リンカ 2009.12.31 |
5.綾波レイ
一体どうして碇くんがそれをわたしに与えようとするのか、わたしにはどうしても理解することができずにいた。
碇くんの両手で支えられて目の前に突きつけられているクマのぬいぐるみと碇くんの顔とを交互に見ながら、わたしは自らのとるべき行動を決めかねていた。
彼は受け取って欲しいと思っているのだろう。当然だ。そのためにこうしてわたしにぬいぐるみを差し出しているのだから。
では受け取るべき?
しかし、わたしはぬいぐるみなど必要としていない。わたしにはエヴァという絆がある。エヴァに乗っている限り、わたしは司令や碇くんや他の人々と繋がっていられる。だから、エヴァがあれば充分であり、エヴァ以外の絆など必要ない。ぬいぐるみがエヴァに乗るために役立つこともない。わたしにはぬいぐるみはまったく必要でない。
では断るべき?
きっとそうなのだろう。でも、そうすると碇くんの期待を裏切ることになる。その事実はわたしの胸を奇妙にざわめかせた。不思議な感覚だ。こういうのを不快というに違いない。わたしが断れば碇くんも不快に感じるのだろう。それはわたしにとってあまり望ましくない。奇妙なことといわざるを得ないが、内心でそれを認めた。わたしは彼を失望させたくない。
考えた末、ぬいぐるみを受け取ることに決めた。不必要なものではあるが、受け取らなければ不快な思いをすることになるので仕方がない。
わたしがぬいぐるみを受け取ると、碇くんはあからさまにほっとした様子を見せた。
「よかった。受け取ってもらえて」
碇くんは少し嬉しそうにそういった。
そういえば、エヴァや生活と関係なく、こういった贈り物をされるのは初めての経験だ。こういうとき、人は感謝の言葉を伝えなければならないのではなかったか。
わたしは自らの知識に従って、碇くんにそれを伝えた。
「ありがとう」
口に出してみてから、わたしは後悔した。
なぜなら、わたしは必要ともしていないぬいぐるみを贈られたこと自体には感謝していないのに、ただ蓄えていた知識に従って機械的に感謝の言葉を口にしたからだ。
それは、ひどく不自然なことのような気がした。この不自然さはひどく居心地が悪い。しかし、そもそもわたしは不自然な存在なのだ。いまさら自然に振舞えなくともどうして気にする必要があるのだろう。
「……綾波、どうかした? やっぱりぬいぐるみなんて迷惑だったかな」
物思いに沈んでいるわたしに碇くんが不安げな声で話しかけてきた。わたしははっとして顔を上げた。碇くんは人の心を読むことができるのだろうか。わたしは不思議だった。一言も口にしていないのに、どうしてわたしから不安を感じ取ることができるのだろう。
「どうして」
わたしが一度言葉を切ると、碇くんは不安げな表情を少し和らげて続きを待った。
「どうしてわたしにぬいぐるみをくれたの?」
「ああ。うん。何ていうか、僕にもよく分からないんだけど」
碇くんは後頭部をかき、空中から言葉を捜すようにあちこちに視線を送った。
「綾波の部屋って、すごく寂しいだろ。だから、せめてぬいぐるみでもあったら、少しは違うんじゃないかなって思って」
わたしの部屋が寂しい?
そんなことは考えたことがなかった。わたしが生まれ育ったセントラルドグマの研究室もあのような環境だった。打ちっ放しのコンクリート壁に簡素なパイプベッド、キャビネットに散らばるビーカー類。だから、わたしにとってはあれが一番落ち着くのだ。しかし、碇くんの目にはそのように映らなかったらしい。
「このぬいぐるみはね、昔から僕が持っていたものなんだよ。正確にはいつから持っているのか……誰が僕に買ってくれたのか覚えていないけど。僕は四歳から先生のところに預けられて、友達もあまりいなかったし、よくこのぬいぐるみを相手に遊んだよ。きっとそうやって寂しさを紛らわせていたんだと思うな。まあやっぱり男だから、少し大きくなると、すぐにぬいぐるみでは遊ばなくなったけどね」
碇くんの説明をわたしは眉をひそめて聞いていた。
彼がわたしの部屋を寂しいと感じていることは分かったし、彼自身が寂しかった子ども時代をこのクマのぬいぐるみによって慰められてきた、ということも分かった。
しかし、だからといってそれがわたしにぬいぐるみが必要とされる理由になっているとは思えなかった。なぜなら、わたしは自らの境遇にも暮らす部屋にも寂しさなど感じてはいないからだ。
けれど、そのことを懇切に説明するのはせず、わたしはただ一言答えた。
「そう」
「あのね、綾波」
困ったような微笑みを浮かべて碇くんはいった。
「普通の女の子らしくするっていうのがどういうものか、説明するのはすごく難しいし、たぶん僕にはできないんだけど。でも、世の中にはエヴァ以外にも意味のあるものはたくさんあって、父さん以外にも綾波を気にかけてくれる人はきっとたくさんいて、綾波のほうでも父さん以外の人にも気にかけたりしたらいいんじゃないかと僕は思うんだ」
「わたしには分からないわ」
「ごめん。分かりにくいよね。ただね、僕がこんなことをいうのはきっとおこがましいことなんじゃないかって気がするんだけど、綾波は寂しくないんじゃなくて、寂しいのがどういうことか気付いてないだけなんじゃないかと思ったんだ。ひょっとすると、寂しさがどんなものかなんて、知らないで済むのならそれがいいのかもしれない。気付かなければ本人にとってはそこにないのと同じなんだから。でも、やっぱりそんなのは寂しすぎると僕は思うんだ」
碇くんの話は謎かけのようでやはり理解できなかった。
しかし、ともかくわたしはぬいぐるみを受け取った。もしかすると、このぬいぐるみを持っていれば、碇くんの言葉の意味もそのうち理解できるようになるのかもしれない。それがどれほどの意味を持つのかは定かではなかったが、少なくとも碇くんはわたしに理解して欲しいと思っているのだろうし、そうであるなら理解しないよりしたほうがいいはずだ。
「あ、そうだ。綾波」
別れ際に碇くんは付け加えた。
「そのぬいぐるみの名前だけど」
名前?
わたしは目をまたたかせた。ぬいぐるみには名前が必要なのだろうか。それはたとえばわたしの乗るエヴァが零号機と呼ばれるのと同じような趣旨だろうか。
「僕はクマタローって呼んでたんだ。ぬいぐるみに名前なんて子どもっぽくて恥ずかしいけど、実際子どもだったからね。綾波も何か考えてみるといいよ」
ぬいぐるみを家に持ち帰ったものの置き場に困ったわたしは、ひとまずそれをベッドの上に投げ出した。仰向けに転がったクマのぬいぐるみは文句一ついわず口元でにっこり弧を描いている。
そう考えて、わたしは軽く息を吐き出した。当然だ。ぬいぐるみはただの物なのだから。言葉を喋るはずはないし、表情も変わらない。どのような扱いをしようと気にも留めないのは当たり前のことだ。
シャワーを浴び終わり、バスタオルで濡れた身体を拭いながら部屋に戻ると、ぬいぐるみはわたしが放り投げたときと変わらない状態でベッドの上に転がっていた。口元は相変わらずにっこり笑っている。
「邪魔だわ」
わたしはぽつりと呟いた。
この先これの置き場をどうすればいいのだろう。ベッドはわたしの寝る場所であり、ぬいぐるみが転がっていては邪魔になる。キッチンへ置けば濡れてしまうだろう。こういうものは多分濡らさないほうがいいのではないだろうか。床に放り出しておいたらすぐに埃と泥で汚くなってしまう。わたしは滅多に掃除しないからだ。残る選択肢はベッド脇のキャビネットの上だけだった。置きっ放しになっていたビーカーと本をそこからどけて、わたしはぬいぐるみを座らせてみた。付け根のところで動くようになっているしっかりとした手足のおかげで、クマのぬいぐるみは巧い具合に座る姿勢で安定してくれた。
「クマタロー」
碇くんが名付けたという名前でぬいぐるみを呼んでみた。もちろん、ぬいぐるみは何も答えない。
こんなことに何の意味があるというのか。わたしは踵を返すと濡れたタオルを部屋の隅のダンボールに投げ捨て、タンスの引き出しから新しい下着を取り出して身に着けた。
クマタローが(それがぬいぐるみの名前なのだから、こう呼ぶのが自然なことなのだろう)わたしの部屋に居座り始めてから数日が経った。
その数日間で、わたしはクマタローのことをいくらか観察した。特に関心があったわけではないが、どうせ部屋では他にすることもなかったからだ。
よく見るとクマタローはずいぶん古ぼけていた。茶色の体色(というより毛と布地の色)のおかげで目立たないが、明らかな汚れも一つや二つでなく残っている。それでも、クマタローはそれほどひどい状態ではなかった。
碇くんはこれをとても幼いころから持っているのだと説明した。わたしには想像すらできないが、幼い子どもがぬいぐるみで遊ぶというのは、このようにただ眺めているだけをいうのではないのだろう。とすると、碇くんかあるいは碇くんの保護者はかなりこのぬいぐるみを大切に扱っていたに違いない。
碇くんはどのようにクマタローに対して接してきたのだろう。どんな子どもだったのだろう。クマタローによって慰められた碇くんの寂しさとは、どのようなものだったのだろう。
考えごとをする時間が増えていった。分からないことが次から次に生まれていった。しかし、クマタローはただのぬいぐるみなので、質問をしたとしてもわたしの疑問には答えてくれない。
これまでわたしはぬいぐるみなど持っていたことはない。ぬいぐるみだけではなく、子どもなら誰でも持つようなおもちゃの一つさえわたしは知らずに育った。
気付いたときにはわたしはセントラルドグマの研究室で暮らしていた。碇くんが寂しいという今のわたしの部屋と似た雰囲気のあの場所でわたしは育てられた。
多くの時間は孤独だった。ジオフロントの奥深くには人はほとんど来ない。たまに訪れる白衣を着た大人はわたしの身体を装置にかけて実験をしたり何か調べたりした。彼らはわたしに話しかけたりはせず、終わればすぐに立ち去った。そのころまだ彼らの膝をわずかに超える程度の大きさだったわたしは自分が何をされているのか理解しないまま、ただそれを日常の一部として受け入れていた。日に三度の定時にどこからか持ち込まれる食事と同じように。
服装はいつも簡素なスモックか、それもなければ下着だけだった。どちらも白色だ。やって来る大人たちが着ているのも白衣。部屋の壁や床はコンクリートの灰色。目立つ色彩といえば自らの赤色の虹彩くらいしか知らなかったが、それさえも曇ったガラスや金属の表面にかろうじて映りこんだのを見て知っている程度だった。だから、ずっとあとになって初めて中学校の制服に袖を通したとき、自分がひどく派手な装いをしているように感じた。といっても、あるクラスメイト(名前は思い出せない)がうちの学校の制服は地味で可愛くないと発言していたので、きっと一般的には青色のジャンパースカートや胸元の赤いリボンなど大した彩りでもないのだろう。
何もすることがない孤独な時間、わたしは膝を抱えてベッドに座っていることが多かった。打ちっ放しのコンクリート壁には何の模様もない。あちこちから伸びた無数の配線が這うコンクリート床。部屋に散らばる何かの検査器具、ビーカー類。空になった薬品棚。衣類が入れられたキャビネット。部屋は暖かくも寒くもない。物音もしない。変化もない。そんな部屋の中でわたしはただひたすらじっと座っていた。
時間や日にちの感覚はほとんどなく、またそもそも昼夜があることすら知らなかったが、決まった時間になると消灯され、また決まった時間になると点灯するので、それに睡眠のサイクルを合わせていた。
生理現象以外にほとんど活動らしい活動をしなかったわたしにとって、たまに訪れる白衣の大人は、たとえ何をされているのかわけが分からなくとも、刺激にはなった。何故なら彼らはわたしの一部分でも研究室の一部分でもなく、完全に切り離されて自律的に活動する存在、つまりは他者だったからだ。どうやら研究室には外というものがあり、そこにはわたしでない他者がいるらしい、というおぼろげな認識を独りきりの研究室に棲むわたしは得た。
しかし、わたしは自ら研究室の外へ足を踏み出すことをせず、また他者への興味も認識をした段階で薄れた。しょせんわたしの身体を勝手に調べては去っていくだけの存在。定時にともりわたしの目に刺激を加える天井の明かりとさほどの違いはない。
ところが、一人だけ例外がいた。それは白衣を着た科学者以外で唯一わたしに会いに来る人間で、碇ゲンドウという名の大人の男だった。
彼は科学者たちが決して話しかけようとしないわたしに話しかけた。当初彼のいうことはほとんど理解できなかったが、次第にわたしは言葉を覚えていった。
また、『綾波レイ』がわたしの名前であるということも彼から知らされた。その音が科学者たちがわたしを呼ぶ際に使うただの合図や識別符号ではないという事実にわたしはいささか戸惑いを覚えたが、確かに碇司令から名前を呼ばれることはそれまでとは違う感覚だった。
不思議なことに碇ゲンドウ、つまり今でいうところの碇司令は、わたしに対して実験対象という以上の気遣いを見せた。彼はしきりにわたしの居心地が悪くないかを気にしていた。もちろん、わたしはそれに対して首を横に振った。当然だ。あの場所以外の環境を知らなかったのだから。そうすると決まって碇司令は安堵したような、もどかしそうな奇妙な表情を浮かべた。
何度か碇司令の大きな手がぎこちなくわたしの頭の上に置かれたことがあるのを強く憶えている。一番初めのときには、それまでそんなことをされたことがなかったので、一体何の合図だろうと不思議に思ってわたしが見上げたら、碇司令はわずかに怯んだような表情を見せてわたしの頭から手を離した。わたしにはわけが分からなかったが、名前のときと同様に彼の手の感触は、得体の知れない実験や検査のために触れてくる科学者たちの手とは違うということが、ひどく印象に残った。
碇司令からの躊躇いがちな接触が何度か続いたあるとき、思い切って彼に訊ねてみたことがある。
「なんであたまをさわるの?」
わたしと並んでベッドに腰かけていた(研究室に椅子などなかった)碇司令はしばらくいい淀んだあとにこう答えた。
「……すまん。嫌だったか」
訊き方を間違えた、とわたしは思った。わたしが知りたかったのは彼の行為の理由、あるいは意味だ。嫌とかそういうことではない。だから、慎重に言葉を選び直して(まだ言葉に慣れないわたしにとってそれは大変な苦労だった)再度問い質した。
「しれいがあたまをさわると、わたしになにかおこるの?」
わたしの言葉に碇司令は虚を突かれたようだった。彼は「ああ」とか「うむ」とか口ごもったあとに、かすかに苦笑したのだろう、独り言を呟くように小さく答えた。
「考えたこともなかったな。しかし、わたしがそうしてやるたび、確かにあの子の中で何かが起きていたのかもしれん」
わたしはその言葉を理解できず、彼の顔をじっと見つめた。彼の視線は眼鏡越しにその大きな手のひらに落とされ、ここにはいない誰かのことを考えているようだった。それが『あの子』のことだと気付いたわたしは、わたしの内部で起きているのかもしれない『何か』についてはひとまず追求することをやめて、『あの子』について訊いた。
「あのこってだれ?」
「わたしの子どもだ。お前と同じくらいの歳の男の子だ。レイ」
「なんていうの?」
「シンジ」
碇司令に子どもがいると知ったときの気持ち(そんなものがあるとして)をどういい表せばよいのかわたしには分からない。
いずれにしても、幼いわたしにとって司令は不思議な人だった。特別な人だったといい換えても差し支えない。しばらく経ってわたしという存在の意味や碇司令の目的を知ったあとになってからも、わたしはあのころの印象を忘れたことはない。
碇司令との会話によってわたしがずいぶん言葉を覚えたころ、研究室にやって来る白衣の大人たちが姿を現さなくなり、代わりに一人の女性が訪れるようになった。
その女性が赤木リツコ博士だ。以降中学校へ入学するまで、わたしは彼女から文字やその他の様々なことを学ぶことになる。
そして今、あのころと同じように(本当に同じ?)独りベッドに腰かけて、あのころと違って(本当に違う?)灰色の壁や虚空ではなくクマタローを眺めながら、わたしはそういった昔のことを思い出している。
もちろん、別にわたしの過去がとりたてて重要だというわけではないし、わたしの過去とクマタローには何の接点もない。しかし、このぬいぐるみを見つめ続けていると、考えずにはいられなくなる。
わたしの世界があの狭く静かな研究室だけだったころにも、外の世界のどこかに碇くんは確かに存在し、クマタローとともに寂しさ(わたしが知らないという)に耐えていた。
わたしが研究室の壁を独り眺めていたそのとき、碇くんはどうしていたのだろう?
わたしが碇司令と会話していたそのとき、碇くんは何を思っていたのだろう?
思いを馳せたところで分かるはずもないのに、わたしはそんなことを考え続ける。
あるいはクマタローならわたしの疑問への答えをすべて知っているのかもしれない。しかし、彼は何もしゃべらない。答えない。表情も動かさない。当然のことだ。しかし、当然と分かっていても、なおわたしの視線は吸い寄せられるようにクマタローへ向けられ、そのたびに同じことを考えた。
キャビネットの上のクマのぬいぐるみは常に口元をにっこり笑わせている。
毎日その姿を見ているうちに、わたしはクマタローと会話を交わすことができればいいのに、と思うようになっていた。
意味はないかもしれない。
しかし、それでもわたしは誰かと何かを話したかった。
なかがき(?)
私のお話にお付き合い下さり、ありがとうございます。
「i am here for u.」は6番目のお話で折り返す予定です。
今回は「5.綾波レイ」でした。
本当は、全部書き上げてからお見せしたかったのですが、まだ出来上がっておりません。
でも、ジュン様やご感想を下さった方に「12月中には仕上げます!」などと偉そうなことを申し上げてしまった手前、
せめて少しくらいはお見せしなければと考え、ひとまず今回掲載して頂くことに致しました。
完結までお付き合い頂ければ幸いです。できるだけ早く仕上げられるよう頑張りたいと思います。
ありがとうございました。
rinker/リンカ
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