは失礼します。さようなら」

 言いかけた日向の言葉を遮って、アスカは慇懃にそう言うと足早に歩き去った。レイを殴りつけた手の痛みは地上へ出て家へ帰るための電車に乗り込んだあとも鈍く疼いて消えなかった。





 家に帰ってまずしたことは、ダイニングの椅子を蹴り飛ばすことだった。帰り道で買ってきたコンビニの弁当をテーブルに投げ出し、アスカは服を脱ぎ捨てて風呂場へ向かった。まだ正午を少し過ぎたところだったが、そもそも気温と湿度の高い日本では一日に何度シャワーを浴びても足りないくらいだったし、ノズルから噴き出す湯を浴びて少しでもましな気分になりたかったからだ。実際には大した効果などなく、最低な気分はあくまで最低なままであったが、それでも彼女は一時間は風呂場にこもっていた。
 身体と頭にバスタオルを巻いたアスカがようやくダイニングに戻ってくると、弁当と一緒にテーブルの上に放り出していた支給品の携帯電話がやかましく鳴っているところだった。
 もしもアスカが手にハンマーを持っていたら騒音の原因を容赦なく叩き壊したいところだった。だがそうはせずに、誰からかかってきたのかを確かめ、ミサトからと分かると通話に出たのは、組織に所属する者としての義務をまだ彼女が覚えていたからだ。
 始まった保護者役の女の話をアスカはひどく冷めた気持ちで聞いていた。
 アスカの様子を訊ね、仕事のために今日も家に帰れないことを詫びるお定まりの文句。聞きたくもないシンジ救出作業の進展。分かりきった弐号機の状態。ミサトのほうでもあまり会話をしたくないと思っていることは声の調子から分かった。所詮この程度の関係なのだ。物事が上手く行っている間はそれなりにやっていけるが、状況が悪化すれば途端にこれ。先ほどから適当な相槌しか返さないアスカの唇が自嘲に歪んだ。もしも彼女が正しくエースパイロットとして活躍していたなら話は違った? 答えは分かりきっていた。
 大方この電話にしても、レイとの間に揉め事があったという報告を部下である日向マコトから受けて仕方なくしてきたものに違いない。上官としての義務、それとも保護者役としての責任? 馬鹿な女め、とアスカは思った。見透かされないとでも思っているのだろうか。

「聞いてるの、アスカ」

「ああ。聞いてるわよ。それで、もう話は終わり?」

「いや……ええ、そうね。今日のところはこれくらいにしましょう。じゃあ一人だけどきちんと過ごすのよ。戸締りもしてね」

「勘違いするんじゃないわよ、ミサト。あたしはあんたの可愛い赤ん坊になった覚えはないわ」

「……分かったわ。それじゃ。あとシンジくんのサルベージは十日後の予定よ。彼が戻ってきたら」

「そんなこと聞いてないでしょ! あの馬鹿がどうなろうとあたしには関係ないわよ!」

 最後の最後で我慢できなくなったアスカは金切り声を上げてミサトの言葉を遮ると、電話を切って壁に向かって投げつけた。頑丈な造りになっているとはいえ、さすがに壁にぶつかると部品が何か取れて飛んでいった。

「あのくそ女!」

 ひどい味のコンビニ弁当を食べ終わると、二時間ほどゲームをし、大して面白い気分にもなれずに部屋へ戻ってさらに数時間ほど眠った。
 目を覚ますと汗をかいて着ているものが濡れていた。すでに日は沈もうとしており、薄暗い部屋はとても静かだ。下着からすべて取り替えて、アスカは脱衣所に置いてある洗濯籠の中に脱いだものを投げ込み、ダイニングへ向かった。喉を潤すために冷蔵庫から牛乳を取り出すついでに夕食に食べられるものがあるか探したが、どうやら菓子の他は何もないようだった。
 これからまた外へ買いに行くのは億劫だ。空腹感もそれほどではない。さらに時間が経って腹が空けば菓子を食べればいいだろう。アスカはそう結論して、牛乳を飲んでから、また部屋へ戻るために歩き出した。ところが、裸足で何か硬いものを踏みつけて彼女は足を止めた。見れば細長い棒状のもので、拾ってみるとそれは携帯電話のアンテナだと分かった。どうやら投げつけた時に折れてしまったらしい。本体のほうはどこへ行ったのかと左右を見れば、それほど離れていない場所に裏返しに転がっている。ただし、拾ってみるとバッテリーがなくなっていた。今度は探しても見つからない。外れてどこか見えないところへ紛れ込んでしまったらしい。それ以上探す意欲の失せたアスカは、折れたアンテナとバッテリーのない携帯電話をテーブルの上に放り出してダイニングを出て行った。
 ドイツではすることはいくらでもあった。毎日毎日いくら動いていても時間が足りたためしなどなかった。しかし今、アスカにあるのは時間だけで、すべきことは何ひとつなかった。こんな時にどうやって過ごせばいいのか、ベッドに仰向けになって天井を見上げる彼女は方法を知らない。
 例えば、ここでひっそりとアスカが息を引き取ったとしても、一体誰が気付くというのだろう。誰に影響があるというのか。エヴァに乗れないエヴァパイロットなど滑稽だ。それ以外の価値など何ひとつとして持たないアスカをかえりみる者などもう誰一人いない。いないのだ。この世界中に誰一人。
 その悲しい事実を、静けさと孤独の中でアスカはじっと噛み締めていた。
 横たわった身体の内側が空っぽになっていくのが分かった。この皮膚の下にはもう何もない。アスカは心の中で独白する。十年の間必死になって守り続けようとしたものがばらばらに砕けて消えていくかすかな音が聞こえる。消えていく。最後の名残が細かな粒子となって吹きさらされて飛ばされていく。その行き先はもう彼女には見えない。
 けれど、たったひとつ、彼女の中に留まっているものがあった。それは怒りだった。ただ怒りだけが空洞にくすぶる炎となって彼女の内側を焼いていた。





 アスカが現在利用している部屋はもともとはシンジに宛がわれた部屋だった。この家で暮らすようになった時に問答無用で部屋を奪われ、彼は納戸に押し込められることになった。彼女はそれ以来ほとんどシンジの新しい部屋に足を踏み入れたことはない。また自分自身の部屋に彼を入れたこともない。彼のパーソナルスペースに興味はないし、自分のほうへ入ってきて欲しくもないというのが理由だった。
 そのアスカが今シンジの部屋の扉を開けたのは、単に怒りの矛先を求めていたからに過ぎない。どの道もう帰ってくることのない人間だ。何の遠慮の必要があるというのか。彼の救出が成功することなどひとつも信じておらず、また望んでもいないアスカは、躊躇いもなく彼の部屋へ足を踏み入れた。
 今は夜だから暗いというのは当たり前としても、シンジの部屋はそもそも納戸で窓がないため、ひどく閉塞感がある。あの陰気男にはお似合いだとアスカは鼻で笑い、明かりをつけた。四畳半ほどの狭さだが物の少ないさっぱりした部屋だ。机とベッド。中学校の教科書類にその他の本が少し。制服はハンガーにかけられて壁を飾っている。他にも細々としたものがあるはずだがどこかへまとめてしまいこんでいるらしい。あとは壁に立てかけられたチェロケースが場所を取っていた。
 アスカは鼻を鳴らして立てかけられたチェロケースに近づき、無造作に蹴飛ばした。

「ふん。こんながらくた」

 本が並んでいる棚を覗いて、彼女は適当に手にとってはぱらぱらとページを捲り、その都度ベッドや床に乱暴に放り出す。当然ながら彼女の興味を引く本があるわけでもなく、その行動には何の意味もない。
 机の上は片付いていて、ここ最近はあまり熱心に勉強をしていた形跡はない。学校へも行ったり行かなかったりで授業に遅れがちということもあり、本当なら他人の倍は努力しなければならないところだが、その意欲はなかったらしい、とアスカは批判的に考えた。
 机の上のペンやノートをひとしきり取り上げて放ると、次は引き出しを下から一段ずつ開け始めた。いずれも大したものは入っていない。ネルフの案内しおりが出てきた時には思わず唇を歪ませた。アスカは見るのは初めてだったが、よくもこんな下らないものをと思う。初めてこの街に来た時に手渡されたのだろうか。そういえばシンジはここを訪れるまでまったく訓練も受けていなければ、エヴァの何たるかも知らなかったのだ、とアスカは気付いた。こんな子供だましにもならないしおりをあとから読み返してみることもあったのだろうか。さぞ騙された気分がしたに違いないが、結果的にエヴァのパイロットは彼の天職といってよく、十年の訓練を積んだ者の追随さえ許さないほどの成果を上げた。

「それでいい気になって結局は死んだ。ざまないわね」

 しおりをごみ箱に突っ込み、アスカは言った。
 生きているのか死んでいるのか不確かなシンジの現状だったが、彼女は努めて彼は死んだと思い込もうとしていた。そうすれば彼がこの家に帰ってきた時のことを少しでも想像せずに済むからだ。あの顔を再び目の前にして自分が冷静でいられるとはとてもではないが信じられなかった。みっともなく当たり散らすかどうかして、次の使徒が現れればまた無様にシンジに負ける。それが心底恐ろしかった。
 もはやエースパイロットの惣流・アスカ・ラングレーなどどこにもいないのだ。いや、本当はそんなものは初めからいなかったのかもしれない、とアスカは思った。どんなに努力を積み重ねても、所詮シンジにも使徒にも敵わないことはあらかじめ定められたことだったのかもしれない。あの日、適格者としてアスカが選ばれた日、そして母が首を吊って死んだ日から、一歩として先へ進んではいなかったのかもしれない。
 見向きもしない母と愛してくれない父に向かって手を差し出している幼子がまだ彼女の中にいる。ひたすらに叫んでいる。「あたしを見て」と。
 最後に一番上の引き出しを開けると、綺麗に包装された箱が入っていた。一体どうしてこんなものが引き出しの中に、と手にとってアスカはいぶかしんだが、じきにあることに気付いた。十一月の初旬にシンジがミサトの誕生祝いをするのだと言っていたことを思い出したのだ。きっとこれがそうに違いない。
 シンジが初号機に溶けたのが二十日近く前のことなので、それ以前にすでに用意していたということになる。あの愚図にしては行動が早いじゃないかとアスカは意外だったが、考えようによってはそれはシンジがミサトに対して抱く気持ちの強さの表れでもあり、アスカにとっては決して面白いものではなかった。二人の関係がどうあっても興味はないというのは事実ではある。だが、感情はそう単純ではない。
 不愉快さをアスカはごくストレートに示すことにした。何の躊躇もなく包みを破って中身を取り出したのだ。出てきたのはスカーフだった。そこそこ名の知られたブランドのものだが、特に高価というほどのものでもなさそうだ。まるで母親へのプレゼントだ、とアスカは思った。彼はきっとミサトへ何を贈ったらいいのか思いつかなかったに違いない。悩んだ挙句にひとまずデパートへでも行き、場違いなフロアをうろうろした挙句に店員に捕まり、年上の女性へのプレゼントを探していると白状させられる。「お母さまですか?」と店員は問う。「そういうわけでは」とシンジは答える。アスカにはその情景が目に浮かぶようだった。結果、勧められるままに無難なところへ落ち着いて、面白みもなければセンスもないスカーフを買わされたというわけだ。三十歳で金も持っている女がこんなもので喜ぶわけがない。苦笑を宿した顔でミサトが礼を言う。「ありがとう」。もちろん気を遣ってのことだ。「ありがとう、シンジくん。うれしいわ」。精一杯の白々しい笑顔。そして現実はといえば箱から出されることもなく無造作にたんすにでもしまわれておしまいだ。
 無駄なことをしたものだ、とアスカはスカーフを手に嘲笑った。だが、むしろ幸運だったのかしれない。シンジはいまだに初号機に溶けていてプレゼントを渡すこと自体できないし、そうしているうちにミサトの誕生日はとうに過ぎてしまった。結果として、この下らないプレゼントは日の目を見ないでいることができたわけだから。破った包装紙と一緒にスカーフを机に放り出して、アスカはそう考えた。
 引き出しを閉めようとした時、奥にもうひとつ包みがしまわれていることにアスカは気付いた。先ほどのミサトへのプレゼントよりも小さな紙袋だ。中身はあまりかさばるものではないようだ。今度は一体どんな馬鹿らしいものが入っているのかとアスカは意地の悪いことを考えながら袋の口を開くと中にさらに小さな包みが入っており、そこから出てきたのは一組の赤いリボンだった。まさかとは思うがこのリボンもミサトへのプレゼントなのだろうか。わけの分からない気持ちでいると、中身を取り出したはずの袋にまだ何か入っていることに気付き、アスカは指を突っ込んでそれをつかみ出した。
 果たして出てきたのは折り畳まれた便箋だった。四つ折りになった便箋を開くと中は細かく丁寧な文字で終わりまで埋められていた。
 アスカへ、という書き出しで言葉は始まっていた。



 ――アスカへ。
 きっとアスカはこんなものいらないと言うかもしれないと、買ったあとになっても不安でした。急に思いついたのであまり良いものを贈ってあげられなくてごめんなさい。でも、できれば喜んで欲しいと思っています。
 ひとつ心配なのはちゃんと手渡すことができただろうかということですが、どうでしょう。今これを書いている僕には先のことは分かりませんが、手渡すことができたと想像して話を進めることにします。
 僕たちのしていることは、いつ死んでしまうか分からない危険なことだけど、この街へ来てよかったと最近やっと思えるようになりました。嫌なことももちろんたくさんあるけれど、それでもです。
 アスカに会えたこともそのひとつです。信じてもらえないかもしれないけれど、本当です。みんなの言うようにアスカが頭がいいからとか可愛いからとか、エヴァの操縦が巧いからとか、そういう理由でよかったと思っているわけではありません。ではどういう理由かと訊かれると困ってしまいますが、ただ会えたというそれだけでとてもすばらしいことだったんだと思います。ごめんなさい。意味が分からないかもしれませんね。もっと上手く説明できればいいのですが。
 いつか必ず、僕たちがエヴァに乗る必要のない時が来るでしょう。アスカはエヴァのパイロットであることをとても誇りに思っているから、こんなことを言うと怒り出してしまうかもしれないけれど、僕はその日が来ることを願っています。いつもアスカはヘッドセットで髪を留めているけど、その時が来たら、このリボンも使ってくれたらと思います。もちろん、僕が贈ったものでなくてもいいのですが。
 だから、その時まで生きていてください。
 深刻ぶっているわけではありません。ただ、いつも命を危険にさらしている僕たちだから、いつ言葉を交わす機会を失ってしまうか分からないから。縁起でもない、とアスカは多分笑い飛ばすでしょう。アスカがそうならきっと大丈夫です。
 ところで、実はこのリボンは誕生日プレゼントのつもりでした。でも、僕はアスカの誕生日がいつなのか知りません。一緒に住んでいるのだからいつでも訊こうと思えば訊けたのですが、できませんでした。だから駄目なんだ、とアスカに怒鳴られそうです。ごめんなさい。その代わりに、というわけではありませんが、やっぱりこのリボンは誕生日プレゼントです。
 これまでの十四回分の誕生日をお祝いするにはプレゼントがちっぽけ過ぎるでしょうか?
 次はきっと喜んでもらえるものを選ぶので、今度アスカの誕生日を教えてくださいね。

 アスカへ。
 生まれてきて、おめでとう。
 生きていてくれて、ありがとう。

 ――碇シンジ   2015年12月2日



 最初は読むつもりなどなかった。ぐしゃぐしゃに握り潰してごみ箱に投げ捨ててやろう。そう思っていた。けれど、意思に反して身体が動かないと気付いたのは、終わりまで読み切ってしまったあとだった。
 呼吸が上手くできない。動悸と眩暈でくらくらする。アスカはシンジが書いた手紙を放り出すと、俯いて震え始めた。突然湧き上がったのは、怒りだった。おそらくこれは怒りに違いない、と彼女は思った。でなければこんなに身体が熱いはずがないじゃないか。憤然と椅子を両手で掴み、大声とともに背後のベッドへ向かって投げつけたアスカは、肩で息をしながらそう自分に言い聞かせていた。ベッドの木枠にぶち当たって破片を散らせた椅子が床に転がる。手で顔を覆ったアスカは苦痛にうめいた。
 この怒りをどこかへやるには一体どうすればいいのだろう。こんなにも苦しいのはおかしいじゃないか。しかし、いくら考えたところで答えは出なかった。いや、正確には考えることさえできなかった。空洞になった彼女の中を正体不明の何かが渦を巻いて駆け巡っていた。何かを考えようとするはしから、渦に巻き込まれて散りじりになり、考えは形になる暇を与えられなかった。
 机の上に置かれたリボンを見、アスカは忌々しげな仕草で掴み取った。こんなもの、と彼女は思う。食い縛った歯の隙間からうめき声が漏れる。今すぐに引き千切ってやりたい。そう思うが、しかし実行に移せない。彼女はすぐにリボンを床に取り落とすと、痛みを耐えるようにその場に跪いた。
 手紙には十二月二日と日付が書き込まれていた。ということは、シンジはこの手紙をしたためた翌日に第十四使徒と戦い、身体を失って初号機に溶けてしまったのだ。皮肉にもその危惧通りに、彼はついに手渡すことができなかったことになる。
 果たしてどんな気持ちでいたのだろう、とアスカは想像してみようとした。ところが彼女は、自分がひとつとして彼の気持ちを想像してみることができないことに気付いた。それどころか彼の顔さえも上手く思い出せないことに愕然とした。どんなに注意深く脳裏に思い浮かべようとしても、風に散らされるかすみのように記憶は不確かだった。
 最後にまともに言葉を交し合ったのはいつだった? その時シンジはどんな表情をし、何を言っていた? 自分は一体何と返事をしたのだ?
 思い出せ。


 ――出て行って。お願い。一人にさせて。あたしのことを放っておいて。


 ああ。アスカは目蓋を強く閉じ、大きく息を吐いた。
 シンジの顔がおぼろげに浮かび上がる。傷つき歪んだ表情。彼女がそうさせたのだ。

「ああ。あたしは本当に一人きりだ」

 どうか、とアスカは願った。跪き、床に落としたリボンを再び拾い上げて胸に抱き、ただ一心に願っていた。
 どうか神さま、本当にいるのなら、このあたしに生まれてきてよかったと言ってくれた、世界でたった一人の命を奪わないでください。どうか、あいつの命を奪わないでください。
 長い時間、彼女が動くことはなかった。




 それからアスカは少し変わった。針で突くような苛立ちはなりを潜め、代わりに沈んだ愁いを帯びるようになった。そんな中でも荒れていた家は少しずつ片付けられ、たとえ表面上であってもまともな日常を取り戻そうと彼女は努力を始めた。
 クラスメートの少なくなった学校は相変わらずつまらなかったが、彼女は優しくしてくれる友人の声に久し振りに耳を傾けようと心がけた。特に元気付けようとしてくれる優しい洞木ヒカリと言葉を交わすうちに、どれだけ自分が内に閉じこもり、周りを見ていなかったのかをアスカは実感した。
 十二月二十五日にはヒカリの誘いを受け、彼女の家へ出かけていって一緒にクリスマスパーティをした。度重なる使徒の襲来によって荒れ、住人が少なくなったこの街ではクリスマス当日の賑わいもこじんまりしたものだったが、それでもささやかな洞木家でのパーティはアスカにパイロットとして戦場に身を置く自らの立場を一時でも忘れさせた。
 洞木家にはアスカの肩ほどの高さのクリスマスツリーが飾られていた。ごく身内だけのパーティに参加したのはアスカとヒカリ、その姉と妹の四人だけだ。さばさばした姉と癇の強そうな妹はコダマとノゾミといい、特に妹のほうはいきなり現れた他人に毛を逆立てていたが、たとえ逆立ちしたって今の自分ではアスカに敵わないと悟るや、この姉の同級生である外国人を見る目が崇拝の眼差しに変わった。注文していたケーキをコダマが取りに行っている間にヒカリが料理をし、アスカとノゾミは色紙を使って室内を簡単に飾り付けした。
 彼女たちは料理を食べ、ゲームをして遊び、歌を歌い、おしゃべりに花を咲かせて、プレゼントを交換し合った。姉であるコダマは年長者であるところを見せ、それなりの金額をかけて妹たちが欲しがっていたものをプレゼントしていたようだった。参加が急だったアスカへのプレゼントはさすがにヒカリを除いて用意していなかったが、申し訳ないという顔をするコダマとノゾミに対して逆にアスカが恐縮をしてみせた。
 それからもちろん、彼女たちはクリスマスケーキを食べた。こんな風にホールケーキを切り分けて食べるのは一体いつ以来だろう、とアスカは自らに問い、それが思い出せないくらい昔であることに少し悲しくなった。きっと、ヒカリたちは毎年こうやって姉妹三人や、そこに父親を加えた四人でクリスマスを祝ってきたに違いない。確かにアスカは世界にたった三人のエヴァパイロットとしての栄誉に包まれていたが、こんなちっぽけな温もりでさえ彼女の手の中にはなかったのだ。どちらのほうがより幸せといえるのか、今のアスカにははっきりと断言できなかった。
 シンジはどうだったのだろう、とアスカは考えたが、彼のことをまるで知らないのは今も変わらなかった。その日食べたたくさんの料理や甘いケーキを彼にも食べさせたかったと柄にもなく彼女は思った。彼のことを考えるとどうしようもなく悲しくなった。自らの心境の変化に戸惑いさえ覚えるほどだった。しかし、あくまで彼女は友人には笑顔を見せ、家に一人でいる時ですら気丈に振舞い続けた。
 一度だけ、ネルフ本部へも足を運んだ。中学校の帰りだった。弐号機は修復が進みつつあったが、まだ完全ではなく、稼動の見込みは立たないようであった。その事実にアスカは失望したが、衝撃は恐れていたよりもずっと弱いものだった。初号機のケージでは相変わらず作業する職員たちが忙しそうに立ち働いており、制服姿のアスカを目に留めると彼らは一瞬だけ手を止め、それから何ごともなかったように無視をした。
 前回と何も変わらない。しかし、アスカの思いだけは違った。まっすぐに初号機の正面に回り、むき出しの赤いコアの前に立った。手を触れてみようかとも思ったが、躊躇ったのちにやめた。本当にシンジが生きているというのなら、初号機の中で何かを思うこともあるのだろうか。感じることもあるのだろうか。声が届くのだろうか。
 自問に対する答えは出ない。ただもしも神がいないなら、あるいはいたとしても人間のちっぽけな願いを聞き届けることなどなく見捨てるというのであれば、たった一人の無力な人間にできることは果たしてどれだけ残されているだろうか、と新たな疑問が胸に湧き上がる。それは彼女の不安から生まれた問いだ。
 神がいるかどうかは誰にも分からない。しかし、シンジはここにいる。いるのだと信じようとアスカはしていた。先日まで死んだものと思い込もうとしていた者とも思えないが、今の彼女は誠実にそれを願っていた。

「そこにいるの?」

 ささやかれた言葉に、けれど答える者はいない。
 沈黙する初号機をあとにして、アスカはケージを立ち去った。
 洞木家でのクリスマスパーティから四日後、シンジの救出作業が開始された。





「来たのね、アスカ」

 発令所でアスカの姿を認めたミサトはほっとしたように言った。数日前に携帯電話が繋がらないと家の固定電話にミサトから掛かってきて、携帯電話を壊したことを知られたアスカは苦言を呈された。バッテリーは探したのだが、どこへ紛れたものだか見つからなかった。本来ならすぐにでもミサトなりに告げるべきだったのだろうが、何となくアスカはそれをしなかった。家に帰ってこようとしないミサトに対してまだ隔意を感じていたからだ。
 とにかく、その電話によってシンジのサルベージ作業の詳しい予定を聞き、アスカはこうしてネルフ本部を訪れていた。ミサト同様に作業に加わらない傍観者に過ぎないが、特別に発令所へ留まる許可を受けていた。それはエヴァのパイロットという立場に対する許可だろうか、それとも家族としての立場に対するものだろうか、とアスカは勘繰ったが、いずれにせよ彼女もこの場に立ち会うことを希望していた。ミサトのほうではアスカが来ることにさほど期待を抱いていたわけではなかったようだが、アスカにはそんなことは関係なかった。
 シンジがこんな状態になってから、もう一ヶ月だ。ようやく今日、彼は帰ってくる。きっと帰ってくるはずだ、とアスカは家からネルフへの道のりでずっと自分に言い聞かせていた。自分のことでもないのにこんなに不安に駆られることがあるだなんて、とても信じられない気がした。
 赤木リツコの作業指示はよどみない。それに従って伊吹マヤを筆頭に作業が進められていく。
 見守るアスカに近づいてきたミサトが言った。

「今日は珍しいもの、つけてるのね」

 隣に立ったミサトの顔を振り仰ぐアスカの髪には、いつものインターフェイスヘッドセットではなく、一対の赤いリボンが結ばれていた。ドイツ支部でのアスカも知っているミサトだったが、ヘッドセット以外のもので髪を纏めて人前に出てくる少女を見たのは初めてのことだった。
 アスカは短く答えた。

「もらったの」

 ミサトは問う。

「誰から?」

 しかしアスカはそれ以上は答えなかった。
 シンジの机の引き出しにしまわれていたミサトへの誕生日プレゼントは、まだそのままになっていた。ネルフに持参してアスカから渡すことも当然できたのだが、シンジ本人が目覚めてから直接手渡すべきだろう、と彼女は考えてプレゼントの存在を教えようとはしなかった。そもそもミサトが家に帰ってこないのも悪い。そういう少し意地の悪い感情があったことも事実ではある。
 一方、自分のリボンのほうは見つけてしまった以上、見なかったことにするのは無理だった。だからシンジには悪いが、勝手に受け取らせてもらうことにしたのだ。手紙ではエヴァに乗る必要がなくなったら、というようなことが書かれていたが、どうしてそれまで待たなければいけないのか、と彼女は家で一人気色ばんだ。もらったものをつけたい時につけて何が悪い。そこで、今日初めてアスカはヘッドセットを外し、代わりにリボンを結んだのだった。つけてすぐは妙な気分だったが、極力意識しないことだ、と彼女は繰り返し自分に言い聞かせていた。現実的にはヘッドセットをつけていようがいまいが、彼女がエヴァのパイロットであることは変わらないし、その技量が変化するわけでもないのだから。
 途中まで作業は順調に進んでいるようだった。だが、突然警告音とともに発令所で作業する人々に緊張が走った。張り詰めた声で交わされる伊吹マヤを始めとするオペレータと赤木リツコのやり取り。モニターに映し出される文字やグラフが慌しく変化していく。
 アスカはどうすることもできず、ただそれを見守っていた。

「現状維持を最優先。逆流を防いで!」

「はい。プラス0.5、0.8……変です、せき止められません!」

 伊吹が悲鳴を上げた。信じられないという表情で巨大モニターを見上げているリツコにミサトが問いかけた。

「どうなったの」

「……分からない。こちらの作業を初号機が拒んでいる?」

「エヴァ、信号を拒絶!」

「プラグ内、圧力上昇!」

「作業中止! 電源を落として!」

「駄目です! プラグが排出されます!」

 排出されたエントリープラグから赤く染まったLCLが滝のように溢れ、それと一緒にシンジのプラグスーツも外へ流れ出た。
 リツコたちの話によれば、シンジの肉体は自我境界を失ってLCLと同質化しているはずだった。つまり、今エントリープラグからケージデッキに流れ出しているLCLには、もとはシンジの肉体であったものが含まれているということであり、巨大なLCLプールとなっているケージに流出したそれを元通りに分離することはもはや不可能だった。
 その意味を、傍観していたミサトもアスカも正確に把握していた。

「シンジくん!」

 ミサトが悲鳴を上げた。
 しかしそれより先に、アスカは反射的に走り出していた。発令所を出て一直線にケージへ向かう。排出されたエントリープラグから赤いLCLが溢れ出す情景が頭の中で何度も繰り返し再生される。ケージに飛び込むと彼女はデッキを濡らすLCLにも落ちているプラグスーツにも目をくれず、初号機のコアの前に立った。
 シンジは死んだのか?
 今度こそ本当に、死んでしまった?
 アスカは肩で息をしながら目の前のコアを凝視していた。
 言葉は出てこない。あえぐように息をし、コアの表面に両手を突くと、どうしようもなくこみ上げてきた涙が頬を伝い落ちた。もう二度と流さないと誓ったはずの涙があとからあとから溢れ出す。アスカはそれを押し留めることすら思いつかず、ただ頬を濡らして唇を噛んだ。シンジの死という恐れていた事態が抵抗すら許さない勢いで彼女を飲み込もうとしていた。涙は、決して流さないと誓ったはずの涙は、アスカが彼の死を受け入れた証だった。
 結局、神はいなかったのだ。ちっぽけな人間の願いが聞き届けられることなどなく、神のいない人間は無力なまま苦しむしかないと宣告されたようだった。
 それともまだ自分にできることは残されている?
 あいつを取り戻すために、あたしは一体何をすればいいの?
 コアの前に両手を突き立ち尽くす彼女は、シンジが永遠に失われてしまったという現実にただ打ちのめされていた。本当に彼を取り戻すことができないのなら、一体自分は何のために生きているのだろう。アスカにはどうしても答えを見出すことができなかった。この圧倒的な現実にとても立ち向かえない、と思った。
 彼だけが肯定してくれたあたしの命が、彼のいない世界で一体どんな意味があるというの?
 かたわらではデッキに落ちたプラグスーツを抱き締め、ミサトが号泣していた。作業員たちはそれを遠巻きにしてざわめいている。しかし、アスカの耳には周囲の物音など一切聞こえてはいなかった。
 最後に聞いた彼の声は痛々しい悲鳴だった。それが今、アスカの頭の中で何度も何度もこだましていた。弐号機を庇った初号機の腹を貫いて飛び出してきた使徒の腕を目にした時、絶句していた彼女が座るエントリープラグ内を満たした彼の最後の悲鳴。だが、あの時、本当に叫びたかったのはアスカのほうだった。
 どうしてあたしは叫べなかったんだろう。どうして彼の名前を呼ぶことができなかったんだろう。アスカは自分に問いかけた。
 プライドのため? ライバルを気にかける余裕なんてなかったから? それとも彼のことが嫌いだったから? 憎かったから? 
 もっと早くに気付くべきだった。自分はいつも大事な時間を見過ごし続けてきたのだと。今となっては、どんなに呼びかけたとしても答えが返ってくることなど永遠にないのだ。
 鼻の奥とこめかみが痛い。身体が震え、嗚咽が漏れる。泣くというのはこんなに大変な作業だったということをアスカはもう長い間忘れていた。ケージではもうどれくらい時間が経ったのか分からなくなっていた。ほんの五分ほどかもしれないし、一時間はそうしていたのかもしれなかった。ただ、いつまでもこうしているわけにはいかない、ということだけはアスカも承知していた。使徒はまだ訪れる。たとえシンジが死のうと、その現実は揺るぎない足取りで彼女たちの前に姿を現すだろう。だからそれに備え、かつてシンジであったLCLで濡れたデッキを掃き清め、機材を全てしまい、次の初号機搭乗者が見つかるまでケージは封印されるだろう。そんなことにはとても耐えられそうにない、とアスカ一人が思ったとしても、現実の確固とした足取りの前には路傍の小石ほどの意味すらない。今こうしている瞬間にも、シンジの死は過去のものとなりつつあるのだ。
 最後に、彼の名前を呼びたかった。
 前に呼びかけたのが果たしていつのことだったか、アスカはもうはっきりとは思い出せない。もしかするといつでも軽蔑や敵意を込めて彼のことを呼んでばかりいたかもしれない。彼が内心で何を思っていたかなどひとつも慮ることのなかったその仕打ちを、もはや償うことすらできないが、せめて最後に一度くらいは純粋に彼のことを呼んであげたかった。

 ――シンジ。

 けれど、開いた口からは言葉は出てこなかった。ただ嗚咽が漏れるだけだ。止まらない涙をぽたぽたとデッキに零しながら、アスカは彼の名を呼んであげることさえ満足にできない自分に、目蓋を閉じてさらに泣いた。
 しばらくして、泣いているアスカが突っ張った両腕の肘を曲げ、額をコアの表面に押しつけた時だった。硬いような柔らかいような不思議な感触がするコアが、突然ぐっと彼女の額を押し返してきた。それが気のせいでないと気付き、はっとしたアスカが目を見開いて急いで額を離すと、赤い水で濡れそぼったシンジの頭が彼女を追うようにコアから突き出してきた。

「シンジッ!」

 今度こそアスカは彼を呼んだ。
 シンジはコアから押し出されるように勢いよく飛び出してきた。正面からそれを受け止めようと腕を差し出したアスカだったが、しかし支えきれずに彼と一緒になってデッキに倒れた。彼が飛び出した時に飛沫を上げた赤い水を頭から浴びたので、彼女はずぶ濡れだった。打ちつけた背中や頭もひどく痛んだが、彼女にはそんな痛みや濡れてしまったことなどどうでもいいことだった。たとえ骨が折れていたって構わない。
 アスカはまるでしがみつくようにシンジの身体を抱き締めていた。全身が濡れたシンジは何も身に着けておらず、うつ伏せに彼女の上にのしかかっていたが、そんなことに頓着することなく、彼女はもう二度と手放すまいとするかのように、きつく彼の身体に腕を回していた。
 シンジは生きている! 生きている!
 彼の素肌は温かく、抱き締めていると自らの乳房に彼の鼓動を感じることができた。かすかな呼吸がアスカの首筋をくすぐっていた。涙はやはり止まらなかったが、不思議と先ほどまで流していたものとは違うことが彼女には分かった。泣きながら時に笑い、アスカは意識のないシンジの身体をずっと抱き締めていた。
 もしも彼が帰ってきたら言うべきことがたくさんあるはずだった。シンジからのプレゼントと手紙を見つけてから、アスカはずっとそのことを考えていたはずだった。しかし、実際にこうしてみると、言葉は何ひとつとして出てこなかった。今はそれよりも彼の体温を肌で感じていることのほうが大事なのだ。こうしていれば言葉を交わさなくても存在を確かめることができる。けれど、常にこうしているわけにもいかない。だから、人には言葉が必要なのだ。お互いに切り離された孤独なあたしたちには、様々な言葉が必要なのだ。そうやって、分かり合っていくのだ。目を閉じて彼の温かい肌に頬をすり寄せながら、おぼろげにアスカはそう考えた。
 エヴァのパイロットとして自分よりも優れたシンジが許せないというのは、実のところ今でも変わらない。だが、本当にそれだけが彼と自分との間にあるものなのかというと、そうではないのかもしれない、とアスカは考え始めていた。
 エヴァパイロットとして誰よりも優秀でありたい。そうすれば父が自分を愛してくれるから。亡き母だってきっと人形などに目を奪われなかったはずだから。でも、もしかすると、一番であるとか優秀であるとかには関係なく、ただ純粋にまっすぐと自分を見てくれる人がいるのかもしれない。
 アスカは確かめたかった。生きているからこそ、きっと確かめることができるはずだ。今度こそ、彼女はそれを信じられるような気がした。
 けれど今はただ、すべての感情を飲み込み、デッキに倒れたままでアスカはシンジを抱き締め続けていた。

 それだけが手の中に何も持たない彼女が再び生まれてきた彼へ与えられる祝福だから。
 彼が彼女に与えてくれたのと同じように。










生まれてきて、おめでとう。生きていてくれて、ありがとう。











巨大ロボットなら戦わなくちゃ(あとがき)

 まず最初に、ここまでお読み下さった方々と掲載して下さったジュン様に感謝申し上げます。ありがとうございました。

 というわけで誕生日のお話ということでしたが、いかがでしたでしょうか。
 いいわけは別にしませんが、当初考えていた筋書きから大幅に航路を外して突き進んだのは否定できません。例えるなら月を目指していたのにいつの間にか木星に着いちゃった、という感じです。燃料が持ってよかったなぁと他人事のように思っています。
 ただし、予定には少し遅れました。「遅れてすまなかったな!」とヒーローなら言うでしょうけど、シンジの場合は遅れると不吉なことが起きそうです。
 実はそもそも書き出していたのがもう何年も前のことなので、それは話も逸れるだろうといったところですが、いずれにせよ誕生日のお話はこの先書かないと思います。多分。苦手なんです。
 暗い、こいつはお祝いする気があるのか、とご立腹の方は、長いだけでつたない私のお話などに構わず他の方々の作品をお読み下さい。ほら、すぐそこにもジュン様の作品がありますよ。
 正直なところ、私も暗いとは思いましたが、手が止まりませんでした。仕方ありません。
 でも、戦闘場面はもう面倒でたまりませんでした。ソニックグレイブとか書いたの初めてです。多分。でかい槍なんですよね、ようするに。
 パレットガンとかも「パレットって何?」って感じです。私にとってのパレットは絵の具を載せて筆で混ぜたり油や水で溶いたりする板です。あとアンビリカルケーブルは危うく忘れかけていました。
 ミサトがちょっと報われない感じですが、申し訳ありません。でも、この先時間が経てばきっと大丈夫です。プレゼントも渡されるでしょう。
 クリスマスのことまで盛り込んでしまったのですが、お得感があると感じる方はいらっしゃらないでしょう。さばさばコダマ、わがままノゾミは私が勝手に性格付けしましたが、公式にはどちらが姉で妹なのか、実はよく分かりません。多分合っていると思いますけど。
 シンジの手紙はまあ、私だったら憤死しますが、何しろ十四歳ですので。十四歳ってもう、それだけですべてが説明される人生で一番特別な年代ではないかと思います。だから主人公を十四歳にしたんでしょうけど。まあね。十四歳ですからね。
 本当に十四歳の読者の方がいらっしゃいましたら、申し訳ありません。別に他意はありませんのであしからずお願い致します。こっそりお教えすれば、私も昔は十四歳でした。嘘じゃないです。

 さて、最近自分のサイトがあったら便利だろうなぁと考えています。が、考えるだけで、当然サイトを持っていなければ持つ予定もなく、たまにお話を書いては投稿して人様に頼るということを繰り返しているわけです。仮にサイトを持ったとしても、むしろ更新したら負け、みたいなサイトになると思いますけど。
 そんな迷惑でマイナーな私ですが、せめて自分のお話のあとがきくらいは好きなことを書いても怒られないだろうと思ったので、ちょっとコマーシャルを入れます。
 興味があるという奇特な方はいらっしゃらないでしょうが、今後私が書きたい、書く予定、書いている途中のお話をいくつか挙げてみます。
 五年後くらいになって(ジュン様のサイトは五年後もきっと存在しているに違いありません)、これを目にしたどなたかが、「こいつ誰だか知らないし、探してもここに書いてある話なんてひとつもないし、ほんと何がしたかったの?」なんて唾をぺっと吐き捨てることになるかもしれませんが、まあ大目に見て頂ければありがたいです。
 では行きます。

「ちょっと初号機さん、はみ出てますよ」「編み針二刀流しゅぱぱぱぱっ」「リツコ・ザ・マーライオン」「ゲンドウ、大いに語る」「親方ーッ、空から女の子がーッ」「トマトって青臭いよね」「あの人は今」「僕たちは天使だった」「やっぱお歯黒でしょ」「甘えん坊将軍」「あたし肩甲骨で飛べます。根性あるんで」「ジュニアは肉じゃががお上手」「こんにちはジュピター」

 はい。まだ他にもありますが、こんな感じでしょうか。
 もちろん実際は違う題名です。あと、エヴァです。嘘じゃなくて。
 あとはそうですね。すでに投稿済みで書きかけのお話という恐ろしいものもあったように思いますが、気のせい気のせいと自分を励ましているところです。ごめんなさい。
 ところで、お腹が痛い時って「痛くない痛くない、気のせい気のせい」と自分に言い聞かせませんか。私はやります。まあ、そんなことをしてもあんにゃろうはずんどこ痛いんですけど。お腹痛いの、嫌ですよね。孤立無援って感じがするところが。

 それにしてもアスカの誕生日と私の腹痛は呆れるくらいに関係がない上に面白くもありません。
 なので、そろそろ意味のないあとがきは終わりに致します。
 長々と失礼致しました。
 改めて、お読み下さった方々、ジュン様。ありがとうございました。


 rinker

 









リンカ様から短編を頂戴しました。
私には絶対に書けない骨太なお話。
私ならもうこの程度で…といい加減なところで収めてしまっていることでしょう。
ずしりと心に響く話を読んだ気がします。
ただし、二次小説は投稿作品以外読んでないのですけどね(こら)。

さて、いかがでしたか?
この作品は誕生日その日に掲載ではなく、
その後に掲載されている方がよかった。
そう思わなかったでしょうか?
だから、完成が遅れて正解だったのでは。
もしかするとそれを狙ってリンカ様は…なんてことはなさそうですね(笑)。
遅れたことをたいそう恐縮されてましたので。
はっきり言いましょう。
これが間に合っていれば、自分のが恥ずかしくてアップしにくかったでしょうね。

本当にありがとうございました、リンカ様。

(文責:ジュン)

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