その2

かえる税

中世のフランスにあったのが「かえる税」
これは領主の睡眠をさまたげるかえるの鳴き声をやめさせるための、労働で納める税金だった
ようで、領民は交替で水面をたたき、かえるが鳴くのを防いだそうです。こんなことをやらされた
領民もたいへんですが、かえるもさぞ迷惑したことでしょう。


鮎釣役

鮎釣役は京都の洛北雲ヶ畑に昔あった税金で、村人が毎日3人ずつ交替で、天皇に献上するた
めの鮎を釣るという、労働で支払うものでした。
鮎釣役がある期間中は、この人たち以外、この地域で鮎をとることは禁止されていたそうです。


雀藪

雀の住む藪を保存するための税があったという話です。
昔の殿様のレクリエーションといえば鷹狩で、福岡藩では、この鷹狩用に飼っている鷹のエサに
なる雀を繁殖させるための藪を雀藪と定め、伐採を禁止していました。そして、この藪を保存する
ための費用は、藪のある村に負担させていました。


犬税

名高い悪法「生類あわれみの令」で有名なのが、5代将軍徳川綱吉。なかでも、綱吉が特に力を
入れたのが自分のエトである犬の愛護。
そのすごさを紹介すると、犬を飼うことは禁止、いじめると処罰されるし、殺すとなんと死刑になり
ました。ついには、1695年(元禄8年)中野(現在の東京中野)などに、野犬を収容するための犬
小屋(1つが25坪)、犬の日焼け場(1つが7.5坪)、子犬保育所などを数百棟も造り、最高時約
8万匹の犬を飼うまでにエスカレート。
飼料も白米、味噌、干鰯と立派なもので、これらの費用は「犬金上納」といって、農民から高百石
につき1石、町民から間口1間につき金3分の、特別税で賄われていました。
また、この犬を養うのに、1年間で約10万両もかかったといわれ、これを関東諸国の大名や庶民
から集めます。近隣の庶民は犬税によって苦しみ、綱吉の死後は、犬小屋から放された野犬に困
ったといわれています。


棟別銭

棟別銭というのは、家屋の棟の数に応じてかけられた鎌倉〜戦国時代の税金で、大名の住まい
や神社、寺、橋の修理・造営に使われました。この課税を逃れようと考えられたのが、テレビの時
代劇でおなじみの長屋造りといわれています。
しかし、そのうち門役が設けられ、出入口の数に応じて課税されるようになると、長屋の出入口を
一つにしてしまいました。すると、こんどは鍵役によって、カマドの数に応じて課税した・・・・・という
話が、今に残っています。


女人の村

その昔、日本で班田収授の制度が行われた頃の話です。
この制度では、満6歳以上の男子には1人につき2反の田が、また女性には、その3分の2が与え
られました。その代わり、この田には税金がかけられ、税率は反当たり稲2束2把となっていました。
1把は稲1握り、10把は1束となります。
ところが、この課税には特例があって、女性と老人が免税となっていたためか、「女人の村」ができ
たということです。


クジラ税

江戸時代は、クジラを一頭獲るだけで4000両という莫大なお金が入ったため、九州の西海岸は、
瀬戸内あたりからの出稼ぎのクジラ獲りで大変にぎわったそうです。
このようなことから、平戸藩では文政年間、鯨税を課していました。そして江戸時代の捕鯨漁にお
いては、捕鯨の困難さの程度によって税金(当時の言葉で運上)の負担割合が異なっていました。

 突鯨(捕鯨)・・・価格の20分の1が税金に
 寄鯨(浜辺に漂着した傷死鯨をとった場合)・・・価格の3分の1が税金に
 流鯨(沖に漂流している鯨を引きあげた場合)・・・価格の10分の1が税金に
 切鯨(漂流していた鯨を引きあげることができず、沖で切り取って持ち帰った場合)
                            ・・・価格の20分の1が税金に


一番取納

昔、熊本藩では、他の村よりも率先して1番に年貢を納めることを「一番取納」としてたたえ、その
村に対しては表彰高札を立て、酒や肴を贈って、納期遅れしない模範としたそうです。今でいえば
納税功労者に贈られる「納税表彰制度」に近いものだったのかもしれません。


つばめの巣税

つばめの巣税は、インドネシアなど東南アジア諸国にある税金で、高級な中華料理のスープなど
に使われる海つばめの巣を取る人にかかる、許可料・独占料といえます。
海つばめは、唾液でくるんだ海草で海岸の崖に巣を造りますが、つばめの巣は、色の白いもの
ほど高級品で値段も高いそうです。


空気税

空気に税金をかけようとしたのは、フランスのルイ15世時代の財務長官エティンヌ・ド・シルエット
です。当時のフランスはイギリスとの戦争(7年戦争など)でカナダ、北アメリカ大陸ミシシッピ以東
の全領土やインドなどの植民地を奪われ、さらに、王室の浪費もあって財政難に陥っていました。
彼は長官に就任するとまず、貴族や僧侶に税金をかけようとして失敗し、ついには、空気に税金
をかけようとしました。ところがこれも国民の猛反対にあって、わずか9か月で辞任してしまいます。

ところで彼は、在任中徹底した節約をとなえ、肖像画も黒影で十分だと主張したことや、影絵作り
が趣味であったことから、その後影絵のことを「シルエット」と呼ぶようになり、1835年には正式な
フランス語としても認められることになります。