天皇制の権威と組織が全国的に確立したのは、大化の改新(645年)ですが、日本に統一的
な税制が初めて確立したのは701年の大宝律令の制定からだといわれています。
ここでは租庸調という税制が敷かれていました。
これはもともと唐の均田法下の税制で、大化の改新に同様のものを制定しました。
租は、農民に田を口分田・位田・職田など私的使用を許す代わりに、田の面積をもとに頭割計
算で稲で納める税金、庸は、毎年10日間の労役によって納める税金、調は繊維製品や海産
物、鉱産物など土地の産物で収める税金です。
800年代になると出挙が登場します。出挙は、国が春に稲を農民に貸し付け、秋に3〜5割の利稲
と共に回収するもので名目は営農資金でしたが、奈良中期から利稲収入を目的とする租税的色彩
を強めました。そしてこれらの負担に耐え切れずに多数の農民が荘園に流れ込みました。
荘園は、貴族・社寺の私的な領有地で、国家(朝廷)に納税する義務はありませんでしたが、
荘園の所有者には納税義務がありました。そして社寺や貴族の行なう私出挙は、稲のほか銭
や物も貸し、年5〜10割の利子を公認されるようになりました。
荘園は、その後鎌倉幕府の守護地頭制によって漸次武家に侵略され、南北朝の動乱以後急
速に衰退に向かい、豊臣政権の成立で消滅しました。
鎌倉幕府は全国の荘園に守護・地頭を置き、次第に課税権を侵略していきます。
守護・地頭は源頼朝が勅許を得て各地の荘園・公領においた職で、権力拡張の結果次第に領主化
するようになりました。特に地頭は荘園や公領において毎年一定の年貢の進納を請け負い、自らそ
の地の実質的支配権も握るようになって 「泣く子と地頭には勝てぬ」という語源にもなったようにその
横暴さは目に余るほどでした。
戦国の混乱期を経て天下統一を果たした豊臣秀吉は、1582年に検地を実施しましたが、こ
の太閤検地は、我国の税制史に重要な変革をもたらしました。
太閤検地は1582年から7年間にわたり、全国の田畑の面積と収量を綿密に調べるもので、
収量の計測単位は米の石高で統一され、各戸の石高に応じた正確な年貢が徴収されるよう
になりました。同時に課税を逃れるための「隠田」の摘発という狙いもあったようで、見つかっ
た場合にははりつけの刑に処せられたようです。この検地の考え方、手法は明治初期の税制
である地租改正の導入の際にも踏襲されています。
豊臣時代の検地の成果を引継いだ徳川時代も、年貢米を中心とした納税方法で、五公五民(収穫
物の半分を領主の税収入とし、残り半分は農民の収入とする)や四公六民で課税され、年貢の税率
方式には、検見法(収穫高に比例して年貢高が変わるもの)と定免法(豊作や凶作といった収穫高
に関係なく年貢高を一定にするもの)の2種類がありました。
時代は変わり明治になると、政府は税収の安定化を図るために、近代的な租税制度の改革
に着手しました。中世以降納税の手段は年貢米などを中心とした物納でしたが、原則として
現金による金納制度に変わりました。
当時の米は価格が変動する相場制で、安定した税収が見込めないため、明治6年(1873年)
の地租改正では、米を生産する土地の価額に基づく課税(収益還元方式)が実施されました。
この収益還元方式は固定資産税など、現代の課税にも使われている課税理論です。
そして明治20年(1887年)に日本で初めて所得税が導入されました。
当時の課税対象は自営業者と給与所得者で、高額所得者に限られ、税収全体に占める所得税の
比率も0.8%と、現在とは比較にならないものでした。
ちなみに、所得税を初めて採用したのは1840年代の英国で、米国は日本よりもさらに遅い1913
年のことです。
当時の所得税は個人所得のみで、退職所得・譲渡所得・一時所得は偶発的所得として課税対象外
であり、税率も、1%から3%の単純累進税率でした。明治32年(1899年)に法人所得にも課税さ
れるようになってから、今日の所得課税に近くなっています。
そして地租と酒税を中心とした間接税、所得税が併存していた明治の税体系が、大正・昭和
を通じて所得税を中心とした税体系に移行していくことになります。
明治15年(1940年)には、給与所得・事業所得・不動産所得・利子配当所得・退職所得・
山林所得の6つの所得に分類する課税方式を適用し、法人税が所得税から分離され、給与
所得者に対する源泉徴収も始まりました。
戦後昭和24年(1949年)になると、連合国最高司令長官によって米国コロンビア大学教授だった
シャウプ博士を中心とする7人の日本税制調査団が来日し、戦後日本の税制改革案が勧告されま
した。このシャウプ勧告の最大の特徴は、所得の総合課税化であり、分離課税制度をできるだけ排
除する所得課税の簡素化です。
そして、現在の申告納税制度の前提となる青色申告制度が昭和25年(1950年)に、シャウプ勧告
によって設けられました。
青色申告制度は、一般的な記帳制度より水準の高い記帳をし、その記帳に基づいて正確に所得や
税額の申告をする納税者には、種々の特典を与えるという制度です。この制度は、今日まで続いて
います。
戦後経済の復興と発展を政策の最優先課題として歩み始めた日本は、その後高度成長路線
に乗り税制も機能して順調に進んでいましたが、平成に入ると、経済成長も止まりバブル崩壊
による税収不足も生じてきました。
そして、今、高齢者社会を迎え景気の低迷化というピンチに立たされており、税制も構造変化
を求められています。