リンカ     2009.6.18










 日本の中学校へ編入してから最初の友人となった洞木ヒカリが一緒にお昼を食べようと持ちかけてきたので、惣流・アスカ・ラングレーはカバンから弁当箱を取り出して机の上に置いた。前の席へ座って椅子をアスカの側に向けたおさげ髪の少女は、机の上に乗せられたものを見て少し目を丸くした。
 赤いチェック柄の巾着に包まれた弁当を今朝アスカに手渡したのは同じ家に住んでいる碇シンジだった。中学へ編入してすぐのころ、つまりまだアスカがホテル住まいをしていたころには登校途中にコンビニで買って行くか、あるいは学校の購買を利用していた。ところが、ひょんなことから一緒に暮らすことになった同僚パイロットである少年は、学校へ行く日になると頼みもしていないのに勝手にアスカの分まで弁当を作り、朝食が終わったあとにいかにも遠慮がちな表情で彼女にそれを差し出したのだった。

「よかったらこれ、お昼に食べて」

 咄嗟に言葉が出てこなくて、アスカは口を半開きにしたまま大人しく弁当の入った巾着包みを受け取った。無事受け取ってもらえたことを確認したシンジが踵を返したあとになって、礼を言うべきだったとようやくアスカは思い至ったが、しかし彼女の性格とすでにこちらを見ていない少年の背とが、その口に蓋をした。

「ふん……」

 と、アスカは鼻を鳴らし、その重みを確かめるように弁当を持つ手を二、三度上下させた。シンジが勝手に作ったものとはいえ、手元にあるものを無駄にする必要もない。昼食代や購入の手間も省ける。味については期待しないが、どの道それはコンビニの食事でも同じことだ。
 朝食のあとの洗い物を始めたシンジを尻目に、アスカは彼に渡された弁当を持って自室へ向かった。すでに教科書類を詰めたカバンの中にどうやって弁当箱を追加するかを考えながら。
 巾着の口を開いて取り出してみると、弁当箱は小振りで細長く二段重ねになっていた。同じような形の弁当箱を何人ものクラスメイトが使用しているのを知っていたアスカは、きっとこれが弁当箱のポピュラーな形状の一つなのだろうと想像した。

「ね、アスカ。訊いてもいい?」

 好奇心と期待に輝いたヒカリの眼を見れば、一体何のことかと質すまでもなかった。アスカは肩を竦め、ごくそっけなく打ち明けた。

「弁当のことなら、用意したのはシンジよ」

「わっ、やっぱりそうなんだぁ。ふぅぅん」

 アスカとシンジが一緒に暮らしていることを知っているヒカリはなかば予期していた答えに興奮して口元で両手を合わせた。友人の反応はアスカからすればやや大袈裟に思えた。シンジと暮らし始めてすぐに彼が家事一般に従事する姿を目にしていたし、実際問題として面倒を看てくれる人間がいなければ誰だって自分のことは自分でやるものだ。それはアスカにしても例外ではない。ドイツにいたころは彼女も一人だったのだし、日本に来てからもそのつもりでいた。今は思いもよらないきっかけから同僚パイロットであるシンジ、ネルフでの作戦指揮官である葛城ミサトとの三人暮らしをしているが、アスカにとって二人は甘えられる存在ではないし、逆に彼女のほうでも彼らの面倒まで看てやるつもりなど毛頭なかった。一緒に暮らしているとはいえ所詮は他人なのだ。しかし、向こうのほうが自らの面倒を看るついでに勝手に世話を焼こうというのなら、こちらの邪魔にならない限りは放っておくだけのことだ、というのが彼女の考えだった。
 だが、その辺りの機微を知らないヒカリは素直に感心しているようだった。「男の子が同居している女の子に手ずから弁当を作ってくれた」という状況に対して、特に彼女が興味を抱いているということがアスカにも分かった。自らの中にある殺伐とした乾いた感情をあえてひけらかす気にはなれなかったアスカは対処に困って「あいつが勝手に作ったのよ」と弁解めいたことを口にしながら、友人の視線から逃れるように手元にある弁当箱を見下ろし、その蓋を持ち上げた。
 弁当箱の下の段には炊いた米が敷き詰められ、ふりかけがまぶしてあった。一方、上の段にはおかずとして揚げ物や煮物、サラダなどがアルミホイルの仕切りで分けられて丁寧に配置されていた。ほとんどのおかずは冷凍食品だったが、それでも随分と手間をかけるものだとアスカは妙に感心してシンジが作った弁当を眺めた。

「わあ。美味しそうね、アスカ。碇くんって男の子なのにすごいわ」

 友人の言葉が果たしてどこまで本音なのかアスカには分からなかったが、たかが昼食に日本人が傾ける情熱だけは確かにすごいと認めざるを得なかった。
 ドイツ時代、アスカにとって持参する昼食といえばスライスした黒パンにチーズか肉を挟んだだけのものだった。あるいはリンゴを玉のまま齧る、ということも珍しくはなかった。とはいえ、六歳で小学校から飛び級でギムナジウムに編入し、さらに十歳でアビトゥーアに合格して大学に入った彼女にとって、昼食を挟んで午後からも講義を受けなくてはならないという経験は実質三年ほどのことだ。大学に入るまでは学校が昼までしかなかったからだ。加えて大学にはカフェテリアもあれば周りにたくさんの店もあり、特別に手間をかけて昼食を用意しなければならないなどと考えたことは一度もなかった。
 だから、日本の中学校での昼食風景は彼女をひどく驚かせた。午後まで授業があるということは教育制度の違いとして納得するにしても、まずほとんどの生徒が自分の教室で昼食を摂るということ。さらにその中の半数以上の生徒がいわゆる手作りの弁当を持参していること。仲のいい友人同士で集まって弁当を広げ、歓談しながら食事するこの時間を学校での一番の楽しみだと臆面もなく発言する者さえいるということ。
 これらはいずれもアスカが体験したことのないものだった。それどころか、こんな光景がこの世にあることすら知らなかった。能天気で浮ついた日本の学生たちよ、と侮るのは簡単なことではあったがしかし、いざ自分がその場に交ざってみるとそういう気持ちもどこか萎えてしまうような気がした。
 また、弁当そのものも驚きの対象だ。これはアスカの常識からいって、学校の昼休憩で食べるものとしては異常なほどしっかりとした食事だ。昼休憩で食べるには安く手軽ですぐ食べ終わってある程度腹が膨れる、とこの程度の条件を満たしていれば問題はないのに、日本の弁当と来たら充分に茶碗一杯分はある米飯に数種類のおかず、さらにはデザートとして果物がついていたり、あろうことか汁物を持参するつわものまでいる。黒パンにチーズを挟んだだけの代物と比べたら、彼らの食べているものがとてもバランスの取れた食事だということは言うまでもない。加えて弁当箱にも保温機能がついていたりおかずの汁が零れない構造になっていたり数段重ねの収納式になっていたりと、お前はこれを宇宙にでも持っていくつもりなのかと言いたくなるような高機能がついていたりする。昼食を持ち運ぶ入れ物に紙袋かタッパーしか使ったことのないアスカにとってこれはほとんど眩暈のする事実だ。
 そういうカルチャーギャップと戦いながら、アスカは目の前の弁当に立ち向かっていた。シンジの作った弁当には卵焼きが二切れほど入っていて、アスカがフォークでそれをつついていると、ヒカリが少し感心したような口調で言った。

「その卵焼きは手作りね」

「見ただけで分かるの?」

 とアスカは友人に訊ね、卵焼きをフォークで突き刺して口の中に放り込んだ。ほのかな甘い味が口の中に広がる。

「冷凍のは見た目がもっとぺたっとしてるのよ。例えるなら、そうね、かまぼこみたいな感じ」

「かまぼこ?」

 かまぼこを知らないアスカは鸚鵡返しに言って眉を少しひそめた。

「ええと、お魚をすり潰して押し固めたものよ、ソーセージみたいに。それはともかく、手作りだともっとふんわりしてるし、形や焼き色にもむらがあったりするのよ。だから見たら分かるの」

「ふぅん。ようするにシンジが下手くそってこと?」

 どうあってもひねくれてしか受け取ろうとしない友人の態度に、ヒカリは微苦笑するしかなかった。

「そういうんじゃないんだけどな。形は多少悪くたって、手作りのほうがずっと美味しいのよ。卵焼きが嫌いな人なんていないわ――まあ、ほとんどはね。だから、お弁当のおかずといえば必ずと言っていいほど卵焼きが入っているものなの」

「あたしは美味しいなんて言ってないわよ。一言も」

 アスカは憮然として言い、二つ目の卵焼きにフォークを突き刺して口に運んだ。やはりヒカリは微笑むほかなかった。





 しばらくが過ぎた。アスカは相変わらずシンジと同じ家で生活していた。あれから使徒と呼ばれる化け物の何体かと戦い倒した。中学校へも通い続けている。激化していく戦いに従ってクラスメイトたちは徐々に疎開していきその数を減らしていたが、すでに何度も使徒の襲来を経験しているせいで、ある種の慣れとでもいうものが蔓延していた。いっそ正しく人間同士の戦争であったならばまるで違う様相であったろうが、警報がなるや否やの人々の行動は不安に包まれながらも悲壮なところなど見当たらず、整然としてさえいた。住民のうちに敵の姿を実際見た者はほとんどいない。警報が鳴ると同時にシェルターに隠れ、地響きと轟音に身を縮めながら地上の嵐をやり過ごし、やがて避難命令が解除されて外へ出ると、隠れる前よりもいくぶんか街が壊れている。多くの人々にとって、この街で行われている戦争と自然災害との差はわずかでしかなかった。
 そんな状況だったから、多少生徒が減っても学校での生活にはさほどの変化はなかった。危機感のない授業も和やかな昼食風景もまったく変わらない。
 退屈な授業をあくびをしつつやり過ごすアスカにとっても、昼食の時間は楽しみなものになっていた。それは彼女がここでの生活に馴染み、たとえ数少なくとも友人たちに心を許していた証拠といえるが、彼女はそんな自分の心の変化にほとんど注意を払わなかったので、それと気付くこともなかった。結局のところ、慣れとはそのようなものなのだろう。
 アスカはすでにエヴァパイロットと中学生という二重の身分に慣れていたし、シンジの作った弁当を毎日食べることにも慣れた。彼と一緒に暮らすことにさえ、ほとんど疑問を差し挟もうともしていなかった。もちろん、それは常に快適な生活というわけではなかったが、アスカは事態を積極的に変えるよりもただ受け入れることを無意識に選んでいた。
 家では少年と二人で過ごすことが多い。彼女たちの保護者である葛城ミサトはできるだけ時間を作る努力をしていたが、激化していく戦闘によって次第にそれも難しくなっていくようだった。二人きりの夕食を用意するのはほとんどの場合シンジの役割だった。彼の料理の腕前は手放しで褒めるほど大層なものではなく、レパートリーも貧弱で、アスカはいつもそのことに対して文句を言ったが、かといって彼女のために用意された食事を無視して自分勝手な振る舞いに及ばないくらいの分別は持ち合わせていたので、結局は彼と向かい合って食事をとるほかなかった。





 その日の夜もミサトは家にいなかった。思春期の少年と少女を二人きりで残すなど一体何を考えているのかとはたから見れば眉をひそめられるだろうが、当の本人たちはすでにその状態に慣れ切っていた。少なくとも、自らが置かれた状況がとても危うく微妙な均衡のもとに成り立っているという事実から顔を背けていられる程度には。
 刻んだ野菜と牛肉を炒めて焼肉のたれを絡めただけという恐ろしく単純な料理をアスカは先ほどから箸で口に運んでいた。今日の夕飯のおかずはこの炒めものとスーパーのコロッケで、どちらもシンジの用意する夕飯メニューの常連だ。
 もともと食事に凝るたちではないとはいえ、バリエーションに乏しい毎日の食事にはさしものアスカもうんざりしていたが、インスタント食品に比べればましだし、美味とは言いがたいが不味いわけでもなかったので、必要以上にシンジを攻撃することはしない。料理の本でも買って自らの可能性を試したらどうかとこれまで皮肉の一つや二つを言わなかったわけではないが、そういう時シンジが浮かべる腹立ちのこもった表情を眺めれば彼女の助言を実行しそうにないことはすぐ分かった。
 もちろん、それでとりたてて困るというのでもない。勝手に彼自身で任じた料理人兼給仕人は向上心と礼儀正しさの面でやや欠けるところがあったものの、アスカが負うべき労力を部分的に肩代わりしてくれているからだ。どうせ彼女自身が作った料理だってそれほど褒められた味にはならない。弁当屋通いをする手間も省ける。だったら多少の不満は畳んで引き出しの奥にしまっておき、寛大な心で彼の奉仕を受け入れるほうが賢いやり方だ。
 というわけで、アスカはささやかな晩餐に言葉少なに取り組んでいた。少年のほうから話しかけてくることはまれだし、強制的に会話を作ろうとする保護者は今頃地面の下の穴ぐらで仕事に追われて髪を掻き毟っている。それでもまったく会話がないというのは事実でなかったが、アスカは彼と会話するたびに突っかからずにはいられない自らのことがよく分かっていたので、積極的な会話をできるだけ避けていた。
 驚くべきことに彼女自身でも頻繁に顔を出す自らの嫌な一面に内心苦い思いをしていたのだ。彼が気に入らないということと自分自身が性格の悪い女の子だということは、別の問題だ。前者のほうは認めるにやぶさかではないが、後者を自ら認めるのは誰だってつらい。アスカでさえ。
 電話が鳴ったのは食事が終わったあとだった。シンジは使い終わった食器を洗うために台所に立ち、アスカは食後のデザートのアイスクリームを手にテレビの近くへ座っていた。

「電話よ、シンジ」

 テレビから目を離さず言ったアスカをシンジが洗い物の手を止めて振り返った。その顔にはかすかな苛立ちがあった。

「アスカが出てよ」

「あたし今忙しいの」

 アスカはアイスクリームを掬い取ったスプーンを口にくわえ、唇で挟んで丁寧に抜き取った。冷たく甘いバニラの味をしばし楽しみ、それから彼女は芝居がかった仕草でシンジを振り返って、アイスクリームのように甘ったるい声で繰り返した。

「電話が鳴ってるわよ、シンジ」

 苦い悪意のしたたるような彼女の声にかっとなり、濡れた手を拭いたタオルをほとんど叩きつけるようにして、シンジはしつこく鳴り続けている電話へ小走りに駆け寄って受話器を上げた。

「はい、もしもし、葛城です」

 彼が話し始めたのを見て、アスカは小馬鹿にするように鼻を鳴らすと、再びテレビのほうへ向き直った。彼女が明らかに電話に出る意思がないと見て取ったら余計な言い合いなどせずに彼がすぐ電話に出ればいいのだ、と彼女は考えた。いかに少年が頑張ろうとも、彼女が一度決めたことを覆すのはとても難しいのだから。

「えっ? アスカ? えっと、アスカですか?」

 ひどくうろたえたシンジの声を聞き咎めてアスカは彼のほうを見た。彼はまるでそうすれば声がよく聴こえるとでもいうように背中を丸めて少し前屈みになり、おろおろと「あの」とか「えっと」とか繰り返していた。電話口の相手に何を言われているのかは知らないが、シンジが口に出した唯一意味のある言葉が自分の名前だったのでアスカは気になって彼のことをじっと見た。

「あっ、あの、ちょっと待ってて下さい」

 シンジは受話器を顔から離して振り返ると、自分のほうを見ているアスカに困惑した表情で言った。

「アスカに電話だよ……たぶん。男の人。外国人みたい」

「みたいってどういうことよ」

 立ち上がりながらアスカは訊いた。

「だって何言ってるのか分からないんだよ」

「相手は何語を喋ってるの?」

「だから分からないんだよ」

「このバカシンジ! いいから代わりなさい」

 忌々しげにうめいたアスカはシンジからひったくるように受話器を奪うと、苛立ちを隠そうともしない声で言った。口をついて出たのは当然ドイツ語だった。

『誰?』

『アスカか。ずいぶん機嫌が悪いな』

 電話の相手はややひるむような声で答えた。その声の持ち主が誰であるか一瞬で悟ったアスカはもう少しで叫び出しそうになった。

『パパ、驚かさないでよ。わざわざ日本にまで電話してくるなんてどういう風の吹き回し? 北極が溶けてネーデルラントが溺れ死んだ? それともマリアの金切り声に我慢できなくなって離婚することにでもしたの?』

『この五年というもの世界のどこも海に沈んだりはしてないし、わたしは離婚する予定など一切ない。父親が離れて暮らす娘に電話をかけることがそんなに不自然なことなのか?』

『あら、そんなことないわよ。それに気が狂って喚き散らす女よりマリアは百倍はましだものね。上手くいってるならそれでいいのよ。北の低地のことはどうでもいいけど』

『頼むよ、ディア。何もかも鼻で笑い飛ばそうとするのはよせ。もう少しお行儀よくするんだ。何といってもお前はまだ子どもなんだぞ』

 電話の向こうで父親が必死に怒りをこらえているのがアスカには分かった。彼女は小さくため息を吐き、物憂げに髪を触りながら言った。

『そんなことあたしが一番知ってるわ。確かにあたしはたったの十四歳でちんちくりんの処女よ。だから何だっていうの? 膝を揃えてお行儀よくしたってあたしの敵は感心してくれやしないわよ。あいつらは対峙した時にあたしの純潔なんて気にかけたりしないわ。裸を見せたってあいつらは眉一つ動かさない――眉があればの話だけどね。当然年齢や性格の善し悪しは言うに及ばずだわ』

『アスカ!』

 アスカの父親は締め上げられた鳥みたいな悲鳴を上げた。その声を聞き、もう充分に彼を苦しめたことに満足したアスカはほとんど猫なで声で言った。

『まあ、いいわ。お行儀よくしてあげる、それでパパの心が休まるのなら。それに実際のところ、あたしだってあんな喋り方をするのは疲れるの』

 父親のうめき声が受話器を通して伝わってきて、アスカは声に出さずほくそ笑んだ。彼はきっと娘の幼少時に彼女から目を離していたことを死ぬほど後悔しているだろう。しかし、もう遅い。彼女はすでに彼のもとにはいないし、彼を必要とさえしていないのだ。
 だってそうじゃない、とアスカは心の中で呟いた。仮にあたしが使徒に殺されかけたとして、一体パパに何ができるっていうの?
 彼女は再び洗い物に戻ったシンジの背中に意味ありげな視線を向けた。人差し指に何重にも巻きつけた赤い髪をいっぺんにほどくと、また一からくねくねと巻きつけ始める。

『日本はどうだ』

 父親は怒りと動揺からいくぶん回復したと見えて、当たり障りない質問をした。

『暑いし臭いわ。それにものすごく能天気なところよ。頭の上で怪物が暴れ回っていても荷物をまとめて逃げ出すだけの分別が働かないんですからね。モグラみたいに地面の下に隠れてれば嵐は勝手に去ると信じ込んでるみたいだわ』

『口を慎むはずだろう』

『ごめんなさい、パパ。それでもあたし、日本の皆さんが大好きよ?』

『分かった分かった。中学校に通っていると聞いたが、本当なのかね』

『ええ、馬鹿らしいと思ったけど命令だから仕方がないでしょ。それに実際、学校へ行ってないと暇なのよ。訓練や実験もエヴァを使う以上巨額の費用がかかるんだから、四六時中やってるわけにはいかないもの』

 これはアスカの実感だった。結局のところ、必要もないのに中学校へ通わせる決定をしたのは彼女に持て余すだけの暇を与えないためではないかと考えているのだ。もし学校へ通わなかった場合、それだけの時間を持て余した結果アスカが自らの訓練や実験を増やすよう要求するのは、自らの価値に対する彼女自身の高い評価から考えて当然であり、無制限の資金に恵まれているわけではないネルフがその要求に応じきれないことは火を見るより明らかだった。資金とはネルフという巨大な身体の中を走る血管に流れる血液のようなものだ。全身に循環して初めて肉体は正常に活動できる。その中の一部の器官――つまりこの場合はアスカと弐号機のみに血液を集中させても他のどこかが窒息するだけなのだ。

『考えようによってはそう悪いものじゃあるまい。何といってもお前はこれまで急ぎすぎたんだからな。無邪気な日本の子どもたちに混ざっているのも使命の合間の気休めくらいにはなるだろう』

『まあね。授業は退屈そのものだけど、少なくとも話し相手くらいはいるわけだしね』

『友達はできたか』

『いつも一緒にお昼を食べる子がいるわ。放課後にネルフがなければショッピングしたりお茶したりもする。いい子よ、とても』

 父親の質問はごくありきたりだったから、アスカはあまり疑問も抱かず正直に答えた。しかし、考えてみれば彼女が父親から友達のことを聞かれたことなどほとんど記憶にない。それに現実に彼女が友達を持ったこともまたなかった。
 十三歳で大学を卒業するまでアスカは相当の駆け足で母国の教育制度の中を上がって行った。その過程での彼女はきわめて愛想がなく、いつも睡眠不足でいささか眼を血走らせた不健康に見える子どもだった。いかに周りから天才と誉めそやされようとも限られた時間で知識と理解を得るのは生半可な努力では足らず、学校という場所において彼女の能力はほぼその点のみに振り向けられた。ネルフへ行けば今度はエヴァにのみ全能力が注ぎ込まれたのは言うまでもない。当然年上の同級生たちに彼女の関心が向けられることは一度もなかった。アスカには友達はいなかったのだ。一人として。
 父親はそれをよく知っていた。アスカの彼に対する個人的感情がどうであれ、彼は娘のことを知ってはいたのだ。
 アスカにとってそれはひどく落ち着かない気分にさせられる発見だった。彼女は髪を触るのをやめ、苛立たしげに爪の先を噛んだ。

『そうか。では、昼食はいつも学校で食べるのか?』

 娘の動揺を感じ取ったわけでもないだろうが、父親は彼女の初めての友達についてあれこれ詮索することはせず、別のことを訊ねた。

『だって昼からも授業があるんだもの』

『食べるのはカフェテリアで?』

『そんなもの中学校にはないわよ。教室で食べるの。たいていはみんなランチボックスを持ってくるか、学校の購買でパンを買うのよ』

『教室で食べるのか? ずいぶん奇妙だな。しかし、日本のランチボックスならわたしも知っているぞ。ピクニックに行く時、何度かキョウコが――お前のママが作ってくれたことがある。彼女はお重と呼んでいた』

『オジュー?』

 耳慣れない言葉を鸚鵡返しにするアスカの眉間に深いしわが刻まれていった。狂ったあげくに首を吊って自殺した元妻のことを父親が娘の前で口にすることはほとんどない。お互いに傷つくだけだと分かっているからだ。だから、今彼が口を滑らせたのは明らかに不注意からだった。亡き妻の故郷でもある日本に滞在している娘と会話していることで、用心深く封鎖された彼の心の一角に綻びが生じたのだ。

『何段も重ね合わされた漆塗りの箱に彼女はたくさんの色とりどりな料理を詰め込んでいた。そういうのをお重とか重箱とか呼ぶんだそうだ。見たこともない料理もずいぶんあったが、彼女は楽しそうに一つ一つ説明してくれたものだよ。もうずいぶん昔のことのようだな』

『ふぅん、そう』

 アスカは不吉な調子で相槌を打った。

『どうした?』

 父親は娘の不穏な様子を感じ取り、困惑して訊ねた。

『別に。結構な思い出話で何よりだけど、あいにくあたしにはそんな思い出は一つもないの。過去の幸せを思い出してそれにどっぷり浸かりたいならパパお一人でやったらどう? でも、あたしはごめんよ。過去になんて何もないわ。何もね』

『アスカ、それは違う……』

 精一杯の皮肉が込められた娘の言葉に父親は絶句した。彼は何とかアスカに自分の真意を伝えようとしたが、早口なアスカの悪態がそれを遮った。

『かなりぼんやりしてるみたいだから忠告してあげるけど、マリアの前ではやめたほうがいいわよ。狂人の元妻のことをいまだに思い返しては懐かしんでいると知ったら、彼女は髪を掻き毟って金切り声を上げるでしょうからね』

『いい加減にしないか! 自分の母親をそんな風に言うんじゃない!』

 ついに父親は大声を上げてアスカを叱りつけた。しかし、彼女はいっそう挑みかかるように声を高くしてわめいた。

『母親ってどっちのことを言ってるのよ、パパ。美しくてふしだらなマリアのこと? それとも気が狂って娘と人形の区別もつかなかったキョウコ?』

『どうしてそんなことが言えるんだ。お前は二人ともに恩があるはずだぞ。二人ともお前の母親だ、アスカ。それが分からないのか? 彼女たちの愛情を感じたこともないというのか?』

『あたしに分かるのは、あたしがこの日本でたった一人戦わなくてはならないということだけよ。母親が誰だろうとそんなこと関係ないわ。だって、あたしはもうずっと前に一人で生きていく決意をしたんだから。あいにくパパはマリアとベッドの中で忙しくて――それともキョウコを喪った悲しみに首までどっぷり浸かっていたからかしら?――そんなあたしにまったく気づいていなかったみたいね。
 ねえ、分かる? もうあたしにはママはいらないの。マリアは優しいわ。そんなこと知ってる。でも、彼女が優しくたってあたしは強くなれないのよ。強くなれなきゃあたしは使徒に殺されるの。この世に産んでくれたキョウコに感謝する暇さえないの。強くなるために必要なこと以外は何もいらないのよ』

『だが、お前は間違ってる』

 父親は押し殺した低い声で言った。アスカは深いため息を吐き出してから、ぽつりと答えた。

『見解の相違という奴ね。理解してもらおうとは思ってないわ。でも、自分が正しいことをあたしは知ってる』

『お前がどう思おうとお前はわたしの娘だ。わたしとキョウコと、そしてマリアの。エヴァのパイロットに選ばれた時、わたしはお前を止めるべきだった。間違いを正してやるべきだった』

『そうかもね。でももう遅いでしょ? あなたの腕はあたしのところまで届かないわ、パパ。それでもまだこの不毛な会話を続けていたいの、時間とお金を無駄にして?』

『お前と話すのを無駄だと思ったことはないよ』

 父親の声はひどく悲しげだった。

『もう切るわ。この会話の続きはそのうちしましょう。その時まだあたしが生きていたらね』

 電話を切ってから父親との会話で昂った感情を鎮めていたら、洗い物を終えたシンジがちらちらと思案げにこちらを窺っているのにアスカは気づいた。当然彼がドイツ語で交わされた会話を一語たりとも理解しているはずはなかったが、ともかくもあまり愉快な内容ではなかったということだけはアスカのただならぬ様子を見て察しているようだった。
 彼女は目を細め、威圧的な調子で彼に訊いた。

「なによ」

「う、ううん。別に」

 シンジはアスカの剣幕に恐れをなし、詮索を引っ込めて目を逸らした。彼の様子を見たアスカは、腹立たしげに鼻を鳴らした。

「ふんっ」





 電話での父との会話からのち数日間をアスカはひどくいらいらした気分で過ごしていた。
 父親と会話をするとどんなに取り繕おうとしてもたいていは感情露わな口論になってしまうのだが、今回の口論はいつもよりも少し深刻だった。もちろん、会話それ自体が数ヶ月ぶりのことで、その間に以前とはアスカを取り巻く状況が変化していたということも原因の一つだ。こうして段々と心が離れていき、いつかは連絡を取り合うこともすっかりなくなって、その存在自体を思い返すことさえなくなるのだろう。
 とりたてて困ることじゃないわ、とアスカは自分に言い聞かせた。何しろ彼女は父親を必要とはしていないのだから。いなくたってまったく困ることはない。
 それよりも彼女を悩ませていたのは、次の使徒が一向に現れる気配を見せないことだ。そもそも使徒と戦うために彼女はこの日本にいるというのに、役目を果たすこともできず彼女のしていることといえば退屈な中学校に通うこととネルフで訓練をすることだけだった。
 自らがひどく無為な時間を過ごしているような気がしてアスカは不安だった。その不安が彼女を苛立たせた。
 彼女の心優しい友人は、その不安をできるだけ和らげようと心を砕いていた。すっかり習慣になった二人での昼食の最中に交わされるとりとめのない会話もそうしたさりげない気づかいの一つで、たとえアスカが若干うわの空だったとしてもヒカリは気難しい顔をしたりせず、寛大な微笑みを浮かべ続けていた。

「今日はネルフの用事があるの、アスカ?」

「ううん。ないわよ。どうしたの?」

「放課後一緒にお買い物に行かない? ちょっと買いたいものがあるの」

「いいわ、もちろん。買いたいものって何?」

 ちょっと不恰好なおにぎりの一つをフォークで突き刺しながらアスカは訊いた。プチトマトのヘタを摘まんで顔の前に持ち上げたヒカリは一言答えてから、その赤い実をぱくりと食べた。

「お父さんのお箸」

「お箸?」

「そうよ。お弁当に入れる短いのなんだけど。昨日ね、お姉ちゃんが洗い物してる最中に折っちゃったのよ。わたしのお姉ちゃんって本当にドジでそそっかしいの。力任せに洗ってるからこうなるんだわ」

 おさげ髪の友人はちっとも怒ってないような顔で姉の文句を言った。アスカは少し笑ってまだ一度も会ったことのない友人の姉のことを想像した。

「何だか意外ね。ヒカリのお姉さんなんだから、ヒカリに輪をかけたしっかり者っていうイメージがあるけど」

「とんでもないわよ。そりゃあ姉妹三人の一番上だから多少はしっかりしてるところもあるけど、あの人は世界一不器用な人間よ。しょっちゅうどこかに身体をぶつけるし、何もないところで転ぶし、外食先でお皿をひっくり返すし、一度なんて部屋着にしてるショートパンツのまま学校に行こうとしてたのよ。それも上はちゃんと制服のブラウスに着替えてるのに」

「ほんとに? 信じられないわ」

 アスカはけらけらと無邪気に笑った。こんな風に笑っていられるのはヒカリと話している時だけだった。誠実で優しいおさげ髪の友人の前でだけ、アスカは歳相応の少女でいられた。

「お料理もてんで駄目。段取りが悪すぎるから作り方は正しくても失敗するの。だからうちでは洗濯とかお掃除はお姉ちゃんがするけどお料理はわたしの役目なのよね」

「それでお弁当も毎朝作ってるってわけね。でも四人分も大変じゃない? お父さんのも作ってるんでしょ?」

 その言葉にヒカリは肩を竦めた。

「中身は四つとも一緒だからね。一つ作るのも四つ作るのもそれほど変わらないわ。それにもう慣れちゃってるもの。お母さんがいないからうちではずっとお姉ちゃんがその代わりだったし、わたしも手伝えることは何でもやらなきゃいけなかった。それだけのことよ。いっそお父さんが再婚でもしてくれたらわたしたちも楽できるんだけど、うちのお父さん、もてないのよね」

 冗談めかして言うヒカリから少し目を逸らし、アスカは微笑みの裏に隠した痛みを静かにこらえた。あまりにも真っ直ぐな友人と比べてどうしようもなく屈折していじけている自分が悲しかった。普段はそんなことを思いもしていないアスカだったが、心のどこかではヒカリのような女の子に引け目を感じていたのだ。しかし、彼女は自らの誇りのためにそれを表に出すようなことはしなかった。

「そういえばアスカのお弁当はいつも碇くんが作ってくれてるのよね?」

「え、ええ。そうよ」

「お返しにたまにはアスカが作ってあげたらどう? 碇くん、喜ぶわよ」

「冗談はやめてよ、ヒカリ。お弁当はあいつが勝手に作ってるだけ。捨てるのがもったいないから食べてやってるけど、あたしがあいつのお弁当を作ってやる義理なんてないわ」

 噛み付くように友人に反論しながら、アスカはさっと教室を見回した。そこにシンジの姿はなかった。友人たちと一緒に屋上で昼食をとることにしたためだ。彼がいなかったことに、つまり今の自分の発言を聞かれなかったことに妙な安堵を覚えて、アスカはヒカリのほうへ向き直った。

「誰か探してるの?」

 おさげ髪の友人がにっこり笑って訊いた。アスカは首まで真っ赤になった。

「べっ、別に」

「ふぅん。でもね、アスカ。誰かが自分のために作ってくれたお弁当って、本当に嬉しいものみたいよ。初めてわたしがお姉ちゃんと一緒に作ったお弁当をお父さんに見せた時の反応ったらなかったわ。それにわたし自身、まだ下の妹が産まれる前のことだけど、お母さんが作ってくれたお弁当を遠足に持っていくのが誇らしかったような気がする」

「でも、ドイツではお弁当なんてないのよ。せいぜい適当なサンドイッチを作るくらいだし、正直に白状するとあたしの料理の腕だって大したことないの。あたしが何か作ったって絶対シンジは喜んだりしないわよ」

「そうかしら?」

「そうに決まってるわ」

 あくまでヒカリは納得していないようだったがアスカが強い口調で断言してみせると、あとはくすくすと笑うだけだった。そんな友人の態度にからかわれている気がして居心地の悪い思いをしながら、アスカはシンジの作った不恰好なおにぎりをまた一つ頬張った。

「まあでも、お料理がしたくなったらいつでも言ってね、アスカ。わたしに教えられることなら何でも教えてあげる。さすがにドイツ料理は分からないけど」

「その気になればね」

「アスカならすぐに美味しいのが作れるようになるわ。何といっても、わたしのお姉ちゃんとは違うんだもの」

 ヒカリがそう言うと、二人は顔を見合わせて笑い声を上げた。
 けれど、この優しい友人の好意に甘えることにはならないだろう、とアスカは考えていた。料理なんてして一体どうなるというのだろう。それでエヴァの操縦が上手くなるわけでもない。アスカにとって料理は余計なものなのだ。必要のない技能であり、時間の無駄でさえある。食事など腹が満ちて栄養補給ができればそれでいい。仮にシンジがいなかったとしても、自分のために料理の腕前を磨くことなど決してなかったに違いない。シンジのためであるとすればなおさらだ。
 だとすると、どうしてシンジはあたしのためにご飯を作ってくれるのだろう?
 ほとんど初めてアスカの胸にその疑問が湧き上がって来た。同居する女性二人が恐ろしく怠惰だから仕方なく引き受けているのだろうか。あるいはアスカの直接的あるいは間接的な脅しに屈しただけなのだろうか。
 それともあるいは、と考えたアスカは浮かんできたその可能性をかぶりを振って追い払った。
 ヒカリはどこか遠くを見るような眼差しで喋っていた。それはまるで目に見えない何かに向かって語りかけているようでもあった。

「不思議なんだけどね、時々自分が作ったご飯に懐かしさを感じたりするの。お母さんがどんな料理を作ってたか、頭よりも舌で覚えてるみたい。家族のお弁当を作りながらお母さんがどんなことを考えてたのか、どういう気持ちでいたのか、そんなことまで分かるような気がするの。
 ただの錯覚だって言われたらそれまでだけど、ひょっとするとアスカも同じように感じるかもしれないわよ。自分が食べて育った味の記憶って身体に染み付くみたいだし、いずれはアスカも他の誰かとその記憶を分かち合うようになるわ。ご飯を作ってあげて食べてもらうことでね。その相手は好きな男の子だったり結婚してれば旦那さんだったりするの。そして、いつか自分の子どもを相手に、お話したり抱き締めてあげたりするのと同じくらいたくさんの大事なものを伝えることになるのよ。お母さんがわたしにしてくれたように。そう考えてみると、誰かのためにご飯を作るって、なかなか素敵なことだと思わない?
 なんちゃってね。ちょっと語ってみちゃった。実はこれ、半分以上はお父さんの受け売りなの。娘が作ったお弁当に感動してついぽろっと口が滑っちゃったのね。だって、いつもはこんな真面目なこと、全然言わないような人なんだもの。
 でも、わたしはお料理ができるに越したことはないと思うわ。案外やってみると楽しいし、男の子を手懐けるのに役立つかもしれないしね」

 ヒカリは悪戯っぽく締めくくって、急に照れ臭くなったみたいに弁当をぱくぱくと食べ出した。
 友人の話はアスカにはひどく縁がなく遠いもののように感じられた。度重なる飛び級とエヴァパイロットとしての使命のため、子ども時代のごく早い時期から彼女は親元から離れて暮らさなくてはならなかった。一人暮らしの部屋で料理をすることはほとんどなく、アスカにとって食事はいつも顔の知らない誰かが作ったものだった。食事以外の意味がそこに発生する余地などあるはずもない。たまに実家へ帰った時にマリアが作ってくれたご飯は確かに美味だったが、アスカの継母に対する隔意のせいでやはりヒカリの話したようなものは感じられそうにない。
 残るは亡くなった母キョウコだが、アスカは四歳以前に何を食べていたかなど覚えてはいなかった。果たして母親が日常的に料理していたのか、それすら知らないのだ。父親との間でその種の会話を禁忌としていたがために、余計に亡き母の実像はぼんやりと霞んでいた。
 いずれにせよ、仮にヒカリの言うような記憶がこの身体に刻み込まれているとしても、おそらく生涯それに気づくことはないだろう、というのがアスカの結論だった。料理に興味はないし、手作りのご飯を通じて何がしかを伝えるべき子どもなど持つつもりもない。彼女は子どもが嫌いだ。子どもを産む女というものも嫌いだ。エヴァのパイロットとして崇拝される以外には何一ついらない、という考えは彼女を鎖のように縛りつけていた。
 しばらくの間、アスカとヒカリは黙って弁当を食べ続けた。楽しげな教室の喧騒や窓の外の校庭から聞こえてくる歓声が、今にも新しい使徒がこの街を襲ってくるかもしれないという現実をまるで出来損ないの嘘のように感じさせていた。
 考えてみれば、アスカのためにいつもご飯を作ってくれるシンジという存在は、彼女のこれまでの人生の中できわめて特異な位置を占めている。たとえ彼の料理をする動機がどういうものであるにせよだ。彼の母親も幼いころに亡くなったということをアスカは知っていた。もしかすると、彼もまた自ら料理をすることによって頭ではなく身体の中に隠された記憶を呼び覚ましているのかもしれない。
 あたしは知らず知らずのうちに彼の記憶を食べて血肉にしているのだろうか?
 たとえばこの卵焼きだってそうだ、とアスカはフォークで突き刺した黄色い物体を顔の前に持ち上げて思った。シンジが作る弁当にはほぼ必ず卵焼きが入っている。それも絶対に砂糖で甘くしたお菓子みたいに優しい味の卵焼きだ。卵焼きにも色々種類があるという事実を認めたくないかのように、彼はそれ以外に決して作ろうとはしなかった。
 持ち上げた卵焼きを口に入れてもぐもぐやる。認めるのはしゃくだが、アスカはシンジの卵焼きが好きだ。よほど作り慣れているのか、彼は卵焼きの腕前だけはなかなかのものだった。こういうのを餌付けされるというのかしら、と思わないでもなかったが、彼の卵焼きが食べられない日にはどこか物足りない気がするのも事実だ。
 口の中のものをすっかり飲み込んでしまうと、アスカは二つ目の卵焼きにフォークを突き刺した。いつもシンジは作った卵焼きを四等分し、二切れをアスカに、残りを自分の弁当に入れている。もしも頼み込んだら四切れすべて自分のほうへ入れてもらえるかしら、とアスカは考え、その幼稚さに馬鹿馬鹿しくなった。そんなことはまったく子どもじみている。確かに彼の卵焼きが美味しいのは認めてやってもいいが、母親の甘える子どもではあるまいし……。
 弁当にフォークを突き立てた姿勢でアスカは凍りついた。その顔は紙のように白くなっていた。彼女のほとんどおびえたような視線はまっすぐにフォークの先で固定された黄色い食べ物に注がれていた。彼女の好きな、甘くて優しい、どこか懐かしい味のする……。

「アスカ?」

 異変に気づいたヒカリが気遣わしげに呼びかけた。しかし、アスカはそれに答えず俯いていた。前髪が落ちて彼女の表情を隠した。弁当にフォークを突き立てたまま動かない彼女の肩は小刻みに震え、ヒカリの耳にかすかな泣き声のようなものが聞こえた。

「どうしたの?」

 びっくりしてヒカリが問いかけると、アスカは目元を軽く拭う動作をし、ようやく顔を上げた。彼女の少し赤らんだ顔には嬉しさと悲しさの入り混じった複雑な表情が浮かんでいた。

「何でもないわ。ちょっと目にごみが入っただけ」

 それが明らかな嘘であることはすぐに分かったが、なぜかヒカリは追及してはいけないような気がした。彼女はアスカがフォークを持ち上げて卵焼きを食べるのをじっと見ていた。赤い髪の友人の仕草は、ほとんどうやうやしいほどだった。

「美味しそうね」

「うん。好きなの」





 台所へ空の弁当箱を持っていくと、シンジはすでに夕飯の準備に取り掛かっていた。じゃがいもやにんじんが転がっているシンクに弁当箱をそっと置いて水に浸し、アスカは隣に立つ少年の顔を窺った。

「今日はカレーだよ」

 野菜を水で洗いながらアスカのほうを見もせずにシンジは言った。じっと見つめてくるアスカの視線を夕飯の献立を知りたがっているためだと考えたからだ。彼女の青い瞳はこれまでシンジが感じたことのない柔らかな光をたたえていて、そんな瞳で見つめられることに慣れていない彼は居心地の悪さから一刻も早く抜け出すために、問いかけが言葉にされるのを待たず答えたのだ。
 ところが、アスカはシンジの言葉に軽く返事をしたあともまだそこに留まったままだった。彼女は別に夕食の献立が知りたかったわけではない。相変わらずこちらを見ようとせず、けれどどこかどぎまぎしながら野菜を洗っているシンジの隣に彼女はじっと寄り添っていた。
 やがて洗い終えた野菜の皮をむいてまな板で切り始めたシンジに向かってアスカは唐突に言った。

「明日もお弁当作ってくれる?」

「え?」

 じっと立っているだけのアスカを気にしても仕方がないと諦めて料理に集中しようとしていたシンジは、急に彼女が口を開くものだからその言葉を聞き逃した。
 先ほどから目を逸らし続けていたアスカのほうを初めて彼が見ると、彼女は少しむくれた顔で睨んでいた。

「ごめん。もう一回言って」

「明日もあたしのお弁当を作ってくれるのかって訊いたの!」

 語気を強めて繰り返されたアスカの言葉に、シンジはきょとんとした顔になった。別に言われなくたってこれまでもずっと彼女の弁当を作り続けてきたわけだし、どうして彼女が急にこんなことを言い出すのか彼には不思議だった。何だってアスカは僕が明日から突然お弁当を作らなくなるなんて思いついたりしたんだろう?

「作るよ。当たり前だろ」

 いぶかしげな顔をしながら当たり前のことを当たり前のようにシンジは答えた。そんな彼をまだちょっと不貞腐れたような表情で見つめていたアスカは、何かを言いよどんで彼から視線を逸らした。その様子にふと思い立ったシンジは訊ねてみた。

「もしかして明日はお弁当いらなかったの?」

 すると、アスカは口を結んだまま激しくかぶりを振って否定した。見慣れない彼女の姿にシンジはすっかり困惑してしまった。いつも嫌味なくらいに頭が回ることからすれば、言葉が出てこず仕草で意思を伝えようとする彼女の姿はほとんど奇異なくらいだ。シンジはわけが分からなかったが、とにかく彼にできる範囲で頭を絞った。

「あ、何か明日のお弁当に入れてほしいものがあるとか? 今あるものでできるならしてあげてもいいけど。明後日のお弁当で構わないなら、明日買い物に行くよ」

「ううん。違うの。そうじゃなくて」

 もどかしそうに何度もかぶりを振りながらアスカは否定した。

「そうじゃなくて?」

 シンジは困ったような表情をして訊き返した。彼の手は先ほどからずっと包丁と野菜に添えられたままだ。
 そんな彼のかたわらに立つアスカは、普段からすると信じられないほど控えめな声で続きを言った。

「ただ、確認したかっただけ。それだけ」

「僕がお弁当を作るかどうか?」

「うん」

 こっくりとアスカは頷いた。

「別に確認なんていらないと思うけどな。作れない時にはちゃんとそう言うよ。そうじゃなければ、作る」

 シンジにしてみれば問われるまでもないことだ。もう何ヶ月もそうし続けてきたのだし、いまさら習慣を翻すつもりもない。むしろアスカが一体何を問題にしているのか彼にはさっぱり分からなかった。
 とにかく、いつまでもこうしているわけには行かないということだけははっきりしていた。こんな風にぴったり隣に寄り添われていては料理しにくいことこの上ないし、彼女がそばにいるだけでそわそわして落ち着かない。彼女は時としてひどく周囲に無頓着になることがある。腕や脚がむき出しになった恰好をしていると特に。そのためにどれほど自分が決まり悪い思いをしているか、少しでも察してくれたらいいのに、とシンジはうらめしく思った。
 一方アスカにとってシンジの簡潔な答えは充分に満足できるものだった。彼がアスカの意図をまだ理解できていないことは明らかだったが、時間をかければきっと分からせることはできるだろう。彼を困らせていることにはまるで頓着せず、彼女はそのように考えた。
 結局のところ、アスカの舌にも記憶は隠されていた。父親が電話で話そうとしていたのは彼だけが独り占めにする思い出などではなく、家族三人の共通の思い出だった。思い出されたことはほんのわずかな断片に過ぎなかったが、まだ幼いアスカは確かに父母と三人でピクニックをしたのだろう。何段も重ねられた綺麗な箱から魔法のように次々と料理を取り出す母の笑顔を何となくアスカは想像できる気がした。
 そして、色とりどりの料理の中で一番のお気に入りはもちろん甘いお菓子のような卵焼きだった。黄色くて、ふわふわしていて、夢のように甘いその料理に幼いアスカは完全に夢中になった。まるで母自身を愛するように、アスカは母の卵焼きを愛していた。何が食べたいと訊かれれば、決まって甘い卵焼きがほしいと母にねだった。
 ひょっとするとシンジもそうだったのではないかしら。それはごく自然な思いつきのように感じられた。幼い少年が母親に甘える様を想像してみると、ますますその思いは確信に変わった。きっとこの想像は間違っていない。だからいつも同じ卵焼きを頑固に作り続けるのだ。
 きっと彼はこれからも甘い卵焼きを作り続けるだろうし、もしもアスカがこの先卵焼きを作るとしたら、その味は母の味であり、シンジの味でもあるということになる。卵焼きを作って食べるたびに、アスカの舌には亡き母の愛情や、あるいはシンジとの交流が思い返されることだろう。
 その意味するところを時間をかけてじっくりと考えてみる必要があるわ、とアスカはかたわらの少年を観察しながら心の中で呟いた。包丁で野菜を刻んでいるシンジの視線は自らの手元に落とされている。それをいいことにアスカはあからさまな視線を彼に向け続けていた。
 もちろん、すぐ真横から熱心な視線を送ってくる少女のほうをシンジが見ないのはわざとだ。それを充分に承知した上で、アスカは自らが愛する思い出のように甘い声をしたたらせた。

「ねえ、シンジ」

「な、なに?」

 かわいそうなことにシンジの声は少し震えていた。

「夕飯を作るの、あたしも手伝っていい?」

 振り向いたシンジの顔にはむちでぶたれたみたいなショックの色があった。この日ほとんど初めて彼女の顔を真正面から見つめた瞳は飛び出そうなほど見開かれ、数多くの疑念と恐怖が渦巻いていた。
 そのことにアスカはちょっと気を悪くした。

「どうなの、あたしに手伝って欲しくないの?」

「い、いや……」

 もちろん、彼が発したのは次の言葉を捜す間の空白を埋める繋ぎのような言葉なのだが、アスカの瞳はすぐさま険悪に細められた。いったん心を決めた彼女は一刻だって待っているつもりなどないのだ。
 彼のほうを向いていたアスカの身体が半歩ほど踏み出した。いまや二人はほとんど触れ合う距離にいた。彼女の小さな足のつま先がシンジの彼女より少し大きい足を控えめにノックし、彼女の身体から立ち昇る花のような香りが彼をくすぐった。
 シンジは逃げ出すこともできず、かといって料理を続ける余裕もなく、息を詰めて固まっていた。彼はまるで狼に狙いを定められた鹿みたいだった。そしてこの場合、彼を獲物と狙い定めたのが狼であろうと若い女の子であろうと大差はない。どう考えても、彼はすでに逃げ遅れていた。さらに悪いことに、そのことに気づきもせず不吉な予感にただおびえていたのだ。

「あたし、何をすればいい?」

 ちょっと首を伸ばせばキスできるような距離でまっすぐに彼の瞳を覗き込みながら、アスカは小首を傾げて訊ねた。手伝いがいるかという先ほどの質問への答えを待つこともせず、彼女は勝手に話を進めていた。
 シンジはいくらか迷った末に彼女の申し出を受けることに決めた。たとえそうするほかないのだとしても、とにかく彼は決めた。

「じゃあ、アスカは野菜を切って」

「りょーかい」

 包丁をまな板に置いてシンジは場所を空け、今度はアスカがそこに立って包丁を握った。しかし、彼女はしばらくじっとまな板の上の野菜を見つめたあと、シンジに向かって言った。

「どういう風に切るの?」

 まな板の上にはすでに薄切りにされたたまねぎがあり、皮をむかれたじゃがいもとにんじんが出番を待って転がっていた。

「じゃがいももにんじんも銀杏切りにして。じゃがいものほうは分厚く」

「銀杏切りって何?」

「えっとだから……イチョウの形に切るんだよ」

 アスカはじっとシンジを見ていた。シンジはまな板の野菜とアスカの真剣な眼差しとの間で何度か視線を往復させたあと、観念したように言った。

「やってみせてあげる」

 再びアスカが脇にどき、まな板の前に包丁を手にしたシンジが立って、じゃがいもとにんじんを少しずつ銀杏切りにしてみせた。

「こうだよ。これが銀杏切り」

「分かったわ。残りはあたしにさせて」

 イチョウの葉の形に切られたにんじんを手に取って、アスカがにっこりとシンジに笑いかけた。その愛らしい笑顔と真正面から向かい合ったシンジの顔はうっすらと赤く染まった。

「そ、それじゃお願い」

 うわずった声でアスカに言うと、シンジはそそくさと場所を空けた。
 思っていたよりも上手く行きそうだ、とアスカは思った。当然料理のことではなく、シンジのことだ。いくつか気にかかる点はあるが、いったん彼女が改造計画に乗り出せば彼は申し分ない少年になるだろう。いずれにせよ、大好きな卵焼きを食べる際に思い起こされる彼に関する事柄が好ましいものであるに越したことはない。
 その先のことは……、と考えて彼女はこっそり赤くなった。彼女に野菜を任せて冷蔵庫から肉を取り出したり油を引いた鍋を火にかけたりし始めたシンジを横目でうかがい、彼女はますます真っ赤になった。

「ねえ、シンジ」

 アスカはシンジに言った。

「今度卵焼きの作り方を教えてね」

「卵焼き、好きなの?」

「うん。とっても」

 アスカの眼差しの奥に隠された真意に気づくこともなく、シンジは純粋に厚意から提案した。

「何だったらこれから作ってみる? 卵はあるし」

「ううん。今日はいいわ。でも、約束よ」

「分かった」

 シンジはこっくりと頷いた。それを見届けたアスカは心から満足して柔らかい微笑を浮かべた。
 その時、電話が鳴り始めた。シンジとアスカは同時に電話のほうへ視線を送り、それから顔を見合わせた。

「僕が出るよ」

「いいえ、あたしが出るわ。どうせあたし一人じゃまだ何もできないもの。シンジはカレーを作ってて」

 二人は微笑みを交し合った。そして、根気よく呼び続けるベルの音に応えるようにアスカは電話のほうへ小走りに駆けて行った。











Ich vergesse Ihre Liebe nicht.





あとがき

 最後までお付き合い下さいまして、誠にありがとうございました。

 もともとこのお話の題名は「メモリーズ」でした。しかし、どうせならドイツ語にしてみようと思って調べた結果「ゲデヒトニス」となりました。複数形があるのならそうしたかったのですが、それはよく分かりませんでした。
 私の想定ではもっと軽くて短いお話になるはずだったのですが、父娘の会話のあたりからシリアス成分が少し混ざってしまい、結果としていつものような感じになってしまいましたので、いつものようないいわけをさせて頂きます。
 でも、性格の悪いアスカが書けたことには満足しています。
 鹿に例えられたシンジですが、実は牙を隠しています。アスカは徹頭徹尾、狼です。彼女は狩りを心から楽しみますが、その気になれば肉食獣を食べるのが彼です。
 卵焼きは砂糖入りより出汁のほうが私は好きです。
 
 といった感じのLAS未満なお話でしたが、お楽しみ頂けたなら幸いです。

 では改めまして、お読み下さった皆様、掲載して下さったジュン様に感謝申し上げます。
 ありがとうございました。


 rinker

 





リンカ様から短編を頂戴しました。

餌付けされたアスカの話……なんてことにならないのは、さすがのリンカ様ですね。
私だったら餌付けルートまっしぐらになっちゃいそうです。
それを父親からの電話でアスカらしさを維持したまま話を進めるんですからね。
ええ、絶対に真似できませんし、それでいて欝になるような話にもならない。
そのバランス感覚は見事としか申し様はありません。
惜しみない賞賛と、いくばくかの羨望を込めて。

追伸 私は砂糖入りであります。

(文責:ジュン)

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