昭和短編集

遊 園 地
 
夢の遷

ー 2006 1月 

 


 2008.11.10        ジュン

 
 

「ふふふ、嬉しい」

「やれやれ、部長に笑われたよ。だから最初から3連休扱いにしておけと言ったんだって」

 携帯電話を切った碇シンジは溜息混じりに苦笑する。
 先に外堀を妻に埋められてしまい、彼は上司に連絡をするところにまで追い詰められたのだ。
 もっとも、彼女はちゃんと聞いていた。
 小さな声で聞こえないと夫は思っただろうが、「はい、予定通りに」と通話中にあったのである。
 最初から会社内で休みを余計に取るかもしれないと話をつけておいたようだ。
 もっとも碇アスカにしても一日分余計に下着を準備している。当然、夫の分も。
 
「で、明日の晩はどうするの?泊まる場所は」

「ああ、そうだね。ちょっと電話してみるよ。早い方がいいから」

「私は東京に電話。義母さんに」

 二人は各々の携帯電話を手にする。
 短縮番号を押したアスカは夫から少し離れる。
 二人が話をしていたのは、あのメリーゴーランドのそばだった。
 その近くに置いてあったテーブルセットに腰をかけ、缶コーヒーを飲みながらを話していた二人である。
 この寒い中を酔狂なと近くを通る者たちに思われていただろうが、夫婦には寒さはあまり感じられなかったのだ。
 何故ならそこは二人の聖地だったのだから。
 いや、聖地であったと確認できたのだから。
 数年前、宝塚ファミリーランドがなくなるというニュースは耳に入っていた。
 しかし、その時は関西までわざわざ思い出巡礼の旅に出ようという気持ちには二人ともならなかったのである。
 シンジが課長に昇進し忙しかったこともある上、長男が高校受験、長女が突然名門女子中学を受験すると言い出し、
碇家は時ならぬ“お受験”イヤーとなっていたのだ。
 思い出の場所の閉園は当然哀しいのだが、日常が忙しく、また関西まで気軽に行ける距離ではない。
 閉園のことを思い出したのは、そのニュースがテレビで流れた時だ。
 ああ、今日だったのね、と涙をこぼすことなくアスカは画面を見たものだ。
 帰宅したシンジにそのことを伝えた時、彼もまた「ああ、そうだったんだね」と呟いただけだった。
 それは素っ気無いものではなく、その夜は食事をしながらあの当時の話に花が咲いたものだ。
 ただ涙を流すほどではなく、懐かしさを提供させてくれた話題という程度だったのだ。
 確かに二人にとって人生の分岐点となった場所なのだが、思い出の場所はそこだけではない。
 もし彼らが関西に住んでいれば、実際に遊園地に行くことで大いに感情を揺さぶられたかもしれなかったが。

「どうだった?」

「どうもこうもないわ。我が家に全員集合ってどういうこと?」

 戻ってきたアスカが苦笑を浮かべていたので、シンジが質問するとそんな返事が返ってきた。

「全員集合って、どこまでのレベル?」

「レベルって、ふんっ」

 一昔前ならば「はんっ!」と高らかに鼻で笑っていたところだが、最近は夫婦喧嘩の時くらいしか出てこなくなったアスカである。

「マックスよ、マックス。トモロヲじいちゃんまで来てるのよ。まあ、90過ぎた年寄り一人留守番させて置けないだろうけど」

「それじゃ、アスカのところまで…って、布団足りるのかなぁ」

「そうよ、それっ。みなさんお泊りしてくれるのよ。本当に信じられない。カヲルもレイもうちから仕事に行くんですって」

 年の離れた弟と義妹に対し、アスカは悪態を吐いた。
 もっとも二人とも住んでいる場所よりも、アスカたちの碇家の方が職場への交通の便が良い。
 
「もう一晩お願いってこっちから言う前に、明日も宴会するから帰ってくるなって。まったく…」

「どうせ、母さんが企んだことなんだろ」

「決まってるわ。策士のユイ。いくつになっても健在ね」

 アスカは苦笑した。
 もしこちらから電話をしなくても、向こうからかけてきたに違いない。
 みんなで楽しくやっているから、もう一晩夫婦水入らずで楽しんで来いとか何とか、と。
 碇ユイはそういう女性である。
 もっとも彼女のおかげで惣流家は親子三代平和に暮らせるようになったのだから、アスカとしては文句は何もないのだ。

 さて、アスカの父、アンソニー・ラングレーのことである。
 彼は軍刑務所への服役、及び重労働を5年勤めた後、日本への出国を願い出た。
 しかしもはや不名誉除隊により2級市民となった彼にはそれは遥かに高い壁であったのだ。
 ちょうどアスカがシンジと出逢った頃の彼は出国を認可してもらうために様々な手を使っていたわけだ。
 ようやくアメリカからの出国に関しては国籍剥奪と入国禁止を条件に認可されたのだが、今度は日本への入国と国籍取得が問題だった。
 策士の本領を発揮したユイによるマスコミを使った作戦で、やっと日本への入国が認められた彼はラングレーという姓を捨てて、惣流アントンとなったわけだ。
 どうせなら名前もドイツ語読みにしてしまおうと、アンソニーからアントンに変えてしまったのである。
 それが1979年のことであった。
 翌80年、アスカとなんと15歳も年の離れた弟が誕生した。
 さらに翌年、キョウコを高齢出産だとかいやらしいなどと冷やかしていたユイも出産したのだ。
 こちらはシンジと16歳違いの妹だった。
 これが電話で話題になった惣流カヲルと碇レイなのである。
 アントンの来日とともに惣流家で生活をすることになったキョウコとアスカだったが、その隣家に碇家が越してきたのだ。
 これにはアスカとシンジも大いに喜んだ。
 1979年、昭和54年といえば彼らはともに15歳。
 密かに結婚の約束もしているほどの遠距離恋愛中だったが、それは親たちに隠しようがない。
 寧ろ親たちは交際を奨励していたくらいだ。
 さすがにアスカは碇家で寝起きするかとユイに問われた時は、本気か冗談かを見極めるのにかなり苦労をした記憶がある。
 実際に二人が同居したのはその10年後、結婚してからであった。
 学生結婚も考えたが、就職し生活が安定するまではと辛抱したのだ。
 もっとも隣同士の家だけに、その辛抱もそれほど苦痛ではなかったのだが。

「で、そっちはどうだった?もう一泊できそう?」

「ああ、平日だからね。このまま有馬に行く?それともどこか歩くかい?」

「いいわ、有馬温泉へGO。もう一日ゆっくりできるんだもの」

 アスカはシンジの腕に手を絡めた。

「今晩はちょっと贅沢なものを食べて、美味しいお酒を飲んで、楽しいお喋りをしましょう」

 何の話題かと、シンジは聞かなかった。
 出逢った頃の話、ファミリーランドで何があったか、そういう話に決まっている。

「でね、明日はまず…そうね、あなたのために手塚治虫記念館に行ってあげる」

「自分だって行きたいくせに」

「うるさいわね、手塚治虫の素晴らしさを教えてあげたのは誰のおかげだったかしら?」

 アスカは上目遣いに、しかしじろりと夫を睨みつけた。

「たまたま、アスカが漫画を持っていただけじゃないか」

「まあ、そんなことを言う?あの時、最後まで読ませてあげようと放っておいてあげたのに。
 私の優しさに気がついてなかったの?信じられないくらい、鈍感な男ね、あなたって。
 それに新幹線の中で読みなさいって、大事に持ってた『ジャングル大帝』と『ワンダースリー』を貸してあげたでしょうが」

「ああ、あれは感謝するよ。おかげで新幹線の中で泣いてしまったからね」







 それは作り話でも誇張でもない。
 あの2日後の朝、シンジのリュックサックにはアスカが貸した漫画が入っていた。
 そして、アスカの作った折り詰め弁当と2種類5枚の写真も。
 一つめの写真は二人の母親が写っている。
 彼女たちはそれぞれの子供を見て自然に微笑んでいた。
 子供などそこには写ってもいないのに、誰が見ても母親だとわかる表情だ。
 1枚はユイに、そしてもう1枚は惣流トモロヲへ渡して欲しいとアスカは頼んだ。
 さらにもう一つの写真も一緒にと頼んでいる。
 それは大きなサイズのアスカとシンジが並んで立っている構図のものだった。
 腰に手をやって自然な笑顔の少女と、泥まみれの服で笑っている少年の写真。
 その2枚の写真を直接シンジの手で渡して欲しいとアスカは頼んだ。
 そしてその時に「お手紙を書いてもいいですか?」と訊ねてくれとも。
 そんな重大な用件を依頼されて、正直に言うとシンジは重圧を感じたのだ。
 しかしアスカの気持ちを考えると子供心でも頑張らないといけないと思ってしまう。
 その時、彼は了承の返事を貰うまでは何としても頑張りぬこうと悲壮な決意をしたのである。
 二人が写った同じ構図の写真は大きいのと小さい手札サイズがあった。
 その2枚をアスカも持っている。
 大きい1枚は壁に貼り、そしてもう1枚は…。
 あの時、新大阪駅のプラットホームで、少女はパスケースを少年に見せた。
 外国人学校に通うための定期が入っているのだが、その定期の下に写真が入っている。
 アスカは頬を赤らめながらこう言った。
 『アタシ、ずっと大事に持ってるの、この写真を。魔法が解けないように』
 彼女としては精一杯の告白だったが、彼にはその真意の3割程度しか伝わっていない。
 シンジにとってそれは好意とか友情の類であり、まさか彼女が自分に恋愛感情を抱いたとは想像すらできなかったのだ。
 ただ、彼はアスカの言うことはことごとく受け入れていたのである。
 『手紙書くわ。アンタも書いてよね』『うん。わかった』
 『本失くさないでよね』『大丈夫だよ。ちゃんと返すから』
 『大事な本だから直接返してよね』『えっ、うん。でも、いつになるんだろ』
 『約束したからってユイおばさんに言いなさいよ』『うん…言ってみるけど…』
 『アタシの誕生日教えてあげるからお祝いのカード頂戴よね』『プレゼントじゃなくて?』
 『ア、アンタがど、どうしてもそ、そうしたいんなら、そ、それでもいいけどさ』『じゃ、プレゼントにするよ』
 『そ、そう?はははっ、嬉しくなんかないわよ、別にっ、じ、じゃ、アンタにもお返ししないとね』
 その時、乗車を促すアナウンスが聞こえた。
 さすがにまだまだ子供だ。
 発車まで数分の余裕はあったのだが、二人は慌てて別れの挨拶を交わした。
 『じゃあ、またね』『うん、また』『また、遊ぼうね』『うん、わかった』
 乗降口に立ったシンジは結局扉が閉まるまでそこでアスカと向かい合っていたのだ。
 高らかな警笛を鳴らし、初恋の少年を乗せて新幹線が東京へと去っていった後、
アスカはトイレの個室に駆け込んでひとしきり涙を流した。
 別れの悲しみが収まっても、今度は本当にもう一度会えるのだろうかと不安に思ったのだ。
 その不安を打ち消そうと、アスカは個室から出て顔を洗い、ハンカチでしっかり拭いてから、売店に向かった。
 最初は絵葉書を買ってそれでシンジに手紙を書こうと思ったのだが、値段が高い上にそれで彼が喜ぶかどうか疑問だ。
 思い直したアスカは構内にある郵便局で普通の官製はがきを10枚買った。
 そのはがきに自分で絵を描いて、文章は少なめにしてシンジに出そうと決めたのだ。
 描くのは手塚治虫の漫画がいいだろう。
 そして、すぐにはがきを出す言い訳は誕生日を教えていないということだ。
 そのために自分の誕生日が12月4日だとあの時言わなかったのである。
 彼女は何のキャラクターを描こうかと思いながら、家路を辿った。
 彼に忘れられないためにも毎週手紙を出そうと心に決めて。

 座席に座ったシンジは、新幹線が快調に走り出すと漫画と弁当とどちらを先にするかを考えた。
 一度読み始めると途中で止められないということを自覚していたので、彼は折り詰めの方を取り出す。
 売店で買っておいたお茶を窓際に置き、膝の上で弁当の蓋を開いた。
 少しだけ形の崩れたおにぎりが並んでいる。
 おにぎりはまだ苦手だけど笑わないで食べてよねと唇を尖らせていたアスカの顔が浮かぶ。
 今朝もアスカは新聞配達に出かけていた。
 いつの間に彼女が起き出したのか、熟睡していたシンジは今日もまるで気がつかなかったのだ。
 夏休み恒例毎朝のラジオ体操も目覚まし時計と母親の襲来がないと起きられないシンジなのだ。
 自然に目を覚ますのは7時である。
 昨日と同様に布団を横にして並んで眠っていた彼はアスカの姿が見えなかったので少なからず後悔した。
 いってらっしゃいとかがんばってねと声をかけたかったのだ。
 後悔先に立たずとはこのこと。
 がっかりして服を着替えたシンジが襖を開けたとき、まるでタイミングを計っていたかのようにアスカが帰ってきたのである。
 そして朝食を食べた後にアスカは家事を始め、シンジは本棚に追いやられた。
 しかし実は読みたいと狙っていた『ジャングル大帝』が見当たらなかったので不思議に思っていたのだ。
 それは彼女が貸し出すつもりで先に本棚から抜き取っていたからだと知ったのは、アスカの家を出る時だった。
 弁当を食べ終えたあとに、シンジは貸してあげると差し出された本をゆっくりと読み出した。
 琵琶湖を左手に新幹線が疾走しているところまでは覚えていた。
 ところが隣の席に座っていた会社員風の男が名古屋で降りたことはもう意識していない。
 完全に漫画の世界に没頭していたのである。
 『ジャングル大帝』を読み終えたのは豊橋までもう少しのところだった。
 もし隣が空席でなかったなら、少年は感動のあまり涙ぐんでいるところを見られていただろう。
 シンジはごしごしと涙を拭うと窓の外を眺めた。
 青い空には入道雲がもくもくと立ち上っていたが、どんな風にしてもパンジャの姿には見えない。
 もっとももしその雲が獅子の如く見えたのならば、シンジは声を出して泣いていたかもしれなかったのだが。
 豊橋に停車した時、シンジは人の出入りに応じて気持ちを切り替えようとした。
 隣に座る人がいたら泣き顔を見られてしまうかもしれないからだ。
 網棚から下ろしたリュックサックから『ワンダースリー』を取り出し、その第1巻を手にした。
 彼の記憶が正しければ、テレビで見た『ワンダースリー』にはそんなに哀しい場面はなかったような気がするからだ。
 しかし、その記憶は間違っていたのかと、1時間後のシンジは慄然としながら第2巻のページをめくっていた。
 そして、ラストシーンまで読むと涙は零れなかったものの、やはり彼は感動してしまった。
 こうなっていたのかと胸の中が熱くなってしまったのである。
 そんなシンジは最後のページが少し膨れていることに気がついた。
 何かが挟まっているようなのだ。
 彼は何の気なしにページをめくった。
 するとどうだろう。
 そこにはメモ用紙のようなものが挟まっていた。
 開いてみると、こんなことが書かれている。

『どう?いいお話だったでしょう?
 わたしとシンジもまた会えたらいいね!
 アスカより』

 シンジはその短い文章を何度も読み返してしまった。
 そして彼は彼女の意見に大いに賛同したのだ。
 また、アスカに会いたい。
 その理由は…。
 それはよくわからなかったが、彼女といれば楽しかったことは事実だ。
 彼は窓の外を見た。
 いつの間にかもう都内に入っている。
 品川の山手線がカーブしているところに差し掛かっていた。
 もう東京なのだ。
 お金がかかるが、新幹線に乗ればすぐに彼女に会えるではないか。
 シンジは何故かくすりと笑うと、彼女の手紙を元の通りに、しかし大切に本の間に挟む。
 手紙を書こう。
 無事に東京に着いたという事と、手塚治虫のマンガに感動したという事を伝えたいと思ったのだ。
 その決意通りにシンジは自宅のすぐ傍の駅に降りると、家に真っ直ぐ帰らず先に郵便局に立ち寄った。
 最初ははがきを一枚だけ買うつもりだったが、窓口で何枚かとお姉さんに問われ、つい10枚と答えてしまう。
 答えた後で10回手紙を出せばいいだけだと彼は考えた。
 家に着き、親に挨拶し、母親へ例の写真を渡し、その後でシンジは学習机に向かう。
 はがきを書いて、今すぐに投函したかったのだ。
 彼は新幹線で考えたとおりのことを書いた。
 そして、名前を書いた余白が気になり、少しだけ考えて頭に浮かんだことを素直に書き入れる。

『ぼくも会いたいです』

 その短い文章を書き込むと、何故か頬が火照った。
 シンジはうんと大きく頷くと、勝手口を飛び出し郵便局に走った。
 赤くて丸い寸胴型のポストを目指して。
 
 その手紙は3日後にアスカの手元に届いた。
 そしてその日、シンジも彼女からの手紙を手にしたのである。







「あっ、そうだ。いい事を思いついた」

 青い瞳を煌かせて、アスカは言った。
 妻がそんな表情をする時、100%の確率で彼女の意見が通ってしまう。
 シンジは何を思いついたのかと話を促した。

「写真撮りましょうよ。ちゃんとした写真」

 1月の午後6時頃ともなると、もうかなり暗くなっている。
 36年前のあの時は夏の盛りだったので街灯も点いていなかったが、今はそうもいかない。
 アスカは15歳まで神戸に住んでいたが、今の宝塚はもう知らない町も同然だ。
 宝塚ファミリーランドがなくなっただけではない。
 歌劇場も新しくなった。
 駅やその周りも再開発で大きく様変わりしている。
 まるで初めて訪れたような感じを受けてしまう。
 アスカの提案を反対する気はまるでなかったが、こうも日が暮れてしまっている中を写真屋を見つけることができるのだろうか。
 シンジはいささか不安であったが、アスカの方は少しも動じるところがない。
 駅の方に向かって歩けば何とかなるだろうと、彼女は夫の腕を引っ張るように歩き出した。

 花のみち、と呼ばれる歩道はほとんど人気がなかった。
 二人とも確かにこの道には見覚えがあった。
 しかしその記憶の中では、凸状になった歩行者専用の遊歩道には出店があったりして親子連れや歌劇の観客でごったがえしていたのである。
 街灯に照らし出されているものの遊歩道は寂しく、さらにもっと侘しく見えるのは左右の道路沿いの建物だった。
 片側には古めの建物の商店があり、もう片側にはファーストフード店などがあったはず。
 今は巨大なマンションとだだっ広い駐車場に挟まれているだけだ。
 そのマンションの1階に写真店はあったが、もう店を閉めてしまっているようである。
 それを見て、シンジは苦笑し、アスカはもっと先を探しましょうと促す。
 確かに彼らの先には大きなショッピングモールらしき建物が見える。

「たぶん、あそこにあったお店はみんなここに入ったのよ」

「そうかなぁ。小さい店はこういうところに入っても家賃とか固定費でやっていけなくなって結局店をたたむことが多い…」

 その時、アスカの肘がシンジの脇腹を襲った。
 全力で突いていないから悲鳴は上げなかったものの、シンジはすぐ隣でひしと睨みつける青い瞳を見て顔をこわばらせた。

「あなたね、そういう見も蓋もないこと言わないの。夢のない人ね、本当に」

「ごめん」

「昔はもっと夢のある男の子だったような気がするけど?」

「僕が?」

「そう。夢があって、優しくて、エンジンがかかるまでが長いけど、いったん走り出したら暴走しちゃうくらいに凄い男の子」

「もう、おじさんだからね」

 二人きりでないと自分のことを“僕”と言えないシンジはいささか照れてしまった。
 そんな彼にこの年になっても素直に本音を言えないアスカは心にもないことを言う。

「あの頃の行動力はどこにいったのかしらね?神戸までトモロヲじいちゃんを引っ張ってきたのはフロック?」

「うぅ〜ん、でもあの時だって、結局はおじいさんに連れてきてもらってるわけだし…」

「あなた馬鹿?連れて来させた、でしょう?自分の力を過小評価しすぎなのよ、あなたは」

 アスカは夫に毒づいたが、逆に身体の方はぐっと近づける。
 こういう時にシンジは困ってしまうのだ。
 童顔だった自分もさすがに40を越えるとそれなりの風体に見えてきた。
 5歳くらいは若く見えるようだが、以前のように10歳以上誤魔化すことは到底できない。
 しかし、妻の方は違う。
 外国人の年齢はわかりにくいというが、今でも30歳そこそこでも通用するアスカなのだ。
 それがシンジにとっては自慢でもあり、少し気恥ずかしくもある。
 自分たちが夫婦に見えるかどうか気になってしまうのだ。
 






 背の高い老人は玄関先で少年を見下ろした。
 緊張しきっている彼をほぐしてやろうとは思わない。
 男子たるもの、己の力でやりぬくべきだという信念を持っているからだ。
 それは老人、惣流トモロヲが元海軍中尉であるからということではない。
 旧家に生まれ、自分がそのように育ってきたからに他ならない。
 少年は老人を見上げると、ここに来るまでにずっと考え続けていた言葉を発しようとした。
 しかしすぐに言葉にならない。
 思えば少年の周囲に老人の年頃の人間がいなかったこともあるのだろう。
 シンジが生まれた頃に存命していたのは、ユイの父親だけで彼も孫の顔を見て安心したのかまもなく病死している。
 したがって、少年にとって話し難い年恰好の相手であることは確かなのだ。
 それでも話さぬ訳にはいかない。
 約束なのだから。

「は、はじめまして。い、碇シンジといいます」

 ようやく口を開いた少年に、トモロヲはうむと重く頷く。
 緊張はまだ依然として続いているが、一度言葉を発してしまえば後は練習通りに話せばよい。
 シンジは老人の目をじっと見つめた。

「あ、あの、碇ユイの長男です」

「うむ、しっとる」

 ようやく返ってきた言葉は低い声音だったが、不愉快そうな響きはなかったのでシンジは少し安心した。
 シンジは手提げ鞄から封筒を取り出す。
 最初はそのまま渡すつもりだった。
 しかし、何度も練習するうちに気が変わったのだ。
 自分にもアスカたちのために何かできるのではないか?
 そのように思ったのである。
 
「こ、これをアスカに、あっすみません。アスカさんに頼まれてきました!」

 彼は微かに震える指で封筒から一枚の大きな写真を取り出し、老人に差し出す。
 トモロヲはそれを受け取ると目を細めてじっと見つめた。
 それは彼の孫娘の写真だった。
 飛行気乗りだったためか、未だ老眼にはなっていない彼はアスカの顔に見入った。
 ああ、スティーネの面影が。キョウコにも似ておる…。
 まるで七五三か結婚写真かと見紛わんばかりの大きさの写真だから、
ユイからもたらされるどの写真よりもよく孫娘の顔がわかる。
 実際にアスカの顔をその目で見たのはもう5年前になるのだから、その当時よりもかなり大きくなっているのだ。
 もしここが玄関先で、かつシンジを前にしていなければ、鬼の眼にも涙となっていたかもしれない。
 しかし、ここでは彼はこう呟いただけだった。

「しかし、大きいのぉ」

「はい。大きいのをおじいさんにあげてほしいってアスカさんが」

「おじいさん…か」

 トモロヲは嘆息した。
 その反応をシンジは少しばかり誤解した。
 老人にとってはついに知られてしまったかというだけのものであったが、少年は誰から聞いたのかと訝しんだのだと思ったのだ。
 
「あ、あの、母さんも誰も話してません。アスカさんが自分で考えたんです。本当です。信じてください」

 シンジは必死に訴えた。
 彼が誤解したことをすぐにトモロヲには察しがついた。 
 
「ふむ、わかった。信じよう」

 寧ろそれはトモロヲにとって嬉しい限りのことである。
 誰も何も言っていないのに、孫娘は自分のことを実の祖父だと認識してくれた。
 ただ一度、万博で会っただけだというのに。

「そ、それから…」

「玄関先ではなんだ。中に入れ」

 それだけ言うと、トモロヲは背を向けさっさと屋敷の中に入っていく。
 中に招き入れられることなどシンジの想定外のことだったので、彼はおっかなびっくり玄関の中に入る。
 靴を揃えて廊下に上がると、ひんやりとした板の間が足の裏に心地よい。
 シンジは老人の背中を追って、応接間に足を踏み入れた。
 そこは日本家屋の中にもかかわらず洋風の部屋だったが、最近作ったものでもなさそうな感じをシンジは受けた。

「座りなさい。紅茶は、飲めるかな?」

「あ、はい。ミルクと砂糖をいれれば」

「うむ、わかった」

 トモロヲは頷くと部屋を出て行く。
 応接セットに座ったもののシンジは居心地が悪い。
 お尻をソファーにめり込ませたまま、彼は部屋を見渡した。

「あれ?」

 一瞬、シンジは違和感を感じた。
 いや、違和感ではない。
 彼にとって身近なものを眼の端に捕らえたのだ。
 シンジはもう一度、今度はゆっくりと部屋を見渡す。
 そして、彼は見つけた。

 アスカ?

 彼は立ち上がり、その写真が飾ってある暖炉へと歩み寄った。
 暖炉といってももう何年も使っていないようで、そこには灰もなくもちろん火の気もない。
 その上の棚状になっている場所に写真のスタンドが何個か並んでいる。
 その一番左の端にその写真はあった。
 アスカに見せてもらった写真とまったく同じものだ。
 二人で写っていた何十枚もある写真がアスカのアルバムにあったが、その中で一番彼女の笑顔が輝いていたものだ。
 その時は別にランキングづけしていたのではなかったので特に意識して記憶していたわけではない。
 しかし、改めてまったく違う場所で目にして、ああそうだったと再認識したのだ。
 シンジは思わずにっこりと微笑んでいた。
 そして彼はその隣を見たが、何故かそこにはスタンド一つ分のスペースが空いている。
 さらにその隣からはスタンドの大小の違いがあっても整然と並んでいるのだからその空間が余計に際立ってしまう。
 彼は首を傾げ、それから並んでいる写真を眺めた。
 それはすべて同じ女性が写っている。
 最初はアスカの母親、惣流キョウコだと思った。
 しかしそれにしては写真が古すぎるし、着ているものや髪形も違う。
 シンジはその被写体がアスカの亡き祖母だと気がついた。
 キョウコを産み落としてまもなく異国で息を引き取ったドイツの女性だ。
 その面影をキョウコが色濃く受け継ぎ、よく見ればアスカにも似たところがある。
 もうひとつ、気がついたことがあった。
 それらの写真の背景はどうも日本ではなさそうだということである。
 町並みが洋画で見るような石造りのものだからだ。
 あの老人、惣流トモロヲはドイツに留学していたとアスカに聞いている。
 おそらくドイツのどこかの都市なのだろう。
 その写真の中の一枚にシンジは気を惹かれた。
 それは、その女性がメリーゴーランドに乗っている写真である。
 楽しげに笑うその顔、何よりもカメラを見ているその眼が優しげで…。
 ああ、そうだ。
 この前、アスカがこんな顔をしていたっけ。
 ファミリーランドの2日目にメリーゴーランドに乗っていた時に。
 僕と眼が合った時にこんな感じで…。
 そんなことをシンジが思っていると、背後から声がかかった。

「私の妻だよ。場所はミュンヘンだ」

 ぎくりとしたシンジが慌てて振り返ると、トモロヲは微かに微笑みながら紅茶のカップを載せた盆を手に応接間の入口に立っていた。
 彼は応接テーブルに盆を置くと、シンジの傍らに立つ。

「移動遊園地というものだ。私も乗せられたが、運良く彼女はカメラを使えなかったのでね」

 はあ、とシンジは自分でもはっきりしないなと感じるような返事をした。
 しかし、それを受けたトモロヲはまったく気にせずに優しい目で他のスタンドを手にする。

「私はカメラが好きだった。だからこうしてあの頃の彼女がまだここにいる。いや…」

 トモロヲは苦笑する。

「米軍に感謝すべきか。ここを空襲からはずしてくれたからね。おかげで写真も父母も娘も…」
 
 確かにこの界隈は戦災を免れている。
 ずっと古い屋敷が並んでいたのだが、そのところどころは真新しい2階建ての住宅に変わってしまっていた。
 相続税や固定資産税というものがそれを加速させているのだろう。

「あそこが見えるかな?」

 トモロヲが指差す先は窓の向こう。
 手入れがされている庭の奥の方に小さな白塗りの建物がある。
 シンジは授業で答えるかのような返事をした。

「蔵…ですか?」

「ああ、そうだ。蔵だ。あそこで娘は育った、らしい」

 娘というのは惣流キョウコのことだ。
 しかし、らしいというのはどういうことだろうとシンジは思った。
 その表情を読み取ったのか、トモロヲはその説明をする。

「戦争中は私はここにはいなかったからね。
 たとえ同盟国のドイツ人との間の子供とはいえ、娘は誰が見ても白人そのものだ。
 まさか首からドイツ人と日本人の混血児だと看板を下げて暮らすわけにもいかない。
 それに、そうわかっていてもあの当時の日本人は白人を忌み嫌っていた。いや、憎んでいた」

 その気持ちはシンジにもわかるようにトモロヲは話した。
 戦争中で空襲を受けて多くの人が命を失い傷を負い家を失っているのだ。
 敵国に対し憎悪をつのらせる他どうしようもなかった。
 だから白人の容姿をしている幼児を蔵から外に出さなかったのだ。

 トモロヲは自分でもよくわからなかった。
 何故この初対面の少年にこんな話をしているのか。
 その理由はしばらくしてからわかったのだ。
 紅茶が冷めてしまうとシンジを座らせ、反対側の席にトモロヲもついた。
 紅茶を飲んでいる間は話は進まなかったが、その沈黙の時間がシンジを促したのだろう。
 少年は写真を入れていた封筒を取り出すと、そこからもう一枚の写真を出した。
 
「これも…アスカに、あ、その…アスカさんに頼まれて」

 シンジはトモロヲの前に写真を置いた。
 それはキョウコとユイが並んで立っている写真だ。
 トモロヲはそれを手に取りもせず、無言で見下ろした。
 
「いらん」

「え…」

 もしかするとそう言われるのではないかと思っていたが、実際に口にされるとショックである。

「…と、言ったらどうする?せっかくの頼まれものだ。たかが写真だからな」

 トモロヲはそっけなく言うと、写真を手にし立ち上がる。
 暖炉の隣にある飾り棚の引き出しを開け、そこに写真を放り込んだ。
 その瞬間である。
 シンジは引き出しの中のものを見てしまった。

「あ…」

 思わず発した声にトモロヲは急いで引き出しを閉めたが、目のいいシンジはしっかりとそれを確認していた。

「アスカ…じゃない、アスカさんの写真ですよね。ああ、だから」

 シンジは1箇所だけスペースの空いたスタンド群を見やった。

「いつもはあそこに置いてるんですね。そのスタンドを」

「さすがはユイさんの息子だな」

 トモロヲは苦笑して、引き出しを再び開けた。
 そしてそこから件のスタンドを取り出し、空いたスペースに置く。
 シンジも立って、その写真を見つめた。
 しかし、そこに写っているのはアスカではない。
 いや、アスカにそっくりだが、アスカであるわけがなかった。
 何故なら、彼女の背後には庭にある蔵があったのだから。
 アスカは自分で関西から出たことがないと言っていた。
 よく考えるまでもなく、被写体が誰であるかの正解は自ずと知れた。

「アスカ…さんのお母さん、ですよね」

「言いにくいなら、呼び捨てでもかまわんよ」

 トモロヲのお許しを得て、シンジは心底ほっとした。
 それにしてもおかしな話である。
 ほんの数日前は彼女を呼び捨てどころか名前で呼べなくて四苦八苦していた彼なのに。
 
「左様。キョウコだ。昭和29年の秋だな。『ゴジラ』を観たいと毎日五月蝿く言っていた頃だ」

 シンジが仰ぎ見ると、トモロヲは昔を懐かしむように優しげな眼差しを写真に向けていた。
 その時、シンジは彼がもう娘のことを怒っていないのではないかと考えた。
 しかし、わずか11歳の少年が老人に向かって説教などできるわけがない。
 だから、シンジが口にしたのはアスカからの伝言だけだった。

「あ、あの…、アスカからのお願いがあるんですけど」

 何かなと見下ろしたトモロヲにシンジは真っ直ぐな目を向けた。

「おじいさんに手紙を書いていいかって。ぼ、僕からもお願いします!」

 シンジは思い切り頭を下げた。
 怒られるか、それともじっと考えるのか、どちらかを彼は予想していたがその二つとも外れた。
 すぐに優しげな声が頭の上から降ってきたのだ。

「よかろう。ただし、キョウコに許しを貰ってからだがな」

「えっ、おじいさんが?」

「馬鹿を言うな。アスカがキョウコに、だ」

 きっぱりと言い切るトモロヲにシンジはおずおずとした口調で確かめた。

「で、でも、駄目だって言われたら?」

「それは無理だということだな。キョウコに隠れてこそこそなどできるものか」

「だけど、万博で…」

 言ってからしまったとシンジは思った。
 トモロヲに睨まれてしまったからだ。
 しかし、彼も子供に向かって大人気ないとすぐに思ったのか、言い訳のようなことを言う。

「あれはな、私もユイさんに騙されたのだ。万博にやっぱり行ってみたいではないか。
 そんなことをふと漏らしたらユイさんはあっという間に段取りを決めてしまっての。
 大阪空港で待ち合わせたら、なんとアスカを連れてきていたのだ。あれには驚いた。
 もう他人の振りをするのが精一杯でな。つまり私も騙されて…」

「はは、僕と同じだ。僕も騙されて、アスカと遊園地に行くことになったんだ。いや、なったんです」

 最初はアスカの味方であるシンジとしては憤懣を秘めて対していたのだが、ついトモロヲに同調してしまった。
 何しろ毎日のように母親の策略(と彼は思ってしまう)に振り回されているシンジなのだ。

「ほほう。君もか」

「はい。でも、騙されてよかったって思ってます。あ、この場合はですけど」

「そうか。それはよかった」

 そこでシンジは思い出した。
 話が反れてしまっている。
 何しろアスカが母親に許可を貰わないといけないというのは難しいのではないかと彼なりに感じているのだ。
 あの母親思いのアスカがこんなお願いをできるわけがないではないか。
 シンジは腹に力を入れた。

「やっぱり、手紙のことはおじいさんの方で…。だって、アスカはそうお願いしてるんだから」

「駄目だ。こそこそするのは性に合わん」

「こそこそしなければいいじゃないですか」

 トモロヲはただ頑固なだけではなかった。
 彼は彼なりに娘のことも案じているのである。
 もしトモロヲがアスカと手紙のやり取りをしているとキョウコが知れば、心の支えが折れてしまうかもしれない。
 アスカを育てることでアメリカにいる彼を待つ苦しみを乗り越えてきているはずなのだから。
 しかしそのようなことをシンジにわざわざ説明できないトモロヲである。
 そのためには娘を心配していることも伝えねばならないからだ。
 そういう意味では、極めて頑固者であろう。
 こどもであるシンジにはそんな複雑な心情まで理解できるわけがない。
 だから彼は思ったままのことを口にする。
 大人に口答えするなど恐ろしいことなのだが、アスカのためだとなけなしの勇気を奮い起こしている彼だった。

「そうだ、仲直りすればいいんですよ」

「何だと。キョウコを許せというのか、坊主は」

「許すとかじゃなくて、二人ともごめんって言えば…」

「謝ってすむ事か」

 トモロヲは吐き捨てるように言った。
 シンジはそれこそ「ごめんなさい」と叫んで部屋を飛び出し逃げ帰りたかった。
 しかし、彼は「逃げちゃ駄目だ」と心の中で繰り返し、拳を握って必死で重圧に耐えた。
 
「謝らないと終わらないもの。どっちかが悪いんなら悪いほうが謝ればいいんだし。両方悪いなら両方が謝れば…」

「そんなに簡単なものではない」

「簡単だもん、ごめんなんて。僕なんか思ってもいないのに勝手にごめんって言ってる時だって…あ…」

 シンジの主張は腰砕けになった。
 それを不審に思ったトモロヲは戦闘体勢ともいえる伸ばした背筋を幾分か暖める。

「どうした?」

「えっと、もしかしたら…」

「なんだ?遠慮なく言ってみなさい」

 その言葉に勇気付けられ、シンジは思いついたことを語った。
 それはトモロヲを大笑いさせたのだ。

「はははっ、なるほど!それは違いない!坊主、お主なかなかやるのぉ」

 この時ばかりは元中尉の生地が出たのだろう。
 豪快に笑い、シンジの肩を叩きながら、トモロヲは心の中が晴れていくような気がした。
 もちろん少年の主張は彼も自覚していたことではあったが、アスカまでがそうだと突きつけられると何故かしら爽快な気分になる。
 シンジの方は目を白黒させていた。
 自分の言ったことがどうしてこんなに老人を喜ばせたのかよくわからない。
 彼が言ったのは、ただアスカも謝るのが苦手でそれを表現するのに苦労していたということだけだったのだ。
 つまりアスカの家系はみな謝るということが苦手なのではないかという推理だったのである。

「爺に娘に孫、三代揃って同じか。こいつは愉快だ」

「はぁ…」

「そして、坊主。お主はこう申したいのであろう?みんな苦手ならば年長者から折れるべきだと」

「はぁ?」

 今度の返事は疑問符付きだった。
 そんなことまでは考えていない。
 しかし、トモロヲは勝手に話を進めていく。

「考えてみればクリスティーネもすこぶるつきの頑固者だった。別れ話を耳にもせんと日本までついて来たのじゃからな」

「はぁ」

「よしよし、さればこの私から折れてやろう。よし、となれば善は急げだ。坊主、しばらく待て」

 何を待てというのか見当もつかず、生返事で待っていたシンジの前に現れたのは革ジャンパーを着た若々しい姿のトモロヲだった。
 彼はゴーグル付きの帽子をかぶり、その手に一回り小さな同じ形のものを手にしていた。

「まずは坊主の家に行かねばな。このまま連れ去っては略取誘拐とやらになってしまうわい」

「えっと、あの…」

「ぐずぐず言わずに、これをかぶって着いて来い」

 何が何やらわからぬシンジが連れて行かれたのは屋敷裏手のガレージだった。
 そこからトモロヲが引っ張り出してきたのは、映画でしか見たことのない代物である。
 シンジは目を丸くして、そのサイドカーを見つめた。
 カッコいい…と見てしまうのは、やはり男の子の性か。
 しかし、その時までのシンジはそのサイドカーに自分が乗るなどということまで思考は繋がっていなかったのだ。
 ジェットコースターが苦手なシンジにとって、サイドカーに便乗するということはそれ以上の恐怖であることはすぐに想像できた。
 さっさと乗らんかと言われたシンジが及び腰になると、トモロヲは彼を担ぎ上げ文字通り座席に放り込んだのである。
 「痛い」と呻く少年に、トモロヲは高笑いした。

「キョウコは大好きだったぞ。隣に乗るのがな。きっとアスカも喜ぶじゃろうて」

 それはそうに違いない。
 しかし自分は碇シンジでアスカではないと主張しようとしたシンジだったが、時すでに遅し。
 エンジンをかけたオートバイはもう走り出す寸前だった。
 早くメットをかぶらんかと叱責され、シンジは慌ててヘルメットをつける。
 それからの30分、シンジはジェットコースター以上の地獄を味わうことになった。
 別にトモロヲが乱暴な運転をしたわけではないが、初体験のバイクでしかもサイドカーなのだからシンジとしては仕方がないところだろう。
 駅前の碇書房にサイドカーが爆音を轟かせ乗りつけると、店の奥からユイが飛び出してきた。

「まあ、おじさま。まだ処分してなかったんですか、これ」

 腕組みをしてトモロヲに話しかけるユイだったが、二人の間には“舟”と呼ばれる乗車席があり、そこでシンジが青い顔をして座り込んでいる。
 息子のことには目もくれず、ユイは呆れた口ぶりでトモロヲを詰問する。

「もう乗らないって仰ってませんでした?というか、免許更新してたんですか?」

「ああ、しているよ。無事故無違反だ。どうかな、ユイさん。久しぶりに乗ってみるかね」

「結構です。今、忙しいですから」

 それじゃ忙しくなければ乗ってもいいという意味かと、ぼやけた頭でシンジは考えた。
 さすがに夏に革ジャンパーは暑いだけなので、トモロヲは早々に脱いだ上着の中に篭った熱気をパタパタと追い出す。
 
「これから孫に会いに神戸へ行くんだが、シンジ君を拝借する。1泊か2泊の準備をしてくれんか」

「まさか、これで神戸まで行くんじゃないでしょうね」

「とんでもない。あと5歳若ければそれもいいが、こいつは羽田までだ」

「シンジの分、うちは出しませんからね。おじさまが勝手に連れて行くんですから」

「もちろん、坊主の分は私が出す」

「当然です。ほらシンジ来なさい。宿題とか持っていくものがあるでしょう?
 こらっ、しゃきっとしなさい。あそこからここまでなんてたいしたことないでしょう?
 母さんはあれに乗って湘南まで行ったことあるのよ。この程度で根を上げているようじゃ…」

 息子の首を引っつかむようにして店の奥へと入っていくユイの後姿を見送って、トモロヲはげらげらと笑っていた。
 確かにユイはサイドカーに乗って湘南までは行ったが、帰りはもう勘弁だとキョウコと一緒に電車で戻ったことをよく覚えている。
 あれは彼女たちが女学生時代のことだったが、つい先日のことの様に思い出す。
 トモロヲは空を見上げた。
 雲の流れを見、さらにその上の世界を思い描く。
 もう自分の腕で空を飛ぶことは叶わないが、あの世から迎えが来るまでに彼には何度でも目にしたいものがある。
 雲海や、眩しい太陽、くっきりと見える大きな月や星。
 飛んでいることや爆音さえも忘れてしまうような空間。
 ミュンヘンで夜の森を散歩した時、愛する者と指を絡めて約束した。
 いつの日か自分の操縦する飛行機に乗せて素晴らしい大空の世界を見せてあげよう、と。
 そんなロマンティックな思い出は誰にも話さずに墓場まで持って行こうと決めている。
 さて、クリスティーネはこんなに老いた夫を見てどう言う事だろうか。
 少なくともキョウコと仲直りすることは褒めてくれよう。
 いや…、勘当した時点でひどく叱られるだろうよ。
 トモロヲはゴーグルをつけ、目尻に滲む涙を隠した。

 シンジは2階への階段を這うようにして上った。
 ただじっと座っていただけなのにどうして足ががくがくするのだ。
 どうしてこんなことになったのだろうか。
 母親は既にシンジの部屋に行き、着替えの選別を始めているようだ。
 箪笥の引き出しを開ける音や衣類を畳に置く音が聞こえる。
 ようやく階上に上がったシンジは四つん這いになって自分の部屋へと廊下を進む。
 その物音を聞きつけたか、ユイが話しかけてきた。

「しゃきっとしなさいよ!今日がいきなりD-dayになっちゃったんですからね。あなたがしっかりしないと成功しないわよ!」

 部屋までもう少し。
 シンジは力を振り絞って声を張り上げた。

「なんだよ、でぃ〜でぇ〜って!」

「物を知らない子ね。1944年…」

 と、ここでユイは一旦言葉を切った。
 どうやらその時歴史の教科書を思い描いたようだが、訂正が入らなかったということは正しいと確信したようだ。

「6月6日」

「僕の誕生日?」

「こらっ、いつからあなたは31歳になった?」

 策士だけに計算はすこぶる速い。
 ユイは手も止めずに息子に突っ込みを入れると、畳の上に見る見る着替えセットを築いていく。

「その日は、ドイツが占領するヨーロッパ大陸に連合軍が上陸した日よ。一番長い日と言われた日。
 あなたも男の子だったらそれくらい知ってなさい。戦車や戦闘機の名前くらい勝手に覚えるものよ」

「僕は戦争は嫌いだ」

 部屋の中に入ったシンジはそう言い切った。
 
「本当の戦争は誰もが嫌いよ。それでもああいうものに心魅かれるの。不思議よね」

「僕は興味ない」

 平和主義者の息子に微笑むと、ユイはエプロンから財布を取り出した。

「シンジ、お金は?お小遣いはどれだけ残ってる?」

「1200円」

「いくら欲しい?」

「くれるの?」

 返事の代わりにぱこんと頭を叩かれた。

「甘い。前借で1000円くらいなら用意してあげてもいいわよ。どうする?」

 いらない、と言いたいところだが、シンジは謹んでお受けすることにした。
 彼は着替えと宿題をあのリュックサックにつめこみ、渡し損ねた写真もリュックに入れる。
 これは神戸に着くまでにトモロヲに渡しておかないといけない。
 そうしないとアスカとの約束を果たしたことにならないからだ。
 そしてもうひとつ、母親の目を盗んで一番下の引き出しの奥から茶色の封筒を取り出し、シンジはこっそりとリュックに入れる。
 母が背中を向けたままであることに安心して、何でもないよとばかりに他の話題を切り出した。

「母さん、酔い止めちょうだい。またあれに乗らないといけないんだよ。東京駅までどれくらいかかるんだろ」

「しっかりしなさい。羽田でしょう。サイドカー初体験の次は飛行機初体験か。
 その後は上陸部隊なら、パラシュートか船だけど。そこまでは残念ながら体験できそうもないわね」

 最後の方までシンジは聞いていなかった。
 羽田、飛行機、というフレーズが彼を凍りつかせたのだ。

「ひ、ひこぉ〜き?」

「トモロヲおじ様は元零戦乗りよ。機会があればすぐに空の上にのぼりたがるの。よかったわね、ただで乗れて」

「そ、そんなぁ!僕は飛行機なんていやだぁっ!」



「そんなに力をいれずにリラックスしなさい」

 両足を固く踏ん張っているシンジは、ベルトを外してもいいとアナウンスされてもまだつけたままでいる。

「ベルトなどしていても落ちたら一巻の終わりだよ」

 ひっと小さな悲鳴を上げたシンジはぐっと目を瞑る。

「大丈夫。ジェット機ならどうにもならないが、これは幸いプロペラ機だ。これなら正面衝突でもしない限りあっさり落ちたりはしない。
 プロペラが全部止まっても…」

 まるで悪魔の囁きである。
 少年の耳元で元ゼロファイターは微笑みながら話を続けた。

「グライダーのように滑降して海に着水させればよいだけだ。なぁに、簡単な操縦だよ。
 もしパイロットができないなどと泣き言を言おうものなら、この私が操縦桿を握ってもいい。
 いや、寧ろこの私に握らせてもらいたいものだ。腕がうずうずするよ」
 
「で、でも、おじいさんが操縦していたのはもっと小さな飛行機なんでしょ」

 やっとのことでシンジは声を出した。

「そうだな、おそらく計器なども大きく変わっているだろう」

「じゃ、駄目じゃないですか」

 ふふん、とトモロヲは鼻を鳴らした。
 ああ、アスカの癖である「はんっ」や「ふんっ」は遺伝なんだとシンジは思った。
 もしかすると祖父と孫だけでなく、間の娘も同じ癖があるのではないかとも。
 
「飛行機の操縦など…そうだな、英語で言うとフィーリングだ。あんなものは感性でどうにかなる」

 きっぱりと言い切ったトモロヲは窓の向こうを目でこなした。

「見なさい。見事な雲海だ。下からは絶対に拝めない光景だぞ」

 その快活な調子に、絶対に外など見るまいと決意していたシンジはつい丸窓を見てしまう。
 しかしそこから見えた景色は少年の心を見事に捕らえた。
 映画や写真でしか見たことのない、雲の上の世界がそこにあった。
 シンジは声を失い、その壮大な光景をただじっと見つめる。
 トモロヲは役目を終えたかのように座席に深く腰をかけ、シンジの頭越しに見える雲海を眺めた。
 ベルトが邪魔になったシンジは照れながらそれを外し、見る角度を変えては雲の上の眺めを楽しんだ。
 もう怖くないのかなどという無粋なことをトモロヲは言わない。
 


 神戸に着くのは夕方になるはずだ。
 大阪空港からタクシーを飛ばすので、シンジの道案内はまったく不要であった。
 運転手にアスカの住所を伝えると、それで彼の役目は終わった。
 シンジはいささか膨れ気味に座席に背をもたれさせる。

「どうした、坊主。不満そうじゃの」

「だって、この住所も本当はおじいさんは知ってるんでしょ」

 正解じゃとトモロヲは白い歯を見せる。

「それじゃ、僕は何のために?」

 トモロヲはすぐに彼の気持ちを察した。
 元男の子であるトモロヲは少年特有の気負いや自負心といったものに心当たりがある。
 そこで彼は声を潜めた。

「実はな、坊主を連れてきたことには大きな理由がある」

 現金なものでシンジの目は輝いた。

「しかもそれは3つもあるのだ」

「3つもっ!」

「左様。1つ目は私の逃亡阻止だな」

「逃亡?」

「ああ。仲直りを前に逃げ出すかも知れん。坊主が指摘したように惣流家の血筋は謝罪が苦手だからな」

 トモロヲはにっと笑う。

「だから、坊主を無理矢理連れてくることで逃げ場をなくした。ここで逃げ出してしまえば、男として恥ずかしい限りじゃからの」

 ああ、なるほどとシンジは頷いた。
 確かに一人で向かっていれば方向転換することは容易い。
 
「2つ目は立会人が必要なのだ。ほれ、武蔵と小次郎を知っとるだろう?」

「チャンバラの?」

「うむ。日本でも外国でも決闘には必ず立会人が必要なのじゃ。第三者がその場にいることで公正で公式な決闘になる…」

「決闘!って、おじいさんは!」

 トモロヲはシンジの頭をぽんぽんと叩いた。

「ピストルも刀も用意しておらん。なぁに、暴力はなかろうが、口喧嘩になる可能性は否定できないからな。
 アスカもおろうが、身内だからどちらかの味方にならねばならんだろうしの。
 だから坊主が要るわけだ。止め役というか、クッション材ともいうべきか」

 これについてはシンジは完全に理解ができなかった。
 確かに誰か別の人間がいた方が教室での喧嘩もある程度で収まる。
 そういうことではないかと、おぼろげにわかっただけである。
 
「3つ目は?」

「おお、それか。それはな…」

 本当はこれも自分のためにである。
 キョウコとは復員してから彼女が家を出るまでずっと一緒に生活してきた。
 だから会話に不安はない。
 しかし、アスカとなると話は別だ、
 孫娘とは素性を名乗らずに大阪万博をユイと3人で見物しただけである。
 その時は他人としてそれなりの会話をしているが、祖父と孫という名乗りを上げてとなるとどうも自信がない。
 明日になりキョウコが仕事に出てしまえば、アスカと二人きりになってしまうのだ。
 それは嬉しいことなのだが、逆に恐怖でもある。
 そこでシンジなのだ。
 彼がいれば、アスカと彼が遊んでいるところを見守っていればいいという図式が成り立つ。
 大切な孫娘で、シンジは男の子であるというところがいささか引っかかるのだが、ユイの息子なのだから問題はなかろう。
 トモロヲはそれを考えてシンジを強制的に同道させたのだが、それを口にするのははばかられた。

「それは、アスカが坊主に会いたがっているからだ。ここにこういうものがある」

 トモロヲはバッグから一枚のはがきを出した。
 それはアスカからのはがきである。

 シンジを待っている間に郵便配達が来て店の中に消えた。
 しばらくして出てきた彼の後を追うように現れたのはユイの夫である。
 この髭にサングラスという、客も気味悪がるであろう風采の長身の男をトモロヲは真っ向から睨みつけた。
 こういう芸当ができるのはトモロヲが何度も死線を乗り越えてきたからであろう。
 碇ゲンドウは何も言わずにぐっと一枚のはがきを差し出す。
 そのはがきを受け取ったトモロヲはさっと表面を見ると眦を上げた。

『これはうちの孫娘からそちらのご子息への私信のようだが?』

『ふん、問題ない。渡しておいてくれ』

『自分で渡せばよかろう』

『ものには頃合というものがある。頃合の方は任せた』

 それだけ言うとゲンドウはさっさと店に入っていく。
 トモロヲは『頃合、か』と呟きながら、はがきをバッグの中に入れたのだ。

 今がその頃合だとトモロヲは判断した。
 空港では飛行機に怯えていたので渡しても無駄だと思い、機内で復活した時にはそのあまりの喜びように渡しそびれた。
 大空に生きた男としては雲海に瞳を輝かせる少年に他の話はできないものだ。
 結局機内では飛行機や空の話ばかりをしてしまったトモロヲだった。
 頃合も何も、もうここでしか渡す機会はないのだ。
 
「わっ、アスカからだ」

 差出人を確認したシンジは歓声を上げた。
 裏返すと、そこには巧いとは言い切れないものの明らかに時間をかけて描いたであろうイラストと文章があった。
 鉄腕アトムがポーズをつけて立っており、その横には男の子のような字が綴られている。

 『こんにちは、シンジ。
  ぶじに東京につきましたか?
  本当はレオのほうがじょうずに絵をかけるんだけど、
  マンガをシンジにわたしているからアトムにしました。
  ヘタだってわらわないでね、シンジ。
  じゃあ、またね。  アスカ

  言いわすれていたけど、私のたんじょう日は12月4日です。
  シンジからのプレゼントを楽しみにまってます。

  また会いたいね、シンジ』

 悪いと思ったが、トモロヲは既に文面を読んでしまっていた。
 これが孫の筆跡かと感慨深く見たのだが、ざっと読んだだけで思わず微笑んでしまった。
 何しろこの短い文章の中で、相手の名前を何度も繰り返しているのだ。
 数えてみると5回もである。
 おそらく…。
 トモロヲはくすくすと笑った。
 碇シンジという少年には今日初めて会ったのだが、彼は孫娘のことを真剣に考えている。
 但しそれは友情というレベルのように感じられた。
 しかし、孫娘の方は違うようだ。
 何しろ身に覚えがあるからだ。
 40数年前、ミュンヘンの大学で知り合った学生に付文をした彼は相手の名前を何度も連呼していた。
 彼はドイツ語で長文を破綻なく書く自信がなく、日本語で便箋10枚以上も書き綴ったのである。
 そしてその最後にようやくドイツ語で書き加えた。
 コレハ付文ナリ。英国語デハらぶれたぁト申スナリ。独逸語デハ何トイウカシラヌ。
 数日後大学近くの通りで、唇を尖らせ、頬を膨らませ、眦を吊り上げた、金髪の娘に彼は腕をつかまれた。
 それが付文の相手と知るや、トモロヲは日本男児としては恥ずかしい事ながら逃げ腰になってしまう。
 愛情の発露として付文をしたものの、その娘の恋の相手に自分がなるとは到底思えない。
 この時も叱られるものと思い込んでいたのだ。
 しかし、彼女は一つ質問してきただけだった。
 貴方ノ名前ハ何カ?手紙ニ署名ナキハ失礼千万。独逸語ト日本語デココニ記スベシ。
 若きトモロヲは震えそうになる右手を叱咤しながら、自分の書いた付文の最後に二か国語でサインをした。
 すると彼女は鼻で笑ってその手紙を鞄にしまい込み、そして彼に命令した。
 そこのオープンカフェで待っていろと。
 恋する青年が抗うわけがない。
 彼を隣の席で待たせたまま、注文したコーヒーに口もつけずに娘は一心不乱にノートに文字を書き綴る。
 数分後に彼女は満足気に万年筆を置き、冷めてしまったコーヒーを一気に喉に流し込んだ。
 やがて彼女はノートの何枚かを破り去り、つんと澄ました様子で彼のテーブルにそれをそっと置いた。
 そして「ゴチソウサマ」とだけ言い残し、彼女は気取った様子で通りを去っていったのだ。
 しばらくはその後姿をぽかんと見送っていたトモロヲだったが、ふと我に返り彼女が残していったノートの切れ端を慌てて手に取った。
 そこにはただずらずらと同じ文字が書かれているだけである。
 それはお世辞にも綺麗とは言えない日本語で、“トモロヲ”と判読できた。
 最後まで暗号か呪文のようにしか見えない日本語を辿っていき、最後にようやくドイツ語の文章にたどり着いた。
 貴方ハ失礼ニモ私ノ名前ヲ88回モ勝手ニ書イタ。ヨッテ私ハココニ貴方ノ名前ヲ89回書イタ。私ノ勝チデアル。
 それが二人のはじまりであり、その結果、生を受けることになるアスカがこのようなはがきを書いている。
 トモロヲとしては血の繋がりがある孫娘も同じ真似をしたように思うのだ。
 想い人への心が強すぎてつい名前を連呼してしまう。
 今現在は残念ながらその想いはあまり通じているとは思えないが…。
 何度もはがきを読んでいたシンジは満足したようにリュックにしまいこむ。
 その表情は単純に友達からの手紙を喜んでいるだけにしか見えない。
 トモロヲは孫娘の思いがいつの日か通じるようにと天国の妻に祈った。 







 それはどこにでもあるようなショッピングモールのように思えた。
 シンジとアスカはフロアガイドの前に立ち写真屋を探した。
 そこには1階に相田写真館という名前の店があることが示されている。

「相田か…。鈴木じゃないのね」

「うん、そうだね。まだあったら良かったんだけど」

 その昔、二人が写真を撮ってもらった店の名前はフロアガイドのどこにもなかった。
 もとより宝塚の駅前はあの当時とはまったく別の駅かと思わんばかりの様変わりをしている。
 あの当時の駅の位置がどこかもわからないくらいなのだ。
 駅の南側でパチンコ屋の並びにあった、あの写真館は二人がファミリーランドへ遊びに行くたびに目にしていた。
 ただ写真を撮るという用事がないのでその扉を開けることが一度もなかったのだ。
 中学生に上がるとシンジは母親から譲り受けたカメラを持ってきていたのに加えて、この当時は短時間プリントというサービスが存在しなかったのだ。
 従って鈴木写真館を利用することはなく、ただその店構えを目にするといつもあの写真を思い出していただけだった。
 二人ともに口にはしなかったが、あれからもう35年以上経つのだ。
 年老いた写真館の店主が存命かどうか。
 これだけ街が変化したのだから余計に。
 しかし、その想像からなのだろう。
 二人の会話はトモロヲの話題に転じていった。
 
「トモロヲじいちゃん、シンイチにミュンヘンに着いて来いって言ってるらしいわよ」

「連れて行け、じゃなくて、着いて来いか。はは、おじいさんらしいな」

「年甲斐もなく、ね」

「まあ、今のうちにもう一度行きたいって気持ちもわからなくもないけど」

「3年前に私たちの両親合わせて、5人でドイツ旅行に行ったばかりだけど?」

 二人は顔を見合わせ笑った。
 だが、シンジの方はすっと真顔になってしみじみと言う。

「たぶん、おじいさんの青春っていうのかな、そういったものがあそこにあるんだと思うよ」

「ふん、何よ。わかった風な口聞いて。私もわかってるわよ、そんなこと」

「ただね、僕たちは幸福だと思うよ。あのころの事を話ができる相手がいるんだから」

「そうね。じいちゃん、ミュンヘンのね、大学のそばのオープンカフェで半日ずっと座っていたそうよ。
 夜になったら迎えに来てくれってママたちを追い払って」

「そうだったんだ」

「いつものサングラスかけてね。お店の人はいいマネキンだって笑って長居を許してくれたのよ」

「何だか風景が浮かぶね。おじいさん、しゃきっとしてるから」

 トモロヲはもし自分が死んだ時は、自室に置いている封筒を一緒に焼いて欲しいと前から言っている。
 そして中身に興味はあろうが絶対に見るなとも。
 見れば孫子の代まで祟ってやるとも凄んだそうだ。
 その封筒を彼は旅行に持ち出していた。
 お店の人の話では時折その封筒から何かを出しては、サングラスから老眼鏡に替えて読みふけっていたらしい。
 “じいさまの秘密の封筒”はかねてから亡き妻に関するものだと予想はついていたがそれで確定した。
 そのトモロヲに影響を受けてキョウコたち4人どころか、シンジやアスカまでが自分だけの秘密の封筒を作っている。
 もっとも各々の連れ合いにはその中身の見当は大いについているのではあるが。

「だけど、じいちゃんはいいわね。青春の象徴の場所が昔から変わっていないんだもの」

 アスカは周囲を見回して言った。
 装飾や建物のつくりにあれこれと特色を出そうとしているが所詮はショッピングモールである。
 入居している店がなくなってしまえば、どこの街にもあるような建物に過ぎないのだ。
 
「メリーゴーランドがあったじゃないか。僕たちにも」

「まあね。元々石造りの街だったドイツと木造家屋の日本で比較しても仕方ないのはわかってるわ。
 あらっ、ここって地下だったの?」

 小さくはあったが、アスカは素っ頓狂な声を上げた。
 花のみち側から入ったのだが、そこは特に段差もなく二人は当然1階だと思っていたのだ。
 だからフロアガイドも写真屋の存在だけを見ていて、今自分たちが立っている場所の確認までしていなかった。
 話をしながらぐるりと店を回っても写真屋が見えないので、もう一度じっくりとガイドマップを見てみると1フロア上に目的の店はあったのである。

「変なつくりね。あの道って坂になってたのかしら」

「う〜ん、なだらかな平らな道だと記憶しているけどね。
 再開発でそうなったのか、それとも人間の記憶なんていい加減なものなのか」

「どっちかしらね。あ、そこの階段を上がればいいみたいよ」

 普通ならば上り下りのエスカレーターが建物の中央にあるものだが、歌劇をイメージしたものかどうか複雑な形の階段がそこにあった。
 駅からの通勤や通学のための通路にもなっているのかそれなりに人通りがある。
 しかしそれは日常の動きだから、あの頃の様に周囲をきょろきょろと見て歩く人の動きではなかった。
 そのこともまた遊園地がなくなってしまったことを如実に示しているようにアスカには思えた。
 寂しさがこみ上げてきそうな気分を抑えようと、彼女はにこりと笑い夫に話しかける。

「でも私の記憶はしっかりしてるわ。例えばあの日。突然、シンジとじいちゃんが現れた日」








「ママ!シンジからはがきが届いたのっ!」

 扉を開けたアスカはそのままの格好で表情が凍りついてしまった。
 何故ならばそこには母の姿はなく、はがきの差出人がいたからだ。
 シンジは彼女と目と鼻の先で照れ笑いを浮かべていた。
 彼もいきなり自分が話題になったので考えていた挨拶を忘れてしまったのだ。
 二人はしばし互いの顔を見つめあい、同時にぺこりと会釈をした。

「し、シンジ…?」

「う、うん。碇シンジ」

「ど、ど、どうしてぇっ?」

 声を出したおかげか、固まっていた身体も動くようになった。
 アスカは失礼にもシンジの鼻先に人差し指を突きつけ奇声を上げた。

「あ、う、うん。いきなり連れて来られた」

「で、でもっ。はがきが届いたばっかりなのよ!」

「あ、僕のところにも届いたよ。アスカの」

 シンジはリュックからアスカからのはがきを出した。
 
「いつ?」

「今日」

「今日って!東京ではがきを受け取って、すぐに着てくれたの?」

「あ、いや、着たんじゃなくて、連れて来られたんだ。飛行機でさ」

「ひこぉ〜きっ!」

 アスカは夢の新幹線でさえ未体験なのだ。
 飛行機など上空を飛んでいくものであり、自分が乗るものではない。
 祖父がゼロ戦に乗っていたということと、いつの日か母親をアメリカへの飛行機に乗せてあげたい。
 その程度がアスカに関連する飛行機関連の事項で、現時点では飛行機などまさに文字通り雲の上の存在だった。
 それが目の前にいる片思いの少年がその飛行機に乗って自分に会いに来てくれたと言うのだ。
 彼女が舞い上がってしまいそうになったのは当然だろう。
 シンジが繰り返し主張している“連れて来られた”という内容まで頭は回らない。

「飛行機ってあの空を飛ぶあれ?」

「うん。生まれて初めてだったんだ。最初は怖かったけど、凄かったよ」

「そ、そうなんだ」

「えっとね、あ、はがき、ありがとう」

「こ、こ、こちらこそ!」

 アスカは必死に自分を落ち着かせようとしていた。
 青天の霹靂のようなシンジの登場が彼女を慌てさせている。
 この時点での二人の差は大きい。
 シンジはアスカにとって初恋の相手で現時点では家族以外の人間で世界で最上位に位置している。
 片やアスカはシンジにとって一番新しい友達で、その境遇の中で懸命に生きる彼女を尊敬や親愛の情を抱いていた。
 つまり彼にとって彼女は友情を感じているだけで、恋愛感情はまだ芽生えていない。
 まだ11歳でしかも晩生のシンジなのだから仕方がなかろう。
 但し、アスカのことは異性として意識している上に、無意識ではあるがかなり綺麗な女の子だとちゃんと認識はしていた。
 しかしながら、現状においてはアスカの片思いであることだけは確かだ。

「ひ、一人で来てくれたの?」

「さっき言ったじゃないか。連れて来られたんだってば。えっと、あれ?どこ行ったんだろ?」

 振り返ったシンジはトモロヲを探すが先ほどまで後にいたはずの彼の姿が見えない。
 そういえば階段を上がる足音は自分のものだけだったような気もする。
 彼は自分の存在意義のその1を思い出し、少しどきりとした。
 トモロヲが逃げ出さないための見張りという役目もあったのではないか。
 シンジは手すり越しに道路を見下ろすがアパートの近くにトモロヲはいない。
 
「まさか逃げちゃった?」

「誰が?」

「アスカのおじいちゃん」

「アタシのおじいちゃん?」

「うん」

 アスカはシンジの言うことを必死に咀嚼した。
 おじいちゃんとはどういう意味であろうか。
 お年寄りの男性のことをおじいさんというが、この場合頭に“アスカの”とついている。
 彼女の知る限り、血縁のおじいさんにあたる人といえば、非公式ではあるが一度対面したことがある。
 その人のことか?
 
「あ、いた!ほら、アスカ!」

 シンジが指差す方を見下ろせば、アパートから少し離れた電柱のところに立っている男性がいる。
 後姿だから顔は見えないが、その背中には見覚えがあった。
 一緒にいた間には実感していなかったが、後になり、そして時間が経つに連れて確信に変わった。
 しかし母親の気持ちを慮ってそのことをアスカは口にしたことがない。
 話したのは数日前のシンジだけだったのだ。
 そのシンジが老人を大声で呼んで手を振ったが、彼はちらりと見上げただけでそこを動こうとしない。
 何を考えてるんだろとぼやきながらシンジはアスカに「行こう」と気軽に言う。
 彼女は戸惑いを隠せないままに、それでも素直にシンジの背中について歩いた。
 鉄製の階段を下り、トモロヲのところへと歩み寄ると、彼はじっと空を見上げている。

「何を見てるんですか?」

「ふむ、空だ」

 そう答えたきり、トモロヲが身動きしないのでシンジとアスカも彼の視線を追った。
 しかしそこにはただ夕焼け空に小さな入道雲がもくりとあるだけである。
 アスカは何を言っていいのかわからず、傍らのシンジの肩を拳でつつき何とかしろと促す。
 シンジはストレートに尋ねた。

「どうして入らないの?」

「許可が要るからな」

「え?それならアスカがいるから…」

「キョウコの許可だ。勝手に家に上がりこむわけにはいかん」

 シンジはアスカと顔を見合わせた。
 そして少年はそっと彼女の耳元で囁いた。

「ねっ、ものすごく頑固なおじいさんだろ?それからね、なんでも自分の思い通りにしたくて、あ、そうそう、謝るのも苦手なんだよ」

 少女は耳がくすぐったかったが、彼の言葉の一つ一つに反駁したくて仕方がなかった。
 しかし、祖父(のはずだ)の目の前でシンジに対し怒鳴りつらしたりすると、間違いなくはしたない女の子だと思われるに決まっている。
 それは何としても避けたい。
 だからアスカは思い切った言動を慎み、シンジを睨みつけぐっと握り締めた拳を見せつけるだけにとどめたのだった。
 それを間近で見た少年は今更ながらに失言に気づき、小さな声で「ごめん」と告げた。
 “おじいさん”を“アスカ”に置き換えても不自然なところがまるでない。
 その失言を消し去るために、シンジはトモロヲの来訪目的を声を励ましてアスカに話した。

「あ、あのねっ、おじいさんは仲直りをしに来たんだよ」
 
「えっ、本当?」

 さすがにこんな情報にはアスカは憤懣などほったらかしにして食いついてきた。
 シンジはここぞとばかりにうんうんと頷く。
 少女の顔はぱっと輝いたが、その時二人の背後で別の声がした。

「はっ!仲直りですって?もちろんそっちが悪かったと言うんでしょうね」

 きつい調子の言葉に驚き振り向くと、そこに立っていたのはキョウコだった。
 彼女は腕組みをして足を踏ん張りぐっと顎を上げている。
 お弁当や野菜などが入った袋は足元に置いてあった。
 そっちと言われたトモロヲは完全に不意を突かれた感じだったが、そこは空の勇士だ。
 何事もなかったかのように姿勢を動かさず、じっと空を見上げている。
 その時、シンジが真っ先に思ったのは仲直りのことではなく、もっとどうでもよいことである。
 キョウコの「はっ!」を聞き、惣流家の人たちはやはりみんな鼻で笑うのだということだ。
 これは絶対に遺伝に違いないと彼は思い、願わくは父親の「問題ない」が遺伝ではないことを願った。
 そんなくだらないことを考えたシンジだったが、すぐにその場の空気に圧倒される。
 重く、張り詰めた、どう考えても仲直りできる雰囲気ではない。
 少年は慌てて自分で何とかしようと試みた。
 振り返ったシンジは丁寧に頭を下げる。

「あ、あの、こ、こんにちは、じゃなくて、こんばんは。この前はお世話になりました」

「あら、シンジ君、いらっしゃい。シンジ君なら大歓迎よ。いつだっていいわ。ねぇ、アスカもそうでしょう?」

 必要以上にフレンドリーな調子で返事をされ、逆にシンジは戸惑った。
 11歳の少年にもそれがトモロヲを挑発しているのだということがわかる。
 10歳と8ヶ月の少女にもそれはよくわかった。
 しかし、アスカにはトモロヲに対してそれほど含むところはない。
 もちろん父親の件で母と喧嘩をしているということは知っていたが、そのキョウコ自身がトモロヲのことを一切悪く言わないからだ。
 寧ろ自分の方が口の聞き方や話の持って行き方が悪かったのだと反省していたくらいだ。
 そんなキョウコが明らかに自分から謝る気配を見せていない。
 トモロヲの方も知らぬ顔で背中を向けて空を眺めているだけだ。
 間に挟まった形となったアスカはといえば、自分でも謝り方が思いつかない人間だから何とかしたいといくら考えても妙案など出てくるわけがない。
 それでもこんなチャンスはないではないか。
 アスカは何とかしたいと考え、手近な人間に縋った。

「ちょっとシンジ。アンタ、何とかしなさいよ」

「えっ、そ、そんなこと言われても…」

 先ほど何とかしようと試みたが、逆にそれを挑発する材料にされてしまったのだ。
 次から次へと対策が浮かぶようなシンジではない。

「あのさ、アンタずっと…えっと…お…じ…い…さん……って言っていいのかしら」

「いいに決まってるだろ。だって本当のおじいさんなんだから。そうですよね?」

「えっ、まっ、まあ、そうだけど」

 いきなり質問されたキョウコは咄嗟にそう答えてしまった。
 
「ほら、お母さんだってそう言ってるんだからおじいさんでいいんだよ、ねっ、アスカ」

「う、うん。じゃ、おじいさん」

 その瞬間、トモロヲは返事をしそうになりすんでの所で踏み堪えた。
 しかし、微かに背中を揺らしてしまったのをきっちりキョウコにチェックされてしまい鼻で笑われてしまったのだ。
 それを耳にしてしまったからトモロヲが平静でいる訳がない。
 真夏なのに前と後の空気がぐっと冷え込んでしまったのを察したアスカは慌ててシンジに喋りだす。

「あ、アンタ、おじいさんと一緒に東京から来たんでしょ。どうして来たのよ」
 
 アスカが問うたのは、どういう理由でということだ。
 しかし、彼女は生まれてからずっと関西だ。
 江戸っ子のような標準語をしゃべってはいるがところどころのイントネーションが関西訛りになる。
 シンジは生まれてからずっと東京で暮らしている。
 逆に江戸っ子訛りはないが綺麗な標準語で喋る子なのだ。
 従って、シンジは“どうして”というのを“どのように”と咀嚼したのだ。
 
「うん。羽田までサイドカーで、それから飛行機で、後はタクシー」

「サイドカー!」

 叫んだのはアスカだけではなかった。
 キョウコも同様に驚きの言葉を上げたのだ。

「ちょっと、お父ちゃん!サイドカーはやめるって約束したじゃない!」

「ちょっと、シンジ!アンタ、サイドカーに乗ったの?!凄い!羨ましい!どうだった?ねぇ!どうだった?」

 シンジとしてはキョウコの発した“お父ちゃん”に反応したかったのだが、耳元で甲高い声で喚かれてはどうしようもない。
 アスカの相手をするしかないではないか。

「羨ましくなんかないよ。物凄く怖かったんだから」

「ジェットコースターとどっちがっ?」

「ジェットコースターの方がましだよ。あっちは我慢して目を瞑ってたらすぐに終わるもん。
 サイドカーなんて止まったからやっと終わりだって目を開けたら赤信号なだけだよ。
 もう勘弁してよって言ったんだけど、爆音で全然おじいさんに届かないし。
 だいたいサイドカーの隣の方って凄く地面に近いんだよ。こんな感じなんだよ。
 そんな場所で時速200キロで突っ走るんだよ。もう信じられないよ。勘弁してよ、まったく」

 碇シンジもやはりユイの息子であった。
 スイッチが入ると言葉が止まらない。
 これくらいの場所だと彼が蹲ると、アスカもそれに合わせてその高さに顔を持っていく。

「うわっ、こんなに低いのっ?すっごい!アタシも乗りたい!」

「乗ったらいいじゃないか。僕はもうごめんだよ」

 膨れっ面でシンジがこぼしたその時だった。
 彼の身体がぐいっと上に引っ張られ、そして柔らかいものに包まれた。

「まあ、シンジ君ったら可哀相に!本当に酷いことをされちゃったわね」

 11歳といえばそろそろ母親とのコミュニケーションスタイルが変化した頃だ。
 肉体的な接触がおでこ同士で熱を測られるということでも何となく面映く感じてしまう。
 そんなお年頃のシンジが背後からぎゅっとキョウコに抱きしめられたのである。
 当然気持ちがよいなどと考えることはなく、ただ恥ずかしいとだけ痛烈に思う。
 ちょうどキョウコの胸の辺りに顔があるのでどうしたらいいのかと彼はどぎまぎするばかり。
 しかし、すかさずアスカがシンジを母親から引っ剥がした。

「甘やかさないでよ!アンタもね、男なんだからしゃっきりしなさいよ!」

 この時ばかりはシンジはアスカに心から感謝し勢いよく頷いたのだ。
 
「うん!わ、わかった!あ、あの!お願いします!仲直りしてください!」

 キョウコの身体の感触や匂いといったものを振り払おうとするかのように、シンジは大声を張り上げた。
 その彼の願いに応えたのは誰だっただろうか。
 年長者のトモロヲか、母性をくすぐられたキョウコか、それともアスカが彼に同調してお願いしたのか。
 3人の誰でもない。
 いや、3人ともに何かしらのアクションを起こそうとし、若干躊躇っているうちに第三者が現れたのだ。

「すまんがの、大きいのが通りの真ん中で邪魔なんじゃが。揉め事なら家ん中でやってくれんか?」

 アパートの1階に住む老婆が仕方のない連中じゃと言わんばかりに首を突っ込んできたのだ。
 
「それからの、アスカちゃん。貰い物の煎餅があるから、家に帰る前に持っていってくれんか。わしには歯がたたへんさかいな」

 老婆はにっと笑い、キョウコとアスカはすみませんと頭を下げた。
 当然、トモロヲとシンジも初対面の老婆に頭を下げる。
 確かにアパートの近くで騒ぐのは常識外れだった。
 アスカはシンジにこう言い残し、歩み去る老婆の背中を追う。

「シンジ、頼んだわよ。ママと…おじいちゃんを家に連れてって」

 彼の返事は聞く耳を持たないという感じの背中だった。
 信用されていると思ったシンジは自分を奮い立たせた。
 自分よりはるかに大きい大人を二人、アパートの2階に押し上げないといけない。
 シンジはまずキョウコに問いかけた。

「えっと、話しあいを続けるんだから部屋に入っていいですか?」

「あ、ええ、それはいいけど」

「ありがとうございます。じゃ、おじいさん、行こうよ」

 キョウコの許しがないと部屋に上がれないと屁理屈をこねていたトモロヲはこれで退路を失った。
 そしてシンジは彼にとっておきの一言を投げつけたのだった。

「早く行かないとアスカに怒られるよ」

 彼は自分が怒られるという意味で言ったのだが、トモロヲは孫に嫌われると思ったようだ。
 結果的にその一言が功を奏して、トモロヲはキョウコの後につき従い階段を上がった。
 
 その1時間後、甲南市場の布団屋さんのシャッターを叩くトモロヲの姿があった。
 彼の隣には道案内のアスカがいる。
 申し訳ないが敷布団とタオルケットをセットで売ってもらえないだろうかと頼む彼の表情はそれはそれは嬉しげだったそうな。
 布団を買うなどもったいないと渋るキョウコに、これからは私も来ることがあるし、シンジ君も遊びに来るだろう?とトモロヲが説得したのだ。
 いつまでもアスカとシンジを布団を横にして寝かせるわけにもいかないだろうと付け加えると、シンジはぽけっとしていたがアスカの方は真っ赤に頬を染めた。
 それを見たキョウコが仕方がないわねとトモロヲの意見に同意したのである。

 もうひとつ。
 ささやかな晩餐の後、アスカとシンジが対立した。
 大人同士の話があるからと、3畳の方でキョウコとトモロヲが話をしていた。
 子供の二人は暑いけれども邪魔をしないように襖を閉めていたのである。
 そこでシンジは借りていた本を返し、面白かったと感謝した。
 涙を流したというところまではもちろん伝えない。
 子供とはいえ、彼は男なのだ。
 そこまではよかった。
 シンジは居住まいを正すと、アスカに切り出した。
 彼はリュックに忍ばせてきた茶色の封筒を彼女に差し出したのだ。
 これも使って欲しいと。
 最初は何のことだかわからなかったアスカだったが、封筒を手に取りその中身を確かめた瞬間に眦がぐっとつり上がった。
 そこに入っていたのは十数枚の千円札と五百円札だったのだ。
 蔑まれた、と彼女は思い込んでしまった。
 だからアスカは咄嗟に封筒を畳に投げ捨てシンジを怒鳴りつけてしまったのである。

「アンタ何様のつもり!馬鹿にしないでくれる!」

 立ち上がったアスカを見上げるシンジの身体は驚きに震えていた。
 説明や言い訳しようにも言葉にならない。
 まだ短い期間しか彼女と一緒にいないが、これほどに怒ったのは初めてだ。
 アスカが叫びを上げてほんの数秒後、襖が開かれキョウコとトモロヲが顔を覗かせた。

「どうしたのっ、アスカ」

 キョウコの問いにアスカは答えず、ただじっとシンジを見下ろし睨みつけるだけだ。
 そのシンジは俯いてしまっている。
 つい今しがたまで仲良くしていた二人がこうなってしまったのは何故かとキョウコが考えていると、
トモロヲが蹲り子供たちの間に落ちている封筒を拾い中を確かめてみた。
 それから彼はどしりと畳に胡坐をかき、アスカに座りなさいと命じた。
 アスカは頭を振ったが、キョウコに促されいやいや畳に座る。
 するとトモロヲは何も言わずに封筒からお札を出して畳に並べていく。
 お金からアスカは目をそむけ唇をぎゅっと噛んだ。
 どれも綺麗なお札だが、そのすべてに折れ目がついている。

「ほう…、これはお年玉の…へそくりだな?キョウコ、ユイさんの性格からいけば全額まきあげ…ではない、貯金であろう?」

「ええ、ユイなら間違いなく」

「そのへそくりをどうするのかな?ただ渡しただけではわからんぞ」

 目には見えないトモロヲの手がシンジの背中を押す。
 
「ぼ、僕はただ…アスカも一緒に行けたらいいなって…」

「どこに?」
 
 キョウコの問いにシンジは口を開きかけたが、慌てて閉ざす。
 アスカは母親に秘密でお金を貯めているのではないか。
 もしそうならば、自分から話す訳にはいかない。
 
「あら、もしかして私の渡米費用のこと?知ってるわよ、それは」

「えっ!」

 叫んだのはシンジではなく、アスカの方だった。
 彼女の口が知ってたの?と声なき問いを母にする。
 母親は当然よと微笑む。
 その無言のやり取りを見て、トモロヲは微かに微笑み、そしてシンジの肩にぽんと手を置いた。

「坊主。ということで孫のささやかな秘密はなくなった。全部話してもいいんだぞ、ん?」

「う、うん。だから…」

 おずおずと話を始めたシンジだったが、アスカの憤懣はなかなか収まらない。
 母親だけでなく自分もアメリカへ行かせたいという気持ちは嬉しい。
 しかし、いきなり大金(子供としては超大金である)を渡されてはプライドの問題がある。
 それはアスカがシンジに好意を抱いているからなおさらなのだ。
 そこのところがシンジにはわからないから、喜んでもらえるに違いないと思って素直に差し出してしまったのだ。
 トモロヲもキョウコも今の二人が微笑ましいのだが、笑顔を見せるわけにもいかずことさらに渋面で話を聞いた。
 そして双方が納得できるように結末を導いたのだ。

「なるほどの。つまりこうだな。坊主は孫を見習ってアルバイトをしようとしたが朝が弱い」

 自分でさらけ出した弱点だったが、他人に言われるとやはりがっくり来てしまうシンジだった。
 俯き加減になる彼をアスカは口をへの字にして見つめる。

「新聞配達はできそうもないので家の手伝いをしてお小遣いを余分に貰おうとした」

「家の手伝いなんてただでするのが当たり前じゃない?おっかしいんじゃな…ぐぐっ」

 アスカの罵詈雑言をキョウコが身をもって制止し、口を手で押さえられた少女は苦しそうに呻いた。
 しかし、それだけ聞けば充分である。
 シンジはさらに肩を落とした。

「こら、まとめは最後まで聞け。当然、今の孫のようにユイさんは呆れた。そこへ…」

 トモロヲは話しながら、余所行きの顔でなくなったアスカのことが可愛くて仕方がない。
 しかもこの話を最後まで聞こうとしない、惣流家の血筋は見事にその身体に流れているようだ。
 これならサイドカーも堪能するであろう。
 アスカを横に乗せサイドカーを疾走させたくてたまらないトモロヲだったが、ここはこの騒動を治めることに専念する。

「あの髭グラサン…ああ、いやゲンドウ君が珍しく横から口を挟んだ、と」

 シンジは思い出していた。
 ユイの前に正座してアルバイトの申し出をしたが、逆に説教になってしまったときのこと。
 これはもう駄目だとがっくりきていると、知らぬ顔でコーヒーを飲んでいたゲンドウが口を出したのだ。
 「いいではないか。わしの書き物ができる時間が増える」と。
 ユイはそれに反論しただろうか。
 否、彼女は夫の差し出口をいともあっさりと受け入れたのである。
 そして時給やその他の細かい部分を物凄い勢いで取り決めをすると、魔女のように(シンジの目にはそう見える)笑った。
 アルバイトをしたい理由を言わない限りこの話はご破算にするとユイは微笑みながら言ったのだ。
 結局シンジはユイの身が震えるほどに喜ばしい打ち明け話をすることになったのである。

「と、そういうことだな。で、まだ働いてもいないのに、時期外れの歳末助け合いをしてしまったのは何故だ?
 そこのところをちゃんと言わない限り、この孫は納得せんぞ」

 そこまではきっぱりと申し伝えたトモロヲはシンジの耳元に口を近づけ小声で囁く。

「保障する。本当のことを言えば、孫は逆に喜ぶぞ」

「え…」

 顔を上げたシンジはトモロヲのにやりと笑った顔を見る。
 その笑顔を見てキョウコは胸が熱くなる。
 ああ、大好きなお父ちゃんの笑顔だ。
 『ゴジラ』を見たいと駄々をこねた小学校高学年だったキョウコをトモロヲは祖母たちに黙って銀座に連れ出した。
 長身の自分が座ると後の子供たちが可哀相だと彼は映画館の壁に背をもたれかけさせ彼は立ち見をした。
 少し離れた場所に座ったキョウコが時折父の様子を窺うと、トモロヲは腕組みをしたままじっとスクリーンを見つめている。
 映画が終わった後、父は有名なパーラーに彼女を連れて行きそこでプリンを食べさせてくれた。
 そのプリンの甘く美味しかったこと。
 手を繋いで歩いた銀座の通りの混雑振りと、大きく暖かい父の手。
 そして映画の感想。
 家の近くまで帰ってきた時、「面白かったか?」と父に尋ねられた。
 物凄く面白かったとキョウコは答え、そして「お父ちゃんは?」と聞き返したのである。
 すると彼は遠くに浮かぶ夕焼け雲を見つめ、ぼそりと呟いたのだ。
 戦争はいかん、と。
 『ゴジラ』が反戦映画の要素も持っていることなど子供の彼女にはわからず、この時の父親の呟きが的外れの感想に思えた。
 「変なお父ちゃん」と彼女が言うと、トモロヲはにっと笑い口笛を吹き始めた。
 その曲はドイツで覚えたものだといつか教えてくれた。
 その日の思い出はいつまでも彼女の心に残っている。
 今の笑顔がその時の笑顔に重なったのだ。
 そして、つい数日前にユイから聞いた父の話もその日のことを思い出させた。
 その時彼が漏らしたという「戦争はいかん」の呟きは、キョウコの心を大いに揺さぶったのだ。
 夫のことで折れる気はさらさらないが、父親とは仲直りをしたい。
 ずっと思ってきた気持ちに拍車がかかったのだ。
 その父親が今すぐ近くにいる。
 しかも、この時すでに仲直りを終えているのだ。
 キョウコは知らず知らずに流れた頬の涙を慌てて拭った。

「つ、つまり…」

 シンジが喋りだそうとしていたので、彼女の涙は誰にも見られなかった。
 キョウコは自分に気合を入れようとえへんと一発、静かに咳払いをした。
 それが五月蝿いと言いたげに睨みつけるトモロヲに、キョウコはまるで少女のようにいぃ〜だと顔をしかめさせる。
 それに対し、トモロヲは昔のように馬鹿らしいと言わんばかりに微かに鼻で笑う。
 瞬間、キョウコは「お父ちゃん!」とその背中に抱きつきたくなった衝動を抑え、
胸から飛び出しそうな色々な思いを吐息に変えてそっと唇の隙間から漏らした。

「あ、あの、どうせお金が貯まったら渡すんだから、少しでも早くアスカに喜んで欲しいって」

 ようやくシンジはそう言ったが、アスカはぴんと来ない。
 どうやら彼も自分の気持ちが整理しきれていないようだとトモロヲも苦笑する。
 
「もうっ、アスカも馬鹿ね。こういうことでしょう?
 シンジ君はアスカに対する友情を一刻も早く示したかったの。
 それに父親に会わせたいって思いをアスカに伝えたかった。
 その思いが先走って、説明するより先にお金を渡しちゃった。それだけのこと。わからない?」

 友情というところを“愛情”に差し替えられないのが残念ね、とキョウコは心の中で呟いた。
 アスカは唇を尖らせた。
 そろそろ彼女も謝りたいのだが、いつものように謝罪方法がわからないのだ。
 
「こら、アスカ。とっとと謝らないとママたちみたいにずっと喧嘩しないといけなくなるわよ。
 ごめんなさいって言いなさい」

「ご、ごめんなさい!」

 見事な後押しに、アスカは物凄い勢いで頭を下げた。
 勢いがよすぎて頭から遅れて飛んできた赤金色の髪の毛の塊がシンジの顔を直撃するほどに。
 悲鳴を上げるシンジに、さらに謝るアスカ。
 後はもう笑顔しか見られなかった。
 お金は一緒に郵便局に入れるねと恥ずかしげに言うアスカに、シンジも照れながら頷く。
 そんな子供たちの姿を見て、トモロヲとキョウコは一安心した。
 その安心ついでにトモロヲは軽口をたたいた。
 
「人にはごめんなさいを言えと言えるんだな」

「あら?私は悪くないもの。それに父さんも言ってないでしょう」

 そんなことを言い合う二人にアスカが憤りの声を上げる。

「わっ、自分たちは言ってないんだ。ひっどぉ〜い!シンジもそう思わない?」

 アスカの勢いにつられ、シンジはこくりと頷く。
 苦笑した二人は実に感情のこもっていない「ごめんなさい」を口にする。
 それに不満なアスカが口を出す前にキョウコは父親に話しかけた。

「悪いと思ってるなら、じゃ明日は子供たちを王子動物園に連れて行ってくれるかしら?
 アスカ、明日はおじいちゃんが何でも奢ってくれるから遠慮なしにおねだりしなさいよ」

「えっ、王子動物園?おじいちゃん、本当?」

「う、うむ。それがどこかは知らんが、大丈夫だ」

 トモロヲは大きく頷いた。

「王子動物園を知らないのぉ?信じらんない!遊園地も一緒にあるのよ!」

「じ、ジェットコースターも?」

 どうやらシンジにとってはそれが最大の関心事のようだ。
 アスカは彼の背中をバンと叩き、嬉しそうに笑った。

「大丈夫!派手なのはないから安心しなさいよ。
 あそこのミラーハウスは面白いわよ。絶対にシンジだったら迷うから」

「えっ、う〜ん、確かに鏡の迷路は苦手だなぁ」

「ふふん、あんなの簡単じゃない。アンタ、少年探偵団読んだ事ないの?」

「あるよ!あるけど、それが?」

「小林団長が言ってたでしょ。迷路の歩き方」

「あったっけ?そんなの」

「あった。アタシは図書館で全部読んだんだからっ」

 アスカとシンジの会話はもうすっかり和やかな雰囲気になっている。
 トモロヲとキョウコは顔を見合わせ微笑みあうと、また元の部屋に戻り襖を閉めた。
 そしてトモロヲは娘に命じられたのだ。

「父さん?次はちゃんと名前で呼んでくださいね。孫、孫って、アスカが可哀相」

「う、うむ。そうだな」

 いつになく困った表情をする父親を見て、キョウコは嬉しそうに微笑んだ。








「ここよ、相田写真館」

 まるで若い娘のように駆け出すと、アスカは店の前に立ち夫を手で招く。
 シンジは昔のように駆け寄ったりはせずにゆっくりと歩み寄った。

「さぁて、入るわよ」

「スーツでよかったかなぁ。私服に着替えておいた方が…」

「今更何言ってるの?ほら、入った、入った」

 ショッピングモールの中の店だから扉も何もない。
 よく見かけるEDPショップではなく、個人で経営している写真店であることはその店のつくりですぐ見て取れた。
 カウンターは右手のショーケースにあり、店の奥の方は証明写真などを撮るようにできているようだ。
 左手の壁には大小の写真パネルが張られている。

「いらっしゃい。何しましょ」

 カウンターの椅子から眼鏡の店主が立ち上がって言う。
 ゆったりとした関西弁だった。

「えっと、写真を」

「証明写真ですか?」

「いえ、記念写真。二人で撮って欲しいんです」

 シンジに任せておけないとばかりにアスカが隣から口を出した。
 すると店主の目が丸くなって、「ほう…」と溜息とも嘆声ともつかない音が漏れる。

「いや失礼しました。記念とは最近なかなかないもので」

 にこりと笑う店主は仕上げはすぐかどうかを訊ねる。
 明日の夜までで大丈夫だと答えると、準備するのでしばらく待って欲しいと言い、店主は奥の方に入っていった。
 残された二人は椅子に座るまでもなく、壁面のパネルを眺めた。
 その中でひときわ目立つのは歌劇団の俳優らしき人のサインつきの大型パネルである。
 
「あら、この人、ほらテレビでよく見るあの人じゃない」

「ああ、本当だ。凄いね。やっぱり地元なんだなぁ」

 待っている間にアスカとシンジは壁のパネルを眺め有名女優を見つけそんなことを語り合った。
 その女優の写真は数枚あり、一般人と並んで写っているものも見受けられた。
 彼女の写真にはマジックでサインがされてあり、それは他の女優たちの写真も同様だ。
 所謂ヅカガールのパネルは結構な数が並んでいて、風景写真やその他のものは印象が薄くなっている。
 そのうちに準備ができたと、店主は二人を奥の方へ誘った。
 証明写真用の椅子は端の方に片付けられていて、壁近くは真っ白な幕が降りていて背景になっている。

「ええっと、背景はどうしましょ?真っ白?それとも何か…」

「種類があるんですか?」

 目を輝かせてアスカが聞き返す。
 いつものパターンだとシンジは微かに笑った。
 
「ええ、ありますよ。歌劇とかそういうのを。ああ、何の記念ですか?ご旅行?」

「そうね、宝塚記念…って競馬?」

「はは、そう言うのもありますね、確かに」

「ファミリーランドはありませんよね?もうなくなっちゃったから」

「ありますよ。もう全然使ってないけど、捨ててません」

 店主が背景の幕を操ると、そこに現れたのは見違えることのない大観覧車などの遠景だった。
 
「ただし、子供さん用やから、お二人が立つとあまり見えませんけどね」

「いいです。これでお願い」

「ええっと、では並んで立ってもらえますか?はい、そこで」

 アスカとシンジは床に示されたラインに立つ。
 結婚写真などのようにシンジの左側にアスカがごく自然に立ったのだが、カメラのファインダーを覗く店主が首を捻っている。

「あの、すみませんがお客さんはこちらは初めてですよね」

「宝塚がってことですか?それともこのお店?こちらのお店は初めてですけど」

「そうですか…。デジャブってヤツかいな。ああ、すみませんけど場所を入れ替わってもらえませんでしょうか?」

 店主の指示を訝しみならがも二人は場所を入れ替わった。

「ありがとうございます。ああ、何だかこっちの方がしっくり来る。何でやろか」

 未だにぶつぶつ言いながら、店主は背中を丸めファインダーを覗き微調整を施す。

「ええっと、では撮りますよ。ご主人ちょっと固いですねぇ。もう少し笑顔で…。ああ、奥さんの方は笑いすぎ…ああっ!」

 突然大声を上げた店主は勢い余ってシャッターを押してしまった。
 表情を作っていた二人の方は大声に驚いて笑顔を崩してしまっている。
 腰を伸ばした店主は頭を掻きながら謝罪した。

「えらいすみません。もう一枚撮りますから。あの…、失礼ですけど、奥さんの髪の毛の色、子供の時から金色でした?」

「ええ、染めてませんけど?生まれてからずっと金髪」

「あ、でも、子供の時はもっと赤みがかっていたよ。中学くらいから綺麗なブロンドに…」

「やっぱり!」

 手をぽんと叩いた店主はこれを見てくださいと二人を店の方に導く。
 写真はどうなるんだと怪訝に思いながらもアスカとシンジは彼の後を追った。
 例のパネルが飾られている壁面、その隅の方に店主は向かうと一枚のパネルを指差した。
 その写真を見た途端に、二人は「うわっ」と声を上げてしまった。
 そこに飾られていたのは、あの記念写真だったのだ。
 10歳8ヶ月のアスカがにんまりと笑い、Tシャツやジーパンが泥に汚れた11歳2ヶ月のシンジが照れくさそうに笑っている。
 
「どうしてこれがっ?」

 店主へ同時に質問をすると、彼は商売っ気抜きに楽しげに笑った。

「これを撮ったのは私の祖父ですわ。あの時の二人ですやろ?お客さんたちは」

 ええ、うん、と頷く二人。

「あの時、覚えてませんか?店の中にガキんちょが一人いましたやろ。黒ぶち眼鏡で生意気そうなのが」

 二人は顔を見合わせ、記憶を辿った。
 そしてまた同時に思い出したのである。
 老店主から奥に入っていろと言われた同じ年頃の少年が確かにあの店内にいた。

「そうそう。それが私ですわ。あん時は祖父の家に遊びに来てたんです」

 彼は二人を接客テーブルに誘った。
 こうなれば写真を撮るよりも先に話を聞きたい。
 そう思ったアスカとシンジは椅子に座り、店主の話を待った。
 彼の説明によるとこうだ。
 鈴木老人の孫であるケンスケ少年は一族の中で唯一写真に興味を持った。
 東京に生まれ育った彼だったが、何度も祖父の家に遊びに行くうちにカメラの魅力に取り付かれたのだ。
 そして高校を卒業すると、彼は大阪の写真専門学校に入学した。
 もちろん祖父の家に下宿し、店の手伝いも率先して行ったのである。
 そんな彼が祖父の跡を継ぐのは親類の誰もが異議を唱えなかった。
 但し、当の祖父だけが店の名前を鈴木から相田に変えろと条件をつけただけだ。
 その老店主は10年ほど前に亡くなったと聞き、アスカとシンジは心から残念に思った。

「勝手に飾らせてもらったのは謝ります。じいさん、いや祖父はええ写真やけど被写体の許可もらわん限りはあかん言いましてな。
 生前はどれだけ言うてもあきませんでした。でも、やっぱりこれは目の届くところに飾っておきたい、そう思いましてな」

 相田店主は軽く頭を下げた。
 少々恥ずかしくはあるが、肖像権だなんだと言うつもりはアスカにもシンジにもない。
 逆にこういう形で再会できて嬉しいという方が本音だった。
 
「手本というか、教訓というか。こういう写真は未だにじいさんには敵いません。
 その時のお客さんの気持ちといいますか、状況を本当に巧く写真に残してます。
 その隣のを見てもらったらようわかりますわ」

 二人の写真の隣には制服を着た娘の写真パネルが張られている。
 椅子に座り強張った笑顔でカメラの方を見つめている。

「これ、音楽学校の制服ですよね」

「ええ、そうです。どう思われます?それ見て」

 正直、返答に困った。
 ただ二人にできたのは、見たまま、感じたままを答えることしかできない。
 哀しい感じ、泣き出しそうだ、といったようなこと。
 その答えに相田店主はうんうんと頷いて、自分の腕ではそれが精一杯だったんですと破顔した。
 彼の話によると、その娘は音楽学校に退学届けを出しにいく前だったそうだ。
 交通事故で足を怪我し、普通の生活では何の支障もないが踊ったりすることは無理だと診断された生徒なのである。
 彼女はその制服姿を残しておきたいと駅前の写真館を訪れたのだ。
 その時、店にいたのは当時の相田青年だけで彼が写真を撮ろうとした。
 しかしどうしても笑顔になれない娘に彼は事情を聞きだしたわけだ。
 その日は卒業式の前日だった。
 そして青年は、周りの人に暗い気持ちを残したまま去るんじゃなくちゃんと卒業するべきだと娘を説教したのだ。 
 その場で激しい言い争いとなったが、結局娘は音楽学校を卒業することになった。
 同期生はみんな歌劇団に入団したが、しかし彼女はやはり舞台に立つことはできなかったのである。

「でも…、だったらその通りなんじゃないですか?」

 シンジはパネルの娘の表情を見て言った。
 その話を聞けばなおさらに被写体の娘が笑顔になっていないのがよく理解できるからだ。

「いえね、悔しさとか哀しさはそのまま出てるんですが…何と言うか…」

「凛々しさ?」

 アスカの発言に相田は得心したように頷く。
 そう言われれば確かにその思いに関しては写真には表れていない。
 挫折した夢を記念写真に残しておこうという自虐的ではあるが、そういう凛々しさという類の気持ちが娘には溢れていたらしい。
 それが相田青年には見えたのだ。
 しかし実際にシャッターを押そうとするとその表情が浮かんでこない。
 
「もしじいさんなら、その表情もきちんと残せたはずなんですわ。
 その時の私には…いや今もそうかもしれませんが、力不足やった。
 いつかこの写真に匹敵するようなものを撮りたい。
 そう思いましてな、ここに並べて飾ってるんです。
 そういう理由なんで、これからもこの写真を飾っておいてよろしいやろか?」

 こんな裏話まで聞いて反対する理由はどこにもない。
 寧ろ光栄だと二人は頭を下げた。
 それから記念写真撮影の仕切りなおしとなったが、今度は碇夫妻の表情が固くなってしまった。
 すると相田店主はのんびりとした声でこんなことを言った。

「そんなに固くならんと。この写真は頼まれても飾りはしませんて。中年夫婦の記念写真なんて誰も興味もたへんから」

 その通りだなと二人が思った瞬間、シャッターは押された。
 ああ、やられた。
 アスカとシンジは顔を見合わせ苦笑する。
 どうやら先代の教えはしっかり伝わっているようだ。
 
 写真店を出たのは閉店時間ぎりぎりだった。
 シンジは有馬温泉の旅館に恐縮しながらまた電話した。
 9時までには到着しますので夕食の方は何卒お願いします、と。
 少し離れたところで待っていたアスカは相変わらずの夫の姿に微笑んでしまった。
 いろいろ気を配っているようで、抜けているところは大いに抜けている。
 それを証明しようと、電話を終えたシンジに彼女は話しかけた。

「ねぇ、あなた。あの人、肝心のことは話してなかったわね」

「ん?あの人って写真屋さん?」

「ええ、そう。照れたのかしらね」

 水を向けても夫はどういうことかまったくわからないようだ。
 アスカはやっぱりねと思いながら、そういう夫が愛しくてたまらない。

「あの写真の生徒さん、あの後どうなったと思う?」

「怪我をして歌劇団に入れなかった子?さあ…わからないな」

「相変わらずロマンチックじゃないわね、あなたって」

 アスカはシンジの腕にしがみつくように縋った。
 そして腕を絡めながら駐車場へと歩く。

「あの娘さんは後に相田写真館の看板娘…あ、違うわね、看板女将かしら、まっ、そういうことよ」

「えっ、まさか!それはアスカの考えすぎだよ」

「本当に駄目ね、あなたって。ほら、あの女優さんのパネル、よく見なかった?
 ファンの人と写ってるって感じのがあったでしょう。あれ、あの娘さんと顔が同じだった」

「そうだった?はは、よく見てなかったよ」

「どうせ他にもっと綺麗な人はいないかなぁなんて見ていたんでしょうよ。助平なあなたは」

 言いながら肘打ちをするアスカに、シンジは苦笑した。
 当たらずとはいえ遠からずだ。

「それにサインに添え書きがあったのよ。相田マナに永遠の友情を誓う、ってね。
 多分、二人は同期生だったのね。
 だから、あの娘さんの名前はマナさんで、相田さんの奥さんってこと。わかる?鈍感な馬鹿シンジ君?」

 シンジはあっさり降参した。
 同じものを見ていたのにどうしてここまで見抜けるのか。
 もっともアスカの推理は正解率100%ではなく6割くらいだから信用しすぎると痛い目に合う。
 それは長い間の付き合いで骨身にしみていた。
 特に学生時代の試験のヤマ張りはかなり疑わしかったのだが、今回はどうやら間違いないようだ。
 
「明日、写真を取りに行ったら、白状させてみせるわ。ふふ、楽しみ」

「悪趣味だよ、アスカ」

「あら、どうして?本当は自慢したいに決まってるわ。男って単純なんだから」

 二人は花のみちから駐車場への通路を辿った。
 もう既に周囲は真っ暗であるが、店舗の明かりと街灯で駐車場の中は充分明るい。
 但し、住宅展示場側はひっそりとしているのでもの寂しい雰囲気を漂わせている。
 その真ん中で、あのメリーゴーランドは変わらぬ姿で二人を待っていた。

 
 アスカはメリーゴーランドに近寄ると手すりにもたれかかり、物言わぬ馬たちを見つめた。
 
「ねぇ、あなたたち寂しくない?」

 その問い掛けに、白馬も天使も口を開かない。
 ただ、じっと自分の役目が来る時をひたすら待っているかのようだ。

 

 



「遊園地の仲間たちと離れて、ひとりぼっちになっちゃったんだものね」

 呟くアスカの肩にシンジはそっと手を置いた。
 
「でも、がんばっているんだと思うよ。現役なんだしね。
 ここに遊園地があったんだと、一生懸命みんなに訴えているのかもしれない」

「へぇ、珍しくロマンチックなこと言ってくれるじゃない?」

「たまには、僕だってね」

 照れ笑いを浮かべたシンジは、「さあ、もう行かないと」とアスカを促した。
 うんと頷いたアスカは夫の背中を追いかけ、そしてもう一度だけメリーゴーランドを振り返る。


 このメリーゴーランドが今晩の夢に出てきてくれないかしらとアスカは考えた。
 できればあの頃の姿に戻って、恥ずかしげに照れ笑いを浮かべるシンジを見てみたい。
 いや、わざわざ夢で見る必要もないか、とアスカは思いなおした。
 そう、目を閉じれば、いつだって思い出せる。
 ほら、こんな風に…。
 アスカは目を閉じた。
 
「おぉ〜い、早くおいでよ。雪が降ってきたじゃないか。有馬まで山道だから凍ったりしたら危ないよ」

 アスカはくすりと笑った。
 あっという間に現実に引き戻させてくれた夫の声に、彼女は踵を返す。
 目を開けると、なるほどちらりほらりと淡い雪が舞っている。
 これなら積もりはしないだろうが、心配性のシンジならば確かに運転が気になるだろう。
 
「わかってるわよ。さあ、早く行きましょ!私、お腹空いた!」

「僕だって。ほら」

 シンジが差し出した手をアスカはぐっと握る。
 すっかり冷たくなっているが、それでも何故か温かさを感じた。
 アスカはふと思いつき、彼の掌を軽く抓った。

「ん…何?」

「ううん、何でもない」

 昔ならば悲鳴を上げて、どうしてこんなことをなどと叫んでいただろう。
 あの頃の華奢な身体ではないシンジはこの程度で動じたりはしない。
 アスカは白い息を吐きながら、そっと言葉を付け加えた。

「ちょっと、確かめてみたかっただけ」

 そう。
 アスカは確認したかったのだ。
 
 あの頃の夢が、まだずっと続いていることを。





− 少女の夢は永久に続く −
 

 



(あとがきとして)

最後までお読みいただきありがとうございました。
まず、長くて申し訳ありません。LASだけが興味の対象ならば、本当に大変だったと思います。
これでもかなり端折ってまとめたのですが(汗)。
泣く泣く切った挿話はかなりあります。会話の中だけに留めたものもあれば、まったく触れずに済ませたものも。
どうやら私としても今回のお話の世界に住む人々にかなりの愛着を持ってしまったようです。
惣流トモロヲ中尉とクリスティーネ、歌劇スターの夢破れたマナとケンスケ、キョウコの生い立ちとユイとの出逢い、
晩生のシンジがアスカに恋心を抱きついに告白したのはいつのことか。
それらを描いてしまえば、まさに終わらない物語になってしまいそうです。
しかも2行上のエピソード以外はLAS関係ないどころか二人の出演場面ないですし(苦笑)。
大阪空港や京都を舞台にしたエピソードもありましたがそれも入れると、おそらく今の2倍以上に膨れ上がっていたはずです。

さて、題名の件。
「遊園地」にしたのは作品内容もありますが、挑発の意味もあります。さっさと最終回を書きましょうね(おい)。
挑発に乗っていただければ幸いですが。
関西生まれで関西育ちの私にとって遊園地といえば…。
我が家に一番近かった宝塚ファミリーランドを筆頭にして、阪神パーク、エキスポランド、ドリームランド、あやめ池遊園地、
みさき公園、枚方パーク、ポートピアランド、狭山遊園地…。う〜ん、他にもあったけど行ったことのあるのはこれくらいか。
ざっとあげたこの中で、今も現役といえば…。もう、泣くしかないですね。遊園地は思い出の中にあり。

私は阪急宝塚駅からファミリーランドまでの道のりが大好きでした。
改札近くのパチンコ屋や土産物屋さん。中華料理屋に本屋。道幅の狭い国道。
そして、歩いた方が早いのではと思うくらいの渋滞ばかりの尼宝線(実際いつも小浜で降りて荒神川近くの南ゲート?まで歩いてました)は今から考えると嘘のようです。プロ野球の球団を手放すことはあっても遊園地を閉鎖することがあろうとは想像もしていませんでした。そんな古い私はどうしてもUSJやTDLなどの新しいテーマパークという存在は好きにはなれないのです。負け犬の遠吠えとわかっていても(苦笑)。

最後にファミリーランド内の位置関係などは若干実際と異なっているかもしれません。動物園から電車館からジェットコースターに戻るなどという順路はありえませんしね。
また、この作品に登場する商店などは実際にはありません。当然、つくりものです。

万博の三菱未来館はファミリーランドの恐竜館に姿を変え、そしてこの世から消え去りました。
子供たちが胸を躍らせて見入ったものを生かすも殺すも大人の仕業。
ということで、大人である私の本当にささやかでしかない力でできることは、シンジやアスカたちを二次小説で幸福にしてあげること、なのでしょうか。

 

専用インデックスページはこちら

SSメニューへ

感想などいただければ、感激の至りです。作者=ジュンへのメールはこちら

掲示板も設置しました。掲示板はこちら