「どないや?センセちゃんと来とるか?」

「押すなよ。普通に入っていけばいいじゃないか。いつもそうしてるだろ」

「いや、今日だけはしゃあばいんや。昨日の今日やねんから」

「わかった、わかった。お前、微妙に小心者のところがあるよな」

 横目で笑うケンスケに「ほっとけ」と嘯きながらもその通りなんやとトウジは心の中でぼやいた。
 ここでどっしり構えられるのならば、ボスや黒木警視の道も開けようが、当面はめざせゴリさんであろうと自覚してもいる。
 二人がいるのは2年7組の教室前。
 後ろの扉の傍らでこそこそと話をしている他クラスの二人を尻目に7組の生徒が急ぎ足で登校してくる。
 時間は8時20分を過ぎ、もうすぐ予鈴が鳴る時間だ。
 ケンスケは開けっ放しの扉から顔を覗かせる。

「ジョーだ。ジョーがいるぜ」

「はぁ、なんやて?ジョーなんてどうでもええんや。センセはどうしてんねん」

「だから、真っ白に燃え尽きてるんだ」

「わけわからんわ。ちょいのいてみんかい」

 ケンスケを押しのけて7組の教室を覗いたトウジは、その一角で負のオーラを出しまくりまわりの生徒を遠ざけている友人を見た。
 まさしくそれは真っ白に燃え尽きた矢吹ジョーそのもの、がっくりと肩を落とし首をうなだれて座っているシンジの姿だった。
 しかも心情的にはまったく燃え尽きてはおらず不完全燃焼で鎮火したからこそマイナスエネルギーが身体から放出されているのだろう。
 その上、頬には昨日の痣が残っているのでケンスケがあしたのジョーを連想するのも無理なからぬところがあった。
 
「ありゃあかん」

 その時、テンカウントのゴングならぬ予鈴がのどかに鳴った。




33回転上のふたり


B面 4曲目



ー All My Loving ー



 2013.9.28        ジュン

 
 


 


「こら、しっかりせんかい!」

 ゆっさゆっさと胸倉をつかまれ前後に揺さぶられてもシンジの反応は実に薄い。
 
「もう手遅れじゃないか。こりゃ保健室レベルだぞ」

「アホか。すまんの。昼休みまで放っておいてしもうて」

「仕方がないだろ。クラスが違うんだしさ」

「薄情やの、ケンスケは」

「10分休みじゃどうしようもなかったよ。一度行ったけど話にもならなかったし、一人じゃ外にも連れ出せなかった」

「な、なんや、わしにも声かけてくれとったら…」

「お前の教室まで行っている間に休み時間終わってしまうぜ。おい、シンジ、まず弁当食えよ」

「そんなん、こんな状態で食うわけないやないか。……って、食うんかい!」

 差し出された弁当の箱を取り、箸を手にしたところでトウジから見事な突込みが入った。
 屋上の鍵は閉まっているのですぐ手前の階段に3人は座り込んでいる。
 天井の照明がなく薄暗くはあるが、弁当を食べるにはまったく問題のない明るさだ。

「あのなトウジ。ずっとあしたのジョー状態だったら強制的に保健室送りされてるだろうが。覇気はゼロに近いだろうけど、授業とかは普通に受けてるんだろうよ」

「なるほどなぁ。それにしても器用なもんやなぁ。ほな、食べながら話してんか。どないしたんや、この有様は」

 シンジはそっぽを向いてもぐもぐと口を動かす。

「あかん。拗ねとる」

「まるっきり子供だな」

「答えが見つからんかったんか?」

 シンジのもぐもぐは止まらない。
 こういう場合のトウジは決して気が長いほうではない。
 彼は手を伸ばした。

「痛いよ!」

「おう、喋った」

 痣の部分をつつかれたシンジはトウジを睨みつける。

「すまんすまん。で、どないや。きりきり喋ってもらおか」

「食べながらでいいぜ。俺たちも食いながら聞くから」

 ケンスケはトウジの分のパン袋を差し出した。

「しっかし、ケンスケは食べ物にはきちんとしとるなぁ。購買行って注文したパンを受け取ってくるし、センセのベントーもきっちり持ってきとるし」

「当たり前だ。食料の確保は兵隊の基本だぜ」

「アホくさ。カメラはともかく、ミリタリーの方は女には絶対うけへんで」

「俺は女にもてるために趣味をやってるんじゃないからな」

「そんなにきっぱり言ってもカッコようあらへんわ。ケンスケは一生もてへん」

「ほっとけ」
 
 トウジを睨みつけるケンスケだったが、そこに予想外の合いの手が入った。

「それがそうじゃないんだよな…うらやましい…」

 ぼそりと言った、シンジのその言葉。
 内容が内容だけに二人の耳はしっかりと聞き取っていた。
 せ〜のでタイミングを合わせたかのように彼を見ると、シンジは卵焼きをぱくりと一口に咀嚼しているところだった。

「ちょう待てや、センセ。今のどういうこっちゃ」

「お、おう、どういうことなんだ。俺のことか?俺のことなのか?おい、答えろよ!」

 ごくりと飲み込んだシンジは二人から顔を捻じ曲げて、つまりは下方から迫られているために顎を上げて空ならぬ天井を見上げた形になる。
 そこでもう一言、ぼそりと呟いた。

「うらやましいんだよ、ケンスケが」

「だからどうして俺がうらやましいんだ?なあ、教えてくれよ!どういう意味なんだよぉ」

「なんや必死やな。さっきまでの毅然としたカッコよさはどこ行ったんや?」

「アホか、こういう場合に必死にならない男子中学生がいたらお目にかかりたいもんだぜ。おい、シンジ!頼むぜ、おい!」

「もういいよ。地球なんて沈没してしまえばいいんだよ」

「あのなぁ、沈没するんは日本で、地球やったら滅亡ちゃうんか…って突っ込みいれて欲しかったんちゃうやろ?あかんわ。末期症状やで、こりゃ」

「おい、トウジ」

 肩に置かれた手をたどっていけば、そこにあったのは目をらんらんと輝かせたケンスケの顔だった。

「俺は本気を出すぞ。本気でシンジを復活させる。ああ、どんな手を使ってもだ」

「え、えらい張り切りようやけど、それはやっぱりあれか?もっと詳しいことを聞き出すため…か?自分のために」

「当たり前だ!」

「で、どうするんや。どんな手でもってまさか拷問とかとちゃうやろ?」

「残念だが俺には拷問の知識がないから駄目だ」

「残念なんかいな。友人を拷問にかけるなんて極悪人やで、まったく」

 トウジはしゃあないなとばかりに手にしていたハムカツサンドをもぐもぐもぐと一気に食べ飲み物がないので苦労して飲み込んだ。

「牛乳も用意しとかんかいな」

「無茶言うな。飲みたきゃそこらの教室に行きゃ何本かあまってるだろ」

 そこまでして牛乳を飲みたくもなかったトウジはその提案を受け流し、階段を2段下りシンジの前に立つ。
 ちょうどシンジの顔が自分の胸の辺りに来るようにして「センセよ」と声をかけた。
 思わず顔を上げたシンジの前には腕組みをしている友の姿があった。

「しゃっきりせんかいな。何があったんか、喋ってみ。しゃあないと、昨日のセンセがかわいそうやんけ」

 トウジはシンジの顔を見ずに頬をぽりぽりかきながら言った。
 あまりにぶっきらぼうすぎるからそちらに気をとられてしまったシンジはいつものように素直に反応してしまう。

「あの曲のことはわかったよ。でも先生も見つけてて、もうアスカに伝わってて…、だから…」

「ああ、ちょっと待ちぃや。つまりやな、センセも謎を探り当てたわけか?」

 こくりと頷いたシンジはそれから小学生のように唇を尖らせた。

「凄いやんけ。で、それやのになんで落ち込んどるんや」

「だって…。だから、もう先生がアスカに正解を教えたんだから僕の出る幕はもうないから…」

「はぁ?」

 トウジはケンスケと目を合わせ、これは駄目だと首を横に振った。

「こら、センセ。なんか勘違いしてへんか?」

「勘違い?」

「そうだぜ、お前間違ってるぞ。謎を解いて誉めてもらいたいからがんばったんじゃないだろ」

「うるさいな、ケンスケは」

 横から口を出したケンスケに対し、シンジは横目でじろりと睨みつけた。
 頬の痣も加わって、いつもの彼よりも格段に凄みがある。
 ただし口調自体はいつもの彼だから恐ろしくもなんともないのが残念極まりない。

「何だと」

「ちょい、ケンスケは入ってくんなや。なんや、ごっついお前に反感持ってるで、今日のセンセは」

「当たり前だよ。畜生」

 日頃悪罵など放たないシンジの口から漏れた言葉に二人は驚いた。
 そこのところを問い詰めたいのだが、今はそっちを先にはできない。
 ケンスケの心情としては大いに先にして欲しいのだが、さすがに彼も自分の欲求を抑えた。

「ケンスケのことはどうでもええわ。問題はセンセの勘違いやで」

 トウジはじっとシンジの目を見つめた。

「センセは惣流に凄いとかありがとうとか言ってもらいたいからがんばったんちゃうやろ。そもそもあいつに謝るためと違うかったんかいな」

「へ?」

 真っ白から灰色くらいには色がついていたシンジだったが、その瞬間総天然色の姿になった。
 気力というものは物凄いものだ。
 覇気のなかった目に見る見る光が戻ってくると、ぱちぱち瞼を瞬かす。

「ど、ど、ど、どうしよう!そうだった!謝らないといけなかったんだ!」

「アホちゃうか。なんでそんな大事なこと忘れてしもうたんや」

「あああああ、どうしよう!」

 弁当箱を傍らに置いてから、シンジは頭を抱えた。

「まあ、そんだけ舞い上がってしもうとったってことやろ」

「幕僚長殿、発言してもよろしいでありますか?」

「ええで。もうケンスケのことなんてどうでもええ感じやし」

「さっきからどうでもええの連発だな。まあ、いいや。シンジ、お前、もう時間がないぞ」

 シンジは顔を上げた。
 自己嫌悪でいっぱいの表情は今にも泣き出してしまうのではないかと思うくらいに下唇がにゅっと出ていた。

「放課後には同好会があるんだろ。始まってしまったら謝る機会なんてなくなるぞ。昨日の自分が悪いと思うんだったら、その前に惣流に謝らないといけないんじゃないか?」

「お、おう、その通りや。そやけど、もう時間がないで。あとは5時間目の後の休み時間…」

「6時間目が体育だから着替えないと…」

 お前はくそまじめすぎるんや!と喚きたいトウジだったがここはぐっと我慢した。

「そやけど、もうすぐ予鈴鳴るで。そこが難しいなら、そうや、同好会が始まる前に惣流を捕まえてやな…」

「駄目だよ。そんなにタイミングよくいくわけないよ」

 出たな、ネガティブ思考とケンスケは苦笑した。
 さすがにこうなってしまうと自分にまつわる謎については忘れてしまっていた。

「それじゃどうするんだよ。授業をサボって…」

 その時、予鈴が鳴った。
 キンコンカンコンと高らかに鳴るチャイムを耳にして、シンジはふっと顔を上げた。
 そして予鈴を聞いて教室へと駆けていく生徒たちの足音が響いてくる。
 彼らの足音がシンジに昨晩の様子を思い出させた。
 そう、赤木家を退出したとき、突っ掛けを履いたリツコがカラコロと足音を立てて後を追ってきたときのことだ。
 シンジは『悪魔の手毬唄』を読んでおらず映画も見ていなかったので、リツコの悪戯については何もわからなかった。
 だが、友人でもない、しかも異性の先輩から好きな女のこのことを名指しで指摘されれば、うろたえてしまうのは当然であろう。
 しかしながら、今の問題はそこではない。
 その瞬間を思い出したおかげで、シンジは昨晩のリツコの決意が脳裏にフラッシュバックしたのである。
 ケンスケは確かにいいヤツだが、第壱中学でトップクラスの美人女生徒に惚れられるのは納得いかない。
 納得はいかないのだが、リツコの決意は息を呑むほどに清々しく鮮烈なものだったではないか。
 しかもいろいろアドバイスもされたというのに、自分は…。
 シンジは唇をかんだ。
 もし、この場に彼の人生の伝記作家がいたとしたら、この瞬間の彼のことを大きく太い文字でそれは仰々しく流麗な言い回しで書き連ねていたことだろう。
 筆者はそこまで面倒を見てあげられないので、さっさと先へと進めたいと思う。
 とにかく、このとき、彼の心の中で何かが弾けたのだ。
 簡単に言うと、暴走が始まったというわけだ。

「あ〜あ、鳴ってしもうた。しゃあないやんか、こうなったらやな…」

「まだ5分ある…!」

 シンジが呟いた。

「何やて?」

「まだ5分ある!5分もある!」

 立ち上がったシンジは階段を駆け下りていく。
 残り5段を飛び降りて、踊り場でぐっとターンして、次の階段も3段4段と抜かして降りる。

「お、おい!怪我すんぞ!」

「トウジ、行くぜ!おもしろくなってきやがった!」

「ちょい待て!センセの弁当箱」

「あとで取りに来ればいいだろ」

「食料のなんちゃらは兵隊の基本やったんちゃうんか。わしは兵隊さんちゃうから先いくで!」

 声高らかに宣言すると、トウジは一気に階段を飛び降りた。

「こら!俺に押し付けるなよ!」

 文句を言いながらもシンジの弁当箱やパンの袋を取りまとめ、ケンスケは二人のあとを追った。
 これはとんでもないことが起きるに違いない!
 駆け下りながらわくわくしてきたケンスケだったが、大切なことに気がついた。
 カメラがない!
 このような大事件(になるはずだ)に出くわすというのに写真を撮らないでどうする。
 報道カメラマンになる気はなかったが事件と聞けば心躍るのが性というもの。
 ケンスケはどたばたと足音高く駆け出し、まずは自分の教室を目指した。
 サイボーグ009の如く加速装置をつけたような動きを見せたシンジだったが、絶対に間に合う、間に合わせて見せるとケンスケは走った。
 自席に戻ると机の上にシンジの弁当箱やらパンの袋を放置し鞄から愛用のカメラを取り出し、何してるんだと怪訝な顔のクラスメートをかき分けるようにして廊下へ出た。
 惣流アスカのいる2組はもうひとつ下のフロアである。
 その教室にたどり着く間際に本鈴が鳴った。
 あちゃあと思ったもののここまで来るともう引き返せない。
 ケンスケが扉までたどり着いたとき、すでに2組は騒動の渦が物凄い勢いでまきおこっていたのである。

 さて、時計を3分ほど戻そう。

 信じられないことに、トウジはシンジに追いつけなかった。
 昨年の100m計測で優に2秒は差をつけていたはずなのに、シンジが2組の教室へ飛び込んでいったときにはまだ階段から降りたばかりだったのである。
 ちっと舌打ちをしてダッシュをかけたとき、大声が聞こえてきた。

「アスカぁっ!」

 誰の声と考えるまでもなくシンジの仕業であるに違いない。
 しかし、彼を知って1年半、こんな声を出すとは思いもよらなかった。
 シンジは2組でアスカがどこに座っているのかなどまったく知らなかった。
 だから、彼女を探すほんの二三秒の間にトウジはようやく扉まで追いつけたのだ。
 シンジにとって運がいいことに、日本人の容姿ではないアスカは実に目立つ。
 窓際の席でヒカリと喋っていた彼女が呆然とこっちを見つめているのをすぐに見つけた。

 アスカとしては文字通り不意打ちであろう。
 自分が嘘をついたのではないことを先生が証明してくれたのは朝一番にヒカリから聞き、朝礼が始まる前に職員室へ赴き青葉先生に直接お礼を言った。
 そういう意味でほっとしたのは事実だが、彼女にとって最大にして最重要の問題はシンジのことなのだ。
 朝起きてからずっと、いや昨晩なかなか眠れなかったがその間もずっと、考えていたのはシンジのことだけだ。
 自分を信じてくれなかった。
 自分のことなど異性としてどころか友人とも思っていなかったのかもしれない。
 すべてはこちらが強引に誘導していただけなのではないか。
 ビートルズがただ好きなだけで、そんな彼を振り回していただけでは?
 これまでの経緯を考えればそのような風に思うことはないはずだが、思い込みの激しいアスカだけに仕方がないだろう。
 そう、思い込みが激しい上に頑固だから、裏切られたと決め付けているにもかかわらず、彼を好きなことだけは変わらない。
 そのことについてはまったく疑ってなかったのだ。
 自分はシンジが好きだ。
 それはたとえ地球が逆回転してもまったく揺るぎもしないのである。
 だからこそ彼に嫌われたのではないかという考えが、彼女を悲しませ、そして自己嫌悪に陥っているのだ。
 もっとももしシンジが正式にアスカの彼氏となっていたならば、彼がどういう目にあっていたかは筆者の知るところではない。
 彼のすべてをアスカが手に入れていたとすれば、文字通りの裏切り行為だと糾弾していることだけは間違いない。
 そういう意味ではシンジにとっても、そしてアスカにとっても悪いタイミングではなかったのかもしれなかった。
 本人たちにとっては人類が火を手に入れたことよりも重大な事件ではあるが、大人から、しかも客観的な目で見てしまうと、寧ろ微笑ましいものに過ぎない。
 しかしながら当事者にとってはそんな余裕などあるわけがない。
 喜怒哀楽の振幅が激しくなっており、ちょっとしたことでもとんでもない反応を示してしまうのだ。
 そして今、シンジはちょっとしたどころでは済まない様な爆弾を破裂させたのだ。

「アスカぁっ!」

 彼の叫びは5時間目の本鈴が鳴るのををいやだなぁと思いながらも待っていた2年2組の生徒たち全員の注目を集めた。
 7組の生徒である碇シンジのことをこの教室のほとんどの連中が知っている。
 それは彼自身が有名なのではなく、このクラスで好悪の感情は別にしてともかく一番の有名人である惣流アスカの下僕、子分といった扱いで知られていたのだ。
 もちろん思春期真っ只中の生徒たちがいきなりそのような結論に至るわけがない。
 真っ先に連想するのはその男は惣流の恋人なのではないかという発想で当たり前だ。
 しかし、シンジを知る生徒の証言や実際に彼を見て確かめたことにより、「あれはない」という結論に達したのだ。
 顔は悪くないが、全体的になよっとした感じだから、第壱中学で特筆されるべき美人である惣流アスカとはまったくつりあわないと思ってしまうのだ。
 しかもあの愛想笑いがさらに彼の印象を悪くしていた。
 アスカに媚びていると思われたのである。
 実際媚びてはいるのだから間違いはないのだが、情けない、という印象を強く植え付けたのだ。
 だから、あれはないと単なる召使的存在と認定されたシンジだったのだが、彼が叫んだこの瞬間にアスカやヒカリを含めた全員がその認識を改めたのである。
 
 洋画ファンであるサオリさんはその叫びを聞いた途端に『卒業』のラストシーンを思い出したと後に友人たちに話している。
 教会で結婚式を挙げているヒロインを奪還しようと駆けつけてきた主人公の叫びと同一のものだったと頬を赤らめながらうっとりとした眼差しで語ったのだ。
 
 野球部の控えのセンターであり、昨年シンジと同じクラスだったヒデオ君は部活のときにこう漏らしている。
 野郎、あんな声出せるんじゃないか。運動会の応援のときにもっと大声出せって言っても無理だよと愛想笑いを返していたのに。

 アスカに以前に告白して振られていたコウタロウ君は開いた口がふさがらないままに思っていた。
 あ、あ、あいつ!惣流さんの名前を!公衆の面前で、大声で、呼び捨てに!……うらやましい!

 50人近い生徒たちの頭にはそれぞれいろいろな思いが去来していた。
 しかし、それはアスカの思いに比べるとたかが知れたものだ。
 何しろこれまで数えてはいなかったが何十回、いや何百回も彼の口から呼ばれた「アスカ」とはまったく違う種類の叫びだったのである。
 もとより自分の名前をシンジに大声で呼ばれたことがなかったので、この叫びを耳にした瞬間にアスカの神経回路がショートしたのは仕方がなかろう。
 嬉しい、恥ずかしい、腹立たしい、などという具体的な感想などだけなかった。
 あえて文字にするならば、こういう感じになるだろう。

 はぎゃふぎゃあばばばびれぇつ!

 日本語でもドイツ語でも英語でもない言葉だが、すなわちそれくらいにアスカの神経はずたずたにされてしまったのだ。
 しかも、彼女の名前を叫んだときのシンジの顔が一度も見たことのない表情を浮かべていたのだからもうどうしようもない。
 一言で言えば、凛々しい。
 しかも頬に残る痣が男らしさをさらに演出している。
 後になってアスカがその表情を思い出したときには、完全に舞い上がって「凄い!かっこいい!きゃあ!きゃあ!きゃあ!」と自室の畳の上でごろごろ転がって壁にぶつかりまた反対方向へと転がっていったのだが…。
 
 しかしながら、この局面においてのアスカはこういう事態にちゃんと対応できなかったのである。
 自称天才であるものの、実は陰ながら傾向と対策を練っている努力型の秀才であるアスカはあまりに物凄い爆弾を目の前で破裂されてしまって思考回路がまともな状態ではなくなってしまっていたのだ。
 そのことに気がついたのは誰もいなかった。
 ヒカリでさえ、ロマンチックな急展開に我を忘れてしまい親友の様子にまで目を配ることができなかったのだ。
 そう、「アスカ」という叫びに続いたのは怒涛のロマンス的展開だった。

 トウジがシンジのすぐ後ろに到着したのは、その第二波直前だった。
 声をかけるかどうか迷っていると親友のいつもはか細い背中が見る見る膨らんだのである。
 もちろんアニメや特撮ではないのだから身体が膨張するわけがない。
 要は大声を出すためにシンジが身体を少し仰け反らせただけだったのだが、至近距離にいたトウジがそのように思ってしまったのは無理なかった。
 そして、その背中が吼えた。

「好きだぁっ!アスカ!好きなんだ!」

 その瞬間、2組の周辺から音が消えた。
 公開告白など見たこともなく、告白というものはこっそりとするものだというのがこの当時の中学生の共通認識だった。
 それがまるでドラマのような展開が自分たちの目の前で起きているのだ。
 感想よりも先に、これは現実なのかという思いが先に立つ。
 誰も彼もみな発言者であるシンジの顔を呆然と見つめていた。
 そう、アスカもその一人である。
 彼女は表情を凍りつかせて、ぽかんとした顔で座っていた。
 喜怒哀楽の感覚はなく、ただ呆然とシンジを見つめていたのだ。

 シンジは息も荒く肩を上下に動かしていた。
 その顔を見てみたい。
 その場にいた者の中でただ一人だけシンジの背中側にいたトウジはそういう欲求を抱いた。
 ついにセンセが男になりよった。
 嬉しいという感情よりも、どんな顔して言うたんや?と気になってしまったのだ。
 そして彼はシンジの右側から身体を2組の教室内に滑り込ませた。
 彼としてはできるだけこっそりと動いたつもりだったが、活人画状態の生徒たちを動かすには充分すぎる視覚効果だったのである。
 そして、教室内の空気が一気に破裂した。
 喝采とも悲鳴ともつかないような声が生徒たちの喉から漏れ出す。
 それが2組全員だからたまらない。
 隣接する教室から何事かとお調子者の連中が飛び出してくるほどの騒ぎになった。
 もちろんシンジがアスカの名前を叫んだ段階で数人の生徒が何事かと廊下に出ていたのだが、その数がどんどん増えてきたのだ。
 その野次馬を掻き分けながらようやくケンスケが教室の中へとたどり着いた。
 神ならぬ彼には事の次第をすべて把握することはできなかったものの、幸か不幸かシンジの叫びは耳にはしている。
 残りのフィルムが何枚かを確認する余裕もなく、彼はぱちぱちとシャッターを押した。
 騒ぎの渦となっている2組の教室では日頃物静かな生徒たちでさえもあたふたと周りの生徒たちと言葉になっていない会話を交わしている。
 その中でただ一人、ヒカリだけはいくぶん冷静に、それでもかなりハイテンションになって、アスカの耳元にこっそりと囁いた。

「よかったね」

 その祝辞に対し、アスカはどういう言葉を返したのだろうか。
 いや、実は返さなかったのである。
 彼女はぼそぼそと呟いた。
 周りの喧騒の中でよく聞こえなかったヒカリがアスカの顔を見るとそこに浮かんでいた表情は息を呑んでしまうような類のものだった。
 つまり、彼女は何故か喜怒哀楽の怒を選択していたのである。
 このような場所でということではない。
 いきなり、予想外に、何の心の準備もなく、奇襲されたということがただ単純にアスカの感情を麻痺させただけのこと。
 簡単に言うと、それは単なる照れ隠しに過ぎなかったのだが、感情表現の振幅が激しい彼女だけに怒ることが照れ隠しの方法で、しかも本人が照れ隠しだと自覚していないのだからたまらない。

「馬鹿にしてんじゃないわよ…」

 今度は聞き取れた。
 だが、その言葉は好意を抱いている相手から好きだと言われた女の子が口にしていいものではない。
 思わずヒカリは「ち、ちょっと」とアスカの肩に手を置いた。
 それが引き金になってしまった。
 がたんっ!
 大きな音を立ててアスカの椅子が転がった。
 真後ろに倒れた上に右側に半回転したのだからどれほどの勢いで転がったのか見当がつくだろう。
 このとき、少なからずの者はロマンティックな展開を予想していた。
 抱きついてチュウくらいのことが起きてもいいのではないかと寧ろ期待したのだ。
 ところがアスカの表情を見たものから順番に期待はロマンスからバイオレンスに切り替わっていった。
 それほどにアスカの顔は険しかったのである。
 彼女の発想の転換振りには慣れているはずのヒカリでさえ大いに戸惑ってしまった。
 何故好意を持っている相手から告白されたというのにアスカは怒っているのだろうか?
 その戸惑いがヒカリの反応を鈍らせた。

「馬鹿シンジ!アンタ、何言ってんのよ!そんなの1億年早いわよ!この馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿!」

 実は、「1億年」の段階でアスカはシンジめがけて突っ込んでいくところだったのである。
 もちろんその後にはびんたが待っていたであろうことは衆人が予想したところであるし、実際にアスカもそうするつもりだった。
 ただそれはびんたでも往復びんたでもなく、3往復びんたにキックがおまけでついていたのだが。
 しかしながらアスカの暴力行為は未然にヒカリによって阻止されたのだ。
 アスカの怒号にはっと我に返った彼女はとっさに友人を羽交い絞めしたのである。
 
「離しなさいよ!」

「離したらどうするつもり?」

「あったりまえじゃない!ぶっとばしてあげんのよっ!」

 ああ、やっぱりそうねのね。
 ヒカリはがっくりきてしまった。
 あまりの喜びに舞い上がりすぎて着地点が見えなくなり慌てふためいているのか、それとも興奮しすぎて我を忘れてしまっているのか、いずれにしてもこのままにしては事態が悪化する一方だ。
 そもそも碇君ってあんなキャラだったの?とヒカリは急すぎる展開に頭が整理できない。
 少なくともこのままアスカを勝手に動かしてしまうと収拾が付かなくなることは確かだ。
 現時点でもどうやって収拾をつければいいのか思いもよらないが。
 とりあえず今はアスカを取り押さえておくしかない。
 それにしても何て馬鹿力なんだろう……って、ごめんね、アスカ、馬鹿なんて言って。だけど、やっぱり物凄い馬鹿力!
 うん、それにせっかく好きな男の子に好きだって言われてるのに、それを拒否するなんて馬鹿に違いないわ。
 頭の中でそんなことを考えながらも、ヒカリは親友を背中から羽交い絞めにしているのだが、火事場でもないのにとんでもない馬鹿力を発揮してアスカはヒカリごとじわりじわりと前進していく。
 周囲のクラスメートたちは彼女の形相に敬意を表して大きく進路を開放してくれているので碇シンジまでの距離はほんの3mほどに迫っている。
 ところが当のシンジは恐るべき形相のアスカに恐れをなすどころか、まるで来るなら来いと言わんばかりに突っ立っているのだからたまらない。
 もっとも彼の表情がもしアスカを一目ぼれさせたあの天使の微笑であったならば、さすがの悪鬼も憑き物が落ちたかのようにおとなしくなっていたはずだが、残念ながら今のシンジはまさしく男の顔をしていた。
 意中の女の子にふられる事を覚悟の上での暴走なのだ。
 凛々しい男の顔になってしかるべきだといえよう。
 ただしそういう表情は下手をすると挑発しているようにも見える。
 したがってシンジの稀有な男らしい面構えはアスカの闘志をさらに燃え上がらせるだけの結果となった。
 ずるずると引っ張られていくヒカリはシンジの傍らにようやく格好の存在を発見した。
 クラスメートに助力を頼んでも誰も手を貸さないことは重々承知していた。
 人望云々というわけではなく、暴れまわる虎には誰も手を出したくないだけのこと。
 さすがのヒカリでももしギャラリーの一員だったなら、できることは先生に注進することぐらいのものだ。
 しかしながら、そこにトウジを見つけたのだ。
 ニヤニヤ笑いながら事の成り行きを見守っているその姿に、ヒカリは大いなる怒りの念を覚えながら叫んだのだった。

「すぅずっはぁらぁぁぁぁっ!」

 びくん!という擬音がトウジの上に浮かんだのではないか、いや文字通りにトウジは3cmほど宙に浮いた。
 そのことは誰も気がついていなかったのは、叫んだ側のヒカリに注目していたからだろう。 
 なにしろ彼女は荒れ狂う虎の背中にいるのだから。
 クラスメートの中には「ぐるる」とか「がぁごぉぅぐぅ」などという咆哮がアスカの口から漏れていたと冗談抜きで語っていたほどだ。
 恋する相手から名前を呼ばれれば、思春期の男子でなくとも過大な反応があるはず。
 しかも今回は大声で、しかも差し迫った様子での呼びかけなのだから、トウジのアドレナリンが大量分泌されるのは当然の成り行きだろう。

「な、な、な、なんやっ?」

「碇君を!廊下に!お願い!」

 おう!わかったで。廊下でも便所でも購買部でも運んだるわい!
 心の中で大声で答えたトウジは沸き立つ闘志を外には見せず、さりげない様子でしかし男らしさをヒカリには見せ付けるべくシンジに声をかけた。

「せ、センセ。もう授業はじまるで。外出よか。な」

「ふん!授業がなんだよ。そんなの僕にはどうでもいいよ」

 きっぱり言ってのけたシンジのほうがよほど男らしかった。
 
「あ、アホか。さっさと行くで。こんかい!」

「トウジだけ出て行けばいいじゃないか。ほっといてよ」

 このとき、夢中になっていた二人は気がつかなかった。
 背後の喧騒がいつの間にかまったく聞こえなくなっていたことを。
 そして2組の生徒たちがアスカとヒカリを除いて慌てて着席していたことも。
 フィルムを交換しようとしていたケンスケが慌ててカメラをポケットに入れたことにも。

「うるさいわ!このアホ!スカタン!え〜かげんにせんかい!」

「お、おい!まずいぜ、二人とも!わっ!」

 ぱこん!ぱこん!ぱこん!
 乾いた音が3つ、教室に響いた。

「こら、鈴原に相田に、それから碇か。何をしとる。チャイムが聞こえなかったか」

 教師の威厳とは恐ろしいものだ。 
 あれほど“男”だったシンジがあっという間に普通の生徒になってしまったのだから。
 2年2組の5時間目の授業は社会だった。
 2年生の社会を担当しているのはベテラン教師の40男である南森先生だった。
 不良と位置づけられている生徒でも優等生であってもまったく差別せずに接し、彼がひと睨みするだけで生徒たちは背筋が伸びてしまうのである。
 つまりは生徒から怖がられるタイプだが、生徒指導には興味がないようでもっぱら授業中心の古参教師なのだ。
 先生は3人の頭を叩いた出席簿を開き、教室に空席がないかを人目で確認し、シンジたちには目もくれずに口を開いた。
 
「授業を始める。さっさと席につけ。今日は応仁の乱の影響についてだが、まず前回の復習じゃ。前田、応仁の乱が起きたのは何年だ?」

 マイペースという言葉はこういう場合には適応できないだろう。
 喧騒の中にあった教室でいきなり授業を始めているのである。
 すでにこの時点で2組以外の生徒たちの姿はこの教室になかった。
 あれほど凛々しかったシンジもいつもの小心者を発露し自分の教室へと廊下を疾走していた。
 他の二人も言うに及ばず、ほんの数分前まではあれほど騒がしかった学舎はしんと静まり返ろうとしていた。
 教室の中ではぱたぱたという上靴が鳴らす音も聞こえなくなってしまう頃、2組の生徒たちは慌てて教科書をめくり、ノートを開き、前回の授業を確認する。
 南森先生は続けざまに質問を浴びせるので有名なのだ。

「わからんか。わからんなら立っとけ。後ろ、何年だ?」

 慌てて答える生徒に「うむ」とだけ返しすぐに次の質問をその後ろの生徒に投げかける。
 まさしく物凄い勢いで異常空間だった教室を平常空間に戻したのだ。
 何しろあのアスカでさえ、頭の中はほぼ真っ白に近い状態ではあったものの、着席してノートを開いているのだから。
 そして、2組の短い歴史が始まって以来のできごとが起きた。
 そう、アスカが先生の質問にまったく答えられなかったのである。

「ほほう、惣流が珍しいこともあるもんだ。まあいい、立っとけ」

 立たされたアスカの表情をヒカリは身体をよじって確認した。
 そこに見えたのは放心状態と形容すればいいのだろうか、先ほどまでの肉食獣を想起させるような険しさはなく、心ここにあらずといった風に見えた。
 確かに彼女は今しがたの出来事を整理することすらできなかったのだ。

 さて、あの3人はどうなったのだろうか。

 シンジは教室の後ろで立たされていた。
 優しい伊吹マヤ先生ではあるが規律には煩い。
 本鈴が鳴ってしばらくしてから教室に帰ってきた生徒を簡単には許してくれないのだ。
 もっとも5分ほどで席に戻らされ教科書を読ませることで罰を終える予定だったのだが、さすがに大事件を引き起こしてきた後のシンジが冷静に本読みなどできるわけもなく、しどろもどろになってしまったのはご愛嬌だった。
 もちろん、本鈴前にシンジがしでかしてきたことなどクラスメートや伊吹先生が知るわけもなく、しきりに汗をかくシンジを珍しいこともあるものだと見ていたのだ。

 ケンスケは調子がいい。
 後ろの扉を開けるな否や、「遅れて申し訳ありませんでした!」と大声で一礼し堂々と自分の席に戻ったのだ。
 そして机の上に散らばっていたシンジの弁当箱などをさっさと片付けると、おもむろに教科書を取り出し、さあどうぞとばかりに教壇を見る。
 そこに立っていたのは青葉先生で怒鳴りつける暇もなく、しかもまだ授業開始時の脱線タイムだったので今更怒るわけにもいかず、うながされるままに授業を始めるのだった。

 最後の一人、トウジは…歌っていた。
 教室に戻るとそこには人っ子一人なく、音楽の授業だと気がついて慌てて音楽室にはせ参じたのだが、遅刻の罰としてみなの前で何かを歌えと教師に命じられたのだ。
 そして、彼は放課後に散々練習させられていたビートルズを歌ったのである。
 発音は滅茶苦茶で偽英語も少なからずあっただったが、実は歌が巧い彼は『オール・マイ・ラヴィング』の1番を見事に歌いきり拍手喝采を浴びた。
 音楽の先生も苦笑し、そういえば青葉先生のビートルズ同好会に入っていたわねと彼を席に着くように促す。

「ちゃんと歌詞も覚えなさいよ。せっかくのラヴソングもあれじゃ相手に伝わらないわ」

「え!ラブソングやったんですか?あれ」

「目を瞑ったらキスしてあげる。ありったけの愛をあなたに送る。見事なまでにラヴソングね」

 あちゃあとばかりに頭をかくトウジを男子たちが囃し立てる。
 うるさいわ、ほっとけと膨れっ面になるトウジだったが、このことが音楽教師から青葉先生に伝わり、文化祭で第壱中学のリンゴ・スターはドラムを叩くだけでなく歌わされる羽目になるというのはもっとあとの話だ。

 それよりも、アスカとシンジの恋路である。
 どう見ても、これまでの経緯の中で二人の距離はあの瞬間に最大に接近したといって良い。
 あそこでアスカはただ一言、いや、言葉に出さずとも、こくりと頷きさえすれば、この物語もこの章で終わっていたところだ。
 ところが彼女はせっかくど真ん中に投げてきた剛速球をアンタ馬鹿とばかりに特大の場外ホームランとして打ち返してしまったのである。
 ここは空振りをしてゲームセットでよかったのだと気がついたのは授業の真っ最中だった。
 やっと思考回路が整理されまともに繋がったのか、お昼休み終了間際の数分がきちんとした姿で彼女の頭に甦ってきたのだ。
 その瞬間、背筋にどっと冷や汗が流れてきて、全身に震えが走った。
 この世界で一番好きな男子に告白されたというのに即行で拒絶してしまったのである。
 机の上のものを全部払い落とし、大声で窓の外に叫びたい。「アスカの大馬鹿ぁぁぁぁぁっ!」と。
 しかし、一旦冷静な状態に戻ってしまった今となってはそういうこともできず、ただひたすら「どうする?」を頭の中で繰り返し続けた。
 もちろんそのような状態で解決策が見つけられるわけもなく、ただ時間だけが浪費されていくのは幼児期から学習されてきているはずなのに繰り返してしまうのは人間の性というものか。
 そのような中、ベテラン教師はそのようなアスカの状態は目の端に捉えているものの授業進行の障害にならずむしろ流れがおかしくなると判断し見て見ぬ振りを決め込んだ。
 周囲の生徒たちもアスカの様子が気になるものの余所見をするとすぐさま質問が飛んでくるのでちらりと見るくらいが関の山、ヒカリでさえ親友が心配なのだがどうすることもできなかった。
 もっともアスカにとっては周囲のことなどどうでもよかった。
 どうすればいいか。その一転だけに思考は集中していたのである。
 残念ながらまったく方策は見つからなかったが。

 ただし、当のシンジは満ち足りた気持ちでいっぱいだった。
 自分の気持ちを打ち明けることができたことで、これまでの女々しい自分と決別したように思っていたのである。
 ついに男になったとの思いで、アスカに振られたという結果に対しては当然だと考えていたからだ。
 僕だってやる時にはやるんだと高揚した気分で授業に臨んでいたのだが、ふと気がついて今度はしゅんとなってしまった。
 好きだということしか言っておらず、肝心の謝罪は一切口にしてなかったではないか…。
 がっくりと肩を落としてしまったシンジを見て、伊吹先生は首を傾げた。
 ずいぶんと気分が上下しているようだが昨日の事が関係しているのだろうか、いずれにしても今は授業中だから後で声をかけておこうと決めて先生は授業を進める。
 そんな先生もそして周囲も見えていない状態のシンジは、アスカ同様に頭の中でひたすら「どうする?」を繰り返していた。

 
 


− 12曲目へ続く −


 


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第11回目のためのあとがき

第11回を掲載いたしました。
長い間お待たせいたしました。
本当に申し訳ございませんでした。

あとがきをだらだら書くより続き?
ですよね、わかりました。
それでは、次回をお待ちくださいませ。
できるだけ早く書くようにがんばります。

ジュン

 

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