幸せは球音とともに

ー 1976 

〜 上 〜


 

2005.04.23        ジュン

描:神有月葵

 
 




 
 
 1976年春。
 僕たちはめでたく志望校に入学することができた。
 僕たちというのはアスカと僕だけじゃない。
 トウジにケンスケ、そして洞木さんも一緒だ。
 中学とは逆方向にある坂の上の県立高校。
 何も町の一番高いところに高校を作ることはないじゃないか。
 おまけに危険だからと自転車通学は禁止。
 おそらく両親に似たのかいささかスピード狂のアスカはもちろん、僕だって不満たらたらだった。
 行きが20分帰りが15分。
 普通に歩いてこれだけ差がつく坂の連続なんだ。
 たしかに自転車通学を許せば交通事故が増えるという理屈はわかるんだけど…。
 試しに休みの日に自転車で学校を往復すると、行きが10分で帰りが3分58秒。
 わかるだろう?この気持。
 あ、因みにこの3分58秒というタイムを樹立したのは当然アスカ。
 わかってくれると思うけど、アスカの自転車が僕の視界から消えたときの僕の気持ち。
 あんなに不安になったことはなかった。
 おまけにタイミングがいいというのか悪いというのか、
 アスカの背中を見失ってしばらくすると、キキキッという車のタイヤが軋む激しい音が聞こえたんだ。
 必死にペダルをこいで多分僕としては最高タイムで我が家に到着した。
 その前でにこやかに笑って立っていたアスカを見つけたときはまず心の底から安堵した。
 で、そのあと、僕はつい怒鳴ってしまったんだ。
 無茶するなと。どんなに心配したかと。恥ずかしながら、涙まで浮かべて。
 アスカは「馬っ鹿じゃない?」と一言残し、ぷいっと横を向いてずんずん家の中に入っていった。





「ふ〜ん、ここからはじめるんだ」

 相変わらずタイミングのいいことで。
 妻はいつものように僕の肩にその顎を乗せた。

「そ〜よね、シンジ泣いてたわよね、あの時」

「仕方ないだろ、本当に心配したんだから」

「ごめんね」

 思いがけないその言葉。
 正直、びっくりしてしまった。
 もちろん、あの時アスカが僕に向って本気で馬鹿だと思っていたんじゃないことくらいわかっていた。
 剛速球の変化球投手である彼女が素直に謝るわけないことくらいよく知っているから。
 その後、二度とアスカはあんな真似をしなかったんだからね。
 でも、20年近い年月を経てこんな言葉をかけられるとは想像もしなかったよ。
 この時、僕が思ったのは…。
 このエピソードを書いてよかったということ。
 いや、別にアスカがいつも謝罪しないってことはないんだ。
 他愛もないことならすっと言葉が出てくる。
 でも、本当に自分が悪いと思ったときはなかなか素直になれないそうだ。
 まあ、僕なら彼女のそういう面は熟知してるから問題ないんだけどね。
 だからこそ、思いがけない時のこの言葉は僕の胸を激しく打った。
 言葉も出ずに、僕はただ右手の掌をそっとアスカの右の頬に添えた。
 すると掌に力を入れてもいないのに、
 まるで僕に引き寄せられたかのように彼女はペタンと僕の頬に自分の頬をくっつけてきた。
 あの当時のようにスベスベほっぺとはいかないけど、スッピンだというのにざらつき感のない頬。
 嬉しいもんだ。

「シンジ?」

「なに?」

「髭剃ってきて」

 時間はもう夜の10時。
 いまさら髭を剃るなんて…って思いながらも僕の足は洗面所に向いていた。
 ウィーンとシェーバーの音を時ならぬ時刻に響かせていると、くすりと笑い声。
 ちらりと振り向くと愛娘がおかしそうに笑いを堪えている。

「レイ」

「早く済ませて。お風呂入りたいから」

 娘の手には折りたたまれたパジャマとその上にちょこんと乗った小さな下着。
 僕は慌てて顔を洗面台に戻すと、残りを手早く済ませる。
 何も言わずに洗面所を出ると、すかさずその背中で扉がごろごろガシャンと閉まった。
 その向こうでぐっぐっとレイのくごもった笑い声が聞こえてきた。
 父親が夜に髭を剃っている理由は重々承知しているようだ。
 まあ彼女も僕たち夫婦の娘を伊達に15年もしていないってことだ。
 じゃれあう親の風景って子供の目から見たらどうなんだろうか。
 何しろ僕は父さんや義父さんのような風格がないから、きっと滑稽なんだろうな。





「シンジ、部活動はしないのか」

「しないよ」

「むぅ」

 高校が始まって2週間ほどした土曜日の夜。
 夕食の場で父さんが不機嫌そうな顔をした。

「何故しない」

「えっと、それは…」

 言わなくてもわかるだろうとばかりに僕は隣に座っているアスカの横顔を見た。
 父さんも僕の視線を追いかけて平然とオムレツを食べている彼女を見やる。

「…は、しないのか?」

 僕は笑いを堪えた。
 父さんは未だにアスカのことを名前で呼べない。
 かと言って、“惣流さん”とか“惣流君”などと他人行儀で呼べば後で母さんから叱責を食らうことは知っている。
 僕も何年か前に数回目撃したからね。
 母さんに説教されている現場を。
 そこで恥ずかしがり屋の父さんがあみ出したのはアスカの名前を口の中でもごもごと言うこと。
 しっかり耳をすましても、“あうあうう”としか聞き取れないんだけどね。
 それが面白いのか、それとも父さんの限界を知っているのか、この呼びかけで母さんは了承しているようだ。
 アスカの方も女の子の名前を親しみを込めて呼べない初心な中年をからかおうとは思わないようだ。
 その“あうあうう”が出ると自分だと認識するようにしたんだ。
 で、この時も口の中のオムレツを咀嚼してしまうと、父さんにけろりと言った。

「しないわ」

「野球は、どうだ?」

「高校野球に女子は出場できないの。ま、私の投げる球じゃ軽すぎて通用しないしね。
 それに、私丸刈りなんかしたくないもん。シンジ、私の丸刈り頭見たい?」

 いきなり話を振られて僕はスパゲティサラダを咥えたまま首を横に振った。
 想像したくもないよ、アスカのそんな姿。
 そして、僕は斜向かいの母さんを睨みつけた。
 ここんとこは親子なんだと思う。
 こういう展開で母さんが何を考えるかは見通せる。
 絶対にアスカの頭が丸刈りになった顔を想像してるに違いないんだ。
 母さんは頬をぴくぴくしながらお茶碗を取り上げた。

「む、そうなのか」

「そ。だから、私は帰宅部。私が帰宅部なんだから、と〜ぜんシンジも帰宅部ってこと」

「むぅ、しかし、男は部活動で心と身体を鍛えた方が」

「あなたは文芸部でしたっけ。あれでも身体は鍛えられるのかしら」

 お味噌汁やお茶を飲んでなくてよかった。
 テーブルに噴き出しているところだ。

「父さんが文芸部?本当?」

 父さんは急に食欲が出たみたいだ。
 一心に自分の前の食器に目を向け、猛然と食事を始めた。

「ええ、しかも専門は詩」

「詩って、ポエム?」

 母さんはアスカに微笑んだ。

「ええ、それ。でもポエムって感じじゃなくてリリックかしら」

「叙情詩っ」

 僕たちは一斉に父さんを見る。
 この無骨な髭親父が詩を書いていた。
 父さんは見えない手で耳に蓋をしているかのように知らぬ顔で御飯を掻き込んでいる。
 物凄いスピードで。
 きっと早く逃げ出したいんだ。
 残すと母さんに叱られるから、全部食べないといけないし。

「ねぇねぇ、ユイママも貰った?そのリリック」

「ええ、二度目に会った時に大学ノートいっぱいに書かれた猛烈なのを。
 目の下に隈なんか作っちゃて。2日徹夜して書いたそうよ」

「うわっ!読ませて!」

「ぐごぉっ!」

 獣の様な唸り声を上げて、頬を料理でいっぱいに膨らませた男が首を振る。
 わぁ、父さんの耳が真っ赤になってるよ。

「だぁ〜め。あれは私だけの宝物なの。誰にも読ませてあげないから」

 母さんはそれは綺麗な表情で微笑む。
 実の息子が思うくらいなんだから、アスカも口を閉じてしまったのは仕方がない。

「私が死んだらお墓の中に入れて頂戴ね。あ、その時中身を読んだら呪い殺すから」

 母さんならそんな力をもってそうだから怖い。

「それから、私とゲンドウさんのお墓には誰も入らせませんよ。
 あなたたちは自分で作りなさい、お墓は」

 微笑みながら物凄いことを言う。

「でも無縁仏にならないようにお金を積まないといけないわね。
 そんなのになって他の誰かと私たちの骨がごちゃ混ぜになるなんて我慢できないわ。
 もっともゲンドウさんとならごちゃ混ぜになっても全然かまわないけど」

「美味かった。ご馳走様」

 我が家の家風どおりにきちんと手を合わせて、父さんはバタバタと逃走した。
 後に残されたのは綺麗に攫われたお皿だけ。
 母さんはそのお皿を見てくすくすと笑う。
 いやまあ物凄いや、わが両親ながら。

 この話題の余波はその夜中に来た。

「シンジ、詩を書いてよ」

「げっ!」

 僕は突然無理難題を宣うた女性の顔を見た。
 その最愛の彼女はにっこり微笑んで僕の机で頬杖をついている。

「詩って、あの詩?」

「ええ、あの、詩」

 この場合、あのと言うのが何を指すのか簡単明瞭だ。
 要は自分に捧げる詩を書けということに違いない。

「詩なんて書けないよ」

「ふん、お義父さんに書けてアンタには書けないっていうこと?
 あ、それとも、私相手なんかでは書けっこないってことなのかしらぁ?」

「ち、違うよ!僕にそんな才能がないってことじゃないか」

 僕は必死になった。
 彼女が僕の愛情を疑っているなんてことは思っちゃいない。
 僕が慌ててるのは彼女が冗談で要求しているのではないってこと。
 アスカはいつだって真剣なのだ。
 それにアスカが求めているのはラブレターじゃなくて詩なんだ。
 そんなの書けるわけないじゃないか。
 僕は要求を突っぱねた。
 でも、要求が命令に変わってしまって、結果は机の上の大学ノートに向って夜中に唸る羽目となったわけ。
 1ページでいいから書けだなんて…1行じゃダメ?
 川柳くらいの長さなら何とかなりそうだけどなぁ。
 にやにやと アスカが笑う 悪い予感……字余り。
 ああっ、なんて書けばいいんだよ!
 まったく詩だなんて…。
 中学の時に国語の先生に言われたのをアスカは知らないんだ。
 碇君のは詩じゃなくて作文ね。
 ああ、困った。
 3時間経過しても1文字も書けない。
 アスカはもう既にご就寝。
 の、はず。
 明日の朝を楽しみにしてるからと、12時前に僕の部屋から出て行ったんだ。
 でも、廊下から僕が苦しんでるのを見ているような気がする。
 僕はちらりと背後を振り返った。
 ほら、部屋の扉がほんの少し開いてる。
 まあこの扉は完全に閉まらないように父さんが改造してるんだ。
 未成年の純真な乙女と助平な獣が密室にいることはまかりならぬってこと。
 でも、その仕掛けだけで両親が様子を窺いに来るなんてことはないし、
 電話とかで用事があるときは下から怒鳴るもんね。
 それにアスカの部屋の方は扉に鍵がかかるようになっている。
 そっちを使えばあんなことやこんなことも…って、そんなに信用されたら何もできないけどね。
 き、キスくらいしか。
 僕はいきなり立ち上がった。
 そして、くるっと扉の方を振り返ると、廊下でこそこそと物音がする。
 耳をすますと、アスカの部屋の扉の音が微かにした。
 ふふん、やっぱり覗き見してたんだ。
 はぁ、でもどうしよう…。

 2時間後、僕は痺れる右手を擦りながら廊下に出た。
 行き先はアスカの部屋。
 夜這いじゃないよ。
 扉の下の隙間にノートを差し込みに。
 それが約束だから。
 もう外はぼんやりと明るくなりはじめてる。
 ああ、眠いや。
 これを差し込んだら、お昼まで寝よう。
 まさか、アスカだって僕を起こそうとは思わないだろう。
 内容が酷いって怒ってくるかもしれないけど。
 その時は知らん顔をして布団を引っかぶっちゃおう。
 そう決意した僕はそっと大学ノートを隙間に滑らせた。
 するとどうだろう。
 軽く滑らせただけなのに、ノートはあっという間に部屋の中に吸い込まれた。
 やばいっ!
 僕は足音もかまわずに自分の部屋に逃げ込んだ。
 アスカのヤツ、起きてたんだ。
 僕はそのまま布団に潜り込んだ。
 どうやら追いかけて来はしなかったようだ。
 まあ、それじゃ妖怪か幽霊みたいだけどね。
 僕はアスカがあれを読んでどう思うか不安だったけど、睡魔にすぐに降参してしまった。
 夢は…全然覚えていない。
 
「起きろっ、馬鹿シンジ!」

 掛け布団を引っ剥がされたのは午前7時だった。
 日頃、朝一番にいきなり掛け布団をめくるのはやめて欲しいとアスカには申し入れている。
 理由を聞かれて、正直に話したら枕で数発殴られたけど。
 仕方ないだろ。健全な青少年なんだから。生理現象ってヤツだ。
 この時はそっちの方は大丈夫だった様だ。
 まあ眠りについて2時間経ってなかったからね。
 
「えっと、お昼?」

 見上げると、アスカが枕元に仁王立ち。
 ジーパンだからそんなアングルでも色気はなかった。
 スカートじゃ丸見えって感じだっただけどね。
 
「馬鹿ね.っ。朝よ、朝。すがすがしい朝の7時」

「ええぇ〜」
 
 抗議の声は弱弱しかった。
 だって眠たいんだもん。

「か、勘弁してよ。眠らせて」

「うっさいわね。アンタにあれの感想をくらわしてやらないと気がすまないのよ」

 あれ…。
 あれって、アスカの命令した、あれ。
 げげっ、内容が気に入らなかったの?

「覚悟しなさいよ、あんなの書いて」

「ま、待ってよ。あれは僕の純粋な気持ちで」

「問答無用っ。馬鹿シンジ」

 アスカはさっと身体を翻した。

「うぐっ」

 お腹の上にどすんと彼女はお尻を乗せた。
 まあ、僕を殲滅することが目的じゃなかったみたいで痛いというよりもビックリした叫びだったんだけど。
 そして、アスカは僕の頬を両手で挟みこんだ。

「これが感想っ」

 いやもうそれは凄いキスだった。
 舌を入れたりはしなかったけど、唇を咥えられたり、舐められたり。
 最初は驚いたけど、やっぱりそこはそれ。
 気持ちのいいものにはすぐにウットリとしてしまう。
 これは仕方がないと思う。言い訳なんかできっこない。
 だって世界で僕だけの特権なんだから。
 アメリカのラングレーさんだって唇にキスしてもこんな情熱たっぷりのなんかするわけないし。
 うちの父さんには唇へのキスなんて絶対にさせない。
 ホッペが限度だ。まあ、これについては母さんも同意してくれるだろうから大丈夫だ。
 そして未来の子供や孫たちにはもちろん恋人へのキスはしっこない。
 だからアスカのキスは僕だけのもの。
 誰にも味合わせてなるものか。
 しばらくアスカは僕の唇に甘美な狼藉を働いた後、
 大きな溜息をついて立ち上がった。
 うわぁ、自分の唇を舌で舐めてる。
 アスカって猫科?
 僕がぼけっとアスカを見上げていると、彼女は突然我に返ったように顔を真っ赤にして走り去っていった。
 距離にして3mくらいの場所へ。
 がちゃんと扉が閉まると同時に下から怒鳴り声。

「シンジ!もう済んだっ?」

 下からでも聞こえるようなキスの音だったらしい。
 ふん、どうせ聞き耳を立てていたに違いないよ。
 ああ、またキョウコさんにも手紙かなんかで報告するんだろうなぁ。
 お願いだからラングレーさんには伝えないでください、キョウコさん。
 夏に来た時に手加減なしのキャッチボールを今度はぶっ倒れるまでさせられそうです。





「へっへっへぇ。気持ちよかったんだ」

 つんつんと僕の頬を突付く奥さん。
 僕はわざとそっちの頬を膨らませてやった。

「当たり前だろ、16歳にもなってない男の子だよ。
 あんなのされたらぼけっとなっちゃうよ」

「ふふんっ、16歳にもなってない女の子はそっちより、
 あのノートの中身の方がぼけっとなっちゃったけどなぁ」

「あっ、あれ…」

「教えない」

 すかさず返事されてしまった。
 ノートのありか。
 永遠の謎なんだ。
 僕としては睡眠不足で半ば自棄になって書き連ねたあれ。
 できればこの歴史から消してしまいたい。
 だけど、ノートの隠し場所はあれから絶対にわからない。
 思い出したようにその存在を僕に見せびらかすんだけど、奪い取ろうとすると逆襲された上にまた隠されちゃう。
 まったくなんてものを僕は書いてしまったんだ。
 
「でも、母さんには見せたんだろ」

「ええ、ママにも見せたわ。ママったら羨ましがってた」





 そうなんだ。
 アスカは母さんと違って自分ひとりの秘密にしておく性分じゃない。
 みんなに自慢して回りたい方だ。
 その日のうちにあのノートを母さんに見せびらかしたことを知った僕は真っ青になってしまった。
 あれを読まれてしまった。
 しかも自分の親に。
 恥ずかしいというか会わす顔がないというか。
 でも、会わさずにはいられない。

「シンジ、ご飯よ!」

 母さんが呼んでいる。
 アスカは晩御飯の用意を手伝っていたから、僕はひとりで部屋の中。
 彼女の仕掛けた情熱的なキスの感触を思い出してにやにやしたり、
 母さんに見せたってけろりとした顔で言ったアスカを思い出して胃が重くなったり。
 ああ、いやだ。
 食卓につきたくない。
 父さんはともかく、母さんと顔を合わせたくない。
 ニヤニヤされても嫌だし、素知らぬ顔をされても嫌だ。
 でも、これが躾けられてるってことなのだろうか、ああいう風に呼ばれたら自然に身体は動いてしまう。
 階段を降りながらアスカと母さんの笑いさざめく声を耳にする。
 僕のことを笑っているんじゃないと思うけど、何となく嫌な感じだ。
 食堂に顔を出すと、三人が一斉に僕の顔を見た。
 そして、ニヤッと笑う。

「シンジ、あなたもやるわねぇ」

「おい、わしにも見せてくれるように頼む。…が見せてくれんのだ」

「だって、シンジがいやがるもん」

「ユイには見せたではないか」

「自慢したいんだもん」

「はは、いいでしょ、あなた」

「むぅ、わしに読ませても自慢になると思うが」

「だめぇ〜。お義父さんはシンジをからかうもん」

「ユイもからかうぞ」

「からかうわよ、私は。ほら、シンジ、さっさと座りなさい。突っ立ってないで」

 まいった。
 これだけあけっぴろげに話題にされるとは思わなかった。
 ぼけっと立っているとアスカに腕を引っ張られて強引にイスに座らされる。

「アスカちゃん、お味噌汁お願い」

「OK!」

 そそくさと台所に向うアスカの背中に揺れる金色の髪の毛を見送っていると、目の端に父さんの顔。
 明らかに笑っている。

「なんだよ」

「うむ、大人になったな、シンジ」

「はぁ?わけわかんないよ」

「ふん、まあいい。問題ない」

 相変わらずわけのわからない人だ。
 それになんだ。自分だって書いたくせに。
 僕は読んでないけど。

 食事中は僕のあれについては話題にならなかった。
 話題は全然調子が上がらない近鉄バファローズのこと。
 前期はもうあきらめて後期にがんばってプレーオフだとアスカ。
 好きな野球の話だから僕もつい口が緩む。
 僕とアスカの会話に釣られて母さんたちも口を出す。
 アスカと出会うまでは僕と同様に野球のことはよく知らなかった両親だったけど、
 今やラングレーさんたちとは親友のようになっている。
 それなりに野球のことは詳しくなっていた。
 
 そして食後。
 明日の予習をしに2階に戻った僕はアスカにもう一度お願いした。

「ねぇ、お願いだよ、返してよ、あれ」

「やぁよ、絶対にイヤ。私の宝物なんだから」

「中身は一度見たら覚えられるだろ。だから返してってば」

「はんっ!あ〜ゆ〜のは内容じゃなくて存在そのものに価値があるのよ!」

 アスカは自分の胸を抱いた。
 正確にはトレーナーの下に入れられているあのノートを。
 
「それとも何?これを強奪するために、私を裸にひん剥くわけぇ?」

 やれるものならやってみなさいよと顎を上げる彼女。
 やってもよかったかもしれない。
 多分それで歴史は変わらなかったと思うから。
 でも、その時の15歳と10ヶ月ちょいの僕にはそこまでの洞察力はない。
 力なく肩を落とすだけ。

「それより、予習予習。高校って進み早いもんね。ほら、馬鹿シンジ、ノート出しなさいよ」

 ああ、もうダメだ。
 絶望感に押しつぶされながら僕は数学の予習に取り組んだ。
 そんな僕とは正反対にアスカは物凄く上機嫌だった。



 翌朝。
 目を覚ました僕はいつもと違う朝に少し戸惑った。
 僕より寝起きのいいアスカにたたき起こされるのが日常だったから。
 
「シンジ!早く起きないと遅刻するわよ!」

 母さんの怒鳴り声。
 わあ、何だか物凄く懐かしいや。
 小学生の時にはよくああやって起こされてたっけ。
 僕は布団から出るとパジャマを脱ぎながら叫んだ。

「アスカはっ?」

「もう学校行ったわよ!」

「ええっ!」

 タイミングが悪かった。
 ちょうどパジャマのズボンを脱ぐところだったから、無様に布団の上に転がってしまった。
 寝っ転がったままズボンを脱ぎ捨てる。
 その姿勢で壁の時計を見るとまだ7時過ぎ。

「どうしてっ?!」

「恥ずかしいんだってさ、ははは!」

 母さんの笑い声に僕は頭を捻った。
 どういうことなんだ?
 ともかく母さんに事情を聞こうと、素早くカッターシャツと学生ズボンを身につける。
 そして、部屋の扉を開くと…。
 扉の前に一冊のノートが置かれていた。
 何気なく手に取り、中身をめくってみる。

「は、はは…」

 思わず笑ってしまった。
 なるほど、それでアスカは先に高校へ行ったのか。
 照れちゃったんだな。
 ノートにはぎっしりと文字で埋まっていた。
 最初のページから最後のページまで。
 僕が書いたその文章の主語と補語をひっくり返しただけで。
 ああ、このノートは僕の宝物だ。
 事実、僕はこれを誰にも見せてはいない。
 両親にも。いや、アスカにさえ隠して続けている。
 だって僕とアスカは性格が違うんだから。
 僕は僕一人でこのノートを味合うんだ。
 同じ文章で埋められたノートを。



 惣流・アスカ・ラングレーは碇シンジを愛してます。心から。死ぬまで。死んでも。永遠に。

 

「こらっ!シンジ、早く食べなさい。本当に遅れるわよ!」

 母さんの声を受け流しながら、僕は最後のページまでめくっていった。
 そして、そこに唯一書かれた違う文章を見つけ、苦笑してしまった。
 いかにもアスカらしい。
 でも、嬉しいや。



 でも、浮気したらコロスわよ。


 

「幸せは球音とともに」

−1976−  上  
 


 

<あとがき>
 

 予告どおりに近鉄の話題は殆どありません。
 この年は成績が悪かったから。
 結局シンジは詩が書けずに、思っていることを書き連ねただけでした。
 おそらく次回は高校生活の描写になるのかな?

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