リンカ 2012.06.23 |
11.シンジ part.1
青い空を裂くように、使徒は姿を現した。信じられないほど巨大な生命体。自らの身体を爆弾とする、暴力そのものが形を成した生物が、ぼくたちが暮らす街に落ちてこようとしている。
刻一刻と変化するコンピュータの誘導に従って進路を微修正しながら、ぼくは使徒の着弾地点を目指して走っていた。正確にはぼくの操縦する初号機が、ということだけど、思考伝達による特殊な操縦法を用いるエヴァは、パイロットにも体感が伝わるので、ぼく自身走っている感覚がある。
脚の筋肉は膨れ上がり、張りつめて弾けそうだ。蹴られた地面が砕ける感触も足の裏に感じる。繰り出される脚の回転があまりに速いので、巻き起こる轟音は、ひとかたまりの雷雲が地面をえぐりながら駆け抜けるのに似ていた。
エヴァからのフィードバックのおかげか、超高速で走っているので本来ならぼくの感覚では捉えられない周囲の様子が知覚できる。一秒にも満たない時間が引き伸ばされて、周囲の状況がくっきりとした輪郭を持って認識できるようだ。
その引き伸ばされた、長い一秒の中で、もっと速く、とぼくは願った。
懸命に、何度も繰り返し、もっと速く、速く、速く!
落ちてくる巨大な使徒への恐怖がなかったとは言わない。ぼくたちが作戦に失敗し、使徒が第三新東京市を直撃すれば、間違いなくみんな死ぬ。しかも計算上、その確率はとても高い。自分を信じ、仲間を信じると簡単に言うけれど、現実を動かすには信じる以上の力が必要だ。
その力が今、欲しい。
出撃前、発令所からエヴァの収容デッキへ向かうエレベータの中で、アスカがぼくに質問してきた。
「シンジはなぜエヴァに乗るの?」
三人きりのエレベータの箱の中で、綾波は入り口側の角、それと向かい合う奥の角にぼく、そして二人の対角線の中央にはアスカが立っていた。アスカと綾波二人の視線を向けられて、ぼくはその言葉に考え込んだ。
そもそもの始まりは父さんにいきなり呼び出されたことだった。やって来てみれば電車は途中で止まり、空には戦闘機、ビルの間に怪獣。ミサトさんが迎えに来て、あれよあれよという間に初号機の大きな顔の前に立っていた。
本気で拒否しようと思えば、たぶんできたんだろうと思う。自分が拒否した結果を引き受ける覚悟さえあれば……、ううん、もしかしたら何も引き受けないという覚悟かもしれないけれど。
でも、ぼくには拒否できなかった。ミサトさんやリツコさんがあの場で言ったことが問題だったわけじゃない。ただぼくは、父さんがそこにいたから。内容はどうあれ、ぼくを必要とした父さんの期待に応えたいと、心のどこかで思ってしまったから。だから、拒否できなかった。
確かにそれが始まりには違いなかった。でも、二度乗り、三度乗り、四度乗り、と続けるうちにそれだけではない気持ちが芽生えていたように思う。
なぜエヴァに乗るのか。もちろんアスカは知らずに訊いたのだろうけど、それはぼくにとっておなじみの疑問だった。なぜぼくはこんなことをしているんだろう。そう思い悩むたびに高いところから見下ろしていた街の光景を思い浮かべる。あの光景を眺めている時の気持ち。見下ろす街に暮らす人たちのことを考えた時の気持ち。
「好きだから……」
呟くように答えたぼくに向かって、アスカと綾波の視線が集まるのが感じられた。
「この街が好きだから。この街のみんなが好きだから。いきなり呼び出されてこの街へ来て、何かとんでもないことに巻き込まれて、つらいことも苦しいこともたくさんあるし、嫌になって逃げだしたくなることも、本当に逃げ出そうとしたこともあるけど、それでもぼくは今自分が暮らしてるこの街と、ここで出会った人たちのことが好きなんだ。だから、守りたい」
「……好きだから、守りたい?」
綾波が繰り返した言葉に、ぼくはくちびるをぎゅと結んで頷いた。
「うん。人類が滅亡するとか、世界を救うとか、スケールが大きすぎてぼくには身近に感じられない。でも、自分が好きな人たちのことは守りたい。ネルフや学校のみんな、この街の人たち。みんな守りたい。これは命令とか強制とかされたからじゃなくて、ぼくがそうしたいから。だから、ああそっか、ぼくは自分のためにエヴァに乗るんだ」
突然霧が晴れるように、頭の中が明確になるのが分かった。これまでずっと思い悩んできたことは、実はものすごく単純なことだったんだ。それを発見して、少し嬉しくなった。
「ああそっか、って自分でも今分かったの?」
「うん。そうみたい」
「やれやれ、あんたって、ホーントぼけぼけっとしてるわよね」
肩を竦めかぶりを振ってアスカは毒を吐いたけど、彼女の声の調子がどこか好意的なことに気付いて、ぼくはくすぐったくなった。
「で、その好きな人の中にはさ」
「うん?」
「中には、あ、あ、あた……」
「あた? あた……何?」
「や、やっぱり何でもない」
何かを言いかけてやめたまま、怒ったような顔をして、アスカはぷいとそっぽを向いてしまった。最初はぽかんとそれを眺めていたのだけど、でも何となく彼女の言いたかったことが分かったような気がして、思わずくすりと笑いがこぼれた。そうすると、彼女はそっぽ向いた顔をますますそむけ、後ろ向きになり、しまいには一回転して、また正面から向き直ると、恨めしそうにこちらを睨んできた。
アスカがとても怒りっぽいことをぼくはよく知っている。その怒り方が激しいことも。普段なら後ずさりながらすぐに謝るところだ。でも、この時はちっとも彼女が怖くなかった。それを自分でも分かっているのか、アスカは怖い表情を必死に作ろうとしているけど、はっきり言って逆効果だった。
「わたしも好きな人を守りたい」
背後からささやかれた言葉に、ますます目を吊り上げていたアスカが振り返り、ぼくもそちらへ視線を向けた。綾波は胸元に手を置いて、花開くような表情を見せていた。みとれているぼくとアスカに向かって、綾波は穏やかな声で言葉を続けた。
「赤木博士や、今はここにいないけれど碇司令。もちろん碇くんとアスカのことも。本当に好きだから。だから、守りたい。そして一緒に未来を生きたいの」
「レイ……」
アスカは感に堪えないという声で綾波の名を呼んだ。
「それに、まだ本当に好きかどうかは分からないけど、これまでにわたしが出会った人たちも。洞木さんや学校の同級生たち。先生たち。ネルフの人たち。いつも行くコンビニの店員さんや、まだ名前も顔さえも知らないけれど、この街ですれ違うたくさんの人たちのことも守りたいと思う」
ここ最近の綾波が変わってきていることは知っていたけど、出会った当初のころと比べてみれば、その変わりようには本当に驚かされる。まさか彼女がこんなにも表情豊かになるだなんて、想像もしなかった。
あ、でも思い起こしてみれば、ずっと前に父さんのことで口論して、怒った綾波からビンタされたな。やっぱりあのころから内側には豊かな感情があった、ということなんだ、きっと。
綾波と視線が重なり、通じ合うものにぼくたちは頷き合った。
「ぼくも綾波とアスカのことを守りたいと思っているよ」
その言葉と合わせてアスカのほうへ含みのある視線を送った。さっきアスカがぼくに訊ねかけたことは、つまりこういうことなんだと思う。彼女のほうもそれを察したのか、こちらを見てぼくと目が合うと、また慌てて綾波のほうへ向き直った。何だかさっきからくるくる回転してばかりいる。
ぼくに後頭部を向けたアスカが口の中で何かごにょごにょと呟いたけど、ドイツ語なのか聞き慣れない言葉だったので、何を言っているのかまったく分からなかった。ここは追及しないでおくのが察しと思いやりというものかな、と天井を見上げると、そんなことお構いなしに綾波がアスカに呼びかけた。
「アスカ?」
「な、な、何?」
必要以上にびっくりしてみせたアスカは両手で髪の毛の先を握りしめて、威嚇するネコみたいに身構えた。
「アスカもわたしを守ってくれる?」
見るからに儚げな美少女からこんなことをささやかれて拒否できる人間はめったにいないだろう。もちろん、アスカも例外ではなかった。
「と、とーぜんでしょ。あたしたちは友達じゃない。あたしもレイが好きだし、絶対に守ってあげるわ」
仁王立ちになったアスカは胸をどんと叩いて頼もしく言った。
「碇くんのことも?」
その一言に、頼もしげな体勢のまま今度は固まってしまったアスカを後ろから眺めていたぼくは、たまらず笑い声を漏らしてしまった。すぐさまアスカが反応してこちらに顔を向け、遅れてついてきた赤い髪の毛が肩の上でふわりと膨らんでまた落ちる。
しばらく歯を食いしばって何やら葛藤していたアスカは、やがて大きな深呼吸を一つすると、腰に手を当て胸を張って、声を張り上げた。
「あんたのこともついでに守ってやってもいいわ。ただし、足手まといにはなるんじゃないわよ!」
綾波が変わったように、アスカもまた以前とは変わった。出会ったころの彼女なら、お互いに守り合うなどという考えは軟弱なものとして即座に切り捨てたに違いない。
確かに世の中には一人でも充分に強い人間というのがいるのかもしれないし、それはそれできわめて優れたことなんだろう。でも、仲間同士お互い支え合うことで得られる強さもあると思うし、また強さだけがそこから得られるすべてでもないと思う。
それにこの気持ちは、見返りを求めて出てきたものじゃなくて、もっと自然にこの身の奥深くから湧き出してくるものだ。
湧き出してくる自分の気持ちに素直に従いたい。
ぼくがエヴァに乗って戦う理由を突き詰めれば、結局はそんなシンプルな答えに行き着く。
鼻息荒く、ほおを紅潮させてこちらを睨むアスカの宣言を聞いて、ぼくはまたしてもくすくす笑いがこみ上げてきてしまった。
「何がおかしいのよ!」
悔しそうに噛みついてくるアスカに向かって、ぼくはかぶりを振って弁解した。
「いや、何でも……」
実際、アスカの様子がおかしくて笑ったわけじゃない。ただ、嬉しかったんだ。
「アスカ、綾波」
ぼくは二人の仲間に呼びかけた。四つの瞳がこちらにまっすぐ向けられる。たぶん、ほんの少し前までのぼくなら怯んでしまったであろうその視線を今は落ち着いて受け止めることができた。受け止めて、こちらから微笑み返すことができた。
「頑張ろう」
全速力から急ブレーキをかけると、初号機の両足が地面を削りながら何百メートルも横滑りした。見あげると頭上いっぱいに使徒の身体が広がっている。その中央で無機質な眼差しがこちらを見下ろしていた。
絶対に落とさせない、という意思を高く持ち上げた両腕とともに頭上の眼差しの主へ向けて放つ。
使徒の意思はすべての破壊。放った意思の先端が使徒のそれに触れた途端、ものすごい負荷が両腕から全身を貫いた。
筋肉という筋肉、あらゆる関節、身体中のすべての骨が悲鳴を上げる。質量を伴った意思がこちらを押し潰そうとし、ぼくは必死になって抵抗する。エヴァの足が地面に埋まり、いたるところで筋肉と皮ふが裂けて体液が噴き出す。その苦痛は生々しくぼくにも伝わっている。
それでも、この手は放さない。決して諦めない。自分自身のため、大好きな人たちのため、諦めたくない!
ぎりぎりと軋みを上げながら緩慢に進む一秒のあと、使徒を支えるぼくの手に別の手が重なる感覚があった。それも続けて二つ。考えるまでもなく、誰の手かぼくには分かっていた。実際にはエヴァ同士の手が直接重ね合わされたわけじゃない。でも、彼女たちの心がぼくの心と重なり、一つになって、巨大な使徒を押し返すのがはっきりと感じられた。
これが、そうなんだ。
永遠にも思われた次の一秒の中で、確信が静かに舞い降りてきて、ぼくの一番奥深いところまで到達した。
重ね合わされた手。
欲しかった力は、今ここにある。
コアを刺し貫かれた使徒の爆発は、地表に大きな爪痕を残した。
でも、ぼくたちは勝った。また一つ未来を掴んだんだ。
帰還した発令所でやっとリツコさんとレイが落ち着いたころ、ぼくたちと一緒に二人の様子を眺めていたオペレータの青葉さんが、急に緊張感のみなぎる声でミサトさんに報告した。
「電波障害が回復しました。南極の碇司令から通信が入っています」
ぼくははっとしてそのやり取りを見つめた。
「お繋ぎして」
こちらも緊張した面持ちでミサトさんが答え、青葉さんがコンソールパネルを手早く操作すると、ミサトさんの正面に小さな投射ウィンドウが現れて、そこから父さんの声が聞こえてきた。
「今しがた使徒殲滅の報を受けた。よくやってくれた、葛城三佐」
「申し訳ありません。わたしの判断で初号機を破損しました。今回の作戦の責任はすべてわたしにあります」
「構わん。きみは困難な状況をよく突破してくれた。パイロットも全員無事と聞いている。この程度の損害で済んだのは幸運だろう。礼を言う」
父さんの最後の言葉にミサトさんの目が見開かれた。もちろん、ぼくも同じだ。自分の父親にこんな印象を持つのはどうかと思うけど、父さんは他人をねぎらうような人間にはとても見えない。実際、その場にいたほとんどの人間は、父さんの言葉に驚いたようだった。
「は、ありがとうございます」
それでもミサトさんは身に付いた習慣からか、直立不動を保ってきびきびと返事をした。
何の映像も映していない投射ウィンドウは少し口ごもり、ややあって咳払いするような気配とともに言った。
「そこにパイロットたちはいるか」
「全員おります」
ミサトさんが答えると、一呼吸置いて、父さんの声が呼びかけてきた。
「シンジ」
「はい」
名前を呼ばれて、ぼくは震える身体から返事を絞り出した。父さんと言葉を交わすのは一体いつ以来のことだろう。何を言われるのか身を固くして待っていると、父さんはまたしても意外な言葉を投げかけてきた。
「話は聞いた。よくやってくれたな、シンジ」
ぼくは自分の耳を疑った。父さんに褒められるなんて、それこそ記憶にもないような出来事だ。四歳で先生のもとに預けられて以来、初めてかけられた父さんからの優しい言葉に、ぼくは不覚にもその場で泣き出しそうになり、こぶしをぎゅっと握って懸命に涙をこらえた。
「よく頑張ってくれた。シンジも、あとの二人もだ」
「は、はいっ……」
わななくあごを引き、何とか返事をする。
さらに何かを言いよどむような間を置いて、父さんは言葉を続けた。
「十日ほどで戻る。またそちらで会おう」
そのまま通信が切れてしまいそうな気がして、ぼくは必死になって小さな灰色のウィンドウに向かって呼びかけた。
「父さん!」
「どうした、シンジ」
何かを言うつもりで呼びかけたはずなのに、あまりにもたくさんの言葉と感情が皮ふの内側で渦を巻いて、結局舌に載せることができたのは他愛ない一言だった。
「父さんも気を付けて帰って来て」
その一言が落とした沈黙の中で、あるいはこれこそが長年言いたかった言葉なのかもしれない、と不意に思った。
ぼくは、かつて去った父さんがぼくのもとへ帰って来るのをずっと待ち続けていたのではなかったか。待ち続け、願い続け、どんなに擦り切れ破れ目を作ろうとも、この想いだけはついに手放すことができなかったのではなかったか。
「……ああ。お前も今日はよく休め」
「うん」
この十年、ぼくたちの間に家族としての交流はほとんど無きに等しかった。四歳からぼくは他人である先生に育てられ、父さんや母さんとともに暮らした記憶などすでに残ってはいない。先生に預けられてからこの街に来るまでの間にぼくが父さんに会えた回数を数えるには両手の指があれば事足りる。
しかし、それでもぼくたちは家族なのだ。家族としてあり続けたいと願うこの心がある限り、ぼくたちの絆が断ち切られることはないのだ。
「わたしが戻るまで引き続き頼む、葛城三佐」
「はい。お任せください」
通信が切れると、それまで直立不動を保っていたミサトさんの背が丸まり、大きなため息が吐き出された。
「ため息はないんじゃない、総司令代理?」
ミサトさんの背中にリツコさんがからかうような言葉をかける。
「だって絶対怒られると思ったんだもの。それにしても今日の司令は何かご機嫌っていうか、いつもと様子が違ったわね」
と、ミサトさんはぼくのほうへ意味ありげな視線を向けた。
確かに父さんの様子はこれまでと違うようだった。でも、あまりに感極まっていたぼくには、その理由を考えるだけの余裕がなかった。
「司令のおっしゃる通り、よくやってくれたわ、三人とも。この後医学部で診察を受けてもらって、問題なければ車で送らせるから、今日はゆっくり休んでちょうだい」
「はい。ミサトさんたちはまだお仕事があるんですね。たくさん街に被害が出ましたものね。爆発で大きなクレーターができたし」
「まあね。でも、誰も死んだり怪我をしたりしてないわ。だから、あなたたちが気にすることは何もないのよ。そういうことであなたたちを煩わせないこともわたしたちの大事な仕事なんだから」
気にすることはない、とミサトさんは軽く言うけど、作戦後に本部へ帰還する途中、エヴァ三機が今回の作戦によっていかに大きな破壊を引き起こしたか、ぼくたちは目の当たりにしていた。誰も死ななかったとはいえ、経済的な損失だけでも相当なものになるはずだ。ミサトさんやリツコさんや、他のネルフの人たちは、そういった責任をすべて負ってくれている。これまであまり意識したことがなかったけれど、実はぼくたちはこうして守られているのだ。
「じゃあ、そういうことでいいわね」
「ちょっと待ってよ。ごちそうしてくれる話はどうなったの?」
口を挟んだのはアスカだった。その一言で、自分がものすごく空腹なことを思いだした。作戦待機中から何も食べられなかったから、もう背中とお腹がくっ付きそうだ。たぶんアスカも綾波も、というより今ネルフにいる全員が同じだろう。
「あらら、そうだったわね。でもアスカ、今日これからはたぶん無理よ。避難していた人たちは今戻ってきている最中だし、やってるお店ほとんどないと思うわよ」
「えーっ、そんなぁ」
「しょうがないよ、アスカ。帰ったらカップ麺か何かあると思うから、今日はそれでいいじゃない」
ぼくの言葉にアスカは納得いかないようにほおを膨らませ、それから急に閃いて言った。
「そうだ、ここの食堂は?」
「申し訳ないけど、食堂の職員はD級以下、つまり避難していていないの」
苦笑交じりのリツコさんの答えにアスカはがっくりと肩を落とした。
「期待してたのに……」
「ごめんね、三人とも。ごちそうは明日ってことで、今日のところは我慢して」
「わたしは構いません。葛城三佐」
「ぼくも」
聞き分けの良いぼくと綾波をうらめしげな眼差しで見やって、アスカはふてくされた声で返事をした。
「はぁーい。何よ何よ、いい子ちゃんばっかりなんだから……、あ、そうだ!」
ところが、ふてくされていたと思ったアスカがまた何か閃いて大きな声を上げた。
「シンジ、野菜とかお肉とか買い置きはあるわよね」
「うん。確かあったと思うよ」
「よしよし。それじゃこうしましょ。今日はうちに来なさいよ、レイ。一緒にごはん作るわよ」
「一緒に?」
目をぱちくりさせる綾波に向かって、アスカはにんまりと笑って言った。
「そ、一緒に」
「あのー、ぼくは疲れてるから別にカップ麺でも……」
「何バカなこと言ってるの。あんたも一緒に作らないでどうするのよ。はい、決まり決まり。それじゃとっとと診察受けに行くわよ」
「わたし、お肉嫌い」
「分かってるってば」
一人で勝手に話をまとめてしまうと、アスカは綾波の手を引いて小走りに駆けて行ってしまった。二人とも元気だなぁ、身体痛くないのかなぁ、と何となくそれを呆然と見送っていたぼくの背中を平手でばしんと叩いて、ミサトさんが言った。
「ほら、二人とも行っちゃったわよ?」
「痛つつ……。それじゃ、ぼくも失礼します」
「明日は本当に期待していいからね。二人にも伝えておいて」
「そんなこと言うと、またアスカがとんでもないこと思いつきますよ」
「いいのよ、あの子はそうでなくちゃ。シンジくんとレイももっと無茶言っていいのよ」
「……そうですね。考えてみます。じゃ、これで」
「ええ。頑張ってね」
これから家に帰ってごはんを食べるだけなのに、どうして「頑張って」なんだろ?
ミサトさんの妙な声援を背に受けて歩き出しながら、ぼくはちょっと首をかしげて考えた。
ま、いいんだけどね、別に。
それより湿布はもらえるのかなぁ……。
翌日には早くも学校が再開されて、ぼくたちは普段どおりに登校した。といっても、前日に綾波がうちに泊まっていったので、この日は三人揃っての登校であり、この点はいつもと大きく違う。
登校する生徒の数がいつもより少ないような気がするのは、まだ昨日の避難から戻ってきていない人間がいるせいだろう。中には避難したまま戻ってこないという選択をした者もいるに違いない。無理もない話だ。この街は決して安全ではないのだから。それでも、ぼくは最後までこの場所を守って戦いたい。
教室へ着くと、友達のケンスケとトウジが手を振ってこちらに寄ってきた。
「よぉ、シンジ。昨日はまたやってくれたみたいだな」
眼鏡をかけた小柄なケンスケの言葉に、教室内の他のみんなの視線が集まるのを感じた。ぼくたち三人がエヴァパイロットだということは、クラス全員が知っている。これは登校したての時期にぼくがうっかり漏らしてしまったのが主な原因なのだけど。
「今回は怪我もしてへんやないか。楽勝やったゆうことか」
スポーツ刈りでなぜか一人ジャージー姿のトウジが特徴的な関西訛りで言った。フィードバックシステムを備えたエヴァでの戦闘が怪我の絶えないものであるのは事実で、戦闘後の入院もこれまで何度もしている。その意味では筋肉痛だけで済んでいる今回はむしろ珍しい部類だ。
「分かってないな、トウジ」
「何がや?」
「第三新東京市どころかその周囲五十キロまで避難指示が出てたんだぜ。しかも今回は地下シェルターは駄目だっていうんだ。それだけやばい状況だったってことじゃないか。大体お前ニュースは見てないのかよ。昨日のうちに新しい芦ノ湖ができちまったって。あれも使徒のしわざなんだろ?」
と問いかけるケンスケに、ぼくは曖昧に答えた。
「まあ、そんなとこかな」
「下手すりゃこの街が全部吹っ飛んでたかもしれないってことだ。箱根が消えて日本一大きな湖が誕生していたかも。それを食い止めるのが楽勝だったはずがない」
時々ケンスケはものすごく鋭くなる。以前はお父さんのパソコンから情報を盗み見たりしていたようだけど、一度こっぴどく怒られてからはそれもしていないということなので、もともとこうした洞察力に優れているのだろう。そのことに感心すると同時に、ぼくは答えに困って、また曖昧に苦笑した。
「そうやったんか……。すまんシンジ! そんなことも知らんと、わいは無神経なことを」
「い、いいって、トウジ」
その点、トウジは単純だ。といっても、それは全然悪い意味ではなく、むしろぼくは、彼の素直さをいつもうらやましく思っていた。
「何にしても、今回も無事でよかったよ、シンジ」
手を合わせて頭を下げるトウジをやや呆れた目で見やったケンスケは、気を取り直すように言って、軽くぼくの肩を叩いた。その途端に肩から痛みが走り、ぼくは思わず顔をしかめた。
「痛っ……」
「あ、悪い。やっぱりどこか怪我してるのか?」
心配げにこちらを見るケンスケとトウジにかぶりを振って答えた。
「ただの筋肉痛だから大丈夫」
「筋肉痛? エヴァに乗ってか?」
「何やよう分からんけど、シンジもほんま大変やな」
フィードバックシステムのことや戦闘の詳細を明かすわけにも行かず、ぼくは苦笑するしかなかった。
すると、後ろから突然言葉が投げかけられた。
「さっきから聞いてればあんたたち、戦ったのはシンジだけじゃないのよ」
居丈高な声に振り返ると、アスカが腰に手を当てた得意のポーズでこちらを見ていた。目線の高さは同じくらいなのに、なぜか見下ろされているような気がするのは、さすがはアスカ、と妙なところで感心してみたりしていると、トウジが隣のケンスケをひじで小突いてひそひそ言った。
「別にそんなこと言うてへんやろ」
「自意識かじょー、自意識かじょー」
ケンスケもアスカを揶揄する言葉をひそひそと念仏のように繰り返す。
二人の印象は、実はそれほど間違っていない。確かにこれまでのアスカなら、まず第一に、そして最大に、自分が注目されていなければ我慢ならないと考えるところだ。これまでの彼女なら、きっとこんな時こう言うだろう。「使徒なんてあたし一人いれば充分。何てったって、このあたしがエースパイロットなんだから!」と。ケンスケやトウジだけでなく、たぶん教室中の誰もが同じことを思っているに違いない。
みんなの注目が集まる中で、アスカならその台詞を言う時こんなポーズを取るだろうと、まさにぼくが想像したとおりに、彼女は脚を肩幅に開いて直立し、反らした胸に芝居がかった仕草で手のひらを当てた。そして、一字一句スタンプを押すようなくっきりした発音で、彼女は言った。
「あたしたちは三人で戦ったんですからね。あたしと、シンジと……」
アスカは言葉を切ると、彼女の斜め後ろで成り行きを見守っていた綾波を引き寄せ、しっかりと肩を抱いてから、にんまり笑って先を続けた。
「レイと。三人で力を合わせて得た勝利なのよ。そこのところを間違わないでね。あたしたち三人がいれば、どんな敵が来ようと返り討ちよ」
おそらくはぼくと綾波を除いてクラスの誰も予想しなかった言葉を聞き、一瞬水を打ったように教室中が静まり返り、それから拍手と歓声が沸きあがった。何が起こったのかいまいち理解していないという表情の綾波とほっぺたをくっ付け合ったアスカは、にんまり顔でこちらを見、ぼくと目が合うとウィンクして寄越した。彼女のその仕草に、なぜかほおが熱くなったぼくは、かろうじて笑顔を返すことに成功した。
「何やねんな、これは……」
「最近は絶好調って感じだな」
アスカと綾波を中心とした教室の騒ぎは、ホームルームの時間になって先生が入ってくるまで続いた。
昼休憩になり、ぼくとケンスケとトウジは机を寄せて集まってお弁当を広げた。箸をつけるかつけないかというところで切り出したのは、もちろんケンスケだ。
「で、どういうことなんだよ、シンジ」
「どうって?」
「バカ、決まってるだろ」
ケンスケの目配せに、ぼくは教室の扉を振り返った。つい先ほど、その扉からアスカと綾波と洞木さんの三人が、お弁当を手に連れ立って出て行くのを目撃したばかりだ。この数日で恒例となりつつあるけれど、今までのことを考えれば目を疑うような光景ではあった。
「綾波と惣流のことだよ。特に惣流の変わりようは気味が悪いくらいだぞ」
「気味が悪いって……そこまで言うことはないんじゃない」
歯に衣着せない友人の言葉に、ぼくはさすがにアスカをかばった。
「いやいや、シンジ。だってあの惣流だぞ? 綾波のことをあからさまに毛嫌いしていたのはみんな知ってるし、今朝は今朝で『三人力を合わせて』と来た。何でも自分が一番だったあいつがだ。誰が見たっておかしいよ。お前だってそう言ってたじゃないか、トウジ」
ケンスケに話を振られたトウジは、しばらく口の中の食べ物をもぐもぐと咀嚼してから、やっと飲み込んでこれに答えた。
「せやな。別に悪口言うつもりはないけど、いつものあいつからしたら不自然やな」
「トウジまでそんなこと」
「いやまあ、センセほどあいつのことを知らへんわいらから見ると、けったいな感じがするっちゅうことや」
ぼくの咎めるような視線に罪悪感を覚えたのか、トウジは言い訳めいた言葉を付け加えた。
「俺たちはしょせん学校での姿しか知らないわけだからな、惣流にしても綾波にしても」
「うん……」
「でも、お前は違うだろ? だから、二人に何があったのか知ってるんじゃないかと思ってな」
「それで、『どういうことなんだ』って?」
「ああ。ぶっちゃけると、惣流の性格が本当によくなったんなら、写真の売り上げ倍増が見込めるからな。俺にとっちゃけっこう重要な問題なんだよ」
「ケンスケ!」
ケンスケのショッキングな告白に思わず席から腰を浮かして身を乗り出すと、彼は笑いながら手を振った。
「冗談だよ、シンジ。そんなに怒るな」
「べ、別に怒ってなんか」
座り直したぼくを見て、ケンスケはずり落ちた眼鏡を持ち上げて言った。
「つまり、不思議なのさ。惣流の性格に難があることは、少なくともクラスのみんなならよく知ってる。簡単に自分の態度を変えるような奴じゃないってこともね。なのに、どうして変わったのか。よほどのことがあったのか。お前たち三人の前では言わないけど、みんな不思議に思ってるんだ」
「そうだったんだ……」
確かにぼくたち三人は、普通の学校生活とはかけ離れた物事に係わっている。そんなぼくたちだから、クラスのみんなからすると想像だにできないようなことが起きたと思われるのも、無理はないのかもしれない。
「ちなみにお前と何かあった、というか付き合うようになったのが原因じゃないかと一部では噂されている。主に女子の間でだけどな」
自分たちエヴァパイロットとクラスメイトとの距離というものに思わず考え込んでいたぼくは、さらりと付け足されたケンスケの言葉を聞いて、ずっこけた。
「違うのか?」
さも意外だと言わんばかりのケンスケをにらみ、ぼくは最大級のため息とともに言い返した。
「当たり前だろ。何をどうしたらそういう発想に行き着くんだよ」
「同居までしてる奴が何を言う」
みんなが思っているほどアスカやミサトさんとの同居は色気のあるものではないのだけど、いつまで経っても信じてもらえない。山ほどの反論を飲み込んで、ぼくはがっくりとうなだれた。さっき一瞬でもシリアスになりかけたぼくのほうが馬鹿だったんだ。
「どうやらほんまにちゃうらしいな」
「だな。じゃあ、その線は消えたとして、実際のところどうなんだ、シンジ」
コロッケを突き刺した箸をケンスケがぼくに突き付けたら、トウジがそれを注意した。
「他人を箸で指すのはやめや、ケンスケ」
妹がいるトウジは、意外にこの手のことに細かい。だから、たまにぼくたちに対してもほとんど無意識に注意の言葉が飛び出すことがある。
「ああ、悪い」
友人のそういうところを分かっているケンスケは、素直に謝ってコロッケを刺した箸を引っ込めた。
「どうって、別に特別なことは何もないよ。ただ最近アスカが綾波の買い物に付き合うことがあって、それがきっかけで仲良くなったみたい」
ぼくが知っていることを正直に答えると、二人は拍子抜けした表情になった。
「……それだけ?」
「何を期待していたんだか知らないけど、本当にそれだけだよ。いいことじゃない、あの二人が仲良くするのは」
「惣流が何でもかんでも自分自分って主張しないのも、それがきっかけだって言うのか? どうも信じられないな」
ケンスケが疑わしそうに言うと、トウジも同意して頷いた。
「そない殊勝な奴とちゃうやろ。大体あいつが綾波の世話を焼く姿なんか想像でけへん」
「……きっと、もともとそういう子だったんだよ」
他人のことを放っておけなくて、優しくて、正義感があって。
たぶん、本来のアスカはそういう性格の子だったのではないかとぼくは最近の彼女を見て思う。ケンスケやトウジ、それにクラスのみんなも、今のアスカや綾波に対して何かしら違和感を感じているようだけど、むしろぼくは逆の印象を抱いていた。こちらのほうが本来の自然な姿なのだ。でも、何かがそれを歪めてしまっていた。
歪みの正体までは今のぼくには分からない。けれど、綾波にせよアスカにせよ、よい方向へ変わりつつあることは間違いない。きっかけがどうであれ、ぼくはその事実を喜んでいる。友人として、仲間として、二人が笑いあっている姿を見ると嬉しく感じる。
「そんなもんかねぇ」
「そんなもんだよ」
いまいち信じきれないという風なケンスケにぼくは重ねて言い、手元のお弁当箱に視線を落とした。昨晩一緒に料理したのがよほど楽しかったのか、その延長のように今朝もアスカと綾波は一緒にお弁当を作った。
大きさも形も不揃いなおにぎり。二人ともおにぎりなんて握るのは初めてだと面白がっていた。ぼくの作った二個のお手本はアスカと綾波のお弁当箱の中にそれぞれ入っている。上手く形を整えようと二人で代わる代わる悪戦苦闘した成果の、少し焦げ目が付いた卵焼き。綾波が一つ目の卵を割るんじゃなくて叩き潰したのを見て思わず笑ったら、アスカから肘打ちを食らわされた。ポテトサラダは昨晩のアスカの自信作の残りだ。マヨネーズではなくコンソメとドレッシングで味付けしてあって、ちょっとびっくりするくらい美味しい。下にマヨネーズを敷いたブロッコリーを茹でたのは綾波。ほとんど歯ごたえがないほど茹で過ぎているのは、同時にアスカと二人で卵焼きと格闘していたせいだ。そんな二人を脇で眺め、時々口を挟みながら、残りの食材を使ってぼくが作ったのが野菜炒め。
どれから箸をつけようか迷ってしまう、にぎやかなお弁当だ。見た目は少々悪いかもしれないけれど、蓋を開けたら思わず笑顔がこぼれるようなお弁当を食べるのは、ぼくも初めての経験だ。あの二人も今ごろ屋上かどこかで、ぼくと似たような、いやもっとわくわくした気持ちでお弁当を食べているに違いない。
そんな風なくすぐったい確信があった。
「センセがそう言うならな。今のほうがええ感じなんは確かやし」
「ま、それもそうか。三人力を合わせれば怖いものなしってな。今回で最後じゃないんだろ?」
最後は少し真面目な口調になったケンスケの問いに、お弁当から意識を引き戻されたぼくは静かに頷いた。
父さんならこの問いの答えを知っているのだろうか、と考えながら。
「たぶんね……」
それから一週間が経った。父さんはまだ日本に戻ってこない。
初号機は先の戦闘で負った破損を修復している最中だけど、機体を使わない実験や訓練を行うためにネルフ本部へは通っている。
この日も学校が終わったあとにネルフ本部を訪れ、機体の修復がすでに済んでいる他の二人とは別メニューの訓練を受けることになっていた。
一人きりの訓練を受けていると、この街へ来てまだ間もないころを思い出す。目的もやる気もなく、ただ漫然とゲームのような気分で訓練指示に従っていた。そして、いざ戦闘に出ればそこには恐怖しかない。
でも、今はもう違う。ぼくには大切な仲間や友人がいて、彼らとこの街を守りたいという目的がある。恐怖をなお乗り越える意思がある。
まず更衣室でプラグスーツに着替え、そこから訓練場へ向かって長い廊下を歩いて行く。すると、向こう側から見知った二人組が近づいてくるのが見えた。短髪に眼鏡をかけた男性は日向さん、長髪の男性は青葉さんだ。作戦時に発令所でオペレータを務めているのは大抵この二人と伊吹さんという若い女性だ。特に日向さんのほうは作戦指揮官のミサトさんの部下なので、戦闘訓練でも一緒になることが多く、ネルフの中では係わりの深い部類に入る。
顔がはっきりわかるくらいに近づくと、二人はぼくに向かって軽く手を上げた。和やかな表情はまだ若々しい。ミサトさんよりさらに三つも四つも年下だという話だから、それも当然だ。こちらも軽く会釈し、挨拶した。
「こんにちは」
そのまま通り過ぎるだけと思っていたら、すれ違いざまにポンと肩を叩かれた。
「お疲れさん。これから訓練だろ?」
「え? あ、はい」
思わぬ言葉をかけられて、足を止めたぼくは二人を見た。
「頑張ってな」
そう言ってこちらに笑顔を向けて、日向さんと青葉さんはそのまま歩いて行った。
こんなことは初めてだったので、ぼくは驚いて二人の背中を見送り、それから気を取り直してまた訓練場に向かって歩き出した。
叩かれた肩を反対の手でさする。
「頑張って……か」
自分で呟いた言葉が、くちびるの端をくすぐった。
自分の行動を見守って応援してくれている人が確かにいるのだということ。その肌触りは想像以上に温かいものだった。
いつになく高揚した気分で訓練を終了し、ネルフ本部から地上に出るリニアトレインに一人で乗り込んだ。アスカたちの訓練はぼくよりも早く終わり、すでにネルフを出たあとらしい。今ごろはもう家に帰っているころだろうか、とぼんやり考えていると、当のアスカから携帯電話にメールが届いた。それによると、今日は綾波と一緒に洞木さんの家に泊まるので、夕飯はいらないとのことだ。
「何だ、帰っても一人か……」
車内に誰もいないのをいいことに、ぼくは独り言を呟いた。
ミサトさんはまだ仕事でネルフ本部に残っている。帰ってくるのは夜遅くなるだろう。アスカはメールに書いてあるとおり、綾波とともに洞木さんの家へ。今日はうちへ帰ってこない。
帰宅してもぼく一人だと知った時の気持ちは、一言でいうと落胆だった。自分がそんな風に感じていることに、ぼく自身驚いていた。他人との共同生活というのは、想像以上にストレスがたまるものだ。とりわけぼくのような、コミュニケーションが不得手な人種にとっては、時には苦痛を感じることさえある。だからこそ、アスカもミサトさんもいない、ぼく一人だけの時間が持てる機会は貴重であり、心から歓迎すべきものだった。にもかかわらず、ぼくは今落胆を感じている。ミサトさんの家での生活で、唯一心からくつろげる貴重な時間が得られたというのに、それを完全には喜べずにいる。
一人分の夕食をテーブルに並べ、黙々と食べる。それは静かで、心安らかで、幸せでさえあるひと時だ。
でも、少し寂しい。
ふと足元から聞こえてきた鳴き声に、ぼくはそちらを見下ろした。視線の先では、床に置いたお皿から夕食の魚を食べていたペンペンが、つぶらな瞳でこちらを見上げていた。
「そうだね。ぼくは一人じゃない」
「クルルル」
首筋を撫でてあげると、ペンペンは嬉しそうに翼をバタバタさせて身体を震わせた。
その姿を見て、ぼくはくすくす笑った。
「可愛いなぁ、ペンギンって」
ミサトさんが帰ってきたのは夜十一時を回ってからだった。作り置きしておいた食事を出してあげ、彼女がそれを食べる間にぼくはお風呂に入った。脱衣所で服を脱いでいると、タオルを頭に載せたペンペンがとことこと入ってきた。
「ペンペンも入るの?」
訊ねると、ペンペンはこちらを見上げてはっきりと頷いた。とても賢いペンペンはぼくたちの言葉をよく理解する。
「じゃあ、一緒に入ろうか」
「クエッ」
「男同士の裸の付き合いって奴……ん? ペンペン、オスなんだよね?」
しかしこの言葉には答えず、ペンペンは足元を通り過ぎて先に浴室へ入っていった。
「ま、いっか」
お風呂から上がると、ミサトさんはもう食事し終えて食器を流しに片付けているところだった。
「ごちそうさま、シンちゃん。美味しかったわ」
「はい」
別に大層なものは作っていないのだけど、ミサトさんはいつも必ずごはんのあとに美味しかったと言ってくれる。作るのがぼくだろうとアスカだろうと、たとえ内容がインスタントラーメンだったとしても。
お風呂上りに牛乳でも飲もうと冷蔵庫を開けると、横からミサトさんの手が伸びてきて、ビールの缶を一つ攫っていった。
「今ごろアスカとレイは洞木さんちでおしゃべりしてるのかしらね」
「でしょうね」
あの三人で一体どんな会話をするのだろう? 想像しようとしたけど成功せず、ぼくはかすかにかぶりを振った。いずれにしても、一番口数多くしゃべるのがアスカなのは間違いない。
「アスカがいなくて今日は久々に静かだったでしょ。寂しかったんじゃない?」
その言葉にぼくはどきりとした。見透かされたと思った。でも、間近からこちらを見るミサトさんの目にはからかうような色はない。ぼくはため息を一つ吐き、できるだけ平然とした声で答えようとした。
「そんなことは……」
「ことは?」
こちらの言葉尻を繰り返しながら、ミサトさんはもう一本ビールを抜き取る。
「いえ、そうですね。正直に言えば少し」
いったんは誤魔化そうとしたけれど、途中で考え直し、ぼくは自分の気持ちを素直に認めた。アスカもミサトさんもすでに、一緒に暮らして息が詰まるだけの他人ではない。血を分けた肉親というほど強い絆を感じるわけではないにせよ、ぼくが彼女たちに好意を感じ、一緒にいる時間を心地よいと感じ始めているのは確かだった。夫婦関係とはまた別の次元で、まったくの他人が家族になるというのは、つまりこういう感覚なのかもしれない。そしてぼくが今感じていることは、家族に対して隠すようなことじゃない。そう思ったのだ。
ぼくの答えを聞いたミサトさんは、満足げな笑いを漏らした。
「ふふん」
「言っておきますけど、だからって別に変な意味じゃ……、ミサトさん、まだ二本もビール飲むんですか?」
「一本はペンペンの分よ。シンちゃんも一緒にベランダに出ない? 気分いいわよ」
子どもに対するみたいにぼくの頭をくしゃくしゃやって、ミサトさんはこちらの答えを待たずにベランダへ向かった。その後ろを当然のようにペンペンがついて行く。ぼくはコップに注いだ牛乳と二人の後ろ姿とを交互に見、肩を竦めてからあとを追いかけた。
「いい風が吹いてるわね。シンちゃんもそこに座んなさい」
「はい」
ミサトさんの言うとおり、夜風が風呂上りの火照った肌に心地いい。勧められた椅子に腰かけて牛乳のコップをテーブルに置き、少しひんやりとした夜気を肺いっぱいに吸い込んだ。
「クエッ」
「はいはい。ペンペンは真ん中ね」
翼をバンザイの格好に広げて鳴いたペンペンを当たり前のように持ち上げたミサトさんは、ぼくと自分の間にある椅子に彼(彼女かな?)をちょこんと載せた。
その様子を眺めていたぼくは、ついおかしくて顔をほころばせた。
「ん? どうかした、シンちゃん?」
「いえ、なんだかミサトさんとペンペンがあまりに自然で」
まるで人間の親子のようだ、とぼくは言いかけた。でも、部屋から漏れる灯りに照らされたミサトさんの柔らかな表情を見て、その言葉をひとくちの牛乳とともに飲み込んだ。何だか言葉にするまでもないことのような気がしたのだ。
薄く微笑んだミサトさんはビールのプルタブを開き、口を付ける前に一度掲げてみせた。
「そういえばどうしてペンペンを飼うことになったんです? ペンギンを家で飼うなんて普通じゃないと思うんですけど」
そもそもペンギンの一般流通なんて許されているんだろうか、とぼくは疑問に思った。前にペンペンは新種のペンギンだとミサトさんから聞いたことがあるけど、かといってペンペンの仲間がどこかにいるという話を聞いたこともない。鳥のくせに翼に爪が生えていて、言葉を理解できるくらいに賢く、しかも(これは飼い主のせいかもしれないけど)ビールと温泉が大好き。何とも不思議な存在ではあった。
「ま、色々あってね。引き取り手のなかったこの子を貰い受けたのよ」
ミサトさんは曖昧に答えて、器用にビールを飲んでいるペンペンへ視線を向けた。
「……そういえば綾波が」
ぼくもペンペンを見ながら、一週間前のことを思い起こしながら言った。
「先週、使徒を倒して綾波が泊まりに来た日に、ペンペンを抱っこしようとしたんです」
「レイが?」
「はい。でも、ペンペンが綾波に慣れてないせいか、嫌がって逃げるんです。綾波もあきらめずにそれを追いかける。追いかけっこをしているうちにペンペンが、リビングで座ってそれを見ていたぼくのふところへ飛び込んできたんです。びっくりしたぼくはそばにいたアスカのほうへ倒れ込んじゃって、そこへさらに綾波が突進してきて。それで最後には三人と一匹で折り重なって倒れちゃったんですよね」
「あはは。まるでコントね」
「一番下になったアスカはしっぽを踏まれたネコみたいな悲鳴を上げましたよ。それで、ぼくたちを押しのけてから捕まえたペンペンのひれの下をこう、ガシッと掴んで、『今よレイ!』とか言って。やっとペンペンに触れた綾波は嬉しそうでしたけど、さんざんおなかの肉を揉まれたペンペンには少し気の毒でした」
「柔らかいもんね、ペンペンのおなか」
「その時にね、ネルフのプールに今度一緒に連れて行けないかという話になったんです。ペンペンだってたまには広いところで泳ぎたいんじゃないかと思って。そうすれば痩せるんじゃないの、なんてアスカは冗談で言ってましたけど」
ぼくたちパイロットはネルフ本部にあるプールを自由に使ってよいという許可を貰ってはいるけれど、当然勝手にペットを連れ込んでいいわけがない。仮に可能だとしても、ミサトさんかリツコさんに事情を話して許可を貰わなければならないだろう、と三人で話していたことをふと思い出したのだ。
「ああ、ネルフのプール。そうね……、あなたたちがペンペンのことを考えてくれるのは嬉しく思うんだけど、でもネルフ本部へ行くのは、ペンペンが嫌がるかもね」
案外簡単に許可が貰えるかもしれない、と半ば期待していたぼくは、許可うんぬんよりもっと別のことでミサトさんがためらっているのを見て、困惑した。でも、ミサトさんはそれ以上そのことに触れなかったので、ぼくも問いただすきっかけを失ってしまった。
「けど、運動不足なのは確かなのよね。うちのお風呂じゃ泳ぐには狭すぎるもの」
肩を竦めるミサトさんにぼくは言った。
「というか、あれは本当にお風呂に入っているだけですよ。泳ぐとか運動とかじゃなくて」
ペンペンがソープをつけたタオルで身体を洗い出したのを初めて見た時には本気で目を疑った。つくづく鳥類離れしている。
「おなかぽよぽよだし。これ絶対、ビール腹ですよね」
ビール腹という単語を聞いて、ミサトさんはびくりと肩を震わせた。その横でビールを飲み干して一息つくペンペンの、どうにも人間臭くてならないさまを眺め、ぼくは小さくかぶりを振った。ペットは飼い主に似る、という言葉は真実だ。ミサトさんの場合、今のところ脂肪はおなか以外の場所に集中しているようだけども。
「ペ、ペンギンはみんなこんなもんよ。水の中で体温を保つには脂肪が必要だからね」
「あったかいお湯に浸かってるとこしか見たことありませんけど」
「ペンペンだってその気になれば冷たい水の中にも入るわよ。ね、ペンペン?」
「プルプルプルッ」
でも、ペンペンは首を横に振った。力いっぱい。
「嫌なんですって」
「ペンペンの根性なし。ペンギンのくせに情けない!」
「クエッ、クエッ」
「そんなの関係ないって言ってますよ。苦手なものは誰にでもあるって」
「分かるの、シンちゃん?」
「そんな気がしただけです」
ペンペンとミサトさんはしばしにらみ合い、ミサトさんが軽く頭を下げると、ペンペンが気にするなという風にその肩に翼で触れた。
本当に家族みたいな二人(正確には一人と一羽だけど)がちょっとした相互理解を済ませると、ミサトさんはまたビールを一口美味しそうに飲んで、気分を変えるように言った。
「それよりもさ、あのアスカとレイが仲良くなるなんて意外だったわよね」
「まあ……そうですね。少し」
保護者としては少々大人げない発言ではあるけれど、ぼくも少しためらったのち結局は認めざるを得なかった。たぶん、アスカと綾波が仲良くなることなど誰一人予想していなかったに違いない。ミサトさんやぼくはもちろん、彼女たち本人でさえ。
「外面はよく見えても、本当のところは他人に見せない子だから、アスカは。大人ばかりの環境でずっと気を張ってきたから仕方ないんだけどさ。レイのほうもこう言っちゃなんだけど、何考えてるのかてんで分からない子だったのよね。命令には正確に従ってくれるけど、エヴァ以外では当たり前のことも知らないっていう。でも……、そうね、レイがそんな子だったから、かえってアスカにはよかったのかもしれないわね」
ミサトさんの最後の言葉に、ぼくはペンペンを撫でる手を止めて、彼女のことをじっと見つめた。
「つまり、アスカが綾波に対して精神的に優位に立てるから、という意味ですか?」
感情表現の仕方を知らず、常識にも乏しい、ある意味で幼児のような綾波との関係において、アスカは彼女を教え導く者として優位な立場に立つことができる。つまり、しょせんアスカはそういう前提に立たなければまともな友情も築けない、とミサトさんは言っているのだろうか。
「それは意地が悪すぎる取り方よ、シンちゃん」
けれど、こちらの強い視線を軽くいなして、ミサトさんはゆっくりと身体を伸ばした。
誤解していたことに気付き、ぼくは恥ずかしさで顔が熱くなった。
「……そうですね。取り消します。ごめんなさい。アスカにもひどいこと言っちゃいましたね」
彼女たちの友情が見かけ倒しなものでないことは、ぼく自身よく知っている。この肌と心とで。
でも、他の人間はそうではない。現にクラスメイトたちは皆一様にアスカたちに違和感を覚え、遠巻きにしていた。まるで隠された爆弾に怯えているようだ、とぼくはクラスのみんなの姿を見て思ったのだった。見かけとはかけ離れた何かが、二人の間の見えないところに隠れているのではないか、と。ふとしたきっかけでそれが爆発するのをみんな恐れているようだった。
だから、ミサトさんまでがそうなのだろうか、と疑ってしまったのだ。
「別にわたしに謝らなくてもいいけどね。結局さ、きっかけなんて大した問題じゃないのよ」
椅子に浅く腰かけて足の先からまっすぐ伸ばしたミサトさんは、頭の上で手を組んで、街灯りにかすんだ夜空を見上げて言った。
「……さっきのペンペンの話だけどね。この子、実は廃棄処分されるところだったのよ」
「廃棄って……」
その意味するところを悟り、ぼくは目を見開いてミサトさんを見た。
「殺されるとこだったってこと。ペンペンはネルフの実験動物でね。実験内容は頸椎部から挿入された信号管が発する命令伝達による身体の操作。ペンペンの首飾りはそれの名残りで、まあ保護弁みたいなものかな」
「その実験、まさかエヴァの」
「まさしくそのとおりよ。ペンペンは他の多くの被験動物たちとともに、エヴァを兵器化する過程で行われた数々の動物実験のために遺伝子操作で生み出された。で、実験は成功、有益なデータも収集できて、ペンペンは晴れてお役御免。でもこの子、一部とはいえエヴァ操作技術に関する機密のかたまりだからね。他の動物と同じく順当に殺処分されそうになってたところをわたしが頼み込んで譲ってもらったのよ」
「そんなひどいことが……」
今ぼくが知るようなお風呂とビールが大好きな可愛いペンペンからは想像もつかない過去を聞かされ、また少し前にぼくが怪訝に感じた、ペンペンがネルフ本部に行くのを嫌がるかも、というミサトさんの言葉の意味も知ることになり、上手く言葉を探せなかった。
でも、そんなぼくに対し、ミサトさんは皮肉げに笑って言葉を続けた。
「ひどいわよね、確かに。でも、ペンペンや他の動物たちを使った実験は必要なものだったのよ。それがなければ、わたしたちは今使徒に対抗する手段を持ち得なかったかもしれない。つまり、あれは必要な犠牲だった。そして、ネルフの機密を守るために役目を終えたものをきちんと処分するのも当然のこと」
ミサトさんは言葉を切り、見上げた空からペンペンへ視線を移して、飾り羽の生えた頭を優しく撫でた。
「ネルフの人間としてわたしもそれは充分承知していた。当然のことと受け入れていた。なのにこの子を助けてくれるよう頼んだのは、単なる同情や気まぐれかもしれないし、一人きりの寂しさのせいかもしれない。それとも、この子を苦しめたネルフの一員としての罪悪感のせいかも。あるいはもっと単純に、何かいいことをして、気分よくなりたかっただけかしら」
自嘲の言葉にミサトさんはくちびるを歪めた。
「きっかけなんてそんなものよ。でも、今わたしは同情や憐みからこの子を養ってやっているわけじゃないわ。この子のことが、実験動物だったとか罪悪感とかそんなこととは関係なく、ただ好きだからよ。ペンペンという、お風呂とビールが大好きで、冷たい水が苦手な、ちょっぴり太っちょの一羽のペンギンのことが好きで、一緒に暮らしたいと願っていて、事実そうしている。わたしとペンペンの関係はシンプルで、どこにも難しいところはないわ。最初がどうであれ関係ない。わたしたちは家族なのよ。それ以上でも以下でもない」
言い切ったミサトさんの表情は言葉とは裏腹に、どこか思い悩んでいる色彩があった。それはペンペンのことではなく、もっと別の何かに対する悩みだ、とぼくはなぜか直感した。
「……憶えてますか、ミサトさんが初めてぼくをこの街の高台に連れて行ってくれた時のこと」
部屋の中から投げかけられる灯りが、ミサトさんの横顔に複雑な陰影を形作っている。ぼくの問いかけを受けて、光と影を材料にした寄木細工が動くように、彼女の横顔はひっそりと頷いた。
「守りたいという気持ちがどういうものか、最近やっと分かるようになってきたんです。あの時にはなかった気持ちが、今僕の中にはある。それに気付くことができたのは、ミサトさんのおかげです。あの時のあの言葉があったから、ミサトさんがこの街でぼくを支えてくれたから……。だから、ミサトさんにはとても感謝しています」
ぼくは本心からそう思っていた。幸いにもぼくは自分の気持ちに気付くことができた。もしこの気持ちに気付くことなくこの街から逃げ出していたとしたら、あるいは力を出し切らずに死んでしまっていたとしたらと想像すると心底からぞっとする。
だからこそ、ミサトさんにも伝えておきたいと思ったのだ。ミサトさんの悩みの正体は分からないけれど、あなたに感謝している人間が確かにここにいる、ということを知っておいてほしかった。それがわずかでも悩める彼女の救いになってくれたら、と。
けれど、ぼくの言葉を聞いたミサトさんは、皮肉げな笑いを漏らして呟いた。
「本当、嫌になるわ」
「え?」
「結局、浅ましい自分を正当化したいだけなのよね。きっかけは関係ないなんて」
「どうしてそんなことを? ペンペンとミサトさんは本当に家族じゃないですか」
ぼくが訊くと、ミサトさんはビールをひとくち飲んでから、ひどく静かな声で言った。
「そうね。でも、シンちゃんやアスカとはどうかしら」
その言葉にぼくは絶句し、とっさに答えることができなかった。
ここはあなたの家なのだと、自分たちは家族なのだと、そう言ったのは他ならぬミサトさんだ。にもかかわらず、そもそもの初めから、彼女自身その言葉を信じることができずにいるのだ。
できることなら、すぐにでもミサトさんの疑念を否定したかった。『ぼくたちは家族ですよ』と言ってあげたかった。
でも、ぼくは知らないのだ。ミサトさんの『きっかけ』を。
ミサトさんの横顔に落ちた深い影は、彼女の内側にはびこる強固な闇そのものを表しているように思われた。吹けば飛ぶような言葉一つでこの闇が晴れるとは到底考えられなかった。
「……いつも思っていることがあるの」
話し始めたミサトさんの声は夜風に溶け、ひんやりとした感触がした。
「何をです?」
「わたしが自分でエヴァに乗ることができればよかったのにって。なぜわたしがパイロットではないのだろう。なぜ発令所から見ているしかできないのだろう。なぜ直接この手で使徒を殺すことができないのだろう……」
誇張でも何でもなく、正真正銘その言葉が本心からのものであることを知って、ぼくは愕然とさせられた。もちろん、この女性がただの陽気で気さくなだけの人物ではないことは充分承知しているつもりだった。けれど、ミサトさんが抱えている暗い感情の大きさはぼくの想像を超えていた。
「どんなに願ったとしても、わたしは直接手を下すことができない。エヴァに乗ることはできない。だから、あなたたちを身内に取り込んで懐柔して、利用してやろうと思ったのよ。自分の手で使徒を殺してやれないなら、せめてあなたたちパイロットを手足のように使って目的を果たそうと」
「それがミサトさんの『正当化したいこと』ですか」
赤裸々な告白をするミサトさんの表情を見るに忍びなく、ぼくは目を逸らしてペンペンの頭を撫でてやりながら訊いた。
「あなたたちが必要なのよ。何よりわたしの目的を果たすために。決してあなたたちのためでもなければ、世界のためでもない。これは個人的な動機よ。そのためにあなたたちをこの家に招き入れて、わたしたちは家族だとうそぶく。……始まりはそうだったけれど今は違うと、どんな顔をして言えるというの? だって、わたし自身は何も変わっていないんだもの。わたしは今もあなたたちを利用している。明日使徒が現れれば、わたしはあなたたちに行って殺してこいと命令を下すわ。わたしの代わりにあの使徒を殺してこいと」
ミサトさんは缶ビールを手に夜の街を臨みながら暗い口調で語った。
いや、本当は彼女は街など見ていないのかもしれない。その瞳に映っているのは夜の闇そのもの。夜空に輝く月も星も、眼下に広がる星原のような街灯りも、彼女の瞳には届いていない。
窓から漏れる部屋の明かりがミサトさんの背中に色彩を与えている。でも闇に向く彼女は背に感じているはずの温もりをどこか拒絶していた。あたたかな光と凍える闇との境目に、一人ぼっちで座っているようだった。
「次の使徒が人間の姿をしているといいわ。人間と同じ顔、表情を読み取れる目鼻立ち。死にゆくその顔からわたしは目を離さない。そこに苦悶の表情が浮かぶさまを見たい。その瞳から光が失われていくのを見たい。絶望と恐怖に取りつかれて息絶える無様な姿を見たい」
暗い熱のこもった激しい言葉を吐くミサトさんへぼくは訊ねた。
「そんなに使徒が憎いんですか」
「憎いわ」
「だからぼくたちを利用するんですね。憎い使徒を自分では殺すことができないから」
「そうよ。わたしはこういう人間なのよ。どういいわけしたって……どんなにあなたたちに優しくしようと思ったって、結局は自分の目的を忘れられない。そのためならいくらでもあなたたちを危険な目に遭わせる最低な人間なのよ」
ミサトさんの懺悔にも似た告白を聞きながら、先ほどから感じていた疑問の答えがおぼろげながら分かるような気がしてきた。
黙っていれば分からないのだから、自分の後ろ暗いところなど言わなければいいのに、なぜあえてそれを話すのか。利用されている当の本人に向かって、わたしはお前を利用している最低の人間だ、などと打ち明けて、彼女が得することなど何もないというのに、そうせざるを得ない理由は何か。
それは、ミサトさんが自らの抱えるジレンマにそれほど深く悩んでいるからだ。部屋の明かりと夜の闇がせめぎ合うように、彼女の中でも相反する感情がせめぎ合っている。その中間にミサトさんは立ち、背で光のぬくもりを拒絶しながら、完全に闇の中へ踏み出すこともできずにいる。前も後ろにも進めないことが彼女を苦しめている。
「それでも、ぼくはミサトさんが好きですよ」
ぼくの言葉にミサトさんは振り返らない。でも、ぼくは彼女に向かって語りかけるのをやめなかった。
「ミサトさんの話は確かに少しショックですけど、ぼくの気持ちは変わりません。ミサトさんは優しいんですね。本当にぼくたちのことを道具のようにしか思っていないのなら、そんな風に悩んだりはしないと思うんです。優しいから、そんなに悩んでいる。
ミサトさんがエヴァに乗れなくて、ぼくやアスカや綾波だけが乗れるという事実が変えられないのなら、それはもう仕方がないことです。ぼくはぼくの理由で、アスカと綾波もそれぞれの理由でエヴァに乗っています。だから、ミサトさんはミサトさんの理由で、できることをすればいいんだと思います。それがぼくたちに命令することなら、それでもいい。利用されてるなんて思ったりしません」
胸元をくすぐるぼくの手をペンペンがくちばしでつつく。ぼくやアスカとミサトさんとの間には、まだ家族と呼べるほどの絆はないのかもしれない。しかしそれに似た心地よさを与えてくれる他人として、ぼくのミサトさんへの好意は変わらないことを知って欲しかった。
「……どうしてそんなに使徒が憎いんですか?」
ミサトさんが望むのなら、ぼくは使徒と戦うことをためらわない。それはぼくのためでもあり、彼女のためでもあるからだ。
でも、彼女の使徒への憎悪の強さは解せなかった。そこには非常に個人的な思いがあるように感じられた。詮索は彼女の傷に触れる行為なのかもしれない。そう思いつつ、ぼくはミサトさんに訊ねていた。以前のぼくなら決して訊ねたりはしなかったはずだ。でも、ぼくはこの人のことが好きだし、もっとよく知って分かり合いたいと思っている。それは決して尻込みするようなことではなく、きっとごく自然な欲求なのだ。今のぼくは自分の欲求に素直に身を委ねることができた。
しばらく黙り込んでいたミサトさんは、やがて静かな声で話し始めた。
「夜は好きよ。この暗闇がわたしを安心させる。……わたしの中に光があるの。決して消えない記憶の光が。目を閉じるとそれが見えるわ。とても眩しい。とても……。だから眠るのは嫌い。目を閉じて眠ろうとしても眩しさで目がくらむから、部屋でもこうやってお酒を飲みながら暗闇を見つめているの」
部屋の明かりにかたくなに背を向けて、ミサトさんは言葉を続けた。
「十五年前の南極調査隊のことはもう知っているでしょう? 調査隊の隊長はわたしの父だった。そして、わたしもあの場にいた。あの時……南極が光に包まれた時」
「セカンドインパクト」
十五年前に南極大陸の大部分が消失した事件をセカンドインパクトと呼ぶ。一般には巨大隕石の衝突のためとされ、学校でもそう習ってきた。でも、ネルフに来て、セカンドインパクトが使徒によるものだということを知った。
「黒々とした海に浮かぶ脱出ポッドから、わたしはそれを見た。あらゆる感情をはねつける圧倒的な輝き。美しさも醜さも、喜びも悲しみも、愛も憎しみも、すべて飲み込んでしまう光。あの光の中で、わたしの父は蒸発して消えた。肉体も心も、あの冷たい光に溶けて消えてしまった。
あの日、父と喧嘩していたの。当時父の仕事のせいで家庭はボロボロ。母は我慢を重ねて苦しんでいたし、わたしは父を恨んでいた。父は自分を理解しない家族に失望していた。それが喧嘩の原因だった。それでも南極に同行するようにという父の言葉に従ったのは、内心で仲直りしたかったからだと思う。わたしはギスギスした家庭環境に傷つき疲れていたけど、本気で父を憎んでいるわけではなかった。できることなら仲直りしたい、その機会を得たい。そう願っていた」
ミサトさんはここで一旦言葉を切り、大きなため息を吐き出した。
「でも、和解の機会は永遠に訪れなかったわ。父は南極で眠る使徒の調査を行っていた。でもトラブルがあり、使徒が活動を始めたの。混乱の中で父もわたしもひどい怪我を負ったけれど、どうにか父はわたしを抱いて脱出ポッドまでたどり着くことができた。出血で朦朧とするわたしをポッドに有無を言わさず押し込め、父はわたしの首に自分のペンダントをかけて、無言でハッチを閉めた。それが父を見た最後よ。その直後ポッドを襲った衝撃と出血とで意識を失ったわたしが次に気付いた時、ポッドは海に浮かんでいた。洋上で停止したポッドのハッチを開けて顔を出すと、つい先ほどまでわたしがいたはずの方角が光に包まれていた。南極の硬い氷も、その下にある大地も、人の命も、何もかもを溶かしてしまう光。その圧倒的な白い輝きを声もなく見つめながら、わたしは父との別れを悟った。
本当は言いたかった言葉があったわ。父に伝えたかった言葉、伝えられるはずだった言葉が。でも、その言葉も光に飲み込まれて見失ってしまった。吹き付ける風にあおられて胸元で暴れる父のペンダントを握りしめて、わたしは語るべき一切を失ってしまった」
「……悔やんでいるんですね、お父さんと仲直りできなかったこと」
ぼくが言うと、ミサトさんは弱弱しくかぶりを振った。
「つまらない意地を張ってグズグズしていたわたしが馬鹿だったのよ。そのせいで父と仲たがいしたまま別れなければならなくなった。父は最後までわたしに失望していたでしょうね」
かたくなに明かりを拒むミサトさんの背中は、迷子になって途方に暮れる子どものようだ。
でも、ミサトさんがお父さんについて考えていることは勘違いだ、とぼくは思った。このささいな勘違いのせいで、ミサトさんはずっと長い間苦しんできたのだ。
ぼくはミサトさんの子どもみたいに丸くなった背中に優しく言った。
「お父さんはミサトさんのこと、許していたと思いますよ」
ミサトさんは口先で少し笑って、自嘲気味に答えた。
「そうかしら」
「そうですよ。だから、ミサトさんのことを守ったんじゃないですか、自分の身を挺してまで」
「そうまでして守る理由があったのかしら。わたしには父の気持ちが……分からない」
「それは……ミサトさんを愛していたから」
ミサトさんの疑問に、ぼくは生まれて初めて口にする言葉で答えた。ぼくはミサトさんのお父さんを直接知っているわけではない。でも、この答えには確信があった。ぼくには娘はいないし、それどころか結婚もしていなければ恋人さえいない、ただの十四歳の子どもに過ぎないけれど、ミサトさんのお父さんの気持ちは理解できるような気がした。
「お父さんにとってミサトさんのことが何より大切だったからです。それは、できることなら父さんだって、ミサトさんを残して逝きたくはなかったはずです。でも、他にもうどうしようもない、となったら、きっと迷わなかったと思います。ほんのちょっとすれ違いはあったけれど、心の中ではとっくに許していた。いいえ、そもそも最初からミサトさんへの気持ちは変わらなかったんじゃないかな。喧嘩したりとか、そういうことはあっても、何より大切な家族だという気持ちは変わらなかったはずですよ」
もっと上手く説明できればいいのに、ともどかしく思いながら、それでもぼくは精一杯ミサトさんに語りかけた。
「……本当にそうならいいわね」
「きっとそうですよ。ぼくは……確かに家族とかあんまり馴染みがありませんけど、最近何となく、そういう気持ちが分かるようになってきたんです。ぼくも大切な人たちを守るためなら、この命をかけてもいいと思っています」
別に死にたいわけじゃないし、自己犠牲に酔いたいわけでもない。でも、エヴァに乗って結果犠牲になったとしても、もうぼくは後悔しない。なぜなら、それだけの理由を見つけたからだ。
これはぼくなりの覚悟の表明でもあった。自分はこれだけの覚悟を持って戦うつもりでいる。
でも、ミサトさんから返ってきた言葉には少しいさめるような響きがあった。
「自分だけ生き残るって、けっこうきついものなのよ。犠牲になったほうは、無事に守れて満足かもしれないけどさ、守られたほうは……自分にそれだけの価値があったのか、もっとできることはなかったのか、答えの出ない問いを考えてしまうのよ。わたしもそう。もう永遠に伝えられない言葉を抱えたまま、残りの人生を生きて行かなくてはならない。いっそ一緒に死んでいればよかったのに、そうすればあの世でこの言葉を伝えられたかもしれないのに……、むなしいだけと分かっていても、そんなことさえ考えるわ」
その言葉にぼくはくちびるをぎゅっと結んで、ミサトさんの横顔を見た。
彼女はゆっくりと目蓋を下ろし、小さく息を飲むように肩を震わせた。
「この光を消したい。でも、どうすればそれができるのか、わたしには分からない。せめて使徒をすべて殺せば……そう考えて今日まで生きてきた。でも、本当にそれで何かが変わるのか、分からないのよ」
彼女は、お父さんと仲直りする機会を永久に失ってしまったのは自分のせいだと思い込んでいる。そして、そんな自分を憎んでいる。使徒への復讐は、つまり伝えられなかった言葉の代わりなのだ。
でも……果たして本当にそれが代わりになるのだろうか?
「今、言ってみましょうよ」
「え……?」
何を言われたのか理解していない様子のミサトさんへ、ぼくは重ねて語りかけた。
「きっと、伝わると思いますよ。伝わるはずですよ」
この言葉に、ついにミサトさんはこちらを向いた。
正面から光を受けるその表情は、最初は怒っているようだった。やがてそれは苦悶の表情に変わり、最後には縋るような眼差しをぼくに向けた。
「本当に伝わると思う?」
ミサトさんは今にも泣き出しそうな震える声で訊いてきた。
部屋から漏れる柔らかな明かりに照らされた、頼りない彼女の表情は、まるで十四歳の少女のように見えた。たぶん、南極を包んだ光を前にして言葉を失ったその時から、この少女はずっとミサトさんの中にいたのだ。胸元のペンダントを握りしめ、一人ぼっちで寒さに凍えながら、この瞬間をずっとずっと待っていたのだ。
「お父さん、ごめんなさい。ありがとう」
言葉は、涙と一緒にあふれ出てきた。万感の涙に沈んだ彼女の目に映るのは、暗闇ではなく、光でもなく、ぼくの顔でもないのだろう。子どもみたいにわんわんと声を上げて泣き崩れ、ミサトさんは何度も何度も「ごめんなさい、ありがとう」と繰り返した。
その様子に不安げに鳴くペンペンの頭を撫で、ぼくはいてもたってもいられなくなり、ミサトさんのそばに駆け寄って肩に手をかけた。
「お父さんのこと大好きだった。本当はずっとずっと大好きだったの!」
ぼくの手にしがみつき、ミサトさんはしゃくりあげながら叫んだ。ぼくも何だかこみ上げるものがあり、乱暴に目頭をこすると、彼女の頭を胸に抱き寄せた。
「もう大丈夫。もういいんですよ」
泣き続けるミサトさんを抱き締めたぼくは自分自身のことを思った。
ぼくもまた、伝えるべき言葉を胸の中に隠し持っているのではないだろうか。これまでずっと伝える機会がないと思いこみ、諦め、それでも捨てることができなかった想いが。
「お父さんもあなたのことが大好きでした。今でもきっと見守ってくれています」
ミサトさんの耳元でささやきながら、ぼく自身の言葉を伝えるべき相手のことを思った。
父さんは、ぼくのことを少しは好きでいてくれているのだろうか。
息子として愛してくれているのだろうか。
その答えを知りたい。
今までになく強く、ぼくはそれを願った。
なかがき
ここまでお付き合い下さり、ありがとうございました。
実はシンジ誕生日のお話を書いた時にはこちらも9割がた出来ていました。
ただ重い展開にストレスがたまるので、幼児のお話に逃げたのでした。
シンジ主観は長くなりそうだったので、part1とpart2に分かれます。
したがって、次の「12」は「シンジ part2」となります。
ところで映画「ハリー・ポッター」シリーズがわりと好きなのですが、主役三人はもちろん、スネイプ役のアラン・リックマンとヴォルデモート役のレイフ・ファインズの存在がとりわけ作品に奥行きを与える役目を果たしています。
で、レイフ・ファインズ演じるヴォルデモートが復活する「炎のゴブレット」に「I want to see the light leave your eyes!」という非常に印象的な彼の台詞がありまして、あまりに好きなのでこのお話の中でそのまま使ってしまいました。
私にとってレイフ・ファインズ(非常にハンサムである)といえばそれまで「シンドラーのリスト」のアーモン・ゲート役が一番印象的だったのですが、鼻が削げたヴォルデモートのメイクはけっこうショッキングでした。ついでにいえば「タイタンの戦い」のハデスはウケます。
さて、お話の内容的には特にどうということもありませんが、こんな感じです。
ミサトの葛藤的なことは他のお話でも似たような内容でちょこっと触れたことがありますが、彼女は確執を抱えたまま父と死に別れたことを非常に後悔し、自責の念を持っているんじゃないかなという気がします。
確か原作でもカーペット替えとけばよかったとか死に際に言っていましたが、基本的に彼女は自分の行動をいつも後悔しているという印象を受けます。父親のことも、シンジやアスカのことも、加持リョウジのことも。
カーペットはそれらすべての暗喩なのでしょう。カーペットの染みがいつでも見えているように、自分の過ちはいつも分かっていた、でもそのままにしていた。染みを目に留めながらその上を歩いて毎日の生活を送っていた、そして結局最後まで替える機会を得られなかった、という。
子どもの前でわんわん泣いて慰められて大人げないと感じられるかもしれませんが、それは十四歳のまま時が止まっていた彼女の一側面とお考えください。
と、いうようなキャラクター造形(解釈?)の上でのお話作りをしました、ということで一つよろしくお願いシマス。
正直なところ、「ぬいぐるみ」の中ではミサトは収まりが悪いキャラクターで、このまま最後まで触れずにいようかとも思ったのですが、メインではなくシンジ視点の中でどうにか挿入してみました。
その結果、お話が予定より一回分増えてしまいました。
本当にあと少しですが、もうしばらくお付き合い頂けると嬉しく思います。
では、お読み下さった皆様。掲載して下さったジュン様。
この度もありがとうございました。
rinker/リンカ
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