網膜が光の洪水に慣れ、ぼやけた輪郭が焦点を結ぶまで、その正体が分からなかった。
まぶたを開けたあたしの目の前に広がっているものは、ふわふわした白くてやさしい何かだった。
「……ケーキ?」
それは厚紙の皿に載せられている丸いケーキなのだった。真っ白なホイップクリームに覆われていて、火のともされたロウソクが何本も立てられている。
自らの口から出てきた枯葉をこするようにしわがれた声にびっくりしつつ、どうして目を開けると顔の前にケーキがあるのだろう、とぼんやり考えていたら、どこからか名前を呼ばれた。
「アスカ?」
呼び声に視線をケーキから離してさまよわせると、不安げに揺れる一対の黒い瞳とぶつかった。ケーキを捧げ持ってこちらを見ている黒髪の少年が、呼び声の主に間違いなかった。
「……ハイ、シンジ」
同居人の碇シンジの名を呼び、彼の今にも崩れ落ちそうに歪んだ顔を見ていると、あたしは帰ってきたのだ、という実感が襲ってきて、また視界が焦点を結ばなくなった。
「……泣いてるの、アスカ?」
「バカね。見りゃ分かるでしょ」
消え入りそうなしゃがれ声で、それでも言葉だけは威勢よくあたしは言い返した。
場所は病院の一室らしかった。そこであたしはベッドに寝かされていた。腕に繋がっている管は点滴のものだろう。しゃがれきった声や、萎えたように力が入らない手足のことを考えると、かなりの期間こうしているのかもしれない。
「ちょっと手を貸してくれない。あたしの手を握って」
自分ではまったく腕を持ち上げられないので、あたしはただじっと彼を見つめて、手を握ってくれるのを待った。しばらく逡巡してやっとその気になったシンジは、おずおずとシーツの中にあるあたしの手を探り当てて握ってくれた。彼の手は、優しい体温としなやかな弾力を持っていて、触れ合うことへの原始的な喜びを感じることができた。
「ママが死んだ時にね、人目を盗んで棺の中に手を入れて、死化粧を施された白い頬にこっそり触れてみたの。ねえ、あんたは知っていた? 死んだ人間の身体って、思わずぎょっとするくらい冷たいのよ。あの冷たさ……忘れられないわ……」
シンジは何も答えなかったが、あたしの手をしっかり握っていてくれた。あたしもわずかに動く指で彼の手を繰り返し何度も確かめた。こんな風に甘えられる相手ではないことは百も承知だったが、それでも今この時だけは許してもらいたかった。
「でもあたしは、生きていた頃のママの温かさも憶えている。あんたの手も、ママみたいに温かいのね。まるで皮膚の内側で燃えているように。それをこの手で感じることができる」
あたしは自分が一度は捨て去ろうとしたもののことを思い、最後にはやはりしがみ付いて手放さなかったもののことを思った。
「あたしは生きているのね……」
涙は尽きせぬ湧水のように溢れ続けた。それはこの身の奥深いところから生じ、あらゆる思いを少しずつ溶かし込みながら、透明な流れとなって目じりからこめかみを伝い落ちていく。この身体の中には十年もの間、様々な思いが堰き止められ、淀み、心を蝕む毒となっていた。しかし、これからは違う。きっと違うはずだ。
「なぜ泣くの?」
少年のものよりか細い声に問いかけられて、涙を流し続けていたあたしは何度かまばたきをして、声のしたほうへ視線を向けた。すると、それまで注意を向けなかった少年の後ろから、髪の短い少女がひょっこりと顔を覗かせた。
少女の名は綾波レイといって、あたしやシンジと同じくエヴァンゲリオンのパイロットだ。その第一の適格者(ファースト・チルドレン)であったので、あたしはファーストと呼んでいた。同居人のシンジはともかく、綾波レイまでこの場所にいることは少々意外だったが、別に嫌な気はしなかった。
彼女の問いは、幼いクヌートが発するのと同じ単純さを持って、じかにあたしの心に響いた。
なぜ泣くのか、という問いの答えは、最初から分かっていた。
「生きてるからよ」
「なぜ生きていると泣くの?」
あたしの答えをそのまま打ち返すように、綾波レイは二つ目の質問を放った。
今度のは一つ目より少し難しかった。あたしは結局うまく説明する言葉を見つけられず、逆に質問し返した。
「あんたは泣かないの?」
これには綾波レイも意表を突かれたらしかった。といっても、見る限りでは表情の変わった様子はなかったが。
「……わたしは泣いたことがない。これまでに一度も」
「それはもったいないわね」
正直な感想だった。綾波レイは理解できないという顔をしたが、何だかあたしにはそれがおかしかった。
こんなやり取りをしているうちに、いつまでも止まらないと思われた涙はいつの間にか引っ込んでいた。いまだに手を握ってくれていたシンジにもう離してもいいと伝え、何度か咳払いしてしゃがれた声を整えると、改めて二人を見た。
「二人とも、そろそろ説明してもらえるかしら。今日は何月何日? あたしは一体どれくらいこうしているの?」
シンジと綾波レイは一旦顔を見合わせてから、シンジのほうが説明を始めた。
「今日は十二月十八日だよ。アスカがここへ……病院へ来てから、もう二週間になる。その間ずっと眠っていて、目を覚まさなかったんだよ」
二週間と聞いて、思わず目を回しそうになった。母はあたしが昏睡状態にあると言っていたし、それが一日や二日ではないとは何となくわかっていたが、事実を知ってみると、何とも怖いような気がしてきた。本当に危ない状態だったのだ。母の力がなければ、あっさり死んでいたか、あるいは昏睡したままずっと目を覚まさないか、どちらかだっただろう。
「弐号機はどうなった?」
あたしが訊くと、シンジは顔をこわばらせて言い淀んだ。
「そんな顔するんじゃないわよ。いいから教えて。知りたいの」
「ご、ごめん……。その……」
シンジはあたしの執着を間近に見て知っている。それだけに、彼の態度は理解できた。穏やかに質問するあたしの態度を怪我の後遺症の影響であると彼が疑ってもおかしくない。
できるだけあたしを刺激しない言葉を選ぼうとしているのか、シンジがなかなか話し出せずにいると、代わりに綾波レイが淡々とした口調で教えてくれた。
「弐号機は損傷が激しくて、元どおりに修復するのは難しいと赤木博士がおっしゃっていたわ」
「……そう。教えてくれてありがとう」
あたしが素直に礼を言ったことによほど驚いたのか、感謝された少女よりそれを横で聞いていたシンジのほうが面食らった顔をしていた。
エヴァに乗ることはあたしにとって愛されるための手段だった。いや本当は、エヴァに乗って何がしかを成し遂げれば免罪符が得られると考えていたのだ。犯した罪により愛し愛されることの許されない身となったあたしが、再びその資格を取り戻すのに必要な免罪符。だが、今ではもう分かっている。愛情を得るためにそんないいわけは必要ない。誰かを愛するのに資格なんて必要ない。母やエリザがそれを教えてくれた。だから、あたしはもう二度と愛を恐れない。
とはいえ、それでもエヴァが大事なものであることには変わりなかった。弐号機が母の記憶を宿していようがいまいが関係なしに、だ。だから、弐号機が無事に修復されればいいとあたしは願わずにはいられなかった。
「あれから次の使徒はまだ現れていないわ。あなたはまず、身体を回復させることに専念して」
「そうね……。いずれにせよ早く元気にならなくちゃね」
綾波レイの言葉に相槌を打ったあたしは、天井を見上げながらこれからのことを考えた。
この先、あと何体使徒が現れるかは分からない。弐号機が修復されて戦いに復帰できるかどうかも。
それでもあたしは自分にできることをしよう。弐号機があろうとなかろうと関係ない。自らが生命をかけた戦いを最後まで見届けよう。同じように生命をかけている仲間のそばで……。
「この二週間ずっと、すごく心配していたんだ。アスカが意識を取り戻してよかった」
どうも本心からそう言っているらしいシンジを前にして、あたしはどんな顔をしていいものか分からなかった。これまであたしの態度は彼に優しかったとはお世辞にもいえないが、少なくとも心配の一つもしないほど嫌われていたわけではないようだ。綾波レイにしてもわざわざ病室に来ているくらいだから、多少は思うところがあるのだろう。何といっても、この少女はおよそ社交性の社の字も知らないのだ。
あるいはあたしが死に瀕するという事実に直面して、彼らの中で何かが変わったのかもしれない。エヴァに乗るという行為はこういう危険を孕んでいるのだと、初めて実感したのかもしれない。人とはこうやって死んでいき、逆にちょっとしたことで生き延びたりもする。
もしあたしが本当に死に、この世界から永遠に消えていたとしたら、シンジたちは何を思っただろう。その後も生き続ける彼らの記憶の中に、あたしの存在を留めていてくれただろうか。
「ありがとう。あたしもまたあんたたちに会えてよかった」
「えっ?」
素直になるというのは、慣れるまでは自分も周りも大変なものなのだ。豆鉄砲を食らったような二人の表情を見て照れくさくなったあたしは、二、三度ほど咳払いをしてから、二人のどちらにというわけでもなく頼んだ。
「ねえ、水が飲みたいわ」
「あっ、そうか、喉が渇いてるよね。気付かなくてごめん」
予想はしていたが、反応したのはやはりシンジのほうだった。
準備のいいことにキャビネットにミネラルウォーターと吸い飲みを置いていたらしく、シンジはすぐにそれを用意してくれた。が、吸い飲みをあたしの顔を前に差し出してから、いまさら気付いたようにシンジはためらいを見せた。
「あたしは動けないのよ。ちゃんと口元まで持ってきて飲ませて」
あたしが催促すると、どんな葛藤があるのか知らないが、彼は緊張した面持ちで吸い飲みから水を飲ませてくれた。
水が二週間ぶりにのどを潤すと、しゃがれた老婆みたいな声も多少はましになった気がした。
「それで、さっきのケーキは一体何? あたしの顔にでも乗っけるつもりだったとか?」
顔にぶつけるのはケーキでなくてパイだが、二人はあたしの冗談にくすりともしなかった。まあ、さきほどまで昏睡していた病人のジョークにしても笑えないかもしれない。そもそもあたしにはあまりユーモアのセンスがないのだ。これまで磨く機会がなかったのだから仕方がない。
「あれはアスカのバースデーケーキだよ」
真面目くさった顔でシンジは答えて、キャビネットの上に置いていたケーキを再び持ってきてあたしに見せてくれた。
「……あたしの誕生日がいつだか知っているの? なぜ?」
少なくともこの十年、他人に誕生日を教えたことはないし、同居人とはいえシンジもその例外ではない。むろん、所属しているネルフにはあたしの個人データが登録されているだろうが、その手の情報をあさる趣味がシンジにあるとは思えなかった。何しろ他人の好物を聞き出すのにも決死の覚悟が必要なのがこの少年なのだ。
「何でって、アスカのお父さんが教えてくれたから」
シンジの答えは意外という以上のものだった。よもやここであたしの父が出てくるとは露思わず、あまりにも予想外なその言葉にぽかんとしていると、彼も最初から説明が必要だと考えたのだろう、ケーキを持ったまま視線をさまよわせて話し始めた。
「アスカがここへ担ぎ込まれた日、つまり十二月四日に、家に電話がかかってきたんだ。相手は女の人で、外国語をしゃべっていたから、ぼくには何を言っているのかさっぱり分からなかった。どうしていいか分からなくて困っていると、今度は男の人が代わって出てきて日本語でしゃべってくれたから、やっと会話が通じた。それがアスカのお父さんだったんだ。アスカのお父さんって日本語上手なんだね。さすが家族って感じ。最初の女の人はアスカのお母さんで……あれ? そういえば、さっきお母さんは亡くなったって……?」
「うん……だから、二番目の母親なの」
疑問の声を上げたシンジにあたしはほとんどうわの空で答えた。
一体彼は何をしゃべっているのだろう。父が日本語を操れるなどという話は聞いたことがない。
あたしの困惑をよそに話は続いた。
「ああ、そっか……とにかく、そこでアスカのお父さんから教えてもらったんだ。その日、十二月四日がアスカの誕生日だっていうこと。そのお祝いのために電話をかけてきたこと。それで、ぼくのほうもアスカが使徒との戦いで怪我をして、意識が戻らず、病院に入院していることを伝えた。あとでミサトさんには機密を勝手に漏らしたって渋い顔をされたけど……ぼくの父さんは構わないって言ってくれたよ」
「そう……パパたちが」
では、彼らはあたしが遠く日本の地へ隔たってさえ、愛情を伝える努力をやめなかったのだ。こんなにも可愛げのない娘にもかかわらず、いまだに愛してくれるのだ。
早く彼らに会いたい。郷愁というよりもっと切実な思いが胸に湧きあがった。その時が待ちきれず、動かない身体が無性にもどかしかった。
ところが、あたしが願う以上の早さでその時は迫っていることをこともなげにシンジが告げた。
「今アスカのお父さんとお母さんは一階の食堂にコーヒーを飲みに行ってるから、もうしばらくしたらまた戻って来るよ」
「何ですって!?」
まだのどが本調子ではないのに思わず大声を上げたあたしは、そのあとしばらく咳き込む羽目になった。ようやくのことで咳が落ち着くと、おろおろしているシンジにさっそく噛みついた。
「どうしてそんな大事なことをいの一番に教えないのよ」
「ご、ごめん。……まさか会いたくないとか?」
「そんなわけないでしょ、まったくもう……。パパたちがどれくらいで戻って来そうか分かる?」
「ぼくたちが来たのと入れ違いに、三十分くらいで戻るって言って出て行ったんだ。それからもう二十分は経ったから……」
すると、父たちと再会できるまで、あとわずか十分ほどということになる。
期待と不安が胸の内で拮抗していた。会いたいと願っているのは真実、伝えたい言葉があるのは真実だ。しかし、一方でそれがどんな結果をもたらすのかを考えると、たまらなく不安な気持ちになる。彼らの愛情を疑っているわけではないが、きっとあたしは本来臆病なのだろう。
それで結局どうするのかといえば、シンジたち二人を頼ることにした。といっても、単に父たちが戻ってくるまで一緒にいてもらうというだけのことだが、たったそれだけのことでも他人を頼りにするなど、以前のあたしからはとても考えられないことだった。
「それにしても、ちょうどあんたたちがケーキを持って来てくれた日に目を覚ますなんて、タイミングがよかったわね」
シンジが持っている白いケーキを見ながらそう言うと、シンジはかたわらの少女と顔を見合わせた。
「どうかした?」
「いや……実はこのケーキ、十四個目なんだ。アスカがいつ目覚めるか分からなかったし」
あたしは驚いて訊ねた。
「じゃあ、毎日?」
「うん。あ、でも毎日こんな大きなケーキだったわけじゃないよ。今日はちょうど十四回目で、アスカの歳の数と同じだったから、最初の時みたいにちゃんとロウソク立てようと」
「……呆れた。あたしがずっと目を覚まさなかったら、いつまでも続けるつもりだったの?」
言葉とは裏腹に、あたしは嬉しくてまた泣き出しそうだった。
「うん……どうかな。いつかはやめたかもしれない。……いや、やっぱり続けていたかな。どっちにしろ、ぼくも綾波もアスカは必ず目を覚ますと信じてたから。だから、いつ目を覚ましても、ちゃんとお祝いできるようにしようと思って」
「バカね。あんたたち、お人好し過ぎよ」
「ええと……せっかくだからケーキ食べる? ちゃんとフォークもナイフも持って来てるよ。一番最初にそれで失敗したからね」
あたしもこのケーキを食べたい、と思ったが、いそいそとケーキの切り分けを始めそうなシンジをいさめるように、綾波レイが静かに口を挟んだ。
「惣流さんは消化器が弱っているから、まだ固形物を食べられないと思う、碇くん」
呆れるくらいに正論だった。何しろ二週間も点滴のみの状態だったのだから。
どうもこの事態を想像していなかったのか、シンジは彼女の一言にちょっとショックを受けたみたいだった。仮に承知していたとしても、せっかくあたしが目覚めたのだから、一口くらいは食べて欲しかったというのが彼の思いだろう。
だから、ということもあったし、あたし自身もとても残念だったので、本当はよくないかもしれないと思いつつ、二人に向かって言った。
「クリームを舐めるくらいはいいでしょ。何たってあたしのバースデーケーキなんだから。一口くらい食べる権利はあるわ」
「そ、そうだよね、うん。クリームだけなら」
あたしの言葉に熱を込めて同意したシンジは、かたわらの綾波レイを窺い見た。あたしも何となく釣られてそちらを見る。
「……なぜ二人ともわたしを見るの?」
「いや、まあ」
誤魔化し笑いをするシンジを横目で見てから、今度はあたしと視線を合わせると、綾波レイはほとんど分からないくらいかすかに息を吐き、取り出したフォークの先でクリームを掬い取ってあたしの口元に持って来た。彼女は無言のままフォークを構えて、こちらが動くのを待っていた。そこであたしは小さく口を開き、クリームに包まれた三つ又のフォークの先をくわえ込んだ。
クリームの濃厚な甘さがびりびりと舌を刺激し、あたしはあごを強張らせてその鮮明な甘味を味わった。
「どう? 美味しい?」
シンジの問いかけに、あたしは小さく頷いて返事をした。
「うん……すごく甘い」
舌に溶けたクリームの甘さは、心の中に仕舞われていた古い引き出しを開け、そこから出てきた思い出が二重写しのように視界を覆った。
幼いころ母が焼いてくれた誕生日のケーキ。ふわふわした白くてやさしい、母のケーキ。
ママのケーキ、だいすき! という幼子の声が記憶の奥からこだましている。
そして同時に、あの生死の境にある暗闇から光に飛び込んだ瞬間、最後にかけられた母の言葉が、シンジたちの声と重なって、あたしの耳に甦った。
「誕生日おめでとう」
言葉ではとても言い表せないたくさんの思いが、しずくとなって目じりからこぼれ落ちた。
あたしはまぶたを閉じ、暗闇の中で口を開いた。
「ありがとう」
目を開けると、光の中でシンジと綾波レイは二人とも優しく微笑んでいた。
あたしはもう一度、感謝の言葉を繰り返した。
「ありがとう」
ノックの音とともに父とエリザが病室へ入ってきた時、二人の視線は何よりもまず先にあたしの状態を確認するようにこちらへ向けられていたので、彼らはあたしが目を覚ましたことにすぐ気付いた。
大げさな足音を立てて父が走り寄ってきたのには、ある程度身構えていたあたしもさすがに驚かされた。その大きな身体でベッドをはね飛ばす前にたたらを踏んで立ち止まった父は、ぶるぶる震え、声を詰まらせながらあたしに言った。
「意識が戻ったのか、アスカ。もう大丈夫なのか」
「これ以上ないほど飢えている他は何も問題はないわ。……ねえ、パパ、あたし、やつれて不恰好になった?」
「そんなことはないよ。確かに少し痩せたが、すぐに元どおりになるとも。そうだ、医者にはもう知らせたのか?」
「そういえばまだね。……シンジ、医者を呼んでちょうだい。意識が戻ったことを知らせないと」
父とのやり取りは当然ドイツ語を使っているので、あたしは日本語に切り替えてシンジに声をかけた。
「ぼ、ぼく、すぐに連れてきます」
すると、こちらの様子をずっと見守っていたシンジは慌てたように病室を飛び出していった。
「ナースコールがあるでしょうに。あの慌てんぼ」
あたしが呆れて呟くと、気を取り直すように父が訊いていた。
「アスカ。本当にもう大丈夫なのか? どこも苦しいところはないのか?」
「そうみたい。意識もはっきりしてるわ。心配しないで」
よく見ると、父は顔色が悪く、目も落ちくぼみ、明らかにやつれていた。シンジによれば、電話してきた翌日には父たちはこの街へ到着して、病院の近くにホテルを取り、ほとんどの時間はあたしの病室で過ごしていたらしい。こんなにも心配をかけて申し訳ないという思いと、やつれるほど心配してくれて嬉しいという思いが同時に胸に湧きあがって、あたしは慣れない感情の取り扱いに困ってしまった。どちらの気持ちも否定するつもりはないが、どうもあたしにはもう少し素直になる練習が必要なようだった。
床にひざまずいてベッドのへりで手を組み合わせ、そこに額を押し付けて、父はすすり泣いた。あたしが彼の泣くのを見るのは、母の葬式以来だった。
「神よ、感謝いたします。娘を失ったらぼくはもう生きてはいられなかった……」
「……眠っている時、死んだママに会ったわ」
すすり泣く父にあたしはかすれ声でささやきかけた。
「ママがあたしに生きたいという気持ちを思い出させてくれた。もう一度パパたちと会いたい、パパたちのもとへ帰りたいという気持ちを思い出させてくれたの。だから、こうしてあたしは帰ってきた」
顔を上げた父は、まっすぐにあたしを見つめた。その青い瞳から涙が溢れ、しわの刻まれた顔の表面を流れ落ちて行った。まるで深い傷跡を慰めるように……。
「キョウコがお前を守ってくれたのか」
「ええ、そう。でも、それだけじゃない。死んだママの他にもあたしを愛してくれる人がいる。あたしもその人たちを心から愛している。それが分かったから、もう一度生きようと思えたの」
「ありがとう、キョウコ……ありがとう、アスカ……」
ひざまずいた父のかたわらにいつの間にかエリザが寄り添っていた。彼女もやつれ、泣き腫らして目元を赤くさせていた。それでも限りなく優しい表情であたしを見つめ、いまやすすり泣きではなくはっきりと泣き声を上げている父の震える肩を繰り返し何度もさすっていた。
「おかえりなさい、アスカ」
そうだ。あたしはずっと、この言葉に迎えられたかったのだ。
苦心の末に萎えた手を外に出すと、エリザはあたしの思いを汲んだようにこの手を取ってくれた。
あたしの手を取るエリザの手に、さらに父が大きくてごつごつした手を重ねた。あたしたち二人の手を握りしめて額に押し付け、父はまだ泣いていた。
「ただいま」
その言葉のどこにも居心地の悪さはなく、帰るべき場所はここなのだという確信に、あたしは安らぎさえ覚えた。
医師による診察が始まる前に、シンジと綾波レイは帰って行った。立ち去り際にあたしは彼らに念を押すことを忘れなかった。
「さっきの約束、忘れたら駄目よ。シンジも、ファースト……ええと、レイも。いいわね」
父たちを待っている間に、二人とは約束をしたのだ。彼らの次の誕生日には、あたしがお祝いにケーキを焼いてあげる、と。二人から与えてもらったのと同じように、あたしも二人にこの気持ちを贈りたかった。
レイは、あたしの呼びかけにこれまで見たこともないような、ほころぶ花にも似た笑顔を見せた。これまでずっと彼女のことをまったく理解できないと思ってきた。わけの分からない、感情のない人形のような子だと。しかし、レイの心を遠ざけていたのは、傲慢なあたしのほうだった。接し方次第で、彼女はこんなにも鮮やかな心を見せてくれるのだ。
「約束ね。惣流さん」
「アスカと呼んで。惣流というのは死んだ母の姓なの。本当はアスカ・ラングレー・ミヒャルケという名前なのよ。だから、アスカ」
「分かった。アスカ」
レイは笑顔のまま、こっくりと頷いた。
そんなやり取りを見ていたシンジは、あたしに言った。
「アスカ、少し変わったみたい」
自分の変化に誰より驚いているのはあたし自身だった。だがいつかは、これこそがあたしという人間なのだ、と気負うことなく言える日が来るに違いない。あたしはその日が待ち遠しかった。
「早く元気になって。ぼくも綾波も待ってるよ」
診察の結果、もう峠は越えたとのことだった。念のための精密検査は明日改めて行うとのことだったが、それで異常がなければあとは体力を回復させ、筋力を取り戻すだけ。そのためのリハビリは必要だが、長くはかからないと医師は請け合ってくれた。
病室に家族三人だけが残された時、あたしは少し疲れを覚えていた。つい先ほど、二週間ぶりに昏睡状態から回復したばかりなので、体力が続かないのだ。しかし、まだもうしばらくは眠りたくない、とあたしは頑張っていた。
医師が来るまでの間さんざん泣いていた父は、すでに落ち着きを取り戻していた。その父を支えるようにかたわらにエリザが寄り添い、ベッド際からあたしを見守っていた。
支えてくれる人がいるから、あんな風に父は立っていられるのだろうか、とあたしは不意に気付いた。彼ら二人の恋を許しがたいものとあたしは考えていたけれど、今のあたしには二人の姿が美しいもののようにも思えた。亡き母と父とあたしは、確かに三人の家族だった。しかし、あたしと父とエリザ、さらに今ここにはいない弟のアロイスもまた、紛うことなき家族なのだ。認めるのに十年もかかってしまったが、少なくともまだ何もかも手遅れになったわけではないことを思って、あたしの胸には希望がきざした。
自分の気持ちに素直になるにはほんの少しの勇気があればいい、と心の中で出会ったエリザは言っていた。正確にはあれは、あたしの記憶から母が再現したエリザがしゃべったか、あるいは母の言葉そのものだったのかもしれないが。ほんの少しの勇気とはいえ、あたしにとって、それはまだ完全に簡単なこととはいえない。だが、とにかくあたしは決めていた。もう二度とこの気持ちを隠したりしない、と。
「二人にお願いがあるの」
「なあに? 何でも言ってちょうだい」
答えながらエリザはまたあたしの手を握ってくれた。そうすると、あたしの中のほんの少しの勇気が膨らむのが分かった。彼女の温もりが、愛情がそうさせるのだ、ということが分かって、あたしは胸がどきどきした。
「子どもっぽいと笑わないでね。二人に抱きしめて欲しいの。あたしは起きられないから、ベッドに上がって、一緒に寝て欲しいの」
父もエリザもあたしの願いを笑うことはなかった。それどころか、エリザは優しく頷いてくれた。
「もちろんよ」
十年の間、背を向けるあたしに心を与えるのをためらわなかった人は、今度もいささかのためらいも見せなかった。スカートの裾をからげてベッドに膝をかけると、さっさとあたしの隣に横たわった。
一方、父には若干のためらいがあるようだった。
「あなた、どうしたの?」
「いやその、見てもらえば分かるが、ぼくは身体が大きい。だが、このベッドはそれほどじゃない」
父の態度は本当に嫌がっているというより、照れているようだった。考えてみれば、あたしはもう十年近くも父にまともに抱き締めてもらったこともないのだ。
「この子にしっかり寄り添えば、三人でだって充分に寝られるわよ」
「うん、まあ、そうかもしれない」
エリザとは反対側に回り込みながら頼りない調子で答えると、父はやっとベッドに上がった。けれど、そのあともしきりと体勢を気にする父の不器用さがおかしくなって、あたしは声をかけずにはいられなかった。
「大丈夫よ、パパ。もしベッドの脚が折れたら、あたしも一緒に怒られてあげる」
父は百面相をしてしばらく唸っていたが、やがて吹っ切れたように笑って、ゆったりと身体の力を抜いた。
「日本では幼い子どもと親が一緒に寝ると、昔キョウコが話していたのを思い出した。お前はもう幼いわけじゃないが、ちょうどこんな感じかもしれないな」
ヨーロッパでは幼くても一人で風呂に入り、一人で寝るのが常識だ。あたしもその常識の中で育ってきた。しかし、こうしているとどことなく懐かしい思いがするのは、もしかすると半分日本人だった亡き母が、時折あたしに添い寝をしてくれた記憶が、思い出せないくらい深いところにそっと仕舞われているせいかもしれない。
「そういえばシンジが教えてくれたけど、パパは日本語が話せるの?」
「ああ、うん。キョウコの言葉だったからね。あまり上達はしなかったが」
「シンジは上手と褒めていたわ。それを知っていたならあたし、パパに日本語を教わるんだった」
言葉を切ってすぐ、こらえきれずに小さなあくびを一つ漏らした。二週間ぶりの光に目が疲れてしまったのか、まぶたが妙に重たい。
「眠いのか、アスカ?」
「うん。でも、もうしばらく起きていたいわ。ねえ、二人ともお願い、もっとそばへ寄って」
あたしのお願いを二人は即座に聞いてくれた。両側から父とエリザの体温に挟まれ、あたしはその心地よさにうっとりとため息を漏らした。
こちらを向いて横たわった父とエリザは、それぞれ両側からあたしの身体に腕を回して抱いてくれていた。父の身体は大きくて、分厚くて、頼もしかった。幼いころ、この身体に飛びつくのが大好きだったことをあたしは思い出した。父とは対照的に、エリザの身体は柔らかく、弾力があってしなやかで、その上ふわりといい香りがした。二人の身体に一つだけ共通しているのは、とても温かいということだった。
ところで、エリザのうっとりする香りのおかげで気付いたのは、あたしの身体がにおうのではないかということだ。昏睡状態にあった二週間の間に一度も清拭がされていないとは考えられないが、髪のほうは簡単にはいかないだろう。実のところ、ちょっと頭がむずむずしていた。
「あのね、もしそうなら謝るから、正直に言ってね。あたし、嫌なにおいがしない?」
父とエリザはあたしの上で顔を見合わせてから、同時にぷっと噴き出した。仮にも花の乙女が真剣に訊ねているのに、バカにするなんてひどい、とあたしはちょっと憤慨したけど、すぐにエリザが頬にキスをしてくれ、さらにはそれに勇気づけられたように父まで音を立ててキスをしてくれたので、瞬く間に機嫌を直した。
「かわいい子。気にすることはないのよ。ちっともくさくなんかないわ」
「そうとも。風呂をさぼった時のアロイスもこんなもんだ」
「フランツ……」
エリザの呆れ声に、慌てて父は言い直した。
「つまり、気にすることはないってことだよ。その証拠に、ほら」
と、父はこれ見よがしにあたしをきつく抱きしめ、頭に頬を寄せた。その必死さに、ついにはあたしも噴き出してしまった。
「いいわ、分かった。気にしないことにする。ありがとう。……アロイスはお風呂嫌い?」
ほとんど知らない弟について質問すると、エリザがため息交じりに答えた。
「隙あらばサボろうとたくらんでるわね。泥んこになるのは好きでも、泥んこを落とすのは嫌がるのよ。なぜなのかしら。まるで仔ブタみたい」
「小さな男の子なんてそんなものだよ。ぼくだって覚えはある……今はもちろん清潔にしてるが。アスカだって、小さなころはそこまで風呂好きというわけじゃなかったよ」
「退院したら、一日三回はお風呂に入るわ。今はお風呂が大好きだもの」
「ふやけた豆みたいになっても知らないぞ」
「パパったらひどい」
あたしたち三人はそろって笑い出した。こんな風に穏やかに会話を交わす日が本当に来るだなんて、少し前までは夢のまた夢だと思っていた。今でもまだ少し信じられない気がするくらいだ。けれど、少なくとも身体の両側から感じる温もりだけは、疑いようもなく確かなものだった。
「アロイスに会ってみたいわ。一緒に連れて来てはいないの?」
「あの子は今回わたしの両親に預けてきたの。滞在がどれくらいになるか分からなかったし、状況もはっきりしなくて……」
エリザの説明を聞いて、あたしは軽く息を吐き出した。
「残念。でも、アロイスだって病室にこもりきりでは退屈するものね。せっかくの降臨節なのに」
弾けるような生命力に満ちた四歳の男の子の姿をあたしは想像した。
実の姉であるこのあたしと少しは似たところがあるのだろうか。これまでそんなことを気にしたこともないというのに、なぜだか今は、そうであって欲しい、と願っていた。
「あたし、仲良くなれるかしら」
「なれるとも」
「そうかな」
本当にそうなれるといい、とあたしは心から思った。赤ん坊のころに何度か会ったきりの、血を分けた実の弟。これまでは興味を持ってこなかったが、今はアロイスのことを知りたかった。どんな顔をし、どんな声で話し、どんな風に笑い、どんな風に泣くのか。アロイスを好きになりたかった。アロイスから愛される姉になりたかった。
「いいお姉ちゃんになりたい。今度こそ、あの子とちゃんとした姉弟に」
産まれたばかりのアロイスとあたしを初めて対面させた時、エリザはこう願っていたはずだ。あたしにいい姉になってほしい、仲のいい姉弟になってほしい、と。
あたしは彼女の願いを知りながら、手ひどくそれを拒んだ。
だが、これからは変わることができるだろうか。
「ありがとう、アスカ」
あたしの思いを知ってか、エリザは胸を震わせてささやいた。
「早くアロイスに会いたい。他にも会いたい人たちがたくさんいるの」
きっぷのいいシャルロッテばあちゃん、犬のトーマとファーレンハイトさん、同い年のクヌート、もちろん優しいエッダとオスカーとその息子にも。他にもあたしがこれまで係ってきたたくさんの人たち、さらにはこれから出会うたくさんの人たちにも、会いに行きたい。会って、彼らのことが知りたい。そして、あたしという人間を知ってほしい。
しかし、それは今すぐに叶えられる願いではなかった。
「できることなら、今すぐにでもお前をドイツに連れて帰りたいと思う。だが、お前にはまだやらなければならないことがあるんだな」
なぜあたしの心が分かるのだろう。少し驚いて父の顔を見ると、父は目を細めて笑い、あたしの痩せた頬をそっと撫でて言った。
「分かるさ。これでも父親だ。それに、シンジくんたちとの別れ際に、約束を忘れるなと言っていただろう。その約束だって果たさなけりゃならない。そうだろう? お前がすべきことをすべて終わらせるまでこの国に留まるというなら、それでもいい。ドイツのあの家でアロイスと三人で待っているから、何もかも終わったら帰っておいで」
あたしの家族が暮らす家。寄り付くのを嫌がっていた我が家。それが今はとても懐かしく感じられた。もう何年も足を踏み入れていないあたしの部屋はどうなっているのだろう。四歳の誕生日にパパが贈ってくれた、あの大きなクマのぬいぐるみは、部屋の角に置かれた飾り椅子を今でも占領しているのだろうか。温もりに背を向けようと虚勢を張るあたしを静かに見守っていたあのころと同じ眼差しをして、あたしの帰りを待ち続けているのだろうか。
「いいの? みんな待っていてくれるの?」
あたしが問うと、父は優しい表情で頷いた。
「もちろんだ。家族だからな」
その言葉を聞いて、胸からこみ上げてきた熱いものがそのまま涙となって溢れ出した。意識を取り戻してから泣いてばかりで、このままでは干からびてしまう、と内心思ったが、何しろ十年分なので、そう簡単には涸れそうもなかった。
「アスカ」
父が気遣う声であたしの名を呼んだ。あたしは目を閉じてゆっくりと深呼吸してから答えた。
「大丈夫よ。今はちょっと……止まらないだけ」
あたしは父を見た。この十年の深い苦悩と悲しみが、父の顔に消せないしわを刻み込んでいた。昔はあれほど快活だったこの人を変えてしまったのは、やはりあたしなのだ。本当なら心を開いて癒しあえるはずだったのに、傷つけあうことしかできなかった。そのことを謝りたかった。そして、父へ本当の気持ちを伝えなければならない。
「お前の涙をこうして見るのも十年ぶりだ」
父の太い指が流れ落ちる涙をそっとすくい上げる。
「愛してるわ、パパ。今までごめんなさい。あたしはいい娘じゃなかった。ずっとパパを不幸にしてきた。でもこれからは……」
「お前はいてくれるだけで、パパの人生を意味あるものにしてくれた。苦しみはあった……だが、それは不幸とは違う。キョウコも……そしてエリザも同じ気持ちのはずだよ」
すでについてしまった傷を最初からなかったことにすることはできない。
どんなに後悔しても過去は変えられない、と心の中で母は言っていた。だから、これから何ができるのか、未来をどう変えられるか、それを考えたのだ、と。
苦しみにゆがみ、やつれた父の顔は、実際の年齢以上に彼を老けさせて見せた。しかし、あたしはその顔がいとしくてたまらなかった。
「お前はよく笑い、よく泣く子だった。小さいお前をいつも膝に抱いて……」
父は声を震わせてあたしを見つめた。
たとえ傷ついた事実をなかったことにすることはできなくとも、癒すことならできる。傷も苦しみも、何もかもを愛に包んで生きることができる。
あたしは父からエリザへ視線を移した。彼女はうるんだ瞳でこちらをじっと見つめていた。
「……ママ」
呼びかけると、エリザは泣き笑いのような表情で返事をした。
「なに?」
これから告げようとしていることに怖気づかないよう、あたしはエリザの綺麗な瞳から目をそらさずにいた。彼女の薄い水色の瞳は今はうるんで、ドイツの短い夏の陽射しにきらきらと輝く湖面を思わせた。美しく、優しいエリザ。あたしにとってクリストキントとはなり得なかった人。けれど、今になってそれが当然だったと分かる。彼女は聖人ではなく、まして天使でも精霊でもない。彼女はただの人で、ただの女なのだ。
「これまでずっと、あたしはあなたをママと呼びながら、心の中では決してそれを認めていなかった。認めようとしなかった。でも、今は違う。あなたに愛されていることを、このあたし自身もあなたを愛している事実を受け入れたから。だからこれからは、本当の意味で、あなたをママと呼びたいの」
あたしがエリザのことを認めようとしなかったにも係わらず、表面上は穏やかな関係を保っていたのは、彼女から決定的に嫌われるのが怖かったからだ。背を向けるあたしに愛想を尽かし、手を差し伸べてくれなくなることを、愛してくれなくなることを恐れていた。
なぜなら、本当は最初から彼女の愛情を受け入れていたから。
その上であたしは背を向け、こっそりと後ろ手に彼女の愛情の裾を握り込んでいたのだ。
彼女は何も言わず、ただあたしの手を探り、そっと繋いでくれた。
「あなたが優しい人だということは最初から分かっていたの。でも、甘えるのが怖かった。この気持ちを認めると、何かを失ってしまいそうで。この気持ちは、愛情は差し引きされるものじゃないと、そんな簡単なことも分からずに意地を張っていた」
「アスカ」
彼女はただの人で、ただの女で、そしてあたしの母なのだ。あたしの家族なのだ。
「もういい? もう甘えてもいい? ママに抱きしめて欲しいと言っても……」
続きは言葉にならなかった。
母が、あたしの身体を引き寄せ、きつく抱きしめてくれたからだ。
「もちろんよ、アスカ。わたしの娘。わたしたちのいとしい子」
「あたし、きっとすごく甘えるわ。本当は、寂しがりの甘えんぼなの。十四歳にもなって、おかしいかもしれないけど」
顔をうずめた母の首筋を涙で濡らしながらあたしが言うと、彼女は優しい声で「いいのよ」と何度も繰り返した。
「いいのよ、アスカ。みんな分かってるから。だからもういいのよ」
「あたしのことを諦めないでくれて、ありがとう。見放されたっておかしくなかったのに。あたしはママにずっとひどい態度を取り続けていたのに」
「わたしは、自分の気持ちに正直に従っただけよ。諦めたり、見放したりしようなんて、一度も考えたことはないわ。もし今日あなたが振り向いてくれなかったとしても、また明日がある。もし明日あなたが笑ってくれなかったとしても、さらに次の日がある。いつだってそう思っていた。それに、これはあなた自身の名前に込められた願いでもあるのだから」
「あたしの名前?」
母から少し身体を離し、あたしは問いかけの眼差しを送った。
あたしの名前に込められた願い……あの過去の町で出会った幼いアスカが、何か言っていなかっただろうか。
「アスカとは、夜明けの美しさ。今日から明日へ移りゆく、明け方の空の光。それは一日でもっとも美しい瞬間よ。でも、そこから始まる一日はいつも、黎明の美しさ以上の可能性で満ちているのよ。加えて、たとえどんな時にでも、夜明けは必ずわたしたちの前に訪れてくれる。どんなに悲しくても、つらいことがあっても、必ず夜は明けて新しい明日が訪れる。それと同じように、生まれてきた娘に可能性に満ちた素晴らしい人生と、決して未来を諦めない心を持つことを願って、キョウコはあなたの名前を考えたのよ」
「ママの願い……」
あなたの明日を生きなさい、という亡き母の言葉が甦ってくる。
「お前がまだキョウコのおなかの中にいた時、彼女はよく自分でおなかをさすりながら、お前の名前と、その由来を語りかけていたよ。エリザも、病床のキョウコからこのことを聞かされていたそうだ。もっと早くに、お前に教えてやるべきだった。伝えるのが遅すぎたな。すまなかった」
父は謝ったが、あたしはかぶりを振ってから、深く息を吸って、吐き出した。
「ううん。そんなことはないわ、パパ。だって、まだ明日はあるんだから。思いは、願いは、ちゃんと届いたよ。だから、遅すぎることなんてない」
あたしの明日は、まだこれからなのだ。
左右から両親の温かさに包まれたあたしは、眼を閉じて亡き母を思った。
すべての思いや、願いや、希望は、決して無駄になりはしなかった。それらを紡ぎ、伝え、母亡きあとも未来へ繋いでいくことができる。
あたしは父と二人の母を思った。アロイスを、シンジとレイを、多くの人たちのことを思った。
「アスカ、寝てしまったのか?」
眼を閉じたきり無口になったあたしを心配してか、父が静かな声で問いかけてきた。
「ううん……」
全身を包む倦怠は、今すぐにでもあたしを眠りの中に溶かし込みそうだった。どうにかして返事を絞り出すと、耳元で優しい声がまた話しかけてきたが、それが父のものなのか、母のものなのか、あるいは心の中に響く亡き母のものなのか、もうあたしには分からなかった。
「眠りなさい。アスカが目を覚ますまで、ずっとそばにいるから。だからもうお休み」
「また明日ね。十四回目の誕生日おめでとう、アスカ」
両親の温もりはともし火にも似て、安らかな眠りがその先へ淡く広がっていた。
Fin
あとがき
リンカと申します。
最後までお付き合い頂き、誠にありがとうございます。
三月十一日の東北地方太平洋沖地震により被害を受けられました皆様に心からお見舞い申し上げるとともに、一日も早く復興されますよう、お祈り申し上げます。
このお話が何がしかの慰めになるとは思いません。逆に不愉快に感じられることもあるかもしれません。
しかし、このお話が(被災された方々に限らず)わずかでも気晴らしとなることができたなら、嬉しく思います。
本来は去年の十二月四日に合わせた誕生日物のお話だったのですが、結局これまで時間がかかってしまいました。
さらに時間を置けば、改善する箇所がたくさん出てくることは自覚しています。特に中盤以降の心理描写はまとまりがありませんし。
しかし、費やした時間とわたしの能力とを鑑みれば、こんなものかと思います。
多少は調べもしましたが、ドイツの描写は多くが想像に依っています。従って現実とは様々に食い違うでしょうが、ご容赦ください。
アスカが昔暮らしていた町は特に設定はないのですが、ミュンヘンやその近郊というイメージでしょうか。
白ソーセージ、機会があれば食べてみようと思います。どんな味なのか興味津々です。
ドイツの人たちの名前は、どれも名前辞典からよさそうなのを選んでいるのですが、トーマだけは萩尾望都の『トーマの心臓』からです。
アスカの父フランツと母キョウコ、エリザの姓がばらばらなのは、夫婦別姓のため。
なおラングレーはミドルネームです。現在のドイツではミドルネームを付けるのは一般的でないそうですが、アスカはアメリカ合衆国生まれという設定ですから、ミドルネーム持ち。キョウコも同様。ドイツ生まれのフランツ・ミヒャルケとエリザ・ドレスラーにミドルネームがないのもこのためです。
多くを想像に依っている、と書きましたが、死んだ人の身体の冷たさに関しては、私の実感です。
数年前祖父を亡くした時、通夜の場で祖父の亡骸に触れました。おぞましいとは決して思いませんでしたが、ぎょっとしたのは事実であり、そのことに後ろめたさのようなものを覚えました。あの冷たい感触はやはり忘れられません。それをどんな言葉で表現したらよいのか、必死で考えた末に「日陰の土」という言葉が出てきました。アスカはいわゆるキリスト教圏で育っていますし(エヴァ世界のヨーロッパでキリスト教信仰があると仮定して)、聖書では最初の人間アダムは土から創造されたことになっていますから、アスカがそういう連想をしてもおかしくないはずです。
他にも特に愛情を語る上で神が引き合いに出されていますが、これもアスカの(持つであろう)バックボーンを踏まえてのことです。しかし、実際には私は聖書を読んだことはありませんし、キリスト教にも詳しくありません。よって、まあこんな感じじゃないかしら、という実に適当な想像によってあんなことを書いています。本当はきちんと調べるべきなのでしょうけど。このあたりも許して頂きたいと思います。
なお、このお話を締めくくったアスカという名前の意味についても、お話の中で書いた内容はあくまで私が考えたことですので、実際にはどのような願いを込めて世の親たちが産まれてきた子にアスカと名付けるのか、当人にお訊ねしてみないことには分かりません。
もし皆様の身近にアスカという名前を持つ人がいらっしゃるなら、あるいはご自身がアスカとおっしゃるなら、そこに込められた意味を調べてみるのも面白いのではないでしょうか。
名前とは一番最初の誕生日プレゼントともいえますから、その意味では誕生日らしいお話が書けたのではないかと考えています。
では、皆様。掲載してくださったジュン様。
本当にありがとうございました。
rinker/リンカ
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