時には子供のように

 


 

旅人        2004.09.06

 

 




 

1.

6時間目が終わり、終礼が終わった。
やっと来た、待ちに待った放課後だ。
一気に騒がしくなった教室の中、2−Aの女子は集まってワイワイと相談をかわしていた。


 「ねーねー、どうする?」
 「体育館は部活で使ってるし……やっぱグランドでしょ?」
 「ボールは?」
 「ヒカリが借りてきてくれるよね?」
 「もちろん! 任せて!」


彼女らの話題は、もっぱら一週間後の球技大会に集まっていた。
女子の種目はバスケットボール。チームプレイが大切だ。
そこで、『優勝目指して今から練習を始めよう』、とヒカリが提案したのがきっかけだった。


 「私、バスケ苦手……」
 「だいじょぶだいじょぶ、フォローするから♪」
 「お、さすがはバスケ部のホープ!」
 「やめてよ、ただの補欠だってば〜」


2−Aはイベント好きが集まっているクラスだ。
『終礼後1時間までは部活動の練習も禁止』というお達しもある。
おとなしい女子も活発な子に引っ張られ、クラスはお祭りムード一色。
一意専心、クラス総勢火の玉だ。


 「……あれ?」


そんな中、クラスの中心的存在の女の子が、周りを見回して首をかしげた。


 「アスカは?」


運動神経バツグン、加えてこういった行事には目のない……はずの少女がいない。
惣流・アスカ・ラングレーの姿を求めて、皆がきょろきょろと頭を動かす。
そんな彼女らに答えたのは、言いにくそうな顔をしたヒカリだった。


 「えっと……ネルフの関係で、放課後はダメなんだって」
 「えー! アスカ来れないのぉ?」
 「うん、アスカも残念そうだったけど」


一瞬、教室の空気が少しだけ固くなった。
『EVAのパイロットなんだからしょうがない』
それは重々わかっているが、彼女たちだってそれぞれの事情がある。
なんで一人だけ――そういう思いが全員の脳裏をかすめたのだった。

だが、アスカは日頃からクラスの女子の間でもウケがいい。
皆はあいまいな口調で彼女の弁護を始めた。


 「ん……でもまぁ……しょうがないよね」
 「そそ、世界を守ってるわけだしさ」
 「ま、あの子なら心配ないよ。ぶっつけ本番だって十分! やってくれるから♪」


最後の言葉――クラスの中心的存在の気楽な言葉が場を救った。
こういうセリフを言えるからこそ、彼女はクラスの中心に席を占めているのだ。


 「ま、そうよね。なんてったってアスカだし」
 「私たちこそ、負けないように頑張らなきゃねぇ」
 「おし! 頑張るぞ!」
 (……ほっ)


元の快活な空気を取り戻したクラスメートに、ヒカリはこっそりと安堵の息をついた。


 「じゃ、私ボール借りてくるね!」
 「オッケー! じゃ、その間に更衣室作っておくから」
 「ほら! 男子は出てけ!」
 「なんだよ、勝手だぞ」
 「あ。相田、盗撮は犯罪だからね!?」
 「だ〜れがお前らなんか撮るかい。フィルムの無駄や、なぁケンスケ?」
 「鈴原っ! ヒカリに叱ってもらうわよ!」
 「あはは、じゃぁ行ってくるね〜」


男子と女子の他愛ないじゃれあい。
賑やかな教室から、ヒカリが飛び出す……と。
その視界の隅を、駆け足で去っていく少女の後姿がかすめた。
紅茶色の髪と、赤い髪飾り。


 「……あれ?」


下足箱の方に目をやったときには、その姿は見えなくなっていた。
ヒカリは首をかしげたが、すぐに職員室にボール貸し出しの許可を取りに向かうのだった。





ネルフ本部。
今日はシンクロテストの当番日だった。
弐号機から降りたアスカは、バケツを引き寄せるといつもの不愉快な儀式を始めた。


 「……ガッ……ゲェ……」


体の中に収まったLCLはそのうち吸収されるが、過分な摂取は良くないとされる。
喉の奥まで指を突っ込み、食道・胃の中にまで入り込んだLCLを吐き出す。
たちまちの内に1リットルほどのLCLを吐き出し、アスカは慣れた様子で口をぐいっと拭った。
そこに、横手からタオルが差し出される。


 「お疲れさま」
 「……ミサトじゃない、珍しいわね」


いつもモニター越しに指示を出すだけの彼女が、ここまで降りてくるのは珍しい。
アスカは口を拭き拭き、ミサトを横目で窺った。


 「なんか用?」
 「今日のアスカのシンクロ率、とても不安定だったわ」
 「……あら、そうなの」


そっけなく答えたアスカだったが、その顔は硬い。
アスカにとってその結果がどれだけの意味を持つものなのか、彼女を知る者なら誰もがわかっている。
それを見て取ったミサトは、砕けた調子で後を続けた。


 「シンクロ率は精神状態に大きく左右される、ってリツコが言ってんのよね〜。
  聞き出せってせっつかれてるんだけど、なにかあったの?」
 「別に」


そう言って、アスカはタオルを放り投げた。


 「シャワー浴びてきていい? この匂いだけは好きになれないの」
 「あらそう。まぁわからないでもないわね、それ。
  今日も暑かったし、私も一緒にハダカの語らいでも――」
 「遠慮しとくわ。んじゃ、バイバ〜イ」


軽くかわして、アスカは足早に去っていった。
肩透かしを食って半笑いのミサトに、スピーカーから呆れきった声が掛けられる。


 「……何してるのよ、ミサト」
 「う、うるさいわね! 日本には昔からハダカの付き合いってヤツがあるじゃない!」
 「相手を選びなさい。大体、聞き方がストレートすぎるのよ。
  もうちょっと何とかならない?」
 「じゃぁ自分で聞きなさいよ!」
 「私よりミサトの方が近いから、アスカも言いやすいかと思ったのよ」


ふぅ、とスピーカー越しにため息。


 「明日から一週間この調子じゃ、私も報告するのが心苦しいわ。
  『一週間連続でシンクロ率の推移を見る』、この実験は重要よ」
 「わかってるわよ。作戦部でも重大なデータとして参考にするんだから。
  作戦上、安定して高いシンクロ率っていうのは一番の勘所だし。
  ……だからこそ、アスカには頑張って欲しいんだけどね」


ふっ、と真剣な顔になるミサト。
それをモニター越しに眺めながら、リツコはコーヒーを啜った。


 「さっきそう言えば良かったのに」
 「それこそストレートすぎるじゃない。
  そんなプレッシャー掛けて、悩みが高じてどツボにハマったら目も当てられないわよ」
 「……まあいいわ。これからはちょっと注意して様子を見ておいて。
  あの調子じゃ打ち明けそうにもないし」
 「そうね」


腕組みをしたミサトは短く呟くと、アスカが出て行ったドアをちらりと一瞥した。


 「……あの年頃は難しいわね、まったく」








2.

それから三日。
2−Aの女子は放課後になると、ジャージ姿になって飛び出していくようになっていた。

広い校庭の一角に据えつけられたバスケット・ゴールに向かってシュート練習。
ドリブル、パスといったボール運びと連携。
腰を落としてディフェンス。

バスケット部、ミニバス経験者を中心とした練習は、なかなか本格的だった。
とはいえ汗を滝のようにかく、というほどの物でもない。誰も、苦しい思いまでして練習したくはないのだ。
みんなが一つの目的に向かって準備する。その一体感を味わうのが何よりの目的なのだから。
そんなこんなで、飛び交うボールを追う少女たちの間には黄色い笑い声が絶えなかった。

その様子を、下駄箱で靴に履き替えたシンジが眩しそうに眺めやった。


 「女子、頑張ってるね。僕らとは大違いだよ」


バスケット・コートまではかなり離れている。一人一人の顔が判別できないくらいだ。
それなのに、その華やいだ活気だけはしっかり伝わってくる。
感心したシンジはアスカに話し掛けたが、アスカは気のない様子でその横をすり抜けた。
慌てて追いかけるシンジに、背中越しに肩をすくめて見せる。


 「アンタ、そんなこと気にしてる暇あんの? EVAのパイロットとして、シンクロテストくらいきっちりこなしなさいよ。
  昨日だって危うくファーストに抜かれるとこだったじゃない」
 「そりゃ、綾波はずっと前からやってるし……敵わないことだってあるよ。
  そこいくと、アスカは凄いね。ここ三日間、僕たちの間でもぶっちぎりだし」
 「当たり前よ!」


くるりと振り返って、シンジにびしっ!と指を突きつける。


 「このアタシ、惣流・アスカ・ラングレーをアンタみたいな――」


だが、そこまで言ったアスカは急に顔を強張らせた。
いつもの高飛車自慢トーク炸裂!と思っていたシンジは、拍子抜けして首をかしげた。


 「あれ? どうかした?」
 「……なんでもないわよ」


短く吐き捨てると、アスカはシンジに背中を向けて足早に歩き始めた。
ぽかんとしたシンジが眺めている先で、校門をほとんど駆け足で出ていく。


 「ちょ、ちょっと……待ってよアスカ!」


慌てて追いかけようとして、シンジは一度足を止めた。
遠くから、クラスメイトの女子の黄色い歓声が響いてきたのだ。


 『すごい! シュート、ばしばし決まるようになったじゃない!』
 『あはは、無敵! 無敵だよね私たちっ!』
 『え〜調子乗りすぎ〜』


風に乗って途切れ途切れに聞こえてくる声は、大方そんなところだろう。
ジャージ姿ではしゃぐ彼女らの姿は、まさに『青春』そのものだった。
シンジは口元をほころばせた。


 「ほんと、頑張ってるよね」


なにか浮き立つような気分で、彼は校門へ向かって足を早めたのだった。






その日も、アスカは圧倒的トップのシンクロ率を叩き出した。


 「今日もお疲れさま、アスカ」


シャワー室の前で、ミサトが缶コーヒーを片手に立っていた。
その冷たい缶を受け取りながら、アスカは挑みかかるような目をミサトに向けた。


 「どう、ミサト?」
 「さっすが無敵のアスカ様ね。シンジ君に大きく差をつけてのトップよ」


フフン、とアスカが鼻を鳴らす。


 「ま、競争相手がファーストとシンジじゃね。自慢にもならないわよ」


プルトップを引き開け、ぐっとコーヒーを呷る。
その白い喉をちらりと見た後で、ミサトは手元の資料に目を落とした。


 「ただ、相変わらずブレが多いわね」
 「!」


一転、アスカの視線がミサトに突き刺さる。
その視線を受け止めながら、ミサトはゆっくりと続けた。


 「リツコは例の通り、精神的に安定してない証拠って言ってたわ。
  初日よりはマシとも言ってたけどね」
 「……」


アスカは苛立ちを隠しきれなかった。
舌打ちをして、空になった缶をゴミ箱に投げ捨てる。派手な金属音が廊下に響いた。
ミサトはそれを苦笑交じりに眺めていた。
やがて優しい表情を作ると、彼女はアスカの肩に手をやった。


 「聞いたわ。学校でのこと」
 「……なにを?」
 「球技大会。放課後、練習してるんだって?」


それを聞いたアスカの表情が、一瞬動いた。
ミサトはそれを確認し、一人頷いた。


 「練習に参加出来ないって、肩身が狭いらしいじゃない。
  クラスの子も事情を知って許してくれてるらしいけど……やりたいんでしょ?」
 「……」
 「実験を延期することは出来ないけど、1時間遅らせるくらいなら何でもないわ。
  リツコには私から話しておくから、なんだったら明日からでも――」


だが、その言葉は呆れ声で遮られた。


 「なに言ってんの?」
 「――え?」


驚くミサトに向かって、アスカは首を振った。
腰に手をやり、胸を張り、説教調で喋り始める。


 「惣流・アスカ・ラングレーをそこらの女の子と一緒にしないで欲しいわね。
  アタシはEVAのパイロット。全世界を背負ってんのよ?
  球技大会がなんだってんのよ。優先順位ってもんがあるでしょ」
 「いや、ほら、でも時間をずらすくらいなら」
 「それで技術さんや整備さん、オペレーターにまで迷惑かけるわけ?
  ネルフの実験予定はしっかり組みあがってるんでしょ?」
 「……まぁそうらしいわね」
 「仮にも作戦部長がそんなこと言っててどうすんのよ。
  しっかりしてよね!!」


バン!とミサトの背中を叩いて、アスカは歩き始めた。
2、3歩歩いたところで足を止め、くるりと振り返る。


 「心配無用よ、ミサト。アタシはそんなにヤワじゃない。
  余計なこと考えてるヒマがあったら、使徒侵攻の時の作戦しっかりよろしく!」
 「……りょ、りょうかい」


高らかに笑って、アスカはその場を後にした。
完膚なきまでにやりこめられたミサトは、そっと額の汗を拭った。


 「まさか……そう出るとはねぇ……」


深々とため息をつくミサト。


 「意地っ張りもあそこまで張り通すんなら、立派なもんだわ」


そんな彼女の声は、どこか寂しさを感じさせるものだった。








「アタシは、EVAのパイロット」



「普通の女の子とは違う」



「違うのよ」












3.

いよいよ、球技大会当日。
2−Aはちょっとした興奮のるつぼと化していた。


 「ついに来たね! この日が!」
 「長かった……血のにじむような練習を経て、私たちはついにこの日を迎えたのよ!」
 「あはは、さっすが演劇部。セリフ用意してたんじゃない?」
 「それにしちゃ陳腐ね」
 「それでいいのよ! 我々は王道を闊歩するっ!」


盛り上がる女子。男子はその勢いに押され、なんとなく廊下に追いやられている。
そこに、ニコニコと顔を綻ばせたヒカリが教壇に上がった。


 「みんな! ハチマキ作ってきたの、配るわよ!」


おー、っとばかりに教室から拍手が起こる。
真っ赤なハチマキは情熱の証。
ハチマキが全員の頭をリボンのように飾ったところで、例の『中心的女子』が教壇に駆け上がった。


 「よしっ! いくぞ!」
 「「「「「おーっ!!」」」」


全員のこぶしが天を衝く。
そして、興奮のピークに達した彼女らは決戦の地に向かうべく、廊下に雪崩れ込んだ。


 「わたし、ちゃんとシュートできるかなぁ」
 「ふふふ、リバウンドなら任せてよ!」
 「速攻よ、速攻!」


ここ一週間で覚えた単語を駆使しながら、声高に喋りたてる少女たち。
そんな彼女らは、アスカにも盛んに声を掛けてきた。


 「アスカ、期待してるからね」
 「よっ、2−Aの秘密兵器!」


だがその声には、他の子と喋るときのような『熱さ』は篭もっていない。
たった一週間とはいえ、練習を一緒にこなした『仲間』とそうでないアスカとの間には、
目に見えない微妙な壁が出来ている。
それは『敵意』のように厳しいものではないし、『疎外』ほど冷たくもない。
だが、決して揺るがせに出来ない、厳然として存在するものだ。

とはいえ、それははっきりと見えるものでもない。
外から見れば、今もアスカは渦の中心の一つとして、クラスの中に溶け込んでいた。
赤いヘッドセットに赤いハチマキをトッピングして、笑顔で――。


 (さすがだね)


階段に座り込んで、トウジやケンスケと雑談にふけっていたシンジにも、その壁は見えなかった。
男子の競技はソフトボールだが、シンジはスタメンに入っていない。
練習に参加してもいなければ、やる気も能力も不足している。


 (何から何まで、僕なんかとは違うや)


そんな感慨にふける彼をよそに、女子の集団は階段に到達した。


 「うお、ヤツらが来よったで!」
 「隊長! 敵の進軍は破竹の勢いであります! 離脱!」


トウジとケンスケはそんなことをわめきながら、さっさと場所を空けた。
苦笑しながらそれに倣うシンジ。
その横を、熱に浮かれた女子の集団が猪突猛進!とばかりにどかどかと通り過ぎていく。
シンジはその勢いに気圧されながら、友達と雑談しているアスカを何とはなしに眺めていた。
一際目立つ紅茶色の髪……一瞬、階段を降り始めようとするその全身が、シンジの目にはっきりと映った。


そしてその姿は、唐突に人込みの中に消えた。





 (え?)

バタバタというせわしない音。
人の波が不規則にうごめく。
シンジは何が起こったかわからないまま、立ち上がっていた。


 「……っ痛ぅ……」


聞き慣れた声が苦痛に歪んでいる。
シンジがやっと状況を飲み込んだその時、周りの女子がわっと一箇所に集まった。


 「アスカ!」
 「だ、だいじょうぶ?!」
 「惣流さん!」
 「アスカッ!!」


階段の中ごろで、アスカは足を押さえて顔をしかめていた。
階段を踏み外し、段の縁で足を強く打ったらしい。
膝頭より少し下のところが青く腫れている。
すりむいた傷からはわずかながら血も滲んでいる。


 「大丈夫よ、これくらい……痛っ!」


立ち上がりかけたアスカだったが、顔を歪めてその場にへたりこんでしまった。
それを見て、顔を強張らせたヒカリが大声で叫んだ。


 「保健室よ!!」







アスカの足をざっと見た保険医は、軽く首を振った。


 「折れてはないわ。ただの打撲ね……でも、歩くのに痛みがあるようじゃ今日はやめておきなさい」


保険医は手早く足に包帯を巻きつけると、しばらくここで安静にしてるように言い残して体育館に向かった。
今日のような行事の時は、保険医は日頃の倍以上の仕事が待っているのだ。
付き添ってきたヒカリが、心配そうにアスカを覗き込んだ。


 「アスカ……だいじょうぶ?」


その声に、アスカは視線を下に落とした。


 「ごめん、こんなことになっちゃって」
 「ううん。しょうがないわよ。
  立てないんだもんね……よっぽど痛いんでしょ?」
 「――うん。ここまでありがと、ヒカリは早く体育館に行って」
 「アスカも一緒に行くでしょ?」
 「え?」
 「ほら、せめて応援だけでも」
 「……」


アスカがゆっくりと首を振った。
顔を上げると、ヒカリに苦笑いを向ける。


 「まったく、ヒカリも分からないんだから」
 「え? なに?」
 「せっかく口実作ったんだから、サボらせてよね」
 「!」


ヒカリがあんぐりと口を開ける。


 「アスカ……わざと……」
 「怒らないでよ、ヒカリ。あのノリがどうも苦手なのよ。
  練習にも参加してないし、居心地悪いんだってば」


そう言って、アスカは手を合わせてヒカリを拝んだ。


 「それに、アタシは一人で突っ走っちゃうタイプだしね。
  みんなが頑張って練習したのに、本番でアタシが目立つわけには行かないじゃない。
  ま、空気読んだってことで勘弁して! お願い!」
 「……まったく、呆れちゃう」


溜息。
ヒカリは苦笑いを浮かべてアスカの額を小突いた。


 「なんか奢ってもらうからね?」
 「1000円以内ならOK」
 「了解。みんなにはうまく言っておくわ」


手を振って、ヒカリは保健室から出て行った。






一人になったアスカは大きく息をつくと、ベッドに身を投げた。
シーツの冷たい感触。
消毒薬の匂いに顔をしかめながら、もぞもぞと布団の中にもぐり込む。


 「ふぅ……」


誰もいない、がらんとした保健室。
廊下からは遠い体育館の歓声。
窓からはすぐ傍のグランドの歓声。
しばらく天井を眺めていたアスカの口が、ふっと歪んだ。


 「バッカみたい」


その瞬間、さっきのヒカリの顔が頭に浮かんだ。
ため息をついた瞬間の残念そうな顔。
――友達と遊べなかった時の子供の顔。


 「……」


胸の奥が、少し苦しくなった。
かかっている毛布がやけに重く感じる。
アスカは2、3度深呼吸をして、ゆっくりと目を閉じた。

このまま。この静かな時間のまま。
はやく今日が終わってしまうようにと。








4.

2−Aは見事に優勝した。
表彰式の後で押し掛けて来たクラスメイトを、アスカは満面の笑みで迎えた。
勝利という結果だけが残った今、彼女らの間の『壁』は消えてなくなっている。
保健室はたちまち、喋り声と笑い声に包まれた。

戻ってきた保険医が、はしゃぎにはしゃぐ彼女らを追い出すまで、その騒ぎは続いた。
そして――。


 「まだいるの?」


太陽は地平線の向こうに沈みかかり、オレンジ色の光が保健室を染めている。
白衣を脱ぎ、私服に着替えた保険医がアスカに声をかけた。


 「すいません、あと少し……ダメですか?」
 「いいえ、閉門までなら少しも構わないわ」
 「じゃ、それでお願いします♪」


手を合わせて、茶目っ気たっぷりに拝むアスカ。
だが、保険医は内心こう思っていた。

 (結構ショックだったみたいね……他の子と一緒に帰らなかったのは悔しいからかしら)

何百人、何千人とこの年頃の少女を見てきた校医は、アスカの態度に『演技』を感じていたのだ。
ちょっと考えた後、保険医は彼女をそっとしておくことに決めた。
こういう生徒は放っておくのが一番いい。


 「鍵は職員室に返しておいて。よろしくね」
 「はい」


職業的な笑顔をアスカに向けて、保険医は去っていった。
そして、アスカがようやく帰り支度を始めたのは、それから30分も後のことだった。






球技大会の後という事で、部活動も早めに終わっていたようだ。
下駄箱で靴を履き替え、昇降口に出ても、アスカは誰にも会わなかった。
日頃はテニス部やサッカー部、野球部が所狭しと動き回っているグラウンドにも、もう誰もいない。
いつになく精気のない顔で、アスカは校門へ向かって歩き始めた。


 「……ん」


なにげなく――いや、それは本当になにげないものだったのだろうか。
アスカの目はグラウンドの向こう、バスケットコートに向けられた。
そして、そのゴールの下にぽつんと転がっている、一個のバスケットボールに。


 「……」


アスカは目を逸らすことが出来なかった。

ローファーが砂埃をかぶるのも構わず、グラウンドに降りる。
急いた足取りでコートに歩み寄る。
カバンをゴールの足元に放り投げ、ボールを手に取る。
ポン、ポン、ポン……
2、3度ボールを撞いて、アスカは地を蹴った。


 (ここはゴール前)


アスカの目にはしっかりと見えていた。
覆い被さってくるガード。
手を挙げて仁王立ちしているセンター。
隙あればスティールを狙ってくるポイント・ガード――。

アスカだけに見えるプレイヤー。
その間を、彼女は素早い動きですり抜けていく。
動きに緩急をつけて。
フェイントを織り交ぜながら。
抜く時の姿勢は低く。スピードは速く。ボールは体から放さずに。

アスカの動きは速く、そして巧みだった。
しなやかな若木だけが持っている、強く柔らかなバネ。
彼女の周りの見えない選手たちを翻弄する、優美でさえある動き。

そして、ディフェンダーの壁が崩れた瞬間。
アスカは跳んだ。


 「シッ」


まるで、バスケ部の男子がやるように。
右手を中心に、左手は添えるだけ。
放たれたボールは夕焼けの空に綺麗な孤を描いて――。

……バスッ……

いい音を立てて、ネットを揺らした。


 「……」


ゴールの下で弾むボールを眺める。
突然、目頭に熱いものが込み上げてきて、アスカは慌てて空を見上げた。
ともすれば涙に変わりそうなそれを無理やり抑え込む。
鼻の奥を、ツンとしたものがよぎっていった。








ああ。

どうしてなんだろう。

どうして、意地を張ってしまったんだろう。

本当は……本当は、自分は……








 「――やっぱり、足、大丈夫なんだね」
 「!!」


驚きのあまり、アスカは体を強張らせた。
聞いた声。よく知っている声だ。
おそるおそる後ろを振り返ると、そこにはやはり『アイツ』がいた。


 「な、なにしてんのよ! シンジ!」
 「……え……いや、あの、僕は後片付けやらされてて……
  今、体育倉庫から戻ってきたんだ。そのボールを片付けなきゃならなくて」
 「あ、ああそう。それなら、さっさと持ってったらいいじゃない」


アスカはゴール下に駆け寄り、ボールを拾い上げるとシンジに投げつけた。
だが、シンジがのろのろと伸ばした手は、ボールを弾いてしまった。
それでも彼はボールを追わず、伏し目がちにアスカの方を見ている。


 「何ぬぼーっとしてんのよ。さっさとボール拾って、片付けてきなさいよ」
 「……うん」


だが、シンジは動かない。
何か言いたげにちらり、ちらりとアスカに視線を送ってくる。
苛立ったアスカが声を張り上げた。


 「何よ? なんか用? 言いたいことがあるならさっさと言いなさいよっ!」
 「……僕、見てたんだよ」
 「なにをよ?」


詰問の声。
シンジの声が震える。


 「階段で転んだ時、あの時さ、アスカ……わざと足を踏み外したよね?」


アスカの目が驚きで丸くなった。
だがそれも一瞬のことで、すぐに彼女は表情を取り繕った。
シンジは目を逸らし、呟く。


 「何でそんなことしたのか、気になって」
 「……」


二人の間に沈黙が訪れた。
シンジは臆病な兎のように、目を逸らして下を向いている。
その前で、アスカは無表情でシンジを見据えている。

夕暮れの校庭。
二つの長い影が、グラウンドのトラックにまで伸びていた。
夕暮れ時のかすかな風が吹き、アスカのスカートを揺らす。
その風に吹かれてほつれた髪が、彼女の顔を優しく撫でる。


 「……フン」


アスカは鼻を鳴らし、転がったボールに歩み寄った。
それを拾い上げると、いつもの口調でシンジに命令を下す。


 「ちょっと。ゴールの下に立って」
 「え?」
 「ボール取りに行くのが面倒だから、落ちたボールをパスしなさいって言ってんの」


ちょっと眉をしかめながら、アスカはそう言い放った。


 「う、うん……」


戸惑い顔のシンジがゴール下に立つ。
アスカは大きく深呼吸を繰り返した。
そして、ぐっとゴールを睨みつける。


 「あのね、シンジ」


アスカはボールを構えた。
シュッ――指先がボールをこする音と共にボールが放たれる。
彼女の青い目は、じっとボールの軌跡を見つめている。


 「どのツラ下げて、アタシがあの中に入れると思う?」


ネットを揺らす。
そして、シンジの目の前に落ちてきた。


 「……っと……」


シンジがへっぴり腰でボールを返す。
それを受け取って、アスカは2,3回ボールをつく。そしてシュート。
それを何度も何度も繰り返しながら、アスカはぽつり、ぽつりと喋っていった。


 「練習、やろうと思えばやれたのよ」
 「ミサトだって、いいって言ってくれた」
 「でもそうしなかった」
 「あの子たちと一緒にやるより、シンクロテストを選んだのよ」
 「だって、アタシはEVAのパイロットだから」


シュートは一本も外れない。
10本目がネットを揺らしたところで、アスカはちょっと得意げに笑ってみせた。


 「なかなか上手いでしょ、バスケ」
 「う、うん」
 「向こうでやらされたのよ。訓練の一環とかいって。
  でも、アタシは訓練の中でこれが一番好きだった。
  NERVの訓練官にだって負けなかったんだから」


喋りすぎてるな、とアスカは思った。
何でシンジ相手にこんなことを喋ってるんだろう。
馬鹿なことを。

でも、止まらない。


 「ホントはね」
 「本当は、一緒にやりたかった」


囁くような声。
うわ言のようになった声。


 「ヒカリやみんなとバスケして、優勝して、みんなで騒いで――」


その時、初めてボールがフープを外した。
鈍い音を立ててボードに当たったボールが、コロコロとアスカの方に転がっていく。


 「あ……」


それに気付いたシンジがボールを追う。
だが、その時にはもう、アスカが素早くボールに走り寄っていた。
ザッ! ローファーが砂煙を立て、その動きを止める。
姿勢を低くしたアスカと、その勢いに身を引いたシンジの距離は30センチ。
二人の視線が合った。


 「でも、それはできないわよね」


アスカが口元を歪める。
泣きそうな顔だ。シンジはそう思った。


 「アタシは、EVAのパイロットだから」


そう言った瞬間だった。
アスカが動いた――だが、シンジにはそれしか分からなかった。
スカートが翻り、甘い匂いの風が擦り抜け、柔らかい紅茶色の髪が顔をくすぐり……。


 「!」


振り返ると、シンジの目に高く跳ぶアスカが飛び込んできた。
そして、思わず、見とれた。


――シンジはきっと生涯忘れないだろう。
夕暮れの中で黄金色に縁取られた、しなやかなアスカの肢体。
重力から解き放たれたかのように浮き上がるボール。
広がる紅茶色の髪。綺麗に伸びた白い手。
まるで一枚の名画のような一瞬。
夕暮れの中でレイアップを綺麗に決めた、アスカの姿。


ボールがネットを揺らし、落ちる。
その横でアスカは悄然と肩を落としていた。


 「……しょうがないのよ。残念だけど、ね」


ついさっきのアスカと、今の彼女は別人のようだった。
それを見たシンジの胸に何かが込み上げてくる。

なんなのか、分からない。
自分が何を思っているのか、この衝動が何なのか、分からない。
ただ、それは抑え切れない。それだけは確かだ。

……だからシンジは、黙っていられなかった。


 「ほんと、残念だよね」


アスカが振り返った。
ちょうど射した逆光の中で、その表情は見えない。
構わず、シンジは続けた。


 「見たかったよ。アスカが、2−Aのみんなとバスケするところ。
  凄かっただろうな。本当に。何点決めるか分からないくらい。
  ――きっと、凄かったよ。今のシュートみたいに」


自分でも何を言いたいのか分からない。
最後の方は、ちょっと声が小さくなった。
アスカはそれを聞いて――確かに、小さく笑った。


 「バーカ」


聞き取れないような小さい声で呟くと、アスカは足元のボールをシンジに向かって放った。
慌てて受け取ったシンジに、やれやれ、といった感じで肩をすくめて見せる。


 「アンタに慰められるなんて、アタシも落ちたもんね」
 「え、いや、あの」
 「だいたいアンタ、ボール片付けに来たんでしょ? いつまでもボヤボヤしてちゃダメなんじゃない?」
 「あ……うん」
 「片付けてきなさいよ、さっさと」
 「う、うん」


不承不承、といった様子でシンジは頷いて、体育倉庫の方に小走りに駆けていった。
ときどき小首をかしげている。
(やっぱり、余計なこと言ったのかな?)
そんなことを思っているのだろう。

アスカはその後姿が小さくなるまで見送った。
――そして、そっと頬に手を当ててみる。


   (熱い、わよね)


それを確認して、アスカはさらに顔に血が昇るのを感じた。
夕日の加減で、シンジはそれに気付いてはいないはず。
……それにしても……。


 「あーあ」


シンジの言葉を聞いたとき、アスカは涙がこぼれそうになった。
それは余りにも不意で、唐突で、予想外で――嬉しかったから。
そんな自分が可笑しくて、アスカは軽い笑い声を上げた。


 「もう、ホントに……あーあ!」


嬉しかった。
グズで、たどたどしくて、まだるっこしい……シンジの言葉が。
本当に嬉しかった。
『見てみたかった』。そう言ってくれたことが。


 「バカみたい。ガキじゃない、まるで。
  見て欲しかっただけじゃない。『こんなに上手いのよ』って!」


友達と一緒にやれなかったのは寂しい。
でも、それで友情が消えてなくなったわけじゃない。

アスカは本当は――悔しかったのだ。
自分の力を人に見せて、誇れなかったのが口惜しかったのだ。
それはいかにも子供じみているし、アスカもそれを承知している。
だからこそ、その悔しさをヒカリやシンジにはぶつけられなかった。
……でも、シンジはそれを満たしてくれた。


 「ばーーーっかみたい!」


だが、アスカは声が弾むのを抑え切れなかった。
彼女はため息をつき、頭をかき、そして……笑っていた。


 「……でも、まぁ。ま、いっか。たまには」


うん。いいわよ。
たまには。こんなことがあったって。


 「シ〜ンジ〜〜〜〜〜〜ッ!! はやくしなさいよっ、バーーカシーーンジーーー!!」


もう、ボールはない。
周りのプレイヤーも、もう見えなくなった。
体育倉庫から出てきた小さな人影に、アスカは晴れ晴れとした声で叫んだ。









  






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旅人様の当サイトへの初投稿。
 管理人とは随分昔からのお付き合いだったんだけど、また最初っからすっごくいいお話よね。
 旅人様のお話って画面が浮かんでくるのよ。
 透明プレイヤーを相手にしてコートを駆けるアタシの姿が浮かんでくると思わない?
 うちの管理人が学園モノ書きたい〜って、叫んでたわよ。
 もう、凄い影響力!
 
ホントに素晴らしい作品をありがとうございました、旅人様。
  

 

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