雨の日に恋をする人は、きっと優しい |
この惣流アスカの犯した人生最大の間違いは、碇シンジからの告白を断ったことだ。
当時、中学二年生だったあたしとシンジは、仲のいいクラスメイトだった。知り合ったのは二年生になった時だけど、あたしたちは妙に気が合った。活発なあたしと比べて、シンジは大人しく、正反対な性格をしていたことがかえってよかったのかもしれない。あたしたちはすぐにお互いをファーストネームで呼び合うようになった。これまで男子にそんな気安い真似を許してこなかったあたしが、なぜかシンジ相手には寛大な気分になったのだ。むしろそうすることが自然にさえ思えた。なかば強引なあたしの提案を引っ込み思案なシンジが受け入れてくれた時、深い満足を覚えたものだ。それがなぜか、今のあたしには分かるが、当時はこれっぽっちも分かっていなかった。
中には、二人の関係をからかう者もいた。あたしは四分の三ほどドイツ人の血を引いているので、くっきりした目鼻立ちをしていて、瞳は青く、長い髪は赤みがかった金髪と、人目を引く容姿をしている。絶世の美少女とはいわないけど、可愛いという自負があった。一方、繊細な顔立ちのシンジもなかなか美少年で、しかも誰にでも優しい性格をしていたので、女子から人気があった。だから、あたしたちの仲は格好のひやかしのネタになったのだ。
そうした揶揄にもかかわらず、二人の仲はきわめて良好だった。ただし、完全に純粋な友人関係として。
それをシンジが乱そうとしたのは、二年生の冬、バレンタインデーのことだった。前日の夜中から降り続いた雪が積もり、その日は街中が一面の銀世界に変わっていた。放課後、仲のいい数人のグループで連れ立って学校を出、最後に家が同じ方向のあたしとシンジが残された。あたしたちはまったく普段どおりに笑いあいながら、雪道を並んで歩いていた。
やがてあたしたちは、あたしの家のすぐ近くにある交差路に差しかかった。ここからシンジは違う方向へ別れるのだ。別れのあいさつのために立ち止り、向かい合ったシンジの顔をあたしは白い息を吐きながら見つめた。彼の目はまぶしそうに細められていた。雪は昼過ぎにはやみ、空がよく晴れていたので、日差しがきらきらと雪に反射していたのだ。
あたしはごく何気ない仕草でカバンからチョコレートの入った小さな箱を取り出し、彼に向かって差し出した。
「これ、あげる」
「ありがとう。まさかチョコレート?」
シンジは驚いたみたいだけど、喜んで受け取ってくれた。あたしはそんな彼にくぎを刺すように、一字一句言葉を区切りながら言い聞かせた。
「言っておくけど、義理よ、義理。どうせ誰からももらえないんだろうし、友達のよしみであげるのよ」
おそらく、実際にはシンジは他の女の子たちからもチョコレートをもらっていたのではないかと思う。それなのに、あたしがこんな風に言ったのは、今にして思えば、嫉妬心だったのかもしれない。
けれど、この時点ではそれに気付くこともなく、この言葉を自らの本心と疑っていなかった。
可愛げのないことを言うあたしにシンジは苦笑していた。でも、手の中のチョコレートの箱を見下ろし、何やらためらうような表情を浮かべると、おもむろに顔を上げた。
「あのさ、アスカ……」
「何? お礼なら三倍返しでお願いね」
あたしのおどけた返答にくすりとも笑わず、シンジはひどく真剣な表情でこちらを見つめていた。急に雰囲気の変わった彼の様子に居心地が悪くて、あたしは何度か足元の雪を踏みしめた。
痛いような沈黙の中、靴の底で雪が鳴る音が、今でもあたしの耳に残っている。
三十分にも三時間にも感じられた沈黙のあと、シンジは真剣な声であたしに交際を申し込んだ。
「付き合ってほしい。アスカが好きなんだ」
突然何を言い出すのよ、と思った。とても驚いたし、腹立たしいような、おかしいような妙な気分だった。
「悪いけどムリ。あたし、あんたをそんな風に見られないもん」
悩むほどの時間もかけず、返事はすぐさま出てきた。
拒絶されたシンジの顔が、ショックに青ざめるのが分かった。あたしの胸は罪悪感にちくりと痛んだけど、かといってどうしようもない、とも思った。彼はいい友達だけど、恋人になるなんて想像もできない。だから、仕方がない。
この時も、あたしは本当にそう考えていた。自分の気持ちに疑問さえ抱いていなかった。
「そ、そうだよね。今のは忘れて」
「ごめんね。でも、あんたなら、あたしじゃなくてもすぐに可愛い彼女が見つかるわよ」
ぽんと肩を叩くと、シンジはつらそうに顔をひきつらせた。笑おうとしたのだ。
「それじゃあね。また明日」
いたたまれなくなったあたしは、一刻も早くその場から離れたくて、あえて明るい調子で言った。
「う、うん。また明日……」
でも、実際のところ、シンジとまともに会話をしたのは、それが最後になった。
次の日から、あたしたちの仲は気まずくなり、特にシンジがあたしを避けるようになった。彼の気持ちを考えると無理もないことだと思う。あたしはそれを寂しく思っていたけど、気まずいのはこちらも同じことだったので、何の手立ても打てず、ほとんど会話も交わさないまま、二年生の冬が終わった。
春になると、三年生のクラスにシンジはいなかった。クラス分けで別々になったのだ。いっそうあたしと彼の間は疎遠になり、たまに廊下で姿を見かけるだけとなってしまった。それまで一緒につるんでいた仲のいい友人たちも、あたしたちの間にあった事情を察してか、何も言ってこなかった。
あたしたちの中学校生活最後の一年は、そうして終わりを告げた。
また次の春が訪れ、あたしは新しい高校の教室で驚くことになった。そこにはシンジがいたのだ。彼が自分と同じ高校を受けたことさえ知らなかったあたしは、予期しなかった出来事にうろたえていた。
これからどんな風に彼と顔を合わせ、接すればいいのだろう。
無視し続ける、というのも一つの選択肢ではあった。実際、それが一番楽だったから。
けれど、あたしには彼を無視などできない大きな理由があった。
その時、あたしはシンジに恋をしていたのだ。
特別な何かがあって、恋に落ちたというわけじゃない。
あたしがこの気持ちに気付いたのは、中学三年生のある日のことだった。その日、あたしは学校の廊下でたまたまシンジを見かけた。彼は笑っていた。そばには同じクラスの友達らしき男子生徒がいた。
ああ、そっか、とあたしは思った。
あたしはシンジが好きなんだ。
もうずっとそうだったんだ。
その唐突さは、確かに稲妻に似ていた。
混じり気のない直線のように明快でもあった。
まるで剣で断ち切られた濃い霧が左右に割れて、跡形もなく晴れるみたいだった。
あたしたちの間は五、六メートルは離れていたと思う。彼はこちらに気付いていなかった。ほんの数か月前まで彼の隣に立っていたというのに、今や二人の間に横たわる距離は、月よりも遠く隔たっていた。
間抜けといえばそうだ。誰が聞いても呆れるに違いない。
よりにもよって、振ったあとになって自分の本当の気持ちに気付くだなんて。しかも、すでに二人の関係を修復するのが困難となるほど時間は過ぎてしまっていた。
もちろん、その後中学校を卒業するまで、あたしの恋に何の進展も見られなかったことは言うまでもない。
そこへ、この思いがけない高校の教室での再会だ。あたしは意を決してシンジに話しかけてみた。会話どころかまともに顔を合わせるのも一年ぶりのことだったけど、それだけの期間を置いていたからこそ、かえって自然に話せるかもしれない。以前のような気まずさは薄らいでいるかもしれない。そう期待していた。
「ねえ、ひさしぶり」
クラスの雑踏の中あたしはシンジの背中から近づき、彼の肩を叩いて呼びかけた。振り返った彼の顔は見上げなければならなかった。中学二年生の時には、あたしのほうがわずかに長身だったというのに、いつの間にか追い越されてしまったのだ。あたしはちょっと驚いたけど、ここだけは以前と変わらないシンジの優しげな表情を見て、心が浮き立つのを感じた。
けれど、そんなあたしの浮かれた思いをシンジの一言が打ち砕いた。
「ああ……、惣流さんか」
冷たい水を顔面に引っかけられたような気分だった。
『惣流さん』。
昔は『アスカ』と呼んでくれたその口で、彼はあたしをそう呼んだ。その表情は相変わらず穏やかだけど、親しげなところなど、どこにも見られない。
これが彼の出した結論なのだ。かつてファーストネームで呼び合っていた二人の友情をすべて帳消しにして、よそよそしい他人になること。あるいは、彼にとってあたしはもうすでに、何ら心を動かされない、単なる過去の知り合いの一人に過ぎないのかもしれない。
期待に微笑みを浮かべていたあたしの顔がこわばった。それでも、石のように干上がったのどの奥から、何とか声を絞り出した。
「お、同じ高校だったなんて知らなかったわ。これからよろしくね、シ……いかり、くん……」
こわばった顔がゆがんで崩れるのをあたしは必死でこらえた。
身体を引き、背を向ける。逃げるようにその場を離れるあたしの耳には、シンジとその友人の会話が聞こえていた。
「あれ、知り合い?」
「うん。中学の時クラスメイトだった子」
「ふーん。可愛いじゃん」
「そうかな……」
何てことなの。
あの雪の日にあたしが犯した過ちの結果がこれなのだ。
初めてあたしはその容赦のない現実を目の前に突き付けられ、あの日の自分の愚かさを呪った。
でも、時間は決して戻らない。
以前告白までしてくれたシンジの心は、あたしのせいで離れてしまった。
そしてあたしは、すでに背を向けてしまった男の子に叶わぬ恋心を抱き、毎日教室でその横顔を眺めていなければならない。
決してこちらを向くことのない横顔を。
美しく咲き乱れ、あたしたちを迎えてくれた桜は名残を惜しむ間もなく散り、降り積もった地面で風雨にさらされ、踏みつけにされて、汚らしく腐っていった。
暖かくなった空気は雨を呼び、黒雲が何日も太陽を隠して、街のあらゆる隙間までいやらしい湿気が入り込んだ。
厚い雲が晴れると、太陽は輝きを増し、梅雨の間にため込まれた湿気をすべて振り払うように、金色の熱気でかびの生えた世界を炙った。
そんな風に移ろっていく世の中をよそに、あたしとシンジの距離は、まだ少しも縮まっていなかった。
高校にはすでに慣れ、新しい友達も大勢できた。でも、あたしとシンジは相変わらず気まずさを押し殺した距離感を保ったまま、他人行儀な表情を装って、教室という四角い空間の中ですれ違い続けていた。
「どうしたの、アスカ。考えごと?」
後ろから突然話しかけられ、あたしはぼんやりと頬杖をついていた顔を上げて、呼びかけてきた声の主を見た。
あたしが何をしていたのかといえば、いつものごとく、シンジの横顔を眺めていたのだけど、もちろんそんなことを説明するわけがない。
「ううん。何でもないのよ、マナ。ちょっとぼーっとしてただけ」
そう説明すると、マナは腰に手を当て、肩をすくめて言った。
「またいつものうわの空?」
霧島マナは高校になってからできた新しい友達だ。ショートカットに可愛らしい顔立ちの女の子。性格はあたしと同じく明るく利発で、加えてあたしにはない愛嬌というか、親しみやすさのようなものを備えているので、男女の別なく人気者だ。あたしはというと、それなりに可愛いといえるし、リーダーシップも取れるけど、いかんせん元々の性格がきついのと、ときどき(マナによればいつも)うわの空になってしまうため、マナほど万人受けはしていない。もちろん、だからといって何も困りはしないのだけど。今のあたしにとっては、大勢の人たちから支持されるより、シンジが振り向いてくれることのほうが大事だから。
「ところでさ、アスカ、知ってる?」
マナは近くの席から椅子を引き寄せて座り、愛嬌のある笑顔を浮かべて言った。
「碇くん、地区大会の新人戦で個人三位になったんだって。すごいよね」
シンジは高校から弓道部に入っていた。中学校のころは合唱部だった彼が弓道の何に惹かれたのかは知らない。知る機会さえなかった、というべきだろうか。
マナから教えられるまでもなく、彼が大会で三位になったことは知っていた。実は密かに観戦に行っていたのだ。といっても、シンジに見つかったりすればお互いに気まずい思いをするだけだ。それが原因で彼が競技に集中できなくなったりすることは絶対に避けたい。だから、学校の関係者や生徒たちに見つからないよう私服で、結った髪にキャップまでかぶって、こっそりと観戦しなくてはならなかった。
彼が弓を引く姿は、弓道を知らないあたしから見ても、とても素晴らしかった。美しくさえあった。遠くから見守らざるを得ない己の不遇すら忘れて、あたしはその姿に魅せられた。
「アスカって昔、碇くんを振ったんだって?」
マナは顔を近づけ、耳元で小さくささやくように言った。
一体どこから聞いたのだろう、とあたしはかすかに顔をしかめたが、中学時代の仲の良かった友人たちの誰かから話が漏れたのだろう。それでなくとも、中学二年最後の一か月、円満だったあたしとシンジの間が急に冷え込んだことは当時のクラスメイト全員が知っているのだから。
「もったいないなぁ。わたし、碇くんに告白してみようかな」
他人の口から、自らの過ちをことさらに繰り返されるのは、決して面白くない体験だ。でも、あたしは何も言えなかった。大体、そのときは自分の気持ちに気付いていなかったから振ってしまったけど、本当は彼のことが夜も眠れないほど大好きだなんて、どうして言えるだろう。あたしにもプライドがある。というより、むしろあたしのプライドは他人より何倍も大きい。こんなあたしが人生最大の失態(しかも他人からすれば失笑ものの)を簡単に口にできるわけがなかった。
シンジはこんなやり取りがされていることなど知らず、友達と笑い合って話している。
かつてあの場所、つまりシンジの隣は、あたしのものだったのに。
あたしはくちびるの内側をきつく噛んだ。
シンジはマナから告白をされたら、それを受けるのだろうか。マナは可愛くて魅力的な女の子だ。あたしみたいに性格がひねくれてもいない。彼にとってはそれが幸せなのかもしれない。
まぶたを閉じ、あたしは自らの言葉が心臓をえぐる痛みに耐えていた。
頭上の青空が見る見るうちに黒く濁った雲に覆われていくのを見上げ、あたしは足取りを速めながら、はしたない舌打ちをした。
夏休みのある日、友達と遊びに出かけた帰り道のことだった。真夏に夕立は付き物だけど、あいにく傘を持って出ていなかった。雨に追いつかれる前に家に帰りつくため、あたしは急いでいた。
濃い雨の匂いが鼻を打つ。蒸し風呂のような空気を急ぎ足で進んでいくため、先ほどから汗が止まらない。
何度目かの雷鳴のあと、今やなかば小走りになったあたしの頬に、とうとう雨粒が落ちてきた。勢いはあっという間に強くなる。
家まではまだ少し距離がある。近くには傘が買えるような店もない。濡れるのは諦めて、とにかく走るしかない。
ところが、そんなあたしをあざ笑うように、雨粒はすさまじい豪雨となって襲いかかってきた。
バケツを引っくり返したような、という表現をよく耳にする。
でも、この雨はまるで、海が落ちてきたようだった。
周囲は霧に包まれたように白く濁って視界が利かない。足元の舗装された地面には水が溜まり、そこをサンダル履きの足がじゃぼじゃぼと音を立てる。ごうごうと音を立てながら落ちてくる海に沈んだ身体はパンツの中までずぶ濡れだ。
さすがに、雨の勢いが弱まるまで一時雨宿りしようという気になって、商店の軒下を見つけ、そこに逃げ込んだ。
あたしが逃げ込んだのは、いつもパパのビールを買う青葉酒店だ。店のシャッターは降りていて、そこに「本日、定休日」と破れないようラミネートされた張り紙がしてある。店頭の電気は当然ついておらず、入り口わきに設置されている自動販売機だけが、薄暗いこの豪雨の中で、皓々と明かりを灯している。
何よもう、間が悪いわね、とののしりたいような気持ちで、あたしは灰色のシャッターに背中を預けた。もし店が開いていれば、気のいい店主のおじさんか、バンドマンをしているという店番のシゲちゃんが傘なりバスタオルなりを貸してくれたかもしれないのに。
仕方なくあたしは、濡れた身体を自分で抱いて、少しでも雨脚が弱まるのを待つことにした。すでに全身濡れ鼠とはいえ、豪雨を塞いでくれる軒はありがたい。それでも、空を見上げているとどうしようもない気持ちになって、一体この雨は本当に弱まってくれるのかしら、と濡れそぼった長い髪の毛を束にして絞りながら考えたりした。
真夏の太陽にじりじりと炙られていた空気は、ものすごい水量を与えられたといっても、多少涼しくなる程度だ。でも、全身がずぶ濡れになると、どうしたって身体が冷える。何か温かい飲み物はないかしら、と自販機を覗き込んでみても、並んでいるのはお酒だけ。さいわいミニタオルをバッグに入れていたので、それで拭けるところはすべて拭いたけど、それでも寒くて、あたしは抱いた腕をこすりながら、狭い軒の下に隠れて足踏みを繰り返していた。自分のみじめたらしさがたまらなかった。
そんなあたしの、雨にけぶる視界を突然塞いだのは、細い金属の骨が何本も通された、黒い布地だった。それから、布地の中央から下に伸びる柄と、柄の先端を掴む手。その手は腕に繋がり、そこから先に誰かの身体がある。目の前に現れた黒い布地は傘だ。持ち主の顔は傘に隠れて、こちらからは見えない。
傘はなぜかあたしの前から動き出そうとしなかった。別に道を塞ぐ何かがあるわけでもないというのに、どうしてこの人は立ち止っているのだろう。
好奇心と戸惑い、それにちょっとした不安に駆られ、あたしはシャッターにもたれていた背中を起こして二歩ほど踏み出し、傘の下から持ち主の顔を覗き込んでみた。
息を呑んだ。
そこにあったのは、あたしが恋する人の顔だった。
「シンジ!」
思わず彼のファーストネームを叫びながら、あたしは踏み出した二歩を再び後ずさった。背中がシャッターにぶつかり、がしゃぁん、と派手な音を立てる。どきりとするようなその音が収まり、激しい雨音だけがまた辺りを包むまで、あたしは息をするのも忘れ、身を固くしていた。
シャッターにぴったり張り付くように立ったあたしは、改めて彼を観察して、初めて気付いたのだけど、彼は傘を持つ腕をこちらへ伸ばし、まるで差し出すようにしていた。当然、そんなことをすれば、彼の身体はじかに雨に打たれてしまう。でも、彼はまったく気にしていない風だった。
シンジは大きなスポーツバッグと、布袋に入れられた長い弓を抱えていた。夏休みだというのに、どうやら部活帰りらしい。確かにあたしの家とシンジの家は比較的近く、駅から帰るにせよ、学校から帰るにせよ、同じ方向になる。だから、こうして道でばったり出会う可能性はあるのだ。
「シ……あ、碇くん。ど、どうしたの?」
立ち止って傘をこちらに差し出したまま動かない様子に戸惑うあたしが訊ねると、傘の向こうからシンジの答える声が、ごうごうという海鳴りにも似た雨音に紛れて聞こえてきた。
「使って」
一瞬、耳を疑った。
「え、えっと……」
煮え切らないあたしの態度に何を思ったのか、シンジは傘を横に傾けて、隠れていた顔を覗かせた。彼は全身ずぶ濡れになったあたしのみじめな格好を見て、かすかに目を泳がせた。その様子にあたしはハッとして自分の身体を見下ろし、濡れた薄い布地越しに浮き上がる胸を両腕ですばやく庇った。冷たかった頬が、かっと熱くなる。透けた下着を見られたことが恥ずかしいのか、濡れ鼠になったみじめな姿を見られたのが恥ずかしいのか、自分でもよく分からない。でも、中学二年のころならここまで恥らったりはしなかったのに、という奇妙な思いがあった。
そうやってあたしが一人でじたばたしている間に、シンジはスポーツバッグの口を少し開け、そこから白い弓道衣を引っ張り出している。どうするのかと思っていると、濡れないように傘の中でその弓道衣も一緒にこちらに突き出して、言った。
「これ着て。僕が使ったので悪いけど」
濡れている身体に羽織れということなのだろう。さすがに袴はなく、上衣だけだ。
それにしても、あたしは今起きていることが信じられなくて、まだまともに答えることができずにいた。
「でも……」
「んっ」
ためらうあたしにシンジが手に持った傘と服を強引に押し付けた。なかば呆然としていたせいもあって、彼の勢いに押されたあたしは、気が付くとそれらを素直に受け取ってしまっていた。
こちらが受け取ったのを確認するや、シンジは何も言わずに荷物を抱え直し、そのまま駆け出してしまった。じゃばじゃばと水をはね散らしながら、落ちてくる海の向こうへシンジの姿が消えるのを呆然と見送ったあたしは、いまさらながら心臓がどきどきして、全身が震えだした。
シンジが傘と服を貸してくれた。このあたしを気遣ってくれた!
まだ現実がうまく信じられなくて、あたしは傘を軒下から外へ伸ばし、雨を受けてみた。途端、一面にぶつかってきた雨の重みと、ばたばたというものすごい音をこの手に感じ、この耳で聞いた。
白い弓道衣を羽織ると、かすかに汗の匂いと、あと何か不思議と心地いい匂いがした。たぶん、これがシンジの匂いだ。おそらく今日の部活で着ていたのだろう。この身体にはぶかぶかサイズのそれにまだ彼のぬくもりが残っているように感じて、あたしは顔を赤くしてもじもじした。まるで彼に抱きしめられているような気がしたのだ。
けれど、シンジがなぜこんな親切をしてくれるのか、理由が分からなかった。
あたしが告白を断って以来、彼は可能な限りあたしを避けようとしてきた。今になって、彼のその気持ちを少し想像できる。あたしは、彼を裏切ったのだ。そして、侮辱したのだ。
あの日、シンジはまさかあたしに拒絶されるとは想像していなかったに違いない。慎重な彼がそう思い込むほど、あたしたちの仲は親密だった。シンジは、あたしの好意を間違いなく感じていたはずだ。なのに、告白されたあたしは、悩む様子も見せず、軽い調子で彼を拒み、明るく慰めることさえしたのだ。
もちろん、シンジの告白を受けようと拒もうと、それはあたしの自由な意思に委ねられている。シンジだろうと、他の誰からだろうと、とやかく言われる筋合いはない。
あたしが真実彼のことを恋愛の対象として見ることができず、本心から拒絶したのであれば、あの日のことを後悔などしない。でも、実際には、あのときのあたしの心を占めていたのは、心地よい関係を壊そうとするシンジへの怒り、戸惑い、そして恐怖だった。
たった今まで隣にいて、いつもみたいに笑い合っていたはずの友達が、知らない顔で、知らない声で、あたしを見、言葉をかける。
なぜそんな顔をするの。どうしてそんなこと言うのよ。
そうした心の叫びの結果が、あの拒絶だった。
しかし、本心ではあたしはやはりシンジのことが好きだったのだ。彼がそう感じ取っていたとおりに。
その意味において、あれは裏切りだった。彼の勇気と決意を、本心とは裏腹な言葉でもてあそんだ。そんな風には見られない、などと軽々しく男としての彼を否定したのだ。
ひどい女。あたしだってそう思う。彼もそう思ったろう。
シンジの弓道衣を羽織り、シンジの傘を差して、あたしは逃げ込んでいた青葉酒店の軒下から再び一歩を踏み出した。
雨の勢いはまだ衰えない。傘で防いでも、雨粒は容赦なく身体中にぶつかってきた。それでも、胸元で合わせた弓道衣をぎゅっと握り、歩く。歩きながら、あたしはシンジのことを考えている。
シンジはあたしに幻滅し、怒ったはずだ。その怒りのため、あるいは彼自身の傷つけられたプライドを守るために、不実な女友達を避けるようになった。そのことを責める資格がこのあたしにあるとは思えない。
あの雪の日から数カ月経って、ようやく自分が抱き続けてきた気持ちに気付いたとき、同時にこの恋が決して報われないことを悟った。
それでも構わない、だなんて口が裂けても言えない。
でも、彼の頑なさにどうすればよいか分からない。自分の過ちへの後悔の念から、昔のように全身で彼にぶつかっていくことができない。
決して振り向くことのない横顔を眺めて、胸を焦がし、思い悩む日々。
桜の花が散り、落ちた地面で腐るように、否応なしにこの恋が終わるときが来るのなら、いっそ楽なのかもしれない。たとえそれが耐えがたいほどつらくとも、事実耐えられないのだとしても、今のこの状態がいつまでも続くことに比べれば、ずっといい。そんなことさえ考えるようになっていた。
だけど、シンジはそんなあたしを気にかけてくれた。無視しなかった。たとえ、それが誰にでも分け与えられる親切心なのだとしても、あたしの存在が彼の心を動かしたという事実は、この胸を一杯にした。
空を覆う厚い黒雲が、たとえ永遠に晴れないように思えたとしても、いつか風に流れ、散らされて、顔を出した太陽が熱く、眩しく輝くように、あたしとシンジの関係が変わる日が訪れる。
芽生えた希望はとてもささやかなものだけど、この土砂降りの雨の中、まるで本当に雲を割って日が差し込んだように、眩しくて、温かだ。
現実には、傘を潜り抜けた雨は、ひとかたまりになってこの身体にぶつかってくる。足元はもはや歩くというより泳いでいるようだ。息をするたび、雨の粒子は勝手にあたしの中に飛び込んでくる。
濡れた顔を毅然と上げ、あたしはシンジが駆け去って行った先を見つめた。そして、とうに消えて見えなくなった彼の背中に向かって、あたしは言葉を投げかけた。
――あんたが好きよ。たとえどう思われていようと、どれほどつらかろうと、あたし自身でさえどうにもならないほど強く、一途に、あんたのことを想っているわ。
視線の先は雨にけぶり、かすむばかりで、返事などかえってくるはずもない。
それでも、びしゃびしゃの顔に微笑みさえ浮かべて、歩き続けた。
頬を濡らすのが雨なのか、涙なのか、自分自身でさえ分からない。
この雨の中でシンジの見せた優しさが教えてくれたのは、たとえ厚い黒雲が太陽を背後に隠したとしても、本当に消し去ることはできないように、どんなに迷いや不安がこの心を曇らせたとしても、あたしの中にあるシンジの存在を消してしまうことはできないということだ。
だから、あたしがこの恋を雨の中の涙のように見失ってしまうことは、もう二度とない。
クリーニング店から戻ってきた弓道衣と傘を持ち、あたしはシンジの家へ向かっていた。あたしの家から十分ほど歩くと彼の家に着く。比較的近くに住んでいるのに、あたしたちが中学生になるまで知り合わなかったのは、あたしの家から彼の家に行く途中を横切るように走る大通りを隔てて小学校の学区が異なっていたせいだ。友達になったあとで、意外と近くに住んでいることを知ったあたしは、もしかすると、もっと早くに知り合えていたかもしれないのに、と内心で考えたものだ。
中学二年のころ、つまりあたしたちが仲が良かったころには、彼の家へよく遊びに行っていた。当時つるんでいた友人たちと一緒のこともあったけど、二人きりのことのほうが多かったかもしれない。そういう意味ではやはり、あたしたちの関係はただの友人というには近づき過ぎていた、と今になってみれば思う。いつも歓迎してくれて、お菓子や飲み物を出してくれたおばさんが、あたしの存在をどう思っていたかは定かでない。ひょっとすると、息子の彼女だと思っていたのだろうか。突然顔を見せなくなったあたしを今ではどう思っているのだろう。
道すがら考えるのは、シンジに何とお礼を言おうか、ということだ。あの時あたしがどれほど嬉しかったか、この胸の内を伝えるには、どんな言葉ならいいのだろう。
もちろん、彼があたしの訪問を迷惑がるかもしれないことは分かっていた。でも、借りたものはきちんと返さなくてはならない。特に弓道衣は、なくてはシンジも困るはずだ。彼の家を訪問する大義名分は立っている。そして、返す際にも無言で突き返すというわけにはいかない。一言二言、お礼とともに言葉を交わすのは当然のことだろう。
これを機に、一気にあたしたちの仲が改善するとは思っていない。あいにくあたしはそこまで楽観主義者ではない。けれど、ほんの一歩、いや半歩でもいい、ただ横顔を見つめるのみだった日々から、勇気を出して踏み出したい。神様なんてものがこの世にいるかは知らないけど、もしいるのなら、これはまさに神様が与えてくれたチャンスだ。
そんなわけだから、あたしは必死で頭を悩ませていた。それこそ、びしょ濡れで帰ったあの日から、数日間そればかり考えている。どんな言葉が最善か、あたしの気持ちを伝えられるか、シンジの心を捉えられるのか。いくら考えても、これだという答えは見つからない。それどころか、考えれば考えるほど、答えから遠ざかっていくような気さえする。
けれど、もう悩む時間はあまり残されていなかった。すでにシンジの家が視界に入っている。どんなに到着を遅らせようと頑張ってみても、その時はもう間近に迫っていた。
「ああもう、なるようになれだわ」
あたしは独り言を呟き、大きく深呼吸をした。なかばやけくそになってしまっている。本来あまり気が長いほうじゃないし、あれこれ思い悩むのは性に合わない。考えるよりは、当たって砕けるほうが自分らしい。シンジのことでうじうじしていたこの一年半が、そもそも異常事態だったのだ。
碇家はごく一般的な一戸建て住宅だ。その姿は記憶にあるものとほとんど変わらない。違うとすれば、最後の記憶では玄関前に雪が降りて真っ白に染まっていたのに対し、今は庭木が青々とした葉を茂らせ、鉢植えの花々が色とりどり鮮やかに咲き誇っていることだろう。
シンジが顔を見せたら、言葉を尽くす手間などかけず、いっそ抱きついてキスでもお見舞いしてやろうか。目に彩な花々にそんな浮かれたことを考えつつ、あたしは玄関わきのインターホンを慎重に押した。
ぴんぽーん、という軽快な音が響いてからしばらく待つと、玄関の内側で何やらばたばたと物音が聞こえてくる。ついに来た。あたしが身を固くしてその瞬間を待った。口の中がからからに乾いている。うまく声が出せるか不安だった。
「はーい」
がちゃり。呼び鈴に応える声とともに、玄関のドアが開かれた。
現れた相手の顔を見て、あたしは目を丸くし、次いでへなへなとその場にへたり込みそうになるのを必死でこらえた。
あたしを出迎えたのは、シンジのお母さんだった。
「あら、あなた、アスカちゃん? まあ、ずいぶん久しぶりねえ。大人っぽくなって見違えたわ。おばさん、びっくりしちゃった。やっぱりあれね、女の子は成長が速いのね。うちは息子しかいないから華がないったら。やんなっちゃうわ。女の子ってやっぱりいいわよねえ。本当、綺麗になって。あ、それはそうと、今日はどうしたの? シンジなら朝から出かけてるんだけど、何か用事だった?」
一息にそれだけ言い切ると、玄関から身体を出したおばさんは頬に手をあてがって、あたしの手の中のものへ興味深げな眼差しを向けた。クリーニング店のビニール袋ではあまりに味気ないと考え、トートバッグに入れて持参した弓道衣はおくとしても、雲一つない晴天に男物の黒い傘をしっかり胸に抱いた少女というのも、なかなか奇妙な図だろう。
おばさんの視線にさらされ、あたしの最初の言葉はのどにつかえたまま、行き場を失っていた。
当然こうなることは予想できた。シンジが不在という事態は充分に考えられた。でも、不思議とあたしはこの可能性を頭から除外していたのだ。
気負っていた分、余計にうろたえて固まってしまったあたしを見て、哀れを催したのか、おばさんは優しい声で言った。
「また出直すことにする、アスカちゃん? シンジはいつ帰ってくるか分からないし、あの子に会いに来てくれたんでしょ? 前もって電話してくれれば……、あら、いけない、アスカちゃん、うちの電話番号分かる? 教えましょうか?」
「あ、あの……」
「ん?」
おばさんの微笑みは、どこかシンジに似ている。口数が多いところは似てないけど。
ずいぶん久しぶりに顔を合わせたというのに、おばさんの態度はまるでつい先週別れたばかりみたいだ。
そうそう、おばさんはこんな人だった。どこをどうしてあんな繊細な息子を産んだのか不思議になるほど、ポジティブでアグレッシブな人。昔と全然変わっていない。このおばさんがよく作ってくれた美味しいレモネードがあたしは大好きだった。きっと、今でも息子のシンジに作ってあげているに違いない。
そんなことを考えると、少し心に余裕が生まれてきた。
「別に大した用じゃないんです。この前の雨の時、いかり……えと、シンジくんが傘と上着を貸してくれたから、それを返しに来ただけなんです」
綺麗に畳まれ、ビニールで包まれた弓道衣と傘をおばさんに差し出しながら、あたしは言った。
「シンジくんにありがとうと伝えてください。とても助かりました」
おばさんはあたしの手からシンジの傘と服を受け取ると、得心したように笑った。
「そういうことだったのね」
あたしが少し首をかしげて見上げると、おばさんはさもおかしそうに説明してくれた。
「あの子がずぶ濡れで帰ってきた理由。傘も弓道着の上着も学校に忘れてきたなんて言ってたけど、これで本当のことが分かったわ。どうせ格好つけるなら堂々とすればいいのにねえ、まったく。こっちは叱り損だわ」
「そんな、格好つけるなんて。シンジくんは優しいから……」
思わずうかつなことを口走ってしまい、あたしはおばさんの好奇の眼差しにさらされて真っ赤になった。中学生のころは元気いっぱい、悪く言えば傍若無人だった女の子が、たかだか一年や二年会わずにいたらこんなことを言うようになるなんて、おばさんはさぞおかしく思ったに違いない。事実、こちらを見るおばさんは笑いをこらえるようににやにやとしていた。
「あらまあ、あんなバカ息子にお世辞はいいのよ。上着もわざわざクリーニングに出してくれたのね。別に構わなかったのに。ありがとうね、アスカちゃん」
「はい……」
「それにしても、あの子に弓道なんて似合わないと思わない?」
おばさんはあたしから受け取った弓道衣を眺めながら、おかしそうに言った。
「そんなことないです。大会でもすごく似合って……ました」
しまった、とまた思った。どうもおばさんと話していると、ついつい余計なことを言ってしまう。
「あら、試合を観に行ったことあるの?」
できれば聞き流してほしい、というあたしの願いは叶わず、指摘されたくないところをずばり訊かれて、あたしはしどろもどろに答えた。
「と、友達に誘われて」
もちろん友達に誘われたなんて嘘だけど、おばさんは気付いているのかいないのか、「まあ、そうなの」とにこにこ笑って言った。
「中学校までのあの子って、はっきり言ってなよなよしてたじゃない。だから、急に運動部に入るなんて言い出した時は、どうかしちゃったのかしらと思ったわ。まあ、本人も真剣に打ち込んでるみたいだし、楽しんでもいるようだから、構わないんだけどね」
「はあ……」
「でも最初は、身体を鍛えたいなら野球とかサッカーとかにしたらって、おばさん言ったのよね。弓道なんて地味じゃない。そしたら、別に身体を鍛えるのが目的じゃないんだ、なんてむきになっちゃってね。うちのお父さんも、男が決めたことだから好きにやらせろ、なんて言うし。おばさんもそれ以上訊かなかったけど、何かあったのかしらね?」
「さ、さあ、あたしにもよく……」
おばさんの言葉にとぼけつつ、あたしは弓道部に入る決意を固めるシンジの姿を想像していた。高校の同じクラスに昔自分を傷つけたあたしがいることを知ったシンジ。もしかすると、それがきっかけだったのだろうか。
「ま、弓道のおかげか最近少しはしっかりしてきたみたいだし、アスカちゃんも似合ってるって言ってくれるくらいだから、案外あの子には合ってたのかもしれないわね」
意外としつこいおばさんは、先ほどあたしが口を滑らせたことをどうしても忘れたくないようだった。おばさんからすれば、息子を褒められて嬉しいのかもしれない。でも、いちいち繰り返されるあたしのほうは、にこにこ笑ってこちらを見ているおばさんの前で、赤くなって恥ずかしいのを我慢しなければならなかった。
あたしが考えていた筋書なら、本来は今ごろシンジへ直接お礼の言葉を伝えていたはずだ。けれど、実際には肝心のシンジがおらず、あたしはおばさんの前でおろおろしたり赤くなったりしてばかりいる。
こんなはずじゃなかったのに。心の片隅でそんな言葉もちらりと浮かぶけど、別にシンジのせいではないし、ましておばさんはまったく悪くない。心のもやもやは押し殺して、明るい女の子らしく、笑顔を浮かべるしかなかった。
「じゃあ、あたしはこれで失礼します」
「シンジが出かけていて申し訳なかったわね。ぜひまた遊びにおいでね。あの子も喜ぶから」
さすがにこれには何と答えてよいものか分からず、あいまいな表情で誤魔化すしかなかった。おばさんはそんなあたしを見て、何を勘違いしたのか、こんな風に付け加えた。
「でも、シンジなんかの相手をさせちゃ、アスカちゃんの彼氏に悪いかしら?」
「い、いえ! そんなことありません! あっ……、その、彼氏なんていませんから」
予想外の言葉に過剰反応してしまい、あたしはもういたたまれなくて、今にも逃げ出そうと足が勝手に後ずさりし始めていた。
でも、おばさんはそんなあたしにまったく動じず、ただ穏やかな口調で言った。
「そう。まあ、気が向いたらね。いつでもいらっしゃい。アスカちゃんの好きなレモネード、おばさんまた作ってあげるから」
その言葉にあたしは驚いた。ここへよく遊びに来ていたころ、楽しみにしていたおばさんのレモネード。もう二年近くも顔を見せなかったというのに、それをまだ憶えていてくれた、ということに胸がじんわり温まった。
正直なところ、シンジがいなかったことに拍子抜けしていた。緊張から弛緩への落差が大きい分、少し拗ねた気分になっていた。でも、おばさんのこの一言で、ここまで借りた傘と弓道衣を返しに来てよかった、と思うことができた。
「はい。ありがとうございます。お邪魔しました」
大きな声でおばさんに答え、ぴょこんと勢いよくお辞儀をする。そして、頭の動きに追いつこうと頑張っている長い髪の毛を置き去りにするように、あたしはぱっと身をひるがえして道路へ飛び出し、まるであの雨の日のシンジのように、汗だくになるのも構わずそのまま家まで駆け戻っていった。
その後、夏休みが終わって新学期が始まるまで、あたしは一度もシンジに会わなかった。おばさんはいつでも来ていいと言ってくれたけど、まさか本当にそんなことができるはずもない。少なくとも、シンジの気持ちを確認してからでなければ。
それなら電話をすればいい、というのは確かにそのとおりで、シンジの携帯電話の番号(もし変更されていなければ)も、自宅の番号も中学時代からちゃんと知っていたのにそれをしなかったのは、あたしが臆病だからだ。一体何に対して臆病になっているのかというと、ようするにあたしは、はっきり言葉にして拒絶されるのが怖いのだ。これまでのように、シンジがあくまであたしとの関わり合いをできるだけ避け、そっけない態度を取ることしかしないのと、明確な言葉に出して拒絶するのとでは、まったく話が違ってくる。
加えて、もう一つ気にかかっていることがあった。マナのことだ。夏休みに入る前、マナはシンジへ告白するようなことを言っていた。その後、本当に告白をしたのかどうかは知らない。夏休み中に会った時も、彼女はその件に触れなかった。でも、あたしは彼女が有言実行の人であることを知っている。好きな人に好きと伝えるのをためらわない、からっと晴れた明るさが彼女にはある。どちらかというと意地っ張りで素直でないあたしとは大違いだ。そんな彼女だから、たぶんすでにシンジへ告白をしただろう。
新学期初日、あたしは思い切ってマナにそのことを訊いてみた。
「ねえ、マナ。夏休み前に告白するとか言ってた話、どうなったの?」
すると、問われたマナはちょっと気まずそうに、たはは、と笑って答えた。
「ああ、あれ? 告白はしたけど、振られちゃった。好きな人がいるんだってさ。だから、ごめんって」
「ふ、ふぅん」
マナにはとても申し訳ない気がしたけど、シンジが彼女の告白を断ったと知って、あたしはほっとした。でも、それより気になるのが、シンジに好きな人がいるという事実だ。当然、それはあたし以外の女の子に違いない。もちろん、そういう相手がいたとしてもまったく不思議ではないけど、現実に耳にすると、想像以上にショックが大きかった。
ところが、マナはあたしとは違う考えを持っているようだった。彼女は枕にした腕にあごを乗せ、こちらを上目遣いにみながら、こう言ったのだ。
「わたしさ、碇くんの好きな人ってアスカじゃないかと思うんだ」
あたしはびっくりして、ぶんぶんと首を横に振った。
「そっ、そんなわけないわよ。もう、変なこと言わないで」
そんなことあるわけない。あたしは本当にそう考えていた。でも、完全に振り払ってしまうには、マナの言葉はあまりに魅力的だった。本当にシンジの好きな人があたしだとしたら? あり得ないと分かってはいても、あたしは頬が熱くなるのを感じた。
「ほほう。まんざらでもないようですな」
目を細めていたずらっぽく言うマナ。
「やめてったら、もう」
「あーあ。振られて心に傷を負ったわたしを慰めてくれる友達もいないなんて。何て不幸なのかしら」
「あぐ……」
わざとらしいマナの台詞に、あたしはさすがに言葉が出てこなかった。何しろあたしには、振られたマナを気遣う気持ちは、これっぽっちも浮かんでいなかったからだ。相手がシンジでなかったら、もちろん話は違っていたけど、それはいいわけというものだ。やはり、あたしは自分勝手でひどい女なのだ。
「ご、ごめんね」
あたしはしょんぼりしてマナに謝った。一瞬でもシンジの気持ちがあたしにあるのかもと浮かれたのが恥ずかしかった。
ところが、マナはこらえきれないという風に噴き出すと、神妙な顔をしたあたしに言った。
「うぷっ。冗談だってば。そんなにしょげないでよ。まあ、碇くんのことはちょっといいなと思ってたから、正直残念だし、落ち込んだりもしたけどさ。他にも素敵な男の子はいっぱいいるもの。だから、明るく前を向かなくちゃね。マナちゃんはこれくらいでへこたれるような弱い子ではないのです」
にっこり、愛嬌のある笑顔を満面に浮かべたマナのおどけた言葉に、あたしはちょっと感動した。
「マナってすごいのね」
「ふふん。女の子はタフじゃなきゃ。アスカにもわたしの元気を分けてあげよう」
得意げに鼻を鳴らしたマナは、そう言ってあたしの頭に手のひらを乗せて、わしゃわしゃと撫でまわした。
「ほぉーら、よしよし。元気になぁーれ」
「わっ、ちょっともうっ! 髪の毛がぐちゃぐちゃになるじゃない」
マナの手がまるきり無造作にかき混ぜるものだから、両サイドで結んだ髪がぐちゃぐちゃになる。あたしはそれから慌てて逃れ、笑いながらふと視線を教室の一角に移した。
瞳に映ったのは、こちらが見るのと同時に視線を逸らしたシンジの横顔。
ひょっとして今……目が合った?
「こらこら、どこに見とれてるのかなぁ、アスカ」
「べっ、別に? 何も見てないわよ?」
素早く振り返ってあたしは誤魔化した。
「ふぅーん。ま、いいけどね。そんなことよりアスカ、頭がもじゃもじゃだよ」
「あっ、あんたのせいでしょ、もう。直すの手伝ってよ」
「いいよ。結んであげる」
マナに髪を直してもらいながら、あたしはさっきのシンジの視線のことを考えていた。
勘違いではなかった、と思う。確かに彼はこちらを見ていた。
「いいなあ。アスカの金髪。わたし、染めようかなぁ」
「あたしは黒いほうがよかったわ」
「うーむ、隣の芝生か」
ほどいたあたしの髪を櫛でとかしているマナと会話しながら、目だけをシンジのほうへ向ける。
そこに映るのは、いつもの無関心な横顔だけ。
でも、さっきのは……。
「ねえ、変な髪型にしていい?」
「ダメ。元どおりにして」
「ちぇ」
その日は朝から泣き出しそうな空だった。
二学期が始まって数日間、あたしの物思いはこの曇り空のように厚い雲に覆われていた。マナの言うあたしの『うわの空』はますますひどくなっていた。
もう一度、シンジの視線がこちらを向くことはないか。考えるのはそればかりだ。
けれど、目が合ったのはあの一度きり。あたしばかりがいつもと変わらないあの横顔を眺めていた。
実はあれは幻だったのではないか。そのようにさえ思えてくる。
「またいつものうわの空? おーい、お留守ですかー? ……ダメだこりゃ」
話しかけてくるマナの声にふと我に返り、あたしは彼女を見てかぶりを振る。
「ああ、マナ。ごめん、何か言った?」
「どうでもいいけど、事故とかには遭わないでよね」
「やだ、平気だったら」
放課後、クラブ活動を終えてマナと一緒に学校を出た。他愛ない話をしながら歩き、途中から彼女と別れて一人になる。雨はすでに降り出していた。赤い傘を頭上に開き、通い慣れた道を家へと進む。
まだ夏の暑さが溶け込んだぬるい雨に、わずかに秋の冷たさが混ざっている。季節はまた移ろおうとしている。では、あたしは? 決して晴れることのない厚い黒雲に閉ざされた空のようなあたしとシンジの関係が、雲一つなく明るく晴れ渡る日はいつ? ほんのわずかな雲の切れ目から差し込むか細く頼りない希望の光が、いつかあたしの心を端から端まで照らしてくれるようになるのはいつなの?
物思いに沈むあたしの瞳が、行き交う人々の後ろ姿の中に彼を見つけたのは、あの交差路のすぐ手前だった。
あの黒い傘、細長い弓、何よりあの後姿をこのあたしが見紛うはずがない。
胸が大きく鳴った。と、次の瞬間には、ほとんど考えることさえせず、あたしの身体は勝手に小走りで前に駆け出し、この口が彼の名を呼んでいた。
「シンジ!」
呼び声に背中が揺れ、彼は立ち止った。振り返ったシンジと三歩の距離を残して、あたしは正面から向かい合った。
シンジは戸惑っているような、どこかつらそうな表情をしていた。高校で再会して以来、彼がそんな風に表情を見せるのは初めてのことだった。それは、あたしのせいなのだ。昔振られた傷がいまだに癒えていないにせよ、あるいは他の理由にせよ、あたしが彼にあんな顔をさせている。
それは、あたしにとって確かにつらいことだ。でも、だからといって今ここから逃げ出してみても何にもならない。久しぶりにシンジの顔を正面から見たあたしは、急にそのことを理解した。
シンジはあたしを嫌っているかもしれない。でも、たとえ嫌われていたとしても、あの激しい雨の日に触れた彼の優しさに、あたしは感謝している。彼のあたしに対する感情がどうであれ、あたしは彼のことが好きなのだ。だから、委縮する必要などどこにもない。あたしはただ、自分の中にしっかりとあるこの事実に、顔を上げて胸を張ればいいのだ。
雨があたしたちの傘のおもてに柔らかく弾けている。二人とも、傘を差して向かい合ったまま、身じろぎもせず見つめ合っていた。あたしたちの心が離れ離れになってからの一年半以上に及ぶ時間が、二人の間に横たわっているようだ。
この雨がやみ、明るく晴れた空にかけられた虹の橋を渡ってあらゆる障害を乗り越え、シンジの胸へ飛び込むことができたなら、どんなにかいいだろうと思う。でも、現実にそうできないからといって、あたしはもう拗ねたりはしない。
「あの夕立の日は、ありがとう。助けてくれて嬉しかった。きっとシンジは相手が誰でも同じことをしただろうけど、それでもあたしがどれほど嬉しく思っているか、それだけは伝えたくて……本当に、本当に、本当に嬉しかった」
あたしの言葉を聞いても、シンジは無言だった。でも、それでもいい。あたしは苦笑いを浮かべて考えた。
「呼び止めて悪かったわ。言いたかったのはそれだけ。それじゃあ……また明日」
最後の「また明日」という言葉を口に出すのをあたしはためらった。同じクラスとはいえ、ほとんど関わりを持たず過ごしているあたしたちにとって、そんな言葉に何の意味があるだろう? けれど、迷った末に、やはりあたしはこの言葉を伝えずにはいられなかった。
この言葉は、希望なのだ。たとえ今日は雨が降っていたとしても、明日には明るく晴れるかもしれない。今は気持ちが通じ合えなくても、いつかはそれが変わるかもしれない。
あの忘れられない雪の日、この言葉を最後にあたしたちの関係は変わった。そしてまた、同じ言葉から、再び関係が変わることもあるかもしれない。願わくば、それがよい変化であってほしい。そういう希望が込められた言葉。
これ以上シンジの顔を見ていられなくて、あたしは傘の下で顔を伏せ、立っている彼のわきを通り過ぎて行こうとした。
彼を追い越し、交差路の曲がり角を折れようとした時、突然名前を呼ばれて、あたしは足を止めた。
「アスカ」
その呼び声は、気絶してしまいそうな強さで、あたしの心臓を打った。
シンジは今あたしのファーストネームを呼んだ。先ほど後ろからあたしが呼びかけた時、彼のファーストネームを呼んだのは、無意識のことだった。でも、彼はそれに対して、意識的に応えてくれている。もちろん、これはあたしの推測にすぎないけど、彼の声には慎重に言葉を選んでいるような響きがあった。
ゆっくりと身体ごと振り返ると、シンジが先ほどのように三歩ほど離れたところにこちらを向いて立っていた。
「僕はアスカの思っているような人間じゃない。あの夕立の時だって、あそこで濡れて立っていたのがアスカじゃなかったら、僕はそのまま通り過ぎていた」
シンジの言葉は、降り続く雨があの日の夕立のように激しかったなら、かき消されてしまいそうな声だった。
そんなことない。あたしはそう言って否定してあげたかった。でも、言葉が喉につかえて出てこなかった。
誰にでも優しいシンジ。けれど、あたしは心のどこかで、その優しさが自分だけに向けられていればいい、と思ってはいなかっただろうか。もうずっと前、あたしたちが初めて出会って、仲のいい友達になったあの時から、本心では彼の優しさも何もかもを独占してしまいたかったのだ。
「好きなんだ。一度アスカに振られてから諦めようと思ったし、その努力もした。話をせず、視線も合わせず、まるで最初から知り合いじゃないみたいな冷淡な態度を取り続けていれば、いつかはこの気持ちが消えてくれると思っていた。でも、駄目だった」
シンジは雨に濡れたアスファルトに一度視線を落とし、それから再びまっすぐに、驚いているあたしを見た。それはまっすぐに空から落ちてくる雨のしずくのように愚直で、一途な眼差しだった。
「どうしても駄目だったんだ」
彼の切々とした言葉は、あたしの胸に深く刺さった。
あたしが振ってしまったあとも、シンジがずっとあたしを好きていてくれたなんて、とても信じられないような気がした。もしそれが本当だとしたら、これまでずっと彼を見続けてきたのに、そのことに気付かなかったあたしの目は何て節穴なんだろう、と自己嫌悪で自分を責めたい気持ちが湧き上がってくる。
でも、それ以上に喜びのほうが勝っていた。彼の言葉を信じるなら、あたしたちは両思いということになるのだ。
まさかこれは夢ではないのかしら。そう思って、自分のほっぺたをつねった。
「いたっ」
あたしは痛みに思わず声を上げた。
どうやら夢ではないらしい。でも、本当にこんなことがあるなんて。
「嘘だわ」
呆然とつぶやくあたしに向かって、シンジは答えた。
「本当だよ」
「だって、あたし、ずっと無視されて……、シンジはあたしのことなんて」
盛り上がってきた涙のせいで、視界がゆがんだ。
「ほ、本当にあたしのこと、好きなの?」
あたしが問うと、ぼやけた視界の中でシンジが頷くのが分かった。
「シンジ、いまさらと思われるかもしれないけど、あたし……」
あたしと付き合って。
舌の上に乗せようとしたその言葉に覆いかぶさるように、シンジの言葉が重ねられた。
「駄目だよ」
首を横に振る彼を見て、血の気が引いて身体が冷たくなるのが分かった。
でも、次に続けられた彼の言葉は、あたしが予想したものとは異なっていた。
「駄目だよ、アスカ。それは僕に言わせてくれなくちゃ」
「そ、それじゃあ……」
ほとんど息をするのも忘れて彼を見つめる。
居住まいを正したシンジは、丁寧で心のこもった声で、あたしに交際を申し込んだ。
「僕と付き合ってくれますか?」
シンジが言い終わるか終らないかという内に、あたしは三歩の距離を一息に飛び越えて、彼の身体に飛びついていた。
言葉にならない、うめき声とも泣き声ともつかないものが喉の奥から漏れるのが分かった。放り捨てられた傘が、一拍遅れて地面に落ちる音を立てる。
昔より高い位置にある彼の首にきつく腕を絡め、その首筋に顔を埋めてあたしは泣いた。
「返事を聞かせて?」
傘を畳み、両腕で背中をしっかり抱き締め返すシンジが、耳元でささやいた。
いつの間にか雨はほとんど上がり、明るい日が差し込み始めていた。
彼の問いかけへの答えは決まり切っていた。でも、とてもではないけど、きちんと答える余裕なんてなくて、彼の首筋に顔を埋めたまま、あたしは必死になって、何度も頷いた。
「オーケーしてくれるんだね」
「シンジと付き合う。あたしも好きだから。ずっとずっと、好きだったから」
やっとのことでそう答えると、あたしは日差しの暖かさを頬に感じながら、閉じたまぶたに空の知らない雨をあふれさせ、シンジの優しい肩を濡らし続けた。
エピローグ
お互いに行き違いや誤解もあったけど、やっとのことで付き合うようになったあたしとシンジの仲は、それ以来おおむね順調だ。
およそ一年半も続いた悩みごとから解放されたせいか、すっかり昔のような調子を取り戻したあたしは、頻繁にシンジに無茶を言ったり喧嘩したりもするようになった。といっても、そこから別れ話に発展したことなんて一度もない。ようするに、あたしのわがままは愛情表現の一つなのだ。親友のマナに言わせれば、『いちゃついてるだけでしょ、アホらしい』となってしまうのだけど。
「あーあ、それにしても」
付き合い始めてからの日課となって久しい、部活後に待ち合わせたシンジと手を繋いでの下校途中、あたしはふとあることを思いついて、大袈裟にぼやいた。
「どうしたの、そんな声出して?」
応えるシンジの声はひたすら優しい。付き合うようになって分かったことだけど、誰にでも優しいと思っていた彼は、確かに彼がいつか打ち明けた言葉どおり、あたしに対してだけ過剰なほど甘かった。ずっとこれに気付かなかった中学二年のころのあたしの感覚は、本当にどうかしていたようだ。どうもシンジは、あたしになら何をされても許す気になってしまう、と考えているみたいだ。とはいえ、それをいいことにあたしが調子に乗りすぎると、さすがの彼も怒ってしまい、機嫌を直すのに苦労してしまうことになる。まあ、大抵はいちゃいちゃしていれば仲直りできるのだけど。
それはともかく、あたしは唐突に気付いてしまった大変な発見をシンジに訴えた。
「考えてみれば、あたしたち、ものすごく時間を無駄にしたわ。デート八百回分くらい無駄にした」
「いや、それ一日一回超えてるから」
もはや慣れたもので、シンジの突込みはよどみない。
「じゃあ、七百九十回」
「変わらないって」
ほっぺたを膨らませて言い直したあたしに対しても、シンジは冷静に突っ込んだ。
まったく、生真面目というか、少し頭の固いところがあるというか。
彼の腕にしがみ付いて、顔を擦り付けることで、あたしは無言の抗議をした。どうしてそれが抗議になるかなんて訊かないでほしい。
回数が問題なのではなくて、ようするにあたしが言いたいのは、一回目の告白を断ってしまったことで、それだけたくさんのいちゃつく機会をみすみす逃してしまったのが惜しい、ということだ。この地球はあと五十億年は存在し続けるというのに、あたしたちの余命はせいぜいあと六、七十年しかないのだ。この短い人生であと何度、こうして手を繋いで歩けるだろう。あと何度キスできるだろう。エッチできるだろう。それを考えたら、一秒の千分の一だって無駄にはできない。
「大丈夫だよ、アスカ」
あたしの気持ちを察しているのかいないのか、シンジの声はきわめて楽観的だった。
「そういう安請け合いって、あたし嫌い」
ぷいっと顔をそむけ、それとは裏腹に彼の腕を身体いっぱいにきつく抱き締めて、あたしは拗ねた。何だか焦っているのがあたしだけのように思えて、面白くないのだ。こちらは少しでも長く、たとえ一秒の一万分の一でも長くシンジと一緒にいたいと思っているのに、当のシンジはそんなことをまったく気にしてないように感じられる。彼がこんなだから、あたしは拗ねている最中でも彼を手放すわけにはいかないのだ。
しっかりしがみ付いて、顔だけは道の向こうに背けているあたしに、シンジはくすくす笑った。あたしは頬がかっと熱くなったけど、引き下がるわけにはいかない、と自分を叱咤した。一度こういう態度を取ったからには、それ相応のものを相手から引き出さないことには、なびくわけにはいかない。
これは、威厳の問題なのである。たとえシンジに命がけで恋をしているとはいっても、矜持は守られなければならないのだ。
こんなわけで、くちびるをへの字にして頑張っているあたしの耳元に口を寄せ、シンジはくすくす笑いのままにささやいた。
「この先ずっと一緒にいるから。アスカが泣いて頼んだって絶対に離してあげないよ」
あたしは真っ赤になって、そっぽ向いていた顔を彼のほうへ戻した。そこにはしてやったりという笑顔が浮かんでいた。
「あんたってしつこい男だったのね」
憎まれ口を利くと、シンジは平然と切り返してきた。
「そうだよ。知ってるでしょ。そのおかげで今こうしてアスカと付き合えるようになったんだから」
確かにそのとおりだ。ぐうの音も出なかったので、代わりにあたしは別の角度から彼を責めた。
「あたしが泣いて頼んでも許さないなんて、シンジの変態。鬼畜。そういえば初めての時だって……」
「バ、バカ。こんなとこで何言ってるんだよ」
シンジは慌ててあたしの口を塞いだ。誰が耳を傾けているというわけでもないのだけど、白昼の往来でこの手のことを口にするのを彼はひどく嫌がる。恥ずかしがりなのだ。こんな時には、弓道による精神修養も役に立たないらしい。というより、修行が足りないのよね、とあたしは考えた。このほうが可愛いから、足りないままでいいのだけど。
もっとも、あたしも別に露出癖があるわけではないので、他人にこんなことをひけらかすような真似はしない。でも、実は最近彼氏ができた親友のマナには例外として、微に入り細を穿って話をしていると知ったら、シンジはぶっ倒れるかもしれない。ちなみに、もし立場が逆だった場合、あたしは恥ずかしさと怒りのあまり、秘密を知った人間を記憶がなくなるまで殴ると思う。
それはともかくとしても、ひとまず一矢報いて体面を保てたあたしは、ようやく素直になることにした。といっても、彼にしがみ付いて隣を歩くのに変わりはないのだから、はた目にはあたしの内心の格闘など理解されないに違いない。
「ねえ、シンジ。今日シンジの家に行ってもいい?」
「うん。いいよ」
「あたし、おばさんのレモネードが大好きなの。作ってくれるかしら」
甘酸っぱくて美味しいレモネードは、まるであたしたちの恋のよう。こんな風に思うようになったのも、シンジと付き合い始めてからのことだ。おばさんのレモネードには、中学二年のころの懐かしくて楽しい思い出に加えて、今のあたしたちの幸せも溶かし込まれている。
「それが目的?」
もっとも、そんなあたしの感傷など知る由もないシンジは、ちょっと苦笑していた。
だから、というわけでもないのだけど、あたしはこう言い添えた。
「まあ、あんたがいるとこなら、どこだっていいんだけどね」
予想以上に本心を打ち明けるのが恥ずかしくて、最後のほうはシンジの肩に顔を押し付けて、ごにょごにょ言うだけになってしまったけれど。
でも、意外と耳がいいシンジは聞き逃さなかったらしく、あたしの肩を抱くと、顔を寄せてキスしてくれた。人目のある場所でこんな風に彼からしてくれるのは、とても珍しい。それくらい、あたしの言葉は彼を喜ばせたようだ。
「くちびる、柔らかいね。くちびるだけじゃなくて、どこもかしこも、何でこんなに柔らかいんだろ」
シンジは純粋に感動しているみたいだけど、そんなことを耳元でささやかれるこちらとしては照れ臭くて仕方がない。だから、あたしは彼が触れたばかりの、濡れたくちびるを尖らせ、つっけんどんに言い返した。
「当たり前でしょ。女の子はみんなそうなのよ」
それから、ふと思いついて、もう一言だけ付け加えた。
「でも、あたし以外の女の子では確かめないでね?」
おわり
あとがき
最後までお付き合いくださり、誠にありがとうございました。
低調なお話ですみません。
エピローグは蛇足です。
最近ふと読み返してみた自分のお話がどれもこれも面白くなかったので、あまりひねったりせず、難しくもない、幼なじみのほんわかほのぼのしたお話を初心に帰って書いたりしていたのですが、そのうちに「もっと低調なものを書くのだ」という悪魔のささやきが聞こえ始めました。
そんなお話は受けないと重々承知していたのですが、身体が言うことを聞きませんでした。
もっと面白いお話が書きたいです。
書けたらいいと思います。
あと、全然関係ないんですが、ドラクエのお話が書きたいです。3と4と5で。自己満足のために。
それでは、読者の皆様、ジュン様。
このたびもありがとうございました。
rinker/リンカ
リンカ様から短編を頂戴しました。
ようやく読書の秋が参りまして、管理人もがんばって書いておりますと、タイミングよくご投稿をいただきました。
個人的には「お前もがんばれ!」と叱咤していただいたような気持ちになりました。
(あ、私えむではありません、念のため:笑)
恋に鈍感なアスカというのは私的にはつぼであります。
その感覚に気がついたら一気に燃え上がりそうですけどね。
「好き」という感情を理解できていなかった過去は消すことができません。
ですが「未来」は変える事ができるのです。
その彼女を導いてくれたのはやっぱりシンジだったのですね。
きっと彼女への気持ちを支え続けるために選んだ弓道が彼を強くしたのでしょう。
シンクロナイズドスイミングとかでなくてよかったですね、なんとなくですけど。
さぁて、私もがんばらねば。
本当にありがとうございました。
(文責:ジュン)
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