− 6 − Before Sunset リンカ 2005.4.17(発表) |
「すまんな、シンジ。今日はどうしても出なくてはいかんのでな」
休日の朝にもかかわらずゲンドウがスーツに袖を通しながら、シンジに言った。
すでに朝食も終え、シンジがキッチンに食器を運んでいる。
「いいよ。何時頃帰ってくるの?」
「ああ、早ければ昼過ぎ、遅くとも夕方までには帰ってくる。まあ、多分3時か4時くらいだろうとは思うがな」
慣れた手付きで家事をする息子にすまなさそうにゲンドウは答えた。
それを気にした風もなくシンジはキッチンで洗い物を始める。
「そう。今日はレイのお友達を呼ぼうと思ってたんだ。いいよね」
「ああ、いいぞ。余所のお子さんだから気を付けてな。相手の家の人にも伝えたのか?」
「うん。クラスメイトの兄弟なんだ。だから」
「そうか」
ゲンドウが息子の横に立った。もう用意も出来たし、家を出なくてはならない。
「・・・シンジ。明日は日曜だ。何処かに3人で出かけるか、遊びに」
「ホントッ?うわっと!」
父の言葉にシンジがくるっと振り返った。
ところがその拍子に彼が手に持っていたスポンジから洗剤の泡が滴り、慌ててそれを流しに戻して
手についている泡を水で落とし、蛇口を捻ってから改めてシンジは父の方を見た。
「お出かけ久し振りだね」
彼は思わず嬉しそうに言ってしまった。本当に久し振りなのだ。
母がいた頃のことが一瞬心を過ぎった。
「そうだな・・・考えておけよ、何処に行きたいか」
「うん」
息子の嬉しそうに綻んだ顔に父は目を細めた。
妻がいた頃は、彼女が上手く子供達と自分を繋いでくれた。
ゲンドウとて子供達をこよなく愛していたが、彼は感情を表現するのが苦手で、
いつも妻に笑われていた。それがゲンドウには心地良かった。
そういえばシンジが幼い頃は驚異の連続だったと不意に思い出す。
赤子の貪欲な生に驚かされ、幼子の純粋な無邪気さに胸を打たれた。
感動ばかりかといえばそうでもなく、シンジが仕出かす行動や言葉に右往左往したり呆れ返ったり。
ゲンドウは息子のまだまだ小さな体を見た。
いずれこの子にも伴侶となる女性が現れ、その女性との間に子を為すのだろうか。
じんわりと胸が温かくなってきた彼は、シンジの頭に手を乗せた。
「じゃあ、シンジ。行ってくる。お土産はケーキで良いか?」
「えー?そうだなぁ・・・僕はね、チョコがいいな。レイならイチゴショートだね」
「そうだな。まあ、レイは半分方潰してしまうだろうがな。じゃ、何かあったら連絡先は電話の所にある。
今日は頼んだぞ」
そう言ってゲンドウは玄関へと向かいだした。
「うん。いってらしゃーい」
「むぅ〜・・・!」
アスカが立っていた。足を大地に踏ん張って、拳を握り締め、口を堅く結んで正面を睨んで立っていた。
「・・・アスカ姉ちゃん、恐いよ」
足元からぼそりと声がする。
カヲルはアスカの傍らで姉を見上げて呆れ返っていた。
先程からアスカはこの様子なのだが、様子も変なら場所も場所だ。
「・・・早く呼び鈴押したら?」
彼ら姉弟2人はシンジの家の前にいる。お呼ばれされたのだ。
アスカとしてもカヲルとしても念願叶ったというところだが、アスカにとっては一大事らしかった。
弟が鬼気迫る姉を見上げていると、彼女が押し殺したように口を開いた。
「・・・ちょっと待って。今イメージトレーニングをしてんだから」
「そんなの前もってやっててよ。ていうかいらないだろ、そんなの」
「じゃあ、覚悟を決めてるの」
「決闘じゃないんだよ・・・」
「もう、うるさい子ね。・・・・・よし、アスカ、行くわよ・・・!」
アスカがキッと呼び鈴のボタンを睨んだ。
カヲルは頭を振って溜息を吐いている。
少女の繊細な指先が甘美なる恍惚と不安に打ち震えつつも決然と伸ばされ、
ぴんぽーん、と、ごくごくふつうの音がした。
「フンフンフーン、フフーン♪」
カヲルが楽しそうに鼻歌を歌っている。先程まではブロックで遊んでいたのだが、
どうやら飽きてしまったのか現在は居間で畳の上に寝そべり、絵を描いて遊んでいた。
レイがスケッチブックにグリグリとクレヨンを押し当てて滑らせ、それが不可思議な紋様を描いていく。
カヲルもその脇に何か描いており、レイ程ではないがこちらも中々に独創的な作品が生み出されている。
シンジとアスカはその様子を眺めていた。
ふと、テーブルに頬杖をついていたアスカがシンジの方に視線をやった。
彼は優しく微笑んで自分の妹とカヲルを見つめている。
少年らしくないその表情だがしかし、やはり明らかにまだ柔らかな少年の面立ちで、
アスカは何とも不思議な気持ちになる。
上の姉兄の顔を彼女は思い浮かべた。果たして彼らはこういう表情をするだろうか。
彼らも自分を含めた下の兄弟達をこうして見守っている事があるのだろうか。
そう思いながら彼女はシンジの手元に目を遣った。
少し前に片付けてしまった学校の宿題が置かれている。彼と2人で話しながら宿題をやるのは楽しかった。
そうしていると、やはり普通の少年なのだ。分からない問題に頭を抱えてみたり、
拗ねて文句を言ってみたり、理解が出来ると顔中に嬉しさが広がったりと色々な反応を示す。
再び弟達に視線を戻した。
レイがカヲルの描いた絵の所まで侵入して自分の作品を広げている。
それに弟が情けない顔をしながらも笑っているのを見て、アスカも微笑む。
頭を揺らしながら小さなレイが無邪気な声で歌い出した。カヲルもそれに合わせて出鱈目な歌を歌う。
突如始まった合唱に、アスカはくつくつと肩を揺らしてしまう。
シンジの方を見ると、彼も彼女の方に振り向いて柔らかく笑んだ。
「ちっちゃい子ってホント出鱈目ね」
「そうだね。僕もレイにいっつも驚かされるよ。だって予想もしない事をしちゃうんだもん」
「フフッ、そうよねえ。本人は大真面目なのよね、これが」
「我侭だしすぐ泣くし、悪戯して駆け回って・・・」
「うちも大騒ぎよ?下にもう1人いるからね、チビが」
アスカが可笑しそうに言う。
「へえ、惣流さんって3人兄弟なの?」
「いーや、5人」
「5人!?すごいねえ」
シンジがアスカの答えに目を丸くした。
「そ、上は高校生よ。下は3つ。アタシなんか間に挟まれてるからこき使われるんだから!」
したり顔で言うと、シンジが声を立てて笑った。
「アハハ、でも、楽しそうだね」
「ふーん?家に来てごらんなさいよ。年上の横暴がよく分かるから」
覗き込むようにアスカはシンジを見た。さっきからどんどんと自然に言葉が出てくる。
それが楽しくて堪らないのだ。アスカが悪戯っぽい顔をして少年を見ていると、カヲルが口を挟んだ。
「一番乱暴なのはアスカ姉ちゃんだろ」
「こら、生意気言うとお尻ペンペンよ!」
弟の言葉にアスカが腕を振り上げて言うと、シンジが可笑しそうに笑う。
「ふふ、惣流さんって楽しいね」
アスカは腕を振り上げた姿勢のまま固まってしまった。
「あ、そ、そう?」
何とか声を出すとシンジは微笑んで、飲み物持ってくるよ、と席を立った。
またやっちゃった、と思いながらアスカがそれを見送った後、自分を見るカヲルの視線に気付いた。
「な、何よ」
「その調子で頑張ってね、姉ちゃん。僕の未来の為に」
「何言ってんの、アンタ?」
生意気にもほくそ笑んでいる幼児にアスカが怪訝な顔をする。
カヲルは姉が先程大胆にもシンジを家に誘ったことに気付いたのだが、アスカ本人は自分の言葉に
気付いていないらしいと悟った。何故ならこの姉には時として自分の言葉にうろたえるという
幼い彼から見れば何とも奇異な癖があるのだが、その兆候が見られないからだ。
でもシンジの方もアスカの偶然の誘いに何か答えてはくれないものか、と
彼をお兄様と勝手に呼んでいるカヲルはままならぬ人生の有り様にそっと溜息を零した。
「早くお兄様ともっと仲良くなってよね、アスカ姉ちゃん」
「お兄様がそんなに気に入ったかしら?」
「だってレイちゃんのお兄様はうちの姉ちゃん達と違って優しいもの。それに、
レイちゃんが僕のお嫁さんになるならその前にホントにお兄様になってもらってた方がいいだろ?」
「生意気ねえ。優しくしてあげてるでしょ」
アスカが頬杖をついたままカヲルを見やる。
「うちで優しいのはキョウタ兄ちゃんくらいじゃん。マリア姉ちゃんなんか・・・」
小さな彼はその幼い顔を一杯に顰めた。
「くっくく、マリア姉は鬼ばばよ」
「そうさ。ママより恐いんだから」
アスカとカヲルは一番上の姉を思い浮かべて文句を言い合った。
一番上の姉マリアはしっかりしている分厳しい。カヲルが一番叱られるのはこの姉からだった。
惣流家の3番目と4番目がマリアがいかに惨たらしい冷血漢であるかを話していると、レイが声を上げた。
何事かと彼らが彼女を見ると、色で氾濫した画用紙を捲って再び新しく絵を描こうとしている。
そこでシンジが手にグラスを持って戻ってきてそれを見、レイとカヲルに向かって言った。
「まだ描くの?今度は一枚ずつ描いてごらん」
「う?」
「カヲル君、一枚破ってあげて。ね」
シンジがテーブルにグラスを置きながら微笑み掛けると、カヲルも笑みを返して、
スケッチブックから画用紙を一枚破りとった。
「ふふ、何を描くんだい、レイ?」
「にいちゃ」
「そう。出来たら見せてね」
「あい」
レイが足をばたつかせながら答えた。
アスカも弟を見て同じ事を問う。するとカヲルはさも当然とばかりに返した。
「レイちゃんに決まってるだろ。姉ちゃんなんか毎日見飽きてるもの」
「まっ、ホント生意気。こんな美少女を見飽きるなんて」
アスカはそう言った後、シンジが目を丸くして自分を見ているのに気付いた。
この内側から燃え立つような赤い髪をした少女の視線に彼は曖昧に笑いを零す。
「あ、いや、アハハ・・・」
「な、何よ。アタシは美人でしょ!そうよね、い・か・り・く・ん?」
「そ、そう・・・だね」
シンジが少し頬を染めてポツリと言った。
「そ、そ、そうでしょ!当然よね。当然」
腕を組んでうんうんと頷きながら少女は早口で誤魔化すように言った。
そのまま何となく沈黙が落ちてしまう。
アスカが腕を組んで頬を染めながらあらぬ方向に顔を向けて口を尖らせ、
シンジがどうしていいか分からずほんのりと頬を染めて頭を掻いた。
「・・・何やってんだか」
カヲルがポツリと口の中で呟いた。
天井に視線を送って何かないかと探しながら、シンジはふと気が付いてアスカに尋ねた。
「そう言えば惣流さん。今日はいつまでいられるの?家の人は何か言ってた?」
「え?ああ・・・えっと、夕飯までに帰ってくればいいってさ。迷惑にならない程度にしときなさいだって。
うちは5人もいるからね、結構大雑把なのよ。日が暮れるまでに家に戻ってればいいってね」
「そう・・・まあ、別に構わないんだけど、父さん何時に帰ってくるのかなぁ」
「・・・碇のパパってどんなの?似てるの?」
にわかに興味を掻き立てられたアスカの問いに、シンジはああ、と視線を巡らせ、そして噴出した。
「な、何よ・・・何かおかしい事言った?」
「いや・・・父さんと僕は似てないよ。まあ、僕はそう思うけど」
シンジが頭を振りながら笑って言う。するとレイがさえずるように言った。
「もじゃもじゃなの」
「・・・もじゃもじゃ?」
「くましゃん」
「・・・?」
アスカはレイのゆらゆらと揺れる頭を見ながら首を傾げ、シンジにどういうことか視線を送る。
彼女の視線を受けてシンジはくつくつと笑いながら答えた。
「僕の父さん、髭生やしてるんだ。こんな感じ」
そう言って彼は自分の顎を端から端までつるりと撫でる。
「へ、へえ・・・ダ、ダンディなのかしら・・・」
「くましゃーん♪もりのなっか〜♪」
レイが歌う。
「それで背が高くってね、まあ、どっちかっていうと痩せ型なんだけど。
でも確かにのっそりした熊男って感じかもなぁ・・・。もう少し横があったら完璧だなあ」
シンジが顎を指で押さえながら宙を見る。
アスカもそれにつられて視線をさ迷わせた。
「あ、口髭もあると理想的」
少年の呟きを聞きながらアスカは想像を巡らせてみた。
父親とは似てないと言われても、やはりシンジをベースに考えてしまい、
その余りの似合わなさにアスカは寒気がした。
「・・・アンタは髭生やしちゃ駄目よ」
「え?」
「い、いや、何でもないわ」
「?・・・ふふ、でもお向かいのおばさんなんかは僕と父さんがよく似てるって言うよ」
言って、シンジは鼻から下を覆い隠すように手のひらを顔の前に遣った。
「目から上が父さん。で、こうやって・・・」
今度は逆に目から上を覆い隠すように手を変えた。
「鼻から下が母さん。 それぞれに似てるんだってさ。自分じゃ分からないんだけどね。
でも僕が父さんに似てるなんてやっぱり信じられないんだけど」
顔の前に遣っていた手をヒラヒラと振りながらどことなく自分の顔に不満があるようにシンジが零す。
アスカはそれに、ふぅん、と相槌を打ったが、まさか彼が自分の線の細い女顔を不満に思っているとは
気が付かない。彼は本当は父のような男らしい顔になりたかったのだ。
「アタシはママに似てるけどね・・・」
ポツリと、彼女は自分のことを言った。
「そう・・・。惣流さんのお母さん、綺麗なんだね」
「うん・・・。えへへ」
褒め言葉に照れ臭くて笑ってしまった。ついでに姉のことを思い起こし、
あの鬼ばばマリアはいずれママ以上に綺麗になるかもと何故か悔しくなった。
「にいちゃー」
レイが声を上げた。
「何、レイ?出来たの?」
「しっこ」
「・・・はいはい。おいで」
レイを後ろから押すようにしてトイレへと歩いて行ったシンジを苦笑して見送り、
アスカはカヲルを見てふと訊いてみたくなった。
「どう、カー坊?楽しい?」
「うん。あのさ、アスカ姉ちゃん。いいこと考えたんだ。このまま上手く行けばうちと家族ぐるみだよ。
家族ぐるみだと子供同士は結婚するんでしょ?僕はレイちゃんと。アスカ姉ちゃんはお兄様と。ね?」
いかにも誇らしげに自分の思いつきを口にした弟にアスカは暫し呆れながらも笑って彼をたしなめる。
「家族ぐるみってアンタねぇ・・・。そう簡単にはそういうお付き合いは出来ないの。
それにそういうお付き合いしたからって必ず結婚できる訳じゃないのよ。もっと勉強しなさい。
大体まだたかが一度、おうちにお呼ばれされただけじゃないの。そうそう上手く行くもんですか」
「駄目だよ、そんなんじゃ。もっとこう気合を入れなよ」
「何バカ言ってんの。アンタ、アタシを誰だと思ってるのよ」
「・・・アスカ姉ちゃん」
「そうよ。アタシはアスカなのよ。世界で一番アイツのことが好きな女の子よ。
気合なんか入りまくりに決まってるでしょ。ナメんじゃないわよ」
目の前のグラスを勇ましく掴みとって、陽光の髪をした少女はオレンジジュースを一息に飲み干した。
「ほー。すっきりしたのー」
「ん、そうかい。ちゃんと拭くんだよ」
「あーい」
レイが生理的欲求を満たして満足げな声を上げたのに、シンジは内心で苦笑しながらも
彼女に対してきちんと注意した。もう暫くすればひとりでもちゃんと用を足せるようになるだろうが、
今の所は彼女は催したことを訴えるという手段でこれを解決していた。
つまり、トイレへ連れて行ってもらうのだ。保育園でもこれは意外に大事なことで、
トイレに行きたくなってもそれを保母に言わない子供は粗相をしてしまう結果になるのだ。
ひとりで全てきちんと出来ればいいが、それをレイの年齢の園児達皆に要求するにはまだ早いため、
保母達も気を付けている。何しろ替えの下着や服があるとはいえ汚してしまえば手間も掛かるし、
教室でやられたら尚更面倒だ。そして家でもそれが同様なのは言うまでもない。
レイのスカートと下着を再び着せ、シンジは水を出した洗面台の上に彼女を持ち上げながら訊いてみた。
「レイ、今日は楽しいかい?」
「う?あのね、れいね、にいちゃとおねちゃ、かいちゃのー」
楽しそうに答えた妹に、シンジはやはりアスカ達を呼んでよかったと安堵した。
この話を持ちかけた時のアスカの様子ときたら何と言っていいか分からないくらいに慌てていたので
向こうにとっては拙かったのかもと感じていたのだが、いざ当日になってみると何の問題もないようで
彼としても上手くいって嬉しかった。それにしてもどうもレイはアスカのことが気に入ったようだ。
「僕と惣流さん?」
「おねちゃ、きれーなの。あと、りんごみたいで、れい、おねちゃのことしゅきー」
「そう・・・」
「あとね、ほっぺ、ぎゅうぎゅうなの」
水を撒き散らしつつ、レイは無邪気に手を擦り合わせて洗いながらそう言った。
ほっぺぎゅうぎゅう、とは一体何のことなのかシンジには分からなかった―りんごみたいとは
髪のことを言ったのだろうと彼は思った―が、これはシンジとアスカが仲直りした公園での
ことをレイは言っているのだ。あれ以来彼女はアスカのことを遊んでくれる人として好意的に
認識したらしいのだが、それもこの兄はまだよく分かっていなかった。
彼としてはあくまでカヲルを妹の遊び相手として呼んだつもりだったのだ。
それよりも、綺麗、という言葉を聞いて、シンジは先程感じた何とも言えない恥ずかしさを思い出した。
これまでに彼は女の子を特別意識したことはなく、誰かに恋心を抱いたこともなかった。
家族を除いて誰が一番好きかと問われたら親友のトウジとケンスケの顔が真っ先に思い浮かぶ。
僕ってひょっとしてずれてるのかなぁとボンヤリと思いながら、でもじゃあさっきのあれは何なんだろうと
アスカの顔を思い浮かべた。綺麗と言われれば、確かに、と否定の余地もなく頷いてしまうくらいに
彼女は可愛らしかったが、それに今まで気付かなかった自分はひょっとして鈍いのでは、とレイを抱えながら
少し悩んだ。女の子や恋の話など友人達とも殆どしないし、ピンと来ないというのが正直なところで、
それきりシンジは考えるのを止め、手洗いから水遊びへ移行した妹を下におろしてタオルで手を包んだ。
レイがきゃらきゃらと笑っている。今は男女の恋について悩むよりも水浸しの妹の手の方が重要だ。
シンジが誰よりも綺麗だと思っているのは母のユイだった。
しゃがみ込んで小さな妹と視線を合わせて彼女の顔を覗き込み、亡き母の面影をそこに見出す。
彼女は母に本当によく似ている。本当によく。
ふとした拍子に母の面影を覗かせる。それが辛い時期もあった。
手を拭き終わってタオルを差し出したレイを何となくシンジは抱き締めてみた。
「レイも綺麗になるよ。大人になったらね」
「れい、きれー?」
「そうだよ。お前は母さんにそっくりだもの。きっと美人になる」
レイが自分のふっくらした頬を兄の頬に押しつけてきた。
「ほっぺ、ぎゅー」
彼女が中学生になる頃には自分は大人になっている。一体いつまでこうして家族3人で暮らせるだろうかと
不意にシンジはもやもやとした不安が込み上げてきた。いずれ訪れるかも知れない変化が怖くなった。
兄の様子がおかしいことを悟ったのか、レイが顔を覗き込ませてシンジの顔を小さな手で包んだ。
「・・・ふふ。レイもいつかお嫁に行っちゃうんだねぇ。僕も誰かと結婚して・・・父さんが白髪だらけになって。
でも、まだまだ時間はあるよね。何しろトイレもひとりで行けないもんね」
兄の言葉の最後に何となく馬鹿にされていることを感じ取ったのかレイが頬を膨らませると、シンジは
笑ってコツンと額を合わせてみた。そうするとレイが兄の腕の中で身を乗り出して押し返そうとしてくる。
額をくっ付けあって押し合い圧し合いしながら、兄妹は洗面所の床に座り込んで笑い声を上げていた。
暫くの間続いたその無邪気な光景は、彼らがまだまだ子供であることを表していた。
「・・・まだお友達はいるようだな。多めに買ってきてよかった」
玄関でゲンドウは呟いた。
見慣れない靴が二足、小さいのと更に小さいの、と心の中で呟いて自分の革靴を脱いだ。
そして居間へとそのまま歩いていき、何と挨拶すればいいかなと慣れないことを前に
幾分そわそわしながら襖を開けた。
「帰ったぞー、シンジ、レイ。やあ、いらっしゃ・・い・・・」
なるべく朗らかに挨拶しようと口を開いたのだが、それはそのまま宙ぶらりんに固まってしまった。
そしてその固まった厳つい大男を世にも可愛らしい少女が目をまんまるにして見上げていた。
部屋には他に人影は見当たらない。
レイのお友達にしては大きいな、とゲンドウは見当違いのことを思いながら、
そういえば見慣れない二足の内の大きい方の靴は明らかに女の子のものだったと
ようやく思い至って、ふわりとプリーツスカートを纏わせてペタンと畳に座っているこの少女が
息子の言っていたクラスメートかと理解するに至った。
それから予想外の少女の存在にうろたえた自分を恥じつつどうにか言葉を続けた。
「・・・あっと・・・シンジは?」
「あの、レイちゃんとトイレに・・・」
「そうか・・・あ、いらっしゃい。あー、君はシンジのお友達かな?」
「えっ?あの、その、そうです・・・あ、お邪魔してます」
「お邪魔してるよ、おじさん」
アスカがゲンドウに答えたと同時にローテーブルの下からカヲルが顔をにゅうと突き出して続けて言った。
下に隠れていたか、とゲンドウは突然の声に驚きつつ苦笑して、カヲルにも挨拶をする。
「いらっしゃい。じゃあ、君がレイのお友達か」
「そうだよ、おじさん。僕はカヲル。よろしく」
「あ、アスカ、です。はじめまして」
「うむ。よろしく。ゆっくりしていってくれ。ふふ」
自分に挨拶をする子供達の姿にようやくゲンドウはいつもの調子を取り戻してそう笑って返した。
相変わらずテーブルの下で仰向けになっているカヲルの顔を見て随分と利発な子だな、と思い、
同時に物怖じしないで自分に対して話す様子に度胸が据わっていると目を細めた。
ついでアスカを見て何と思ったかというと、ゲンドウとしてはひたすら意外としか言いようがない。
朝に息子がクラスメートと言った時は何の疑いもなく男の子の友達なのだと思ったのだが、
よもや女の子であったとは、シンジの奴め、と何となくしてやられた気分になって
そんな自分が可笑しかった。しかも随分と可愛らしいお嬢さんだと何故か息子のことが誇らしくもなった。
俺も親馬鹿だなと、そうゲンドウが考えていたところでシンジとレイが戻ってきた。
「あれ、父さん。帰ってきたの。結構早かったね」
「あー、ぱぱー」
「ああ、ただいま。どうにか早く片付けることが出来てな。あ、ケーキ買ってきたぞ。
好きなのを選びなさい。アスカちゃんとカヲル君も。これから食べようか」
足にしがみついた娘の頭を屈んで撫でながらゲンドウがそう言うと、
シンジは嬉しそうに笑って、それから紅茶を淹れてくると言ってキッチンへ歩いて行った。
それを見ていたアスカは一応遠慮をした方がいいかと口を開きかけたが
その前にゲンドウにケーキの入った箱を手渡されてしまい、思わず素直に返事をしてしまった。
彼は笑ってネクタイを緩めながら居間を出ていく。
父親の足にしがみついたまま引き摺られていったレイの滑稽な後姿を見送って、
部屋に弟と2人残されたアスカは呆然としてしまう。
「アスカ姉ちゃん?早く選ぼうよ」
「え?ああ、そうね・・・いいのかしら」
言いながら、躊躇いつつも箱を開いて覗き込む。
しかしひとたびケーキを見てしまえば、そこは小さな女の子なので目を奪われて笑みが零れてしまった。
「あー、惣流さーん。イチゴショートがあったらレイにとっておいてくれないかなー。
後は好きに選んでくれていいからー」
キッチンからシンジの声が聞こえてきた。
「ですって。カー坊」
「ん〜、じゃ、僕これ」
「そう?アタシはねぇ、これかこれ、どっちにしようかしら?」
「おじさん、ひげもじゃだね」
「フフ、そうね。でも、ちょっとアイツと似てるかも。・・・うん、結構似てるわ、あの親子」
アスカのゲンドウに対する第一印象は、意外と格好いいというものだった。
確かにゲンドウは無愛想で厳つくて大きい、一般的に言って怖い風貌だろう。
ただ、父親のフランツの方ががっしりと大きいし顔も迫力があるので、それに慣れてしまっている
彼女にとってはゲンドウを見てもそれほど威圧感は感じなかった。
それどころか日本人としてははっきりとした目鼻立ちですらりと背が高いこの男は見栄えがよく映ったし、
髭に関しても怖いと言うより立派に見えた。
シンジと似ていると思ったのも事実だ。目元など特によく似ている。彼が優しげに微笑んだ時、
彼女は、いいな、と思った。目の細め方が2人はそっくりだった。
何だか好きになれそう、とアスカはあの大男が部屋へ入ってきた時のぽかんと口を開けて
立ち竦んでいた姿を思い出してくすくすと笑いを零した。
「そうかなぁ?」
「フフ、そうよ。・・・そうだ、カー坊!アタシ、アイツを手伝ってくるわ!
アンタはここで大人しく待ってなさい。摘まんじゃ駄目よ」
紅茶を用意する為ひとり働いているシンジの姿を急に思い浮かべたアスカは、
言うが早いか立ち上がり、スカートを翻してキッチンへ早足で向かっていった。
彼女がキッチンまでの短い距離の間に、髪を整え、服の皺を伸ばしてスカートの裾を引っ張り、
頬をさすって魅力的な笑顔が出来るか練習しながら咳払いをし、胸を押さえて頬を薔薇色に
上気させていたことに関しては、この際問い質すのは野暮というものだろう。
キッチンという狭く日常的な空間で暫しの間ふたりきりになれるのだから。
「頑張って〜」
よってカヲルは姉の落ち着かなげな後姿に肩を竦めることもなく、彼女に向かってエールを送った。
加えて言えば、暢気に手を振った彼の指先に白いふわふわがついていたのはまるで当然のことだった。
そしてまた、彼が自分のものとして選んだ魅力的な芸術品にちょっとしたへこみが出来ていたのも
まったく不思議なことではなかったはずだ。
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碇家のアルバムより 絵:碇レイ |
リンカ様の連載第6話です。
アスカの恋はさらにもうワンステップ上がりました。
付き添いとはいえ、恋する相手の家に上がりこむことに成功したのです。
しかし、シンジの家の玄関前のアスカの微笑ましいこと。
あの指先にはかなり力が篭っていたんでしょうね。
その結果がありきたりのチャイムの音。
落差がいいですよね。
さて、今回はアスカとゲンドウがご対面。
意外にも(失礼)二人とも相手に好感を抱いた模様。
ゲンドウのことをカッコいいと思うのですからアスカの状況はまさに恋は盲目、ですね。
このアスカの心理を知ったらさぞ天国のユイさんは…嫉妬することでしょう(笑)。
わたしのゲンドウさんに手を出さないでよ、この小娘がっなんて。
そんなことをぶつくさ言いながらもあの無器用な男が認められるのが嬉しくて仕方がない。
彼女のそんな姿が目に浮かんでくるような微笑ましい場面でした。
本当にありがとうございます、リンカ様。
続きをお待ち申し上げます。
(文責:ジュン)
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